内務省
『ある人が、これまで受け継がれてきたものに激しく敵対すればするほど、その人は自分の私生活をますます仮借なく、来るべき社会状態の立法者へ高めたいと彼が願っているもろもろの基準に、服させることになるだろう。あたかも、まだいかなる場所でも実現されていないそれらの基準を、少なくとも自分自身の生活圏において率先して形成するという義務が、それらの基準から彼に課されているかのように。それに対し、自分が属する身分もしくは民族の最古の伝統と調和して生きている、という自覚を持っている男は、時としてその私生活を、彼が公的生活において厳格に奉じている原則と、これ見よがしに対立させ、そして自分の振舞いを、良心の呵責を少しも感じることなく、ひそかに評価している。そうした振舞いは、自分が宣伝している諸原則の揺るぎない権威を、この上なく強力に証明するものだ、などと考えて。これが、無政府社会主義者の政治家のタイプと、保守政治家のタイプの違いである。』



 その短い散文を読んで顔を上げたヒュウガは、目の前で舌戦をくりひろげる二人を、交互に見つめた。
(無政府社会主義者に保守派ねえ……意外に見えるけれど、案外当たっているな)
 ひとりは、軍部の若き急進力とみなされている、革新派の有能な二級市民。ひとりは、実力で軍の戦力の要となった、それでも地上の匂いをさせる危険なナショナリスト(つまり反ソラリス)のもと実験体。それを、無政府社会主義者と保守派に分類してしまうのは、まったく妙案だ。半世紀も昔に書かれた書物だけれど、納得できる言質でヒュウガは本のその部分に線を引いた。ていねいに、言葉を反復しながらだ。
 とはいえそんなことがわかったからといって、目の前の血の気の多い少年たちをどうすることにもならなかった。ヒュウガは線を引き終えると、本を高く掲げてその節を読みあげてみる。
 だが、興奮している二人は一向に気にしない。いくらかの嫌味をこめた行動だったので、ヒュウガは少し気分を害した。ユーゲントの学生たちは、ヒュウガら三人を遠巻きに見つめているので、その視線も痛い。
「おまえの展望は理想でしかない! おまえは俺を救ったかもしれないが、俺が千人いたらその全員を助けるわけにはいかねえんだよ! いい加減、自分の無力を思い知れ!」
「俺が本当に無力ならおまえなんかとっくに缶詰だ! おまえが生きてると死んでるじゃぜんぜん意味が違うだろう! それを千人もの命と比較して意味がないだなんて言い切るのは、貴様の傲慢だ!」
 話が平行線にしかならないことは全員が承知している。せめて、だまってくれればいいのだけれどとうんざりしながら、彼はため息をついた。それから、いつものように彼は本を閉じて立ち上がった。
「やめなさい。そんな場合じゃないでしょう?」
 こう言うのが、はたからは新しい口論のきっかけを作っているだけにしか見えない、と言われる。無政府主義者と保守派の戦いに首をつっこむのはラディカルなデモクラティスト。つくづく、こんなに立場が違うのによく友達をしているなと思う。
 殺気ばしったカールとシグルドは、険しいまなざしで一斉にヒュウガを見た。口論はいっかな一致しないが、二人はよく似ているとヒュウガは思っている。ちなみに、一緒くたにされるのはごめんだ。ヒュウガはこの二人ほどの直情傾向はない、はずだ。
「システムの異分子を例にとってシステムそのものを批判することは容易ですが、その論拠が弱いことはわかるでしょう。確かに辺縁部では矛盾が露呈しますが、システムの矛盾そのものは辺縁部にあるのではなく、中核に存在するんです。だから辺縁部を論題に選んでいるあなたたちの議論は、僕には無意味なものと映ります」
 ヒュウガが言うと、カールもシグルドも目を見開いた。カールは冷たい表情で、ヒュウガの批判に応えた。
「メタ議論に持ちこもうと言うわけか」
「僕は議論する気はありません」
「だが、俺たちが議論している素材そのものを否定するからには、おまえが言う中核部におけるソラリスの病巣を明言して言及するべきだ!」
「僕が言いたいのは、素材の否定じゃなくて、あなたたの議論そのものが無効だということですよ!」
 どの道、一度ことばを挟んでしまうと、この泥沼の舌戦から逃れる道はないのだ。本を読んで解釈するのも疲れたところだからいいか、とヒュウガは思う。ちなみに三人の議論は、非常に頭を使っているようでいて、実はそうでもない。猫のじゃれあいと似たようなものなのだが、人にはあまり理解してもらえていない。
「それは俺とシグルドに対する重大な敵対行動だな!」
「なんと解釈しても構いません。ですが、譲らないですよ。あなたたちの議論は、議論そのものに意味がありません」
「しかしおまえが提示したのは、辺縁部での議論でソラリス全体を論じようとしていることへの批判だろう。ソラリスを論じようとすることを否定は出来ないはずだ」
 カールがヒュウガを責めるようにいうと、今度はシグルドが口を開いた。
「いやそもそも、俺はソラリスについて論議しようとすることの意義を問いたいね。ソラリスは俺たちのすべてじゃない。そもそもソラリスのシステムの有意味性を問題とするのならば、ソラリスを論ずることに意味があるかないかではなく、そもそもソラリスという存在の定義から始めるのでなければ、論議は出来ない。そうだろう? ソラリスのシステムが異常だというならば正常といえる社会システムがなにを基準としているのか明確にしなきゃならんな! 自分の中にあるユートピアに立脚した議論なんざ蜃気楼に過ぎない」
「僕はそういうことも言ってません」
「おまえが言ったことから俺が思ったことだ!」
 それを世の中ではあげあし取りというんだとヒュウガは思ったが、高らかに誇らしげに宣言するシグルドに言っても無意味だろう。
 カールはシグルドのその発言が出ると、どうしてか嬉しそうにした。
「なるほど、前提を定義することなしに他の物事は論議できないといいたいんだな。だが俺たちが論議したいものは数学的に定義しうる事象ではなく、公理化も出来なければ数値化することもできない事象だ。俺たちがよぼよぼになってもそんな定義が終わるものか! そういう手段で議論を先延ばしにして、うやむやにしたいんだろう、この保守主義者! 結局おまえはこのソラリスを変えたくないんだろう!」
 カールの発言を聞いて、ヒュウガは少しうんざりした。聞いてないようでいて、さっきヒュウガが読み上げた一節のことはきちんと理解していたらしい。
「こんなものが変わると思っているおまえの傲慢さを俺は言いたいんだ! ソラリスを定義しなおせばおまえにだって早晩わかるだろう。おまえが考えているようなことは出来ないんだと! 俺たちが生まれるはるか昔から固着化したこのソラリスのシステムは変わりようがないんだ! ソラリスのシステムは不変であるからこそ成立する。変化は前提にない! おまえが望んでいることは所詮、アナーキズムにしかならねえんだよ、それくらい気づけ!」
 シグルドもだ。ヒュウガは大きくため息をついて、また本を開いた。
「ヒュウガ、なにか言わないのか」
「そうだ、次はおまえの発言だろう」
 ふたりから言われたヒュウガは、眼鏡の位置を正しながらいいえと言った。
「スキンシップがわりのディスカッションはふたりでしてください。このままだと馬に蹴られそうだから」
「おまえも混じればいいじゃないか」
 カールの言葉にヒュウガは首を振った。
「勘弁してくださいよ」
「楽しいのに、なあ」
 シグルドの言葉にヒュウガはにこにこと笑った。
「そんなに暇なら、新しい試作品ギアの試乗でもしてくれませんか? ジェサイア先輩に頼んでるんですけど、なかなか忙しくて乗ってくれなくて」
 と、やおら二人は居心地悪げに咳払いをしたり、居住まいをただしている。ちなみにヒュウガが試作品を作っているのはギアそのものを弾がわりに打ち出すという危険極まりないもので、よっぽど頑丈じゃないと試乗も無理だとヒュウガでさえ思っている。
「……それは忙しいからじゃなくて……」
「なにか言いましたか、シグルド」
「いや」
 結局そのあとは、ヒュウガが本をめくる音だけが続いた。しばらくしてから、カールがたまりかねたようにため息をつく。
「俺がアナーキストでシグルドがコンサバティブなら、こいつはなんなんだ?」
「内務省じゃないのか」
 シグルドが投げやりに言う。その言葉にヒュウガはふんと鼻で笑って、こう言った。
「逮捕しますよ」
「冗談になってない」
 カールが苦々しく返事をした。





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引用は浅井健次郎編訳「ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅」筑摩書房より「一方通行路」の中の「内務省」(061028)