恋のメゾン・ド・サンテ2
 目の前で、おさない妹が海面から吹き上げる潮風に、飛ばされそうになっている。彼女のスカートの裾ははたはたとひるがえっていて、足取りがふらついていた。
「プリム、平気?」
 少女はビリーを振り返ってにこりと笑ったが、その拍子に余計にふらついた。
 ビリーはあわてて、プリムの肩に手を添える。甲板のふちまで行こうとしている彼女につきあって、柵越しにはるか下方の荒い海を見つめた。大洋の荒い波が、タムズの足元に身を当てては、砕けて白く散っていく。プリムは千変万化の波の様子にご満悦のようだ。孤児院は砂浜に囲まれた小さな島だから、そことはまったく違う波の力強さが興味深いのだろう。
「はあ、」
 ビリーは、プリムの頭の上でため息をついた。どうしたの、と言うように少女は兄を仰ぎ見て、彼の浮かない顔に首をかしげる。手を握ってくる妹のてのひらの暖かさを感じながら、ビリーは呟いた。
「ちょっとあるんだ、いろいろとね」
 しばらく、兄妹なかよく海を見つめていると、「ビリー!」という声が聞こえた。振り返ると、タムズの店でなにやらいろいろと買いこんだらしいバルトが両手の荷物に四苦八苦しつつ、こちらへ歩いてきた。
「プリムもいたのか。ビリーの影で見えなかった。これやるよ」
 バルトは袋をガサゴソと漁って、棒のついた飴をプリムにさしだした。少女は笑って、受けとる。
「すごい荷物だね」
「久しぶりだからついつい買っちまった。こづかいはパアだよ。
 あ、艦には早めに戻ってくれよ」
「もう行くよ。荷物、持とうか」
「大丈夫。それよりおまえ、プリムを見てやれよ」
 飴を舐めながら、プリムはまた風に飛んでしまいそうになってる。ビリーが妹の肩を抱き、「気をつけて」と言っているあいだにバルトはもう歩き出してしまった。バルトはなにか言いたげに、こちらを一度振り返った。ビリーもその視線を受けてぎこちなく、足をとめる。
 そしてもう一度、ため息をついた。
 プリムに見上げられて、ビリーは変な笑いをした。プリムは思わず手から飴を取り落とし、その飴のせいで、甲板では小さな音がたった。
 ――この間のこと、バルトはなかったことにするつもりかな。
 ビリーは落ちてしまった飴をひろい、プリムをなだめながら手を取ってユグドラシルへむかいながら思った。
 実をいえばビリーは、先日バルトに告白をしたのだった。バルトがどういう意味でその言葉を受け取ったのかは知らない。というか、ビリー自身、自分がどういうつもりでバルトに告白したのかもあやふやだった。
 スタインを倒して数日後、バルトに諸々の感謝をしようと思いたち、話をしているうちに気が付いたら「君が好きなんだ」とか、口からこぼれていたのだ。好きと言っても色々だ。本当に色々だ。
 それ以来、ビリーとバルトの間はいささかぎこちない。お互い意識しすぎて、風呂場で鉢合わせをしてドギマギ、などという展開ではなかった(そんなことになったらどうしよう、とビリーは青ざめつつ心配していたのだけれど……バルトは風呂嫌いでそこで鉢合わせする可能性は限りなく低かったし)。むしろ、今までは顔を合わせると喧嘩ばかりしていたのが、さっきのように普通の友達みたいな会話ばかりするようになった。
 一言で言うと、穏やかな毎日だ。
 ちょっと拍子抜けする。バルトに避けられるかもしれない、と思っていたビリーは、ここにきて「バルトはあれをそういう意味には取らなかったのかも」という可能性に気がつき始めた。
 それが普通かもしれない。だからバルトも、ビリーと仲良くするつもりであんなに和やかに接してくるのだろう。もともと面倒見はよいバルトだ。なにか腑に落ちないが、ビリーがついているため息が止まらないという以外は特に問題もない。
 問題は、隙あらば出てくるビリーのため息なのだ。理由も定かではないこのため息。ひたすら、はあ、ため息。





 バルトのほうは、というと。
 あの事件のあと、バルトは様々な理由から、頭に血を昇らせて部屋に戻った。
 あの事件と言うのは、ビリーがバルトに「好きだ」と言ったときのことだ。ビリーは自分がしでかしたことを過小評価していたが、正直に言えば、「そんな意味」以外でとらないわけにはいかない事件だったのだ(というわけで、バルトとしては「事件」と呼ぶしかなかった)。
 場所はギアドックの隅、バルトが棲み家にしているがらくたの山の奥だった。だれも来ないパーツの谷間で、ビリーはバルトからすれば混乱しきっていきなり好きだと言い、――いつものしぐさからしてビリーに普通の好意も抱かれてないと思っていたバルトは、心底驚いた。それだけではなく、しがみつかれてキスまでされた。どころかむりやり眼帯まで取られた。
 新手の嫌がらせか。
 ビリーは悪気はないのか、不気味なことに、バルトにのしかかり、眼帯を無理矢理はずしてにやにやと笑った。
 ――なんだ、そんなにひどい傷じゃない。
 たぶん、そうなのだろう。他人から見れば。鏡を見てバルト自身が気にするほどには、顔の傷は気になるようなものではないのだろう。それでもやっぱり、バルトは隠したいと思うし、もう眼帯姿の自分に慣れてしまった(そして少しだけ思っているのは、そんな眼帯姿の自分がかっこよくて好きだということだ!)。
 シグルドも時々、バルトの素顔を覗きこみながら「眼帯ははずしたほうがいいんじゃないですか?」と言ってくる。ブレイダブリクに帰るときは、やっぱりはずしたほうが人相がいいはずだろう。それでも、やっぱり隠していたほうが落ち着くのだ。
 ちょっとお願いすると、ビリーはしぶしぶと言った様子で眼帯をかえしてくれたのだが、そんなビリーのふるまいにひやひやしていたバルトは、彼と別れたあと、頭に血が上っていくのを感じていた。一緒にいたときは次になにをしてくるか少しも予想できず、思わずしゃちほこばってしまっていたらしい。
(つうか、あいつ、どっかネジ切れてんじゃねえのか?)
 そうとしか思えない。いきなり好きとか言って、人の唇を奪ったり、人に乗っかって眼帯を奪ったり(ほんとうに悪趣味だ)。
 ……ほんとうによくわからない。頭にはカンカンと血が上って、怒りともむしゃくしゃともつかないものがいっぱいにつまってしまっている。
(シグに相談しようかな、)
 と思ったけれど次の瞬間、なにか空恐ろしさを感じてやめよう、という気になった。とりあえずどうも、シグルドに言うとよくない気がしたのだ。バルトに備わっている、動物的本能というやつの知らせだった。
 とりあえずバルトは、一定の距離を置いて、ビリーに接することにしたのだった。あんまり突き放すと後が怖い。いつかどこかで暗闇で、背後から一発打ち込まれそうな気がする。ほんとう、ビリーはちょっと頭のネジが……
 とはいえ数日の間、バルトは事件のことが気になって仕方なかった。けれどビリーをつつきたくはないし、シグルドに話すには本能が猛反対をしたし、そういうわけで気がついたら「相談が……」とか言いながら、こともあろうにシタンと膝をつき合わせてお茶をすすっていた。
 ビリーもどうかしているが自分もどうかしているかもしれない。バルトは、シタンの眼鏡がどこの光を受けているのだか知らないが、きらりと光るのを見てはたとそう思った。
 ちょっと人選ミスだ。
「ほう、相談ですか若くん……」
 いや、人生最大の過ちだったかもしれない。
 シタンのほうも、なぜ自分が相談相手に選ばれたのかわからないだろう。バルトがどうにかこうにか状況を説明すると、首をかしげた。
「……なんで、私に聞くんです?」
「うーん、なんでって。」
 理由はたくさん述べられた。どっからどう見ても怪しい外見とか口を開くともっと怪しいとかみんな不幸な状況なのになぜか一人楽しそうだとかこっそり陰でくすくす笑ってるのを聞いたことがあるとかフェイに異常に絡むとかフェイがガックリしてるとよけい楽しそうだとか……枚挙に暇はない。だがそんなこと、言おうものならどうなることか。
 くちごもってバルトは、
「シグには相談できないし」
「ぶち切れますね、あの人なら確実に。……カルシウム、たりてないと思いません?」
「今度、大量投与しといてくれよ」
「カルシウム溶液に漬けときましょう」
「死んじゃうよ!」
「冗談ですって」
 冗談になってねーよ先生……というセリフは先程と同じ理由で飲みこんだ。
 シタンははじめ真剣に、そのあと楽しそうに考えこんで(怖い)、「やっぱりそれがいいんでしょうねぇ」と一人でうなずきながら言った。
「なんだよ?」
「おそらくお互いの理解が不足だから、そういうことになるんです。ここは腹を割って、親しく心と心、裸と裸のつきあいなんてしたらいいと思いますよ。とりあえずサークル・ジャークからはじめてみたらどうでしょう」
 なんのことかわからず、バルトは黙って首をかしげた。だがすごいやばそうな気がした。
「ジャーク?」
「まあ、あれです……。男同士ですから。気軽に」
「なんだよ、だから」
「一人でやるのもなんですし。一緒にやれば恐くない、みたいな」
「はあ?」
「別にフェイも混ぜてもいいとは思いますけど、少なくとも男の子だけでやるほうが、コミュニケーションはうまく行きますよ」
「はああ??」
「若くん意外と察しが悪いですね。ひとりでやるのを、みんなでいっせいにするんですよ。パブリックスクールの伝統ですね!」
 パブリックスクール。バルトは思わず、こう聞いた。
「それ、先生とシグもやったの?」
「若くんの歳でデビューは遅いくらいですよ」
 シタンはバルトの問いに答えてくれなかった。でも多分、やったんだと思う。それが、裸のつきあいとか伝統とか馴れ合いとか、そういうことでやっていたのかそれとも、その先に進むためのステップとしてやっていたのかは……想像力の限界が来たので、バルトは考えるのを止めておいた。
 ともあれ十年以上も昔の話だ。
 ついでに、参考になりそうにもなかった。





 朝食のとき、ビリーはシグルドと鉢合わせをした。シグルドは艦の副長であり、艦の指揮運営についてはかなりの部分を一手に引き受けている。そういうわけで、食事を決まった時間に取ることは珍しかったから、こういう機会はあまりない。
 親子三人で朝食を食べていたブラック一家は、ここぞとばかりにシグルドを包囲した。
「おはよう、シグ兄ちゃん」
「おはよう、シグルド」
「……おはよう、ビリー、プリム、先輩」
 こうして落ち着いて話すのは、たぶんユグドラシルに来て初めてだっただろう。シグルドはビリーに、この艦には慣れたのかとか、不便なことはないか等々、聞いてきた。
「うん、平気だよ。みんなとも楽しくやってる」
「そういえば最近、おまえは若さんともめてねぇな」
 笑顔でシグルドに返したビリーは、続いたジェサイアの言葉にぎくり、とした。シグルドの前で振ってほしい話題ではなかった。ビリーが感じたそれも、動物的な本能の一種だ。
「僕はもともと、だれとも喧嘩はしてないよ」
「んん? ちょっと前までは、若さんと顔合わせる度に怒鳴りあってたじゃねえか」
「確かに」シグルドも同意して、肩を竦める。「若は近頃、あまり無茶もしないし落ち着きが見えてきた。ビリーのいい影響かもしれないな」
「そうかなあ」
 自信なさげに言いながら、そんな風にいわれるとまんざらでもない。ビリーは、ちょっと顔をにやけさせて頭を掻いた。バルトが自分の影響で変わった、というのは嬉しい話だ。本当かどうかは定かではなく、おそらく違うのだけれど、それでも顔が笑ってしまう。
(……どうしようもないかも、僕)
 ビリーは頭を掻き続けながら、乾いた声で笑った。
「どうした、おまえ?」
 首をかしげるジェサイアに、ビリーは思わず蹴りを入れた。これ以上、バルトに関する話題は恐い。シグルドがなにかを感づいたら、恐ろしいことになるのではないだろうか……?
「なにするんだよ、」
「そういえばシグ兄ちゃん、今度、海図の見方を教えてよ」
「ああ、いいけど」
 むりやりに話題を変えたビリーを、ジェサイアはうろんな目で見つめた。プリムはなにかを伝えたげな目でビリーを見上げ、にこりと笑った。
「どうしたの、プリム? なに? え、花?」
 ビリーは妹の顔をのぞきこみ、彼女の言いたいことをわかろうとした。どうも、妹は花がほしいと言っているようだった。
 聞き返すと縦に首を振るから、どうやらあたっているらしい。……しかしユグドラシルは海を進む艦船だ。ちょっ花を手に入れるのは難しいだろう。
「うーん、ちょっと無理だよ、プリム」
 プリムはビリーの手を握り、必死でほしいと訴えかけてくる。ビリーが困っていると、シグルドが助け船を出してくれた。
「次の街に泊まったら、営繕班が買いだしに行くから、頼んでおこう」
「ありがとうシグ兄ちゃん」
「いや、構わないよ。こんな艦にいるのだからね、女の子には息苦しいだろう。マルー様にも差し入れしよう」
 プリムは満面の笑みで、シグルドにありがとうをした。





 数日後、プリムの元にはかわいらしい花が届けられた。プリムはビリーから花をもらうと、ありがとうをして部屋を出た。ビリーがついていこうとすると、手を振って追い払われてしまった。
 そういうわけで、プリムはてくてくとユグドラシルの中をさまよっていた。手には白いかわいらしい花を持っていて、あまりにも戦艦にはふさわしくない。様子が目立ったようで、プリムが探していた人はどこからともなく飛んできた。
「なにしてるんだ、迷ったのかよ?」
 あまり暇そうにしているのは誉めたことではない。ユグドラシルの艦長であるバルトだ。
 プリムは顔を輝かせて、白い花をバルトに差し出した。けれど、バルトのほうは自分にくれているとは気がつかず、首をかしげた。
「どうしたんだよ。おまえの兄貴は?」
 プリムは必死で、花をもってあれこれとジェスチャーする。バルトは相変わらずの察しの悪さで、首を右に左にひねった。プリムはしまいにはかんしゃくを起こして、花をバルトの手に押しこむ。
「なんだよ?」
 プリムは健気に、ジェスチャーを続けた。
「えっなに? ……この花? ………………ビリー?」
 ようやく正解に近いところが出たので、プリムはここぞとばかりに頷く。そうして満足したように、もと来た道を戻っていった。バルトは、あまりよくわかっていない状態で取り残されて、また首をかしげた。
(……ビリーが、俺に、この花を渡せって言った、わけ?)
 それ以外に解釈ができなかったのだけれど、ちょっと、ぞっとしない。
 ともあれ、ビリーの名前でプリムが頷いたので、バルトはビリーを探した。花を手にしたバルトというのはやっぱり目を引くようで、通りすがりのクルーたちから、「だれかにあげるんですか?」とか声をかけられる。ちょっと恥ずかしかった。
(こんな目にあってまであのバカを探す必要はないよな、俺……)
 けれどこの花を持っているままは落ち着かない。とはいえ、だれかにおしつけていられるほど、バルトは豪胆な性格をしていなかった。いらいらとしながら、歩き回っているとまた頭に血が上ってくる。
(あいつのせいでこんな目に……どういうつもりだ、あいつ。俺に言いたいことがあるなら、妹なんか使うんじゃなくって言えばいいじゃねえかよ!!)
 顔をタコのように赤くして歩くバルトも、目についたようだ。ギアドックのあたりをうろうろしていると、頭上から声が降ってくる。
「なにしてるの?」
 見上げると、上の階の通路からこちらを見下ろしているビリーを発見した。
「……おまえを探してたんだよ」
 険悪な雰囲気が漂っていた。シグルドが勘違いして「近頃のバルトは落ち着いて」などと言ってはいたが、その実、バルトはビリーが恐くて控えめにしていただけだ。頭に血を上らせたバルトは、ビリーをにらむと手近な階段を駆け上がる。
 ビリーをにらんで、言った。
「なんのつもりだよ」
「なにが?」
 ビリーもまた、バルトを鋭い目でにらんだ。
「しらばっくれるな!」
「意味がさっぱりわからないね!」
「嫌がらせかよ!」
「君こそ、プリムをいじめたな?」
「はあ?」
 バルトは首をかしげる。
 ビリーはバルトをにらみ据えたまま、彼が手にしている花を指さした。
「それ、プリムのためにわざわざ取り寄せてもらったんだよ! どうして君が、持ってるのさ? プリムからとったの? 信じられない、シグ兄ちゃんに言いつけてやる……!」
「これは、おまえの妹が、おまえからだって言って押しつけたんだぜ。なんでそんなこと言われなくちゃならないんだよ!」
「はあ?」
 今度は、ビリーのほうが首をかしげた。
「それは、プリムがほしいって言ったんだ」
「そのプリムは、俺にくれたんだよ」
 二人とも、そろって首をかしげた。
「プリムが僕からって言って……?」
 ビリーがバルトに花をあげたりするのは変だ。そのことに気がついて、いつの間にか二人とも、むかいあって頭に血を上らせていた。バルトは白い花を見つめた。かわいい花だ。
「プリムが喋ったわけはないんだから。ど、どうして僕があげたって思ったんだよバルト」
「だって、プリムがおまえの名前を出したら頷いたから、」
「ぼ、僕があげるわけないだろ」
「そんなのわかんないじゃねえか、この間の前科があるし」
「この間ったって、ずっとそのこと無視してたのはバルトだろ……!」
「だ、それはな、」
「言い訳なんか聞きたくない!」
 ビリーはそう叫ぶと、バルトに飛びついた。身長差をものともせず唇を奪うと、バルトは思いつめたような凶悪な目つきでそれにこたえた。どうも、いやじゃないらしい。
 バルトとビリーは、とりあえず手を繋いでギアドックをあとにした。
 心と心を開くだとか裸のつきあいだとかなんだとかシタンの言葉が頭にうずまいていたが……深く考えなくってもいいかも、とかバルトは思うことにした。十年前は、シグルドもシタンも通った道だもの。





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