エルアザル
 そこがどこか、カレルレンはもう知らなかった。ずいぶん歩いて来てしまった。荒れ果てた野を越え、丸一日歩き続けたが、それでもまだ足元には死体が転がっている。どこの人間の死骸かは知らない。ニサンの僧兵だったかもしれない、あるいはシェバト兵だったかもしれない、どこか他の兵士かもしれない、そしてソラリスの人間かもしれない。
 だれもが焼け焦げた肉体、千切れ飛んだ手足、そんな断片に成り果てて、無言の中に横たわっていた。
 この中に彼女がいるかもしれないと、思う。そこに転がっている指はあの女のものかもしれないのだ。
(まあ……もう燃え尽きてソフィアの欠片もこの世に残ってないんだろうがな……)
 その場に倒れこみ、無数の死骸のひとつになってしまいたかった。
 なにもかもに疲れた、どこかなにもないところへ行きたかった。
 それなのに歩き続けているのは、目の前に一人の女がいるからだった。
 たぶん、見たことくらいはあるかもしれない。ニサンの修道女のなりをしている。けれど顔は憶えていなかった。名前は……聞いた気がするのだが、忘れてしまった。呼びかける名を知らないまま、歩き続ける女をカレルレンは追い続ける。
(名前は……なんだっただろうか)
 ――エレハイム。
(だれの名前だっただろう、それは)
 女は歩き続ける。
 ――エルアザル。
(……だれの、)
 いつの間にか、女は立ち止まっていた。廃墟の中に二人は立っていた。攻撃の際に完全に崩壊し、天井がなくなってそこからは夕映えの空が見渡せる。美しい、夕暮れだった。太陽が沈むと、死んだ無数の魂も共に沈んでゆく。
 あの女の魂に取りすがって行くなと、叫びたかった。
 だが生者の声は死者には届かない。ソフィアは死んだのだ。
 彼女の魂はニサンの教えどおり、黄昏の太陽にむかって風に吹き流され、そして太陽と共に大地に沈んでいくのだ。いつの日か、また蘇り生きるために。だがそれはもうソフィアではない。別の命、別の人生、別の戦いがその魂を待っている。
 ソフィアは、死んだのだ。
 代わりなどない。彼女自身の魂でさえ、形を変えてしまってはソフィアの代わりになどならない。
(なのになぜ俺がここにいる、)
 死んでも彼女を守ると誓ったはずだ。彼女を死から救うために、これまで数え切れない命を殺めてきた。なのに、彼女は死んだ。その死と共に、カレルレンが彼女のために犯した罪科は昇華されることなく彼の両肩にのしかかり、その血まみれの手に絶望するしかない。
(なぜ死んだんだ、ソフィア!)
 ……女は、無言でそこに立っていた。死にそうなカレルレンを前に、女は立ち尽くしていた。なぜここに来たのか、言うこともなければ指し示すこともなかった。やはり死体が散らばる廃墟の中に、夕闇に紺青の長い髪をなびかせて立っている。
 それはさながら、女神のようだった。
 累々たる死の中に立ち尽くす女の黒髪は、風にざわめく木々の梢のようだった。立ち尽くすその身体は、大地に根付く巨樹のようだった。
 女の異様さにカレルレンははっとして、自責にとらわれている処から意識を持ち上げる。ソフィアのアンチテーゼがそこにある、と彼は思った。ニサンの修道女だが、異教的な女神の姿が重なった。
 カレルレンの視線を受けて、女は笑った。
 そしてようやく、口を開いた。
「なにを望む、死か、生か、それとも復讐か?」
「復讐?」
 カレルレンはその言葉に柳眉をひそめた。……意味がわからない。
「だれになんの復讐だ?」
「それはおまえがわかっているはずだろう」
 ソフィアを死なせたことへの復讐か? いや、それは復讐とは呼ばないはずだ。そもそもソフィアを死に至らしめたのはカレルレンの不甲斐なさ、シェバトの姦計、そしてソラリスの圧力だ。シェバトもソラリスもそもそも敵で、彼らがソフィアをどうこうしようとしていたことなど端からわかっていた。復讐? いったい、なんの。
 ――あなたは忘れたの、カレルレン? 私は忘れていないわ。
 ソフィアが彼の頭の中で囁きかけた。彼の頭の中に住む、いまや記憶というデータでしか存在しないソフィアが、語りかけた。
 ――これは私たちの、世界への復讐なのよ。
 そう、だった。
 けれどそれを目の前にいる女が知るはずはない。それを知っていたのは、ソフィアと、カレルレンだけだった。このソラリスへの戦いが、「ニサン」という世俗とは異なる勢力である彼らがソラリスに打ち克とうとすることは、この世界への復讐だったのだ。
 神を畏れぬ世界へ、神だけが見出し救い上げたソフィアとカレルレンは、復讐するために立ち上がったのだ。
「復讐、」
「生か、死か、それとも復讐か? 私はおまえになんでも与えよう。おまえが望むなら」
「なにを言っている?」
「おまえは叫んだのではないのか、神はいないのか、と! 確かに、ここは神なき世なのだ。だが神がいたとしてなんになる。神が塵芥にも劣る人間を見ているとでも思っているのか。ソフィアという名で崇められる聖女も、所詮神の世で見ればその塵芥となんの相違がある。さあなにを望むのだ。すべてを忘れて生きたいか、すべてに絶望して死にたいか! それともすべてを失ってなお、この世に復讐を果たすのか。
 それはおまえが撰ぶのよ、カレルレン」
 カレルレンは、頭を振った。
「だれだ、おまえは。なぜ知っているんだ、俺のことを、ソフィアのことを?」
「……それは、私がおまえの母親だから」
「エルアザル、」
「さあ、そうだったこともあったかもしれない。……」
 女は笑った。その笑顔は冷たく、母親のものには見えない。
 いやそれとも、カレルレンは知らないだけで母親というのはこんなものなのだろうか。母親というのはソフィアのようなものなのかと思っていたが、違うというのだろうか。だから彼女は、カレルレンを置いて塔から飛び降りたのか。カレルレンをおいて、死んでしまったのか。
「俺は……」
「ソフィアの魂はまた現し世へと還って来るだろう。あれは回帰する魂なのだから。そのとき、おまえたちの復讐がまた果たせると思わないのか?」
「ソフィアがないなければどうやって、神がいないならばどうやって復讐できるというんだ! 人間が塵芥にも劣ると言ったのはおまえだ、エルアザル。だから死んだのだろう。だから、俺を置いて死んだんだろう」
「だが創ることは出来るかもしれない」
「創る?」
「私も試したことはない、けれど試してみる価値はある。神なきこの世に神を創るのだ。おまえの手で。神の不在がソフィアをも否定したのなら、おまえがおまえの力で神を作り出し、そしてソフィアを再び栄光の中に蘇らせればいい!」
「神を創る?」
 そして復讐を果たすのだ。神なき世に、塵芥のこの世界に。
「この地下にまだソラリスの通信設備が残されている。おまえはそれを使ってソラリスに行くといい。そこには私の息子がいる。私のカインがそこにいる。彼もまた神の存在を切望しているこどもの一人だ。行ってともに神を創りなさい、さあ、カレルレン。いってらっしゃい」
 カレルレンはいわれるままに視線をめぐらした。そうか、この瓦礫の廃墟はソイレントだったのかと、彼はようやく気づいたのだった。ソラリスへ行く。あれだけ憎んだ、ソラリスへ。
 だが問題はソラリスではないのだ。ソラリスはカレルレンとソフィアにとって、戦いえる相手だったから戦ったにすぎず、それは彼らの目的のための手段に過ぎなかった。その計画がソフィアを失って形を変えざるを得ない現在、ソラリスと地上の確執などに意味はない。
 ……意味はないのだ。
「お行きなさい。そこに、おまえの望むものがある」
 カレルレンは、地下へと降りて行った。





[ back ]
「NO LIFE, NO PRIDE」でいなくなったカレルレンの方は、こんなふうになっていたのでした。ロニのことなんてこれっぽっちも思い出しやしない、そういう人よね、カレルレンって。相変わらず、マイ設定すぎて申し訳ない。(040925)

(C)2004 シドウユヤ http://xxc.main.jp