She is the blood that flows in my blood.
She is the voice that sings in my voice-
Rachel, shepherdess of Laban's flock,
Rachel, mother of mothers.
――Rachel Bluwstein “Rachel”
父が何者であったのか、僕は知らない。
眼を灼く砂漠の太陽の下に佇む父は、何者とも呼べぬ存在だった。彼は王だった。しかし王ではなかった。砂漠の砂の上で父はその名前以外で呼べる存在ではなく、だからこそ僕はいまもって彼が何者だったのかを知らない。
ロニ・ファティマという名前は彼の他の何者をも指さない。
ブレイダブリクを統べる王という呼び名も、砂漠の英雄という呼び名も、他のだれかを指すことがありうる。実際、他でもない僕こそ彼の後継者であるから、それらの名称を受け継いでいた。しかし僕はロニ・ファティマにはなれない。ただ名前が違うからということではない。ロニ・ファティマとはその名を頂く格別な存在だった。そもそもロニ・ファティマとして彼がそうあったのではなくて、格別な魂を持った存在がロニ・ファティマという名を冠してこの砂の大地に立った。だからこそ彼は、ロニ・ファティマであって、他のどんな名前も彼に相応しくないのだった。
彼は彼でしかなかった。そしてそれは、何人にも成り代わることの出来ないものだったのだ。僕は彼という存在に遠く及ばないことを承知している。彼が自分の父だからそう思うのではなかった。彼は万人の届かないところに存在していた。
砂丘の高処に立ち尽くし、剣を手に砂漠を睥睨する父の後姿は幼い日に見たものだったが、僕の脳裏から未だ消えない。というよりもむしろ、父を思い出すと僕の心があの日に還ってゆく。あれは「崩壊の日」に幕が下りた日のことだった。僕だけではなく、多くの人にとって忘れられない日だろう。たくさんの命が砂漠に力尽きた。砂は血にまみれ、重たく血潮を吸いこんだ砂丘は風が吹いても形を変えなかった。
戦いは陽が沈む前には終わった。呪われた悪魔たちは滅びて、砂漠には静寂と死と、血を流しながらも生き残った僕ら人間だけがあった。
地獄のような戦いの日々が終わったことにだれもが呆然としていた。ようやく望んだ平穏が訪れるはずなのに、あまりにも過ごした日々が苛烈だったためにそのことを実感することが出来ないでいた。
やがて太陽が沈み始めた。すると方々からニサンの聖歌が聞こえ、人びとが祈る声は波となって響んだ。沈んでゆく太陽は、ニサン正教にとって最も敬虔なもののひとつだ。というのも、死んだ魂は風に吹き流され、太陽とともに黄泉の国へと沈んで行くのだと信じられているからだ。魂はやがて、太陽と同じように生まれ変わって、この世界に還って来ると信じられている。
――陽の落つる場所に。
それはすべてのニサンの墓所に書かれている文句で、あたりの人びとはみな膝をつき、口々にその聖句を唱えていた。聖句と、聖女ソフィアの御名、そして歌声だけが聞こえる。
僕は皆と同じように膝をついていたが、はたと、砂丘の高処に父の姿があることに気がついた。父も、戦場ではこの時刻になれば必ず祈りを捧げていたから、同じように祈っているのだろうと思って僕はその姿を見た。
けれどその最後の日、父は立ち尽くしていた。僕は背中しか見ていないので、父がどんな顔をしていたのか知らない。ともかく父は立ち尽くしていた。沈む太陽を見ながら、彼は強固な意志でもって立ち続けていた。それが「崩壊の日」の終わり、そして僕が王位を継ぐアヴェ王国の建国前夜の出来事だった。
あの地獄のような日々の終わった瞬間に、ああして立ち尽くすことの出来る人間が他にいるというのだろうか。少なくとも、僕が見た群衆の中にはいなかった。だれ一人として、戦いが終わった焦土でまだ戦おうとしている人間はいなかった。
ひとつの戦いを終えてまだ戦い続けることの出来る魂、決して屈せず、決して折れない存在の強烈さが、父のすべてなのだった。
父は翌日、有無を言わせぬ迅速さでイグニス砂漠全域を版図とするアヴェ王国の樹立を宣言して、その王座についた。その手際のよさは、修羅の戦地で死に物狂いに戦いながらも、父が準備を怠っていなかったことを意味する。だれもが父の手腕と野心とに感嘆の呻きを上げるしかなかった。だれも父の意思には逆らい得なかった。
こうして父は、やがて僕に譲り渡す王位を手に入れた。
僕は父の後姿ばかりを思い出す。あの夕陽の次の日にも、僕は父の背中を見ていた。
ブレイダブリク山頂の屋敷はいまの王宮ほど大きくはなかったが、父は即位の数年前にそこを買い入れたときから、造成を始めさせていた。だから、人びとを集めた広場の奥、階段を登った高いところにある櫓は、アヴェ王国が樹立された日には既に出来あがっていた。そこからは、岩山にしがみつくブレイダブリクの全景と、弱々しいその街を呑みこもうとする砂漠の漠さとを既に睥睨することが出来た。いまは復興して大いなる繁栄を迎えているブレイダブリクだが、戦いの折にこうむった傷はあまりにもひどかった。僕らの前に、砂漠はあまりにも巨大だった。
王位の宣言を終えた父は僕だけを連れて、その櫓を登った。
父は僕を伴ったというのになにも言わず、しばらくの間、その光景を眺めていた。僕は彼の後姿を見凝めて立ち尽くしていた。そうしてから、父はようやく僕を振り返って言った。
「アリフィ、ご覧」
父が右へと身を寄せたために、僕の眼前にはあの熱く鮮烈な光景がどっと広がった。ブレイダブリクの王都は櫓の外にあるのだというのに、まるでその風景が押し寄せて来るかのようだった。熱せられ、干あがった、不毛の大地が顔に押しつけられるように僕に迫る。砂漠からの熱風が吹きつけて来るせいだったかもしれない。水脈の上にあるブレイダブリクには、砂漠からの
熱く乾いた風が強く吹きつけるのだった。
僕の目に映るブレイダブリクは、「崩壊の日」のために荒れ果てていた。昔はもっと緑の多い街だったと聞くが、戦いが終わったばかりのブレイダブリクは焼け焦げ、瓦礫が連なる哀れな廃墟だった。だというのに、人びとが暮らしている証であるかまどの煙が遠近に立ち昇り、はっきり聞こえるはずがない人びとのざわめきが街を包んでいた。ブレイダブリクは砂漠のオアシスであるし、交通の要衝でもあった。東西南北のあらゆる方向から、あらゆる民族が集う。ブレイダブリクの雑多さは突き破られても失われていなかった。強い風を前にして岩にしがみつく苔のように、人びとは逞しくそこに生きていた。
これだけ身に迫って来る景色だというのに、父は満足しかねるようになおもその景色にむかって手を伸ばした。その手は大きく、広大な砂漠も、騒然としたブレイダブリクも、そのてのひらにすっぽりとおさまってしまうようだった。
けれども父はよく知っていた。
いくら大きくても、人間のてのひらで握りしめることの出来る砂漠の砂は、ほんの僅かなものだということを。真の砂漠の姿の一部にもならないような、一握の砂しか、人間には手に入れることが出来ないということを。
しかもその砂は、てのひらの力を抜いた途端に逃げ出してゆく。
一粒も残らず、元の砂漠に落ちてゆく。
父は砂漠の空よりなお碧い目に世界を映し、続けた。
「ここから見える限りのすべて、ブレイダブリクとそれを包む砂漠がこの僕の国土だ。広く、無限で、本当は涯てなどどこにも存在しない領土が、おまえの父親の王国で、そしてやがておまえが王となって統べる王国だ。この景色を目に焼きつけなさい。たとえ穴倉に押しこめられても決して忘れることがないように。おまえは王になる。多くの人間がおまえを裏切るだろうし、おまえを愛してくれるだろう。だが忘れてはならない。おまえの治める天地は無限なんだ。この砂漠の王国に涯てはないんだ。砂漠はおまえを愛することはないが、裏切ることもない。おまえは孤独だろうが、それはこの砂漠がそうあるからなんだ。王とはそういうものだ」
幼かった僕にその言葉のすべてが理解できるわけはなかった。
それでも僕は知ったことがある。僕はこの王国を統べる者となるのだ。父が天空と大地から奪い取った、この砂漠の王国を。僕がいま、その光景を眺めるだけで身を竦めている広大で煩雑なすべてを、僕は統べなければならないのだ。僕は幼い頃から、イグニス砂漠を踏破する商人の息子として、あるいはソラリスと戦う組織の頭領の息子として育てられて来た。父は一代ですべての決着がつけられるとは考えていなかったし、その戦いは他でもなく、戦いを始めた父の息子である僕が背負わなければならない艱難だった。しかし僕が手にするものは、そんな立場で手に入れられるものとはかけ離れた大きさのものだった。ここから見えるすべて、限りのないすべて、涯てのない世界のすべてを、僕は手に入れるのだ。そしてそのはるかな世界の前に、僕はたったひとりとなる。僕がそれを手に入れるということは、目の前にいるこの父が身罷ったあとのことになるのだから。
父はなおも僕に言い募った。
「アリフィ、王はただ、ひとりであることによってのみ王たりうるのだ。それがこの砂漠の王国の王者であることの意味なのだよ」
その言葉のとおり、僕は父がひとりである姿しか記憶にない。あの夕陽の前に立つ姿。あるいは風吹く櫓の上で僕といてさえ、彼はひとりだった。
ブレイダブリクの王城では、歴史が編纂された。父がアヴェ王国ファティマ朝を開始するに至るイグニス大陸の年代誌だ。父が王になった頃から始められたその事業は、今年、ようやく終わった。二十年の歳月をかけた歴史書は、いまは書き写されて各地へと送られている。これがアヴェ王国の公式な歴史で、その他の歴史は存在してはならない。これは父の遺志だった。
完成した第一の本を、僕は玉座の背後に並べている。僕でさえ知らない歴史が書かれた書物だ。出来事は歪曲され、事実が消され、新しい伝説が物語られる。これが、父の残すべきだと判断した歴史だ。アヴェ王国はこの偽りの上に成立している。ありとあらゆる権力から、血まみれになりつつも勝ち取ったこの王国を、父はそうは記さなかった。後代の歴史にはそれが必要なのだった。
大地はすべてを忘れることを命じられた。
ギアや戦艦など、地上の人間のものではないテクノロジーは封印され、伝説だけが存在を許される。
歴史の中でも、父は孤独だった。様々な権力と支配を退けて、王となった英雄、ファティマ一世というのが、歴史の中で父が父自身にわりふった役柄なのだ。
しかし、彼が本当に孤独ではなかったことを、僕は知っている。父を崇める人間はそのことを否定したがるようだし、
あの人がこの城に住まうことはなかったのだから、王家に仕える人たちにとっては他人のようなものなのだろう。孤高の王者である父の印象はあまりにも鮮烈にみなの胸に焼きついているから、彼をだれよりも深く理解し、支えた人がいたことを、認められないのだろう。
だが、僕は知っている。なぜなら、僕の胸と、アレーティア、君の胸にかかる碧玉の首飾りがその証だからだ。
あの人が亡くなってから生まれた君は父親のことを少しも知らないだろうが、僕は憶えている。この大部の歴史書にもほとんど姿を現わさないが、確かにそこにいた人だ。僕は、父が王になれたのは、父がそもそも孤高の英雄だったからではなく、君の父上が亡くなって、たったひとりで生きざるを得なくなったからこそではないのか、そんなことさえ考えている。かつて、砂漠の英雄といえば父一人のことを指すのではなく、ロニ・ファティマとレネ・ファティマの兄弟のことを指したはずなのだ。君の父上が亡くなったから父が王になったというのが極端な想像だとしても、あの人が身を挺して父の命を助けたのは確かだろう。父がアヴェ王国を開いたのは、君の父上の尽力があったからなのだ。僕らの胸にかかる碧い石は、その証なのだ。かつては、僕の父と君の父上の胸にかかっていたこの碧い石が。
本当の父は、英雄でもなく、王でもない。砂漠に雄々しく立ち尽くす人、ロニ・ファティマなのだ。そしてその名は、レネ・ファティマと並ぶことに意味があった。だからこそ僕は、父は父以外のだれでもなく、王でもなかったと言う。父はあるべき姿を欠いたからこそ王たるべき孤高の存在であったのだと僕は信じているのだ。
この碧い石はアヴェとニサンで脈々と受け継がれていくだろうし、受け継いでいかねばならないものだ。このファティマの碧玉を後代に遺し、彼らの遺志を千年後まで保たねばならない。
――栄えあれかし主のまこと、我らが地上の王国に。
――天つ御国の到りまで、千歳を潔めて過ごさしめん。
ああそうだ、君が言うその聖句の通りだ。この国はそのために父が作った王国なのだ。
ロニ・ファティマとは一体何者だったのだろう? この戦いを戦い抜いたあの人は何者だったのだろう?
僕にはあの、父ほどの不屈の意思はない。悲惨な死の戦いが終わってもなお、戦い続ける力は、僕にはない。だが僕は父の王国を永らえなければならないのだ。それは孤高の戦いなのだろうが、どれほど苦しかろうが僕は父の背を追い続けるだろう。
僕はこの王国だけではなく、父の孤独をも受け継ぐ。君はニサンを護り、ニサンに護られるべき教母だから、その首飾りをかけていたとしても僕と君の戦いは別のものになる。……その運命は父が望んだことでもあると思う。
僕はこの王国で、ひとりで戦い続ける。それがアヴェ王国ファティマ王朝の王である僕の役目なのだ。あの人が僕の父だったから引き受けるわけではない。僕は父の孤独に憧れ、僕自身が望んで砂漠の王国を受け継いだ。この涯てのない砂漠の中心にある、アヴェ王国の王となることを、僕自身が望んだ。だから僕は戦い続けるだろう。砂と戦い、太陽と戦い続ける。だれよりも僕自身と戦い続ける。
いまも、僕はあの日、落日にさえ立ちむかう父の背中を思い出す。父の持つあの誇り、父の持つあの勇気、そして孤独。僕はずっと、それを追い求めるだろう。僕は決してそれに届かないのだろうが、戦いが已むことはないだろう。
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