「今日はこれで失礼する」
カレルはそう言って、空になった器を置いた。戦艦に備えてあるにはらしからぬ華奢なニサン陶器に、何杯も茶を注いだあとだった。ロニが仕入れて来る茶葉は多島海に産する極上品なのだが、あいにくカレルはさほど茶の味に固執する人間ではなかったので、遠慮もなくがぶがぶ飲み干していた。
ロニが抱えているティーポットには、高い木の枝に巣籠りするヒメモリバトの絵が彩色されている。ロニはどこか気もそぞろにカレルを見た。
「もう行くのかい。今日は非番なんだろ」
「ああ、だがいま調べていることがあってな。明日、ニサンにメルキオール師がいらっしゃるというからそれまでに進めておきたいんだ」
そう言うと、ロニは意外にあっさりと、「そうか」と言った。もう少しひきとめると思ったのだが。カレルが立ち上がると彼も同様に器を置いて席を立った。わざわざ見送りをしてくれるわけだ。
「送らないでいいぞ」
「いや……送る送らないとかじゃなくてね」
ロニはそう言ってにやりと笑う。なにを考えているのか知らないが、油断のならない表情だった。
非番のこの日、カレルはニサン近くに停泊しているロニの艦にやって来ていた。はじめはレネやラカンもとりまぜて艦長室でしばらく話しこみ、やがて二人は出ていったのでカレルとロニは茶の杯を重ねながら漫然と話し続けていたというわけだ。
「明日は私はメルキオール師とお会いするから」
「ああ、邪魔しないようにするよ」
受け応える会話ばかりはいつもと同じだ。
扉の前に立ったカレルは、ふりむいてロニを待った。いつものようにキスをして、それで帰ろうとカレルは思っていた。
キスの間も、いつもと変わりはなかった。ただなんとなく、彼の唇が熱かったような気がした。なんとなく。
離れたロニは呟いた。
「でも、いま帰ると、あとで大変なことになると思うけど」
「大変なこと?」
「そろそろ薬が効いてくると思うんだ」
「どういう意味だ?」
「鈍くないくせに」
人の悪い笑みを浮かべたロニは、問答無用とばかりに再び唇を重ねてきた。あいかわらず熱い。けれど熱いのは自分のせいだとようやくカレルは悟った。奥の方からこみあげるように熱さが溢れてきて、離した唇がかすかに震える。
「こっちだって鈍くないだろ」
腰を這うロニの手が、やけに生々しい。彼の腕の中で露に反応してしまう自分に臍をかんで、カレルは睨みあげた。
「おまえ……」
「一遍さ、カレルから言ってもらいたいなと思って」
「思ってなんだ……!」
声が震えるのは憤りのためばかりではない。だいぶ予測が出来ていたが、眼の前の阿呆がそこまで阿呆だとはさすがに信じたくない。
「あれが毒だったらどうするんだ。あんなにがぶがぶ飲んで」
「無味無臭だな」
「そうでもないんだけど。紅茶に混ぜたら、わからなくなってしまう程度だよね」
僕は匂いを知ってるからわかるんだけど、とロニはからからと笑ったが、そんな場合ではない。
「……なにを言ってほしいんだ」
「僕が欲しいって」
予想された答えだったが実際に聞くと理性がぶちきれそうだ。
「そんなことで薬なんかを盛ったのか」
「そんなことせずともいくらでも言ってやる、とか言わないのが君らしいな」
――そういうことなのだろうか。
そういうレベルの問題ではないはずだ。彼は片腕を強く伸ばして拒絶した。
「やることがあると言ったはずだ」
「もう少し早くに言ってくれれば日を変えたのに」
ロニと話していると、問題がどんどんずれていくような気がする。
「変える変えないの問題じゃない」
頑なな態度を崩さないカレルに、ロニは仕方ない、という様子で身を引く。
「この薬、我慢するとかなりつらいって話だから、がんばれよ」
「今度からは自分で試してから盛れ」
「試したら盛っていいのかい?」
「そういう切り返しはつまらんぞ」
「そんなこと言ってる間に辛くなってきたんじゃない?」
息があがってきたのを見たのだろう、ロニがそう言った。
「ブレイダブリクの東にあるオアシス都市の名前がついた薬なんだ。薔薇色の城壁があるから赤い街と呼ばれている。そこの研究所で作られた薬というのが定説で、別名『赤い街の秘密』と言われてて……」
問題のそれた蘊蓄にうるさい、と言う気力もなかった。すでに口を開くとどうなるかわからない状況で、カレルは憤然と部屋を飛び出した。
……ニサン市街の自分の部屋に戻ったときには、後悔する心が頭をもたげていた。手足がもう思うように動かないのだ。あの馬鹿が盛ったのは本当にただのよこしまな薬なのか、疑いたくなる。
蒼白な顔で部屋に駆けこんでいった彼を、人々はどう思っただろうか。懸念だけが頭をよぎるが、とりつくろう余裕はない。
机の水差しに手を伸ばし、コップにうつしかえる。零れた水がまだらに散らばった。拭き取る気力もな
ともかく冷たい水を飲み下すと、ほんのわずかだけ気分がおさまった。その隙に、カレルは唇をかみしめてどうするか考えた。
また艦に戻るか? だが、ここまで来た以上、ロニの企みどおりになるのは死んでも御免だった。彼の言うままになるつもりは毛頭ない。
結論は、寝てしまえ、ということだった。どうせこれ以上、なにも出来ないのだ。寝てしまえば、いくらか気分も散らせるはずだ。
決意したカレルは、むしりとるように服を脱ぐと、寝間着に着替えて早々に横になった。それでもときおり、薬のせいで躯の奥から軋みが起こる。そのたびに、唇をかんでその感覚を忘れようと躍起になった。
……ようやくうとうととしたときだった。戸を叩く音が聞こえて、あとから「カレル」という呼び声が続いた。眠りかけていたのに、意識は急激に正気づいてしまう。そうすると、また波のように我慢しきれない気分が押し寄せてくるのだった。
――うるさい!
もちろん、呼び主はロニ・ファティマだ。他の誰かの声ならばそのまま眠れたかもしれないけれど、たぶん彼だったから目が覚めてしまったのだろう。そのことも非常に不愉快だった。
「カレル? いないのかい?」
カレルは唇を強くかみしめた。そうしないと負けてしまう。なのにロニの声に、先ほどの腰を触れた手つきが思い出されてしまうのだった。
「カーレール」
あまりにもしつこいので我慢しきれず、カレルは起きあがると扉にむかった。床が歪んでいるから、真っ直ぐ歩けないがそれでもなんとか。扉を開けるとなにかロニが言おうとしたが、ともあれ、彼のむなぐらをつかむと部屋にひきずりこんだ。
「表で騒ぐな。なにか用か?」
「君のほうこそ、なんか僕に言うことは?」
居住まいを正したロニは、顔色の悪いカレルを見てまた、笑みを浮かべる。
「……ない」カレルはよろよろと寝台に戻った。「寝るから出ていってくれ。いいか、騒ぐんじゃないぞ」
「我慢するようなことじゃないだろ?」
ロニは、言葉の調子をがらりと変える。いたってまじめに彼はそう聞いてきた。
――確かに。
行為自体はいつものことだ。けれど、カレルが嫌なのはロニがそれをおもしろがっているということなのだ。薬で昂ぶった自分を抑えるのには未曾有の努力がいる。彼は、嫌いな相手じゃないのにそこまで、という我慢をしていた。
「僕のお願いを聞いてくれたっていいじゃないか」
「ものによる」
「……わかったよ」ロニはため息をついて近寄ると、キスをした。「そんな青筋たてて涙までにじませて言われちゃあさ」
ぎりぎりの努力は、触られたとたんに溶けてしまった。カレルはロニの唇を探る。二人はシーツの上に倒れこんだ。じっくりと唇を重ねて、離れる。
カレルはぼそりと言った。
「ここは嫌だ」
「……なに」
「ここでは絶対に嫌だ」
「なんでだよ?」
「壁が薄いんだ!」
「そんなこといっても、じゃあどうするんだ。艦まで行けるのか?」
「殴れ」
「え?」
ロニが目を白黒させているうちに、カレルはその体を押しのけた。
「気絶させろと言っているんだ、わかるだろう?」
カレルは決心を変えるつもりはなかった。たかが薬程度でロニを甘えさせるつもりはなく、落胆の色を隠さない彼に、こうとどめをさした。
「明日は憶えていろよ」
「わりにあわない……」
ロニがそう呟く。それぐらいしないと聞かないくせに、とカレルは心の中で悪態をついた。
ロニは気絶した後になにかするかもしれない、という考えが掠める。とは言っても目覚めない眠り姫にキスをする程度だ。それぐらいはさせてやっても悪くない。そこまで思ってカレルは言った。
「いいから、やれ」
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昔の自分はホモのセオリーを踏襲しようと涙ぐましい努力をしていたのが見えて泣きそう。失敗してるけど。(080315)
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