地下室から
 ――ちいさい頃、まだみんなが「若」なんて呼ばないあの頃、ボクは若のことをなんて呼んでたんだろう。
 マルーはふと、そんなことを思った。
 昔は皆、若とは呼んでなかった、と思う。だから、自分も違う呼び方していたはずだ。
 ――「バルト」って呼んでたのかな?
 どうしても、マルーは思い出せずにいた。
 マルーが「若」と呼ぶようになったのは、みんなが彼を「若」と呼ぶからだった。闘っていくために、バルトは「若」でいなくてはならない、いつだったかそんな説明をシグルドからされて、それで今みたいに呼ぶようになった。
 シャーカーンに幽閉されていた頃は、必死になってバルトのことを呼んでいたと思うのに、そのときの呼び方を忘れてしまった。
 ――ボク、なんて呼んでたんだろう。……
 シャーカーンに囚われていた頃、マルーはまだ幼くて、そこで起こっていたことの全部をわかっていたわけでもなかった。でも……たくさんのことを、ちゃんと理解してもいた。
 シャーカーンがクーデターを起こしたのはマルーが父親とともにファティマ城を訪れていた折だった。
 父親が殺された瞬間は見ていない。でも、兵の手によって父親から引き剥がされたときに「マルガレーテ!」と父が叫んだ声はよく憶えている。それから続いた銃声も。
 マルーは一人、暗い地下室に閉じこめられた。
 ずっとそこで、泣いていた。やがて、バルトもそこに連れてこられた。バルトもいなくなってしまったと思っていたから、疲れて泣き止みかけていたマルーはいっそう泣き叫んで、従兄に駆け寄ったのだった。
 その時のことは、あまり思い出したくない。泣いてバルトを困らせるだけだったから。
 ようやく泣き止んだのは、バルトがマルーを庇ってシャーカーンに鞭打たれたときだった。あまりのことにもう泣くこともできなかった。バルトはマルーにおおいかぶさって、しなる鞭の音とともに顔を歪めた。
 マルーはバルトを呼んでいたと思う。でも、なんて呼んでいたかわからない。バルトの言葉は覚えているのに。
「心配するなよ、平気だよ」
 平気なはずはなかった。だって、バルトの顔も苦しそうに歪んでいたから。彼は、それでもマルーの顔が苦痛に歪むよりはずっとその方がいいと思ってかばったのだ……だから、マルーは泣くのを止めた。
 それから、なにがあっても、どんなことがあっても、マルーは泣かなかった。
 なにがあっても、自分だけは笑っていようと誓った。
 それで、バルトの心が楽になるなら、戦争でだれかが死んでいっても泣くのだけは耐えた。あるいはバルトが、目を失ってしまった時だって、マルーは泣かなかった。
 ――でも、ボクはなんて呼んでいたんだろう。
 気にかかって、マルーはバルトにそれを尋ねてみた。バルトは、一瞬むずかしい顔をして言った。
「なんだ、憶えてないのか?」
「若は憶えてる?」
「……いや、……忘れた。どうでもいいじゃねぇか、そんなことさ」
「気になるんだよ。若のこと『バルトロメイ』って呼び捨てにして、パパに怒られたことなんかは憶えているんだけど」
「そのうち、思い出すんじゃないのか」
「そうかなあ」
 マルーは、バルトは憶えているんだろうな、と思った。でも、気づかないふりをした。
 ――若は、思い出してほしくないのかな。 あの頃を、思い出すから?
 あの地下室で、シャーカーンが打ちのめされた幼いバルトを満足げに見下して部屋を出て行き……その夜、バルトは固いベッドでぐったりとして、気を失ってしまった。できる限りは手当てをしたつもりだったけれど、体にまいた汚れた布は血がにじんでべたべたしていた。
 マルーは、鉄の扉を叩いた。ひたすら叩き続けた。バルトが死んでしまうと思ったから。
 でも泣かなかった。マルーはそう決めたから、血を吐きそうに叫びながら、頑張ったのだ。
「開けて、だれか来て! ――おにいちゃんが死んじゃう!」
 ――ああ、そうか。ボク、「おにいちゃん」って呼んでたんだ。
 道理で、呼ぶのを許されないはずだ。バルトは公式には死んだことになっているのだから、万が一にもマルーが「おにいちゃん」なんて呼ぶ人間がいていいはずはない。
 思い出したことは、言わないほうがいいだろう。きっとだれかに聞かれて、バルトをからかうネタになってしまうだろうから。マルーも我慢できなくて、みんなと一緒にからかってしまいそうだ。
 ――おにいちゃん、おにいちゃん。
 それもおもしろそうだなあ、とは思ったのだけれど、やっぱりバルトのことを考えて、胸にしまっておくことにした。
 いつか――もっと時がたって、あの地下室のことを思い出さなくなったら、言ってもいいかもしれない。子供時代のことを思い出すよすがに、そのことを話してもいいかもしれないと、マルーは思った。





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今回かき直しました。なぜというなら、読み返したらあまりにも若マルくさくってちょっと、うーん、と思ったからです。シドウはシグマルなのです。だから、すごく若マルッぽいな、と思ったところを修正してしまいました。お蔵入りにするには好きな話なんだわよ…
今思うと、ゼノやったすぐ後に書いてたものって全部、「若マル・シグバル・ラムシグ」三本立てのにおいがぷんぷんしてます。ある意味ゲームそのものに忠実だったんだよね、きっと……(020429)

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