I LOVE MOON
「ねえ、お母さん、あの日、お父さんに会いに行ったことを後悔したことがある?」
そう問うと、母は困ったような顔をした。
「どうかしら。
……思い出すわね。あの日は満月だった」
由貴子もよく憶えている。あれは、満月の日だった。
* * *
いつからだっただろう、あの月の白さが胸から離れなくなったのは。
学校から駅へとむかう坂を降りながら、瀬野由貴子はそれを考えていた。空には真円の月が架かっている。海の上に浮かぶその月は、白く大きく、美しかった。
波乗学園の校門にはじまる急な坂は、首転び坂という不吉な名前をつけられている。そこからは、ひとつ駅むこうの繰巣浜を見ることができるのだった。その海の上には、円を描く月が浮かび上がり、波頭に輝きを落としている。
いつからだろう、あの月を夢にまで見るようになったのは。
意識していなかっただけで、もしかすると本当に幼い頃からだったかもしれない。ずっとずっと自分の胸の中に巣食い続け、それを今になって気がついただけなのかもしれない。紺青の空に浮かぶ、丸く大きな白い月。
(それとも、これは私の魂にそもそも刻みつけられているのかもしれない)
由貴子は月を見上げてそうまで思う。
まんまるで欠けることのない大きな月だ。
時々、学校から帰るときにこの坂を下りながら月を見た。その度に胸の中にもはや自分ではどうしようもない衝動が迫ってくるのだ。それをどうしたらいいのか、由貴子にはわからなかった。
その衝動をなんとかしなくてはならない。今のままでは大変なことになる、と彼女は感じていた。
どうすればいいのかもわからないのに、その月から逃げ出すべきなのか、それともその月を手に入れるべきなのか、由貴子にはわからないのに。
由貴子は坂の途中で、ふと呼ばれたような気がしてふりかえった。
見れば坂の一番上に、制服を着た少女が立っている。由貴子と同じ波乗学園の制服をまとい、由貴子を見つめていた。
もう下校時刻はとうに過ぎ、他に生徒は残っていないと思っていたのに、その少女はそこにいる。
由貴子は彼女に届かないくらいの声で尋ねた。
「あなたはだれ?」
「わたしはあなた」
その少女は笑いながらはっきりとそう答えた。そこに立っていたのは、由貴子と同じ顔をした少女だった。由貴子はわけのわからない焦燥感に煽られて、踵を返すと坂を下っていった。
もう、あまり時間がないのだとそのときにわかった。
本当にもう時間はないのだと。
「由貴ちゃん、」
坂の下で、呼び止められた。顔を上げると、そこにいたのはクラスメイトの
不破端だった。クラスメイトと呼ぶには複雑すぎる感情が由貴子の前をよぎったけれど、しかしそれは、今になるとあの月の大きさにくらべれはとても小さい。
「端くん」
「遅い時間に、どうしたの」
「部室の片付けしてたら、遅くなったの」
「……じゃあ部室にずっといたの?」
「うん」
「俺、駅で学校に戻る君を見かけたから戻ってきたんだけど」
それは、たぶん由貴子が坂の上で見かけた少女だろう。
どう説明していいのかはわからなかったから、由貴子はただ首を振った。
「それ、私じゃないわ」
「もう帰るだろ? 一緒に帰ろう」
「うん、」
前はもっと、このクラスメイトのことが好きだった気がする。それに、中学三年生のバレンタインに告白したのは由貴子の方だった気がする。それから付き合っていたのだけれど、こうしていると胸苦しくてならない。
今も、彼と手をつないだときに感じるときめきはその頃と変わってない。
端を好きであることに変わりはない。それでも、あの月が大きくなりすぎたのだ。
駅まで引いてゆく端の手のぬくもりに、由貴子はこっそりと涙をにじませた。
あの月の大きさは運命と呼ぶようなものなにかもしれない。
少なくとも、由貴子が望んだものではなかった。
けれど、望んだものではないからといって否定することはできなかった。それほど月は大きい。そしてなにより、やはりその月は由貴子の魂に刻まれたものなのだ。
耳にこびりついているのはあの言葉、物心ついたばかりの頃に母が耳元で囁いたものだ。
――許してね。……もう離れていることに我慢が出来ないの。
そう言って、母は由貴子を連れて父に会いに行ったのだ。彼女にとっての満月は父だったのだ。由貴子が生まれたあとはなればなれになっていたらしい父と母は、そして会って、弟の透が生まれた。
由貴子はだれに許しを請うべきなのだろうか?
母は娘に。それでは由貴子は、だれに?
なにもかも晴れない。なのに、月だけは大きく輝いていた。
* * *
その数日後の放課後、由貴子が校内を歩いているとまた由貴子と同じ顔をした少女に出会った。
夕方の校舎で、おかしいほど人影がなかった。
少女に見つめられて、由貴子が感じたものは得体の知れないものだった。それは恐怖だったし、その恐怖はいくつもの色を持っていた。彼女に対して感じる懐かしさもあり、罪悪感も抱いた。そしてそれらすべてを超えたところにある憐れみをも、感じる。
長く伸びていく影を見つめながら、二人は長いこと微動だにせず佇んだ。
ドッペルゲンガーを見た者は近いうちに命を落とすという。命を落とすなら命を落とすで、あの月から逃れられると由貴子は思った。それはそれで、いいかもしれない。
けれど、目の前にいる少女はただのドッペルゲンガーではないはずだった。
彼女は意思を持って由貴子を見つめていた。目的があって由貴子の前に現れるのだ。
「あなたはだれ?」
由貴子が問うと、彼女は答えて口を開く。
「わたしはあなただったかもしれない」
そうして、今度は彼女のほうが踵を返した。
由貴子が帰宅しようとしていると、校門で、また端につかまった。
「さっき君を見かけたけど、俺に気づかなかった?」
端は、またあのドッペルゲンガーを見たに違いなかった。なぜこんなに急にあのドッペルゲンガーは姿を現したのだろう。これは月が関係あるのだろうか?
由貴子は言葉に困って、目を伏せた。
「由貴ちゃん? ……近頃、おかしいよ」
「うん、私もそう思う」
「なにかあったなら、……俺に話せるなら話してほしい」
「少し考えさせて。家の事情なの。
あと、私を見かけてもやたらと話しかけないほうがいいと思う。あれは、私じゃないから」
「うん、……なんとなく、見ているとそれはわかるんだ」
「端くん以外に、見てる人はいるかな?」
「わからない。少なくとも、話は聞かないよ。さっきも俺は一人だったし。あれがなにか、由貴ちゃんは知っているの?」
「……たぶん」
端もどうしたらいいのかわからない様子だった。そういえばと話題を変える。
「透くんにも会った」
「なにか言われた?」
「なにも。睨まれたけど」
「ごめんね」
「気にしてないよ」
由貴子の弟はいささかシスコンのきらいがあった。それで、由貴子と付き合っている端にはかなり敵愾心を抱いているようだ。
由貴子に対しては、端のどこがいいんだとか子供っぽいことを聞いて来るのだけれど、端相手にそれをするのは子供らし過ぎることを気にしているらしい。端に友好的になることはなかったものの、暴力などを振るうことはなかった。あたりでは瀬野透といえばかなりフダつきらしいのだが、端のほうもほとんど気にしていないようだった。
端は図書館にいるようなタイプで、透が別の学校の生徒と喧嘩沙汰を起こしたりしているのを聞いて由貴子から離れるかもしれないな、と思っていたのだが、そんなそぶりも見せない。
透に睨まれても気にしないあたりは、意外なほど彼の強さを感じさせた。
それにいまだって、あのドッペルゲンガーに出会っても不審がりはしても恐怖を感じていないらしい。
こうしていると、月のこともあのドッペルゲンガーのことも忘れられることに気がついて、由貴子は苦笑いした。端の傍にだけ、日常がある。それでも、この瞬間が消えてなくなる日は近いと感じていた。
胸の奥の衝動は抑えられないものになりつつある。
それを叶えたとき、なにが起こるのだろうか。
* * *
由貴子が浮かない顔で母に相談を持ちかけたとき、彼女は驚いた顔はしなかった。そう、とつぶやいて昔の話を彼女はした。
「私の母は、ものすごい剣幕で怒ったわ。……母自身は、その衝動を抑えることができていた人だったから。負けた私にひどく怒ったわよ」
「私が負けたら、お母さんはなんて思う?」
「さあ、どうかしら。……私は自分を間違ったとは思ってないわ。あなたは前に、後悔してるかどうかと聞いたわね。後悔しているのは、そう、たぶんやり方を間違えたことに関しては確かにそうなのよ。私はもう二度とあの人に会えないから、そのことを悔やむわ。でも、そうでなかったらこれ以上の幸福はないんだと思うわ」
「でもお母さん、お父さんに会いに行くときにこう言ったのよ。私に、許してねって言ったのよ」
「あら」
母は笑いながら答えた。
「あなたはなんて返事したんだと思うの? わかっているわ、そう言ったのよ」
そのとき、由貴子はたったよっつだった。なにをわかっていたと言うのだろう。由貴子自身も覚えていなかった。
「それじゃあ、ねえ、これはやっぱり私の魂に刻みつけられていることなのかしら」
「たぶんそうだと思う。……でも由貴子、どの道を撰ぶかはあなた次第なのよ。私は負けたわ。けれど、母は負けなかった。あなたも負けないことを撰ぶことはできる。会わないでいれば、その衝動は次第に遠のくでしょうから」
由貴子は迷っていた。どこへ行くべきか、なにを撰ぶのかを。
それは由貴子自身の問題だった。彼女たった一人の問題だった。
母にはたぶん、この苦しみを分かち合う人間がいたのだろう(恐らくそれは、父なのだ)。けれど、由貴子にはいない。
まだ早いのだ。
まだ早い、そのことはとても大きな問題だった。
「……由貴子」
夜遅くになって帰って来た弟の透は、由貴子の部屋のドアを叩いてから、ためらいがちに開けた。本を読んでいた由貴子は、顔を上げる。
「どうしたの?」
「あのさ……」
まだ透は中学一年生だ。子供らしい仕種でちらりと由貴子を見た。なにか言いたげだったが、由貴子は先手を取って口を開いた。
「また、喧嘩してきたの?」
制服のシャツは泥で汚れている。怪我はないようだったが、なにかもめただろうことはあきらかだった。
「喧嘩じゃないよ」
「嘘ついたってわかるわよ。潤くんと一緒だったの?」
「ああ。……
それよりさ、姉さん。今日、放課後、不破といただろ?」
「うん、いたわよ」
「なに話してたんだよ? なんか妙だった。なにか言われたの?」
「そうじゃないわよ」
「俺、あいつのことどうしても信じられない」
「不破くんはおかしなところなんてないわよ」
「でも……」
納得いかない様子だった。端はだれにだって好かれるほうだ。透の不満は由貴子の傍にいるというだけでむけられている。
由貴子がたしなめるように苦笑いすると、透はふとまじめな顔で姉を見た。
「姉さん、」
けれど、そのあと言葉を続かせることなく、透は唇をかみしめると、部屋を出て行った。
* * *
セーラー服姿の少女が橋の上で歌を歌っていた。なんの歌か、聞き取ることはできなかった。夕暮れ時、道路に架かる陸橋からはもうすぐ沈んでいく欠け月の貧相な姿を見ることができる。
なにげなく足を運んだその陸橋の上で、由貴子は自分のドッペルゲンガーと対峙していた。
もうこの影と出会うのも何度目なのだろう。
少女は、ようやく由貴子に気がついた、というように空を見上げていた視線を、由貴子の上にむける。
他人が見たらどれほど自分と彼女は似ているのだろう。端は見ていれば由貴子でないだろうことはわかると言ったけれど、それはどこなのだろう。由貴子には、とても似ているように思えた。彼女と由貴子は、鏡を合わせたように瓜二つに見える。
ドッペルゲンガーは笑うと、口を開く。
「わたしにちょうだい」
「……なにを?」
「あなた自身を。あなたの迷いを。わたしなら迷わないわ。わたしはあなたが迷っているものを手に入れるためにここにきたのよ。わたしなら迷わないわ」
「あなたには渡さないわ」
「さあ、どうかしら?」
少女は笑い続ける。
由貴子は厳しい顔のまま彼女の傍を通り過ぎた。
* * *
欠けた月が満ちていくのを見るのはこの上もない苦痛だった。その衝動から逃れるために、由貴子は、毎日のように歩いた。学園を出て、家に帰る時間を少しでも遅らせるために、街を歩いた。
そうすると、余計なことを考えずに済んだ。だれかと言葉を交わすと、どうしようもない衝動がこみあげてくるのだった。
道はひとつしかなく、由貴子はその撰択をもう心に決めていたけれど、そこに踏み出す瞬間を決めかねていた。いつも、家を出るときに、このまま学校へ行くのはやめようと思うし、学校を出るときにもこのまま帰るのはやめよう、と思う。
それでも、まだなんとか耐えられた。
けれど、いつかは踏み出さなくてはいけない。
こうして町をさまよっていると、由貴子は自分の心の強さに驚く。特にとりえもないと思っていた自分が、冷たくて強いということに、目を見張る。
それは、母が由貴子を連れて家を出たときの強さと、同じものなのだろう。
時に、端と一緒に時間を過ごすこともあった。もはや、端といるというだけで心が落ち着くなどということはなくなっていたけれど、いくらかは安らぐ。それは、端に対する由貴子の気持ちがそうさせるのだし、彼の心遣いと優しさがあるからだった。
彼に心配そうな顔をさせていることは罪悪感になった。こうして彼の優しさを受けて由貴子は安らぐけれど、それを端に返すことはもうできない。
もう時間がないのだ。
* * *
その朝、家を出るときに母に声をかけた。
「……私、行くわ」
「決めたの?」
「うん。わたしがあの月から逃れるにはそれしかない。……ごめんなさい、お母さん……」
「わかっているわ」
母はそう言って由貴子を抱きしめた。
学校へ行く道で、由貴子は一通の手紙を出した。口ではなにかを伝えられなかった。何日かあとに、この手紙は端の元に届くだろう。そのときに彼がなにを思うのか、由貴子にはわからなかった。
それでも、由貴子にできるのはそれが精一杯だった。
* * *
放課後になると、由貴子はしばらく校内で時間を潰していた。教室を、廊下を、中庭をゆっくり歩き、花壇の傍にいたときに、待っていた彼女の二重身があらわれる。
由貴子は影に、こう告げた。
「渡さないわ」
「……どうかしら」
由貴子は踵を返した。影はゆっくりと、由貴子を追った。
家に戻り、自分の部屋に入ると、満月が見えた。
まだ家にはだれもおらず、明かりも灯されない部屋の中は暗く、外の景色をよく見ることができた。
大きくて美しい満月。いまにも由貴子の魂を捉えてしまいそうな満月だ。
紺青の空に、いっぱいに広がるほどの存在感で由貴子を照らしている。子供の頃から、月を見るのは好きだった気がすると、彼女は思った。それはこの運命のためなのかもしれない。
月が好きだったなんていうことは、忘れてしまっていたけれど。
由貴子は静かに、用意していた紐を、窓辺にかけた。
月を見つめてから、部屋の中をふりむくと彼女のドッペルゲンガーが佇んでいる。
由貴子はその影に笑いかけ、そしてこう言った。
「これがわたしの撰択、……あの月から逃れるただひとつの方法よ」
月は冴え冴えと、天頂にむかって昇っていった。そしてその下で、ひとつの影が、ゆらりゆらりと揺れ続けた。
▲ / 「月と太陽と」 / ▼
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