ファティマの碧玉-1
 砂漠の集落では朝が早い。陽の出前に朝食を済ませると、うっすらと明るくなりだした時分には羊を連れて天幕を出る。羊たちは餌になる僅かな潅木を求めて荒れ地をうろうろとさまよい、羊飼いはあとについて歩き続ける。
 それは連綿と続いて来た、当たり前の曠野の営みだ。羊たちのリズムに合わせているから、人間のわがままでは遅れることが出来ない。それこそが自然に定められた時間なのだし、地平線に出入りをくりかえす太陽と、頭上高くでぐるぐると回る星辰の他に、時を図る術のない砂漠の真ん中にあっては、絶対の時間なのだった。
 カレルレンもニサンでは似たような早い時間に起床していたので、いつもの習慣どおりに目を覚まし、天幕の外に出て欠かすことのない鍛錬を始めた。ニサンではまだ静かな時間だが、この集落では既にほとんどの人間が起き出していて、にぎやかだった。狩りへ出る者、羊の群れを追いたてる者、はしゃぐ子どもたちの声。小さな泉の周りでは、女たちが洗い物をしている。
 汗を流すカレルレンの傍を通りすがりながら、集落の人間たちはときに笑いつつ、「随分と早いんだな」と声をかけて来た。カレルレンはつい昨日この集落に着いたばかりだが、人びとはさして分け隔てしなかった。浅黒い砂漠の民の肌色をした頬をほころばせて、カレルレンにも笑いかける。
「ロニは陽が昇るまで起きださないって言うのに!」
 弁護をすれば、ロニが怠慢なわけではないはずだ。ロニは日頃から戦艦で寝起きしているのだから、陽の出もよくわからないに違いない。おまけに彼のフネは潜砂艦だから、一日中、陽を見ることなく潜行することもある。僧兵隊を束ねるカレルレンや、野に暮らす羊飼いと同じリズムでは生活できまい。
 宿を借りた集落は、十二の移動天幕を抱えた大きなものだった。年老いた族長の元に一族がよく束ねられていて、交易と羊の飼育で生計を立てている、昔ながらの砂漠の部族だ。
 秘かに砂漠で人と落ちあうため、カレルレンはロニ・ファティマと共にここに足を運んでいた。もちろん、偶然行きあった天幕に厄介になったというわけではない。この集落は他でもなく、ロニが妻と子を預けているラバーンの部族なのだった。
 ロニ・ファティマはブレイダブリクに屋敷を構え、自身はほとんどの時間を砂漠の艦で過ごしている。妻子を艦に乗せないのは当たり前だとして、ブレイダブリクにさえ呼ばないのはなにか思うところがあるのだろうか。妻の名前はラーヘルといい、部族のシャイフラバーンの娘だ。砂漠の民の因習に従って全身を布で覆い隠しているため、カレルレンはしっかりと容貌を確かめたことはなかった。同席していても口を開かないが、それが彼女の性格なのか、しきたりに従ってのものなのかはわらない。子どもは男の子で、砂漠に吹く風を意味するアリフィという名だった。
 すっかり朝を迎えた頃、カレルレンが水場で汗を拭いていると、ロニが一人の子どもを腕に抱いて歩いて来た。さすがのロニもようやく起きたのだろう。水を浴びるつもりなのか、上半身は裸のままで、布を肩にかけているだけだった。そのせいで、脇腹に彫られた赤い文身が見えている。ニサンの僧兵身分を示すものだ。
「おはよう、カレル。相変わらず早いね」
「おまえも相変わらずだな。そんな呑気なことでここの婿が務まるのか」
「僕はここで暮らしているわけじゃないからね」
 皮肉を言ってやると、本当にそれでいいのかどうなのか、ロニはさらりと受け流した。軍事行動にさしさわりがあるほど寝起きが悪いわけではないのだが、仮にも僧兵という立場であるからにはロニにももう少し規則正しい生活の遵守を求めたいと、常日頃から思っている。しかしその嫌味を聞くつもりはないらしい。
 と、ロニに抱きあげられている少年は大きく手を振って、カレルレンに胸をそらした。
「僕がとうさまを起こしたんだよ」
「そうか。偉いな、アリフィ」
 思わず微笑んでそう言うと、金色の髪をした子どもは、びっくりするほど大きな碧い瞳をしばたたかせて、父親の友人の顔をまじまじと見凝めて来た。
「カレルもそう思う? じいさまもかあさまも、とうさまのことは起こすなっていうんだ。でも、おきゃくさまも起きてらっしゃるのに、とうさまが起きていらっしゃらないなんておかしいよ。そうでしょう?」
「ああ、まったくだな」
「よしてくれよ、カレル。この子に父親を悪く思わせないでくれ」
 ロニは苦笑してアリフィを地面へと降ろした。その言葉もアリフィは聞き逃さず、父親の下穿きを引いて口を開く。
「とうさま、とうさまは悪い人なの?」
「違うよ、アリフィ!」
 大きな声で笑われても、アリフィは納得しかねたようだ。だから次にロニがなにを言うのかと、いつもは会えない父親の顔を、じっと見る。
「とうさまと寝たときは、おまえが起きたときにとうさまも起こしてくれて構わないよ」
「そうしていいのね? それなら、明日も起こしに行くよ」
「明日は一緒に眠れない。でも、ニサンに着いたらとうさまの家で一緒に寝よう。とうさまのベッドはとても広いから」
「うん、わかった。僕、ニサンに行くのがとても楽しみなんだ。レネにも会えるんでしょう?」
「レネじゃない。おじさまと呼びなさい。今度はレネの結婚式なんだから、そんな席でおじさまに恥をかかせてはいけないよ」
「はい、とうさま」
 普通ならまだ聞き分けも出来ない歳なのだろうが、ロニの息子はいたく聡明だ。カレルレンも、いままでアリフィには何度か会っていたが、驚くほど敏く、賢い子どもだった。妙なことだが、それはアリフィがこの侘しい砂漠の集落で育っていることに関わりあるように思えた。ブレイダブリクのような、裕福だが煩瑣な土地ではなく、星と風と熱だけに囲まれた暮らしであるからこそ、アリフィの賢明さは折れることなく正しい方向へと伸ばされているのだろう。イグニス砂漠は生き延びるのには苛酷な大地だが、却ってアリフィは忍従と勇気を知っていて、それゆえの知恵も身につけていた。
 父親のように賢いが、その眼差しはまだ無垢で、ロニのような狡さがない分、人を無条件で惹きつける。子どもの頃のロニ・ファティマがどんな少年だったのかカレルレンは知らないが、もしかするとよく似ているのかもしれない。……あまり想像は出来ないのだが。
「あとこちらもカレルじゃなくて『カレルレン僧兵隊長』だ。ニサンでそんな風に呼びつけたらみんなびっくりする。怖くてえらい人だから」
「カレルレン……そうへいたい……ちょお」
「そうそう」
「怖いは余計だ」
 カレルという呼び方は父親の真似をしたものなのだろうが、そんな愛称でカレルレンのことを呼ぶのはロニ・ファティマ以外にはいない。アリフィがそう話すのを聞いただけで、この子がロニの息子だということはわかるに違いなかった。
「アリフィ、シャトゥ板を持っておいで。とうさまと勝負をしよう」
「はい、とうさま!」
 アリフィは大きく頷いてから、駆け足で水場を離れた。ロニはその間に肩にかけていた布を取って、泉の水に浸す。硬く絞ると身体を拭きはじめる。
「なにをにやついてるんだ、カレル」
 体を清め終わって僧兵の衣装を着こむカレルレンがわずかに笑っているのに、ロニは目ざとく気がつき、そう言って来た。
「おまえがあの歳の頃はどんなだったか、想像していたんだ」
「見た目は似ていると思うよ。ただ、あの子は少しばかり野心が足りない。優しい、ということなんだろうけどね」
「不服か」
「優しいと、この時代を生き抜くのは厳しいだろう」
「あの子なら周りが助けてくれるんじゃないのか」
「そうかも知れない」
 ロニはそう言ってカレルレンの言葉に頷いたが、納得したようには見えなかった。
 他愛のない話をしながらその場に留まっていると、アリフィがシャトゥ板を抱えて戻って来た。シャトゥは盤上の駒を使って、白対黒の模擬戦争を行う形式のゲームだ。駒ごとに動かせる規則が決められており、最後は敵のレイを討つのを目的とする。大人でも難しく、ましてや年端のいかない子どもに出来るゲームではない。
 アリフィにこのシャトゥを教えこんでいるロニの姿に驚いて、カレルレンは思わず好きなのかと聞いた。いままでロニがこのゲームに取り組んでいる姿は見たことがなかったからだ。
「好きっていうわけじゃない。商人の子弟の嗜みってところかな。みんな子どもの頃に叩きこまれるんだ。ブレイダブリクには子どもたちのトーナメントもあったしね。そこは社交場で、シャトゥで思考訓練をしつつ、将来は商売敵になる相手と交流を深めるというわけさ。ゲームにかまけて他のことが疎かになるのは論外だけど、頭を鍛えるのには丁度いい」
「商人が、戦争ゲームか?」
「大切なのは、敵の手をいかに読むかっていうことだ。自分の手だけでなく、敵の手を読む。両方読めなくちゃこのゲームは勝てない」
 アリフィは額にしわを寄せて、盤面を見凝めている。見守るロニの視線は暖かく、この男の意外な面を見ている気がした。子どもなど好きなようには見えないのに、息子にだけは甘いようだ。
「長引きそうだな、私は席を外そう」
 カレルレンがそう言うと、ロニは片手を上げた。
「じゃあ、またあとで落ちあおう」
「ああ」
 カレルレンは頷いて、その場を離れた。

 ファティマ商会の副頭領を務めるレネ・ファティマと、ニサン正教の修道女頭であるジークリンデとの婚礼は、三日後に迫っていた。
 既にソラリスとの戦線は拡大し、多くの難民が、ソフィアの癒しの力に惹かれてニサンの地に流れ着いている。大量の避難民の流入でニサンの治安は急激に悪化していた。
 そして兵士たちは、ニサンのソフィアだけを希望にして、喘ぎながら血と埃にまみれて戦い続けている。
 慶事を盛り立てるような空気はニサンにもなく、レネとジークリンデも、自分たちのことを敢えて公にしなくてもいいのではないかと考えていたようだ。ごくごく親しい者だけを集めて、その前で誓約し、絆を確かめる。それだけで十分だったかもしれない。
 ソラリスとの戦争は快進撃には程遠く、地上勢力であるいくつかの派閥同士での諍いも絶えなかった。それを表沙汰にすることは避けられていたものの、軋轢の中心部にいる人間たちには、見えない綱の引きあいがはっきりとわかっていた。馬鹿馬鹿しいと感じるが、だからといって掴んでいる綱を手放すわけにはいかない。
 そんな時期に、地上において対ソラリス戦の二大勢力となっている組織の、中枢に近い二人が結ばれることについては賛否両論があった。特に、ソフィアが二人のための式典をしたいと言い出してからはなおさらだった。
 二人が結ばれることで勢力の均衡が崩れる、と考える人間は多い。ましてやそれを喧伝し、大きな儀式を執り行おうとすることは、さまざまな立場から反対された。ロニがあっさりと賛同したのも彼らの不満に拍車をかけた。ロニとレネの身内であるファティマ商会の中からも聞こえたし、ニサンの枢機卿の何名かは、この時期になにを求めて華燭の典など開くのだとロニに対して食い下がった。
 危険については、ロニも十二分に承知していた。いつにも増して人が集まるとなれば、揉め事も生じるだろうし、ソラリスもその隙を狙おうとするだろう。そうだとしてもするべきだ、とロニは主張していた。
 ただ、その言葉はいつもほど歯切れがよくなかった。政治や戦略に関する発言をするとき、ロニは演出過剰なほどに自分の優位さを誇示し、聴衆を丸めこむ。ニサンでもその調子で説得をしていれば、簡単に話は通っただろう。一部の人間に、「やはり彼は今回の関係を取り結ぶことでニサンを篭絡してしまうつもりなのだ」と陰口を叩かれながらではあるが。いままで、ロニはそうして反対意見を受け流し、最後には自分の策どおりにゲームを進めて来た。だが今回ばかりはそうしなかった。
 声を高らかに二人を擁護したのはソフィアだった。
 柔らかな光のさしこむ聖堂で、ファティマ商会からはロニを筆頭に数名が、ニサンからはソフィアとカレルレン、そして枢機卿らが集まっていた。この期に及んで、式典を行うことだけではなく、二人が絆を持つことすら反対する者もいた。
 ジークリンデはニサンの修道女頭であり、カレルレンが僧兵隊長として対外関係と軍事行動の指揮権を一手にしているのと同様、ニサンの内政に関して引き受ける立場にある。ソフィアやカレルレンと、枢機卿らの間を繋ぐ役目を果たしているのだ。ニサン内部でも重要な職にある彼女が、外部勢力であるファティマ兄弟の弟と結ばれることは手放しで喜べる事態ではない。
 とはいえ、ある意味では警戒が過ぎる、とも言える。形式だけではあるが、ファティマ商会に属する兵士はニサン正教の僧兵でもある、という扱いを受けているのだ。その彼らでさえ信用することが出来ないというのは語るに落ちる。彼らを信用してニサンに取りこんだと公言しているソフィアの意志をないがしろにするものでもあり、枢機卿たちはどこを立てるべきかと頭が痛いだろう。信頼しきってもらわないようにと敢えて不遜にふるまい続けて来たのはファティマ商会の方でもあるのだから、なおのことだ。
 やまほど文句を言われ、辟易したロニはソフィアを見た。ロニとソフィアは、なんとしてでも二人の婚礼を行うことで意見を一致させている。ロニの言葉で枢機卿たちを動かせるとは彼自身も思っていなかったから、視線でソフィアにすべてを委ねた。
 それを契機にソフィアは切り出した。
「この結婚がどういう意味を持つのか、どういう意味を持ちうるのか、ジークリンデはよく承知しているはずです。それでいいではありませんか」
「平時であれば、構わないでしょう。ですが、なぜこの時期なのですか。盛大に人びとを招けば、危険もあります。難民として苦しんでいる民たちは、不審を抱くでしょう。ニサンとファティマのより強い結託を、シェバトもソラリスも危ぶむでしょう。それだけの理由があってもなお、挙行するべきだというのですか」
 ソフィアは力強く頷いた。
「するべきです。それだけの危惧があってもなお。人びとには希望が必要なのです。明日が来るだろうという、希望が」
「なぜです。だれもが、あなたの癒しの力とあなたの言葉に救われるためにニサンへと来ているのです。ご自分のことをわかっていないのではないですか。二人の婚礼は、人の心を揺り動かすことにはならないでしょう!」
「いいえ、違います。確かに私は、この戦いの象徴になっているのでしょう。私がいるから、皆は恐怖から逃れてニサンに来る。強大なソラリスに戦う勇気を奮い立たせる。だけど、本当はもう、そんな象徴が必要な段階じゃない。私は、民を戦いに駆り立てて死にに行かせるための象徴。私の笑顔は安心を与えるのでしょうし、私の力は傷ついた人を癒すことが出来る。けれど、本当はそういう、みんなが思い描いているような存在じゃない。私は普通の人間よ。私は、違う象徴を与えたいの。ジークリンデとレネの結婚は、私とは違う象徴なのよ。もっと……もっと命に結びついた……暖かなものよ」
「それが希望だというのですか」
「そう。私が微笑んで内在の神を語れば、みんなは現実を忘れる。恐怖を忘れる。それを恐ろしいと思うのは私だけ? ジークリンデたちは、恐怖を忘れさせることはないでしょう。けれどみんなの胸には希望が芽生えるはずよ。私は、それが必要だと思う」
「だからと言ってなぜジークリンデとレネ・ファティマなのです! そのような象徴になるには二人の立場はあまりにも重過ぎるではありませんか。相手がレネ・ファティマどのでなければ我々もたやすく頷くことが出来ます。ですがなぜ彼なのですか!」
「なぜ彼か? そんなこと、ジークリンデだって思っているわ。けれど彼なのよ。ジークリンデが選んだのは、レネなのよ。ジークリンデに彼を忘れろというの? そんな悲しいことを、彼女に求めろというの? どうして。ジークリンデが修道女頭だから? それとも、私のジークリンデだから? こんなことをあなたたちに話しても仕方がないかもしれないけれど、昔、ジークリンデの静かで平穏な人生を奪ったのは、私なの。私は生きたかった。だからここまで戦って来た。私が生きるための、戦いよ。私はそこにジークリンデを引きこみ、ジークリンデからなにもかもを奪ったの。それなのに、まだ奪えと言うの」
 ロニはその話を聞きながらちらりとカレルレンを見た。カレルレンは表情を出さず、いつものようにただ厳しい顔をして立っている。この場に集まってからは一言も発していない。ソフィアが話し始めたら、彼自身がどんな意見を持っていても、カレルレンは反対することはなかった。ソフィアと二人きりであれば、彼も文句を言ったかもしれないが、公の立場で彼女の意に沿わない発言は決してなさなかった。殊にこの件に関して、ジークリンデと同様、ソフィアを生き延びさせるためにすべてを捧げて来た僧兵隊長には、ソフィアが口にした論理を覆すことは言えないはずだ。
 だが、カレルレンはジークリンデとレネの結婚に対して、最後まで反対していた一人だった。交際することを悪いとは彼も言わなかったし、ロニが政略結婚として今回のことを捕らえていないのを知ってくれていたが、状況から考えて妥当ではないと言い続けた。ニサンのためでなく、ジークリンデのためでなく、ましてやファティマのためでもなく、ソフィアのためにだ。修道女頭ともあろう人間が、ソフィアを守るために死力を尽くせないのでは困る、だから反対するのだとカレルレンはロニに対しても明言した。だがそれはジークリンデを信用していないというものだろう。レネを伴侶として選んでさえ、彼女がソフィアのことをいささかでもないがしろにするとは思えなかった。
 それも、ソフィア自身がこうして意見を表明してしまえば、カレルレンにはなにも言えない。
 のちのちから思えば、ソフィアは自分の身が危ないこと、いずれはニサンから引き離されることがわかっていたのかもしれない。ジークリンデがソフィアを失ったときに、彼女を支えるなにかを作ろうと思って賛成したのかもしれなかった。それも内々の約束ではなく公にすることで、たとえソフィアやカレルレンの身になにかが起きたとしても、ファティマ兄弟はジークリンデを守る義務を負うことになる。彼女はそこまで考えていたのかもしれなかった。
 あるいは、彼女がニサンから消えるということは別のことを意味していたのかもしれない。ラカンと手と手を取りあって二人のことをだれも知らない別天地へ逃げ出す――そんなことを夢見ていたのかもしれない。
 枢機卿はソフィアの言葉を聞いても納得しかねるように、なおも言い募った。彼らの不安ももっともなものなのだ。彼らは決して間違ってはいないのに、それにもかかわらず、彼らさえ、ソフィアが言う《現実を忘れさせる言葉》の前に言い負かされてしまうことを予感していた。血を吐くような痛みの中で訴えようとも、ソフィアの言葉には太刀打ちできない。それでも枢機卿は、言い続けた。
「ですが、それはロニ・ファティマの野心に口実を与えているだけではないですか! ジークリンデの情を尊重するのだとして、あの男があなたの誠意を尊重するだけの男だとでも言う気なのですか!」
 枢機卿の指先はとうとうロニに対して突き出された。
 だが、これはロニにとっては損得の問題ではなかった。だからこそ、いつものような演説で丸めこむことをしなかったのだ。この婚礼に関しては、彼でさえ、誠実にあたりたいと思っていた。
 戦いの中で、切り捨ててゆくものはたくさんある。甘い考えで、ソラリスを打倒することは出来ないから、仲間内であっても権謀術数を張り巡らせてゆかねばならない。それに息切れした人間は落伍してゆく。だけれど、人間的なものをすべて切り捨てて戦い続けることが出来るわけではない。
 ロニはため息をつき、あたうる限りの真摯な態度で口を開いた。
「誤解をしているようだから、この際言っておくよ。今回のことが本当にファティマ商会の利益になるとは僕は思っていない。僕らはニサンの僧兵となり、既にシェバトから煩わしく思われている。お門違いのことだけど、裏切り者と罵倒する人間さえいるくらいだ。それなのに、なおも深くニサンと手を結ぶのは賢くない。だけど、僕はレネの意志を尊重する。あなたはいまの時期だから問題だと言うが、いまでなければいつだと言うんだ。戦いはとうに苛酷な状況になっている。レネもジークリンデも、いつどんなことに巻きこまれるか知れない。そういう情勢の中なんだから、希望を繋ごうとしている二人を引き離したくはない。これが三年前なら、僕だって止めるかもしれないし、慎重になれ、と言うね。けどいつ二人が永遠に引き裂かれても不思議じゃないんだ」
「そんな状況だというのに、希望を与えると言うのですか」
 枢機卿は半ば諦めつつも、そう口にした。ソフィアはもう一度頷いた。
「ええ」
 ソフィアは天井を振り仰ぎ、一対の片翼の御使いたちを見あげた。彼女は榛色の瞳を何度も瞬きさせ、眩しいのではなく、涙を誤魔化しているようだった。

「私は世界を絶望させないために教母になった。だから、いくらでも希望を見せる。たとえ希望を与えることが罪だとしても、絶望なんてさせない」

 こうして人びとを招く華燭の典が決まった。だが、各地の要人が大手を振ってニサンに参集するのはさすがに危険だったため、隠密のうちにニサンを訪問する人間も多い。シェバト王太子ボレアスも、内々で列席することが決まった一人で、ロニとカレルレンが出迎えに当たることになった。
 レネが仕度で動けない上に、その二人がボレアスの歓迎に割かれるというのは、対ソラリス戦のことを思えば痛手だが、むこうが王太子を出して来る以上、こちらもそれなりの態度で臨まねばならない。
 そもそもニサンにはシェバト王室の名代として、王女ゼファーがシェバト王室騎士団第二旅団長と共に滞在しているのだから、なにもあらためて、それも王太子を派遣する必要はないはずだ。
 だが、まだ年端もいかない王女を一国の名代とするのはそもそも無理がある。ゼファーはシェバトの名代というよりも、教母ソフィアに心酔する信者の一人としてここにいるに過ぎない。彼女が本当の意味でシェバトの利権を代表する人間になれないのをシェバトは承知していた。そのゼファーをニサンに置き続けているのは彼らがニサンをないがしろにしている証拠でもあるのだが、ボレアスを派遣して来たからには、その姿勢を改めるつもりなのだろう。どう改めるのかは怪しいものだったが。
 今回のことで最も危惧されるべきはそのシェバトの反応だった。
 シェバトの出方は読みにくい。ファティマ商会は元はシェバトに拠った勢力だった。ソフィアを要するニサンはさておき、ファティマ商会風情がなにをしようと小さな足掻きに過ぎないのだという態度を崩して来ないだろう。彼らはロニ・ファティマという個人には十分警戒心を抱いていて、彼の野心に注目していたが、所詮、ファティマ商会は彼個人が率いる部隊に過ぎない。ロニは駆け引きがうまく、戦地で有能な指揮官だが、それ以上にはなりえない。だからその弟のレネがだれと結婚しようと、本当は構わないはずだった。
 にもかかわらずボレアスを派遣して来るというのは、どう捉えて欲しいのか、なにを起こすつもりなのか。
 初めは都合よく利用しているはずだったソフィアが、地上の民心を集め過ぎていることを、シェバトはやや煙たがるようになっていた。昨今ではソフィアの力をなんとしてでも削ごうと躍起になっている。だからこそ、これを機会に無茶を押しつけて来ることが考えられた。
 陰謀渦巻く世界はロニの好きなもののひとつだった。彼は不敵に笑って、いつもその渦中に飛びこんで行く。レネには趣味が悪いと言われていたが、好きなものは仕方ない。とはいえ今回ばかりは、さすがのロニにも余裕がなかった。ファティマ商会を含め、彼らの勢力の生き残りを考えれば、これは馬鹿げた騒ぎだ。それなのにあえて敢行しようとするのは、ロニ・ファティマの個人としての理由だ、と言う他ない。

 陽が昇りきった時刻になって落ちあったロニとカレルレンは、それぞれギアを駆り、砂漠へと出発した。砂漠のポイントでボレアス一行と接触した後、別の場所まで移動して、ファティマ商会の旗艦に乗る手筈になっている。ラバーンの一族も、二人が出発したあとはレネの結婚式に参加するため、ニサンにむけて移動しているはずだ。
 暑く熱せられた鉄板のような大地を、ギアで疾駆する。影すら消し飛ぶほど強烈な太陽の光に、目が眩みそうだった。実際にはコックピットで厳重に護られているのだが、視覚が捉える刺激だけで、汗が滴った。
「――ボレアスの行動、おまえはどう見ているんだ?」
 ラバーンの留まるオアシスから十分に離れたあと、カレルレンが通信を入れて来た。ここから数時間は、おそらく、他に通信を傍受する者もいない荒野が続く。本音を言うならいまのうちかもしれなかった。
 ロニはシートに身体をもたれさせ、皮肉げに口を開く。
「君がいまさらそこを気にしているとはね」
「どういう意味だ」
「今回の件に関しては、別人みたいに口を噤んでいたな。ジークリンデに気があるんじゃないかと気を揉んだくらいだ」
「ふざけるな。反対する言葉しか思い浮かばなかったからなにも言わなかっただけだ」
「それでいまさらボレアス、か。てっきり、僕の企みはなにかと必死に考えているんだとばかり思っていたけど。ニサンの枢機卿たちと来たら、僕の真意とやらを探ろうとして、哀れなほど疲労困憊していたじゃないか。
 それにしても、おかしいと思わないか、カレル。だれもが僕の姦計だと思っている。これを機会に、ファティマ商会がニサンを飲みこもうとしているんだと。しかし、ニサンの方が僕らよりよほど大きいじゃないか。ファティマはそのニサンの中の一組織にしか過ぎないはずだ。なのになぜ、ニサンがファティマ商会を取りこもうとしているんだという意見にならないんだ?」
「おまえの人徳じゃないのか」
「馬鹿言っちゃいけない。僕は権謀術数を得意にしているかもしれないが、ソフィアだって同じだろう。彼女の思い描いた地図を、カレル、君が手段を選ばずに進み、ジークリンデが取り繕う……それが君らのやり方のはずだ。枢機卿たちはそうだってことを承知しているだろう。なのになぜ、全部僕のせいになるんだろうね」
「枢機卿たちが承知している? それこそ、馬鹿なことだ。あいつらにソフィアのなにがわかっていると言うんだ」
「君たちのやり方がそんなに綺麗じゃない、それがわかっていなければついて来られないはずだ」
「頭ではやつらだって理解している。だが、感情は既にソフィアそのものに飲みこまれているんだ。奴らは舞台裏を知っているつもりになっているんだろうが、実際は平信徒たちと同じで、ソフィアの神性カリスマに目が眩んでいるに過ぎない」
「君はどうなんだ、カレル。君はその呪縛からは逃れているんだろう」
「さあ、どうだかな」
「とはいえ、この分だと、シェバトも僕の企みだと思っているんだろうね。ボレアスは出迎えに僕を指名した。ニサン側からはだれでもよかったらしいけど、君が来てくれて助かったよ」
「一緒にいたほうが監視もしやすかろう」
 含み笑いのあるカレルレンの声に、ロニも笑みをこぼした。
「首輪をつけて、手綱を引いてくれても構わないよ」
「おまえみたいな飼い犬はぞっとしないな。いつ噛みつかれるかわからん」
「それはそれは、ギアに乗ってなかったら是非とも噛みついてやりたいところだね」
 指定した緯度経度でボレアスの一行を待った。彼らはここまで艦に乗って来る予定になっている。まさかとは思うがシェバト勢に強襲されることも念頭において、死角を殺すため、ロニとカレルレンは背中あわせにギアを配置した。
 太陽は相変わらず照り輝いている。レーダーサイトには刻々と近づいて来る光点が点滅していた。シェバトの戦艦だろう。
 やがて遠望に黒い影が揺らめいた。巨大な戦艦の姿が、じわりと白い砂漠に滲むように出現し、それから少しずつ輪郭をはっきりとさせながら近づいて来る。
 ロニは戦艦にむかって回線を開いた。
 むこうのモニタは艦橋ブリッジに繋がったようで、尊大な顔をしたボレアスが薄ら笑いで映る。シェバト人はだれもが似たような顔で、傲慢さを面の皮に浮かべていた。どんなに誤魔化しても、彼らが地上に生きる人間に敬意を払うつもりがないのは見てわかる。肌の色が白く、やや顔立ちが薄いので、そう見えるだけかもしれないが。
 ボレアスはゼファーより二十歳も年長の王太子で、当然ながら腹違いになる。対ソラリスの好戦派として知られていた。白銀の巻き毛とトパーズの瞳は、シェバト人の間にあっても目立つ。襟元の詰まった、黒い軍服を着ていた。
 ロニはカレルレンのアンフィスバエナと回線を共有してから、口火を切る。
「ボレアス殿下、シェバトよりのご来訪、感謝いたします」
「この度は実にめでたいことだな、ロニどの。滅多にない式典に列席できるのを嬉しく思う。わざわざの出迎えも、足労だった」
「いいえ」
「では五分後、直かに顔を合わせよう」
 通信は僅かなものだったが、任務はまだこれからだ。さてどう出て来るものか、ロニは一人、近づいて来る黒い艦影を見ながら笑った。
 戦艦がアンドヴァリとアンフィスバエナの上空に停止すると、ギアドックからは六体のギアが降下して来た。シェバトの紋章を肩の部分に大きく描いた紫色のギアは、賢者バルタザール謹製の最新型だろう。王太子のためにシェバトの全技術を注ぎこんだ傑作だとバルタザールは豪語していた。話には聞いていたが、目にするのは初めてになる。脚部は細く、対空戦にむいた機体なのだろう。防砂装甲板がなければ、重さはアンドヴァリの半分くらいかもしれない。もちろんギア・バーラーではなく、通常のスレイヴ・ジェネレータによって駆動するギア・アーサーだ。しかし、さすがバルタザールが手がけたものだけあって動きが軽い。続くギアは王室騎士団の標準ギア・アーサーだった。白い機体には金色の文様が細かく入れられていて、強さよりも優美さが前面に出ている。
 旗艦が去り、砂埃が治まったあたりでロニはハッチを開き、顔を見せた。カレルレンやボレアスらも倣い、砂漠の真ん中で全員が生身を晒す。ロニはシェバト側全員の顔を見回した。どれもボレアスに似た尊大さは変わらない。あまりにそうした顔を並べられると、笑いがこみあげそうになった。レネが隣にいたら、彼の脇腹を肘で突いてこう言っただろう。
 ――兄貴、あんまりにやけるなよ。
 弟はいないので仕方なく自重して、ロニは内心をひた隠して誠実な表情を装い、シェバトの礼式を取った。
「これからサムード・オアシスまでご案内します。ファティマ商会の旗艦とは、明朝、合流ランデヴーの予定です。今晩はサムードでご休息ください」
「了解した」
 ボレアスは頷いてから、視線をカレルレンに移し、ニサン式の礼をとる僧兵隊長を冷え切った目で眺めた。
「カレルレンどのも、久しぶりだな。ソフィア様は息災か」
「はい、ニサンも慌しくなっていますが、お変わりなく」
「そうか。お会いするのが楽しみだ。
 ではロニどの、カレルレンどの、案内を頼む」
 ボレアスの言葉を合図にして、一同はコックピットへ戻る。ロニは風に巻きあげられて髪に絡んだ砂を払い落としつつ、カレルレンに話しかけた。
「君の方がよほど僕に対して辛辣じゃないか」
「自分の胸に訊ねてみろ」
「君こそ自分の胸に訊いてみるべきだ」
 そう軽口を叩くと、ロニはアンドヴァリを起動させた。





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