ファティマの碧玉-4
 屋敷中が落ち着かずにいた。屋敷の二階に臥せっている病人の容態がはかばかしくないせいだ。数日のうちに息を引き取るのではないかと医者には言われていた。
 使用人たちは右へ左へと走り回っている。湯を沸かし、布を煮沸し、健康な家族のためには食事を用意している。家の者も、落ち着かなかった。ばたばたと走り回る使用人に不必要に用を言い渡したり、自分も走り回ったりして、広いとはいえ家中が混乱している。
 レネは父親でもあるその人の寝室にしばらく付き添っていた。母も父の傍におり、のんびりと刺繍をしながら父に語りかけたり、眠りこんだ彼の布団を手ずからなおしてかいがいしく世話を焼いていた。けれどもレネはひっきりなしに出入りする使用人や家族たちに飽き飽きして、一人になれそうな場所を探して部屋を出る。
 自分の部屋では一人になれない。彼には兄弟はいないのだが、従妹たちがうるさくちょっかいをかけて来るのだ。
 ――元気を出して、暗い顔でお見送りしたりなんかしてはダメよ。
 ――ねえねえどうなるの。あの方、財産のことはどうされるつもりなの。
 慰めてくれる者もいれば、好奇心むき出しでレネに尋ねて来る者もいる。いっそのこと遠乗りにでもでかけてしまいたいが、父の様子が悪くなったときに駆けつけられないのでは困るので、それも出来ない。
 レネは玄関の扉を開けて、屋敷の前に続く広々とした草原を眺めた。
 彼の祖父が治めるこの領地は、イグニス大陸の北部に位置し、広く続く豊かな土地にあった。南に見える遠い山並みのむこうは過酷なイグニス砂漠だが、ここではそんな気候に縁はない。どこまでもゆったりとした風景が続いている。
 折しも外は好天で、馬を駆るのに良い日柄だった。父が臥せっていなければ馬を引き出したに違いない。
 行く場所もなく、レネはそのまま扉の外にぼんやりと佇んでいた。
 父は商人だったから、幼い頃からさほど一緒にいられたわけではなかった。だが、離れて暮らしている分、たくさんの愛情を注いでくれたと思う。母の実家に留まり続けている母子の肩身が狭くないのは、父が十分な暮らしを保証してくれているからでもあった。その援助があって、レネは学問も武芸も修め、前途洋洋たる青年に成長しつつある。いずれは父の手伝いが出来ればいいと彼自身は思っていたが、生憎父はそう考えていなかったらしい。商売のことに関しては、手ほどきを受けたことはなかった。
 遠い景色を眺めていると、南から続く道の上を、こちらに近づいて来る影が見えて、目を凝らした。もっと思わせぶりな様子で近づいて来たのなら、父を連れに来た死神だと思ったかもしれない。だがそれは、田園の静寂を薙ぎ払うようなけたたましいエンジン音を上げて走り来る、薄汚れた一台のバギーだった。砂漠用のバギーはイグニス砂漠ではそれなりに普及しているというが、ここでは移動にはまだ馬車を利用するのが普通で、砂に汚れたいかついバギーは、異様にも程があった。
 バギーの乗り手はまだ若い男のようだ。陽と風を避けるためのゴーグルをかけているから風貌はわからないが、長い金髪の、砂漠の民のようだった。その男の様子が見えた瞬間に胸騒ぎを覚え、レネは困惑した。
 予感はあったけれど、その予感が、なにとは言えない。胸に芽生えた予感は、死神を見てしまったような不安ではなくて、鼓動が高鳴るようなものだった。
 バギーは一直線に屋敷を目指して来て、不躾にも屋敷の正面に乗りつけた。男は車から飛び降りて、玄関に立っているレネを見ると、ゴーグルを外した。風に煽られて来たからか、髪はやや乱れていたし、砂漠の旅人が好む全身を覆うような肩布を巻いていて、お世辞にも身奇麗とは言えなかったが、決して見苦しいほどではなかった。まだ若く、歳はレネとさほど変わりがないだろう。
 巴旦杏アーモンドの形をした、男の深い碧の瞳に見据えられて、レネの予感は確信になった。その目の色はレネと同じ色で、その意味するところは、たったひとつだ。心臓が高鳴ったわけがわかった。ずっと気にしながら生きていたけれど、確信も確証もなかった事実が、そこにひとりの砂漠の男の姿をして、立っていた。
 男は日除けの肩布を脱いで、階段を昇ってレネの前に立ち、口を開いた。
「こちらにアレク・ファティマが逗留していると聞きました。彼に呼ばれた者ですが、通していただけますか」
 レネは人よりも大柄なのだが、青年も遜色ないほど背が高い。黄金かと見まごうような金髪が、精悍な顔を縁取っていた。その目は物怖じすることなくまっすぐで、彼がレネのことを気がついているのか、いないのか、わからなかった。レネは衝撃を受けて、うまく応えることが出来なかった。彼が訪ねて来たことはもちろん衝撃だったが、彼の存在自身がひどく衝撃を与えた。たとえ千人の人間がその場にいても、思わずこの男に目を吸い寄せられてしまうに違いない。端正な顔をしていたが、そのせいではなかった。全身に纏う空気が、並の人間とは異なった。同じ色の瞳をしているというのに、どうしてこんなにも違うのか、レネは不思議に思う。
 だが少しして、その目に飲みこまれながらも、レネは問いかけた。
「お名前を聞かせていただけますか」
「ロニ・ファティマと申します」
 その言い方は決して居丈高ではなかったし、誇るようでもなかった。彼はただ淡々と自分の名前を告げたのだが、宣言するのと同じような威力があった。彼がだれかはわかっていたが、レネは名前を知らなかったので、胸に刻みこみながら、頷いた。
「俺はこの家の者でレネといいます。……案内をします」
 父と母の結婚が正式のものではないらしい、というのはレネも知っていた。父は彼の商会の本拠地があるブレイダブリクに正妻がいて、どうやらそちらにもレネと腹違いになる兄弟がいるらしいということもわかっていた。その兄弟がいるから、父はレネを商人にしようとはしなかったのだろう。とはいえ、父が本当に家族だと考えていたのがレネたちであることは感じていた。もちろん父はそんなことを言わなかったが、自分が庶子であることの不便さは感じたことがない。
 だとすれば、もう一人の兄弟はなんと思っているのだろう。病に倒れ、瀕死の状態で、彼はレネの家族と共にいる。そんなところに呼びつけられて、どう思っているのだろう。ロニからは、一切の感情を感じなかった。悪いものも、良いものも。だから、彼がレネのことを気がついてさえいないのではないかと思ってしまう。
 それにしてもだれが彼をここに招いたのだろう。父が呼んだにしても、自分で手紙を書いたり通信施設に出むくようなことは出来るはずがないから、だれかが手配したはずだ。
 レネは体を強ばらせて階段を昇ったが、彼に話しかけることは出来なかった。ちらりと振り返ると、ロニはあたりを見回すこともなく、階段の上に視線をむけているだけだった。
 父の部屋に辿り着いたレネは、扉を叩く。顔を出した母にむけて、なんと言っていいやらわからず少し首を傾げたが、結局はそのまま告げた。
「父さんに呼ばれたって、ロニ・ファティマと名乗る方がいらっしゃっています」
「まあ」
 母は少しだけ驚いた顔をしたが、レネほど驚いてはいない。見ていると、母はただ慌てた様子で、いけないわと言う。
「もういらっしゃったのね。間にあってよかった」
「母さんが呼んだの?」
「そう。頼まれて私が報せを出したのよ。通してさしあげて」
 もちろん、父に頼まれて、だろう。ロニ・ファティマが正式な妻の息子であることはわかっているはずだが、嫌がるでもなく、彼女は扉を大きく開いた。いかにも母らしい。
 ロニを通そうと思って振り返ったところで、レネは面食らった。どこから耳に挟んだものやら、家人が鈴なりになって遠巻きにロニの姿を見ていた。みんな、父の身体を気遣っておとなしく息を潜めた生活が続いていたから、退屈しているのだ。
 この家の人間がアレク・ファティマの跡取りに興味を持つのは当然だった。この家はもともと裕福な家ではあるのだが、父が家に入れている金額も馬鹿にならない。父が死ぬとなれば、その跡取りであるロニがどうするかに利害が関わって来る。どちらかといえば好奇心が強いようだが、金銭の問題が関わるだけに、みんな遠慮がなかった。うるさい従妹たちなどはロニの容姿に頬を赤く染め、嬉しそうにささやき交わしている。
 ロニは臆したところもなく、彼こそがこの場にいるのに最も相応しいのだといわんばかりの足取りで、部屋の中へ入っていった。
 ロニは寝台の傍にいる母に軽く会釈をした後、父の枕元に立った。そこでようやくくつろいだ様子で、両足を開き、片手を腰に当てた。
「親父、ずいぶん遠いところまで呼びつけたな」
「ようやく来たか」
「それで、なんの話をしたいんだ」
「そう急くな」
「急げって言ったのは親父だろう。それに、早く戻らないと取引に穴が開くんだ」
 笑いながら言った言葉には親しみがこもっていて、おかしなことだが、レネの父と親子なのだと納得できた。
 母は立ちあがると口を開いた。
「私は失礼しますね」
 水入らずにしようというのだろう。レネも思わず母を追おうとしたが、押し戻された。
「あなたはいなさい」
 冷たいほどあっけなく、扉はぱたんと閉まった。あとには父と二人の息子だけが残された。出て行きたかったが、それは出来ない。扉を見凝めたままのレネの背中に、ロニ・ファティマの視線が刺さっているのがわかった。居心地が悪いが、レネが意を決してふりむくと、すばやく逸らされた。
「二人とも、こちらに来なさい」
 父は寝台に身を起こし、二人を見た。ロニとレネはお互いに顔を見交わした。何度目かの問いになるが、あちらはレネの存在を知っていたのだろうか。だが彼は途端ににやりと笑って言った。
「彼が親父の息子?」
「おまえの弟だ」
「弟、か……」
 碧い眼でロニはレネを見たが、相変わらず感情はうかがえなかった。レネのことを疎ましいと思っているのか、どうとも思っていないのか、その視線ではわからない。レネにしても、自分が彼のことをどう思っているのかわからなかった。人となりもわからないのでは判断の下しようがないが、母親の違う兄弟であるという理由だけでは嫌うも好きになるも考えられない。
「つまり、彼にとって僕は兄貴ってこと?」
「ああ」
 ロニは当たり前のことをくりかえしてから、ため息をついた。
「それで、親父どのはなにが言いたいんだ。こっちに腹違いの兄弟がいるだろうとは思ってたけど、僕よりでかいとは予想してなかったな。僕を驚かせたいわけではないんだろ?」
「おまえたちは兄弟だ」
「親父が言うなら、そうなんだろう」
 これからなにが始まるのかわからず、レネも困惑したままだった。
「私は自分が与えられるすべてのものを、公平におまえたち二人に与えて来た。二人とも私の誇るべき息子だ」
「親父どのも、僕にとっては誇るべき父親だよ」
 ロニはそう言って自然とレネを見た。多分、レネもなにか言うことを求められているのだろう。父の視線と知ったばかりの兄の視線を受けて、レネの心臓は飛びあがった。口を開いたが、なにかを言えばいいのやらわからない。
「俺も……俺もだ」
 父を誇りに思っていることに偽りはなかった。ないがしろにされた記憶はないし、ロニの様子を見るに、きっとロニにとってもそうなのだろう。二人の女性を妻にして現金なことだと思う人間もいるかもしれないし、いるかもしれない腹違いの兄弟がどう考えているのか気にしたことはあるものの、恨みはなかった。
「私がおまえたちへ最後に与えられるものがある」
 父は傍らの卓子に置いていた箱を取った。震える手でその箱を開くと、中にはまったく同じ細工を施した一対の碧玉の首飾りが入っていた。どちらも、碧く深い光を湛えた半円の石だ。レネには見憶えのあるもので、もともとはひとつの丸い玉だったものだ。これほど大きな石は滅多にないのだと、父は見せてくれたことがある。商人が手元に置いておくのは馬鹿らしいほど高価なのだが、その色があまりにも自分の眼の色に似ているので手放すことが出来ないのだ、と。
 ――つまりこれはおまえの眼の色でもあるな、レネ。
 父はそう言って笑った。
 石はきれいにふたつに分けられて、首飾りになっている。
「ロニ、首を貸しなさい」
 言われて、ロニは父の前に首をさしだした。首飾りをかけてもらうと、彼は次にレネを促した。レネもロニに続いて、首を傾ける。冷え切った父の指が首筋に触れて、ずっしりと重たい碧玉が首から下がる。レネは思わず父のその手を強く握った。
「父さん……」
 その碧玉が、まるで父の魂で、二人に分け与えたことで父の肉体からその魂が失われてしまったような気がしたのだ。息子の手を握り返しながら、アレク・ファティマは告げた。
「これでもう、私がおまえたちに与えられるものはなにもない。今度はおまえたちが、それをお互いに分け与えなさい。ひとりで握りしめてしまうのではなく、形あるものも、形ないものであっても、お互いに分かちあいなさい。そのためにおまえたちをここに呼んだんだ」
 二人は改めて顔を見あわせ、そして兄弟の胸に輝く碧玉を見た。
(そうか、この人が俺の兄なのか)
 父の与えた碧玉が彼らが兄弟であるということを証していた。レネは、彼と共に自分の運命が回り始めるのを感じた。ロニ・ファティマが兄だからというだけの理由ではなく、彼がただ人を惹きつける青年だからではなく、ただ一対の玉を分けあった相手だから、そう感じていた。
 碧玉は父の魂でもあったが、彼らの魂でもあった。
 兄の碧い眼を見凝めながら、レネは、この男にどこまでもついていくことになるに違いないと確信していた。彼のことなど露ほども知らないのに、レネはそう思っていた。なぜなら彼らはもはや分かち難い存在だからだ。ついさっき初めて会ったばかりだということがとても信じられなかった。
 ロニは、レネからの視線を逸らすことなく、受け止めていた。ロニもまた同様の予感を覚えているに違いない。彼はしばらくそうしていた後に瞬きをして、笑って父親を見る。
「彼を見た瞬間に思ったんだ」
 ロニの笑顔はまぶしいほどの太陽の光に似ていた。それはまだ見ぬ砂漠の太陽の烈しさだ。
「僕は彼を、連れて行くよ」
 どこまでも。砂漠の太陽の気配をにじませて、ロニはレネへと手をさしのべた。





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