闇を喚ぶ
 黒よりも闇を喚びこむのは藍だった。黒は光を反射し、そこに形を浮かび上がらせてしまうのだ。しかし藍は、すべてを吸いこむ。光も、影も、吸いこんで闇となる。
 男の髪はそもそもその藍の色をしていたので、闇を喚ぶのはた易いことだった。髪と同じ色の糸を使った服をまとい、足袋も手袋も同じ色で揃えるのだ。だが、それだけでは闇には溶けない。彼の皮膚は大陸の人間としては白く、そのままでは顔だけが白く闇の中に浮かび上がる。だから、糸を染めたのと同じ染料を顔に塗りたくることで、ようやくすべての支度が整うのだった。
 ずいぶんと久しぶりに闇に同化する姿をし、男はその王城に降り立った。彼の姿は闇を喚び、王宮を照らす松明の届かぬ場所では、だれも彼の姿を見出せなかった。音もなく彼は走り、だれも知らぬ間に王の部屋へと足を踏み入れた。彼が闇に飲まれたまま窓から床を踏むと、王の寝台の傍で燃える燭台の火が、ほんのかすかに揺らめいた。
 前にここを訪れたときから時が流れた。そのときはもちろん、闇を喚ぶ姿などしていなかった。王の夜伽の相手をしていると、一糸まとわぬ彼の姿が闇の中に浮かび上がり、王はそれを称えた。彼は美しかったし、皮膚の白さはなまじの女たちには適わない眩しさを持っていた。彼の白い皮膚が悦楽に紅潮すると、王はそれを必ず口にして、その朱く染まる肌のことをも称えた。男は王の讃美にいささかも喜びを感じなかった。そのときの王は彼の雇い主であって、彼が逆らえる相手ではなかったのだ。身体を売ることを拒んで泥をすするような暮らしをするのも気が進まなかったし、その国は他でもない彼の力を必要としていて、与えられる任務を次々とこなす己の力に酔っていたのも確かだ。なぜ自分がそこにいて生きているのか、そんな益体もないことを考えずに済んだのは、王が与えた仕事と夜の営みのお陰だったろう。その点で彼は王を憎んではいなかった。
 彼が王に重用されたのは、夜伽の相手として必要だったからではないし、彼が兵士として、そして士卒として並外れた能力を持っているということが理由ではなかった。彼が闇を喚ぶ者であったからだった。闇となり密かに忍び寄り、王の望むままに死をくだす。男は刺客だった。王の望むままに無数の死をくだして来た。彼が命じられたその任務を果たせなかったことはたった一度しかなかったが、それは、彼が王のもとを去る契機でもあった。いくつかの任務を済ませたあと、王は彼にこう尋ねたことがある。
「おまえはなぜそうもた易く私の望みを適えてくれるのだ? いかなる術がおまえに闇を喚びこませるのだ?」
 男は恭しく膝を折り、しかし驕り高ぶった笑みを口角に刷いて王に答えた。
「この世には多くの能力があります。拳法は戦う技能を磨くだけでなくむしろ精神を鍛えることを目的として修めるものですが、私にはそうは思われません。これは技術なのです。唯一純粋な対人技術として存在するのは、拳法の他に存在しないといっていいでしょう。私の技術は己の精神を高めるためでなく、私の兵団を守るためでもなく、ただ純粋に人を殺めるためにのみ存在するものなのです」
 その国は技術力が高く、戦争において人間の力よりも技術に頼る戦いを好んだ。それを知った上での彼の言葉だったが、それはやはり王の気に入ったらしい。王は男を重んじ、多くの特権を与えたのだった。
 そしていまや、彼は闇を喚ぶ姿で王の枕元に立っていた。無論彼は王を殺しに訪れたのだ。
 様々な可能性を考慮し、王の死を選ばなければならなかった。どの死が王にふさわしいのか、とうに吟味し尽くしていたが、かつて通いなれた閨を見るとさすがの彼も戸惑わずにいられなかった。あの頃の男であれば、どれほど親しくした者を殺すのだとしてもためらうことなどありえなかった。しかしいまの男は違った。彼はこの国を去ってようやく人間とはどのような生き物なのかを学び、命というものが取り返しのつかない痛みであることに気づき、自分が犯してきた罪のいかなるものかを知った。
 だが男は、自分がこれから目の前にいる男を殺すことも承知していた。それは必要なことであった。その大儀のためならば再び闇を喚ぶことを彼は辞さなかった。この世のだれも、彼がいまここにいることを知らない。それこそが彼の刺客たるゆえんだった。
 闇となった彼はとうとう蚊帳をひらき、かつて侍った王の枕元にかがみこんだ。右手に暗器を握り締め、ゆっくりと左手を王の唇に触れた。王は目を覚まし、闇となった男を見上げた。顔の造りも見えないはずだが、闇そのものの姿はわかったのだろう。王は彼の名前を呼んだ。悲鳴じみたその声を聞いて彼は笑い、目を細めた。
「あの女のために私を殺すのか」
「それが必要なのだ」
「あれは所詮悪の華ではないか。慈愛に満ちた微笑を浮かべようが、神を代理しようが、山ほどの悪人たちが寄って集って丹精した悪の華に他ならないではないか。おまえも庭師の一人だろうがな! おまえたちに大儀はないのだぞ!」
「知らないか、かつて私が闇として彼女の前に立ったとき、彼女がなんと言ったのか?」
「それを伝えずにおまえは消え失せたのではないか」
「彼女はその悪の華を手折る私に感謝を述べたのだ。彼女は自らが戦乱の種となることを知っていた」
「だがおまえはあの女を生かした」
「ああそうだ。そして戦いは起きた。だからあなたに死んでもらわねばならないのだ」
 男はそう言うと、暗器を持って王の胸を叩いた。王は寝台に力なく倒れ、それを見届けると彼は静かに寝台から身を引いた。
 再び窓から身を躍らせれば闇の中に男の姿を見出すことは出来ない。
 こうして王国は、突然王が死んだことによって崩壊した。王の不審な死は多くの疑念を呼んだものの、だれもその証拠を示すことは出来なかったし、既にして王国の解体は進んでいた。暗殺者の名はまことしやかに噂されていたものの、いまや隣国で地位を確かにしている男の名前をはっきりと口にする者もいなかった。ただひとり、男のいまの主君だけが彼にそれを問いかけた。彼女はたったひとり男が殺し損ねた人間だったので、当然彼の闇を呼ぶ姿を知っていた。
「あなたはなぜ私が望むことを叶えることが出来るの? どうやって私に最も必要なことを為すの?」
 決して核心に触れる言葉は口にしなかったが、それが隣国の王の暗殺のことを指していると男はすぐに察した。彼は王を殺したことを自分の胸に留めておくつもりだった。その死は彼女に命じられたものではなかったし、そもそも王が殺されたという証もここにはないのだった。しかし彼女の目は男に偽りを許すようなものではなかった。
「あなたのためであれば、私はいくらでも闇を喚ぶでしょう」
 彼女はその言葉で彼の為したことを承知した。両手の指を組み合わせ、まるで祈るように胸の前に持って来ると、静かに彼を見た。
「私には見えた。
 私には、闇の中であなたが見えたのよ」
 だからこそまた、彼女は彼が唯一殺し損なった者でもあるのだった。





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自分の書くものはオリジナルとか二次創作とか、そういうのももうどうでもいいんじゃないかな、と思えてきて、本当だったらなんの注意書きもなく停止している本館のトップにでも放置したい気分でした。(070405)

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