波の中に入ってしまうと、音は聞こえないものだった。音も波から出来ている、なにもかもが波の中から。……
その波の中は音もなく、光もなく、にもかかわらず、存在ということそれだけは在り続ける。彼女と自分以外のなにもかもがこの原初の混沌の中に溶けこんでいるのに、不思議だ。溶けかけてはいるけれど完全にはなくなっていない。境界は曖昧になって来ているが、その混沌を満たす万歓は心の奥底まで届いてこない。
宇宙がはじまる前は、ただこういう混沌があっただけなのだろう。存在のない歓喜。存在することはそれだけで既に悲劇だが、この淀みにあるのは、そこから解放された歓喜だ。だからまだ、存在を保ち続ける自分にその歓びは知れない。……
はじめの泥濘とこれが違うのは、歓喜、それだけだろう。なにもなかった原始に、この解放された歓びがあったはずはない。この幸福は、存在を持つ者にとっての幸福であって、存在のない者にはそれすらも存在しないのだから。
――そうでしょう。
問いかけると彼女はこう返した。
――なんて悲しいの。
彼女は悲しみに満ちている。彼女は存在の中の存在、ありとあらゆる有象の母。
――ああこの苦しみは、私が生み出したことから来る苦しみなのね、最初からこの世界になにもなければよかったのに。そうすればあなたも苦しまなかったのに、ごめんなさい、あなたを産んで。
カレルは応えなかった。歓喜が心の底に届かないから、本当に存在が自分にとって苦でしかなかったのかもわからなかった。
――ごめんなさい。
いつまでも勝手な女だと彼は思った。勝手に産んでそして捨てて、今度は許しを請うなんて身勝手にもほどがある。
許し方などわからなかった。彼女はカレルに許されることを望んでいたが、許すつもりもない。許す許さないなど、今更のことでしかない。
もうここは、そんなことを言うような場所ではないのだ。問いかけのすべてが無意味なのだ。彼女のことも、自分のことも、そのすべてがどこかに蓄積された記憶情報に過ぎず、それは多分いずれ溶解して無くなるデータだろう。
もはや怒りはほんのすこしだけしかなかった。怒りを失ったことは、彼女をもう愛していないということだった。……そう、区別はやはり曖昧になって来ている。彼女と自分との境界が溶けかけて来ているからだ。
記憶が流れこむ。記憶というにはもううやむやになってしまった記憶、それは夢と呼ぶべきだった。
――女神は……愛し……けれど心……
――……んず……内在の神の……告白
――神は人を不完全……
――…フィア様。
思い出しているのは、彼女なのだろうか。自分ではなくて。
――智と慈愛の代弁者、聖女ソフィア。
呼ばれる。夢が揺らぎ、思いが揺れた。そして在りし日の彼らが見えた。ニサン聖堂を迷いなく、確たる足取りで祭壇へと歩んでいくソフィア。危険すぎる試みだった。閉じた聖所の中であってさえ、いやむしろだからこそ、謀殺される可能性は五分五分だった……たとえその聖堂の周囲をカレルレンたち僧兵隊勢力が取り囲み、長老たちを威嚇していたとしてもだ。
だがソフィアは行った。そして長老たちは彼女がニサンの頂点に立つことを赦した。
彼女の後を追ってカレルレンたちが聖堂へなだれこむと、すでに彼女は祭壇に立っていた。そして高処から彼らを見下ろした。
――わたしはソフィア。今これよりニサンの教母としてこの地を治めます。それが選択であったはずです。……あなたがたの、選択です。わたしたちが、皆ながら生き延びるための。
ソフィアは長老たちを順に見凝め、その視線の元にひれ伏させた。最後にその瞳は僧兵たちへ注がれる。彼女の昂揚した鼓動が聞こえた(……たぶん揺らぎのせいだ、実際にその場で聞こえるはずはない)。そしてカレルレンの鼓動もまた、ソフィアとまったく同じように昂揚し、時を打っていた。カレルレンは真っ先に跪き、すべての僧兵がそれに倣った。
あのときは心臓の鼓動こそが生きている証しで時の中を老いていく徴だった。いつからだろう、彼女も自分も時が無意味であることに気が付いたのは、時があるからこそ彼らは逸り、戦い、死んだと言うのに。
ソフィアは昂揚のままに言った。
――カレルレン、あなたを僧兵隊長として任命いたします。以後、このニサンの護りはあなたが司られますよう。
――謹んでお受けいたします。
ソフィアはまだ稚さの残る顔で微笑んだ。美しく力に満ちた聖母はあまりに理想に適う。
ソフィアは多分、だれよりも完璧な教母だった。
その日を境に、カレルレンは永遠に彼女を名前で呼ばなかった。エレハイムという彼女の名前すら、彼は忘れた。
それはひとつの不自由だった。だが、安い代償だとソフィアもカレルレンも知っている。
主体を客体に投げかける瞬間、客体は内在のものと知れる。神の名のもとに、ソフィアとカレルレンはそういうふうに、世界に復讐をはじめた。彼らは慈愛と正義を手段にもとめたが、それでも復讐であることに変わりはなかった。
二人とも、この人間の世界に棄てられた子供だった。
二人を見捨てなかったのは神だった……だから彼らは冷酷な人間たちに、世界を救うことによって復讐したのだ。神の意志は人間のそれを超越すると信じて。
揺らぎの中で彼女の姿が遠のいた。カレルレンが見上げると彼女は、聖壇の上で微笑んで、消えた。
――わたしは足掻いたわ……
眠りながら、泣き濡れる彼女の声が聞こえる。彼女も、今の光景を見たに違いない。
――わたしは、わたしであることにずっと足掻いたわ……
闇が溶ける。
――それでもあなたは、憎まなかった。
彼は言った。
――あなたは、自分を憎むことは決してしなかった。
――あなたはあなたを憎んでいるのね、とても深く。この世のだれよりも。
彼の言葉は正しく、彼女の言葉もまた正しかった。それが二人の復讐者の違いだったのだろう。そうして二人はここにいる。彼女が己を憎み、彼が己を憎まなかったらこうしていることはなかったはずだ(そうしたら世界は救われていただろうか、さて?)
また闇がさざめいた。
この闇は今や溶けかけ融和しつつ、彼らの心そのものとなりつつある。だからこそこんなにも脆く弱く揺らぐのだ。
――……閣下。
――ソイレ……
――…同調………つわ…
――アの調整は至極順調…母体……
一人の男が目の前に立っている。ソラリスの軍部高官の紋章を肩にした、金髪の男だ。胸には数々の勲章=虐殺の証しが煌いている。まだ若い。無機質なソラリスの護民官執務室に立つにはふさわしく、有能そうな、それでいて見目のいい男だった。ソラリス選民、生粋の第一級市民――血統書付きだ。
彼は蒼い目をまっすぐにカレルレンにむけ、報告を読み上げる口調も冷たくて鋭利だ。
――以上です。なにかございますか。
カレルレンはその報告に満足して、なにもない、と告げた。
――ところで。
――なんでしょう。
話を変えた上官に、男は少し警戒を抱きつつ応える。そんなとき、若い男の口元が少し歪むことを、彼は知っている。それを気にして、男は後年、口元に美髯を生やすことになるのだった。それはあるいは時が経った証左でもある。老いとは時を刻んでいることなのだ。
――娘が生まれたそうだな。
――お聞き及びでしたか。……つまらぬことですが。
――なんと名前をつけた、ヴァン・ホーテン中佐?
――……エレハイムです。
その言葉一つでまた運命が回り始めるのを彼は感じた。
応える男の顔は浮かなかった。当たり前だ、一級市民同士の子供が有色人種の外見を持っているとは口が裂けても言えない。ましてや相手は護民官、悪名高いソイレントの主だ。妻は二度と子供を産めないと宣言されている……科学の力を持ってすれば、不妊などいかようにでも治せるかもしれないが、エーリッヒはその恐ろしさをも熟知していた。
男は気難しい顔で護民官を見た(そしてエーリッヒの目を通して自分の姿を視認し、カレルレンはエーリッヒ・ヴァン・ホーテンもまたこの混沌の中で思い出しているのだと知った……彼ももう死んだ、そしてこの波の中に)。護民官は笑っていた。その笑いにどうしようもない嫌悪を抱いて、中佐は暇の言葉もおざなりに部屋を出ていく。その鼓動はまた、エレハイムの情報が漏れているのではないか、という恐怖で高鳴っていた。
エーリッヒは自問する。
――なぜあの子はあんな姿で生まれたんだ。私もメディーナも、16等親まで完璧なソラリス人だと保証されているのに? どうして。メディーナが浮気をしたのか? いいや、彼女がどこで、三級市民に出会えるというんだ? そんな機会などこの国にはないではないか。ならどうして、エレハイムは?
それでも、たったひとりの娘を愛しいと思う気持ちは確かだった。
――エレハイム、この歪んだ国でおまえが幸福に生きてゆけるように。そのためならなんでもしよう、なんでもだ。
エーリッヒは赤い髪で生まれてきた娘のために祈っていた。その祈りはひどく真摯だ。その国では忘れられた敬謙な祈りに近かった。その響きは、だれかがだれかを思う心、その根底にあるものをただ純化して崇高に掲げたソフィアの祈りに似ていた。ソフィアは人々に、世界を救うことなど望むなと言ったのだ、ただおのれの愛する人を愛するように、自分と世界を愛せばいいと。どんな皮肉なのか、そのソフィアを弑殺した国に命を受けた軍将校が、その娘のために祈る想いがそれと同じで……そしてなおかつ、その娘はまたソフィアなのだ。
カレルレンは、娘を守ろうとするエーリッヒに、あるいはソイレントの悪行に目を背けたがったエーリッヒに(そう彼は、ただ、目を背けたがっただけだった。それも正しいのだろう、彼はこの国の特権階級で、そして軍人で、この国の強大さをよく理解していたから)、猶予を与えた。いまだ時は到っていない。だからそれまで彼は、エレハイムとソイレント=この国の存在そのものを中佐に預けたのだ。
けれどエーリッヒは、カレルレンの前に立つたびに娘を思って鼓動を高めるだけだった。恐怖こそその鼓動の正体だ。
エーリッヒ・ヴァン・ホーテンの想いが、鼓動が、時を揺らした。波がまた立ち、彼女の心にまで伝わる。
――パパ。愛してるわ……
彼女のとても幼い心がそうつぶやくのが聞こえた。
しかしその波も彼女の言葉もまた、混沌の中に薄らいでいき、暗い闇が二人をとりまいて静かだ。
――今の夢はだれの夢なんだ、あなたが想い出させたのか?
――いいえ、漣ははるか昔に立って今ここに至っただけ。
カレルレンは、彼女の否定を信じなかった。彼女はこの混沌の主だ。すべてを記憶する女神がどうして、その情報をいま見せたのか、想像するのは難くない。
辺りには、エーリッヒの祈りが浮遊していた。闇の中に、想いのしじまが引き潮に取り残された磯の海水のように、揺れていた。
――許せと言いたいのか?
あの男が父親として得体の知れぬ娘をそれでも限りない愛で包んでいたということを知らせて、だから自分がはるか昔に見捨てた子供に、その母親を許せと、そう言いたいのか?
――ごめんなさい。
そのことに触れると、彼女は決まってそう言うだけだった。
――ごめんなさい。
その言葉は、大きな揺らぎだった。はるか彼方まで、混沌の中を渡っていく……その揺り返しもまた大きく、それは彼女を揺らした。そしてこぼれたのは、罪だ。しぶきとなって罪が心を濡らした。それを感じた瞬間、カレルレンもまた、すさまじい痛みに襲われ、あまりのことになにかを防ぐこともできなかった。そもそも、溶けかけた境界がそれを許さなかったろうが。
カレルレンは彼女になりつつあった。それは彼が望んだ事ではなくて氷が溶けてすべての水が混ざり合うように、混沌の中に魂が溶けるのだ。
無数の魂がその個性を消失し、受け入れ受け入れられる。その、歓喜。罪もまた、犯されたものが犯したものとわかちあう。
――……レル…
――こ…売女め、神よ………まえ!
――………ルレ…
――……をたぶらかしたな…穢れ……
――愛して…る、わ、……。
もはや自分が首を絞めているのか締められているのか、そのいずれでもないのかわからなくなりつつある。ただ、教会の尖塔の上、聖地の高みで一人の女が首を絞められていた。も掻いて苦しみ、酸欠に顔を変色させた女の足元には眠る赤ん坊がいる。やがて死んだのか気を失ったのか女は、ぐったりと彼女を縊り殺さんとした男の中に、体を凭れさせた。僧衣を着た男は、我に返ったようにして自らの両手を見た。それはたった今、罪を犯した手だった。
――おまえが悪いんだ、俺は産むなといったじゃないか、この子を!
男は女の体に手をかけた。そして、持ち上げるとためらうことなく塔の上からつきおとす。女が大地に落下した衝撃は、そのまま波の振動になった。
女がこの世で最後に口にした言葉は、愛してるわ、それだった。
それがだれを愛しているといった言葉なのか、彼女でなければわからないだろう。溶けながらも、カレルレンにはわからなかった。赤ん坊を愛しているといった言葉なのか、男を愛しているといった言葉なのか。
聖職者にあるまじき絆で結ばれてしまったその男と女は、結果として当然ものを手に入れ、そして苦しんだ。彼女の孕んだ子供は、男にとっては命取りだった。
だが女は母親になることを望み、子供を産み、けれど恋人を忘れることが出来ずにこうして男の前に、赤子を抱いて現れ、そして身を滅ぼした。
――それがどうだって言うんだ、そんなことが? こんな罪を見せられてなお、あなたは許せと、そういうのか?
彼女は口を閉ざした。
そもそも、許すとか許さないとかそんなことが彼女にとって必要なのだろうか?
――愛してるわ。
不意にその言葉が滴となって落ちた。
――私は愛してるわ。
それを言うのは青い髪の女だ、だが、その前に立つカレルレンは首を振った。その仕種は、女には伝わらなかったようだった。ありとあらゆるものが、崩壊の轟きを響かせながら揺れていて、立っているのもままならない有様だった。わからなかったのも、仕方がないのだろう。ソラリスは墜落しようとしている。長く待ち続けた、この不条理の大地の終焉だ。
ミァンは笑って、こう言った。
――私はカールを愛しているわ。だって、私の大切な子供なんですもの。自分の子供を憎む母親が一体どこにいるの? 私は私の子供たちのすべてを愛しているわよ。誰一人だって愛していない子は存在しないわ。カレル、あなたもね……
――……信じると?
どうしてなのだろう、ここまでずっと堪えてきたものが堪えられなくなったのは。この女に訴えても仕方ないと思っていたことを漏らしてしまったのは。
――不要となれば、自ら生み育てた法院のものどもすら殺そうとしたあなたが?
ミァンは微動だにしなかった。おかしなことだ、なにもかもが揺さぶられているというのに、すべての母であるこの女は、大地そのもののように動じていなかった。長いこと護ってきたソラリスという国家の滅びを前にして、いささかの憐憫も覚えていないように。それでも彼女は、愛しているというのだ。
――産んだ子供を放って死ぬことの出来るあなたが?
女の唇の端が持ち上がり、慈愛に満ちた微笑が顔の上に作られた。
――「私」がかつて、一人の子供を産んだことがあったかもしれない。そしてその子供の目の前で縊り殺されたことがあったかもしれないわね……。カレルレン……言ったはずよ。私はすべての母の母。私が愛しているのはこの世界。そして、この世界に属するあなたたち。……。愛してるわ。
その言葉に、嘘はなかった。カレルは視線をそらすと、言った。
――そろそろ時間だ。
――そうね、カールも助けてあげなくちゃ。
ミァンは笑ったまま、
――どこへ行くの?
――メルカバーへ脱出する前に、することがあるのでな。
鳴動によろめきながら、カレルが戻ったのは彼の私室だった。そこに、ずいぶん昔から一羽の小鳥を飼っていた。ナノテクノロジーによって不死の肉体を持つその青い小鳥を、カレルは長いこと飼い続けていた。小さな籠に閉じこめられて鳴く小鳥が、なにを思っているかはわからない。
いま小鳥は、不気味な世界の揺動に羽根をばたつかせ、カレルを見た。彼は籠を手にすると、やがてポートへとたどり着いた。
空が見える。籠の口を開いてやると、小鳥は迷うこともなく飛び去っていった。
あの小鳥がどこへ行くかは知らない。あるいはこの混乱を抜けることもできないだろう。
だが、逃れてどこかへ辿りついたとき、鳥は休むとも息絶えることなくまたはばたくはずだ。そして遠く遠くまで、飛んでゆくのだろう。ここではないどこかへむかって。
――カレル、ねえ、
その言葉をそのときに思い出していたのは確かだ。
――カレル、ねえ、……聞かせてほしいんだよ。
原初の混沌にとけこみかけたカレルの前に、放した小鳥の行方を思ったカレルの前に、ただの幻だけが去来した。それはカレルの想いだ。小鳥を手放したときに思ったカレル自身の幻が生んだ波だった。
――ロニ、私は君との約束を守らなかった。いや、守らなかったわけじゃないのか、私はソイレントから戻らなかったのだから。だからずっと小鳥を飼い続けていたんだ、この鳥は君の想い、あるいは問いかけそのものだったからだ。
暗闇の中に、もう消え去ってしまったのかいくら見つけようとしてもロニ・ファティマその人は現れなかった。ただ幻だけが、カレル自身の心に残った問いかけだけが答えを求めていた。
――カレル、ねえ、……聞かせてほしいんだよ。
――あの鳥はきっと永遠にはばたき続けるだろう。永遠に、どこまでも。
それを見ることはないだろうけれど。だが鳥は羽根を動かすことをやめたりはしないだろう。その蒼さで空を駆け続けるのだろう。
波の中に、また違う漣を感じた。ようやく来たのだ、時が。
ラカンのおとないの声が聞こえて、彼女が沈黙した。謝罪も、愛も、なにもかも彼女ははや語らなかった。
――カレルレン!
すべてがラカンの声にゆらぎ、とよみ、終わりを告げていた。
もう、鳥の羽ばたきは聞こえなかった。それは波の中に掻き消えたわけではなく、鳥が羽ばたくのをやめたからでもなかった。小鳥は遠く遠く、羽ばたきの聞こえぬところまで、飛んでいったのだ。
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いろんな意味でロニカレ総括って感じです。まだ書くけど。けっこう前から考えてて、そしてたどりつきたいところだったところにたどりつけて、ともかく、書けて本当によかった。えと、エーリッヒ、大好きです。
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