これは恋。
 月に一度、ニサンではどこかしらの家で、語りの夜が設けられる。ずいぶん前の教母のときからの伝統で、教母自身が宗徒の家で話をするというものだった。毎月違う家で行われ、一般宗徒にとっては、ほんのわずかな間ではあるが教母と身近で言葉を交わすという類まれな機会だ。そのあたりの人々が集まり、ソフィアの話に耳を傾ける。
 はじめられた当初からしばらくすると、教母の歓待に金がかけられ、語りの夜も奢多なものになっていったが、ソフィアは戦時であることも鑑みて、昔の素朴な語りの夜を復活させた。
 警備は僧兵隊が担当したりと、ソフィアを喚ぶ家に負担はほとんどなく、希望者は有力な家から貧しい家まで、殺到するようになった。
 いいことだ、とソフィアは言った。これで教えが人々の間に染みこんでいくに違いないからと。僧兵隊の負担はかなりのものだったが、カレルはそれをよしとした。
 その頃はまだ、ニサンの夜も安全だった。町にいるのはニサンの者ばかりで、他の土地から流れ着いた者はほとんどいなかった。まだ、ソフィアは『ニサンのソフィア』でしかなく、『地上の希望』ではなかった頃だ。
 その夜は、カレルは非番だったが語りの夜に参加していた。
 ソフィアがその夜に選んで語ったのはこんな物語だった。
「かつて、この世界の始まりのころ、一人の女神と一人の男神があられました。この世界の産みの親がその二人の神でした。名前は、私も聞いたことがありません。……とても旧い旧い神々なので。きっともう、ずいぶん昔に忘れ去られてしまったのでしょう。
 二人の神は深く深く愛し合っていたといいます。
 女神はやがて、男神との間に子を得ました。それが私たち、人間の祖であると言います。
 女神は、けれど、幸せであったはずなのに苦しみました。なぜなら、彼女の心は二つに裂けかかっていたからです。夫である男神への愛情と、子供への愛情と。今らしく言ってしまえば、女しての感情か、母としての感情かの間で心迷わせてしまったのです。
 そして女神は、自らの心を裂きました。母としての彼女、妻としての彼女、ふたつに」
 その話を、カレルはよく知っていた。昔、物心ついた頃に育った教会の司教が、その話を聞かせてくれたからだった。
 司教は、カレルの母を知っていて、彼女はこの女神のような女だったのだと教えてくれた。今も、どういう意味で母がこの女神のようだったのかわからない。
 カレルは座を立ちあがり、静かに語りの家を抜けた。あとでソフィアから文句を言われるかもしれなかったが、なぜか落ち着かなくなってしまったのだ。彼は家々を抜け、宿舎の方へと足をむけた。
 ふと、むこうから歩いてくる男の姿を見つけた。ロニ・ファティマだ。彼も気づいたのか足を止める。
「やあカレル。『語り』は終わってしまったかい? 今日こそ聞こうと思ってきたんだけど」
「いや、まだだが。今から行って、間に合うかどうかは保証できないな」
「そうか。じゃあ仕方ない、諦めるか」
 仕方ないというより明らかに嬉しそうに彼は言った。抜け出してきた手前、カレルもそれになにか言う気にもならない。だから二人は、ゆっくりと足を進め出した。
 ニサンの夜の、いつもの安らぎが夜を支配していた。
 なぜこの町はこんなに優しいのだろう。この町にも諍いと謀みは尽きない。ましてやこの外など話にもならない。それを知らないわけでもないし、無関係でもないというのに、不道徳なほど心は安らかだ。
 凡庸な安寧ほど価値あるものはない。
 あまりにもニサンの夜は心地よく、カレルは時折わざわざ昔のことを思い出して自分を叱咤する。はじめて人を殺した時のこと。いやいつでも、ともかく人を殺してきた時のことを。
 正確に言えば、人を殺していた自分を思い出している。昔、人を殺めることは自分を守るための手段でしかなかった。それは普通だったのだ。けれどソフィアはその世界を変えた。今でもカレルは、戦場に立って人が死ぬことには慣れているし、敵兵を殺めることに罪悪感をいちいち抱くことはなかった。
 けれど前は、全ての殺人が終わってニサンの聖体の十字を切り、敵味方すべての死んだものに祈りを捧げることなどありえなかった。昔はこう思っていたものだ。人の命は死んで終わり。死体はただの肉の塊に過ぎなかった。
 けれどどんなに考えても、心は安らかだった。
 とても不思議だ、殊にロニの隣は。
 なにも言わなくてもいい……二人でいるのになにも言わなくていい、それでもわかりあえているような気がする。言葉はなにもないのに寂しさは一抹もなかった。
 とても、不思議だ。
 この友人と出会って、ソフィアと出会った以上に変わった気がする。彼の存在が自分の中で強くなるたび、この町の夜は穏やかに穏やかにかわった。
 彼と笑い合うたび、心が和やかに溶けてゆく。
 それはまるで、友情には似つかない感情に似ている。かといって強烈な欲求もなかった……ともかくこの夜は穏やかすぎた。
 聖堂に続く広場に到る。ここから道が違うから、別れを告げるために二人は視線を交わした。
 ロニは真っ直ぐにカレルを見詰め、その視線をカレルもまたまっすぐに返した。
「カレル」
「……ロニ」
「ねぇカレル、これは恋なのかな」
 ロニはただ自然に、そう言った。カレルはあまりその言葉を意外に思わず、笑う。
「そうでないとしたら……どうだって?」
「だってもしかしたら、これはただの友情かもしれないだろう。だから、そうなんだったらここですぐに引き返そうと思うんだ。
 明日は、艦内総点検の日でね、忙しい」
 ロニの瞳はまっすぐだ。碧く碧い砂漠の空の色をしたその目は、不純な感情もなく、ただなにもかも見たものを尋ねる子供のように澄んでいた。
 だからカレルも、ただそれを受け入れることが出来た。
 恐れや嫌悪はなく、ただ自分の心をまっすぐに、投げ出した。
「私は」カレルは告げた。「これが友情だなんて思わないがな。……」
「僕もそう願ってる」
 カレルの伸ばした手が、ロニの手に触れた。ロニは少しはにかんで、その掌を受け止める。
「……キスをしてみようか?」
「試すなら、いくらでも」
 そのつぶやきが終わる前に、ロニはカレルを抱き寄せて頬にキスをした。それからためらいがちに、唇に。カレルは静かにそれを受け止めた。鼓動は高まり、胸が塞がる。……これが恋なのかだなんて、愚問に近い。
 見凝めたロニの目もそれを認めていた。二人はもう一度恋人らしくキスをして、離れた。
「止まらなくなりそうだ」
「いいじゃないか、それでも」
「僧兵隊長らしからぬお言葉だ」
「……これは恋だからね。そう、今日のソフィアの話、知りたいか?」
「なに?」
「古い女神の話だ。この世の原初の男神と女神の恋の話」
「ああ、女神の心のかけらの話かい?」
「そう、つまり……恋をしてる私は私ではないのだよ。心を、裂いてしまったから」
「いい言い訳だね。それなら僕も、遠慮なく君にくちづけられそうだ」
 身を寄せてから、二人は少し笑った。「僧兵隊長には少しね」
 いつかこんな日が来るんじゃないかと、思ってはいた。だからその口付けも受け入れられる。これが恋か、友情かと問われれば友情ではないと答えられるだろう。けれど、実際のところ本当に恋なのかといえば、この感情はあまりにもあやふやでそれでいて心地よかった。
 恋はもっと、苦しい気がする。
 けれど自分達はもう酸いも甘いも噛分けた大人だ。あまつさえ戦時下で町の外では次々と人が死んでいる。……なのにこれが恋なのか、だからこれが恋なのか。幼い恋とは違ってときめくばかりのものではなく、これが恋ならばひどく静かで暖かい。
 手と手を取り合って、二人は歩き出した。夜はただ優しい。ロニとカレルはキスをした。たぶんこれは、恋だから。





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これは実は奴等のお初話ですが。このあとお赤飯です。

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