バイトまで時間があるから教室でちょっと寝よう、と思っていたら、すっかり眠りこんでしまった。気がつけばもうすぐ五時で、睦は慌ててブレザーをはおり、メッセンジャーバッグを担ぐと教室を飛び出した。
(まずいよ、これ、まじ遅刻じゃん……!)
校舎ももう、人影はまばらだ。特に教室前の廊下なんて、静まり返ってだれもいない。太陽は落ちかけて、影が濃い。こんな時間の学校なんて、少しばかり気味が悪かった。
廊下を走っていると、五時を知らせる音楽が聞こえて来る。夕焼け小焼けで、陽が暮れて。のどかなはずの音楽なのに、なんとなくぞっとする。窓から見える校舎や中庭には、いくらか人影があるのだけれど、どれも真黒な影法師に見えた。だれなのか、男か女か、生徒か生徒じゃないのか、そんなことすらわからない。
急に、バタン! と音が聞こえて睦は飛びあがった。
「だ、だれかいます〜?」
振り返り、暗い廊下に小声でささやきかけても、返事はない。まあ、睦の声が届いていないのだろうが。
つきあたりにあるトイレの方からだ。たぶん、ドアが勢いよく開いたかしまったか、だれかが蹴ったかの音。
(いじめとかじゃねえよなあ? ……それか、具合が悪くて、倒れたとか……)
気にしないでさっさと帰ってしまったっていいはずなのに、第一バイトがあるのに、睦はそーっと足音を殺して男子トイレへむかう。
入口から覗いても、人影はない。
西日が差しこんで来るトイレは、蛍光灯が切れているから余計に陰影が濃くて、睦は顔をしかめた。
「だれか、いんの?」
返事はなかったけれど、荒い息が聞こえた。ぜいはあと苦しそうに続く呼吸音が気になり、睦はトイレに足を踏みこむ。こういうときに「どうせ俺には関係ねーし、」と言ってしまえず、ついつい首をつっこんでしまうのが睦の性格だ。なにも考えずに声を出し、声を出したときには「余計なことをしちまった」と後悔し、結局のところ相手に「気にしないで」と言ってもらって面倒なことにならずに胸をなでおろす、というのが睦のいつものパターンだった。
「具合わりぃんならだれか呼ぶけど……」
うめき声が聞こえた。少し近いトーンだけれど、半袖から出た腕に鳥肌が立つ。本当に人間だろうか。
(まさかお化け……とか、いやまだ夕方じゃん)
「……っけ……よ……」
「え」
返事らしきものが聞こえて、睦は腰が引けつつも大股で奥の個室に近づいてゆく。
「大丈夫?」
個室の中に、うずくまる人影が見えた。髪が長いので一瞬びっくりしたが、ガタイはいいので男子だ。制服じゃなくて私服姿で、ブリーチした長い髪、と言ったら三年の危険人物翁長善弥に他ならない。うっわやべー、と思いながらも、本当に具合が悪かったらそのままにはしておけない。
「へ、平気?」
早く、「平気だからほっといて」と言ってほしい。その一心で睦は個室を覗きこむ。
うずくまった翁長は不意に腕を伸ばした。ものすごい力で睦の腕をつかみ、引っ張る。肌に翁長の爪が食いこみ、それ以上に方が抜けそうな勢いで引きずりこまれて冷や汗がどっとわいた。
やっぱり、声なんかかけるんじゃなかった。睦が後悔しても、もう遅い。
「ぎゃっ」
「いてぇよ」
噛み殺されるかも、というくらい獰猛な声が耳元に響いた。
「へ、」
「いてぇんだよぉっ」
そう言いながら、翁長は睦の襟首をつかみ、個室の壁に叩きつけた。もうなにがなんだかわからない。どこが痛いのかなんて知らないけど睦もあちこち痛い。早く逃げないとやばいな、と思うけれど、すごい力で掴まれているので簡単には行きそうにない。
でも、このまんまじゃボコボコにされかねない。
いったいなんなんだよ、と翁長を見上げたところで、顔にかけた眼帯の陰に目が吸いこまれた。夕闇のトイレは暗いけれど、それは陰じゃない。なにかが蠢いているような、なにかだ。
やばいやばいやばいやばいやばい。
翁長がやばい、とかいう以上に嫌な感じだ。悲鳴を上げたいけれど、しめあげられていて声も出せない。翁長と来たら、容赦なく肘を睦の首元にかけて体重をこめてきた。
(く、苦しい、これは苦しい……!)
生存本能で、睦は翁長の腕にしがみついた。でもちっとも緩まない。さすがに息苦しくなって、めちゃくちゃに腕を動かす。ともかく必死だった。何回か翁長の顔を引っかいたり、突き飛ばそうとしてみたり、もみあった挙句にはたかれてトイレの床に転がった。
痛いやら苦しいやらわけがわからない。ともかく翁長から逃れて、睦はばっと顔を上げた。
翁長はまだ、個室の中に立ち尽くしている。
なぜか翁長がかけていた眼帯がなくなっている。いつも隠されている右側の眼をまともに見てしまった。
それをなんと言ったらいいのかわからない。傷を見て感じる痛ましさとは全然違った。カタチが違うとか、そういう単純なものではなく、人間の心の底にある恐怖をあおるような、悪意のこもった造形としか言えない。
その異形の肉の下からは血のようなものがこぼれていた。
悲鳴を上げている暇なんてない。睦は出来る限りの速度で後ろをむいて走り出した。はじめの数歩なんか四足歩行だった気がするが、気にしてなどいられない。
校門まで逃げて来て、ようやく息をついた。
(うわまじあぶねえ。なんだよあれ。なんなんだよあれ)
思い出しても寒気がする。
左手に違和感を覚えて見てみれば、翁長の眼帯が絡まっていた。道理で顔の傷が見えてしまったわけだ。これないとあいつ大変なんじゃないかな、と思ったけれど、返しに行く気には、もちろん、なれない。そもそも、首を絞めてきた翁長が悪い。
とはいえ捨てることも出来ず、とりあえずポケットにつっこんだ。
門を出ると、大きな車が止まっている。いつも翁長を迎えに来ているヤクザの車だ。運転席に座っている男は、ちらりと睦を見た。……睦がいま翁長と揉めて来たなんてことは気がつかないだろうけれど、気分はよくなかった。
「って、んなこと気にしてないでバイトだよ、バ・イ・ト!」
もう多少の遅刻は確定だが、急がなくちゃいけないことには変わりない。睦は駅を目指して、走り出した。
四時間のアルバイトを終えても、夕方見た光景は睦の頭から離れない。夕闇の中でそびえたつ翁長の顔にあるあの傷。ホラー映画さながらだ。というかそもそもあれは傷なのか、なにか被り物でもしていたのか。
(でも、あれがあるから翁長っていつも眼帯してんのかなあ。ほんとーに苦しそうだったし、あんなビビりまくってわりぃーことしたかも)
バイトの最中も気になって仕方がなかった。しかも、珍しいことに食欲がなくて、休憩にスポーツドリンクしか飲まない睦を見たことがなかった他のスタッフたちが愕然としていた。
でも、あんなもの見た後じゃさすがに無理だ。
(おなかはすいてるんだけどさあ……)
アルバイトが終わり、胃のあたりをさすりつつ、暗い中幹線道路沿いを駅まで歩いていると、いきなり傍に車が止まった。こんなところで変なの、と思った瞬間、車から二人の男が出て来る。あれ? なんか映画とかでたまに見る光景? と睦が思っている間に、男たちは目の前に立つ。車を見て即逃げなかったのを後悔した。
「まこっちゃん、みーっけ」
翁長だ。
みぞおちに激痛を感じて、膝が折れる。
「ぼっちゃん、いきなり殴らなくても……!」
「きたにぃー、早く車に積んじゃってー!」
「ゆ、誘拐だろ……」
放課後校門でよく見る車にあっさり積みこまれながら、睦は呻いてみたけれども、だれひとり聞いてくれなかった。
ぼかすかにボコられて東京湾に浮かぶのかと思っていたら、睦は首根っこをつかまれて翁長家(らしい)の居間に転がされていた。紐でぎゅうぎゅうに縛られているだけだから、足は自由なので、ほっといてくれれば歩いて帰れる。……が、帰れるわけはない。
目の前には案外のんきな世界が広がっている。エプロンをつけたヤクザが食事の用意をしていて、翁長は箸を両手に一本ずつ握って変な歌をうたっていた。睦の存在はここに来て以来無視だ。
翁長は、眼帯は新しいものをつけたのだろう。あの傷は見えていない。
時々目に放課後のトイレで見たものが浮かんだけど、悪い夢だった気がする。
しかもいい匂いがして来て、かなり食欲が刺激されていた。さっきから何回も唾を飲みこんでいる。
それにしても、どうして翁長が睦の名前まで知っていたのか。睦だって翁長の名前は知ってるけれど、あっちは奇行で知られる有名人。睦は学校で有名なほうだとは思うけれど、この翁長が知っているなんてびっくりだ。
(つーかこいつ、他人に興味あるんだなァ……)
なにが起こるかびくびくしていたけれど、睦もだいぶ冷静になっていた。
いままで翁長はやばい、としか知らなかったわけだけれど。
あんがい普通に見える。
そろそろ食事の用意が出来たようで、ヤクザが皿を並べ始める。三人分あるので睦の分もあるのかもしれない。空腹が限界に近い睦が目をキラキラさせながらヤクザを見ていると、彼は気まずそうに善弥を見た。
「あのー、ぼっちゃん。彼は……」
「えっ、なに姫谷、なんのことー?」
「いえ、なんでもないですよ、ぼっちゃん」
(えっ、なに、まさかの無視!)
きちんと食事が並んだ頃、姫谷というらしいヤクザが席を外したと思ったら、別のおじさんを連れて戻って来た。三人目の食事はどうやら彼のものらしい。そのオヤジのほうは、睦がいることにすら気がつかなかったようだ。
(ていうかやっぱりここの奴らみんなやばいって! 助けて! 早くおうちに帰してー!)
で、睦の前ではいささか静かな家族の団欒がはじまった。……というか、本当にしゃべらない。おっさんはぶつぶつ独り言を言いながらで、翁長は姫谷と会話しているが、姫谷はおっさんの独り言を拾いつつなのでとても大変そうだ。
食事が済むと、翁長もおっさんもいなくなってしまった。姫谷が近寄って来て、親切に「おなかはすいていますか」と聞いてくれた。睦は全力で頷いてしまったが、それどころじゃなかった。
「あのー、俺、そろそろ帰りたいんですけどー」
「いや……それはちょっと、ぼっちゃんが……」
「っていうか翁長俺のことずっと無視してるし! もうよくね!? いいでしょ!?」
姫谷ははははは、とから笑いして立ち上ってしまう。そのあと、縛っていた紐は解いてくれたけれど、彼との体格差を見て逃げるのは断念し、おとなしく夕ご飯を頂いた。
「うわちょーうまい。……じゃくて、あの、翁長はどこへ……」
「自分の部屋でしょう」
「で、俺は……」
姫谷はなにも言ってくれない。
とりあえず夕飯は、こんな見てくれの男が作ったとは思えないおいしさだった。睦が満腹になるまで食べていると、片づけをしていた姫谷も翁長がアクションを起こさないことか、睦が食べ過ぎかのどちらかにうんざりした様子で提案して来た。
「坊ちゃんの部屋は二階にありますから、話をしてみてください」
「え、俺が」
「ぼっちゃんがあなたと話をしたいって言ってお招きしましたから」
「いやこれ誘拐だって」
未成年略取だよ、とつぶやきながら、睦は姫谷の言う部屋にむかった。
階段を上りきったところにあるドアをノックしても返事はない。返事がないのにはいるのも気が引けるが、睦としてはおなかもいっぱいになったしさっさと帰りたいところだった。殴られたのはおいしいごはんでチャラにしていい。
ポケットに突っこんであったままの眼帯を取り出して、睦は思い切って「お、翁長……せん、ぱい?」と声をかけてドアを開けた。
翁長は部屋にいて、腕に爬虫類をのせて和やかに笑っていたが、睦が入ってきたのを見るととても不機嫌な顔になった。
(なにも言わず帰ればよかった……)
「あのー、翁長、先輩、さ。これ……わりぃ。返す」
眼帯をさしだして、睦がそう言うと、翁長は立ち上ってその眼帯を取る。なにされるかわからないので睦はドキドキしていたが、イグアナを置いた翁長はまだおとなしい。
「んじゃ、俺、帰るから」
「まこっちゃんさあ」
「えーっと、翁長、先輩は、なんで俺の名前しってんの」
「まこっちゃんさあー、さきやまよーじと、仲いいよねぇ?」
よりによって蓉司の名前が出て来るとか、よくわからない。でも、思えば翁長と蓉司は二年間同じ学年にいて、お互いを知っていてもおかしくない。で、そんな蓉司を知っている翁長が蓉司と睦が話しているところを見ていれば睦のことを知っていたり、名前を把握しているのも不思議では……ないかも、しれない。
無理矢理だけど。
「ま、まあ、仲いいけど……」
「まこっちゃんはさあ、よーくんのこと、好きぃ?」
「はあ?」
さっぱり意味がわからない、と思って油断したのがいけなかった。また翁長に腕を引っ張られ、猛烈な勢いでベッドの上に叩きつけられた。壁に頭をしこたまぶつけて身体を丸める。今日は散々だ。その上、翁長は猛烈に怖い顔で睦の上にのしかかって来る。
「なんなんだよおおおお!」
「まこっちゃん、おもしろーい」
耳元で笑い声が聞こえる。なんなのなんなの、と思っているうちに、翁長はひょいと身体をどけた。
「なんなんだよ」
「もういいよ、まこっちゃん。帰って」
「あんなあ、誘拐しといてなんだよその言いぐさは! 帰るけど!!」
睦はへらへら笑っている翁長を突き飛ばすようにして部屋を出た。からかわれるのは我慢がならない。そのままずんずんと大股で家を出ようとしたら、階段を下りる手前でまたいきなり、後ろから翁長につかまった。首筋が痛いと思ったら、噛みつかれている。
「ぎゃああ!」
叫んで翁長を突き飛ばしたつもりが、睦のほうが飛んでしまった。
どったんばったんとけたたましく音を立てて睦は階段を転がり落ちた。
(なんなの……もうなんなのよ……)
「まこっちゃーん、大丈夫ー?」
階上から翁長の声が聞こえる。姫谷も飛び出して来て「大丈夫ですか」と言っていたが、そんなのほとんど耳に入らない。
「まこっちゃんが俺の秘密をだれかにしゃべったらぁ、今度はめっちゃくちゃに食べちゃうからねぇ」
秘密って、たぶん、あの眼帯の下だろう。
心配して声をかけたつもりだったんだけど、なんでこんな目に合わなくちゃいけないのか。今日は、厄日だ。睦はすっかり泣きたい気分になって、翁長家を飛び出した。
そめさん誕生日おめでとう!!