肉体は泥に過ぎない
肝要なのは、息吹から成る
魂だ
溶ける魂
「人はふたつのものから出来上がっています。ひとつは、我々を今ここにあらしめている肉体というもの。そして、いまひとつは神が我々にお与えになった魂です。このふたつがあってはじめて、我々は人として生きることが出来ます。
 肉体を失うと、魂は神の御国に入ることが出来るようになります。この空の彼方にある神の御国は、魂だけが出入りを許される場所なのです。
 魂がなければ、肉体はただの屍です。魂の失せた肉体に悪しきものが入りこむと、それはウェルスとなります。ウェルスとは疫病のようなものです。彼らは見つけた空の肉体に入りこむと、人々を襲います。ウェルスによって弑された人々の魂は損なわれ、神の御国には届きません。魂の残骸となりこの世界が終わるまでさまよい続けなければなりません。そしてその中のいくらかは、悪しきものとなりまた人々を害するようになってしまうのです。
 それゆえ、今の教会は三つの部門に分かれています。ひとつは、今を生きる人々のために神父の務めを果たします。彼らの懺悔を聞き、罪を聞き、その心を癒すという古くから教会が行なってきた仕事です。ふたつめは、ウェルスによって引き裂かれた魂たちを鎮める神父の務めです。これは前後もわからぬ魂を導くという難事をこなさねばならなりません。みっつめはエトーンと我々が呼んでいる務めです。これは、悪しき者に操られる屍を浄化する役目を負います。これらみっつの機構が整い、教会は人々を守りゆくことができるのです。
 我々は神の御名の元に、人々を救済せねばなりません。あなたがたは、エトーンとなることを目指しここにいます。このエトーンという務めがこの世界においていかなる意味を果たすものか、そして神のためになにができるのか、それをよく考えた上で修行をつむのです。そうでなければ、あなた方の得た術はただの体術となるだけです。エトーンになることは、肉体を鍛えることではありません。魂を鍛えることです。
 肉体は目に見えるもので、それが全てであるかのように思いがちですが、そうではなく、肉体こそ魂の付加物です。全ての人間は肉体を魂に隷属させてこそ、この地上で健全な命となりえるのです」
 まだ、ストーン司教の言葉は続いていた。彼は司教職にある教会の重鎮であり、またエトーンの司も努める名実ともの実力者だ。
 ベルレーヌは神妙な顔でその言葉を聞いているそぶりをしていたが、その実、そこまでまじめに聞いているわけでもなかった。その教えがまったくの嘘で、地上の愚民を統制するための方便だ、ということはわかりすぎるほどわかっていたから。ベルレーヌがその方便を聞かなくても、司教は怒らない。司教の語るだろう文言をベルレーヌはすべて知っているからだ。
 今ここで、不意になにか意見を求められても困りはしないだろう。ベルレーヌは司教の懐刀で、できのいいストーンの模造品だったからだ。
 彼の隣には、神妙な顔をして司教の話に聞き入るビリー・ブラックの姿があった。銀髪のソラリス優性遺伝子を持ったきれいな面立ちの少年だ。滑稽なほどまじめに司教を見つめている。
 傍に大きな窓があり、あたたかな陽と風が入ってくる。
 二人は、部屋の後方に立っていた。エトーンを目指す少年たちがはじめて聞く講義に立ち会っているのだ。
 ベルレーヌは既にエトーンになっており、ビリーは、エトーンの資格を授与すると決定があったばかりだ。ビリーが教会に来てから二年ほど、ベルレーヌは少年の指導役を勤めていた。
 そしてベルレーヌは、ビリーの監視役でもあった。
『教会』はふたつの顔を持っている。地上にとっては民衆の心を支える場所。そして天上にとっては、ソラリスの支配を円滑にするための代行機関だ。
 だから、ビリー・ブラックは監視されねばならない。少年は地上で暮らしているが、それは父親がソラリスに叛旗を翻して地上に降りたせいだった。彼は謀反人の子供なのだ。
 その父親は、いま彼のもとにはいない。ビリーは、ここがソラリスの機関だとは知らない。……
 まるで穏やかな春の中にいるようだ。
 やがてストーン司教は講義を終えると、部屋を出て行く。間を置いて二人もその後を追った。
 歩きながら、ビリーはねぇ、と呟いた。
「本当に、この肉体には意味がないのかな……? だとすると、どうして僕らはなにかあったときに自分の身を庇おうとするんだろう」
 ベルレーヌは肩を竦めた。
「魂は目で計れるものではないからだろう。肉体は目に見える。だから、信仰がないものはまず魂というものを信じない。信仰を持っていてさえ、目ではわからない魂を確たるものとして識ることは難解だ。
 それに、肉体を魂の器として考えるならば、魂の器を守ろうとするのは当然だよ」
 ビリーは納得したのかしないのか、軽くうなずいた。彼の髪が揺れる。
「魂か」
 ベルレーヌに聞かせるわけでもなく呟いた言葉は、なぜか虚ろに響いていた。





「……ビリーに、エトーンの資格をお与えになるそうですね」
 数日前、ベルレーヌは独りで司教の部屋を訪ねていた。
 決定が、自分の知らないところでなされるのには慣れている。ソラリスが彼の意見を汲みいれることはありえない。
 それでもエトーンとしてベルレーヌよりも目上にある男から聞かされたビリーのことを、わざわざストーン司教に確かめに来たのは、彼と教会がふたつの顔を持っている為だった。
 ビリーが独立することは、ベルレーヌがビリーの指導役を解任されることだ。――しかし、ソラリスの監視役としてはどうなるのか、だれの口からも聞けないでした。
 それを確かめに来たのだ。
「ああ、もう聞きましたか」
 ストーン司教は、誠実そうにベルレーヌを見返した。ソラリス軍人としての彼の顔は冷酷で、また危険な魅力に満ちているけれど、教会の真摯な司教としての顔もまた、人間的な美しさがある。どうやって、自分の人格や根底にあるものまでこの人が変えられるのか、興味深かった。
 それが諜報部の上層員たちに必要なことなのだろう。だとすると、別のことも疑ってしまいたくなる。ソラリスに見せる彼らの忠誠は一体、どこまでが本当なのだろう? と。ベルレーヌが知っているソラリス人は、そのほとんどが諜報部の人間だ。一度、エトーンになる直前にスタインによってソラリス本国に連れていってもらったことがあるが、あまり憶えていない。その時はその国の凄さにただ圧倒されていたばかりだった。
 思えばベルレーヌは、あのとき、心のすべてを根こそぎにされてソラリスという国に押し潰されたのだろう。そしてその肉塊を寄り集めて練られたのが今の彼、エトーンとスタインの部下の二役を勤めるベルレーヌだ。
「孤児院を開くという希望を叶えてさしあげようと思いまして。
 それに、ここに住みながら、なおかつ秘密を知らせないでおくのにも限界がありますから」
 尋ねれば、司教はベルレーヌの望む情報はすべて与えてくれる。もちろん、ソラリスの機密は漏らしていないのだろうが、一介の工作員には過ぎた情報も多い。
 つまりは、司教の腹心として、影として働くのに過不足ない情報なのだ。…
「彼はエトーンです。闘ってもらいますよ、ウェルスとね」
「僕はどうなりますか」
「あなたには新しい任務をお願いしようと思います」
 ――つまり、僕はビリーに近づき過ぎたというわけか。
 ビリー・ブラックは罪人の子、天でも地でも異端者に他ならないから。ベルレーヌは司教の片腕だったが、ビリーのように特別ではなかった。
 部屋を退出してベルレーヌは、唇を噛んだ。





 数日後の朝、ビリーが教会を発った。少し前まで彼が家族と暮らしていた家で孤児院を開くのだ。そのためにたくさんのものを船に積み、朝早くに船を出した。
「いままでありがとう、ベルレーヌ」
 なにも知らないまなざしで、本当にベルレーヌに感謝の言葉をつむぐビリーを見つめながら、ベルレーヌは波のように揺れる自分の心を感じていた。
 朝が早かったせいで、見送りはベルレーヌだけだ。……いやそれとも、ストーン司教がわざわざ、二人きりの別れをさせるために手配したのだろうか。
 どうして司教がベルレーヌとビリーを二人きりにしたのかはわからない。そのことで何がしかの利益が司教にあるとは思えなかった。ベルレーヌがビリーの無垢さにいくばくかの救いを求めていることを司教は知っている。
 けれどそれは、司教の意図に反しこそすれ、こうしてお膳立てしてくれるはずなどない。
 ほんの少しの間でも、ベルレーヌに本来あるべきでない安らぎのようなものを与えることを、スタインが許すはずはないのに。
「気をつけて、ビリー。……まあこれが今生の別れというわけじゃない。エトーンの仕事が始まれば、またすぐに会うだろうね」
「うん、そうだね。ふふ、不思議だ。二年の間、ずっとベルレーヌと一緒にいたのにね」
 危険な笑顔だ、とベルレーヌは、ビリーの無邪気な顔を見つめて思う。
 ビリーは少しして顔を翳らせて、ベルレーヌを見た。
「ねえ、ベルレーヌ。最後にひとつだけ、あなたには言っておきたい」
 始まった告白に、ベルレーヌは硬直した。なにか教会のことがばれたのではないかと思ったのだ。けれどもちろん、それは違う。ビリーは知らないのだ。ビリーは本当に、なにも知らないのだ。
「僕の色素、薄いだろ? 髪は銀色、肌も真っ白。……僕、本当はソラリスの人間なんだ」
「え?」
「僕の父親も母親もソラリスの人間だったんだ。ソラリスの軍人だった。理由は知らないけどこの地上に降りてきたんだ」
「ビリー、それはどういう意味だい?」
 ビリーは苦笑いした。
「うん、わからないよね。でも、ベルレーヌ。これは僕にとって最大の負い目なんだ。たまに辛くて辛くて眠れないときがある。僕はこんなにこの地上を愛しているのに。なのに僕は、ソラリスで生まれた人間なんだ。……」
 ベルレーヌは、もちろんそのことはすべて知っていた。けれど、普通に生きているエトーンがソラリスのことなど知るはずはない。ベルレーヌには、ビリーの感じている痛みさえ理解することができた。ベルレーヌはあの天上の国と天上の国の人間であるスタインに仕えていて、もしもあの国で生まれていたらと願ったことがあったからだ。ベルレーヌとビリーはなにもかもが正反対だった。
 ……いまやそれは昔のことだけれど。
 ともあれ、ベルレーヌはビリーを理解できないふりをしなければならなかった。
 ビリーは肩をすくめた。
「ごめん、変なこと言ったね。忘れて」
「ビリー、説明してくれないのか」
「うん、忘れてよ」
 ビリーが目を伏せたとき、朝霞のむこうから足音が響いてきた。ベルレーヌは、音だけでそれがスタインであることを感じていた。
「ビリー、もう出発ですか」
 案の定、それは彼だった。二人の会話が仕組まれていたことをベルレーヌは感じた。いや、ビリーがなにを言うかなどさすがのスタインでもわからなかったはずだ。……それとも、スタインが聞きたかったのはベルレーヌ相手だからこそ、ビリーが最後に話すかもしれないこと、か。
「ストーン司教」
 ビリーも相好を崩す。
「ビリー、気をつけて。頑張ってください。困ったことがあればいつでも私のところへ」
「はい、ありがとうございます」
 なんて美しい師弟の別れの情景なのだろう。
 船を出すビリーにむかって、ベルレーヌは声をかけた。
「ブラザー・ビリー。君の魂に平安を」
「ありがとう、ブラザー・ベルレーヌ」
 手を振る少年の姿はやがて朝靄の中に薄れ、残されたのはベルレーヌと、スタインだった。
 スタインは静かな声で言った。
「私の部屋にいらっしゃい、ベルレーヌ」
 ベルレーヌ君、ではなく名前だけで呼ばれるそのとき、彼はストーンではなくてスタインだ。その言葉は、勧誘ではなく命令だ。





 スタインの部屋はこの教会施設の中でもっとも防音に配慮された設計になっていて、ベルレーヌが知る限りではこの世でもっとも警備の厳しい場所だ。
 スタインは自らの椅子に座り、ベルレーヌは所在無くたたずむ。ビリーの言葉がベルレーヌの心になにかを投げかけていた。落ち着かないのは、そのせいだ。スタインのまなざしは、そんなベルレーヌの心のうちを読むように冷ややかだった。
「――魂というものは、本当にあるのでしょうか」
 ベルレーヌがそう言うと、スタインは鼻で笑う。
「あったとして、なにか意味がありますか。確かに、我々は超越者としてこの世界を統べる『天帝』と『ガゼル』の存在を知っています。カレルレン閣下は、『生まれ変わり』なるものが存在すると私に明言された。しかし、私はそれを知ることは出来ない。たとえ幾度も魂が生まれ変わるとしても、その記憶がなければ一度きりと同じことです。
 しょせん我々は人に過ぎないのです。神の視点から見れば我々は皆乍らただのヒトに過ぎない。では意味はどこにあるのか? 意味は我々自身が与えるしかないのです。外見、能力、性別、思想……そんな幽かな物で分別し続ける他ありません。その意味をどういう意味とするかもそれ人自身です。私のように純血のソラリス人であることを喜ぶものもいれば、ビリーのように……それが最大の負い目となるものもいる」
 やはり、スタインは二人の会話を聞いていたのだろう。へまをしなくてよかった、とベルレーヌは切実に思った。
「人という自己意識を持った存在ゆえに、我々はそうして生きていく他ない。
 ベルレーヌ。他の命になく、人にのみ備わっているものがなにか、わかりますか?」
「…いいえ」
「救いを求める心、殺人という概念、そして堕落です。こればかりはヒトにしかない。私はソラリスとこの地上で人間たちを見てきた。どこでもだれでも救いを求め、人を支配し、その欲望に負けていくのが人間の生き様です。
 人とは矛盾に満ちた生命です。罪を犯しながら罪を許されることを願っている。少なくとも私にはそう見える。そして矛盾を知りながら、その矛盾の中で生きていく他、我々にはない。だからこそ私という存在そのものが許されるのです。あるいはあなたという存在が。我々は矛盾を体現している存在です。そのことに誇りを持ちなさい。自ら人間の矛盾そのものであることに尊厳をもちなさい。
 御覧なさい、ビリーを。彼もまた矛盾の塊としてそこにいる。なのにそれを彼は知らない。なんと罪深いのでしょうね。彼はそれゆえにさらに落ちてゆく。エトーンとして殺人を重ね、彼は落ちてゆくのです。
 生物にとって最大の罪悪とは同族殺しです。生命の正義とは、いかなる場合でも同族の命を守ろうとすることです。種族の保存こそ、生命の絶対の正義なのです。高潔なまなざしで同族殺しを重ねるあの子を、私は美しいと思いますよ。罪を知らない顔で、彼はだれよりも罪深い。背徳の大地に開いた一輪の花。
 ……彼が事実を知ったとき、その花は枯れるでしょうか、それとも?」
 ベルレーヌはその言葉を聴きながら、自分の胸の中に広がる波紋がなんなのかを悟った。ベルレーヌがビリーをこうまで気に入ったわけ、その歪んだ親愛の感情は……所詮、ベルレーヌ自身のものではないのだ。ベルレーヌは、地上の人間として選ばれたできうる限り完璧なスタインの模造品だった。
 この感情はそもそもは、……スタインのものなのだ。慈しみたい、傷つけたい、その相反するビリーへの欲望。
 それはすべて、スタインのものなのだ。
 迷いなどろうそくの炎のように吹き消された気がした。ベルレーヌの肉体は、確かにラムズとしてこの地上に生まれた。だが、魂はそうではない。ベルレーヌの魂は、スタインが息を吹きこみ作り上げたのだ。ベルレーヌは、結局、いまやラムズではないのだ。
 あの神の国の人間になれたわけではないけれど。
(だからビリー、……君はもはやソラリス人などではないんだよ)
 ベルレーヌはスタインを見つめ、口を開いた。腰に挿したエトーンのためにあつらえられた銃を手にする。
「スタイン様。あなたが僕に与えたこのエトーンの銃は、僕そのものであり、あなたの意志そのものです。善も悪も僕には関係ありません。そんなものには意味がないと、あなたがそうおっしゃったから。僕にとって必要なのは、あなたと言う価値観ただひとつです。あなたのお示しになるまま、罪人の汚れた肉体を、あなたの与えた力で裁き続けます。……永遠に」
「……それでいい」
 スタインは満足そうに微笑み、鈍い光を放つベルレーヌの拳銃を見る。しかし決して、その瞳はベルレーヌを捉えなかった。静かに、朝課を知らせる鐘の音が響いていた。





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本当に急に、ものすごく急に、書きたくなった。自分でもなんだかわからないけど、ものすごく書きたくなったの。スタインが語っている部分は、ほとんど当時書いたままのものです。当時って……ベルレーヌをはじめて書いたころね。ああもうなんか……まさか、この話を書き上げる日が来るとは思ってなかった。生ぬるいジャンルにいる反動みたいなものだと思うのだけれど。ちなみに冒頭のスタインは1000字くらいしゃべってるらしい(笑)……(040426)

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