花の咲いた家










 その日のことを、由貴子は刻銘に憶えていた。

 由貴子が幼いころ育った家は、母の生家であり、襖を開ければどこまで部屋が続くのか、四歳の彼女にはわからないほど広かった。にもかかわらず日中でさえどこか暗く、ひがな黄昏の中にあるようだった。

 その日、いつにない騒がしさに屋敷が包まれていた。広いゆえに多くの人間が暮すこの屋敷では、由貴子のような子供はいつだって相手にされない。由貴子のいる部屋の傍を、おとなたちは忙しく歩き回っている。少女は一人、人形を抱いて待っていた。

 六月の空に日は沈み、家中が暗い。おなかがすいていたが、夕食などだれもが忘れているに違いなかった。

 なにを待っていたのか、今では不思議に思う。

 それを待ち望んでいた母親の心と共鳴したのかもしれない。それとも、知っていたのかもしれない――その日、彼女の大切な人があらわれるということを。

 やがて、由貴子の部屋の障子が開き、苛立った顔の男が入ってきた。暗がりに目を凝らし、少女が座っているのを見ると、少しばかり緊張をゆるめた。

「いたのか、」

 男はそう言うと、由貴子の傍に腰を降ろした。

「お母さんはここへ来たかい?」

「来てないわ」

「そう、ならいい。……由貴子、由貴子は俺の娘だ。だれがなんと言おうとあいつには渡さない。いいかい、真一子お母さんが来ても決してついていってはいけないよ。お母さんと一緒にここにいないといけないよ。わかったね、由貴子」

 由貴子は男のことが嫌いではなかった。彼は由貴子にとても優しかったからだ。だから、教えてあげたのだった。

「……わたし、待っているの」

「なにを」

「わかんないわ。でも、わたしは待っているの」

 少女の返答に、男は顔をゆがめる。そして立ち上がると、部屋を出て行った。障子のむこうで、男はだれかと言葉を交わしながら遠ざかる。

「真一子は由貴子を置いていくつもりかもしれない」

博信ひろのぶさん、あの子の傍にいてあげたほうがいいんじゃないですか?」

「由貴子は問題じゃない。問題は真一子なんだ!」

「真一子さんが由貴子を連れて行く気じゃないとは思えない。真一子さんは、あの子をあなたの子供じゃない、と言ってるんですよ! 連れて行かないはずがない!」

「それより真一子を探せ。家から出てないことは確かなんだ」

 由貴子の母親は、屋敷の中でかくれんぼをしているのだった。大のおとなが隠れ続けていられるほど、この屋敷は広かった。

(おかあさん、どこにいるの……?)

 そうして由貴子は待ち続けた。

 やがて、障子のむこうに月明かりで細い人影が浮かび上がる。すぐに、それが母だとわかった。

「由貴子」

 母が障子を開けると、満月が夜空に浮いているのが見えた。しかし、真一子が静かにまた障子を閉めてしまうと、見えなくなってしまう。真一子は由貴子の耳元に顔を寄せ、小さな声で娘に言った。

「許してね。……もう離れていることに我慢が出来ないの。
 あなたのお父さんが帰って来たのよ。さあ、行きましょう」

「わかってるわ」

 由貴子は人形を手放して、母親にしがみついた。



*       *       *



 庭の裏木戸から屋敷を抜け出し、由貴子は母親について歩いていった。大通りまで出ると、二人はタクシーに乗った。やがて座席で由貴子は眠ってしまったので、どれくらいタクシーに乗っていたのかはわからなかった。

「由貴子、降りるわよ」

 タクシーをその場に待たせ、二人は降車した。

 夜だったせいもあって、降りた場所がどこかは知らない。けれどまんまるの月を見つめながら、長い長い坂を登ってたどりついたのはとても広い場所だった。そのただなかに、背の高い男が一人、立っているのが見える。お父さんだ、由貴子はすぐにそうわかった。

 男はゆったりとした足取りで二人のほうへ歩いてきた。

「おかえりなさい、開二さん」

 真一子が言うと、月明かりの下で開二は笑った。

「よくここにいるなんてわかったね」

「わかるわ、あなたの居場所なら」

「俺にもわかったよ。君がここへやって来るのが。……」

「どうしてこんなところへ?」

「昔、ここで君にふられたんだ」

「本心じゃなかった」

「知ってる」

 開二は言うと、腰をかがめて由貴子の顔をのぞきこんだ。

「由貴子」

 名前を知られていることに驚きはしなかった。生まれてはじめて会うのに、いつも一緒にいたかのように彼のことを、由貴子もまた知っていたからだ。

「ずっと君に会いたかった。ごめんよ」

 由貴子は答えるかわりに、父親の手を握った。開二は彼女の手を握り返し、立ち上がる。

「行こうか」

「ええ」

 逃げ出してきた二人は、一人きりの娘を間にはさみ、坂を下っていった。そうしてまたタクシーに乗り、その場を離れた。

 ……その状況がいったいなんだったのか、由貴子は理屈でなく直感で理解していた。様々な因果はその理解に関わりがなく、だから由貴子にはわかっていると言っても、その夜を過ぎれば夢を見ていたようにどういうことだったのかわからなくなってしまった。

 だから、その夜のことをおとなたちがしていたような理屈で理解することが出来たのはずいぶん後で、それでようやく合点が行ったことも多かった。

 なぜそれを、自分が理解できていたのかは、わからないけれど。

 次の日の朝、もう父親の姿はなかった。そのかわり、母親の腕には小さな赤ん坊がいて、すやすやと眠っていた。

「お父さんは?」

 由貴子が聞くと、真一子は少し悲しげに答えた。

「もう、お父さんとは会えないわ」

 それも、由貴子にはわかっていた。だから彼女はまた別のことを尋ねた。

「ねえ、その子はなんていう名前なの」

 腕の中の子供は、うまれたてでまだ赤く、しわくちゃだ。赤ん坊がこんなものだなんて、由貴子は知らなかった。

 真一子は笑うと、優しく腕をゆすりながら言った。

「透よ。あなたの弟」

「お父さんが名前をつけたの?」

「そうよ。お父さんが名前をつけたのよ」



*       *       *



 あの、暗くて広い屋敷には二度と戻らなかった。あの家で、ずっと由貴子の父親であることを主張し、それだからこそ由貴子にとても優しかった男とも、二度と会っていない。あの男のことは、決して嫌いではなかった。彼が、由貴子を自分の娘であってほしかったから優しかったのだとしても、嫌いではなかった。

 それでも、あの屋敷に戻りたいと思うことはなかった。小さな家で、母親と小さな弟と暮すことはとても楽しかった。由貴子は幼稚園に通い、太陽の下で遊んだ。

 小さな家の小さな庭に、真一子は花畑を作った。四季に様々な花を咲かせるように、様々な種を植えた。

 次の年の夏、すくすくと伸びた茎の先に、ひまわりが花を咲かせた。由貴子の背丈よりずっと高く、手を伸ばしてもちっとも届かない。

 弟の透は、一歳になっていた。

 おぼつかない足取りで由貴子のあとを追い、彼女の真似をして両手を花のほうに伸ばした。懸命に見上げすぎて、バランスを崩し尻餅をつく。

 由貴子は母にねだって、一本だけ折ってもらった。

「どこかで見たことがあるようなお花ね」

 由貴子が言うと、真一子は笑った。

「まるで太陽のようでしょう」

 てのひらの上の太陽を見つめたあと、由貴子は空の太陽を見上げた。まぶしくて長くは見つめていられない。

 透が由貴子の持っている花をほしがるので、渡してあげる。大きな花は、透の頭と同じくらいの大きさだ。花を手に入れた透は満面の笑顔で、花を抱きしめる。

「ひまわりっていうのよ」

「いまあり、」

 由貴子が教えると、弟は言葉をくりかえした。

「いまぁり、いまぁり」

 透は花も言葉も気に入った様子で、熱心に呟きながら花を抱いている。由貴子は、母を見上げた。

「すごいね、お母さん」

「なあに?」

「だって透は、太陽を抱きしめているのよ」

 真一子は答えず、ただ、微笑した。

 透は由貴子のほうを見て、やはりうれしそうに笑っていた。それを見て由貴子もしあわせだった。ただただ、しあわせだった。









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