サムード・オアシスを目指し、一行は再び砂漠を進んだ。太陽を背に走り続けているので、視界には常に影がある。しばらく単調な世界を進んでいると、ロニのギアに、ボレアスからの通信が入った。クローズ回線だから、他の人間には聞こえない、あるいは聞かれたくない通信だということだ。
(おもむろに行動に出て来たってことか)
ロニは不敵に笑った後、すぐに表情を整える。その上で、回線に出た。
「ロニどの」
モニタに映るなり、ボレアスはさっきとは打って変わった馴れ馴れしい口調でそう話しかけて来た。
「改めてお祝いを言わせて欲しい。兄として君も喜ばしいことだろう」
「ありがとうございます。まさかボレアス殿下にお越しいただけるとは思っていませんでした。ゼファー王女のみならずボレアス殿下までおいでとなると、こちらが恐縮してしまいます」
「ゼファーがいるのだから改めてだれかを派遣するまでもない、という意見もあったのだがな――私はこれを、ただの祝宴だとは思っていない。レネどのとジークリンデどのの婚礼はめでたいが、この式典はむしろ、ソラリスに対する我々の団結をよりよく示すというものではないかな。個々の勢力ではソラリスに打ち克つことは難しいが、集えば、力となる。……シェバトにそう教えてくれたのも君だった。烏合の衆でしかない地上の勢力も、分断された状態ではなく、シェバトの名の下に集えば大きな力になる、と。そう思えば、君が十年来目指して来た運動の結果が、三日後の式典だというわけだ。素晴らしいのではないかな」
確かにロニは、ボレアスが言ったようなことをシェバトに対して主張して支援を受け、地上での活動を続けて来た。しかしその発言はシェバトを前にしての方便であり、彼が心から目指していたのは、地上の組織だけから成る共同戦線だった。そのために必要なのが地上の希望であるソフィアだ。シェバトはソフィアのもとに人びとが集まっていることを不測の事態であるように感じているが、それは間違いで、他でもないロニがそうなるように誘導して来たのだ。しかし始めからニサンに集めてはシェバトに敬遠される。だからこそ、自らもシェバトの尖兵となったし、シェバトの名を使ってさまざまなことをして来た。あくまでも隠れ蓑として利用していただけなのだが。
ボレアスがファティマの計画をどこまで理解しているのか知れない。傲慢な人間は往々にして、自分が利用されているということは理解したがらない。自分の立場が崩れるようなことは、認識できない。特にボレアスは、シェバトの力を誇示するためにソラリスを打倒したいと考えている人間だった。地上の有象無象がそのシェバトを抑えこんでソラリスを打破することなど夢物語のようなものだと思っているはずだ。
ロニは目を眇め、油断なく返事した。
「そういう見方もあったのですね。私はあくまでも、弟のためにこうしてやりたかっただけです。ソフィア猊下は二人の婚礼が人びとに希望を抱かせるから行うのだ、と申しています。ボレアス殿下のおっしゃることも当然あるでしょう。とすると、そういったさまざまによい意味を持つ花嫁を手に入れられる弟は僥倖でしょうね」
「しかしレネどのはどう考えているのだね? 君ならともかく、彼はこういう仰々しい式典は好みじゃないだろう」
腹を探りあうような言葉が続く。ロニは苦笑した。
「そんなことはありませんよ。弟は案外、こういうことは派手にやりたがるほうです。まあ、私が派手好みなことは否定しませんが」
「そうなのかな? 君らはよく理解しあっているようだが、果たして、母親の違う兄弟というものはどれほど理解しあえるものなのか? 中途半端な血の繋がりだけでそう簡単に通じあえるものではあるまい。私とゼファーがそのいい例だ。歳の離れた妹だからと常から心にかけていたのだが、彼女とはなかなか理解しあうことが出来ない。おそらく、母親の価値観や思惟というのは遺伝子に混ざりこんで子に伝わるものなのではないかな? だから、異母兄弟というのは理解しあうのが難しい。子等は母親の価値観と利害を代弁して生まれるのだからね。
君らの関係は理解しあっているというよりも、むしろ弟であるレネどのが服従することによって成り立っているように見える。君のしたいこと、望むことを叶えるためにレネどのが従っているように、ね。それは理解しあえているとは言えまい」
不意にボレアスが言い出したことが飲みこめず、ロニは顔をしかめた。
「一体なんのことです?」
「ロニどの、あなたにとってこの度の婚礼が弟のためだという意味があるように、私にとっては先ほどお伝えしたような意味があるように、レネどのにも彼にとってなにか意味があるのではないか? 恋人と厳かな華燭の典を挙げるという意味ではなく、ともすれば彼自身も気がついていない意味が」
「なにをおっしゃりたいのですか」
「これはあくまでも私見だ、レネどのの内心を代弁しているなどと思ってはいけないよ。だが私は思ったのだ。これは、あなたに対する反抗ではないのかとね。そうだろう。彼はおのれの家庭を持ち、独立しようとしているだけではない。その相手はあのジークリンデ修道女頭だ。彼女が妻であればその立場はどうしてもニサンに拠ったものになるだろう。気がつかないか? 彼は君の庇護下から自由になろうとしているのではないかな。君は強い。ひとりでファティマ商会の商売に関することも、戦いに関することも差配し、各組織との連携も築きあげた。そういうやり手の兄を持った身では、その下にあり続けるのは苦しいだろう。ましてや彼のように有能な青年となれば!」
ボレアスは勝ち誇ったようにそう告げたが、ロニはなんと言って受け流すか考えるのも億劫になりそうだった。ロニにはレネの内心などわからないと言いながら、一層わからないはずのボレアスが知ったように口を利くとは馬鹿げた話だ。
ロニは困ったように笑って、肩を竦めた。
「さあ、私にも、レネの考えていることがすべて判るわけではありませんから」
「そうだろうな。まあ楽しみではないか、今後の弟君の活躍が」
「ありがとうございます」
通信はそのまま切れた。ロニは回線が切れて改めて、眉をひそめ、腕組みをして背をシートに凭れた。ボレアスがなにを言いたかったのか図れない。ただの嫌味で、気にするまでもないことかもしれなかったが、それにしては言い方が大仰に過ぎたし、話しかけて来たタイミングも妙で、気になる。喉に小骨が引っかかったというにはボレアスの言葉は意味深で、胸がつかえるというほどには中身のあることを話さなかった。いらだつほどでもなく、哂うほどでもない。気味が悪かった。
アンドヴァリの異変に気がついたのは、そうした捉えどころのない不安を感じていた最中だった。不意にしん、とあたりが静まり返る。ジェネレータの稼動する音は聞こえているのだが、通信が切れたときのような、スイッチをオフにしてノイズまでもが消え去ったような、頭の芯がすっと透き通る静けさだった。
(なんだ?)
モニタを介して外部の景色を眺めるが、なにも変化はない。だが失墜感に似た静けさが胸を中心に広がっていく。なにとは言えないのだが、肌が冷える。ロニはめまいを感じ、額を抑えて目を閉じた。
衝撃もなく、なんの音も聞こえなかった。だがあまりの静けさに目を開くと、室内灯もパネルも明かりが消えていた。蝋燭の炎をそっと吹き消したように動力が落ちている。今度こそ、ジェネレータの音も聞こえない。なにが起こったのかわからず、ロニは座ったまま外を見たが、並走していたカレルレンやボレアスらの姿も見えない。いつの間に動かなくなったのか、物音も警告も一切なかったのでわからなかった。
ロニは困惑しきってフロントガラスのむこうに広がる砂漠を見渡した。影すらなく、太陽の光がじりじりとひとつの砂粒さえ逃さないような強烈な熱を降り注いでいる。まるで百年前からそこにあるように、アンドヴァリはただ砂漠の大地に立ち尽くしていた。
ロニはひとしきりいじれるだけの機器をいじったが、反応がない。保護回路があるはずの通信回線さえ、機能していなかった。レーダーの反応もなく、正確な現在地すら不明だ。見渡す限りの景色は当然のように砂しかなく、この時間では太陽だけしか見えないから、星から位置を測ることも出来ない。想定されるポイントから大きく逸れていることはないはずだが、同行していた他のギアの姿もないのだから確実ではないだろう。
いくら動けと念じても、彼のギアは沈黙したまま、ロニの意思に応じようとしない。こんなことは初めてだった。一切が静かだ。一体なにがエル・アンドヴァリに起こったのか、ロニには理解できなかった。
ロニの駆るエル・アンドヴァリは、ギア・バーラーと呼ばれる巨大な機体で、その機構はまったくのブラックボックスだった。通常のギアはレバーを操作して機体を動かすが、ギア・バーラーにはそのレバーがなく、機体は操縦者の思考イメージに従って動く。当然、その仕組みは現代の知識でわかるようなものではない。シェバトに預ければいくらかのシステムはわかるかもしれなかったが、そのまま収奪されかねないので、もちろん、そんなことは出来なかった。
そのギア・バーラーが動かない。これが通常の機体であれば、電気系統の故障程度はロニの手でもどうにか出来る可能性がある。だが、アンドヴァリは動く仕組みそのものが不明だ。手の打ちようがない。
さわれるだけのものをさわっても、なんの手がかりもない。
コックピットの一切は沈黙し、砂漠の風の音だけが、ギアの外側から聞こえて来るだけだ。救援を呼ぶことも出来ず、状況の把握も出来ない。
なにも聞こえて来ない。
予期しない異変にロニは恐慌を来しかけたが、どうにかして心を押し留めた。コックピットの中でなんとか動かないかとじたばたしているうちに、時間はずいぶん過ぎ去っているはずだ。ロニは深く息をついて、気分を落ち着けると、無駄にした時間を取り戻すためにも冷静に分析を始めた。
こんなことになるとは思わなかったから、白昼の砂漠を横断するような準備はしていなかった。炎天下のイグニス砂漠は、ふらりと散歩に出たら帰ることは出来ない熱暑の鍋の底なのだ。十分な水も、羅針盤も、太陽から身を守る布も、バギーや駱駝のような足もないのだから、いますぐ動くわけにはいかない。
とはいえ、砂漠で遭難したのは初めてのことではなかった。彼は砂漠に生きる人間だったから、たった一頭の駱駝とともに道を迷い、半ば野性の勘だけを頼りに、水を求めて灼熱の砂地を歩いたこともある。ひび割れた大地へ足を踏みおろすたびに、体中に激痛が走る苦行の旅路だった。しかし足を止めればそこで死ぬ他ないから、いかに苦しくとも立ち止まることは出来なかった。
それを思えば、いまはずっと恵まれた状況だ。
まだ正午を過ぎて間もない真昼だ。動かなくなったギアを置いて離脱するにしても、夜を待たねばならない。一晩かければ、目標のオアシスまで到着できるだろう。空調は停止しているようだが、陽は遮られているから、直射日光を浴びているよりは余程ましだ。手持ちの水は大した量ではないが、夜を待つくらいなら持つ。
いつの間にか蒸し風呂のようになったコックピットで、ロニは息苦しさに喉を鳴らした。口中は干あがっていて、唾の一滴もなくなっている。
握りしめるバーもないロニのコックピットでは、てのひらに力をこめようにもこめる場所がなく、いくらか心細い気がした。思わず、首から提げている碧玉のペンダントを握った。初期の脱水症状を呈している指先はやや震えていたが、その一連の体の反応も、もしかすると脱水症状ではなく、混乱しているせいかもしれなかった。いくらか震えが収まるまで、ロニは深呼吸をくりかえした。
現状を把握すると、ロニはなにが起きたのかを考えようとした。そもそもなにが起こったというのか。戦闘があったわけでもなく、ただ僅かに目を閉じただけの間に、ギア・バーラーが動かなくなっていたという事実だけが、ロニの前にある。それがなにを意味するのか、頭を巡らしても答えが見つからない。そもそもなにが起こったというのか? アンドヴァリにどんなトラブルが発生したというのか?
(他のやつらはどうしているんだ)
あの中で、ギア・バーラーはロニのエル・アンドヴァリと、カレルレンのエル・アンフィスバエナの二体だ。他はすべてギア・アーサーだった。これがロニの機体だけでなく、ギア・バーラーに起こった事態であればカレルレンの機体も動かなくなっているのだろうか。あるいは他のギア・アーサーも――?
カレルレンはさほど心配ない。砂漠での実戦経験も長いし、夜を待てばいいくらいの判断はつけられるはずだ。問題はボレアスだった。王室騎士の一員でもあり、武芸もたしなんでいるようだが、砂漠は生半可な環境ではないのだ。下手な行動を起こされて、事故でも起きたらことだ。せめて状況が判れば違うのだが、彼もコックピットに縫いとめられ、身動きが取れない。
ロニは記憶を辿り、なにか予兆がなかったかを探ろうとした。ソラリスは関わりがあるのか? あるいはシェバト自身が。これは事故なのか? それとも意図してなされたことなのか?
一面の砂漠に隠れる場所はなく、レーダーにも反応がなかったのだから、敵から強襲を受けたはずはない。そもそもギア・バーラーのシステムはソラリスにさえ不明であるはずだ。こうして無効化されたのがなんらかの兵器の働きによるものであるなら、とんでもないことになる。ソラリスがそんな兵器の開発に成功していたら、万が一にも地上の勢力に勝ち目はない。ではボレアスか? 彼と回線を使って会話している間になにか仕掛けられたのだろうか。ロニを始末したいにしても、ギア・バーラーを止めただけで、ロニをそのままにしておくとは考えにくい。たとえ死の砂漠の真ん中だとしても、ロニは砂漠で生きる人間なのだ。他の人間よりずっと帰還率は高い。だから彼を殺したいのであれば、止めを刺しに来るはずだ。では事故か?
ふと、思考を中断された。ロニは無意識のうちに、なにか音が聞こえないかと気にしていたらしい。聞こえて来たのは、さらさらと機体を叩く砂の音だった。強い風に煽られて舞いあがった砂粒が、アンドヴァリの硬い装甲に叩きつけられて、さらさらと音を立てている。そんな音が聞こえるのは珍しいなと思ったそのとき、いま起こっている異変の最も大きなものに気がついた。
なにも聞こえないのだ。
ギア・バーラーは普通のギアではない。思考イメージで動かすことや、その力があまりにも強大であることを指してそう言えるのではない。
だれにも言ったことがなかったが、この座席に座っていると、頭の奥に直接響いて来る、遠いささやきが聞こえるのだ。それこそがギア・バーラーの最たる特徴だった。なにを言っているのかわかるほどではないのだが、その声は、たとえ起動していない状態であっても、あるいは死に瀕した戦いの中でも、コックピットにいる限り、途切れることなく頭の中に響く。決して不快ではなく、むしろ、胸の奥底にある原初の混沌を解き放つような、暗い、まどろみに似たものだった。出来ることならばなにもかもを忘れて、その音の中に閉じこもってしまいたいと思わせるような、不可思議なささやきだ。なにかは知らないし、だれかに理解してもらおうとも思わない。これを聞くことが出来ない人間には、どれほど説明してもわからない類のものであると感じていた。だがその声に身を委ねれば委ねるほど、巨大なギアの四肢はまるで自らの肉体のように軽妙に動くのだった。
多分その声は、このギアが「アニマの器」を宿していることに関わりあるのだろうが、深く突き止めようとは思わなかった。「アニマの器」と同調したわけではないロニが踏みこめない領域にあることだった。ギア・アーサーは「アニマの器」と呼ばれるものと同調することによってただのギアから未知の可能性を秘めたギア・バーラーへと変化する――アンドヴァリは、ロニが機体を手に入れたときには既にギア・バーラーとなっていた。「アニマの器」に同調したのはロニの父だ。そのために、このエル・アンドヴァリは、ロニとレネという二人の兄弟にしか反応しないのだった。精神感応で制御されるギアは気難しく、乗り手を選ぶ。
だからこそ、ささやく声に促されるまま、境界線を跨いではならない。その線を跨いだとき、ロニの心の奥の領土まで声が侵入して来るだろうことを予感していた。生きている限り、どんな人間にも、開け放してはいけない暗い領域がある。そこへささやきを導き入れてしまうのは、隷属することなのだと彼は本能で察知し、拒んでいた。
その声が、沈黙している。まるでギアから「アニマの器」が消えうせたかのような静けさだった。それこそが異変の核心だ、とロニは気がつき、顔をしかめる。
広がる限りの光景を埋め尽くす、熱砂の音だけが聞こえる。張りつめた理性が不意に消えうせて、途方もない不安に押し潰されそうになった。わずらわしいとさえ思っていたあの声なのに、聞こえないと、魂を奪われたような不安が胸にせりあがって来る。
ロニは胸元に提げた碧玉のペンダントを握りしめ、唇を噛んだ。砂の中へ埋もれてゆくような息苦しさに胸を掻きむしりたくなる。アンドヴァリに打ちつける砂粒の音を聞いていると、数えることも出来ない膨大な砂の粒に機体ごと覆われ、押し潰され、砂漠の奥底へ沈められてしまう気がした。そうなればもはやだれも見つけ出すことは出来ないだろう。砂漠はあまりに漠くて、限りがない。エル・アンドヴァリは通常のギアよりも大きいが、それでもこの砂漠の前には、あまりに小さい。押し潰されて、ずっとずっと小さく縮まり、名もない砂の粒になってしまうような気がする。
(そうじゃない、いまだってそうだ)
彼は前線に立ち、人より名を知られているかもしれない。けれど、それがなんだというのか。強大な敵に立ちむかい、抗うが、それがなんだというのか。彼が身に負うひとつひとつの苦しみや痛みに、逐一名前をつけることなどしていられないように、彼そのものにも名前をつけることは出来ない。砂漠の砂と同じだ。掻き混ぜれば簡単にどれだかわからなくなってしまう。時の渦巻きの中でぐるぐると振り回されているだけだ。
ロニはだれよりも果敢に戦線に立っている自信があった。彼の身近にいる仲間たちの数名は、やはり同じように、この戦いの中で臆することなく前線にいると自負しているだろう。彼らがどうしてそこに立つことになったのか、運命の糸がどこから垂れさがっているのかはわからない。しかし、そうしたいと望んだだけではここまで来ることは出来なかったはずだ。
ロニが前線にいられる理由を、彼自身はよく承知していた。彼が乗るこのギア、エル・アンドヴァリがあったからだ。
このギアの操縦者であるということは彼の立場をだれよりも有利にして来た。シェバトの老獪な政治家たちと渡りあえたのも、類まれな神性を誇るソフィアと同等の立場でいられたのも、このギアがロニの手で動くものだった、ということに尽きる。確かに彼自身の人間性が持つ魅力や、世間を渡る能力も卓抜したものではあったはずだ。だがそれだけではここまで来られなかった。ともかくエル・アンドヴァリの力に尽きるのだ。
天界からの落し物である、すべてを焼き尽くすエル・アンドヴァリが彼の手にあるということに。
(なにが起こったんだ――)
ロニの意志に一切の反響がない。ささやきは聞こえない。ギアを降りれば当たり前のことなのだが、この小さなコックピットの中に限っては当たり前のことではなかった。砂の降り積もるような音は続き、息が苦しい。他になにも聞こえて来ないのだろうかと耳を澄ますが、なにも聞こえない。まるで、だれかの心臓の鼓動が止まったように思えて胸が痛い。また強く、碧玉のペンダントを握った。
あのささやきがなにかロニは知らない。しかし、それを聞くということがこのギアを動かす条件なのだろう。ロニとレネ以外の人間には、ここに座ってもいまと同様になにも聞こえないはずだ。レネがコックピットに座れば、アンドヴァリも動き出すかもしれない。レネは遠いニサンで諸々の準備に忙殺されているから、確かめようがなかった。
なにが起こったのか、ロニは少しずつ理解していた。おそらく、あのささやきはロニの耳に届かなくなっただけで、本当はいまも響き続けているのではないだろうか。声が聞こえないということは、ロニと「アニマの器」の同調率が極端に下がってしまったということなのだろう。一時の変調なのか、このままずっと同調することがないのかはわからない。ではなぜ同調率は下がってしまったのか。なにかが邪魔をしている。
魂に関わる同調が、機器の不具合に妨げられるということはないはずだ。問題は心にある。大怪我をして失神寸前だったときでも動かすことが出来たのだから、簡単には言いきれないが、ロニの思惟そのものが同調を邪魔しているに違いなかった。
(レネのことか? まさか。そんなことでどうしていま止まるんだ)
ギアが変調を来す直前にあったことと言えば、ボレアスと会話をしたということだけだ。そこに、ロニの根底を揺るがすような言葉が含まれていたのだ。思い返せば、あのときに感じた不快感も、「アニマの器」と同調できなくなってしまった理由も、明晰に見えて来る。
――これは、あなたに対する反抗ではないのかとね。
(あんな言葉に動揺したのか)
ロニは唇を噛みしめた。ボレアスなどの口車に惑わされる自分の弱さを、彼は呪った。そんなことでアンドヴァリを動かせなくなるなど、あってはならないことだ。ギアが動かなければ、戦えない。
(僕の戦いはここまでなのか)
ただの気の迷いでギアが動かなくなるはずはない。ボレアスの言葉はロニの心の奥底にある、強大な不安感そのものを突いた。彼自身さえ目を逸らし続けて来たもの。おそらく彼は無意識のうちにその存在に気がつき、幼い頃から必死に糊塗し続けて来たのだった。触れてみれば、それはロニにあまりにも親しく、懐かしい。勇敢で誇り高く、そして抜け目のない政治家である彼という表面からは、だれも思い及ばない深い暗闇だった。
彼自身の胸の中にあるあまりにも大きな砂漠のような闇に、ロニは怯えた。見てはならないものだ。ロニはその闇を拒み続けて来た。それこそ、ささやいて来る声が垣間見せる混沌の正体だったし、その奥底に彼が本当に望むものが隠されているに違いなかった。「アニマの器」はロニが本当に望むものを知っていて、それをささやきかけている。だが拒まなくてはいけない。その闇に身を委ねることはどれほど快いことか、考えるだけで身が震えるが、ひきかえに失うものがあまりにも大きかった。彼が彼であるゆえんのすべてを失うような気がする。だからこそ、アンドヴァリに搭乗しつつも、ロニは拒み続けて来た。自分を見失わず、そしてアンドヴァリの力を引き出すぎりぎりの境界線の上で、堪え続けて来た。
ロニは心の中に広がる闇に目を凝らした。闇は深く、彼を飲みこもうとしている。だが飲みこまれるわけにはいかない。
てのひらで碧玉を強く強く握った。兄弟であることを証するこの碧玉を首にかけたとき、すべてが始まった。ロニは闇から目を逸らし、レネと初めて出会った瞬間を思い出そうと躍起になった。二つに割られた美しい碧玉の輝きこそが、すべてのはずだ。そこから起きたことに迷いも偽りもなかった。ボレアスなどの言葉でレネを信じないのはロニこそ不義だろう。
だがあっさりと否定することが出来ないのは、ロニ自身がレネに負い目を抱いているからだ。
レネは、本当はこんな血なまぐさい戦いの渦中に身を置くような男じゃなかった。ただ彼は、そういう男を兄に持った。その兄が、彼を戦場へと連れ出した――
ギアが飛来する轟音が上空に響き渡った。もちろん、アンドヴァリが動き出したわけではない。手に碧玉を握ったまま、ロニははっとして顔を上げる。目前に見慣れたアンフィスバエナが降り立っていた。砂埃を巻きあげつつランディングを完了すると、すぐさまコックピットが開き、カレルレンが顔を出す。険しい顔で、彼はすぐさま声を張りあげた。
「ロニ! 生きているのか?」
ロニは思わず息をついた。ともかく、この事態がロニのギアにだけ起きているだろうことがわかったからだ。ロニの精神と「アニマの器」との間に問題があることもはっきりとしたが、とりあえず、カレルレンが動けるのならいい。ロニは立ちあがってコックピットを開いた。こもっていた湿気は、あっという間に砂漠の熱にあぶられて消し飛んでいく。
「カレル!」
「無事だったか。なにがあった?」
詰問口調のカレルレンに、ロニは敢えて軽々しさを装って告げた。
「アンドヴァリが動かなくなったんだ」
「アンドヴァリが? 故障か?」
「さあ、よくわからない」
ロニははぐらかしたが、カレルレンはわからないということをおかしいと思わなかったようだった。ギア・バーラーのことはだれにもなにもわからないのだから、当然だろう。カレルレンは仏頂面で腕を組み、ため息をつく。
「どうするんだ」
「ともかくサムードまで移動するしかない。乗せてくれるかい」
「私は構わんが、アンドヴァリはいいのか?」
「艦で回収しに来るよ。明日の到着は少し遅れるけど、仕方ない」
「わかった。こちらへ来い」
カレルレンはすぐにコックピットに戻ると、アンフィスバエナの腕を動かしてロニの目の前に差し出した。飛び移ると、そのままコックピットまで運んでくれる。
アンフィスバエナのコックピットは、ロニには至極静かだった。
「なにがあったんだ?」
ギアを始動させながらカレルレンは再び訊いて来たが、ロニは首を振っただけにとどめた。カレルレンが碧玉を握るロニの手をじっと見ているのに気がついたが、彼がなにも言わないので、ロニもなにも言わなかった。
コックピットにはジェネレータの動く音が満ちていて、耳にうるさい。だが、声は聞こえなかった。いかなるささやきも、言葉も、ロニには聞こえて来ない。だがカレルレンには聞こえているのかもしれなかった。
それを問う気にはなれなかった。ロニの聞いているものと同じ類のものだとすれば、カレルレンの心の奥底にある暗い衝動と結びついているはずだからだ。彼とは友人で親しい間柄だが、尋ねることは出来なかった。
「アニマの器」は魂と結びついている。――魂の問題はいかなる他者にも触れることの出来ない領域にあるのだ。
回収されたエル・アンドヴァリは、艦のギアドックで墓碑のように立ち尽くしていた。こうなってしまえば、無類の威力を有するギア・バーラーといえど、ありきたりの故障機となんら変わりがない。
ロニはしばらくその姿を見凝めていたが、いくら見凝めたところで、人間ではないのだからなにかを語りかけて来るわけではない。ましてや、コックピットの中でさえ、ロニには話しかけなくなってしまったのだ。そんなところで耳をそばだてていても意味がないだろう。
ロニは嘆息し、アンドヴァリの前を離れた。
ギアが動かなくなってしまったことを考えていると、知らないうちに碧玉の首飾りを手に握っている。冷たい石に触れると、暗い思考に絡めとられて溺れそうになる錯覚が、消え失せるような気がしていた。どうやらそれは、なにか不安があったときの彼の癖らしい。自分でもこうなって初めて気がついたことだった。
ファティマ商会の艦はロニたちを乗せたあと、アンドヴァリを回収し、そのままニサンへとむかっていた。アンドヴァリの不調は、機器のトラブルのようだと説明してあったが、同じギア・バーラーに乗るカレルレンだけはなにか感づいているようだった。余程ロニの様子が気になるのか、いつもはほとんど自分からロニの顔を見に来ることはないのに、やたらと声をかけて来る。
ギアドックを抜けて廊下に出ると、正面からカレルレンが歩いて来た。出くわすなりに、闇の色をした彼の瞳がロニの胸元に注がれる。ペンダントを握りしめている手を見られていると気がついて、ロニは不自然にならないようにてのひらの力を緩めた。勘の鋭いカレルレンのことなので、ロニの癖にはとっくに気がついているだろう。ロニを迎えに来たときですら不審そうに手元を見ていたのだから間違いない。ロニが気がついていなかっただけで、もしかするとこの癖は周知のものなのかもしれなかった。
「どうしたんだ、カレル」
「おまえを探しに来たんだ」
「珍しいね。なにかあったのかい?」
「そういうわけじゃない。おまえはギアの様子を見ていたのか?」
カレルレンはちらりとギアドックの方角を見遣って、そう尋ねて来た。
「ああ。なんの変化もないけどね」
「レネには連絡を入れないのか」
「まさか。出来ることがあるとは限らないのに、式の準備もそっちのけでこっちに来るのが落ちだ。ジークリンデが気の毒じゃないか」
「恋人よりこんなにかわいくない兄貴を優先するのか?」
カレルレンは皮肉を言いながらにやりと笑う。ロニはもちろんと請けあった。
「レネが今回の結婚を許してくれと僕のところに来たとき、なんて言ったと思う。ジークリンデと同じさ。俺は兄貴の行くところに行く、だよ。泣かせるよね」
「おまえが言うとレネがこの上もなく不憫に思えるな」
「どうとでも」
「しかし、悠長に構えていられる場合じゃないだろう」
「なにがあったのかわからないんだ。しばらく様子を見るしかないだろう。焦ってどうにかなる問題じゃないってことだけはわかってる。まずは目の前の式典を無事に済ませるほうが大事だ」
カレルレンは釈然としない顔をしていたが、ロニにもはっきりと説明することは出来ないのだから、我慢してもらうしかない。ニサンでレネとジークリンデの結婚の際に起こる問題に関しては、エル・アンドヴァリを使うような事件はないはずだ。動くかどうかもわからないギアのことを気にかけて警戒を怠れば、それこそどうなるかわからない。
「ギアが入用のときは君に頼めばいいしね。まあまず、そんなことはないと思うけど」
ボレアスは、アンドヴァリが動かなくなったことは予期していなかったのか、いたく驚いていた。自分が発した言葉が引き金になっているとまではわかっていないだろう。彼は「アニマの器」と同調が出来ないのだから、理解しようがない。ロニの不安を煽るようなあの言葉は、ただの宣戦布告を意味するだけで、なにも「アニマの器」との同調を妨害しようと言ったことではないはずだ。
アンドヴァリが動かないということにも首を傾げたり、バルタザールのギアはやはり素晴らしいのだとシェバトの技術を自慢するばかりだ。
ボレアスの相手はロニの役目でもあるが、目障りで仕方がなかった。焦ってもなにも益はないということを肝に命じて、大人しく、傲岸不遜な態度に耐えた。ニサンの枢機卿はいつもロニのこんな態度に苛立っているのだろう。意識しているのとしていないのと差はあるが、多少は遠慮したほうがいいかもしれないと珍しく反省してしまった。
ボレアスはなにもかもわかったような顔でロニにこう言う。
「さすがのあなたも肩の荷が下りたと思っているのではないか? あれがなにかは知らないが、結局は、人間の手に負えないものではないのかな。ギア・バーラーの威力は凄まじいものだが、シェバトの機動隊をもってすればソラリスの部隊と戦うことは出来る。なにもあのように不安定な、理解の出来ないものに頼る必要はないだろう。僧兵隊長どの、あなたもそう思わないか? だとすればアンドヴァリが動かなくなったこともなにかの機縁というものではないかな」
ボレアスのその言葉を聞いた後、カレルレンはひそかにロニの肩を叩いてささやいた。
「暗におまえは用なしだと言っているようなものじゃないか。おまえを消してレネがファティマ商会を継げば、もっと事が楽にと進むと思っている」
「ニサンまで来たのは僕が狙い、というわけか」
シェバトに屈するつもりなどないが、まんまと半ばまでその陥穽に落ちこんでいる。
問題はボレアスがいつ行動を起こすかだった。ニサンまでせっかく足を運んでおきながら、なにもしないということは考えられない。レネの結婚も妨害したいはずだろう。ファティマの戦力をシェバトの手持ちの駒として取っておきたいというのであれば、式典が済んでからでは遅いからだ。ボレアスがロニを排除しようとするなら式が始まってしまう前になるはずだ。まさか、この艦の中でなにか出来るはずはないから、ニサンに着いてからが勝負だった。
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