ぬくもり
 不思議なことに、人のぬくもりというのは心を癒してくれる。そのぬくもりが誰のものであろうと。悪人だろうと、善人だろうと、人肌のぬくもりはぬくもりというだけで、心を癒す。
 ぬくもりの与える安らぎは他になにものからも峻別される。
 カレルがそれを知ったのは、つい近頃のことだ。彼はずっと、孤高という鎧で体を装い孤独という武器で他人を切りつけてきた。人といることはいつも苦痛に満ちていて、我慢ならなかった。
 けれど、ロニといることは苦痛ではないのだ。
 ソフィアは彼の心に触れた、万人に与える優しさで。ロニは、カレルの心の底に触れた……カレルだけに与える激しさで。
 どうやって心の中に入りこんできたか、再構築することは難しいだろう。理由など存在しないのかもしれない。ただロニはそこにいたというだけかもしれない。
 安らぎそのものを否定してきたカレルの心の壁をどうやって彼は乗り越えたのか、聞いてみたいくらいだった。
 いつのまにか。過程が不明瞭であるように、時間もまた不分別だ。
 はじめて手を重ねた瞬間に、それははじまり。安寧ということそのものに怯えるカレルを、どうやって馴らしたのだろう、ロニは。……
 夜の闇の中、カレルを包みこんでロニは言う。
「君の鼓動が聞こえないと不安になる。……君といるのは大好きだよ……指先から鼓動が伝わってくると、ようやく安心できるんだ」
 ロニのような男でも不安を覚えるのか、とカレルは思った。不安を感じることよりもそれに立ちむかい続けていくような彼でも。
 ――人間は誰でも同じ孤独を抱えているのだろうか?
 だから同じ瞬間に、二人は安らぎを見出せるのだろうか。
「君は……?」
 ロニは問いかけてくるが、カレルは同じだと応える言葉を持たない。
 だから、キスをする。体を重ねて、鼓動を伝える。
 それだけだ。
 夜の闇の中、視覚を閉ざされて浮き上がってくる鼓動。なにも見えないのに、どこにロニの躯があるのかわかるのはぬくもりのおかげだ。それは彼の心と想いを伝えるような柔らかな熱。
 二人の間の安寧はひどく一瞬のもので、ぬくもりはすぐに引いていく。夜の時代の闇の中、お互いの熱であたためあい、明方をまんじりとして待つようなぬくもりで……未来の見えない暗い時の中だからこそ創出されうるものなのだろう。
 ――でも、こんなにも安堵できる時間は他に存在しない。
 ずっと安らげたらいいのにとどんなに願っても、それは無理なことだ。
 この頃、孤独に怯える。繋ぐ手がそばにないことに物足りなさを感じる自分がいる。
 傍にいて安らげるとロニに言えないのは、その怯えを知らせたくないからだ。
 ――そして、自分でも認めたくないんだ。
 今まで一人で生きてきた。その生き方をおのれで肯定してきたのに、むしろ人といなければ生きられない弱い心の人間を否定すらしてきたのに、自分がそうなることをまだ認めることが出来ないでいるのだ。
 ロニが嫌いなわけじゃないし、彼といるのがいやなのではない。
 ただ、カレルは心の最後の一線を開け放ってしまうことへの恐怖を、乗り越えられないのだった。それぐらいなら一人を選ぶ、という矜持の方がまだ強い。
 ロニの考えがわからないこともカレルを躊躇させる原因だった。たとえば彼は、街頭で幾日ぶりかで出会って、必要事項を話したあとに私事はなにも言わずあっさりと立ち去ってしまったりする。
 カレルの方も、「じゃあ」と言われて「ああ、また」と応えてしまうのだ。指先も触れず、だからなんのぬくもりも伝わらないままに会って、別れることもしばしばだった。
 そうかと思えば、他に人のいない聖堂で不意に抱きすくめられたこともあった。
「ロニ……?」
 きつく抱きしめられて、喘ぎに似た声が漏れる。
 強く打つロニの鼓動が伝わってくる。そして同じようにカレルの鼓動も伝わっているのだろう。深いところで脈打つ、臓器の鼓動とは違う心音を。
 あまりにも深いところで脈動しているので、むしろ魂の震えと呼んだ方がいい。
 ロニはすばやく身をはがした。場所が場所だから、ということもあるのだろう。一瞬きりの鼓動の交感は、堰を切ってあふれるまえに熱を冷ましていく。
「…なんでもないよ」
 彼は微笑み、静かな顔でそう言った。
 ――なにを考えているんだ。
 そしてカレルは、なにも尋けない。
 ロニは不透明な笑顔の中に本心を隠してしまう。自分にむけるほど微妙な表情はさすがに他では見ないのだが、そのことも不安を煽ってくれる要因で、カレルは細い線の前で踏みとどまったままだった。
 二人はその線越しに、ぎこちない仕種で抱き合っている。
 もっと手を伸ばしてロニを抱きしめたかった。でも、最後の細い線がそれを拒んでいる。とてもとても細い線なのに、それをはばんでくる。今のままではけして越えることのできない、……
 ロニの艦にいると、お互いの関係はよりあいまいになるような気がする。夜になると当たり前のように抱きしめあうけれど、か細い線越しだ。ぬくもりに溶けかけても、すぐにはっきりと形を見せる線に、自分が歯噛みしているのかどうかもわからない。
 このままで距離を保ち続けた方が幸福だ、そうも思う。これ以上の安らぎを求めてどうするのだ、と理性が自制させるのだ。……
「カレル、愛してる」
 二人きりの艦橋で、ロニが囁いた。握られた掌が熱くてしかたなかった。
 安らぎを与えたのはロニだ。知らなければ求めないだろうに、知ってしまったから彼のぬくもりを飽きもせずに求めてしまう。それは……弱い生き方だ。
 このまま、一人で生きていけなくなってしまうのは嫌だった。それでも、なにかを求めて細い線をまたぎ越えようとしている自分が存在する。どちらへゆくべきかわからなくて、足を止めてしまうことしかできない。
「……カレル?」
 言葉にならない想いが出口を誤ったように、涙がカレルの頬を伝った。不意に起こったことでカレル自身にもなぜだかわからなかった。どうしても、止まらない。
「どうしたんだ?」
 カレルは、赤い目をロニにむけはしなかった。どんな顔を見せればいいのか見当もつかない。
 沈黙が、場を支配した。なにもかもが冷たく固まって二人を凍りつかせる。どうやったら時が進んでいくのだろうか。どうしたらこの場所から逃れられるのだろう?
「僕、なにかしたかい?」
「いや……」
「なにもなくて、君は泣くのか。おかしなやつだな」
 とまどってるまに、どこかへ行ってほしかった。今は一人になりたかった。そして自分に言い聞かせて諦めるのだ。所詮人は一人なのだ、与えられたぬくもりは一瞬に過ぎないのだからそれにすがるなと。
 カレルは手を振りほどき、踵を返した。
「……部屋に戻るから」
「カレル、なにがあった?」
「なんでもない」
「そんなはず、ないだろう。僕は、君には必要ないのか」
 ロニの声は静かでいつも理性に満ちている。その声に不安が募るのだとわからないのだろうか?
 ――もっと。……
「一人の方がいいのか、君は」
「……そうだ。放っておいてくれ」
「意地を張るなよ。本当は傍にいてほしいと思っているくせに。一晩でも二晩でもつきあうよ、君の気が済むまで。……」
 ロニはただ、そういって腕を伸ばした。
 カレルはふりむき、唇をかんだ。
 最後の細い線をふみこえるのに必要なのはただ、ひとかけらの勇気なのだ。一歩をここで戻るか戻らないかの。
「――私の気が済むまでいるんだな?」
「君が望むなら、永遠に」
 はじめは掌を合わせて。そこにあるぬくもりを確かめて、変わらない自分が安らげる相手の熱だと確かめながら、二人は抱きしめあった。
「カレル」
 ロニは指でカレルの頬の雫を払いつつ、くちづける。舌先から熱になにもかもが溶けていくとカレルは思った。
 ――いつになったらこのぬくもりに満足するんだろう。
 目を閉じると、奥底からわきあがる互いの心音が聞こえる。とつとつと途切れることのない、安らぎの脈動が。
 安寧は、……





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