出立
※だいぶ先のエピソードを先取りして書いてあります。……七月末。※
ゲートを通過していく際も、なんのさしさわりもなかった。たぶん、まだなにも明らかになっていない。よしんば、あの人の死骸が見つかっていたのだとしても、潤の足を止める理由になるとは思えない。それでも、胸がきりきりと痛んだ。頭の血がからからに渇いてしまったように、気分が悪かった。吐き気がする。外気の暑熱から逃れた空港の中だというのに、汗で背中がびしょぬれだった。ともすれば立ち止まってしまいそうになるのだが、その潤の腕を強く引いて、半ば支えながら歩いていくのは名取だった。名取がいなければ、空港まで来ることもままならなかっただろう。そうなったら、さすがに……潤がどう扱われるかもわからない。
「……あと少しです」
ゲートを過ぎ、日の丸をつけたジェット機の姿が見えると足から力が抜けそうになる。名取が、気づかうように腕に力をこめた。通り過ぎていく折に並んでいる人々に声をかけられるが、それがだれなのか、なんと言われているのかもわからない。ともかく、今は一刻も早くあの飛行機に乗りたかった。
「実和子さんたちは先に、随伴機に乗っています」
名取がそう言ったのは、もうタラップに乗った時だった。
「……一緒じゃないのか?」
「ええ、
深海首相からはあなたと話がしたいと言われています。聖使徒はいないほうがいい、と……おそらく、あなたひとりの言葉を聞きたいのでしょう。あなたが、まわりの人間たちに作られた救世主ではないと確かめたいのでしょうね」
「そうか。……
それで、僕らは間に合うのか?」
「離陸すれば、日本の首相専用機に対してイタリア管制塔にどうにかできる権限はありませんよ」
そうしている間に、ジェット機の扉は閉められた。潤は不安を感じて立ち止まったが、専用機のスタッフからどうぞ、と言われたら進まないわけにはいかなかった。
「……大丈夫ですよ」
名取はそう言った。その言葉を信じられないわけではない。名取の言葉は、潤の安全を確かに保障してくれる。それは、いいのだ。潤が恐がっていのたは、自分の身の危険ではなかった。
これまで潤はこの恐怖を知らなかった。……この恐怖で震える人たちは見てきたのに。目の前で"セッション"に罹り、人が死んでゆく恐怖。潤はその患者に手を触れれば病を癒すことができる。だから、目の前でセッションで死んだ人間を見たことがなかった。だが、さきほど、潤の目の前でひとりの人間が"セッション"で死んだ。潤は手を触れていたのに、奇跡を起こすことが出来なかった。腐敗した人間の不可逆のはずの病を、何度も癒してきたというのに、ついに癒すことが出来なかった。
ああやって"セッション"の人間は死んでゆくのだ。溶けて、身体の形さえ崩れ、骨さえばらばらになって、黒い泥のようになって、死んでゆくのだ。
(そうだ、僕は"セッション"を癒せない……!)
それは、潤が救世主はもとより、神の子でもないということだった。
なにより助けなくてはいけないはずの人を、癒すことが出来なかった。そろそろ、あの人の死はあきらかになっているだろうか。
「どうぞ、お席へ。離陸後、深海のフライト・シートへご案内いたします」
「……ありがとう、ございます」
潤はそれだけを返した。個室になったフライトシートに、名取と並んでかける。お飲み物をお持ちしますか、と言われたが断った。機長のアナウンスが流れる。いよいよ離陸だ。聖使徒のみんなが同じ飛行機にいなくてよかったと思う。彼らは、潤が癒せなくなってしまったことをまだ知らない。こんな顔をだれにも見せたくなかった。名取だけなら、まだいい。だが、実和子や回田たちに見られたくない。身体が震えている。名取は、多くを言わなかった。虚ろな慰めも、厳しい言葉さえ。名取は潤が神の子でなくなったとしてもこうしてついて来てくれるのだろうか。だが確かに、名取は潤が"セッション"を癒せなくなった瞬間を見ている。少年の目の前で、腐り崩れてゆく男の姿を。……それは、潤たちをローマへと呼び寄せた人だった。教皇その人が目の前で"セッション"に罹り見る間に腐り果てていくのを、潤は悲鳴を上げることすら出来ず、見守っていた。触れていたのに、癒せなかった。
やがて飛行機は無事に空へと舞い上がった。窓のむこうに、ローマの市街が赤い煉瓦の町並みを並べ、それは次第に遠のいてゆく。長いこと、そうしていたと思う。安定飛行に入っているのに、深海に呼ばれない。おかしいな、と思って名取を見た。
「……どうかしましたか」
「いや、ううん……このまま、無事に戻れるのかな」
「ええ、平気ですよ」
もうあの人が亡くなったことは気づかれているだろう。潤の目の前で死んだことにどれだけの人が気づくだろうか。潤が、彼を癒せなかったことにいつ気づくだろうか。
(……癒さなかったわけじゃない。癒せていたら僕だって癒していた……! でも、触れても、なにも起こらなかった。あの人はただ死んでいっただけだ……!!)
どうして"セッション"が怖ろしい病なのか潤はようやく、知った。……あまりにひどい病だ。目の前で人が溶けて死んでゆく。この唐突の死。人間らしさのかけらもない。肉汁と化して、むせ返る腐敗した香りの中に、沈んでゆく。
「……潤さま」
名取に呼ばれて、潤は顔を上げた。いつの間にか、先ほどのスタッフが傍に来ていた。
「ご気分が悪いようでしたら少し休まれますか」
「いや、深海首相に会えるのなら、行くよ」
こうしていても、なにかが変わるわけではない。潤は、わざわざ潤をこの飛行機に呼んだ首相に会ってみたかった。それに、この飛行機に乗れたことで潤は助かったともいえる。日本からここに来るときはバチカンの専用機に乗ってきていたのだ。帰路も同じだったら、教皇の死に気づいたバチカンの手によってローマに戻される可能性があった。けれど、日本の首相専用機であれば、名取が言うように、バチカンやイタリアの好きには出来ない。
案内され、深海の待つ部屋にむかった。
すすめられ、名取とともにシートに腰をおろした。潤のむかいにいる深海首相は、まだ若いが日本人らしいどこか優しげな表情に中に、切れ者らしい政治家の気質をうかがわせる老獪さを兼ね備えている。いままで、この首相が自分に興味を抱いていると耳にしたことはない。だが、"セッション"という未曾有の惨禍をひきおこす病を癒す潤の存在を、まったく知らないというのもおかしなことだったのだろう。潤が癒すということの真偽はともかく、バチカンに召喚されたことを考えれば、無視するような存在ではない。それに、昨日までは確かに潤は"セッション"を癒していた。
「永井くん、はじめまして。首相の深海だ」
「……永井潤です」
潤が応えると、深海はうなずいた。
「待たせたようだったら、すまない」
「いいえ、今日はご同乗させてくださってありがとうございます」
「管制塔から連絡が入っていて、その相手に時間がかかったのだよ。機をひきかえし君の身柄を渡してほしいと要請があった」
やっぱり、と思った。落胆も驚愕もしない潤の様子を見て、深海は苦々しく笑った。
「そういう報せがあるだろうということは気づいていたのだね?」
「いえ、そういうわけではありません」
潤はなんと答えていいのやらと話しあぐねた。教皇が目の前で"セッション"で死んだことを今ここで深海の耳に入れていいのか。教皇が死んだことはさておき、潤が"セッション"を癒せなくなったことは口を閉ざしておいたほうがいいという気がした。救世主でなくなることを首相に知られてどうなるかといえば、どうなるわけでもないだろう。だが、まだ仲間たちにも伝えていないことを、もらすわけには行かない気がした。深海に伝えることで、どうなるかわからない。バチカンに引き渡されるかもしれない。だが、少なくとも潤が確実に"セッション"を癒せると思っているのであれば簡単にバチカンに引き渡すことはしないはずだ。深海は妻を"セッション"で失っている。……日本から、救世主を放逐するとは考えられない。
潤が黙りこんでいるので、名取が口を挟んだ。
「……管制塔はなんと言って来ましたか」
「理由は告げなかった。それは、君たちに聞いてわかる理由なのか?」
「さあ、どうでしょう。私たちの認識とあちらの認識が同じだとは限りません。随伴機はどうなりましたか?」
「君たちの仲間か。随伴機は、この機よりも先に離陸している。同様に日本を目指しているはずだ。……大丈夫だろう」
それを聞いて、潤は心から安堵した。ともかく、日本に着くことが先決だ。バチカンが教皇の死をどう解釈しているのかは知らない。潤が殺したと思っていないのかもしれない。もう死んでしまったが潤が"セッション"を癒せるのだから引き戻そうとしているのかもしれなかった。
(でもともかく、僕があの人を癒せなかったことは確かだ。僕の力はもう、ない。"セッション"はあるのに、僕は癒すことが出来ない……)
これから、どうなるのだろう。力をなくしたことを人はどう解釈するのだろうか。自分が大衆の思惑の前に押し潰されない自信はなかった。"セッション"を癒せてさえ、潤の敵はなによりも大衆だった。潤を見る人々の好奇の視線こそが、障壁だった。それが、癒せないとなったらどうなるのだろう。
それが恐かった。
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