見知らぬ「想い出」










 潤が朝、起きて居間に行くと、いつもならもう出かけている預岐が新聞をひろげ、コーヒーを飲みながら優雅な朝を過ごしていた。珍しいな、と思って見ていると、彼は新聞から顔を上げて、おはよう、と言う。

「……おはよう」

 家族と思っているわけではないが、顔を合わせれば挨拶くらいはする。その程度の気持ちで潤は返事をしたが、預岐はそのまま、会話を続けた。

「今日は、僕が空港まで送って行くよ」

「名取が来るよ」

「今日は来られないと連絡があったんだ」

 思わせぶりな笑顔で(少なくとも潤にはそう見える笑いだ)、預岐はそう言った。

 毎日、羽田空港で"セッション"患者とむきあう潤のため、名取は九時になると車で潤を迎えに来るのが習慣になっていた。五月の末にそれをはじめてから、もう三週間近くになる。来られないなどということは、はじめてだった。

 この三週間、名取は不審なほど毎日、潤と行動をともにして来た。

「来られないって、なにかあったの?」

 眉をひそめて尋ねると、油断ならないそつのない返事をされた。

「今日は上司に呼び出されている、とか言っていたよ」

 名取が警官だという割にはそれらしい勤務をしていないのを、おかしいと思ってはいた。まさか、潤の傍にいるのが勤務のうちというわけではないだろう。本当に警官なのかと回田が聞いたら、証拠ですよと警察手帳と拳銃を見せてくれた。

 その二つを携行しているということは勤務中だということだ。けれど、救世主の護衛がまっとうに認められる仕事とは思えない。確かに潤の手は本当に"セッション"を癒す。だが、警察が動き出すにはまだ早いだろう。

(それに、名取ははじめから僕の聖使徒だったわけだし、な)

 名取が警官であることは、あまり知られていないだろう。青年は平素、仕立てのいいスーツとネクタイで警官というよりビジネスマンに見えるし、記事にしたり取材すると"セッション"に罹るという例の傾向のせいで、あまり深入りする人がいないのだ。唯一、"セッション"に罹らない男、垣小野右帰は、不利なことは記事にしないでいてくれる(彼も聖使徒の一人と言えなくもないだろう)。

 預岐は他意のない笑顔をつくる。

「僕は慣れてないから。少し早めに出よう。朝食を食べてしまいなさい」

「それなら電車で行くから、いいよ。預岐さんだって、仕事があるでしょう」

 つっぱねると、預岐は潤の気持ちがいくらかわかるのだろう、苦笑した。

「仕事なら遅れて行くことにしてあるから平気だよ。たまには様子見をさせてくれてもいいだろう」

 悠長なことを言っているが、預岐が昼も夜もなく仕事に没頭しているのは潤もわかっている。預岐は"セッション"を医学的に克服する研究をしているのだ。連日、遅くまで帰って来ていない。

 けれど、潤はそれを預岐自身からは聞いていない。垣小野が書いた記事で見知ったに過ぎない。

 目の前にいる男は、潤に対してなにかを説明したことは一度もない。父親であることも、ともに暮らしていなかったことも、そして"セッション"のこともだ。

 せっかく時間を割いた預岐をむげにも断りきれなかった。乗りなれたルノーではなく預岐の乗るハリアーに送られた。あまり車には乗っていないようなのに、運転は落ち着いている。助手席でシートベルトを締め(これも名取とは違う。名取が運転するときは、ひとりでも潤は後部座席に座っていた)、運転する預岐の横顔を見ていると、潤は憂鬱になった。

 車内の沈黙は重苦しい。

 運転する預岐の横顔をあらためて見ていると、名取と歳の差はほとんどなく見えるこの男が父親だとはとうてい思えない。

 顔がかなり似ていることは、潤にも自覚があった。潤は、あきらかに母親似ではなく父親似なのだ。血が繋がっていることを、否定はできないだろう、そう思う。人から見れば、いささか年の離れた兄弟だろう。そのほうがいくらもましだというものだ。

 一緒に暮らし始めて三週間が経つ。にもかかわらず、まだ潤は、預岐との距離をつかめずにいた。名取のほうがよっぽど親しみがある。

 わからないなら本人に聞いたらどうだ、とは名取に言われたことだ。

 とはいえなにから聞いていいのかすら、わからないのだ。なにも知らない。預岐のほうも、潤についてなにか深く知っているはずもないのに、なにも尋ねてこない。どうにかする糸口も見つけられなかった。

 潤は居心地悪く父親の隣のシートに納まっていたが、預岐のほうはそうでもないらしい。しごく穏やかな顔で、ステアリングを握っていた。

 空港からは職員用の駐車スペースをひとつ、割いてもらっていた。空港が近づくと、潤は言葉少なにそのことを告げる。

「ああ、いちおう名取くんから聞いてるよ。場所はわかる?」

「うん」

 時計はいつも着く時間より少し早い時刻を指していた。



*       *       *



 車を降りて、潤は預岐と連れ立っていつもの会議室までむかった。すでにボランティアのスタッフらは顔を見せていて、患者も並んでいる。"セッション"患者は見慣れているのか、預岐は彼らを前にいささかもたじろがなかった。

 特に詳しく説明することもなく、あまり会話らしい会話にもならない。

 十五分ほどして、預岐は気をつけて言ってと出て行った。

「あの人、永井くんのお父さん、なんだよね」

 潤が息苦しさから解放されてため息をついていると、吉弥が近づいて来た。

 吉弥高二は、街中で"セッション"患者を見かけてはここまでつれて来ることをしている。聖使徒の吉弥だからできることだった。ボランティアだと、この場を離れての活動で"セッション"に罹るかもしれないからだ。

「なんだ、君か。君こそ、今日はこっちに来てたんだ?」

「もう、ひとり患者を連れて来たところだよ」

「吉弥は預岐のこと、知ってるの?」

「記事で読んだことと、垣小野さんから聞いたことしか知らないよ、」

 潤は肩をすくめる。それは、潤と知っていることについて大差ないということだ。

「初めて会うんだっけ」

「前にも、ここに来てた?」

「会議室に移ってからは来てないけど、来たことはあったはずだよ」

 だれかと、預岐のことについて話すなんて不思議だった。珍しいだろうが、吉弥がわざわざ預岐の話題を口にする理由がわからなかった。

「なんて言ったらいいのかわからないけど、永井くんのお父さんらしい、かな」

「……そう?」

 意外な言葉だった。

 潤が少しむっとして相槌をうったのに気づいた吉弥は、気にしたように続ける。

「なんて言うか、それらしいって言うのかな。永井くん自身、不思議なところがあるから。永井くんのお父さんが僕のうちみたいに普通のサラリーマンじゃないのは、納得だよ」

「それって、僕もあいつも得体が知れないって聞こえるよ」

「そこまでは言ってないよ。なんて、言ったらいいのかな……あの人は撰ばれて永井くんのお父さんになった人でしょ。それがわかる、と言うのかな。僕には、どうしてまだ僕が神に撰ばれて永井くんの聖使徒になれたのかわからないけど、でも永井くんが神様に撰ばれるのにふさわしい人だということは肌で感じてるし、その永井くんの聖使徒に撰ばれたことは誇らしいと思ってる。あの人は、その永井くんの父親として撰ばれて不思議はない、そういう雰囲気があると思うんだ」

 吉弥は嘘をつくタイプではなかったから、それは本心なのだろう。

 なぜ聖使徒に撰ばれたのかわからないと吉弥は言うが、潤にはわかる気がする。吉弥は驚くほどまっすぐにものごとを見る。だから不器用で、学校では何人かの生徒に目をつけられていじめられていた。預岐に対して、わだかまりを少しも消せない潤と比べたらよっぽど誠実だと思う。

「どうなのかな、」

 潤はなんと言っていいかわからず、そう答えるのが精一杯だった。

 先日も、長部が預岐について話し出して辟易したことがあった。長部は聖使徒であり、さらにSAN製薬の代表取締役だ。SAN製薬は、預岐が勤めている研究所と提携しており、"セッション"治療薬が実用化されれば、その製造・販売は長部が指揮をとることになるはずだ。そういうわけで長部は以前から預岐のことを知っていたというわけだ。

 けれど、本当に預岐についてなにか話すようなことは潤にない。わだかまりは、とうてい口に出来るような類ではないのだ。

 吉弥は気を取り直して話題を変えた。

「今日、名取さんは?」

「仕事で呼び出されてる」

 それを言うと、吉弥はこちらにはいたく驚いたらしい。もともとすこしぼんやりとした様子のある口元を開いて、えっと言った。

「仕事なんて全て投げ捨ててここに来てるかと思ってた」

「案外そうなんじゃないのか?」

「それじゃあ今日は解雇通知でも受け取りに行ったのかな?」

 吉弥のその言葉は笑えないかもしれないな、と潤は思う。

 吉弥はまた、すぐに街に出て行った。潤も、名取がいないことのほかはいつもどおり、駆けつける患者の手をとり、その病を癒しはじめる。"セッション"患者は発生し続け、収束する気配も見せない。終わることのないいたちごっこであることはわかっているが、それだけが潤にできることだった。

 毎日、会議室の壁と"セッション"患者ばかりを見ている。発生から丸三ヶ月が経とうとしているこの病は、いまや全世界で二十万人もの犠牲者を出していた。この病に罹ったら最後、助かる道は潤の手しかないのだ。

 名取は昼前にやって来た。

 朝から詰めていた人々の癒しが一通り終わったところで、潤は休憩していたところだった。

 肩を叩かれ、ふりむいて名取の姿に絶句する。いつものスーツ姿ではなく、警察官の制服姿だった。警帽を腕に、襟口には銀色の階級章がついている。背広姿もすっきりとしている男だが、制服を着ていると瑕疵のない有能な印象が強まった。本当だとは思っていたが、この姿を目の当たりにすると二の句が告げなかった。

「今朝はすみませんでした。問題はありませんでしたか?」

「ああ、うん。特に、なにも」

「次郎さんからは無事に送り届けたと、連絡はいただいてましたが。良かったですよ、もしかするとあなたが意地を張ってあの人に送ってもらわないなんて言うかと思っていましたから」

 潤が素直に送られたわけでないのはわかっているのだろう。にやにやと笑いながら、続ける。

「ご無事でなによりです」

「なにもないよ、」

 意地になって言うと、それはそれはと名取は笑う。

「それで次郎さんと、なにか話はしたんですか?」

「名取にわざわざ言うようなことはない」

「まあ、ゆっくりお聞きしますよ。今はお時間はありますか? 平気でしたら、昼食に出ましょう。少し話をしておきたいことがありますので」

「ああ、平気だよ」

 名取は携帯電話を取り出して、手短に店の予約をする。患者が現れたら連絡をするようにまわりにことづてると、二人は空港内にあるレストランにむかった。ビジネスマンが商談に使うように、完全に個室に区切られた店で、今までも何度か利用していた。常に人と空間を共有していなければならないストレスから開放されるので、潤もここの個室は気に入っている。

 店の人間も、名取が普段になく警官の制服姿だったので驚いたようだった。席におさまると、潤はいの一番にそれを言った。

「わざわざその制服、悪趣味だ」

「パフォーマンスが必要かと思いましてね。それに、一度戻って着替えるのは上からなにか言われそうだったもので」

 名取も個室でいくらか緊張を緩めたようだった。この上もなく似合ってはいるが、制服姿はやはり堅苦しいはずだ。

「それで、話っていうのは?」

「ええ、明日から数名、制服警官がまわりをうろつくことになりそうです」

「それは、名取も含めてなのか?」

 名取はいいえと首をふる。

「まあいわゆる大人の世界のやりとりの都合で、ということなのですが。私は神奈川県警に所属する警官です。現在は特務についていますが、神奈川県警であることにかわりはありません。ところがあいにく、羽田は警視庁の管轄に入りますから、神奈川の私がひとりであなたの傍にいることには言いたいことがあるようです。妥協点として、警視庁はとりあえず制服警官を配備することになりました」

「そもそもさ、特務って言うのは、どういうことなんだよ。おまえ、毎日のように僕と一緒にいるけど」

「それが仕事ですから、構わないんですよ」

「警察は、僕が救世主だから、その使徒のおまえがここに来ることを認めているとでも言うの?」

 わけがわからない、と思って聞くと、名取は苦笑する。

「さすがに、それは理解してもらえないでしょう。いきなり、あなたは神の子で私はその聖使徒なので従いに行く、と言ってもたいていの人間は頭がおかしいと思うでしょうね。
 特務捜査課は常設の課ではなく、なんらかの事由がある場合に設置される課になります。現在の特務捜査課は、今年、四月一日付けで設置されました。任務は"セッション"について調査することです。警視庁や他県警も"セッション"に関する部隊を設置しているでしょうが、神奈川は日本における"セッション"発生地ですからね。設置も早かったんですよ。はじめは規模もあったんですが、かなり"セッション"にやられましてね。今は大人数はいませんし、おかげで"セッション"に罹らない私には、かなり自由裁量を与えられています。それで、毎日こうしてあなたの傍にいることができるというわけです。"セッション"解決のためにあなたの傍にいることは嘘ではありませんから、文句もほとんど出ませんし」

「ほとんど、て言うことは出てるんだな?」

 用心深くそう聞くと、名取はうなずいた。

「今日は本部長じきじきに、個人であるはずのあなたに心酔しすぎているんじゃないかということを指摘されましたよ」

「本部長って、県警で一番偉い人だよな?」

「ええ、そうです。まあ、聖使徒だのどうのという話は出来ませんから、率直な事実だけを伝えて来ました。あなたは、"セッション"を癒すのだという、その事実ひとつを。
 いまはあなたのその手の他に縋る物はないのです。だれも文句を言うことはできません。
 そしてあなたを護るためなら、私はなんでもしますよ」

 名取はそう言って笑い、テーブルの上に置かれていた潤の右手に、自分の左手を重ねた。

「あなたが目覚める日を待ち続けてはいましたが、それでも、あなたという存在を知るのは私たち聖使徒以外にはいませんでした。あなたと、そして神を私は信じていましたが、それでも時々、本当にあなたが目覚める日が来るのかとか、これは全て錯覚ではないのかとか、そう思うことさえありました。
 けれど今は、堂々と自分があなたのためにいるのだと言うことが出来る。あなたのお傍に毎日いるのも構いませんが、今日のように人にあなたの話をするのも悪くないですね」

 その顔が今まで見たこともないほど満ち足りたものだったので、潤はいくらか唖然とした。

 自分が目の前の男に、それほど言ってもらえるだけの人間なのか、潤にはまだわからない。やれることをやっているだけだ。

「名取、……いつから僕のことを知っていたんだ?」

 待ち続けていたと言う名取の言葉が気になって、潤はそう尋ねた。名取はいつもの笑顔で、応える。

「知りたいですか?」

「話したくないというなら、構わないけど」

「話したくないわけではありませんよ。あなたが聞きたがってくださるのは嬉しいですし」

「嬉しい、そう?」

 自分のことを尋ねられて、潤は嬉しいと感じることはあまりなかった。さっき、父親のことを吉弥に聞かれたのも正直に言えばぞっとしない。他人には自分のことを知られたくないと思っていた。口をつぐんで済むのなら、そうしたい。

 他人に心を開くのが好きではなかった。……救世主なんて人柄じゃないだろう、と思う。

「ええ。あなたは自分のことに無頓着なほうですしね」

「そうでもないよ」

「そうですよ。もっと早くに訊いてくださってもよかったんじゃないですか?」

 今まで訊かなかったのは、名取の存在があまりにも普通だったからだ。あまりにも当然のように潤の生活にあらわれたからだ。

 だから訊く気すら起きなかった。

 訊いたのは、あらためて考えれば知らなかったことに気づいただけだった。そのことに気づかないほど、名取が傍にいることは馴染んでしまっていた。

 預岐に対するように、なにから聞いていいのかわからないのではなかった。

「あなたのことを知ったのは、中学二年のときですよ。福音書教会に行ったのがきっかけです」

「名取も見たのか?」

「なにをです?」

「天使だよ」

「ああ、次郎さんと鳥海牧師が見たという光ですね。いいえ、私は見ていませんよ。そんなことが気になるんですか?」

「それを見て話を聞いたというのなら、僕が神の子であるっていうことを信じてもおかしくない。名取は、僕に会っていたわけじゃないんだろう。預岐と知り合いだったっていうなら、僕のことは知らなかったはずだ。僕は預岐に、三年前まで一度も会ったことがなかったんだから」

「それを言ったら、回田くんも吉弥くんも、なんら神の光など見てはいませんよ。それでも、彼らは自分が聖使徒だということを知っている」

「あの二人は、僕が"セッション"を癒す力を持ったあとだ。それまで、僕は回田とも吉弥とも何度だって顔を合わせて来たよ。でも、そのときには神様もなにも関係はなかった」

「同じですよ。彼ら二人には聖使徒である自分に気がつく時があのときだっただけです。私にはそれが早かったというだけですよ。私はあの教会にはじめて足を踏み入れたとき、この世に神の子がいて、自分がその人のためにいる存在なのだということを知りました」

「どうして教会に?」

 福音書教会は観光ができるような教会ではなく、建物もあまり古くはない。信者が日常的に集うための教会だ。近くに住んでいても、信者でなければクリスマスくらいしか足を踏み入れる機会はないだろう。もともとクリスチャンだというなら別だが、それでも、普段行かない教会に足を踏み入れるのはそうあることではない。

「聖書の時間の、宿題で」

 名取は苦笑した。

「近くにある教会に行くというのが出されたもので」

「……はあ」

「潤さまもあったんじゃないですか、その宿題」

「中学のときに? うん、あったけど」

 波乗学園はミッション・スクールではないものの、学園信条にキリスト教を取り入れている。だから聖書の授業があって、確かに中学のときにそういう宿題が出されたような気がする。

(でも、僕も透もそんな宿題はこなさなかったけどな)

 そして、ふと気がついた。

「……名取、もしかして波乗に通ってたのか?」

「おや、気づくのが遅かったですね」

 名取は不敵な笑顔で、そう言った。



*       *       *



 帰ってから、潤は実和子に電話をかけた。

『潤くん、どうしたの?』

「ああ、ごめんね。実和ちゃん、明日、学校に行く?」

『うん、そのつもりだけど。なにかある?』

「頼みたいことがあるんだけど。八年前になるのかな、卒業アルバムを図書館で借りてきてほしいんだ」

 そう言うと、実和子はわけがわからないらしく、どういうこと? と尋ねて来た。

 名取の卒業した年は、それくらいになるはずなのだ。

 名取の在学中の写真が見たいということは言いづらかったが、中身を確認してもらって、ちゃんと名取が載っているものを借りてきてもらったほうがいいだろう。そう思って、潤はそのことを説明した。

「名取って波乗の卒業生なんだ。知ってた?」

『うん、知ってはいたけれど。じゃあ、名取さんの卒業した年のを借りてくればいいの?』

「そういうことなんだ。お願いしてもいい?」

『いいよ。じゃあ明日、潤くんのうちまで行こうか?』

「うん、お願い」

 羽田の帰りに福音書教会に寄ってもいいと思ったが、どうせそこまで送ってくるのは名取だ。立ち寄るといっても、同席するのがいつものことなので、こそこそと実和子と卒業アルバムを見るのはうまくいかないだろう。

「明日は、家に上がって待ってて」

『どうしたの、潤くん。変なの、名取さんに黙ってる必要あるの?』

「今日まで、名取がうちの卒業生だって気がつかなかったんだよ。悔しいから、先回りして調べてやる」

 電話のむこうで、少年らしい潤のいいぶんを、実和子は笑って聞いていた。



*       *       *



 翌日、その日は空港に来る人が多く、潤の帰りもずいぶん遅くなっていた。

 名取に送られて家に戻ると、もう実和子が来ている。母の耀子と話をしていたようだった。

「ただいま」

 そう言って居間に入ると、実和子と耀子のいるその部屋はとても暖かい空気に満ちている。けっして空港をいやだと思っているわけではないけれど、ここにはだれをもほっとさせる空気が流れていた。

「ごめんね、実和ちゃん。遅くなっちゃって」

「ううん、いいの。お父さんにも言ってあるから」

「泊まって行ったらどうかって言っているのよ」

 耀子の言葉に、さすがに潤は驚いた。確かに、今からなんだかんだとしていれば夜中になってしまうだろう。いいのかな、と実和子を見ると、穏やかな顔で実和子は笑った。

「潤くんが迷惑じゃなかったら」

「迷惑ってことはないけど」

「もう客間を用意してあるの」

 夕食の準備を始めながら、母がそう言った。耀子はもともとそのつもりだったのかもしれない。

 少し遅い夕食を囲み終えると、もう随分な時間になっていた。二人は八年前の卒業アルバムを手に、潤の部屋へと行った。耀子も名取のことは知っているはずだ。その前で、このアルバムの話はしにくかった。

「実和ちゃん、もう中身は見た?」

「うん、学校でちらりとだけど」

「名取、載ってるんだよな」

 実和子からアルバムを手渡されたものの、開くふんぎりが少しだけ、つかない。それでも、すぐにケースから古びたアルバムを取り出し、アルバムを開く。

 生徒の全体写真、学内の風景。八年前ということは、現在の波乗学園とは体育館だけが違うはずだった。校舎の景色はあまり代わり映えがない。潤と実和子の制服と同じ制服の少年少女たちが、その中を行き来している。

 個人写真のページに移ると、緊張した。

「名取、何組だった?」

「1組。はじめのクラスだよ」

 四十人ほどの個人写真が並んでいる。紺色のブレザーにネクタイを締めた名取の写真を、潤は指でさした。

「ふうん、あんまり、変わってないな」

「あたしもそう思った」

 生真面目そうな顔で名取は写っていた。髪型は高校生らしく前髪がおりているが、目つきや表情は今とあまり変わりない。頭のいい生徒だったんだろう、というのはそこからでもわかる。

「そういえば、次のページをめくって。太秦先生がいるの」

「太秦って、四組の担任の?」

「そう。名取さんと同い年だったみたい」

「本当だ」

 次のページには、実和子が言ったとおり、太秦が写っていた。こちらはずいぶんおもざしが違うように見えた。潤は太秦に直接教わったことはないのだが、青年の様子は若々しく、溌剌として女子生徒の人気を集めていた。背も高いし顔も整っていて、だれにでも好感をいだかせるタイプの男だ。

 それが、写真の太秦は顔に影がある。まじめそうに写っているのは名取と一緒だが、太秦にはどことなく苦しそうな表情が浮かんでいた。きつく唇を結び、陰鬱そうな雰囲気だった。

 太秦が卒業生だということは知らなかったが、気づいた女子生徒がこれを垣間見たら、幻滅されるかもしれない。

「……雰囲気が違うね」

「うん、そう思った? これ、愛子ちゃんと……久保田さんと一緒に見てたんだけど、彼女もびっくりしてた。なんだかぜんぜん違う人みたいだよね」

「意外と名取と仲がいいかもな」

「ありえそうだよね」

 それから二人はもう少し、アルバムをめくった。修学旅行、運動会、学園祭といった行事を眺める。ときどき名取の姿を見つけると、なんだかおかしかった。あの名取に、自分と同じように波乗学園で過ごした時間があるというのは、写真を見ていてさえ、実感がわかない。

 見終わってみれば、特になんということもなかった。これを見て、名取のなにかが判ったような気もしない。名取のことは確かに知らないが、もともと、それで名取をわからないと思っていたわけではないのだ。

「こっそり、見る必要もなかったのかな」

「そうかもしれないよ」

 実和子も笑って、うなずいた。

「潤くんはなにを期待してたの?」

「さあ、僕もなにか考えていたわけじゃないと思うよ」

 名取の印象を変えてしまうようななにかがあるかもしれないと心の底で思っていたことは認める。けれど、それは望んでいたことではない。名取は中学生のときに潤の存在にめぐり合ったのだという。ということは、このアルバムに載っている18歳の名取は、もう潤のことを知っているのだ。

 それに、この頃の名取に直接、潤のことをどう思っているか聞けるわけでもない。

 ここにあるのはただの写真で、その当時を知らない人間が見たって想い出を喚起されることなどないのだ。



*       *       *



 翌日、いつもどおりに迎えに来た名取の車に乗り、羽田を目指している最中に、潤は「太秦って名取と同学年なんだな」と聞いた。

「太秦って、太秦忍ですか?」

「そう。今年赴任してきて、波乗の教師やってるんだ」

「そうなんですか、知りませんでした。ええ、同じ学年でしたよ」

「実和ちゃんとね、意外と友達だったかもって言ってたんだ」

 そう言うと、名取はなんの感情も見せずに返事した。

「生憎ですが、大して仲はよくなかったですよ」

 まあそんなものだろう。潤も、中学から波乗学園に通っているにもかかわらず、同じ学年で口をきいたことのない生徒もいるのだ。

「彼は波乗に戻っていたんですか」

「うん。知らなかったんだ?」

「卒業してから音信不通ですし」

「僕も、教わっているわけじゃないからよくは知らないけどね」

「それにしても唐突ですね。この間、私が波乗に行ってたことに気づいたばかりなのに」

 言おうか言うまいか迷い、潤は肩をすくめて口を開いた。

「卒業アルバムを、実和ちゃんに持ってきてもらったんだ」

「なるほど。それでなにか、面白い発見はあったんですか?」

「太秦が名取と同じ学年だって言うのがわかったくらいだよ」

 苦笑しながら言う潤の言葉に、名取は笑った。

「卒業アルバムなんて、大したことは載ってませんからね」

「うん、僕もそう思った」

「なにが知りたかったんですか?」

 バックミラー越しに、名取は優しい目つきで潤を見ている。昨晩は、実和子にも同じようなことを聞かれた。そのときは潤の答えはあやふやだったのだが、いま思えば理由はあきらかだった。知らない名取の過去を暴いてやりたいと思ったわけではなかった。

 名取の視線を受け、潤は言った。

「名取が、僕のことをずいぶん前から知っていて、そして……僕のためにここまで来たって聞いたじゃないか。それでフェアじゃないなと思ったんだよ。おまえは僕のために十年以上過ごしてきたのに、僕はなにも知らなかった。僕に知らせなかったのは、預岐と関係あるのか?」

「あなたが神の子であるという事実を、知らせなかったということですか?」

「そうだ。だって僕は、なにも三週間前に撰ばれたばかりっていうわけじゃないんだろう? 預岐も鳥海牧師も、そして名取だってそれを知ってた。どうして僕は、知らなかったんだ?」

 名取はすぐに答えなかった。運転する名取の顔は、潤からは見えない。見えたとしても彼が表情をくずすとは限らないが、その間がなんのためなのか少しもわからず、潤は内心でいらいらとしたものが急に膨れ上がるのを感じた。

「名取、」

 催促しかけたところで、名取は口を開く。

「理由のひとつは、確かに次郎さんかもしれません。つまり、あなたは神の子として生まれましたが、あなたのおじいさま――永井陣一郎さんは、神の意思だという理由では、次郎さんのことを許しませんでした。耀子さんは奥様の亡くなられた後に遺された大切な娘さんでしたからね。陣一郎さんもクリスチャンで、あなたが神の子であることは認めていらしたと思います。けれど、実際はどこまで信じていらしたのかはわかりません。私は、陣一郎さんとは面識がありませんしね。
 ただ、そうでなかったとしても私たちはあなたの十七回目の誕生日まで、あなたが神の子であることは伝えなかったと思います。それは、とても重たい運命ですから。今でさえ、あなたはまだ若いのです。たとえば十歳のときに、神の子だと言われたらどうしますか。今はあなたには出来ることがある。けれど、十歳のときのあなたには出来ることはありませんでした。その重荷は、耐えられるものではないでしょう」

「でも名取は、僕がそれを知らないかわりに知っていたんだろう?」

「ええ、知っていましたよ。それが重荷だったかというと……どうでしょうね。確かに、簡単な道ではなかったと思います。けれど、この道じゃなかったらと思うことはないですよ」

 名取の声が、心地よく潤の中にこだまする。

「私はあなたのためにいるんです。あなたの道行きを護るためなら、どんなことをしても構わないと、そう思っています。いつか神の試練の時が過ぎ、穏やかな時代であなたがなんの悲しみも覚えず生きていけるようになるまで、私はあなたの傍にいるつもりです」

「ずっと先かもしれない」

「まだかまだかとは思いませんよ。ようやく、あなたの傍にいられるようになったばかりなんですから」

 その言葉で、ああ本当は、彼と出会ったのは三週間たらず前でしかないのだということを思い出す。けれど、いつもそんなことを忘れてしまうのだった。

「そうだな……」

 相槌を打って、潤はシートに体をもたれさせる。

 三週間前は、想像もしなかった毎日だが、それはいまや潤の日常となっていた。彼は日々、"セッション"を癒し続ける。今まで学校に通っていた波乗学園の生徒としての日常が、卒業という機会がなければ終わることを想像させなかったように、今の日常も終わりが見えない。

(それでもいつか、終わる日が来るんだろう。名取が待ち続けて、ようやく僕が目覚める日が来たように)

 そうしたらこの毎日のことを、懐かしむようになるのかもしれない。今は想像もつかないが、そんな気がした。









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