窓からは、赤い夕日に晒された街が見えた。影が生き物のように、四角く無機質な家々にまとわり着いている。白く固められた壁に、隣の建物が必ず影を落とすのだが、それがあまりにも規則正しいので奇妙な空想をかきたてる。
まるでこの街を蝕む闇だ。どこもかしこも影に付きまとわれている。
カレルが凭れている窓は、そんな街よりずいぶんと高処にある。この街で唯一といっていい高い建物は、市庁舎として建てられたものだ。カレルがいるのは最上階ではないだろうが、庁舎のかなり高い階だった。窓は西南にむいているらしく、この建物そのものが落とす影は見られない。そして、街から遠く高い場所からだからこそ、街の様子をよく見ることができた。
(ずいぶん経ったな……)
苛立ちもせず、カレルは思う。懸念すべきことはいくつかあったが、今の彼にはなにもできなかった。この部屋の扉は鍵をかけられていて開かないのだし、窓も、脱出できるようなものではなかった。露台はなく、足がかりとなる装飾もない。この街の建築は外観に装飾がほとんどないのが特徴であり、市庁舎はそれをよく体現する建物だった。
さすがにこの高さ、飛び降りることもできやしない。
すっかり諦め、カレルは静かに待っていた。ともかく、おとなしくしていれば連れてきた部下にも危害は加えないというのだし、待つ他はなかった。
街の名前はハガルと云い、イグニス砂漠にあるオアシスのひとつだ。歴史も古く、二百年近く前から街として機能している。カレルは僧兵隊長としてこの街の情報屋に会いにきたのだった。
占い師の名前は町と同じハガルという。もちろん、本当の名前なのかどうかは人の知るところではない。まだ若い女だが、情報屋としても信頼でき、なによりこの街の反ソラリス組織を束ねていた。
カレル自身が出向いて彼女から情報を得るのは珍しい。砂漠はロニ・ファティマの領土だ。とはいえ、既に無視できない勢力であるハガルに、ニサンが顔を出さないというわけにも行かない。個人的に気になったこともあり、カレルは二人ばかりの部下をつれてこの街にやってきたのだった。
ハガルが生業を営む屋敷は、もちろん街中にあってこの窓から見える位置にあった。この日の午前中に、占い師の館に到着したカレルを待っていたのは、ハガルの傍に仕えている青年だった。常にハガルの隣にあり、占い師の館では取次だった。
「本日、ハガル様は市庁舎にいらっしゃいます。申し訳ありませんが、市庁舎までお越しくださるようにハガル様より申し付けられております」
怪しむ理由もなく、カレルはその青年と市庁舎へむかったのだ。
部下たちを控えに残し、カレル一人が市庁舎の高い場所まで連れてこられた。こちらです、そう言われて部屋に入ったものの、人影はなかった。すぐにふりむいたが、既に扉は閉ざされ、鍵のかかる音がした。
「なんのつもりだ――!」
思わず激昂したカレルだが、扉の向こうからは、意外と冷静な青年の声がした。
「しばらくここでお待ちください」
「待つのに鍵はいらないと思うがな」
「お待ちいただくのは、ロニ・ファティマ殿です」
カレルは一瞬おしだまった。相手の意図がわからなかったのだ。カレルはロニをおびき寄せる餌というわけだが、ロニを引っ張り出してきてどうするつもりだというのだろう? これはハガルの指示なのか、それとも?
「ハガル様はおいでになりません。ただ、お待ちいただきたいんです。ロニ・ファティマ殿がいずれこちらにやって来られますので。それまで是非おとなしく、お待ちいただけますか」
「貴様……」
「おとなしくお待ちいただければ、危害は加えません」
「部下にはなにもしていないだろうな?」
「あなたが静かにしていていただけるものなら」
「わかった……ロニを待とう」
足音は遠ざかった。カレル自身、命を狙われる理由ならごまんとある。だが、男はあまりカレル自身のことは気にしていないようだった。彼の口調からは、正直に言うとハガルの影は見えない。落ち着きはらった態度からすると、彼はなにもかもを把握しているはずだった。
(もう少し情報を引き出したほうがよかったか?)
部屋の中は、殺風景だが執務机があり、続いている隣室には寝台が置かれている。庁舎の客室といったところか。
何日ここですごすことになるのかは知らないが、カレルはとりあえず、ため息をついて執務机の椅子に腰を下ろした。
そもそも、今回カレルがこの街に来ようと思ったきっかけはハガルではなく、ロニにある。両者のことなのでハガルのことと言えなくもないが、ハガルだけならここには来なかっただろう。
カレルのもとに届けられた一通の書簡がはじまりだった。絶句するようなその内容は、ロニの素行についてであり、どこのだれが調べたのだかは知らないが、ブレイダブリクでレジスタンスを組織していた十代の頃からの彼の女性関係が連綿と、つづられていた。
名前だけとはいえ、ロニは既にニサンの僧兵として認められている。こんな一覧が公表されたら、大げさではなく騒ぎになる。頭を抱えながら、カレルはとりあえず、関係機関に連絡を取った。あちらこちらに問い合わせて(もちろん、カレルの手元になにが届いているかを人に知らせるわけにはいかないのでかなり婉曲な言い回しで)、この一表がカレルの元にしか届いていないのを確認して一安心した。
だがもちろん、このままにしておくわけにはいかない。カレルはロニを呼び出した。ロニはニサンにはおらず、なにがあったかも知らない彼は二つ返事で急いで行くよと言って来た。
翌日、カレルは非番をもらってロニを待った。何時に着くかもわからないので本を読みながら待っていたら熱中してしまい、結局、ロニ・ファティマが勝手に部屋に入ってきて声をかけてくるまで気がつかなかった。
「カレル」
「――ロニか」
「なんの用だい?」
「あと少しで一段楽するから、勝手にしててくれ」
ロニは肩を竦めたが、なにも言わなかった。外套を外して上衣を緩めている。勝手知ったるなんとかで服をかけると、カレルの寝台に腰をかけた。だがすぐに痺れを切らしたように立ち上がって近づいてくる。それでもカレルは、本を読みながら書き出している手を止めなかった。いささかの苛立ちがあり、直ぐに相手をしてやる気になれなかったのも確かだ。
「いつまでかかるんだ?」
「待っていろ」
にべもなく言うと、ロニはノートを覗きこむ。それから何気ないふうにして、頬に唇を寄せてきた。
「……やめろ」
不機嫌に顔を払いのけると、さすがにロニもむっとしたらしい。はたかれた頬を押さえながら、口を開いた。
「なんだよ、冷感症」
「万年発情期」
売り言葉に買い言葉だ。
「僕がいつ、万年発情してるって?」
いい加減に頭にきて、カレルは本を置いた。机の上に安置してあった例の書簡を握ると、ロニに押しつけた。
「おまえ、これを見ろ」
ロニは怪訝な顔をして受け取る。目を通しながらなにを考えているのか、表情には出さなかった。しまったとか申し訳ないとか、そんなものでいいから顔に出せばいいのに、腹が立つことに少しも変わらない。
「なんだよ、これ」
「見てわかるだろう」
「まあ、そりゃあ」
だからなにと言いたげな顔を見て殴りたくなるが、とりあえずは抑えて怒鳴りつけた。
「こんなものを見せられた私の気持ちにもなってみろ!」
「気にするなよ、今の僕には君だけだ」
「そんなことはどうでもいい! おまえは仮にもニサンの僧兵なんだぞ!」
「嫉妬してるんだって素直に言ったらいいのに」
「ロニ」
「冗談だよ、本当に。どこから来たんだ、これ?」
ようやく真摯な目になったものの、反省の色はない。確かに、一群の女性たちの中に活動家としてのロニにとって無駄な人間はいない。それは、カレルも見ていてわかっていた。資金を、情報を、人脈を、得るためのつながりのひとつなのだ。
「さあな。幸い、私のところにだけ送りつけられてきた。これが流れると、さすがにニサンの立場がない」
「僕の立場は、」
「自業自得だ。だいたい『いまの僕には君だけ』とか言っていたが、まだ関係が続いているらしい女性も書いてあるんじゃないのか」
そう言われて、ロニは一表をまじまじと眺めている。最後の方には、まだロニと関係のある人物の名前が書いてある。――それがハガルだった。別に、揶揄をこめて言ったはものの、嫉妬しているわけではなかった。
だがロニは肩を竦める。
「彼女とは別れたよ」
そういわれると、逆にカレルが困惑させられる。
「ハガルだろう。別れた? 彼女の協力がないと困るんじゃないのか」
「告白されたらさすがに、手を引かないわけにはいかない。割り切れない仲になるとどっちも困る。もともと深い仲でもなかったんだ。情報屋としては協力してくれるさ」
「色男、そのうち身を滅ぼすぞ」
「ほら、それに今の僕には君がいるから」
「冗談はやめてくれ」
あきれて言うと、ロニは笑った。
「でも良かったじゃないか」
「なにが?」
「このリストに僧兵隊長カレルレンなんて名前が載っていたら、それこそ一大事だぜ」
一瞬、カレルはきょとんとしてロニを見返した。どういう意味かぴんと来なかったのだ。
「僕がこのリストを作るんだったら、間違いなく君のところの備考は冷感症だ」
「……だれが冷感症だって?」
「僕が毎晩毎晩手を変え品を変え身を削って奉仕しているのに君と来たらうんともすんとも言わない」
あることないこと言う彼に腹が立ち、カレルはこう言い返した。
「あの程度で笑わせるな」
この街を訪れたのは、なにも実際にハガルとロニの関係がどうとか、下世話なことを知りたくて来たのではなかった。まあ少なくとも、建前としては。それでも、ハガルという女がどんな人間なのか改めて知りたかったことは認める。
だが決して、ロニが言うようなことではない。ロニが言うように情報屋として変わりなくつきあえるというのが本当ならいいのだが、そうでなければ、カレル自身が出て行って、ハガルとニサンとのパイプを作っておく必要があった。
窓外から銃声が響いた。カレルは音のしたほうに目を移す。煙が立ち昇り、銃声はさらに続いた。場所はハガルの館の辺りだ。だれか識別がつくほどではなかったが、窓からは人間の動きまで見える。
(市街地でやりやがって……)
夕焼けの中で、戦闘が始まっていた。近くのバザールで銃声から逃げようとする人々の姿が見える。戦闘は大規模ではないが、巻き添えになる人間が出ないとも限らない。
館の中から出てきた人間に目がいった。長く黒い髪の女は、ハガルだろう。手を振ってあちらこちらにと指示を出しているようだった。ロニの姿は確認することができない。どちらがどう戦っているのだか。
それから直ぐに、カレルの部屋の戸が開いた。鍵の回る音でふりむいたカレルは、夕日に染まるロニの姿を見た。
「お迎えにあがりました」
「遅いな」
「どう攻めるか考えててね。なにしろ、ハガルも君も人質だったから。
ああそうだ、君の部下も無事、確保したよ。薬で眠らされているようだけど、害はないらしい」
「それはよかった」
外ではまだ銃声が続いている。それで、とカレルは聞いた。
「どういうことか、説明はできるんだろうな?」
「僕と君は、ソラリスに売られるところだった」
ロニとカレルは並んで市庁舎を降りて行った。
「前から少し怪しいとは思っていたんだけど」
「ハガルの側近か?」
「そう。ソラリスの間諜だったらしいね。彼女は知ってたようだけど。とはいえ、ハガルに対する崇拝は本物だったみたいだ。彼女の身の安全を、僕らと引き換えにするつもりだったらしい。自分はハガルと地上を脱出してソラリス行きさ」
「なんでまた、おまえが?」
「さあ、僕が彼女を振ったからだろう」
「言っただろう、いつか身を滅ぼすぞ」
「そのときは君が迎えに来てくれ」
懲りた様子もないのがロニらしく、カレルは吐息をつく。街の中は、人気がない。本来なら人が多い時間帯のはずだったが、銃声が鳴り響いていれば、当たり前だった。
「ハガルは?」
「残党を狩ってる。恐ろしい女だよ、間諜だって知っていて彼をそばにおいていた上に、彼についてた人間も把握してるらしい」
「まあ当然だな。奴は捕らえたのか?」
「うん。あとは彼女の領分だ」
二人は市庁舎の前に広がる広場を抜けると、占いの館とは逆のほうへ足をむけた。ハガルの救出までがロニの領分というわけだ。市庁舎に来る前に、ロニの部下たちは街を出ていたという。ロニとカレルが街を出るのに、そう時間はかからなかった。
砂漠に横たわる艦に二人がたどり着いたころには、空は夜に包まれていた。街からもう、銃声は響かなかった。
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