すべての手配を終え、シェバト全市は臨戦態勢に入っていた。数時間が経っていたが、シタンの姿は王宮からは発見されていない。潜伏しているのだろうが、どんなに市街をスキャンしてもシタンの姿は見つからなかった。一刻も早く居場所をつきとめ、どんなことをしても彼を排除しなければいけないのに、なんの手がかりもない。ガスパールを待つと言った以上、半日程度は姿を消しているかもしれなかった。
完璧に管理されているはずのシェバトのどこに隠れているのかと焦燥しながら、ユイは手元の端末に入って来る情報をたどりながら、マリアを探した。シタンとは違い、マリアは情報があった。おそらくシタンを探しているのだろう。あちらこちらの部屋を訪ねている。マリアはゼプツェンが無ければ戦闘能力は無い。まだ子供なのだ。それでも彼女がおとなしくしているとは限らなかったし、シタンが、マリアの命を見逃すとも限らなかった。
マリアのあとを追いながら、ユイはシタンが語ったアキツの物語を思い出していた。あれほど生々しく、苦しみに満ちたものが作り話だったとは思えないのだ。けれどどこかは嘘だ。実際にあったことだがアキツではなかったのか。それともシタンはあの虐殺をもたらした側にいたのか。点滅するマリアの足跡を見ながら、ユイはひたすらにシタンのことを思い出していた。
(このシェバトではシタン・ウヅキと名乗っています)
シタンのその言葉を思い出して、はっとした。当たり前だがそれは偽名なのだった。どこかのだれかの名前を彼が名乗っているに過ぎない。ユイは彼をシタンという名でしか知らないのに、彼は本当は違う名で呼ばれるべきなのだった。あの狂喜の笑みを浮かべた男は、別の人間だ。頭の中が混乱する。なぜ彼はシタン・ウヅキの名を名乗っていたのか。シタン・ウヅキという名は、アキツの住民の記録から確かに存在している名前とわかっていたし、彼は父親に似ているのだという。それでは彼はシタン・ウヅキ自身なのか? アキツの事件のあと、ソラリスで洗脳されたというのか? けれどアキツの出来事を記憶しているのに、その悲劇をもたらしたソラリスの手先であるのは奇妙だった。なにもかもが混乱している。彼はだれなのだろうか。
マリアを示すアイコンが目の前に迫っていた。ユイは端末を腰にかけると念のために棍を引き抜いた。目の前にある部屋にマリアはいるはずだ。王宮内の客室として使われている部屋のひとつだ。たいがいは空っぽのままにされているが、地上からの訪問者を泊めるときに使われる。シェバト軍に編入される地上の住人たちが実際に暮らすのはアウラ・エーベイルの宿舎になるが、シェバトを訪れた初めは、だれもが王宮で一晩を過ごすことになっているのだ。
シタンがそんな場所にいればすぐわかるはずだから、彼はそこにはいない。わかっているのに、鼓動が乱れた。息が上がる。ユイはボタンを押して、扉を開いた。
寝台に腰かけて、マリアは途方に暮れたような顔をしていた。部屋にはもちろん、マリアひとりだった。
「マリア、心配したわよ。無事でよかった」
マリアはすがるような目でユイを見た。いつものように彼女はなにも喋らない。
「陛下の元に戻りましょう」
すると、マリアは激しく首を振る。やはりさっきの通信のいくらかは聞いていたのだろう。シタンを探したいのだという意思表示と見て取ったユイは、なだめるように腰をかがめた。
「いまは危険なのよ。わかって」
マリアはなにかを言いたげに唇をかみしめ、ユイを見つめる。長くゼファーの傍を離れるわけにはいかない。説得するのを諦めて連れて行こうとしたとき、マリアが口を開いた。
「いたの」
「なに、」
マリアはソラリスから連れ戻されて以来、いままで一度も口を開かなかった。はじめて聞くマリアの声だ。か細く、高く、幼い。彼女と彼女の両親を救出するために、何人もの兵士が犠牲になったことをユイは知っていた。ユイが顔と名前を知っている人々もその中にいる。思わず涙が出そうになった。
「あのひと、ここにいたの。ちがう。あのひと、このへやに、きたの。わたし、みたの」
「シタンに会ったの」
マリアは大きくかぶりを振る。
「みたの。このへやにはいるの。マリアもへやにはいったの。あのひといなかったの。きえたの」
ユイはつたないマリアの言葉を聞きながら、必死に理解しようとした。シタンはこの部屋に入ったのだ。マリアは先にこの部屋にいたわけではなく、見かけて追いかけたのだろう。
なのにシタンはこの部屋にはいなかった。
「
このひとしってる」
マリアはまだ続けていた。
「みたの。
おとうさんといっしょにいたわ」
ユイは首筋に冷ややかな刃が当たっているのを感じた。研ぎ澄まされて曇りの無い、シタンの佩いているあの刀だ。マリアは子供ながらに憎悪をこめて、ユイの背後を見ていた。ユイは振り返ることすら出来なかった。
「クイーンの駒を奪う前に、まずはナイトから」
シタンの声は愉快そうだった。
「マリアは逃がしてあげて」
「僕を憶えているのに?」
「まだ子供よ」
「僕は彼女の齢の頃、何度も死にかけました」
「マリアだって何度も死にかけてるわ!」
「……なるほど。一理ありそうですね」
気配がわずかに遠のいた。ユイは強張った腕を伸ばして、マリアの肩を握った。
「陛下のところへ戻って」
「へいかはなにもしてくれない」
「お願い」
「おとうさんはどこにいるの」
「……ソイレントにいらっしゃいますよ。至極、お元気です」
シタンがそう言うと、マリアは表情を変えずに部屋を出て行った。ユイは静かに立ちあがる。逃げる隙は少しも見出せなかった。シタンは警戒している様子ではなかったが、その何気ないふるまいですら、ユイに身動きをさせなかった。
「マリアの父親を知っているの」
「まあ何度か……顔を合わせたことはあります。ただ、彼は特別プロジェクトの管理責任者ですから、隔離されていて」
「管理責任者が聞いて呆れるわ。無理矢理拉致しておいて――!」
「さあ、どうでしょうね。聞いたことはあるんじゃないですか? ニコラ・バルタザールは逃亡できたはずだったのに娘に同行しなかった、と」
「根拠のない流言よ」
「それも僕にはわかりません」
腰から下げた端末には、緊急を知らせるボタンがある。それさえ押せれば、後はシタンを引きとめておくだけでよかった。ユイの命はないかもしれないが、それはあのときの地上の事故で失っていたはずのものだと思えば惜しくなどない。なによりシタンをここまで連れて来たのはユイだった。その責任を取る方法としては、間違っていない。
それにマリアが、ゼファーに伝えるはずだ。だから、シタンには時間がない。しかし彼は悠長に呟いた。
「彼女は僕の顔を憶えていたんですね。凄い記憶力じゃないですか。一度しか会っていないはずですよ」
そう言いながら、シタンは眼鏡のフレームを持ち上げた。
マリアは、シェバトでは何度かシタンを見ているはずだ。そのときは思い出さなかったのだろう。今回、ソラリスというキーワードと彼の顔が合わさってはじめて、思い出したのだ。ソラリスにいた頃のマリアの記憶がどれだけ鮮明なのかはわからない。いままで話さなかったのだから、だれも知らないのだ。
「きっとあなたの悪人面に刺激されたのね」
「悪人面、ですか。ふふ、ひどいなあ。僕はよく言われたんですよ。僕を見ていたら人を殺す人間にはとてもじゃないけど見えないって」
「ソラリスで?」
シタンは笑った。
「ええ、ソラリスで」
「嘘つき」
ユイは歯軋りした。じわじわと、堪えきれない涙が眼に溜まった。
「僕があなたに嘘をついたことを、怒っているんですか?」
「嘘つき!」
「嘘つきと、騙された人間と、どちらが悪人なのでしょうね。そう思いませんか」
「詭弁だわ」
「そうじゃありません。嘘をついていると知っていて嘘をつく人間。嘘をつかれているとわかっていて騙される人間。結局、その嘘を嘘となさしめるのは騙されている人間の方ではないですか? 僕がここへ来たわけは、本当はあなたにはわかっていたはずです。僕がシェバトを滅ぼしに来たのだと、あなたには何度も気づくチャンスはあった。けれどあなたは気づかなかった。それを認めると、仲間ではなく敵を助けた自分をきれいなままにはしておけないからです。あなたは騙された。あなた自身がそれを決めた。……それは他でもない、あなたのために、です」
詭弁だとわかっていたが、シタンに返す言葉がなかった。端末のボタンを押すことなど考えられなくなっていた。マリアはだれも呼ばなかったのだろうかとユイは思ったが、マリアの少ない言葉でこの部屋にたどり着ける可能性は高くないのだろうか。
「あなたは自分を守るために、この都市に僕という災厄を連れこんだんだんですよ」
「殺せばいいわ……」
「あなたを? どうして」
「もう私は用なしでしょう。陛下の元に行くというのならば、私は全力であなたを止めるわ。陛下の元に行くには、私を殺すしかない」
シタンは生真面目な顔でユイを見た。
「僕はあなたみたいな人間をいままでふたりだけ見たことがありますよ。ひとりは僕の友人でした。ソラリスで洗脳されて、家族のことを思い出すことができなかった。ようやく思い出したけれど、ソラリスでてこずっているあいだに家族を皆殺しにされていました。……それからもうひとりは」
シタンは眼鏡を再び押し上げた。
「もうひとりは、自分の故郷を滅ぼした。もっとも、彼はそれを知らなかったのですがね。それでもおかしいとは思っていた。わけもなくあの男がそんな命令を下すとは思わなかった。けれど彼はそのとき、考えるということをすべて拒否していたんです。逆らえない力に抗って苦しむよりも、歯車となり、言われるままにただ動けばいいと。そのほうが楽だったのです。与えられたものはあまりにも心地よくて、あまりにも懐かしくて、あまりにも僕の求めていたものだったから。……」
微笑したシタンは、ユイから目を逸らした。
「だから僕はアキツを滅ぼしたのです。
あなたがいま感じていることを僕は知っている。なんだか愉快ですね。僕はもうすべての感情を手放したと思ったのに、こんなに残っている」
シタンのいうことは少しも理解できなかった。ただ彼の身体中からにじみ出るなにか闇のようなものが、自分の足元にもとぐろ巻いているのを感じていた。
「そろそろ動きましょうか。あまりとどまると、うまくないですから」
シタンは天井のパネルをはずし、ユイを先に上がらせた。後から登って来て、再びパネルを閉じる。エアダクトだった。シェバト中に張り巡らされていて、通路にはなりうる。かなり巨大なのは、シェバトの大きさを支えるための支柱の役割も果たしているからだった。
とはいえ、ここを移動したとしても、痕跡は残る。すべてではないが要所にセンサーは設置されているのだ。避けて通るためには、ユイが持っているような端末を手にしていなければ無理だろう。シタンがそういう機械類を手にしている様子はない。彼はそのセンサーの位置をすべて頭に入れている、ということだ。シタンは勉強熱心だったが、そういう保安情報が簡単に手に入ったはずがない。つまり彼は、ソラリスでその情報を手に入れていたということになる。ユイはぞっとした。
(我々がソラリスに対して少なくとも滅ぼされないだけの力を保持していると思っているのは思い上がりなのではないの。むしろソラリスにとってはあまりにも我々は弱々しく、相手にならないだけではないの――?)
「……ソラリスは」
ユイは歩くシタンの後を追って、尋ねた。
「本当に陛下の命を狙っているの」
「さあ、どうでしょうか」
「命令されているのではないの?」
「陛下を殺せと命令を受けたわけじゃないんです。僕に与えられた命令は、地上でシェバト勢の活動を妨害することでした。あいにく、任務がバッティングして、その命令を遂行しなくてはいけない期間、僕はシェバトを訪問することになっていた。……まあ、バッティングしたというか、嫌がらせでわざとぶつけられたんですけどね。うちの護民官、執念深いことにかけてはだれにも負けないですから」
「訪問? これが、訪問だというの?」
「ふたつの任務を同時に遂行せざるを得ない以上、こういう形になりました。僕の本来のシェバト
訪問の目的は、あの伝言です」
「アルタバンという、あれ」
「そうです」
「あなたは意味を知っているの?」
「僕はあの言葉をシェバトに伝えろと言われただけです。意味は知りません。メルキオール殿がシェバトにいないと聞いたときはどうなるかと思いましたが……ああそれに、はじめてあなたの名前を聞いたときも驚いた」
「三賢者に身内がいるとは思わなかったのね」
「なにしろ、五百歳の方々ですからね。伝えられる状態なのかもわからなかったし、あなたの名前を聞いたときは、もしかすると伝える相手は五百年前の三賢者ではないのではないかと迷いました」
「だれに命じられた伝言なの」
ユイが問うと、シタンは少し考えた。ユイに話していいのかどうか考えているのだろう。ユイは、カレルレンという、メルキオールやゼファーが話題にしていた名前を思い出していた。しかし、アルタバンという人物がいるのかも知れない。
シタンが考えていたのは短い時間で、彼はすぐにユイの問いかけに応えた。
「ソラリス天帝、カイン陛下です」
「……何百年も生きているという、天帝カイン?」
「何千年、じゃないですかね」
カインの存在は知識として認識はしていたが、絵空事のような気がしていた。何千年も生きているということを想像できないからだったが。五百年生きている人間たちが身近にいてさえ、無理だった。
「天帝カインがアルタバンだ、というのね」
「それはどうでしょう。陛下は何千年と生きつづけていらっしゃる。その陛下がなぜ、
たかだか五百歳の三賢者に追いつけないものとして名乗るのか? これをおっしゃったときの陛下の様子も妙でしたし。むしろ、カレルレンの方が――」
「カレルレン?」
「護民官ですよ」
シタンに嫌がらせで、地上の戦線の邪魔を命じた人物だ。
「陛下もカレルレンの名前を出していたわ」
「ゼファー女王が。ふうん、じゃあやはりそうなのかな。けれど、カレルレンがなんだって陛下……」
あの伝言はどうやらシタンも腑に落ちないものだったらしい。
先に行ったのはだれか?
神の子を見出したのは?
「この伝言は、謎かけなのでしょう。だれに対してなのか? ひょっとすると僕に対してなのかもしれない。三賢者とは本当にあの人たちだったのか? アルタバンはだれのことなのか?」
シタンはじっとユイの顔を見た。
「そういえば僕の名前を言っていませんでしたね」
「……シタンではないのね」
「ヒュウガ・リクドウ。それが僕の名前です」
「シタン・ウヅキというのはだれの名前なの?」
「僕の従兄弟ですよ」
「彼はいまどこに、」
「彼の話はしたじゃないですか。……彼はアキツで暮らしていました。死体の山の中から躍り出て、アキツ殲滅の指揮官を斬ろうとした。結局は、逆に斬り殺されたのですが」
シタンは彼の言葉が意味するところをわかっているのだろうか。聞きながらユイはわかっていないのではないかと一瞬疑った。けれど、そんなはずはない。わかっているはずだ。ユイは見も知らないシタンという男の死に、ついに涙を零した。けれど本当は死んだ男のために泣いているのではなかった。目の前にいる男、生き残ったほうの男のために、涙が出たのだった。それがなぜなのかはわからない。
「彼の無謀な勇気を考えると寒気がします。愛する人たちの死体で窒息しかかりながら、彼は狂うこともなく、ただ僕の命だけを目指して耐えたのです。それが僕の従兄弟だとわかったとき、カレルレンがなぜ僕にあの町の殲滅を命じたのか理解しました。
僕はまんまとカレルレンにしてやられたのです。あの男は残酷なことが大好きなんですよ。本当は僕など取るに足らない存在だと思っているし、それなのにアニマの器を与えざるを得なかったのが腹立たしいのでしょう。もっとも、僕は自分を守るためにアキツを滅ぼしたんですが。だから僕を憐れむ必要などないんです」
そう言われても、身体の震えが止まらなかった。シタンは、……ヒュウガはおずおずとユイに手を伸ばし、それから彼女を抱き寄せた。しかしそれは愛情のこもったものではない。そんな感情がヒュウガにあるとは思えなかった。抱き寄せたとき、ヒュウガは盗賊たちを斬り伏せたのと同じ顔をしていたのだから。
ユイはヒュウガに身を寄せながら、彼の内部にある、暗い暗い闇を感じた。それには果てがなく、その奥から、とめどなく響いて来るざわめきが聞こえるようだった。それはヒュウガが話した死のざわめきだった。アキツで皆殺しにされた人間たちの力なく横たわる死が、死そのものをざわめき続けているのだ。
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