正午の鐘が響き渡ると、ニサンの聖堂では教母ソフィアの面会が開始される。受付される時間がとても短いので、あまり多くの人数ではない。日が傾きかける頃にはたいてい済んでしまう。
その日、面会の最後に入ってきたのは僧兵隊長カレルレンだった。
ソフィアは祭壇の直ぐ前に腰をかけ、遠くを見ていた。彼女の頬には窓からの光が影を落としている。その白い膚と透き通った金の髪は、ソフィアを命のない人形のように見せた。
けれど人形は決してあんなふうに遠い空を求めるようには見ないだろう。空を飛ぶ翼を折ったのは彼女自身だったけれど。
並ぶ椅子の間を歩くカレルレンの軍靴の足元にも、影が落ちて来ていた。その長さ、その赤い色づきが時間を知らせる。聖堂全体が赤く染め上げられるのももうすぐだろう。
ソフィアの周りに座している修道女たちはいかなるときも顔色を変えない。魂を捨てているようだった。
「ソフィア様」
「……どうしました?」
「お話があります。面会の者ももうおりませんので、席を移してお願いしたいのですが」
「わかりました。上へ参りましょう」
上とは、聖堂の最上部に位置するソフィアの私室だ。私室とは言っても、本当にそこで寝泊まりしているわけでなく、生身ではない教母のための「個室」だった。最上階に位置するその部屋は密談に適している。ほとんどものはなく、今は書きかけの一枚の絵だけがそこにある。微笑むソフィア。目の前にいる女と同じ人物だとはとうてい思えなかった。
カレルレンがあらたまって話を求めることは、珍しいことだった。ニサンにいる者にとって、僧兵隊長のカレルレンと修道女頭のジークリンデだけはソフィアにとって特別であることはだれもが承知だ。だが、カレルレンはこの日ばかりははっきりとさせておきたかったのだ。
彼女が、ニサン教母ソフィアであると言うことを。
この部屋はとても空虚だ。信仰の中枢でありながら、ソフィアもカレルレンも、この部屋になにもないことを知っていた。窓の枠形はニサン十字の影を床に落としているが、本当はここにはなにもないのだ。だが中枢だ。ここはニサンの子宮。しかしその胎は空だ。生まれた子供がソフィアだった。
だからこのニサンの子宮は空っぽだ。
「なにを話しに来たの?」
「――あなたのギアを調整していると聞きまして。まさか、戦場にお出になるつもりではないでしょうねと、聞きに参りました」
「出るわ」
「いまの前線はあなたが出て行けるような生易しい場所ではありませんよ」
「だから行くのよ」
揺るぎのない彼女の言葉を聞きながら、カレルレンは首を振る。
「あなたの護衛に手を回せば、戦力が薄くなります」
「護衛は不要よ」
「なにをおっしゃっているんですか!」
ソフィアの髪が、夕日に染められて赤い。光によって影ができ、彼女の髪をゆがませる。長く美しい髪だ。人形のような教母にふさわしい。
「あまりにもニサンに留まりすぎたわ」
「なにを案じておられるのですか? 戦地での士気ですか。それとも、あなたが後方にいることをなじる者どもの眼差しですか。それとも、あなた自身がもてあますあなたの闘志ですか?」
ソフィアが好戦的な女であることを、カレルレンは知っている。人生で一番長く、時間を過ごして来たのが彼女だ。並の男よりもはるかに、彼女は野心的で闘志に満ちている。負けるよりは戦って死を選ぶ女だ。
本当は、ニサンのような場所に居続けることは好きではないだろう。それよりは前線にいたいと望んでいたはずだ。だが、ずいぶんと長いことそれを堪えて来たではないか。このニサンで教母として戴冠したその日から。
「私はなにも懼れてなどいないわ」
「ではなぜ、戦地へ?」
「人々の支持を得るためよ」
「それはここにいても出来ましょう」
「いいえ、それでは駄目よ」
「戦場でまつりあげられる偶像などは、ロニ・ファティマにでも任せておけばいいのです」
ソフィアは少しのあいだ口をつぐんだ。その間に、カレルレンは彼女が納得したのかと思う。けれどそうではなかった。ソフィアは静かに、彼の名を呼んだ。
「――カレルレン」
「はい?」
「戦地でまつりあげられる偶像が、なにに替えても彼であってはならないわ。だからこそ私は行くのよ。あなたは忘れたというの? 私たちの目的を忘れたというの?」
カレルレンは一瞬はっとして、ソフィアに目を見張った。その目が、あまりにも懐かしいものだったからだ。もう長いこと、このニサンに来て忘れかけていたものだ。ソフィアのいない戦地に慣れてしまったことの印だった。
「……ソフィア、」
「彼であってはならないわ。彼が望むのは人の大地よ。人間が自分の意志のままに生きていくことの出来る自由の大地よ。そこで与えられる苦しみも喪失も受け入れられる強い自立した人間の大地よ。自らの足でイグニスの砂漠を踏破しえる強さを、人が持つことよ。
それは私たちの目的とは違うわ。そうでしょう?」
かつて二人が手を取り合ってぼろぼろの魂と体を引きずりながら立ち上がったのはどうしてだったのか、知っている人間は少ないだろう。今でさえ、このニサンで彼ら二人が目指しているのは、すなわちニサン正教が目指しているのは、ロニ・ファティマのものとは違った。
人間の力は必要だ。砂漠を踏み越える力を持ち、すべての人間が立ち上がる勇気を持つことが。だがそれは人が人それ自身として在るからではない。心の内に神の存在を知覚し、その内在の精神を絶対的な神として感じることだ。
決して今はソフィアは口にすまいが、かつて彼女は頻繁にこう言った。
――これは私たちの、世界への復讐なのよ。
世界への復讐。神を信じることが世界に一矢報いることになるなどどうして考えられようか。だがこれは確かに、復讐なのだ。
この人間の世界に捨てられた子供たちだったソフィアとカレルレンにとって、人間たちから完全な自立を奪い去る内在神を植えつけることこそが、復讐なのだった。世界に捨てられた子供たちに、他になにが出来ただろうか?
「あなたは忘れたの、カレルレン? 私は忘れていないわ」
もはや彼女を引き止める言葉を、カレルレンは持たなかった。
カレルレンはまたすぐに戦地へと駆り出されていた。ソフィアがここに来るまであと二週間の時間しかない。警備体制を見直し、陣形を再提案しなければならなかった。
夜半、焚火の傍で案を練っていると、いつもの態でロニ・ファティマが現れる。
夜の戦地は冷えるが、燃料を控えるために定時を過ぎると艦内では照明を使えないのだ。それで、火を焚く。あたりまえだが艦外に人影は少なく、カレルレンのいる場所からは野営の影が見えるだけだった。
「やあ、僧兵隊長。難しそうな顔をしているね」
「おまえか」
「挨拶だな」
カレルレンの隣に腰を下ろすと、ロニは背嚢から酒を注ぐ。どこから取り出したのか、グラスばかりは南方の細工ものだった。今は作られていないだろう。辰砂で削って色をつける、炎のような赤いグラスだ。琥珀の酒を注ぐと、焚火の灯りに煌く。
この空から落ちてきた星のように美しかった。
「飲めよ」
「在り難い」
冷える夜に、もってこいだった。カレルレンは、酒を携行していない。こういうときの暖に便利なのは知っているが、僧兵である手前、持ち歩くわけにはいかなかった。
その顔を見ながら、ロニは尋ねて来る。
「陣形は決まったのか?」
「決まっていたら、ここにはいないで中で寝ているさ」
「それもそうか。ソフィアも、大したものだね」
「一応、止めてはみたがな」
「彼女は聞くような人ではないだろう」
「ああ、まったくだ」
ロニ・ファティマの人を見る目はかなりいい出来で、さすが商売人だけはある。ニサンに来たばかりでも、一瞬でソフィアのことを見抜いていた。シェバトの人間たちが見抜くことのなかったソフィアの意志を見抜き、彼らは手を結んだのだった。
だが、どこまで理解しているのだろう。
ソフィアが目指している神の国が復讐なのだと、知っているわけはないだろうけれど。
だれもが、今のソフィアから、かつて彼女が舐めてきた辛酸を思い浮かべることは出来ないだろう。その苦しみこそが、今の彼女を動かす、人々への救いの源なのだ。自らの苦しみがあるからこそ、彼女は人々をすくわんとする。
だがそれは、かつて彼女を虐げた人々への復讐のためなのだ。確固とした自己を持った少女でありながら、……いやそうだったからこそ、物のように扱われた少女時代を、ソフィアは忘れないだろう。そしてカレルレンもまた、同じように復讐を得る。腐った教会ではなく神という信仰存在の力によって。
ロニはどこまで理解しているのだろうか。
彼はなんのために戦うのだろうか。自らの理想と合致せずとも、力があって立場を妥協できるのなら、ロニ・ファティマは手をつなぐ相手を選ばない。だからこそシェバトという権力に固執する人々とも対立することなく協定できていた。
カレルレンも、ロニ・ファティマも、そういう妥協はなく目指すものの一致のために手をつないでいると思いこんで来ていた。だが、実際はそうではない。お互いに目指すものは似ている。だが、人々が支持する者がロニ・ファティマだったとき、地上に築かれるのは人間の王国だ。ソフィアだったときに地上に現れるのは神の御国だろう。
それこそが最大の違いだ。
今はまだ現れないが、やがて……もしソラリスを滅ぼすことが出来たそのときには……たぶん、カレルレンたちとロニ・ファティマは激しく対立することになるだろう。それはずっと先のことになるに違いなかったけれど、それでも、対立せずにはいられないだろう。そんな日は――ソラリスが滅びる日は――来ないかもしれなかったけれど。
そんなことも忘れて戦っていた日々だったけれど。
こうして彼の隣にいて、友人として言葉を交わすことが、ニサンでソフィアと言葉を交わすよりも多い日々が続いたせいだろう。
指導者という点で、ソフィアとロニは甲乙つけがたい。どちらも人をひきつける。だがカレルレンは、いまさらソフィアの傍を離れるわけにはいかないのだ。
いつかはこの男とあいたがえることになるのかと思いながら、カレルレンは紙面に目を落とした。だが視界の端には、今はロニが握るあのガラスが、星のように煌いている。
再びニサンに戻って教母の部屋で陣形の案を見せたとき、ソフィアは、カレルレンの立てた案に文句を言わなかった。少々、護衛が過ぎるかと思われる案だったが、はじめはこんなものだろう。やがて、そんなことをいっていられる状況ではなくなる。
彼女もそれを知っていた。彼女が死ぬことを懼れるはずはなかった。彼女はなにものも懼れるものがない。たとえ神であろうと。神の存在すら、ソフィアにとって彼女の手の中にあるものに過ぎない。彼女は神そのものだったからだ。
それでも万能の存在でないのはなぜなのだろう。
なにものも懼れないのに、ソフィアは片羽根をもがれた人間そのものなのだ。だというのに、そのためになぜ自分はも掻くのだろう。カレルレンはそう思いながら、女の顔を見つめる。
ソフィアの瞳は窓から教会の外を見ていた。今日もやはり沈み行く太陽の光の中にこの部屋は包まれて、影に彩られている。
カレルレンは口を開いた。
「忘れてゆくことと忘れずにいること、どちらがた易いのでしょうね」
ソフィアをゆっくりと顔を上げる。そして、その問いに答えた。
「忘れてゆくことはとても簡単よ、カレルレン。あなたにとってそうであるように。私にとっても」
そしてソフィアは壁の絵を見た。恋人の描いたあの絵の中で、たぶんソフィアは忘れているのだろう。それは、焚火の傍で見た空からの星と、まったく同じものだった。
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どっちを書きたかったかというと、実は、真摯なロニ・ファティマのほうです。
カレル×ソフィアに関しては反対するところとかはありません。オフィシャルだもん。(というか、カレル→ソフィア?)
でも、カレルレンのソフィアへの恋は単純なものでは決してないと信じています。ただ異性を愛するのではなく。
カレルレンとソフィアの関係に対する私の理想は、共闘者であり、その意味でだれよりも深く理解しあっていたのだと。
ソフィアは「最終目的」をカレルレンと分かち合い、カリスマとしてのスキルに対する意識をロニと分かち合い、
そしてただ一己の人の感情をラカンと分け合ったのだ、とそう思っています。
ソフィアとラカンの恋は、別に私が書きたいものではないから明確には書きませんけど、けっこう好き。いや本当に。本当です。
けっこう、ニーチェの思想に沿って書いたつもりです。ゼノサーガはもちろんニーチェを意識していて、多分そこが、
私があのシリーズをちょっとためらっている原因でも在ると思うのですが……ゼノギアスにも十分、
その片鱗が見えるわけで。ニーチェはまさしく19世紀特有の誇大妄想的な意識の中で生まれた思想であると思いますが。
本当にわれわれに神は不要なのか、というと、その解答は一言ではいえないでしょう。ソフィアのいう内在の神が
超物的な神と合致することはないとは思いますが、神=精神なるものが不要かといえば……それはまた別の話でしょう。
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