NO LIFE, NO PRIDE
chapter2 ROTE ROSA AN DIE WAND(壁際の「血のローザ」)
 あれらが一体なんなのか……そうだれかが言ったとき、それは問うだけ無駄だ、とロニは応えた。あれらは今ここにいるのだし、それを考えたところでやつらを切り裂く手元がおろそかになるだけであって、なんの益にもならない。
 そんな物言いは、多分、言ったのがロニでなければ人々にただなじられるだけだっただろう。けれど、ロニ・ファティマは地上の人々にとってはたったひとつの希望の光であったし、彼は前線に立って常に戦い続けて来た英雄でもあった。彼の言葉は受け入れられて、なじられることはなかった。
 彼は今のところ、非の打ち所のない指導者であり、戦士だった。
 ときには反論する者もあったけれど。
 ――あいつがどうやってあれらをこの世界につれて来ているか、それがわかれば食い止めることも出来るかもしれないではないか!
 そう言われて、ロニが返す言葉はひとつだった。
 ――だがそれは、戦わないほかの者の役目だろう。僕は戦う。
 戦えるものは戦いを。戦えないものが考えろ。
 そう言って彼は、戦いの終わった戦場にむかってニサンの十字を切り、ひざまずいて祈りを捧げた。
 かつて戦友だった「グラーフ」とむかいあいたくないだけだ、という風聞は流れなかった。彼はもう幾度も、その男と剣を交わしているのだから。その度に戦闘は熾烈を極め、幾度も怪我を負った。
 殉教したソフィア、消え去ったカレルレン、悪魔に魂を売り渡したラカン。その中で、ただファティマ家の兄弟二人だけが人々のために戦い続けていた。
 もちろん、ロニだとて口にしないからといって奴らがどこから来たか、考えないわけではなかった。本当にごくたまに、時間に余裕があるときに考えを巡らすだけにしているが。そうしないと本当に手元がおろそかになる。それで待っているのは敗北と死、それだけだ。
 ……ラカンがいなくなった日のことを、ロニはよく思い返す。
 ソイレントの戦場からシェバトに戻ったロニたちの待遇は、疲れと傷を癒す間は軟禁という他なかった。部下たちはじめ、レネにすら思うように連絡が取れない日々が続いていたが、ロニはそこで焦らなかった。戦争が終わったらしいという証しは、シェバトの牢獄にいる女が身をもって示していたからだ。
 ――しかし、僕らが戦ってきたのはシェバトとソラリスの「戦争」じゃあない。……
 ロニは、長老会議が恐れている通り、地上で『ソフィア』が握っていた権力を手に入れようと画策していた。ひとつはこのままシェバトの思うままにはならないという義憤めいた思いから、そしてもう一つは冷静な打算があったから。
 権力を握ることが肝要なのではなかった。『ソフィア』が失われた以上、今までと同じようにソラリスに牙をむくわけにはいかない。
 彼の望み、理想をかなえるために生きようと願い、闘う相手にはいつだって困らなかった。それが今はシェバトになったというだけだ。まだ少年だった頃にブレイダブリクの丘から砂漠を眺め、どうしてこれが地上に住んでいる僕たちのものではないのかと思った瞬間にその戦いは始まり、いつか取り戻せると信じながら闘ってきた。
 あの大地。その主はソラリスでもなくシェバトでもなく、地上で生きる彼らのものであるべきなのだ。
 怪我も癒えてしまうと長老会議もロニらをとどめる理由がなくなっていた。解き放たれたその日から、ロニは容赦なく闘った。それは血を流す闘いではないけれど、確実にシェバトの息を細めていった。
 そして最大の懸案事項があの女だった――M・ジェン・キーファ。ソラリスでも一目置かれた過激な反戦論議員。ソラリスが邪魔にし、『ソフィア』と交換するはずだった女だ。『ソフィア』は死んだが、ともかく厄介払いのしたいあちらはこの女を送りつけてきた。
 その日、ラカンを捜していたロニは、彼が獄舎にいると知ってそこにむかった。ここ最近、ソラリスから来た人質に頻繁に会いに行っているらしいと聞いていた。
 なにかわからなかったが、あの女はよくない、とロニは感じていた。ラカンになにかおかしなことを囁いているのも気に食わない。ラカンを弱い弱いと罵倒し、そして力は手に入れられるわよなどと、まるで洗脳のように囁いている。
 牢吏に会釈し、キーファ議員の牢の前へ進む。
 ラカンはただ真摯に、女の言葉を聞いていた。
「教えてあげたはずよ、その場所を。おゆきなさいな。そこであなたは、この世のだれもが手に入れられない強大な力を手に入れられるのよ」
 ロニが入ってきたことを意にも介さず、二人は続けていた。
「力……それがあれば……」
「おゆきなさいな」
 ただその二人の様子に不安を覚えて、ロニは部屋を後にした。ひどくまがまがしいが、なんといえばいいかわからなかった。なぜ長老会議のやつらはあの女を殺してしまわないのだろう。
 ――まだあるのか、ソラリスとの密約が?
 その夜、ラカンがみずからのギアに乗りこんで失踪した。聞いたロニは、剣を一本持ち、それだけで牢にむかった。彼のただならぬ様子に、怯えた牢吏はなにも言わずに鍵を渡した。
「……ラカンはどこに行った?」
 キーファは薄笑いを浮かべ、首を振った。
「あなたが知ってどうするの?」
「ラカンになにを囁いたんだ?」
「あの人の可能性を」
「くだらない」
「あなたにはないものよ」
 ロニは鞘から白い刃を抜き放ち、キーファに突きつけた。
「言う気はないのか?」
「おまえに邪魔されるわけにはいかない」
 ロニは無造作に剣を進めた。女は悲鳴をあげず、ただその胸が刃を飲みこんでいく。金切り声をあげて飛び出していったのは牢吏だった。
 女の唇から肺の空気が押し出され、その吐息とともに血が伝う。
 そのとき、キーファはにやりと笑った。
「また私を捨てていくの、ロニ?」
 その言葉に息をのみ、うずまっていく剣が止まった。女の背中から飛び出した切っ先から、赤い滴がぽたりぽたりと落ちていく。ロニは思わずキーファを突き飛ばした。赤い軌跡を描きながら、女は倒れ崩れた。髪が広がるように、びしゃりと赤い血が床に広がる。
 ロニは顔に飛び散った血を反射的に拭った。
 もう動かないはずの女がくすくすと笑っている。彼女は血にぬれた片手で宙になにかを描いた。
「哀れなロニ・ファティマ! この母の血にかけておまえの王国を呪ってあげよう。土と塵のすべてはおまえのもの、だがおまえは永遠に孤独だ! おまえはひとり死にその悲しみと孤独は癒されること知らぬ。哀れな碧い目の王よ、その千年王国に栄えあれ!」
 ロニはただ恐怖にかられて、もう一度剣を振り落ろした。首を斬り落とされ、キーファは二度と喋らなかった。
 なにも、もう死んでいいはずの女が喋り、その言葉が不吉だったために怯えたのではなかった。
 ――わたしを捨てていくの、ロニ?
 それは少年期を終えたロニが、父とともに艦に乗ることを選んだとき、母が言った言葉だったのだ。父と疎遠だった母には、ロニだけがすべてのよすがだった。それを知りつつ、ロニは父と共に生きることを選んだ。はじめての旅から帰ってきたとき、母はすでにこの世の人ではなかった。急な病に倒れ、あっという間に死んでいったのだ。
 キーファの死体を見下ろし、立ち尽すロニを、シェバトの兵士たちが押さえつけた。それから一月、ロニは上等な部屋で監禁され続けた。
 一ヶ月目に弟が長老会議の一人の評議員とともにやってきた。二世議員の苦労知らずで、だからこそ理想論に身を投じられる、そういう男だった。会議でニサンを擁護する発言をよくしていたので、憶えている。
 評議員は言った。
「化物が現れた」
 そのあとにレネが続ける。
「……親玉はラカンらしい」
「力を貸してくれ」
「行こう兄貴」
 うなずく必要などなかったはずだ。
 だが兵士たちが動かないのだといわれた。
 まだ幕は下りてなかったのかと、ロニは立ちあがった。M・ジェン・キーファを生かし続けていたシェバト執行部に対する不満は、彼が思っていた以上に広まっていたのだ。彼らはそのまま、処刑人となったロニ・ファティマを支持した。
 レネは言った。
「俺は兄貴が行くところに行くよ」
「地獄までか」
 レネはただ、うなずいた。




 そうしてロニたちは、地上でただ戦い続けた。すでに、彼が考えようと考えまいと時代の強大な流れが、彼の人生を支配していた。それに流されるまま、彼は戦った。
 権力はすでに彼の傍にあった。シェバトはとうの昔に人心を失っていた。
 さながらいつの間にか教母ではなく聖母となった『ソフィア』のように、すでに戦士でもなく英雄ですらなく、彼は王者だった。
 ソラリスさえも悪魔たちによって蹂躙され、すべてが混沌としていた。行方知らずになっていたカレルがシェバトに戻ったのはその最中だった。
 彼がそれまでなにをしていたかは知らないし、知りたくもなかった。その報を聞いて、地上で戦場にいたロニは急いで翔けつけたが、ソラリス兵を引き連れて今しもシェバトから去ろうとするカレルに一目あえただけだった。
「……話はゼファーに聞くといい。もっとも、しばらくは起こすな。無理に起こせば死ぬぞ。別に長くはない、十日もすれば目を覚ます」
 ただその一言で、彼がなにをしたのか、わかってしまうほど二人は理解しあっていた。だが、そんなことをここで確認してもなにが嬉しいのだろう。
 ――これが君の裁きか、カレル。
「僕は君を許さない」
 去りぎわのカレルに、ただそれだけ、ロニは言った。その瞬間に目線があった。それが今生の別れとなった。
 はたして目覚めたゼファーは、私はただ唯々諾々と彼の裁きを受け入れたと語った。半永久的に生き続けて、その罪過に苦しみつづけるつもりだと。
 ――だがそうなのか、カレル?
 これで、『ソフィア』の名と思想はその真実とともに永久に保存されるではないか。ロニが許せないのはそれだった。『ソフィア』は伝説と教説の中に風化していかない。真実を知り『ソフィア』に自己を捧げた王女が、語りつづける。
 今になっても彼は認めようとしないのか、彼女がただひとりの人間であったことを。
 ――私は、いつまでも私自身を失いはしない。他の人が私を見失っても、私だけは本当の私を知っているから。
 彼女の最期の言葉を、思い出す。だが残るのは見失われた彼女だ。『ソフィア』よ、燦然と輝く犠牲の処女よ!




 天の頂上に白熱した太陽が燃えている。
「この先か」
 レネ・ファティマの声が、通信を介して一団のコクピットに響く。だれも口には出さなかったが、全員の緊張は感覚としてレネに返ってきた。ピリピリとして、今にもはじけそうな熱がこもっている。死地というのはレネには慣れた場所で、だからこういった瞬間に部下がなにを考えているのかはすぐにわかった。
 通常の戦闘も、息の詰まる緊張をもたらす。だが、死地のそれはまた違う。
「起動していないギア数十体が確認できます。間違いありません」
「それで、うまく行けばいいけどな。熱反応は」
「……ありません。人間の、いえ、生物の反応はゼロです」
 喉が渇く。コクピットの外は砂漠の岩石地帯の真昼、60度を越える暑さのはずだか、ギアの中ではそれを感じることはない。それでも喉が渇くのは、見える空の曇りない青さと射しこむ陽光の痛さのせいかもしれなかった。
 ――罠なんだろうな。
 それがレネには察せられた。グラーフの朋輩である正体不明の大量のギアがいるらしい場所を見つけたと聞き、そこへの作戦の指揮を志願したのはレネ自身だ。死ぬつもりがあったわけではないし、死ぬ覚悟できたわけでもない。
 あきらかに罠である状況をにらんで、彼は少し考えた。
 ――ラカン、いるのか。
 もともとはソラリスの部隊から拾った情報だったという。あの国と地上との共闘は、もちろんありえなかったが、ソラリスも今はグラーフを倒すことを、国力をあげた目標にしている。全滅したソラリス部隊の記録を解析してここのことを知ったのだ。危険は高い作戦だ。
 グラーフがおらず、あの停止しているギアが動きだすくらいならなんとでもなるだろう。それを乗り切る自信くらいはあった。損耗も一割いくまい。
 だが、ラカンがいたら?
 ――さすがにそれは自信がないな。
 死への恐怖、戦闘への興奮、勝利への期待。一同の呼気がそのないまぜで荒くなっている。レネはただ息をつき、心を研ぎ澄ました。
 いつだって、兄のためにこんな死地を潜り抜けてきた。いつだって、死ぬには早すぎる。ロニ・ファティマには助けが必要だった。いや、レネの助けなど必要ないかもしれない、それほどに強い男だ。だれも纏えぬ王者の気風はいつまでも傷つかず、むしろ時をおうごとに気高く強く、なっていく。
 恋人ジークリンデに、なぜ俺を選んだのだと聞いたことがある。いつだって、レネはもっとも危険な場所に切り進んだ。命を張ることを生きがいとしていたわけではなく、兄のためにそこを切り抜けて闘える人間は彼しかいない、と自負しているからだった。
 一番重要なところを背負うのは彼でありたかった。そのためには、危険など顧みなかった。
 ――俺は最後にはどうしても、兄貴にすべてを擲つだろう。
 ――ええ、知っています。
 ――なのに? あなたが求めるときに守ることができないかもしれないのに?
 ――私は永いこと、『ソフィア』様とともに闘ってまいりました。私も、必要とあらばあの方のために命を棄てるでしょう。ためらうつもりはありません。
 その言葉どおり、刺客に狙われた『ソフィア』を守って刃を受け、死にかけたこともあったという。
 ――あなたには志があります。なにものかを時代へと遺していくという。それがいかなる形であれ、このニサンという地に集う残されるべきなにものかで、私はそれを守るつもりでおります。私があなたを愛したのは、それゆえです。あなたは私と同じものを遺そうとされていますから。『ソフィア』様なりロニ様なり、あのように彼ら自身を遺すのではなく、私たちは違うものを遺そうとしていますから。
 その理解は正しかった。たぶん彼女は、レネにとって最高の理解者なのだろう。嘘偽りではなくそう言える彼女もまた、強かった。今も『ソフィア』を失ったニサンでひとり闘いをやめていない。
 ここへ来る前、最後にジークリンデに会いにニサンへ行った。勝利という意の彼女の名にあやかろうかと考えたのだ。ニサンの静寂は変わらず、晴れた日のふとした景色には、今の世界の地獄を忘れそうになった。
 だがそんな世界でジークリンデは戦い続けている。いまは人もまばらな聖堂に、彼女はいた。
『ソフィア』がいなくて大変か、と聞くと、ジークリンデはそれどころかと首を振った。
 ――生きているとき、彼女は聖女でした。いまや、彼女は女神です。
 レネは肩を竦めた。そんなことは、『ソフィア』が生きていたら悪態をついて止めただろうから。
 ――明日のために、私はこの聖堂から逃げ出すことはできません。あなたの傍にいることもできません。……あなたが、ロニ様の傍から離れることができないように。『ソフィア』様の存在はいずれ必ず、あの方の治世にも欠かせないものになりましょう。
 ――そうだろうな。
 本当に強い女だった。
「通信サイトを開け。母艦へ報告を。終わり次第、戦闘態勢をとる。突撃だ」
 レネは意を決し、そう言った。
 ぎらりと太陽が輝いている。
 通信を終えると、レネはギアのレバーを引いた。コクピットにアラームが鳴り響く。案の定、沈黙していたはずの敵機がみな始動している。それではあのギアには生者は乗っていないのだ。どうやって動いているのだろう。生者がいなければ乗っているのは死者なのかもしれない。
 ――あいつは陽の沈むところへ行って、己の死を悔いやんでならない魂をつれて来たのかもな。
 レネはそこで考えるのを止めた。機械仕掛けの悪魔どもに負ける気はしない。
「敵機起動中、戦闘開始します。――ギア・バーラー反応あり、……ヴェルトールと確認……グラーフです!」
 やっぱりな、とレネは思った。
 ――そう来ないとな。
 青い空の中に、点のような黒いギアが見えた。それを見ていやになるくらい、血が沸き立つのがわかった。危険だからこそ、かつての友だったからこそ、戦いに臨んで血が猛る。いつだって、ロニの前に立って露払いをするのが彼の使命なのだ。胸に下がった碧玉を握り、叫ぶ。
「ひるむな、行くぞ!」




 レネ・ファティマの率いる一団が全滅したという報がロニの元に届いたのは、彼からの最後の通信の一日後のことだった。この先にグラーフがいそうだ、という情報を最後に、レネは消息を絶った。彼の一団が全滅したのは本当で、その確認は別の部隊が行っていたが、団長であったレネの行方はわからないままだった。
 その失踪は、一週間も続けば、彼がカレルレンのように、そしてラカンのように消えたのだ、という噂になっだろう。だが、レネは三日目に、姿をあらわした。
 ロニは、例のシェバト評議員と今後のことを話していた。ただ落ち着かず不安と戦略がないまぜの会話だったが、本音を言える人間が今では少ないだけに、それだけで気が楽になる。
 そこにふらりと、レネはやってきたのだ。三日も消えていたことなど感じさせず、まるでいつものようにあらわれたので二人は一瞬、ただ「やあ」と言いかけた。
「……レネ、無事だったのか」
 ロニが歩み寄ると、レネは顔を上げた。怪我という怪我は特にない。そして全滅した部隊と行動をともにし、三日さまよっていたとは思えない身ぎれいさだった。
「一体、どうしてたんだ?」
「無事じゃないんだよ、親愛なるロニ・ファティマ」レネはにっこりと笑った。「なんだ、俺を忘れちゃったのか? おまえもあんがい情が薄いなぁ。わざわざ会いに来たのに」
 その口調が弟のものでないのはすぐにわかった。そして、だれのものかも。だがそんなことがありうるだろうかとロニの頭の中は混乱した。その男の名は、すぐには口を出せなかった。
 ――ラカン!
 かつてともに闘った、けれど今は人とあらゆる命の敵となったラカンだった。
 レネの胸には、かつて二人の父がその絆の証しにと、ひとつの石を割って揃いで作らせた首飾りが下がっている。
 愕然としているロニを嘲るように彼は微笑した。
「ああ、この体ね……レネは本当に強かったよ……おかげで、俺のからだが使いものにならなくなっちゃったんだ」
 笑いながら、その殺気はすさまじかった。腰の剣に手を伸ばしたロニは、けれど弟の姿に抜刀だけはためらわれていた。
「どういうことだ、レネはどうした……!」
「だから体をもらったんだよ。レネはもういないよ、この世のどこにも、この心の奥底にも。哀れだなぁ」そう言いながら、レネは――ラカンは、剣を手にした。「レネも死んでしまったな。……なのになぜ、どうしておまえが生きている、おめおめとこの世界で。みないなくなったというのに、なにを望むんだ? この世界を愛してもいないおまえがなぜ生き延びているんだ!」
 大きく振りかぶって下ろされた剣を、ロニは鞘のまま防いだ。
「悪魔の親玉に言われたくないな!」
「これは愛だよ、この大地への。彼女は命と血潮を求めているんだ」
「キーファのことか? いつからソラリス女の犬になった!」
「彼女は――いいや、覚醒させるべきアニマの器を持たぬおまえには、ただそれを使うだけのおまえには永久に理解はできまい!」
 ロニは相手の剣を受けこたえられなくなり、鞘を捨てた。三合、剣を交わしたところで鞘で傷ついていたラカンの刃が弾けとぶ。白刃をつきつけ、言った。
「返してもらおう。レネは僕のものだ」
「残念だったな、力ずくで奪うしか方法はない」
 そこまで来たら、もうためらうのは無意味だった。乱れた息も整えず、ロニは弟の体を切り払った。レネの体はよろけ、評議員の方に二、三歩あるいた。その背に重く、とどめの一刺しを与える。
 ラカンは評議員の足元まで行って倒れた。評議員は赤い血を全身に浴びて、恐ろしげにそれを見下ろす。今ここで起こったことがさっぱりとわからないというように、顔がゆがんでいた。
 ――ここであったことの説明はどうつける?
 ひとつしか道はない。ロニはレネを斬った剣を捨てると、もう一本をひきぬいた。そのまま評議員の方を見たが、ロニが彼を斬る必要はなかった。
 わずかの間に、評議員の表情が変わる。すでに彼はラカンに寄生され、別人となっていた。評議員は笑った。
「この体でおまえとやりあうのは分が悪そうだ」
「化物め」
 ラカンは出口へと飛びすさり、ロニの手の届くところから逃れた。芝居がかったしぐさで手を広げ、
「俺は知ってるぞ。おまえの野心は虚無を隠し絶望に目を背けるためだと。
 野心さえあれば、その暗黒はおまえの魂を食い尽くすことはない。この世界はひとりの人間に征服しつくせるような小さなものではないからな。
『ソフィア』に果たせなかったことをおまえはできるか?
 見ろ! 世界は広いぞ」
 ラカンは走り去っていったが、追いかけようとは思えなかった。何度切っても同じことだ、あいつはただその身を換えるだけ。
「は、……はは……」
 乾いた笑いしか出てこなかった。語りかけるべき人間もここにはいない。
 ロニは使わずにすんだ剣を放ると、両手を見た。レネを斬ったときすでに、つばで止まらず、あふれた血がふたつの手を汚していた。倒れ沈むレネの胸には、やはり血まみれの首飾り。
 おかしいのは、この瞬間にもいかにしてこの場を切り抜けるか、それだけを考えている自分だ。
 つねに冷静な判断を下せることを、ロニは誇りにしていた。それは彼の最たる長所だと、そう思っていたのだ。
 けれど、それは違った。
 ――ラカン、おまえは僕にそれを教えに来たのか。
 ――でも、僕は知っていたよ。
 知っていたよ、そんなこと。
 騒ぎを聞きつけて集まってきた人々は血まみれの惨状に唖然とし、ロニ・ファティマに説明を求めた。
「評議員の仕業だ。……所詮はシェバト人だったということだ! このまま奴らの思うままになってはならない、死んだ弟のためにも」
 レネを殺した下手人として評議員は手配されたが、二ヶ月後にバザールで死体が見つかり、追求はそこまでだった。シェバトと地上の決裂はことの真偽をつきつめられないほどに悪化していった。





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