街を見下ろす尖塔に、立つと町々の灯りが暗い夜闇の中に浮かび上がってくるように見えた。今夜は風が強い。街路を歩いていると家並みに遮られてあまり感じなかったのだが、急峻な階段を上り、塔の天辺まで登るとなぎ落とされそうに、風が叩きつけてくる。冷たく凍える北風は、ニサンの冬にはよく吹く風だ。北から吹く、冷たい乾いた風。
年を越えきらないこの時間、街は静かだ。その一年の死者を悼み、家で人々は食事をし、語らって過ごす。一族が集まり、老人が昔話を子供たちに聞かせるのが慣わしだ。
そして、教会で旧い年の終わり、そして新しい年の始まりを告げる九つの鐘が鳴り響き終わると、やおら人々は町に繰り出して新しい年を祝うのだ。
そうなれば、道にいくつも建てられた松明に火がともされ、夜とも思えない明かりでニサンは照らし出される。そして歌と踊りがほうぼうで始まるだろう。
それでも今は、街は至極、静かだった。
前線では、この夜も命を賭けた戦いが続いている。昔、地上の戦いではこの時節は休戦協定を結んで兵士たちを家に帰し、過越の夜はみなが自分の家で過ごしていたものだ。傭兵であってもそれは同じ、それぞれ家を持っているものは家に帰っていった。傭兵にはその頃だけが、一年で家に帰れる時期だったからだ。だが、帰る場所とてないカレルには、自分の孤独を思い知る夜だった。過越の夜に、人殺しは求められない。
ソラリスとの戦いにはその休戦はなかった。確かに、兵士たちの不満を抑えるため、いくらかの兵力は削減せざるを得ない。それでも、敵は容赦することはないだろう。予想通り、今日もいつものように戦端が開かれたことが通信で入ってきた。
だから余計に、この景色を見て静けさを感じてしまう。
過越にニサンに戻ることは、ニサン長老会から僧兵隊長たるカレルに対して要請があったためにやむをえないことだった。だがやはり、戻ってくるべきではなかったのだろう。こんなに、この静けさに昔のような孤独を感じてしまうのなら。
ソフィアは年を過越した後の祭りのために、聖堂の中で準備におおわらわだった。そのソフィアの警護はカレルの任ではなかったため、どことなく居場所をもてあまして彼はこの塔に昇った。
ニサンを見下ろすこの塔に。
風の冷たさに、手袋をした手すらすぐに冷えていく。無意識に手を握って、指がこわばるのに気がついた。足が震える。本当に寒い冬になった。
戦争は、終わりが見えない。
ロカストの群れように、倒しても倒してもわいてくるソラリス軍隊は、その本国からすればほんの下級兵士たちばかりなのだろう。カレルたちはその後ろにあるもっと大きなものと、戦いたかったのだ。だが、まだたどり着けそうにもない。
(生きているうちに、たどり着ける場所なのだろうか)
その疑問は、口にしないようにしていた。たぶん、だれもが「たどりつけない」と答えるに違いない。それには同感だけれど、認めることはいま進もうとする足を止めることになるから、できなかった。
あまりにもソラリスの支配は長く、大きい。それでも、なにもしないよりはましだ。大地に対する冒涜を、気がついたのに見過ごすことはできなかった。だれかが人を殺めた、というのなら見て見ぬふりもできる。カレルは、そういう正義感に満ち溢れた人間ではなかった。殺す者には殺す者の、事情と怨嗟がある。裁くことができるのは殺された者と、殺した者だけだ。
だが、大地に対する冒涜は、見過ごしたものをも罪に引きこむ。だれもが大地に立っているのだから。だれもが土の中から生まれてきたのだから。大地を穢されていることを知るものが罪人なのだ。
だから、戦い続けなくてはいけなかった。
そのために戦っていた。
足が震えるのは寒さのためだけではなかった。なにかから逃げるように昇りつめるまで、高いところが嫌いだったことを失念していた。足元を見ると、凍えとは違う悪寒が背筋を走った。それほど居辛かったのだろうか、過越の夜の世界が。
優しげな夜の沈黙が。
やがて、階段を昇る足音が、塔を伝わってきた。頂上へ登る螺旋階段は、下から風が吹きぬける構造になっており、下方の音が聞こえ易かった。聞き慣れた軍靴の音が規則正しく聞こえる。
「――レル!」
けれどその人の声は、風に軋んできちんとは届かなかった。言葉のかけらだけが、カレルの耳に聞こえた。
彼はため息をついた。よくもこんな場所を見つけたものだ。
「ロニ、気をつけろよ」
返事はあったのかなかったのか、わからなかった。なんにせよ、風で吹き飛ばされるくらいのあいづちだったのだろう。そのままで、カレルは待った。
すぐに、ロニの姿が見えてきた。息が上がっている。
「よくわかったな」
「下の見張り番が見ていたよ、さすがにね。僧兵隊長の居所をだれも知らないんじゃ問題だろう」
「今日はどうやら脇役のようだ。わざわざ前線から戻って来るまでもなかった」
「これもお役目さ」
「お互いな」
「僕は自分から戻ってきたけど?」
きょとんとした表情のロニ・ファティマを見て、カレルは吐息をついた。そういえば、お祭り騒ぎは好きそうだ。
ところが彼は、遠い目をしてニサンの夜を眺めた。家々に灯る火のひとつひとつに憧れるようなまなざしで、さながらついさっきまで、カレルがここに立っていたのと同じようなまなざしで。風に揺らぐ彼の金色の髪はとても弱々しい。
「過越の夜はいつもと違う気がしないかい、とても静かになる」
「……なんだ」
「なんだよ」
もの言いたげなのを感じたのか、ロニが覗きこむようにして尋ねた。
「てっきり、その後の祭のほうが好きだとばかり」
「ひどいな、やっぱりそういう風に見てたんだな」
「いつものおまえから考えたら」
彼も自分も、この街でいつの間にか相応の地位を得たけれど(とはいえ戦争中の非常時で、いささか火事場泥棒のような感があるが――彼らは、ソフィアを含めた彼らすべては、この時代だったからこそニサンの今の地位につけたのだ。むしろその地位に担ぎ出されたといったほうがいい。だれもその地位を恣意的に望んだりはしなかったのだ)、そのためにたくさんのものを失って来ていた。それが、過越の夜の家々の窓に象徴されるなにかなのだ(それとも失ったのが先かもしれない、失ったからこそかわりに現在を得たのかもしれない)。
この過越の夜に、こうして冷たい風に震えて、尖塔のてっぺんから街を見下ろすしか居場所はない。ソフィアは忙しさにそのことをまぎらわせ、レネとラカンは戦地に残っている。だれも、暖かな灯火のもとでゆっくりと座ってなどいなかった。
「聖地ニサンでの過越っていうのは生まれてはじめてなんだ……もっと特別かなとか考えていたんだけれど、そうじゃないね。この静けさは、どこでも変わらないんだな」
そう、変わらないのだ。生まれた町でも、このニサンでも、静けさと寂しさに変わりはない……。
「もちろん、祭りが嫌いなわけじゃあないけどね」
「そうだろうとも」
風がまた強く吹いた。掠めるように唇を重ねたのは、あおられた髪が一筋ばかり、その間に割って入ったからだった。
「どれくらいここにいたんだよ」
「どうかな、戻って来てからはすることもなくて、なんとなく昇って来てしまったから。少なくとも陽が落ちたあとだ」
「こんなところ、よく来てるのかい? 寒々しいな。
ニサンで、一番景色がいいのは確かだろうけど」
「いや、ほとんど来ない。さすがに、そんな暇もないから。こんな夜くらいだ……」
高い教会の塔の上。
いくら街を睥睨する高処、といえど、カレルはこの場所が苦手だった。どうしてかわからないのだけれど、この高い場所は落ちてしまいそうで本当は好きではなかった。身投げするならばニサンで最も確実な場所だろう。教会である、ということを除けば一番いい。もちろん、ここから墜死した人間の話はこのかた聞いたことはないが……
それを意識すると、急に足元、はるか下方の地面がにわかに近くなるように思えた。身震いし、思わずロニの腕にすがる。
「すまない、」
「いいよ、気にするな」
「高いところは嫌いだ……落ちてしまいたくなる」
本当は、高いところが嫌いなのではなかった。教会の塔の上が嫌いなのだが、それは敢えて言わなかった。
「そう、飛べると思えばいいじゃないか」
「人間は飛ばないよ、ロニ。そして落ちるのは敗北だ」
「君は敗北を恐れるのか」
「ああ、怖いね。おまえは怖くないというのか?」
「それもまた、人生のひとつさ。いつも勝ちつづけよう、と無理をすればいつか限界が来る。すべてに勝たなくたっていいんだ、大事なところで退かなければ」
「それが理想だ、だがそうしているうちに負けてはいけないところで、気づかずに負けてしまうかもしれない」
「君は怖がりだね、……カレル。腕が震えているよ」
ロニに指摘されたことは確かだった。恐怖を感じて震えていたのだけれど、それはなにに対する恐れであったのか? ここからの墜落をか、それとも敗北をか。ただ単に寒さに凍えただけなのかもしれなかった。
「おまえには怖いものなんかないのだろうな」
「そうでもない、僕だって怖いものは山ほどある」
「たとえば?」
「たとえば、君とかね」
「震えるほど?」
「いまだって震えてる」
カレルはロニの手を握り締めた。その手はもちろん、震えてなどいない。素肌で触れれば、たぶん冷たさを感じるだろう。それとも、カレルの手のほうがよほど冷え切っているせいで熱く、感じるのかもしれない。
ロニはいつでも熱を感じさせる男だった。いくら寒い空気の中でも、触れるとその手は暖かい。太陽に熱せられ、温まった砂漠の砂がいつまでもその熱を失わないように、彼は熱を感じさせた。
それは人肌の温かさという意味合いとは少し異なる。なんといえばいいのか。彼の飄々とした態度から予想しえぬ、内面の激情の発露であるような気がした。他のだれにも感じない熱だ。
時々その熱さに餓えて、彼に触れたくなる。肌に触れ指を這わせると、なじまない熱に痺れを覚えた。凍えた指を湯に浸して、感じる痺れのようなものを。カレルの冷えた指先とは、簡単に交感などしないその熱に、時折、満たされない餓えのようなものを感じることがある。
「もうすぐ年を過越すよ。そろそろ、降りよう」
そう言われて、カレルは首を振った。
「もう少し」
「怖いんじゃないのか」
「怖くなくなるまで」
「いつまでかかるんだ? 年が明けてしまうよ」
「せめて、過越すまでここにいさせてくれないか」
「珍しいね。……なにをそんなに拘るんだい」
「そんなこと、聞くもんじゃない」
「聞きたいわけじゃない。きみ、冷たいよ」
ロニは腕をカレルの首に回し、耳を、頬を、温めるように触れた。
膚はかじかんで、簡単に熱を感じはしなかった。顔をしかめて、彼はもどかしさに耐えた。
眼下には穏やかで慎ましい、ニサンの家々の灯りが瞬いている。その光に囲まれて、尖塔の上は別世界のようだった。なごやかさなどないけれど、かといって苦痛に満ちてもいない不思議な場所となっていた。
戦地から考えれば町の穏やかさもまた、激動する世界からは離れた世界だ。その中でさらに、さらに遠く離れたいまのこの二人の空気。それを地上にひきずりおろそうなど、無粋な考えだ。過越の夜、聖地の塔の上だからこそ生じた別天地だった。年を過越せば、自ずから消えていってしまうだろう。この沈思した町だからこそ、そしてそれをロニと二人きりで眺めているからこそ、こうしていられるのだった。
目の端を掠める家々の灯りは、焦望するぬくもりの表象ではなく、きらびやかで遠く冷たい空の星にしか見えなかった。
カレルはロニの腕にしがみつくようにしていた手を緩めると、今度は彼の体にまわした。応えるようにしてロニも、その体を支えた。
「まだ、震えが止まらないね」
「簡単に止まるなら、怖くなどない」
「わざわざ、自分で昇っておいて……」
「人がいるとなお怖いのかもしれない。落とされそうで」
「落としやしないよ」
「どうかな……落ちるなら一緒、とか言うんじゃあるまいな?」
「そういう悪趣味はないな。一緒に落ちようが一人で落ちようが、落ちるのには変わりないじゃないか。怖さがなくなるわけじゃないんだろ」
「そう、……そうなんだ」
心を落ち着けるようにとカレルが目を閉じると、ロニは唇を重ねてきた。自由な手で風にはためくばかりの髪を払いのけ、器用に口付けた。湯を浴びるように唇から熱を感じる。口づけは、きついアルコールのように体を火照らせる。より強く、カレルは胸にロニを抱きしめた。
「見つけてくれて、良かった」
「僕が見つけなければ、落ちたとでも言うのか?」
「少なくとも、少なくともこんな気分から脱却はできなかったさ」
「まだ震えも止まらないのに、本当に」
「寒かっただけだ」
ロニはそれを聞き、笑った。
「ああ本当に、寒いねえ」
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新年用に書いていた話です。もうおしまいだからお蔵だし、というか忘れていた。自分では割と気に入っている話です。カレルレンが落ちそうで怖いと言うのは、「鳥の歌」とか「酔い覚め」にあるあたりで赤ん坊のときのトラウマです。(080305)
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