そういえば今まで、約束をしたことが一度もなかった。
たとえば何時に会おうとか、そんな簡単な約束さえ、なにも。
そう思い、なぜか不安と悔しさにかられて、ロニは唇を噛んだ。カレルはそれを知りもせず、むこうのほうでギアの調整に余念がなかった。明後日むかうソイレントが過酷な戦場になるだろうことは目に見えており、その準備をいくらしたとしても、損失はひどくなるだろう……だが既にシェバト長老会議がそれを決め、すべてが動き出している。
ロニはその決定に警戒しつつ、やはり準備を進めていた。
にもかかわらず気が散って、カレルの姿を目で追っている。まわりのクルーに気がないのを悟られて、叱られる有様だった。
「しっかりしてください、目的地はソイレントなんですから」
ロニはため息をつき、応えた。
「特別じゃなくていい、いつもと同じように戦えば帰って来られるさ。だから、普通でいい」
「そうは言っても」
「――普通でいいんだ」
反論するクルーを押し切って、彼は言った。なおも懸念の声を上げる男たちにむかって、嫌味にならぬよう気をつけながら訊いた。
「それとも、普段の整備に穴がある、とでも言いたいのかい?」
否と言えるはずがない。彼らが、正しい仕事をしてきたのはロニも知っている。だから彼は戦場からいつも帰ってきたのだし、今もまだ彼らに仕事を任せているのだ。ただ信頼をこめて一人一人を見返すと、彼らも納得したようだった。
だから通常の整備を済ませると、ロニは足早にドックを出ていった。
正直に言うと、ギアのことより戦争のことより、カレルのほうが気になるのだ。忙しい彼の身があくのは夜になってからか、それとももっと遅くか。
約束をしたことがない、本当に。仕事が済んでお互い暇なら一緒にいるという生活をしてきたから、約束はしたことがない。それが無性に不安の種になり、ロニはいらだたしげに前髪を掻きあげた。
――なんでこんなことに焦るんだろう。それだけプレッシャーがあるっていうことなのか、ソイレントという戦場に対して?
それに、たぶん束縛をされるのを嫌がったのはロニの方だった。
彼のことを恋人とは呼びたくなかった。友人とも呼びたくなかった。ならなんなのか、ロニ自身言えない。そして彼は、言えないことに満足を見出していた。
なのに、今更なにを求めるというのだろう。この関係に落ちついてずいぶん経つというのに?
焦りなんて捨てた方がいい、と彼は思った。焦りはなにも生まない。その焦りを抑えこみ平常心を勝ち取ることが、常に勝っていくため生き抜いていくための条件なのだ。今のこの混沌とした世界では。
そうやって来たのに、どうして今。
ともかく、カレルに会いたいと思った。けれどロニにもやることが山の様にある。
二人きりの時間をとろうなど不道徳も極まりないことだったし、こういう非常時に私的な関係のことに言及するのは、自粛してきた。約束を求めるのもこんなときに会いに行くのもルール違反だ。
だから彼は迷って迷った末に、会いに行くのは断念した。なにも、今でなくてもいいはずだと言い聞かせて、けれど……生きて帰れる保証などない戦地を思い、拳を壁に叩きつけた。
敵がソラリスだけなら、世界はとても単純だとそう思う。
――でもそうじゃない。前門には神聖帝国ソラリスの強大な軍隊が、後門には天空都市シェバトの狡猾な陰謀が控えている……ソフィア、今度ばかりは僕にも完全な勝算が出せない、君はそれでも行くのか。
死を恐れたことはないけれど、それでも死ぬことはもったいないとロニは思っていた。彼にとって命も時間も想いもまた、ひとつの貨幣的価値判断に還元できるものだった。
ソイレントは、なにもかも食い尽くすまさしく浪費の戦場になるだろう。だからといって、もう立ち止まれない。悔いだけが街を支配している。戦況を理解するものならだれしもが、死を覚悟した英雄じみた昂揚ではなくて、商人の悔いが、街を覆っていた。もったいない……意味のない、エゴから来るただの浪費は馬鹿馬鹿しすぎる。
死に意味など、さほどありはしないと思う。だが、したいと思うことを、できなくなることだけは確かだ。会いたいと思う人に会えなくなることも確かだ。
――それでも、今聞くべきことではない。
聞いてみたいと何度も思った。でも聞けなかった。約束とか……カレルの想っていることとか。
ロニは考えるのを辞めようと思い、仕事に戻った。
にもかかわらず、陽も暮れた頃にロニに会いに来たのは、カレルの方だった。
「ロニ、ここだったのか」
ずいぶん探してきたのか、戦艦のオペレータ席を陣取って調整していたロニの傍に立つと、カレルは手を休めるよう言った。
「……カレル」
「探したぞ。ここは他のものにも任せられるだろう」
「いや、僕がはじめた仕事だからね。『ソフィア』の乗りこむ艦だ、万が一にも障害は起こしたくない。それに、これは精神を集中するのに丁度いいんだ」
「この備えに重きを置いてくれるのは有難い。でも、自分のギアはどうした?」
ロニはため息をついた。
「そんなことを言いに、わざわざ? 君も忙しいのに」
「あらかたの手筈は終えたからな。……」
ロニが動かなさそうなのを見て取って、カレルもまたため息をつく。腕を組んで、ロニを見た。
「おまえ、死ぬ気か?」
「まさか、もったいない」
心配げなカレルを見て、ロニは聞いてしまいたくなる。
――我慢しようと決めたんじゃないのか。
自分に問うても問うても、今までお互いの間に禁じてきた本心を求めている自分に気がつく。でもそんなことをしたらこの関係は壊れてしまうのではないか、ぬるま湯のような空気は溶けて消えるのではないかと、ロニは恐れる。
「もったいないとはな。その根性があれば死にそうにもないな」
「殉教の崇高な意志とは、僕はあいにく無縁でね」
「おまえは死にそうにないさ、だがそういうやつだって、当たり前に死ぬのが現実だ」
「……大丈夫だ、僕はすごく執着が強いんだよ」
まるで稚い恋愛のように、今のこの空気を大切にしていたいとロニは願っている。
そんな子供だましの関係で満足もできないくせに、ただ意気地がないだけだ。だから彼は続けて、こう言った。
「僕は君に執着があるから」
ロニの真剣な面差しを見て取ったのか、カレルは返答に窮したらしく視線を逸らした。
「カレル、ねえ、……聞かせてほしいんだよ」
「なにを?」
「君は僕のことをどう思っているんだ?」
カレルは、今度はじっとロニを見凝めた。藍色の眼は瞳孔を捉えにくく、感情はなかなか見えない。けれどロニの想いを受けとめて、真摯なことだけはわかった。
「……ソイレントから」カレルは告げた。それは刑の宣告に似ている。「帰ってきたら、言おう。今はその時じゃない」
「そうだね。……がんばって戻ってくることにするよ」
カレルは強くうなずいて、二人は手を握り合った。それがはじめての、約束だったように思う。
けれど固くお互いの意思を確かめて、実際、ロニにはそれでもう充分だった。出ていくカレルを見送り、照れたように笑う。
ロニは、また作業に取りかかり、夜遅くまでコントロールにむかい続けた。
夜も更けて、彼はふとひとりごちる。
「いいものだよね、希望は」
そのつぶやきは、だれにも聞かれなかった。それでいいと思う。……らしくないからだ、希望なんて言葉は。希望は、人を未来のために殉じさせるなにものかだ。彼らレジスタンスが強いのは希望があるからで、ロニははじめてその希望を心から感じることが出来ていた。
――明日死んでも、悔いはない。
それが希望だった。たった一言、カレルに言っただけで自分が変わったのに彼は苦笑する。心に触れるのにあんなに怯えていたのに、それが今ではどうだろう。
希望は、目の前になくてもいいものらしい。
ロニは手を止めて、ただ静かに瞑目した。約束をした、それだけでもう充分だ。
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「鳥の歌」の前提条件作品です。バカみたいだけどすごく気に入ってます。
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