教会本部を照らす月光が、青白く天頂に昇っていく。秘めやかに晧晧と、世界を睥睨して照らす。ベルレーヌはランプも持たずに夜歩きをしていた。廊下には影が絵を描いている。窓の形、窓枠、そして彼自身の影。
今夜は月の光が強い。
夜の空気は澄みわたってむしろ胸が絞めつけられるような苦しさを感じた。いつもは知らぬ清冽な夜だからだ。
いつもは背徳の行為で汚しているから、その罪の意識で。
――罪の意識、か……
なにが罪と呼ぶべきものなのか、もうベルレーヌにはわからない。ただ、ときおり「これは罪だ」と思う瞬間が確かに存在している。そんなことはストーン司教は教えてくださらなかったのに、そんなものは彼に求められていないのに、「罪」を感じるのは生き残った良心のおかげではなく。
――たぶん、人の魂の中にあるなにか……僕には見えぬこの闇夜と不分別の神というもの……いやそれとも、かつてストーン司教が言っておられた『刻印』かもしれないな……
月が美しいこの夜に、ベルレーヌが背徳の宴に加わっていない理由はひとつだ。ビリー・ブラックが孤児院を離れ、この教会本部に来ているから。
ストーン司教の指示で、今宵ばかりは「教会」にあるまじき、けれどその本当の姿である宴は行われない。
ストーン司教は決して、ビリーに教会の姿を知らせないようにしていた。そうでなければ、ビリーはとうの昔に宴の犠牲者になっていたはずだ。
――だがビリーは、なにも知らず汚れもなく、ここにいることを赦されている。
彼は特別な少年だった。ガゼルとして生まれて、この地上で暮らしている。ストーン司教のお気に入りの新米エトーンで、そしてストーン司教というよりもスタインという男をして特別扱いを受けている。
――彼はあなたなどとは違うのですよ。
ストーン司教はそう言い続けた。もちろん、ガゼル出身であることがベルレーヌとの差異であるとは思われなかった。確かにベルレーヌはラムズで、神聖帝国ソラリスにとっては末端の兵士に過ぎないが、そういうこととは違い、なにか、ストーン司教個人にとって特別なものがビリーにはあるのだ。
近頃は薄々わかってきた。ソラリスから出まわる噂も教会機構には多少なりとはあって(ストーン司教が知れば厳しく罰せられるのだろうが。ベルレーヌなどのラムズにとって、ソラリスという国は絶対にして不可侵なる神人の国でなければならないのだから)、ビリーの父親がかつて軍でストーン司教と競っていたらしい。
だからビリーは特別なのだ。
庭に出たとき、二階の部屋に灯が揺らめいてるのがベルレーヌの目に映った。彼は細い眉を歪めて、まさかと呟く。
――ストーン司教様の言いつけを守っていないものがいるのか?
悪いことに、そこはビリーの部屋に近かった。物音や声でビリーが起きてしまったら(ストーン司教にとって)とり返しのつかないことになる。
心配は的中した。ベルレーヌは急いで部屋にむかう。階段を上るすがら、ギイという音が聞こえて子供の悲鳴じみた声がもれ出て来ていた。辿り着いたときにはすでに、灯のこぼれるドアの隙間からビリーがその光景を見てしまっていた。
――ビリー!
ベルレーヌは愛用の銃を取り出した。足音を殺してこちらに背をむけたまま、扉の中に見入っている少年に近づいた。銃筒を軽く握ると、振りかぶってその後頭部に叩きつけた。
殴打音と共にビリーが崩れる。それを抱き止めて、ベルレーヌは扉を大きく開いた。
中にいたのは壮年のエトーンがひとりと、年端もゆかぬ子供が二人。
「ベ、ベルレーヌ」
「スタイン様のお言葉、忘れてはいらっしゃらないでしょう」
ランプの灯が揺らめいて部屋に影を作る。ベルレーヌは気を失ったビリーの耳を抑えると、三回、弾を撃った。確実に目標を捕らえた三発は三発とも、部屋中に血と脳漿を撒き散らす。影と血が重なった。……
ベルレーヌはビリーを部屋まで連れていき、ナノマシンで傷を手当てしてから部屋を出た。予想通りにそこにはストーン司教が佇んでいる。
「ベルレーヌ」
「はい、スタイン様」
「ビリーは」
「……夢だと思えばいいのですが」
「あちらの部屋は清掃班が入っています。情報の処理はあなたにしてもらいましょう。エトーンはどうします」
「……ウェルス退治の折の事故とします。ここ最近、ウェルスの犠牲者も少なかったですし、ちょうどいいかと」
「子供は」
「はじめから、存在しませんでした」
ベルレーヌはいつも、ストーン司教の望む答えを知っていた。ストーン司教は笑うと、
「いいでしょう。あなたに任せます」
「はい」
ストーン司教はそれだけで、また自分の部屋に戻った。ビリーへの言及はあまりなかったのが意外だった。それほどまでに彼の純粋さを信じているのだろうか。夢だと思うなんてあまりにも確率が低い。それとも、「そんな夢を見る」ビリーの非純粋さにかけたのか。子供を陵辱する夢を見うる、歪んだ欲望がビリーにもあると?
廊下に月からの影を落しながら去ってゆくスタインを見送り、ベルレーヌはビリーの枕元に戻った。少年は月光を浴びながら静かに眠っている。ベルレーヌの視界からは、スタインの落した影がどうしても消えてくれなかった。
こめかみを押え、彼は椅子についてビリーを見つめた。
……次の朝、ビリーが目を覚ましたときには、ベルレーヌはいつもの彼を演ずることができた。
「おはよう、ビリー」
「ベルレーヌ……?」
「ストーン司教様が、君は朝課には出なくてもよいとおっしゃられているよ。船旅で疲れているだろうからって。……今日にはもう孤児院に戻るのだしね」
「ああ、うん……。わざわざありがとう、ベルレーヌ……」
「どうしたの、ビリー?」
「ううん」少年は青い目をしばたかせ、心なしかだるそうな首筋に手を当てて、起き上がる。「なんでもない」
どこまで本心かなどと、ベルレーヌにはわからない。ただ、晩の事件を疑っている様子は少しもなかった。本当に夢だと思ったのかも、しれない。処刑したエトーンをビリーがあまり知らないということもうまく働いたのだろう。
――そう、ビリー。あれは夢なんだ。スタイン様がそれを望むのだから、君は知ってはならないのだよ。
「そうだ」
ビリーがベルレーヌを改まって見つめた。ベルレーヌは少しどきりとする。しかし、少年が口にしたのはその危惧とはまったく異なることだった。
「おはよう、ベルレーヌ」
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