はじめてのチュウ。
 ニサンの午後は穏やかだった。
 殊にその日は、なにもなくて天気も上々。戦時とは思えぬやわらいだ空気の一日だった。元々ニサンにはそういう雰囲気がある。癒しの空気とでも言えるだろう、難民たちも苦痛を忘れるわけではないが安心できる、そんな。
 カレルとロニは、高台のベンチに座っていた。カレルは分厚い本を手にして黙々と読み続けている。ロニは新しい艦の設計図面を広げながら、数式を口にしてはしるしを書き加えていた。
 風がときどき、軽く吹く。何度か図面が煽られるので計算を邪魔され、ため息とともにロニは紙をたたんだ。
「南風だな」
「…。
 うん、なに?」
 カレルの返答は、あからさまにおざなりだった。そんなに熱中しているなら返事をしなくてもいいのに、と思いつつ、ロニはもう一度言った。
「南風だ」
「ああ、そうだな」
 カレルは受け応えるが、本から目をあげはしない。その生真面目な横顔を眺めすがめつ、ロニは続けた。
「ニサンは風に砂が混じるってことはないのか?」
「…それはないな」
「ブレイダブリクじゃ南風は凶徴なんだ。南風が吹くと、たいていは大きな砂嵐が起こるからというのもあるんだけれどね」
「おもしろい習俗だな」
 カレルはようやく本を閉じ、ロニの方をむいた。「南風がというのは他では聞いたことがない。西風とは聞くけれど」
「へえ、そうなのか」
「君から砂漠の話を聞いてると」カレルは風に揺れる髪をおさえ、笑みを浮かべていった。「飽きないな。おもしろい。次々と知らないことが出てくるから」
 こんなところでカレルの微笑みが出てくるとは思っていなかったロニは、いくばくか、その顔に見入った。
 ――本当に、笑うと別人みたいに優しくなる。……
 笑うととてもいい顔をしているのに、たいてい僧兵隊長はしかめ面なのだ。始終しまりのない顔をされてももちろん困るのだが、カレルはいかにもな堅物だ。
 だから、意外なところで微笑みを見るとひどく嬉しくなるのだけれど。
 ロニは思わず、こうつぶやいた。
「キスしようか」
「……なに?」
「挨拶だよ、挨拶。ブレイダブリクじゃ慣習さ」
 少し呆れて、カレルは首を振った。「ここはニサンだ」
「固いこと言うなって。試しだよ、試し。来月はブレイダブリクに来るんだろう。そのときに困りたくないだろ?」
 そういうふうに、正論を騙ったおしこみにカレルは弱い、ということを、ロニは短い付き合いで学んでいた。なにしろ真面目なのだ、彼は。
「目、閉じて」
「ああ」
 長いまつげが頬に影を作る。青白くてきれいな輪郭だ。目を閉じるととたんに容姿がやわらぐのは、その眼光の鋭さのせい。他人をよせつけない、人の心を抉るような目。
 なぜそんな目をし続けなければならないのか。訳を聞くより、瞳を閉じていると君はすてきだと言ってやりたかった。
 ――でもまだ、それを言うには少し早いな。
 微笑んだロニは、すこしこわばっているカレルの頬に手をそえると、ゆっくりと唇を重ねる。柔らかくて暖かくて、ずっと触れていたい唇だった。
 ゆるく開いた唇に舌をくぐらせると、とうぜんのように応えてくる。ロニは幸福感に陶酔して、カレルの受け応えに甘えた。
 しばらくののちに、ようやくカレルに体を押し戻されて、名残惜しい唇からも引き離される。
「……あ、挨拶でこんなことをするのか、本当に」
 耳まで赤く染めて、うつむいたカレルはそう言った。本当に今日は、滅多に見られないカレルの素顔が見られる。押しのけた手ですらほんのりと赤くて、それに力が入ってない。
 ――だからといって、ここで油断して食いかかると殴り飛ばされるわけだけど。
 ロニは出来うる限り、最高の微笑みを返した。意識せずともこみ上げてくるのがそれだったのだけれど。
「恋人ならするんじゃないのか?」
 怒り出すかと思ってそう言うと、カレルはいっそう顔を赤くした。その反応が意外で、ロニはたじろぐ。こっちまで照れてきそうだった。
「……ホラ吹きが」
 言葉はちっとも厳しくなかった。それどころか、もう一度キスをしたくなるほどに心を動かされる。
 顔を隠してしまう髪をすくって、唇を寄せた。そのままで額にキスをすると、カレルはうなだれて、頭を肩に預けてくる。
「カレル?」
「顔が……赤いから。しばらくこのままにさせてくれ」
「ああ。いいよ」
 ニサンの丘を、柔らかな風が吹いていく。ロニの目の前で深い色をしたカレルの髪が揺れた。肩の重みにかけがえのないものを感じて、ロニは笑みをこぼした。……





[ back ]

(C)2000 シドウユヤ http://xxc.main.jp