罪深き隠者たちの家-3
 一ヶ月も経つと、シタンはすっかりシェバトでの暮らしに馴染んだようだった。シェバトのことを学ぶために彼はじつに熱心に立ち働いた。シェバトは無力さと老衰に蝕まれた国家だったが、シタンのように覇気のある青年が加わったことはよい刺激となっているようだった。彼には剣技だけでなく知性もあった。図書室の本を片端から読み漁り、ユイが知らぬような瑣末なことさえ記憶しているようになっていた。
 その頃、ゲブラーによって地上で大規模な作戦行動が行われることがわかり、ガスパールが地上で結成している抵抗組織にシェバト軍も協力して敵に当たることとなった。シェバトは障壁ゲートジェネレータが稼動し続けている限りソラリスに攻められてもびくともしない、という自負もあり、ほとんどの兵力が地上に割かれた。ユイはゼファーの身辺警護のため残り、シタンもまた、まだシェバト軍で戦うには不慣れだろうという理由で天上に残った。
 兵士の宿舎からゼファーの元へ直通の連絡が入ったとき、ユイはゼファーの傍にいた。ゼファーはなにも話さないマリアにむかって本を開いていた。
 通信が入ったのを受けたのはユイで、音声だけが送られて来たその通信に眉をしかめる。兵舎の管理者はガスパールに従って出撃しており、この回線を使用する者に心当たりがなかったのだ。
「どうしました」
『陛下はおられますか?』
「ええ。……シタン?」
 答えた声の主はシタンだったように思えた。ユイが当惑しながら尋ねると、かすかにむこうから笑い声が聞こえたような気がした。それから彼はもう一度、言った。
『ゼファー女王陛下はそこにおられますか?』
「なんの用があるの、シタン」
 シタンの声は冷たく、ユイは地上での出来事をはたと思い出した。なにかがおかしい。
『ユイ、女王陛下にご挨拶をさせていただきたいんです』
「それなら他にやり方があるでしょう。こんなやり方は不躾だわ」
『確かに。まだ陛下にお眼どおりもかなわないような僕が、いきなり陛下を呼びつけるような真似は失礼でしょうが、こんなやり方しか知らないもので』
 飄々とシタンは言った。ユイは言葉だけではシタンの様子が少しもわからず、堪らず言った。
「映像を送信して、シタン」
『ええ、いいですよ』
 シタンはあっさりと頷いて、画面を開いた。ユイはシタンの顔を食い入るように見つめた。その顔は、いままでシタンについて見て来たいかなる顔とも違った。冷え切った顔で虐殺をおこなったときの顔ですらなかった。翳を孕み、狂喜に侵されたような笑みを唇に浮かべている。腰にはいつもの愛用の剣を挿していたが、抜いてはいなかった。ただ、手には封印の施された小さなケースを持っていた。シェバトのものではないが、高い技術力の必要なものだった。地上のものでは、ありえない。
 シタンは、ユイが見慣れた兵舎の壁を背に立っている。他に人影はないが、彼女は、その壁の汚れに気がついた。血だ。ゼファーもそれに気がついたのだろう。マリアをさがらせて、モニタをゼファーの元へ回すようにユイに告げた。ユイは言われるままにモニタを切り替えた。シタンはほっと胸をなでおろして笑った。
『ああよかった。お初にお目にかかります、ゼファー女王陛下。このような形でお会いしなければならないのは非常に心苦しいのですが、場合が場合ですので、ご容赦ください。このシェバトではシタン・ウヅキと名乗っています。一ヶ月前、陛下の隣にいる女性にシェバトへと案内していただいた者です。ご記憶かもしれませんね。
 これから地上三箇所に回線をつなぎます。ぜひ陛下にもご同席いただいたほうがいいかと思いましたので、不躾ながらお呼びだてをさせていただきました』
 シタンはそう言うと、通信設備のパネルを押してゆく。口調は丁寧だが、ゼファーにすら、断らせるつもりはないようだった。次々に回線が呼び出され、すぐにサイトが開いた。三つの画面に表示されたのはやはり困惑顔の三賢者たちだった。地上でばらばらの場所にいるはずの三人の賢者をシタンは呼び出したのだ。
 三人の賢者たちはシタンの呼び出しに心当たりはなかったらしく、画面にゼファーを見出してなにかを言いかける。呼び出しをおこなった若い青年がなんなのか、特に面識のないバルタザールとメルキオールは困惑していた。二人は隠棲している地上の住居にいるようだった。ガスパールは薄暗い森の中にいる。戦闘中ではないようだったが、彼の顔は煤に汚れ、ソラリスとの戦端にいることは察せられた。
 シタンは前口上もなく、明るい笑顔で口を開いた。
『親愛なるシェバト女王ゼファー陛下、ならびにシェバト三賢者の皆様、お呼び出しに応じてくださって感謝します。
 まずは僕が持っている物から説明いたしましょうか。これはナノマシンです。ナノマシンがなにかはご存知でしょう。あなたがたの体をいまも生かしているものですから。僕が手にしているナノマシンがいかなるものか? これは人間の体内にある遺伝子に作用し、人間の肉体に変化をもたらします。実際、だれにどんなことが起こるのかは作用が起こらないとわらかないのですが、たいていの人間は全身の細胞が変質します。苦痛を伴って腫れ上がり、正常な意識を失い、いままでの実験データでは生物に襲いかかるようになるそうです。……ありがたいことに僕はそれを見ていないので、らしい、としかお話は出来ませんが』
 シタンは狂った微笑のままそう言った。ユイはシタンの言葉を聞いて愕然とした。一ヶ月のあいだに、女王たちが不死者であることはわかったかもしれないが、それがナノマシン群体によるものだと知ることは出来ないはずだった。一朝一夕に地上の人間に理解できる技術では無いのだ。なぜシタンがそんなことを知っているのか、あまりにも不可解だった。
『ご安心ください。すぐにこれを使う、というつもりはありません。これは増殖性を持っていますし、ここで撒くことで、下手をすれば地上の人間が絶滅することさえありえますから。まあ最も、数値からすれば3パーセントの人間は生き残るはずですが……』
 しかしゼファーは慌てることもなく、問いかけた。
「なにをしたいと言うのですか?」
『僕の任務を果たしたいのですよ。このナノマシンはそれまでの保険、ということですね』
『いったい何者なのだ!』
 バルタザールが不愉快そうに叫んだ。シタンはそれに答えない。
 ユイはすぐにでも兵舎にむかおうかと静かにゼファーに耳打ちしたが、彼女は首をふった。
「まずは彼の話を聞きましょう。彼が手にしているものは危険なものですから、迂闊なことはしないほうがいいでしょう」
「ですが、」
 ユイが言い募ると、ゼファーは物憂い顔で、画面のむこうで微笑むシタンを見た。その視線を受けて、シタンは笑みを深める。その顔にユイは言い知れぬ恐怖を感じた。夜盗たちを皆殺しにしたときのシタンにもぞっとしたが、それは彼女自身の罪の意識とも結びついていた。だがいま感じているのは、狂気への純粋な恐怖だった。この男は普通の人間ではない。
「ユイ、彼はソラリスの人間です。
 ……さあ話をおはじめなさい」
『ありがとうございます、女王陛下』
 慇懃にシタンは応答する。
『ひとつめの僕の任務は、三賢者の方々へある伝言をお持ちすることです。早速お伝えしましょう。
 アルタバンより三人の賢者へ――
 先に行ったのはだれか?
 神の子を見出したのは?』
 シタンはそれで言葉を切った。ユイには意味がわからなかったが、それはゼファーも賢者たちも同じようだった。
『……それだけか?』
『ええ、それだけです。僕はただこれを伝えるように命を受けてここへ来ました』
 三賢者は納得の行かぬ顔でその言葉を聞いている。彼らが眉をしかめているあいだに、シタンは言葉を続けていた。
『ふたつめの任務は、シェバトがソラリスとぶつかる際に出来る限り妨害工作をすること。具体的には、ゼファー女王のお命を狙うことです』
 だれもが息を呑み、すでに女王の懐に転がりこんでいる暗殺者を見つめた。ガスパールのいる地上からすれば、シタンのいるアウラ・エーベイルの兵舎から女王の部屋は、目と鼻の先ほどもない。なおかつソラリスの暗殺者は悠然と笑った。
『ガスパール殿のお帰りまでは待ちしましょう。あまり早くに事を片づけては、妨害にもなりませんので。もっとも、あまりゆっくりなさっていると僕も痺れを切らすかもしれませんが』
 不敵に微笑んで、シタンは通信をいきなり切断した。モニタの中でメルキオールが叫んだ。
『ガスパール! おまえが戻るのに何日かかる?』
『二日は要る。ユイ、守護兵たちを総動員させてくれ。必ず戻る……!』
「はい」
 祖父の命にユイは頷き、直ちに手配を始めた。あのシタンの腕を、ユイがとどめることが出来ないのはわかっていた。祖父に帰って来てもらわなければいけない。けれど、それは地上の軍隊を見捨てることにもなる。ガスパールが不在になったところを狙ったのだから、ゲブラーとシタンの行動は呼応しているはずだ。しかし、どちらが先か? ゲブラーがシタンの陽動だったのか、シタンがゲブラーの陽動だったのか?
 ユイは歯軋りした。シタンをシェバトに連れて来たのはユイだった。
「ユイ、落ち着きなさい。ああまで言ったのなら、彼がすぐに行動することはないはずです」
「……けれど彼をシェバトに連れて来たのは、わたしです」
 ユイは絶望的な声音で呟いた。
「わたしが彼をここに連れて来たんです」
「知らなかったのです、仕方ありません」
「そのせいで地上は地獄になるの」
 ユイの脳裏には事故の中で死んでいった仲間たちの顔が思い浮かんだ。あの事故からしてシタン自身が仕組んだことであるはずだった。あのとき、焦って事故現場を離れてしまったのは迂闊だった。もしも残っていたら、きっとシタンの乗っていた艇には彼以外だれもいなかったことくらい、わかったかもしれない。だが彼が不審人物だと気づいていたら、シェバトに戻る前に始末されていただろう。
 シェバトのことを思えば、あそこで死んでいたほうがよほどよかった。
「まだ決まっていないのですから、自分を責めてはいけません」
『しかし腑に落ちない』
 ガスパールは忌々しく呟いた。
『奴の剣は確かにウヅキ流の剣技だった。しかも弟子が学んで憶えたという程度のものではなかった! 間違いなくあれは、ウヅキ流後継者の剣に違いなかった! それに容姿もだ。彼は父上にこの上も無くよく似ているぞ』
「アキツの事件の前に拉致されて洗脳されていたのかもしれませんね」
『なんにせよ一刻の猶予も無いか。……頼むぞ、ユイ』
「はい」
 ガスパールはすぐに通信を切った。シェバトに帰還するつもりなのだろう。
 ゼファーはまだ画面を残しているメルキオールを見た。
「彼の持っていたあれは、リミッターを解除するプログラムを仕こんであるものなのですね?」
『そう言うことでしょうな。彼は何者なのですかな?』
「ソラリスの間諜でしょう。地上の人間のふりをしてシェバトにまぎれこんだのです」
 シタンはリミッターとは言っていなかったから、ユイにはふたりの言っていることがよくわからなかった。
「リミッター……とは、なんのことなのですか?」
 ユイが戸惑いながら問いかけると、ゼファーは少し迷ってから、口を開いた。
「人間がそもそも生まれながらにして持っているものです。それは……なんと言ったらいいのでしょうね。それがあるので人間は人間として生きていくことが出来る。獣ではなく、人間として、です。どう呼ぶのが正しいものなのかはわかりませんが、私たちは……人間は……それをリミッターと呼んでいます。たしかにそれは私たちの魂と肉体の枷であるからです。
 リミッターを解除することで身体能力や精神能力に飛躍的な向上が見られるので、解除の試みは昔から繰り返されて来ましたが、大戦役からこちら、シェバトでは放棄された業でした。というのもそれは人間を良く改変するものとは限らないからです。……ユイ、地上でウェルスと呼ばれるモンスターが出現しているのを知っているでしょう? あれはソラリスによってリミッターを解除された人間のなれの果ての姿なのです。解除されることによって超人になる者もいれば、人間として存在できなくなる者さえいる。リミッターとはそういうものなのです。わたしは統計的な数字は知りませんが、幸運な人間はむしろ少ないはずです。たいていの人間は、ウェルスとなるしかないのです。彼が言っていた3パーセントという数字は、おそらくソラリスで臨床的に得られた数字なのでしょうね。それを思えば、彼の脅迫は我々にとって有効でしょう」
「けれど、シタン自身もそのナノマシンでどうなるのかわからないのではないのですか?」
 だから使わないのではないか、というユイの考えをゼファーは首を振って否定した。
「平然と手にしているのですから、おそらく彼はもう……すでにリミッターを解除されていると考えるのが妥当でしょう」
 ユイはてのひらを握り締める。シタンのふるまいの端々のおかしさを、ユイは彼がアキツで家族を、愛する人たちを失ったためだろうと解釈していた。だがそれはすべて偽りだったのだ。彼はソラリスの人間であり、ただ無感情に人を斬り捨てていたに過ぎないのだ。ラムズの血を引くシタンがソラリスの兵士であることは悲劇ではあるが、だからといってなんの慈悲もなく人を殺していたことに情状酌量できるとは思えない。
「だからこそ彼は剣の著しい能力を持っている、と?」
「そうとしか考えられないでしょう。それにしても彼の言ったあの伝言――」
 ゼファーはそう言って顔を曇らせた。
「いったいどんな意味が?」
 三人の賢者たちにさえ、シタンの残した伝言は理解できなかった。アルタバン、先に行った者、そして神の子を見つけた者? 三人の賢者がメルキオール、バルタザール、そしてガスパールを指すことは間違いない。第四の賢者アルタバン。だが四人目の賢者など、ユイも聞いたことがなかった。無論、三賢者にそもそも由来があるように、アルタバンの物語はもちろんユイも知っていた。
 三人の賢者が連れ立って神の子が生まれる厩を目指していたとき、実は四人目の道連れがいるはずだった。それこそが第四の賢者、名前をアルタバン。彼は神の子に捧げる三つの宝石を手に、三人の賢者たちと合流するため道を急いでいたが、病で倒れた男を見かけて、彼を介抱し、ひとつの宝石をあげてしまう。そのためにアルタバンは三賢者に追いつくことができず、神の子が生まれるときに間に合わなかった。なおアルタバンは神の子を追いかけたのだが、次に神の子に近づいたのは、神の子を恐れた王が、すべての幼子を殺そうと兵士をさしむけた混乱の最中だった。罪のない子供を殺されそうになっている女性を目にしたアルタバンは、その兵士にふたつ目の宝石を与えて子供の命を助ける。そしてそのために、また神の子に会うことが出来なかった。アルタバンは、別の国まで神の子を追いかけたが見つからず、何十年も追いかけるうち、最後に消息をつかんだのはとうとう神の子が磔にされるため、処刑場ヘと歩いているときだった。残った宝石で彼の命を救えないかと急ぐアルタバンは、しかし、父親が死んだために売り飛ばされようとしている少女に出会い、最後の宝石をその少女の身をあがなうために渡してしまう。……こうしてアルタバンは、神の子が生きているあいだには間に合わなかった。失意の中で倒れたアルタバンは、神の子の囁きを聞きながら天国に入ることを許された。すなわち、彼の旅の道行きこそが、神の子の願うところ、その施しこそが、なによりも神の子の思うところなのだということを。
 それが第四の賢者の物語だ。
「彼があの言葉の意味を知っていると思いますか?」
 ゼファーの問いに、賢者たちは眉をしかめた。
『どうでしょうな。知っていてもおかしくはないとは思いますが』
カレルレンから?」
『……おそらくは』
 シタンから情報を引き出すためには、彼をここに連れて来なければならない。しかし、彼は他ならないゼファーの命を狙っているのだ。ゼファーに近づけてはならない。この場はだれかに任せ、自分でシタンの探索に出ようかとユイは思案した。しかし、カレルレンという人物のことも知らないユイでは、シタンと会えたとしても、情報を聞きだせるのか不安だった。
 ユイは意を決し、カレルレンとはだれなのかと問いかけようとした。それが第四の賢者に相応しい人物なのだろうか。おそらくソラリスの人間だろう。推し量ろうにも情報があまりにも足りない。
 しかし、ユイが口を開くよりも早く、ゼファーははっとして不意に顔を上げた。あまり表情を見せない幼い顔を白くさせて、呟く。
「マリアはどこにいます」
 その言葉を聞くまで、ユイもこの部屋にいたはずの少女が消えていることに気がついていなかった。シタンとの通信の際に席を外させたが、部屋を出た確認をする余裕すらユイにはなかった。もし通信を聞いてしまっていたのだとしたら、ソラリスの名前を聞いているのだから、マリアがなにを思ったかは想像できる。ユイは急いでモニタにむかい、下層ギアドックに連絡を入れた。まさか、シェバト内に潜伏している敵のためにゼプツェンを動かすとは思えないが、あんな幼い少女でも、マリアは巨大なギアを動かす術を知っていた。それに、シタンを追って無茶なことをしないとも限らない。
 ゼプツェンに変化はなかった。決して起動させないようクルーに頼むと、ユイはゼファーと、画面むこうにいるバルタザール、メルキオールを振り返った。
「わたしが探して来ます」
「ええ。……気をつけて」
 ユイは頷き、謁見室の扉を開いた。自分にもよく言い聞かせねばならなかった。
(わたしが探しに行くのはマリアであって、シタンじゃない。あの男を捕らえるためじゃなくて、マリアを保護するために行くのよ)
 そうでもしなければマリアのことを再び忘れそうなほど、ユイはシタンを探したがっていた。ユイは生まれてはじめて、腹の底から溢れて来る怒りに支配されていた。落ち着いたほうだとは思っていたが、だからといって、いままで怒ることがなかったわけではない。だが、シタンの嘘と裏切りを許せなかった。平気な顔で嘘をつく男を信頼した自分に対しても、煮えたぎるような怒りを感じていた。





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