ファティマの碧玉-3
 ファティマ商会の戦艦があくまでもロニの領域であるように、ニサンも結局はカレルレンの掌るニサン僧兵隊の領域だ。ボレアスが事を運ぶのに、都合がいい舞台ではないはずだった。ボレアスがニサンに滞在するのは式典を真ん中に挟んだ三日間だけのことであり、なにか起こすにしても、機会は少ない。
 ニサンに入った後も、ロニは身辺に気を配り続けていたが、おかしなことはなかった。カレルレンも僧兵隊に命じて、ニサンに常駐しているシェバト王室騎士団第二旅団を警戒してくれていたが、そもそもボレアスは騎士団を使わないだろう。そんなことをしたら黒幕がだれか宣伝しているようなものだ。そんなことが出来るほど、地上におけるシェバトの影響力は絶対ではない。王太子ともあろう男が、あからさまなことはしないはずだ。
 別に行動を担当する人間がニサンに入って来ているということだが、見つけだすのは至難の業だろう。なにしろニサンは市門を決して閉じないことにしているし、門をくぐる者を一人たりとも拒まないと標榜している。だからこそ、ニサンは開かれた国として、民心を集めているのだ。どれだけ僧兵隊が走り回っても、続々と流れこんで来る難民と、その中に紛れたあちらこちらからの間者を区別できるような状態にはない。
 ボレアスがどう出るにしても、この状況では後手に回ってしまう。歯がゆいが、隙を見せないようにふるまうので精一杯だった。
 ニサンは以前に比べると活気に満ちているが、あまり喜べることではなかった。治安も悪化し、盗みや傷害などの犯罪が増えている。以前のニサンのような穏やかな空気の中であれば起こることのないような、他愛のない事件が多い。
 レネとジークリンデの婚礼を控え、ニサンはますます浮き足立っていた。よい知らせとあって盛りあがりも華やかだったが、その分、ニサンの市内は混沌としていた。戦時であることは変わりなく、高揚した心でも、皆それを意識してもいるのだろう。自らを誤魔化すように、偽るようにますます騒ごうとするのだった。
 ただ、人びとに見られる明るい笑顔は本物だ。ソフィアの言うとおり、レネとジークリンデは人びとの胸に希望を芽生えさせている。しかしその裏にある混沌は、ロニが見る限りは肝が冷えるようなものだった。希望は希望だが、どこか危うい。僅かばかり、ソフィアの言う希望というものをロニは疑った。彼はあくまでもレネのために婚礼を進めたが、ソフィアには希望という大きな目的があり、その希望というのは言葉は美しいが、いま相応しいものとは思えない。
 いよいよ儀式の朝を迎え、ロニは妻子を連れて聖堂に参列した。ロニが妻のラーヘルやアリフィを連れて公式の場に出ることはほとんどなく、特に、いずれロニの後を継ぐことになるアリフィに、ものめずらしげな視線が集まった。まだ幼い子どもなのでその資質を見極めることもまだ早いが、大きな碧い目をした少年は、利口で溌剌とした印象を与えていた。その子どもを連れている母親は、ほぼ全身を覆うような砂漠の民の巡礼衣装をまとっている。
 座席に並んでいるのは招待を受けた客人たちだ。ニサンの修道士や枢機卿たち、地上各組織の勢力を代表する者たち、レネの母方の親族も列席していた。ボレアスやゼファーらシェバト勢はしばらく離れた後方に座っている。だれもが盛装に身を包み、式典が始まるのを待っていた。
 参列者の中に、僧兵隊長であるカレルレンの姿はなかった。彼は警備のために聖堂の外にいて、周囲を固めているはずだ。
 ここまでは、なにごともなく進んで来た。ロニは時折ちらりとボレアスをうかがうが、彼は真剣な面持ちで壇上を見ているだけだ。しかし、まさかなにもしないとは思えない。
 高い窓にはめられたステンドグラスから柔らかな光が降り注ぎ、修道女たちの讃美歌が堂内に満ちていた。舞台仕立てはいつもの礼拝となんら変わることがないのだが、花に飾られて現われたジークリンデは、祝福された者の美しさを纏っていた。ソフィアに比べればその存在はごく地味なものなのだが、彼女は決して、人に劣るような女性ではない。修道院で深い知識を身につけ、その後、ソフィアと共に放浪生活を耐え抜いた強さもある。カレルレンがただの僧兵ではないように、ジークリンデもただの修道女ではなかった。
 緊張した面持ちのレネとジークリンデが、聖堂の祭壇を昇って行く。それぞれに油断できない状況を抱えているが、二人は幸せそうだった。ソフィアが言ったように、その姿は見ている者の胸の内へ希望を投げかけた。レネが最前線で戦う勇士であるからこそ、今日という日は明日へと続いているのだと、思わせる。
 壇上にはソフィアが待ち受けていて、二人を微笑みで迎えた。両手をさしのべる姿は神々しいまでの優しさに満ちていて、まったく瑕疵のない聖女のようだった。
 ソフィアの透き通った声が朗々と響く。
「人は隻翼しか持たない欠けた存在です。それは、神が望んで定めたことです。ひとりで飛べる者は驕りますが、手と手を取りあわない限り二つの翼を持てない私たち人間は、驕るところがないのです。神が私たちの心の中に根づくものであるのならば、畢竟、私たち自身が望んだことなのかもしれません。
 レネ、ジークリンデ」
 名を呼びながら、ソフィアは二人の顔を見た。
「これから長い間、あなたがたがそうして二つの翼で飛び続けることが出来ますように。己の翼だけでなく、伴侶の翼をもって天駆けてゆきますように。私はあなたがたにそう望みます」
 誓いを求めるソフィアの言葉に、二人は厳粛な面持ちで頷いた。ソフィアの前に膝をつき、誓言を果たすと儀式は終りだった。簡素なものだったが、それだけに胸を打つ。
 誓った弟の姿を見ていると、ロニの胸は誇らしさに満ちた。決して不安など感じない。そうだというのに、ボレアスの言葉をきっかけにアンドヴァリが動かなくなってしまったのが不思議だった。レネその人からではなく、まったくの他人から与えられた情報で心をかき乱されるなど、おかしな話ではないか。レネを信頼していないわけではない。むしろ、妻となったジークリンデと並んでいるレネの姿を見てさえ、彼は自分のものだ、と思う。では、どうしてアンドヴァリは動かないのだろう。
(都合よく使っていると思いこんでいたのは僕のほうだっていうことか。本当は、あれはそんなものではないというのか?)
 ようやく聖堂の扉が開かれ、その前に広がる広場へとむけて、レネとジークリンデは歩いていった。祝福された二人の姿が見たいと、押し寄せて来た人びとが待っている。讃美歌が二人と共に街へむけて流れ出した。
 美しく装った花嫁と花婿が姿を現わすと、聖堂の前で待ち続けていた観衆から、喝采が送られた。
 参列者もみな、それぞれに花嫁たちを追って聖堂の扉をくぐってゆく。
 人びとから祝福を受けて、レネは気恥ずかしそうに笑っていた。ジークリンデはいつも頑なで几帳面な修道女らしい顔をしているのだが、今日は違った。希望そのものが彼女の胸に宿っている。それは新しい時代を予感させた。
 ソフィアがとりはからうまでもなく、ボレアスが企むまでもなく、新しい時代にソフィアやロニら、いま表舞台に立っている人間たちは必要ないのかもしれない。戦いが終わったとき、本当にあるべきなのは超越した聖女ではなく、血塗られた英雄でもなく、その傍で戦い続けて来た誠実な人間たちなのかもしれない。
(まあ、僕はいち早く最前線から引きずりおろされるのかもしれないけど)
 戦いを已めるつもりはない。だが、アンドヴァリが使えない以上、戦い方は変える必要があった。それは決して諦念ではなく、ロニにとって、冷静な判断だった。ギア・バーラーが動かせなくなったばかりのときには彼も焦りを感じたが、所詮ギアはギアだ。乗る人間がいなければ動かないもので、却って操縦者は、他にいくらでも戦う手段がある。道はひとつではないのだ。
 ロニは醒めた目で人波を眺めていた。人びとは熱狂し、レネとジークリンデに我先にと手を振っている。ソフィアに陶酔しているのとはわけが違う。ソフィアは静かに包み、見る者を耽溺させる。この式はそうではなかった。祭りのようなもので、たとえニサンの神とソフィアを信仰しない者でも、胸を昂ぶらせて笑っている。
 それがソフィアの与えたい希望だった。
 ロニには違和感が拭えないが、人びとは満ち足りている。
 レネはジークリンデと手を繋ぎ、人びとの歓喜の声に応えていたが、あたりを見回してロニの姿を見つけたとき、やおら目を見開き、大きな声で叫んだ。
「兄貴!」
 いきなり呼ばれたロニも眼を見張る。張りつめた声は警告を意味していた。我に返るが、気づくのが遅すぎた。人ごみで、怪しい気配を感じにくかったのだろう。不審な人影は既にロニに迫っていた。人波に押されながらも、殺意だけは確実にロニにむけられている。
 レネの声が聞こえてから、僅かな間の出来事だった。ロニと殺意の間に立ったラーヘルの身体が、アリフィをかばうように崩れる。血に濡れた短刀が見えて、だれかが悲鳴を上げた。ロニは押し倒されたアリフィの身体を、近くにいる修道女たちがいるあたりへと突き飛ばし、抜剣しようとしたが、人の多さにためらった。騒ぎが大きくなってもいないのに、こんなところで剣を振り回すわけにはいかない。
 とっさにボレアスのいるあたりを振り返った。白銀の髪のシェバト王太子は、だれもが喜び、笑っている中にあって静かだった。ただ、殺意だけが迸りそうなほど双眸に溢れている。
 ボレアスはロニから視線を逸らすと、人びとを見据えて一歩前に出ようとした。しかしゼファーに袖を掴まれて果たせない。慌てたように彼はゼファーを振りほどこうともめ始める。ボレアスがなにかをしようとしているのは確かだった。なんだか知らないが、果たさせるわけにはいかない。下手人を捕まえるのと、ボレアスを止めるのとどちらを優先するべきかロニは迷った。
 ラーヘルを刺して身を翻した下手人は、人ごみの中にまぎれるかと見えたが、僧兵隊長が影のように男に近づいて、取り押さえた。いままでどこにいたのか、気配さえ殺していたようだ。カレルレンは男を路面にねじ伏せる。あまりにも音もなく滑らかになされ、周囲の人びとは手品でも見たように目を丸くしている。
「何者だ、貴様」
 カレルレンの冷たい誰何の声に、男は歯軋りで応えた。
 レネはいまにもロニの傍らに駆けつけんばかりだったが、ジークリンデが耳打ちをすると、なにごともなかったように笑って観衆のほうをむく。それがレネのいま果たさなくてはいけない役目だった。人垣に邪魔され、ほとんどの人間には、なにがあったのかわからないだろう。レネとジークリンデが人目をひきつけたために、ボレアスは前に出る契機を失い、困惑している。
 ロニはカレルレンのところへ行こうとして、修道女に手を引かれてふりむいた。
「奥様が」
 そう言われてようやく、ラーヘルのことに思い至った。カレルレンがこちらを見て、視線でロニを促す。ロニはかろうじて踏みとどまり、横たわるラーヘルの傍に立った。
 修道女たちは泣き濡れて、倒れ伏したラーヘルの裳裾がめくれているのをなおしてやっていた。ラーヘルが纏う白い巡礼衣裳は、血を吸いこんで朱に染まっている。ロニは抱きあげて確かめてみたものの、既に事切れていた。
 アリフィは修道女に抱えられながら立ち尽くしている。泣いてはいなかった。あまりにも唐突なことで、なにが起きたのかわかっていないのかもしれない。
 カレルレンは下手人を部下に引き渡すとロニの傍にやって来た。ロニは暗い顔をした彼を見あげ、小声でささやく。
「ボレアスだ」
「どうしてそう言える?」
「あの男よりボレアスの方が、僕を殺したそうな顔をしていたんだ」
 冗談ともつかない口調でそう言うと、カレルレンは顔を歪めた。
「おまえ……」
 それから頭を振って、僧兵隊長は強い口調で告げた。
「あの男のことは私に任せておけ。明日までにははっきりさせてやる」
 カレルレンはこの上もなく酷薄な顔で、ロニに請けあった。
「ああ、頼む」
 ロニもラーヘルの亡骸を僧兵たちに委ねてしまうと、アリフィの手を引いて立ちあがった。
「行こう」
「どこへ行くの、とうさま」
 アリフィは運ばれてゆく母親を見凝めながら、そう返事した。ぼんやりと見開かれた碧い目を見つつ、ロニは言う。
「もう彼女は行ってしまったよ」
 希望に満ちた人びとはそれにも気がつくことなく、レネとジークリンデへの祝福はいつまでも続いていた。
 カレルレンが地下牢から上がり、牢番に声をかけつつ小屋を出ると、松明の下にいる数人の人影が眼に入った。いずれも厳しい表情で、言葉もなく、立ち尽くしている。その殺伐とした空気は戦場の兵士のものだった。今日はっきりしたのはそういうことだ――彼らが戦っている戦争は総力戦で、最前線でないとはいえニサンでさえも戦場なのだ。ありとあらゆる場所が戦場であるように、ありとあらゆる人間が敵にも味方にもなる。そういう戦いだった。
 ロニ・ファティマはその中から歩み出てカレルレンに声をかけた。彼はいつも一人でふらりと姿を現わすのだが、今日ばかりは護衛をつけて来たようだった。護衛はしばらくの距離を置いて、歩き出したロニとカレルレンの後をついて来た。
「珍しいな、護衛つきか」
「さすがにね。人をつけないと艦を出さないと言われちゃあ」
 ロニの様子は普段と変わりがなかった。それがむしろ奇妙だ。死んだのは彼の妻だというのに、心を乱したようでもなく、軽く笑ってみせる。
「ラーヘルは?」
「ラバーンに引き渡したよ。アリフィは艦にいる。丁度いいから、このままニサンに置いておきたい。ソフィアにそう言っておいてくれないか」
「ああ、わかった」
 ラーヘルのことに言及しても、ロニはそのままだ。カレルレンは頷いてから、これまでにわかったことを話しだした。
「やはりボレアスの指示のようだ」
「吐いたのかい」
「口は割ってない。思ったより強情だ。少なくともシェバト人でない。出身がどこかは定かじゃないが、イグニス大陸の人間であることは間違いないだろう。だが通信機を持っていた」
「通信機?」
「ああ。チャネルはいじってあるからだれと通信するのに使っていたのかはわからないが、地上の機械じゃない。シェバトの仕様だ。シェバト製の通信機を使っているからといって即断は出来ないが、あんまり普通の人間が持っているものじゃないな」
 ロニの艦隊で使用している通信設備もシェバトのものだ。しかし、あくまでもシェバトに船籍を置き、交渉した上で得たものだった。
 尋問は、僧兵隊長であるカレルレンが自ら行っていた。カレルレンは僧兵隊にいるだれよりもその技術に長けていたからだ。残酷に苦痛を与えつつ、助かるかもしれないという希望を決して捨てさせないのが、拷問にもっとも求められることだった。命に関わる傷を与えてはいけない。そういう傷は、受けた本人にもわかり、命が助からないとなれば、彼らはいっそう頑なになってしまう。しかし、言ってしまえば助かる、生きられるとなれば、揺らぐ。彼らは苦痛から逃れるために口を割るのではない。生き延びたいから、口を割るのだ。片目を潰され、指を切り落とされようと、心臓が動いていれば生きる希望は残っている。それに負けてしまうのは、人間にはどうしようもない衝動だ。生存への欲求は、なによりも強い。
 ボレアスは既にシェバトに帰還してしまっていた。どんな危険があるかわからないという言い訳だったが、いっそすがすがしいほど明らかだ。
「雇われた、か」
「ただの雇われではないだろう。そうだとしたら、とっくに口を割っているはずだ」
「シェバトが地上の人間を懐柔している、ということか?」
「イグニスで活動するのに手足として使っていたおまえが利用できなくなったんだ。シェバトの軍隊を動かすには大所帯過ぎてやりにくいのだろう。とすれば、ファティマの代わりを捕まえていたとしても不思議じゃない」
「コバンザメはいつだって事欠かない、か」
「シェバトにとっても、そのコバンザメにしてもな。だれもがおまえのように強いわけじゃない。我々がソラリスに殲滅されるようなことになっても、シェバトならば、助けてくれると思うのだろう。ましてやそのとき、おまえが独占している利益を一手に獲得できるのだから、悪い話じゃない」
 そう言うと、ロニは肩を竦めた。
「僕が、強い? カレル、君にはそう見えているのかい」
 やおらロニが言い出したことに、カレルレンは眉をひそめた。ロニの態度が唐突に変わったことに、カレルレンは不安を抱く。あんなことがあって普通でいられるはずがないのはわかるのだが、思えば、ロニの様子がおかしいのは三日前からだった。ラーヘルの死がロニを揺さぶっているのではない。
 始まりはアンドヴァリが動かなくなってしまったことだ。カレルレンはギア・バーラーとなったアンフィスバエナに乗っているから、ありきたりの問題で生じた事態だとは思っていない。だからこそ気にしていたのだが、ロニはその原因をつかませなかった。
「おまえ、大丈夫なのか」
「多少、気は立ってるけど、問題はないよ。それで、カレル。僕の質問に答えてくれないかな」
 ロニがなにを求めているのかカレルレンにはわからなかった。だがロニ・ファティマにしては珍しく、眩しいほどの傲慢さが、消え失せていた。
「強いだろう。この苛酷な時代の中で、おまえのように、自らの足で雄々しく立ちあがることの出来る人間ばかりだったら、ソフィアなど必要ない。ソラリスに手を届かせるのも造作ないだろう。時々、おまえを見ていると、うしろを振り返ってみろと言いたくなるときがある。振り返っておまえの背後にいる人間たちを見てみろ、と。おまえは振りむかない。省みない。だが、だれもがおまえのように抗えるわけじゃない」
 しかしロニはゆっくりと首を振った。金色の髪が揺れて、カレルレンの視界に光を残す。
「僕は弱いよ、カレル」
 ロニはやや足を速める。到底いつもは見せない顔で、口を開いた。
「僕が強く見えるのは、僕の傍にレネがいるからだ。もう何年も前のことだけれど、親父が死んだときには途方にくれた。なにがって言うわけじゃない。僕は商人として父から独立していたし、反ソラリス組織をブレイダブリクで作りつつあった。けど、父が死んだときは途方にくれた。急に、どうすればいいかわからなくなった。そんなときにレネに出会った。兄弟といっても母親が違うし、商人になるために育てられた僕と違って、レネはごく伸びやかに育てられた。似てるところなんて全然ない。ただこの目の色と、同じ色をした石だけが、僕らを兄弟だと言わしめるだけだった。これは僕とレネが兄弟であるということの証だ」
 そう言いながら、ロニは胸に提げた碧玉のペンダントを握った。
「僕はレネを連れ出した。僕はひとりでは駄目だと思ったからだ。レネがいれば違う。僕を支えるのにうってつけの人間だった。まるで僕のために用意されたような存在だった。平穏に暮らしているレネを、僕が戦いの中に引きずり出したんだ。……僕が出来ないことはレネが手を回してくれる。僕の罪をレネが許してくれる。……だからこそ、僕にはレネが必要で、レネがいてくれる限りは強くいられる」
 ロニは一度言葉を切り、空を見あげた。
「僕に必要なのはレネだけだ」
「ロニ。……」
 つまり、ラーヘルの死すら彼の弱さには関係がないということなのだろう。なにを言ってやろうかとカレルレンは悩んだが、その結論を出す前に、ロニが口を開いた。
「カレル、頼みがあるんだ」
「なんだ?」
 ロニは背後にある牢屋を振り返りながら、続けた。
「殺してしまってくれないか。下手な拷問をしてしまったふうに装って。だれが命じたのか僕らにはわかっていることだし、むしろ明らかにしてはいけないだろう」
 凶行がボレアスによる指示であることを明確にしてしまえば、ロニはそれなりの行動をしなければならなくなる。妻の死を放置するようなことは、パフォーマンスを重視するロニには出来ない。結果としてシェバトとの関係は悪化するだろう。放っておいてもまずい。シェバトに甘く見られてしまうわけにもいかないからだ。しかし、だれがさせたことなのかわからないとなれば、ロニが行動を起こさないことも不自然ではない。いかに疑わしくとも、灰色は、黒ではないのだ。
 カレルレンはいいのだな、と念を押すことはしなかった。彼の立場を考えればなにもすることが出来ないから望んでいないのだし、かといってラーヘルの死に憤懣やるかたない思いを抱いているわけではないのだと、いまの話でしたも同然だった。
「汚れた仕事を君に押しつけてすまないけど」
 あたりは暗かったが、ロニの瞳が真摯にカレルレンを見凝めているのはわかった。碧い瞳は深く、だというのに高い透明度を保ってじっとカレルレンを見ている。
「構わない」
 彼がそう応えると、ロニは瞬きをして、それから顔を逸らした。
「ありがとう」
 ロニは踵を返してカレルレンから離れようとしたが、カレルレンは手を伸ばして彼を引き止めた。
「ロニ」
「なんだい? なにか不都合があるのか?」
「そうじゃない。ついでに私の話を聞いて行け」
「……なんだよ」
「私がなぜジークリンデの結婚に反対したのか、わかっているか?」
「散々話をして来たじゃないか」
「ああ、僧兵隊長としての私の立場でして来た。無論、嘘は言ってない。だが方便だ」
 カレルレンはロニの目をまっすぐに見凝めて、続けた。
「ソフィアのためだ」
「そんなことはわかってる」
「ジークリンデがソフィアのことをないがしろにするなどと私も思っていない。ジークリンデはゼファーのように『ソフィア』の思想や人柄にひかれて傍にいるわけではないのだからな。ソフィアの傍にいたのは私よりもジークリンデの方が長い。幼い頃のソフィアはときに獣のような狂気の発作を起こしたが、それも見て来た。そのジークリンデが、恋ごときでソフィアを捨てる? レネには悪いが、ありえない。ジークリンデは大人しい娘だが、ソフィアのためだけには牙をむくことが出来る。
 私が反対したのは、本当はそんな理由じゃない。
 ソフィアはソラリスとの戦いのために自分の人間性を犠牲にしている。もちろん、初めはそうではなかった。彼女が教母になったのは、なによりも、彼女自身が生き延びるためで、教母に起つことは、彼女が人間として、一人の少女として生きるために、そのときは最善の道だったのだ。だが間違いだった。いま、ソフィアは恋をしている。……ラカンと。ニサンの教母は完全な世襲ではないが、先代の娘が受け継ぐこともあるような座だから、ソフィアがラカンを夫にしても、本当は構わないはずなのだ。いいや、むしろそうすることが現在の最善の道なのだ! 彼女の想いも、彼女の立場も、そうすることで護られる。
 だが問題はソフィアの想いなのだ。ソフィアはニサンの教母としてではなく、過去、ラカンと過ごした少女時代の自分のままラカンを愛している。なぜソフィアのままラカンを愛することが出来ないのか? 問い詰めても彼女にもわからないのだろうな。
 彼女がラカンの手を取ることは、『ソフィア』を否定し彼女がエリィに戻るということに他ならない。しかし、それがいま許されるのか? ソフィアが消えることは、もはや許されない。この戦いが終わるまで、ソフィアはソフィアでいなくてはいけない。ラカンがどうすればいいのかわからないのももっともだ。ソフィアの望むままに愛を受け入れれば、ソフィアを教母からひきずりおろすことになる。かといってソフィアのまま愛するには、ソフィアは当たり前の女ではない。自分では否定するが、あれは教母ではなくて、聖女なのだ。育てて来た私が言うのもおかしいが、あれは人間ではない。
 だからこそだれもソフィアを助け出せない。ソフィアは高処に昇りつめ、一歩も下がることは出来ないし、新しく足を踏み出す場所もない。皮肉な話だ、私は彼女が一人の人間として、魂を持つ人間として生きるためにすべてをなげうって来たのだが、いまや、あの頃彼女を白い壁の修道院に閉じこめていたやつらと同じことをしている。これはソフィアが選んだことだが、やはりとじこめているのは我々なのだ。わたしやつらではないのにいつの間にか入れ替わっている。ソフィアに対する思いはやつらとは決して同じになるはずはないというのに、ある意味では同じになっているのだ。ジークリンデは私と同じだ。我々はあの白い修道院からソフィアを解き放ったが、いまは聖堂の上にあるあの空っぽの祈りの間に閉じこめている。なのにジークリンデは自らの立場を変えるというのか。それこそやつらと同じではないか。われわれやつらと同じことしか出来ないのなら、どうしてソフィアがここで生き延びられる? だから私は反対した。彼女を解き放つことが出来ないというのに、ジークリンデはレネと約束をするというのか? ソフィアの目の前で? それはしてはならないことだ」
「けどソフィア自身が許した。……」
「ソフィアは望んで教母になった。そして望んで地上のために起った。それは真実だ。だがラカンが現れてすべてが変わったのだ。もしかするとジークリンデはソフィアを解き放とうとしているのかもしれない。だから敢えてやつらと同じことをしようとしているのか? ニサンのことも、地上の自由も省みずに思うままに生き延びよと願っているのか? だとすれば、この戦いに必要だからという理由でソフィアを解き放つことが出来ないのは私のエゴなのだろう。私はもうあの夜のようにソフィアの救い手にはなれない」
 そう言って、カレルレンはロニを見た。
「私の話はそれだけだ」
 ロニはなにも言わなかったし、カレルレンもなにか言われることは望まなかった。ただ、ロニが告げた先ほどの話に、返す言葉はそれしかないと思って話したまでだった。ロニは無言で踵を返そうとして、思いついたことを振り払いきれないとでもいうようにカレルレンを見た。そして低い声で尋ねた。
「それは、君がアンフィスバエナのコックピットで耳にすることなのか?」
「なに?」
「いや、いいんだ。……ありがとう」
 ロニは部下たちのもとに歩いて行った。カレルレンは立ち尽くして見送っていたが、ロニは再びこちらをむいて手を振った。
「それじゃあ、カレルレン僧兵隊長。おやすみ」
「ああ」
 カレルレンはそのまま牢へと戻った。例の下手人を始末するのであれは夜のうちがいい。カレルレンは牢番になにも言わず階段を降っていった。降るにつれて階段は湿り気を帯び、堪え難いすえたにおいが強くなる。僧兵の青い外套を翻し、表情を崩すことなく件の男が入れられている牢の前に立った。
 扉を叩くと、中で監視している僧兵がのぞき窓からカレルレンを確かめ、扉を開けた。
「どうかされましたか。いまはすっかり気を失っていますが」
「することがある。外へ出ていろ」
 その言葉だけで僧兵隊長がなにをしようとしているのかわかったのだろう。僧兵ははっとして、だが即座に従った。出て行くときにすれ違いざま、カレルレンが「他言無用で頼む」と言うと、僧兵はニサンの礼式を取って厳格な僧兵隊長にむかって頷いた。
「誓って」
 階段を登っていく足音がすっかり消えてしまってから、カレルレンは屈みこんだ。粗末な藁じきの上に横たえられてぐったりとしている男は、眠っているのではなく、意識を失っていた。これならば苦痛もなく死ねるだろう。カレルレンは袖口から暗器を取り出しててのひらに握りこむと、男の膝裏に突き刺した。意識のない男はわずかに体を動かしたが、目は覚まさない。暗器を引き抜くと、傷口からはどす黒い血が流れ出した。それはあっという間に、彼の体の下に引かれた藁を濡らして行く。太い血の筋を確実に切り裂いたはずだった。カレルレンは溢れた血の行く末を見届けるまでもなく、暗器をぬぐうと牢を出た。朝までにはあの傷からの失血で死んでいるだろう。
 カレルレンは階上まで上がる。牢番はカレルレンがしたことには気がついていないようだった。彼はいかめしい顔で立ち尽くしている僧兵の肩を叩く。
「朝まで頼む」
「はい」
 部下が頷いてまた階下へ降りていくのを見送ると、彼は再び外へと出て、今度こそまっすぐに聖堂へと歩き出した。
 ロニはニサンで借り受けている家ではなく、自艦へと戻った。立ち入る人間が限られる艦に戻れば、さすがに一人になれる。人払いをした彼は、ギアドックへむかった。赤いアンドヴァリは相変わらず佇み続けている。ここに自分が立っているのは、アンドヴァリに乗れなくなってしまったことへの未練だろうかと思い、彼は苦笑した。
 式典の騒ぎが済んだら、アンドヴァリに乗るようにとレネに言わなければならないだろう。いくらなんでも、眠らせてしまうわけにはいかないギアだ。
 人の気配を感じて振り返ると、背後にアリフィが立っていた。
「とうさま」
「寝ていなかったのか」
「とうさまは眠らないの?」
「とうさまももう休むよ」
 まだ幼い子どもにまで心配されるとは、ロニ・ファティマも焼きが回ったものだと思いつつ、彼は一人息子を抱きあげた。アリフィの瞳の色はロニと同じ、深い碧だ。アリフィは父の顔を見ずに、赤い巨躯のギア・バーラーを見あげた。
「とうさま、あれがとうさまのギアなんでしょう」
「ああ、そうだった」
 とうに手放した口調でロニは言ったが、アリフィは気がつかなかった。無邪気な顔で頬を高潮させる。
「とうさま、わがままを言ってもいい? 僕、あれに乗ってみたい」
「いいよ」
 ロニはアリフィを降ろして、手を引いてコックピットに傍まで上がった。巨人の姿をしたギアに、アリフィは飲まれたように見入っていた。
 ロニはふと、アリフィはこのギアを動かせるのではないか、と思い至った。ロニの父が「アニマの器」に同調し、その息子であるロニとレネもこれを動かせた。そうだとしたら、ロニの血を引くアリフィも動かせておかしくない。
 それは打算だったわけではない。アリフィに動かせたところで、こんな幼い子どもを戦場に連れて行く気はなかった。ただ、戦いはずっと続くだろうから、長じてこの子はエル・アンドヴァリを駆ることになるのだろうと思っただけだ。
 それを確かめておくのも悪くない。
 ロニはハッチを開いて中に入ると、アリフィを膝の間に座らせる。入ったときからアリフィは明らかに様子がおかしかった。真っ暗なコックピットの中で、天井を見凝め、ぼんやりと口を開いていた。なにかが、聞こえているのだ。そう思った瞬間、ロニの背中にどっと汗が湧いた。まだ幼い子どもをここに入れるのは早過ぎたのではないか。子どもの精神が、あの声に耐えられるとは限らないのを失念していた。
「アリフィ」
 思わず名を呼ぶと、息子は背筋の凍る言葉を口にした。
「とうさま、かあさまの声が聞こえる」
(ラーヘル)
 途端にロニの耳にも歌が聞こえた。大音量で頭の中に滔々と響く、女の声だった。ロニにはラーヘルの声には聞こえなかったが、かつて聞いたことのある女の声だ。だがだれの声なのかは、思い出せない。

 ――彼女の血は私の血の中に流れこみ――

 同時に真っ暗だったコックピットは瞬間に覚醒してすべてのパネルが点灯し、ジェネレータはうなりを上げて、その音がアンドヴァリの咆哮のように、獰猛にギアドックに響き渡った。さすがに動きださなかったが、ロニは困惑した。アンドヴァリはロニに反応しているのか、それともアリフィに反応しているのか。
 以前はぼんやりとしたささやきだった声は、うるさいほどの大音声で頭の中に響き渡っている。耳に聞こえている音ではないのに、鼓膜が破れそうな轟音だった。そのせいで現実の音はなにも聞こえないくらいだ。体の中に勝手に入りこんで、内側から肉体と魂を食い荒らそうとするようなざわめきに、ロニは顔を大きくしかめて、歯を食いしばった。
(やめろ、黙れ――)

 ――彼女の声は私の声の中で歌う――

 彼は碧玉を強く握りしめ、声を拒んだ。ギア・バーラーがいかに彼に力を与えようと、いかに安らぎを与えようと、従うつもりはなかった。力を与えてくれるからという理由だけで、言いなりになるつもりなどなかった。そんなものに這いつくばらなければ勝てないというのなら、素手で戦って死ぬほうがましだ。これがなければ勝ち進めないというのであっても、そのために屈することは出来ない。そのために魂は売らない。
 ロニが望むものは自由だった。ソラリスという国家機能であれ、ギア・バーラーや「アニマの器」という形而上に関わるものであれ、彼はいかなるものにも膝を折るつもりはなかった。
 だが声はますます高まり、ロニに魂を差し出すことを要求する。しかし負けるわけにはいかなかった。負けるような人間にレネをついて行かせるわけにはいかない。
(黙れ、僕をどこに引きずりこみたいんだ。暗闇の中か? 僕はそんなものに価値を認めない。それが本当に僕の求めているものだとしても、僕は認めない。僕が望むのは自由だ。なにものからも自由であることだ。黙れ、僕がこんな声を聞くと思うのか。僕がこの声に屈すると思うのか。すべての軛から自由になるためなら、たとえどんなものでも、薙ぎ払ってやる。おまえは道具であって、僕に欠くべからざる存在じゃない。僕にとって欠くべからざる存在はレネだけだ。
 僕らが為すことをおまえは見たくないのか。僕ら兄弟がこの手で為すことを! 砂漠の中の一粒の砂でしかない僕らが! 見たくないのであれば構わない。すべてを焼き尽くすのと一緒におまえも焼き払ってやる。冥府で見たいのであれば好きなだけがなりたてろ。いくらでも!)
 ふっと、耳を聾するような声は消えうせた。とはいえ、まったくなくなったわけではない。かつてのようなあの僅かなささやき声は、残っていた。コックピットの感触は、乗りなれたアンドヴァリのものだ。意識の中では、薄い紗幕のむこうに暗い闇が広がっているが、ロニはこちら側に踏みとどまっていた。
「とうさま?」
「……大丈夫だよ、アリフィ」
 暑くもないのに汗を垂らし、息を乱した父親を、アリフィは心配そうに見あげている。アリフィに変調はないようだった。その目は澄んだまま、もう声のこともなにも言わない。「アニマの器」はまだアリフィを同調者に選ばなかったのだろう。
 ロニは用心しながら思考イメージを作りあげ、アンドヴァリがその通りに制御できるのを確かめた。問題はないように感じる。
 コックピットを出ると、レネがいた。青ざめた顔で、ギアから降りて来るロニたちを見ていた。レネのほうが余程参っているようだった。
「兄貴」
「馬鹿だな、来たのか。花嫁が怒るぞ」
 レネは首を振り、うつむいて低い声で呟いた。
「ラーヘルのこと……」
 自責の念に耐えかねてここに来た、というのだろうか。ロニはかすかに微笑みながら、言葉を無くした弟の前に立った。うなだれるレネの視界には、大きな瞳で見あげるアリフィの姿が映っているはずだった。
「俺は、肝心なときに兄貴の隣にいなかった」
「僕が刺されたわけじゃない。だから、今夜くらいはジークリンデの隣にいてあげないか。明日からは違うんだから!
 さあアリフィ、おじさまにお休みをいいなさい」
「おやすみなさい、レネおじさま」
「ああ、お休み、アリフィ」
 それからレネはようやく顔を上げて、ギアを見た。
「アンドヴァリは動いたんだな」
「ああ、動かした」
「動かした?」
 ロニはにやりと笑う。
「僕だけの力じゃない。レネ、おまえのおかげだよ」
「どうして」
「内緒だよ」
 レネに説明をする必要はないことだった。細かいことを言わなくても、どのみち、彼は理解してくれるはずだ。
 ため息をつきながらエル・アンドヴァリを仰ぐレネの胸にも、碧玉のペンダントが揺れていた。その碧玉の輝きがあればこそ、わかりあうことも出来るのだ。





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