――ただの医者と囚人、それだけの関係にしておきましょう。ばれたら、事ですからね。
シタンにそう言われたとき、フェイは少し――正直にいうとかなり、寂しいな、と思った。キスレヴの囚人街という見知らぬ土地に放り出されて、そしてフェイは要注意囚人という立場で、世間知らずの彼にはあまりにも心もとない環境だった。
もちろん、シタンとしてはフェイがいまよりもっと騒動に巻きこまれたら……という心配から、そうすると決めたのだろう。
けれど、彼の姿が視界に入っているというのに、声をかけられないというのはかなりの苦痛だった。ねぇ先生、とすぐに言いそうになる。
いままで習慣だったことをするな、と言われるのはある種の拷問のようだ。つまり、顔を洗うことはまかりならん、と言われているようなのだ。それで気がついたこともある――いままでの自分はどうも、尻尾をふりふりしている犬みたいだったんじゃないかとか。
ちょっと自分の馬鹿さかげんに気がつきはしたけれど、だからといってこの寂しい環境で、シタンに頼ろうとする心が消え去るほどではなかった。
シタンはだいたい、フェイが思わず話しかけそうになるのに気がつくみたいだった。一瞬、目配せをしてくれるがそれだけだ。ひっきりなしにやってくる患者の怪我の手当てばかりしている。
――俺も、怪我したら先生としゃべれるのかな。
一度そう思い、薄暗い下水路に行ったこともある。陰鬱なところで、しかもひとりで、行きたいとも思わないのだが、仕方がなかった。
怪我をするといってもいささかわざとで、だから二の腕に妙な形で出来てしまった。
――……この位置じゃあ、ひょっとして。
下水路の出入り口になっている屋根の上に座りこんで、だらだらと流れる赤い血を底に滴らせながら、沈んだ気持ちでフェイは考え込んでいた。
怪我の位置は、二の腕の後ろ側だった。シタンに怪我の手当てをしてもらっても、フェイは後ろむきに座らなくてはならないではないか。それでどうやってうまく会話しろというのだろう?
かといってまた怪我をしに、降りていくのも馬鹿らしい。
仕方なくフェイは腰を上げて、シタンの元にむかった。ともかく、怪我をしたのは本当なので、手当てをしてもらわないといけない。
「けっこう痛いんだよな。……」
「次の人、入っていいですよ」
シタンが声を上げたので、フェイは治療室に入っていった。
「おや、随分おかしなところに怪我をしましたね」
おずおずと腕をさしだしたフェイに、シタンはにやにやと笑いつつ、そう漏らした。
「まるで、後ろから不意をつかれたみたいですね。それでよく、この傷だけで済んだものです。あなた、ひょっとしてものすごく強いんですか? ああそうか、キングの手下を全部やっつけた! っていう噂の拳闘家は、あなたのことですか」
全部知っているくせに、わざとらしくそんな説明ゼリフを言うシタンは、とても嬉しそうだ。知らないふりをするのはいいけど、もう少し自然に出来ないんだろうか? と思って、フェイはまた暗くなった。
こんなことなら、会いになんかこなければよかった。
「じゃあ後ろむいてください。治療しますから」
そういうわけで、やっぱり後ろをむかされてフェイは、むっつりと黙りこんだ。
わざわざ会いに来たのに、本当に馬鹿馬鹿しい。
その上、こうやって会うのはやっぱり、医者と囚人に過ぎない。決して、シタン先生、と話しかけるわけにはいかないのだ。
その夜、フェイがぼんやりと目を覚ますと……薄明かりの中にきらりと光るものが目の前にあった。月の光であるはずがない。ここはキスレブだ。
なんだろうと思って目を凝らすと、シタンが目の前にいた。あまりにも近くで、慌ててしまう。きらりと光っていたのは、彼の眼鏡だったというわけだ。
「先生……?」
「ああ、やっぱり目が覚めちゃいましたか」
にこり、とやさしげな笑みを浮かべたシタンは、夜中だし、周りで人が寝静まっているからやけに小声で囁いてくる。
「覚めちゃいましたか、……って?」
「キスだけでも。と思いまして」
「キス?」
なにを言ってるんだろう、とフェイは眉を歪めた。それを見てシタンは、少し傷ついたように首をかしげる。
「なんだ、気がついてなかったんですか。てっきり、私のキスで目を覚ましてくれたんだと思ってたんですが」
「……先生、キスしてたの」
「そうです」
先生って、ほんとう相変わらず。フェイは苦笑して、
「――昼間、俺がわざと怪我したのって気づいてたんだろ?」
「おや、そうだったんですか」
気づいているくせに、はぐらかすのがシタンらしい。でもそれを、フェイも願っている。だから、簡単にシタンに甘えることができるのだ。
彼は決して、期待を裏切ったりしない。
「ただ、私があなたに会いたくなっただけですよ」
にこり――と笑ったシタンは、眼鏡を取り外した。眼鏡を外すと彼は精悍な印象に変わる。それでもその優しさは変わらずに彼の顔に留まっていた。
「それならそれでい」フェイも笑って言い返していたその途中、口の中になにかが突っ込まれた。「モガッ」
なんだかわからない。味は別にしない。
口に突っ込まれたものに力がかかり、首の後ろまで行き――シタンは笑ったままだ。
「ひぇんひぇ、!!」
「なんか言ってますか、フェイ?」
言ってるが、いま噛まされた猿轡のせいで、うまく喋れるはずもない。
「静かに」
「ぐ……ぐぐ」
「本当に辛いですよね……だれかに見つかっても、『恋人同士』って言えないんですから。私が変態医者になっちゃうだけなんてずるいですよねえ」
――本当のことだと思うけど。
しかしフェイは、幸か不幸かもうこんな状況に慣れきっており、あえて暴れ出したりはしなかった。
二の腕の怪我が得だったのか損だったのか、それはよくわからない。
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