雨天、ニサンの街角
 雨が降っていた。ニサンは雨期に入り、嫌な雨がつづいている。しとしとと降り、大地の熱を奪う氷雨だ。秋が冬へと転じる一時期の、この不安定な気候は、砂漠にはないもののひとつだった。
 高い木の梢に鳥が多く巣を作る聖堂の周囲でも、鳥が飛ぶのをここ数日まったく見ていない。鳥の羽根にこの雨は重すぎるのだろう。
 ロニ・ファティマも、慣れない雨に鬱々としていた。水の乏しい町で暮らしていた彼には、濡れる、という行為そのものが不快なものだ。髪や服が、湿気をはらんで重たくなるのも気持ち悪い。
 その想いを口からこぼすと、カレルは顔をしかめてこう言った。
「慣れればよかろう?」
 どういうわけかわからないのだが、カレルは機嫌が悪かったらしい。傍にあった花瓶を手にすると、容赦なく、中身をロニの頭にぶちまけた。
「……」
 どう振舞うべきか困って、ロニが凍った笑いを浮かべていると、据わった視線のカレルは、こう言った。
「そのまま外でも歩いてこい」
「……あの、カレル」
「文句があるか?」
「いや。……」
 確かに、柄にもない愚痴だったかもしれない。それに、言ってもどうにもならないようなことでも。けれどこの扱いはなにかが違う。
 まわりにいた他の僧兵たちは、見て見ぬふりで青ざめていた。
 不機嫌の理由があるに違いなかった――カレルの苛立ちの原因を、ロニは頭の中で一瞬に巡らせた。ニサンの長老会議や、シェバトの古老たちの意見が横暴なのはいつものことだし、「ソフィア」のわがままもいつものことだ。
 とはいえ、人前でカレルがこれほど感情を顕わにすることは珍しい。ロニに対して、よほど言いたいことでもなければ、彼はこんな暴挙には出ないはずだ。
 とりあえず、妙案の浮かばなかった彼は、僧兵隊長の前を謹んで辞去した。聖堂を出てから、髪に絡まった白い花をつまんで眺める。
 ――わざわざ僕に当たること、ねえ……?
 カレルの忠告にしたがって、ロニは雨の中を歩き出した。
 風邪を引きそうだな、と思ったが、宿代わりに借りている家に戻るにも雨に打たれる他はない。どうせ濡れているのだし、ためらう理由もあまりなかった。
 聖堂の前の木立を抜けて、ニサンの市街に入る頃、黒い長衣に全身を包んだ修道尼姿の女性がロニ様、と声をかけてきた。
「いいところでお会いできましたわ。申し訳ございませんが、言伝をお願いしたいのですけれど」
「ああ、君か」
 にこりと微笑んで、彼はその女性に応対した。「ソフィア」の付き人で、昨今、彼の弟のレネと懇意になっていた。智と論理の申し子といった風な女性(実際、教母ソフィアよりも「ソフィア」と言う名前がふさわしいのではないか、と思う)で、はじめは恋なんてわからないだろうと思っていたのだが、意外にも彼女が先にレネに惚れたらしい。
 生真面目な弟の恋愛をロニは快く思っていた。とはいえ人目が気になるのか、二人はおおっぴらに会うということをしていなかった。二人とも、まだ早いと言うのだ。それで、彼女からの伝言をレネに伝えることを頼まれたり、あるいはその逆も、よくあった。
「今日はカレルレン様が早番ですから、夕暮に聖堂でお待ちしていますと」
「夕暮ね、わかった、伝えておこう。……この天気じゃ夕方もなにもないが」
「本当に。
 雨避けはお持ちになりませんの?」
「ああ、これかい? 雨が嫌いだと言ったら、慣れるために濡れてみろ、といわれてね」
 だれにとは言わなかったが、彼女は理解したようで軽く笑う。
 ロニは言ってから、一瞬ことばを失った。さっき目の前の女性が言ったことが、今になって気に止まったのだ。
「カレルが非番とか、言ったね。きみたちは、カレルを避けて会ってるのか?」
「ええ。そうです」
「なんで、また」
 彼女は逡巡の色を見せ、けれどすぐにこう言った。
「私、還俗させていただこうかと思っております。ソフィア様のお側にいさせていただけるかどうかはわかりませんが、お許しが出れば今までと同じようにお傍に控えさせていただきたい、と思っております。僧兵隊長殿は、それをよく思われておりませんようで。一時の迷いで還俗しては、のちのち後悔のもとになるとばかりで」
「……あいつらしい」
「それはそうですけれども。私たちにとっては、それどころではございませんわ」
「だろうね」
 気持ちはわかるよ、と言って、ロニは彼女と別れた。
 なるほど、カレルの不機嫌はそれだろうか。僧兵隊長も俗なことに頭を悩ますものだ、と思い、ロニは笑った。
 ――兄貴としては堅物を説得するべきなんだろうな。
 確かに、一時の気の迷いで還俗するのは、のちの不幸になるだろう。けれど、彼には二人がただ熱にのぼせているだけとは思われなかった。相応に真摯で、お互いに誠実だ。二人ともはじめての恋のように不器用で、でもこの歳だからできる、包みこむような柔らかな恋。「ソフィア」とラカンのように、状況に消極的にならないところを、ロニは気に入っていた。
 どうやってカレルを口説こうか、雨に打たれながら彼は思った。
 冷たい雨にあたるのは気分が悪いはずだったが、しばらく歩くと不思議と頭がさえてきた。慣れ、というものではないだろう。こんなものに慣れてたまるか、と彼は悪態をついた。
 ただ、冷たくて冷たくて、体の感覚が麻痺しはじめ――だからただ、知覚が研ぎ澄まされているように思えるだけだろう。
 しばらくのちに、宿舎の近くで、レネに会った。彼はさすがに頭から外套をすっぽりとかぶって雨をしのいでいる。
「兄貴、風邪をひくぞ」
「ああ、引かないぐらい僕の体が頑丈なことを祈ってるけどね」
「なんでまた、そんな酔狂なこと」
「原因に言ってもらいたくないな。ジークリンデからの伝言だ。夕暮に、聖堂で待っているとね」
「それじゃあもう時間になるじゃないか。……
 なあ兄貴、アタマに花弁をつけてるのは、わざとか?」
「まだ、ついてたか」
 怪訝そうな顔をしたレネは、
「なんだよ。変だぜ兄貴」
「まあ、色々と。……問題は僕に任せておけよ、なんとかするから」
 とりはらった大きな白い花びらを、指でもてあそびつつ、ロニは弟を見つめた。
 花びらは、かすかだが雨の中で、薫りを放っていた。水の匂いと混じり、生気に満ちたいい薫りだ。
「なんだよ?」
「兄貴らしいことしたいんだ。いいから、おまえは心配せずに彼女に会ってこいよ」
「その花、昨日ジークリンデが僧兵所に飾ってた花だな」
「そこまで深い意味があったとは、知らなかった」
「カレルに、花瓶を投げつけられたのかっ?」
「瓶は投げられてないよ……ま、そんなことだからともかく、僕に任せろ。急げよ、待ってるんじゃないのか」
 夕暮はすでに間近いはずだ。
 渋々という様子で、レネは聖堂にむかった。その背を見送りつつ、ロニは花びらを噛んだ。
 そろそろ、カレルも聖堂を退出するはずだ。すぐに彼の宿舎に戻るだろう。またメルキオールのもとへ行くので色々と勉強していると言っていたから、街中をふらついたりはしないはずだ。とくに、こんな天気なら。
 こんな雨、だれだって嫌なはずなのだ。
 好きだと思うなんてどこかおかしい。寒々しくて陰欝で、とてもじゃないが付き合えない。雨にあたりきったからといって、変わらなかった。こればかりは慣れない、ごめんだ。
 ロニは、家へ入ると湯を沸かして熱い茶を一杯だけ飲んだ。体の中を落ちていく熱を感じて、またすぐに雨の中へと飛び出した。
 ――あいつのイライラだって、多分にこの雨のせいに違いないとも。
 僧兵宿舎はニサンの聖堂に負けずとも劣らない古めかしい建造物で、石造りの廊下は厳格さをあらわすためなのかどうかはわからないが絨毯もひかれておらず、ひどく冷えた。まっしぐらにカレルの部屋を目指しながら、ロニはまたも雨を浴びたことで体の芯から冷え切ってしまい、風邪はひくかもしれない、と思っていた。
 彼の部屋の戸を叩いたが、返答はない。身震いをしながら、ロニは壁にもたれて主を待った。
 刻々と、体は重たくなっていく。長いあいだではないのに、ずっとそこで待ち続けているようだ。指先にまだ、雨の雫を受けているような気がした。回廊には雨音が響き、本当に雨の中にいるようだ。
「――雨の砂浜に鳥が飛ぶ、
 ――灰色の空の下で飛ぶのは青い鳥、
 ――青い鳥がはねを拡げると ご覧、
 ――空は青く晴れ渡る」
 そんな歌を口ずさんでいるうちに廊下のむこうから押し殺した足音が近づいてきた。歩き方でそれがだれだかわかる。もちろん、カレルだ。
「ロニ、なにをしてる」
 ゆっくりと身を起こし、とまどった顔のカレルを見て、ロニは少し笑った。彼を困らせることなど簡単にできるし珍しいことでもなんでもなかったけれど、いまはしてやったり、と思った。
「君が、雨の中を歩いて来いと言ったんだろう?」
「私の部屋に来いとは言わなかった。とっとと帰って、風呂にでも入れ」
 だが、それで引き下がるようならここまでは来ない。ロニは手を伸ばしてカレルの手を握った。掌から伝わる熱は、いつもより熱く感じる。重く濡れた服から流れる雨の雫が、ロニの腕からカレルの腕へと伝い、彼がにぎりしめたところから床へと滴った。
 乾いたカレルの膚に、しとどに濡れた彼の膚が触れると、あっという間に相手も濡れて重みを持ち出すのが面白い。
 それでいて、ロニの体は少しも軽くならなかった。もしこれが雨の中だとしたら、やがて立ち上がることもできないほどに重たくなってしまうのかもしれない。
「冷たい、やめろ」
「僕を凍えさせたのは君だ。熱を分けてくれたって、いいだろう」
「馬鹿野郎、寄るな、濡れる!」
 悲鳴など気にせずに抱きしめると、いつも思っているよりか細いカレルの体が、勢いでロニの肩を壁へと押しつけた。普段なら殴り飛ばされてもいいくらいの振舞だったが、カレルもその雨の重たさに縛られたように、ロニを跳ね飛ばしたりはしなかった。
「苦しい、」
「あったかいよ」
「おまえ、私の話を聞いてるのか?」
「雨の音が耳について離れないんだ。いつもは君の声ばっかり飛びこんでくるのに」
 カレルの舌打ちが耳元で響く。
「わかったから。ここは廊下だし、風邪を引くぞ、本当に」
「……うん」
 なごりおしげに解放すると、カレルは無駄のない所作で、部屋の鍵を開けた。すぐに暖炉に火を灯しているが、暖まれるのはずいぶん後になるだろう。
「風邪を引くぞ、おまえは服を脱げ」
「重たすぎて、脱げない」
「こっちだってびしょぬれだ」
「僕に較べたら」
「悪かったな」
「君だって、濡れるのは嫌いじゃないか?」
「説教なら御免蒙りたいんだが、ロニ・ファティマ」
 ロニの言いたいことをいくらか察したのだろう。カレルは険しい瞳でそう言った。雨が嫌いだうんぬんということも、おそらくジークリンデとレネの非難まで彼が承知しているらしいことを、ロニは感づいた。
 その目は油断がなくて、どう攻めようかとロニは頭をめぐらせた。
「他のなにならばいいと言うんだ?」
 そう言うと、カレルはただロニの唇を塞いだ。離れてすぐに、ロニは言う。
「……それでも、レネとジークリンデのことは認めないのか?」
「それとこれとは、話が別だ」
「僕らは、既に宣伝塔としてソフィアの人間性を犠牲にしているじゃないか。ジークリンデにまで、その犠牲を払えというのか?」
「ロニ、兄なら兄らしく、レネの熱情でも私に訴えるのが筋じゃないのか? おまえらしくもないやり方だな。説教は聴きたくないと、言っただろう。ジークリンデとは何度も話をしているんだ」
「だが、理解しあえてない」
「ジークリンデ以外の尼僧なら、還俗したって構わないとも。だが、問題はそれを望んでいるのがジークリンデだということだ! 彼女は我々が地下活動をしてきた頃から、ソフィア様の傍にいて戦ってきた。だれよりも彼女を理解し、彼女にとって必要だ」
「結婚したって、ソフィアの傍にいることは出来るだろう」
「では、ソフィア様になにかがあったときにジークリンデはすべてを投げ打てるのか? 恋人のことを考えずにいられるのか? そのために自分が生き残りたいと思うのではないのか? ましてや結婚し、子供ができたとなればどうなる? 彼女は、ソフィア様を守ることが出来なくなるのだ。それを私に認めろ、というのか?」
「……極論だな」
「二人が恋仲にあることはかまわない。だが、なににもましてソフィアの存在を特別にしておいてもらわなくては困るのだ」
 ロニは首をかしげると、続くカレルの言葉に耳を傾けた。
「ジークリンデも、弱い女じゃあない。昔はなぜ我々についてきたのかすら理解に苦しむほど、弱い少女だったのだが。今はああして毅然と生きているが、それでも、少女の弱さがすべてなくなったわけじゃない。彼女が恐れているのはソフィアでも私でもない、おまえの弟の心変わりだよ。だから、絆を創るために必死なんだ」
「まあ、僕もそれがありえない、というほど純粋じゃないけどね。だから僕は、燃え上がる恋なんてものはちっとも信頼できないと思っているよ。愛と恋の諍いがなかったら、この世界は平穏に満ち満ちているだろうからね。でもジークリンデは、弱くなるためにその絆を望んでいるんじゃない。強くなるためだ。だから僕だって、反対しない」
「おまえの弟とソフィアの付き人か、まるで絵に描いたような融和の象徴だ」
「僕と君よりはよっぽど」
 ロニはそう言うとくしゃみをする。呆れたように、カレルは応えた。
「早く服を脱げ」
「服を貸してもらわないと」
「しばらくすれば、乾くだろう」
「しばらくすれば、ね」
 ロニは肩を竦めた。膚にべとつく布地を引きはがすと、解放された体がそれだけで温まるような気がした。暖炉のふちに服を架け、カレルが投げてよこした毛布に包まった。
「なにか飲むか?」
「暖かければなんでもいい」
「で、なにがいい?」
「……君」
 返答はなかった。いつものように呆れているのだろう。やがて、二つのコップに熱い紅茶を注いでカレルが戻ってきた。にやにやと笑っているロニに、苦い顔をする。
「なにも、そんなことを言ってもらいたくて聞きなおしたわけじゃあない」
「でも、予想の範疇だったんだろ」
「言ってから、しまったと思ったね」
 それでもカレルはロニの注文に応えて、紅茶を含むと口づけた。
「……君も、着替えたほうがいいよ」
「今から脱ぐからいいんだ」
「そういえば聞きたいんだけど、君は雨が好きなのか?」
「さあな」
「……今日は、えらく優しいね」
 カレルはそう言われて笑った。
「雨にうたれて震えてる仔犬が目の前にいたら、私みたいな冷血漢だって優しくもなるさ」
「その仔犬は君が雨の中に追いやったんだぜ。調教されてる気分だ」
「躾があまりなってないから」
 部屋はまだ寒い。服が乾くようになるまで、ずいぶん時間はかかるだろう。ジークリンデとレネも、この雨天の下で、寄りそって体を温めあっているだろうか。少なくとも飼い犬と主人のようにではなく、もう少し心温まる光景だろう。
 ――まったく、僕らより理想的な二人だというのは本当だな。
 そう思ってため息をつくと、ロニはカレルの体を抱き寄せて掌を重ねた。





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雨の寒々しさを感じていただければいいな、と思います。シドウは梅雨とか菜種梅雨とか秋霖とか雨の季節は大好きです。そんなに嫌いにならなくたっていいのに、ロニも……。じとじとだっていいもんよー! カレルは明言はしていませんが、あいつも、雨は嫌いなクチです。

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