最後の花火(AGAINST THE RULES)
     A

 耳障りな音で電話が鳴った。ヒュウガはむっとして、うるさいなあ、と思わずつぶやいた。
 幾通りかに選べるオフィスの電話呼出音は、いちばん頭に響く音に設定してあった。びりびりと鼓膜を震わせて鳴る呼出音は、少しばかり医学書に没頭しようと思って、設定したものだった。読みふけりはじめてしまうと、ちょっとやそっとの音では気がつかないので、緊急の呼び出しがかかったときに窮してしまう。それで、わざわざその音を選んでいたのだった。縊られているカナリヤのような声で、「ああ、もう!」と叫びたくなるほどとにかく耳障りなのだ。
 だが、運悪くちょうど休んで一息ついていたところだったヒュウガは、その騒音の直撃を食らってしまって、立腹して受話器をとった。
「はい、もしもし」
 棘のある声で応答する。
 電話のむこうの相手は、名も名乗らずにその声を聞いただけでひとしきり笑った。ヒュウガも、その馬鹿笑いの仕方で相手がだれかがわかった。
「ちょっと。先輩」
「悪い悪い、あんまりにも不機嫌そうな声だから。生理中のラケルよりひどいな」
「仕事場なんかにかけてきて、なんの用なんですか。軍の規定じゃあ私用電話は禁止されているはずですが」
「怒るなよ。――なあ、たまには夕飯でもどうだ?」
「いいですよ、今日は特になにもないし。第三層でテロでも起きない限り、今夜は暇です」
「どこがいいかな。あまりいい店も堅苦しいし……」
「なんだ、家に招待してくれるわけじゃないの。久しぶりにラケルさんの手料理でも食べさせてくれるのかと思えば」
「図々しいこと言うなよ。そうだな、八時にネスト・オブ・ギースで!」
 いまさらそんな店、とヒュウガが咎めるまで電話は繋がっていなかった。言いたいことだけ言って、あっさりと切れてしまっていた。
(まったく……ネスト・オブ・ギースなんて)
 その店はユーゲントから最も近い二層との出入り口の傍にあって、安いから学生の溜まり場で、二層の人間も気軽に入れる店として知られている。昔よく行ったその店は、正規に入軍してからはご無沙汰になっていた。
 ジェサイアに連れてきてもらって有り金分食べつくしたり、三人で(……ヒュウガとシグルドとカールで)試験勉強なんかもしていた。あの頃は本当によくたまっていた店だった。
 この歳になって、今の身分で行くのはいささか場違いだ。制服ではまずいだろう。私服で行くとなると、一度宿舎に戻らなくてはいけなかった。オフィスには碌な服を置いていないのだ。実験で泊りこむときに着るぼろぼろの部屋着程度だ。
(そんな服装のほうがいいかもなあ、でもそれだとこの部屋から外に出るまでが、気に食わない。尉官なんかに遭ったら目もあてられないし。……)
 結局、少し暑いけれど小汚い私服の上にコートを羽織った。ジェサイアとのデートなら、この程度で十分だ。




     G

 ヒュウガが約束の店に少し早く行くと、その前でばったりとカールと鉢合わせした。ははあ、先輩はカールも誘ったのか、と思って彼は肩を竦めた。
 シグルドが失踪して以来、カールとの仲は疎遠になっていた。作戦時は同じ場所で食事をすることもあったが、あくまでも仕事の上でだ。親密な会話など、交わしようもない。プライヴェートで食事をするのは本当に久しぶりだった。
 店は大して変わっていない。早くて安くて量があって、肉体労働の学生にはうってつけだった。味がいい、とは言えなかったけれど、まあそこそこだったろう。ユーゲントの食堂に比べたら、人間が食べるものの味がする。
 店内ではやはり、ユーゲント学生がバカ騒ぎをしている姿が見えた。
「先に入れよ」
 カールがあごでしゃくるので、遠慮せず店に入った。カールはそつのない仕草であとに続く。嫌味なほどすべてが整った男だ。見た目も動きも、いやになるくらいエリートだった。二級市民の出身のはずだったが、どこからどう見ても一級市民だった。着ている服も、高価な仕立てでいかにも育ちがよく、そしてこの店には合ってない。その嫌らしさは、この何年かで磨きがかかったな、と思う。
 もちろん、誉められたものじゃない。彼がなりたかったのはこういう大人だったのかな、とときどき思う。だとしたらがっかりだ。そうでないとしたら――それを止められなかった自分にヒュウガは失望するだろう。「なにもかも、いなくなったシグルドが悪い」と言えるほど、よそよそしい関係ではなかったのだから。
「先輩は、もう先に?」
「どうかな。俺が帰るときにはまだ執務室にいた。ま、そうは言っても俺は一度宿舎に寄ったから、来てるかもしれないけど」
「あ、いた、あそこ」
 奥のほうにジェサイアがいた。店の中に入らないと、目にとまらない席だ。ジェサイアはにやりと笑って、
「お揃いか」
 顔を見合わせながら、ヒュウガとカールは席に着いた。
 赤ワインがすでに一本、なくなりかけていた。少し顔を赤らめたジェサイアは、二人が席に座る前からまた一本、ワインを頼んでいる。銘柄は昔、カールが好んだものだった。カールもそれに気がついたらしい。彼は苦笑いして、すぐに出てきたワインをグラスに受けた。
「懐かしいな、あの頃はこればっかり飲んでた」
「お金、なかったですからね」
「そう、値段にしてはうまかったから。……」
 今はもう、値段に相応のおいしいものを飲んでいた。あるいは、値段ばかりで味はいただけないものだとか。ここにいたときは、こんなワインばかり、飲めていたのに。
 カールの呟きを聞くと、遠慮なく飲め、何本でも飲ませてやるから、と言ってジェサイアはグラスのふちぎりぎりまで注ぎこんだ。ふたりともグラスに手をかけながら、どうやってこぼさずに飲もう、とためらった。結局、下品にグラスに顔を近づけてすすり、持ち上げられるくらいに減らしてからきちんと飲んだ。
「で、先輩。今日はここに来るメンツはこれでお終いですか?」
「ああ。特報奨金が出たんだ。たまには、かわいい後輩におごってやろうと思ってな。なんでも頼めよ」
「気前がいい、珍しいですね」
 カールの皮肉に、ジェサイアはこう返答した。
「話があって来てもらったんだ。ま、おいおいな」
 なにかありそうだとは感じていたのだけれど、それは話が始まるまで待っていようと思った。ヒュウガは遠慮なくメニューを開き、あれやこれやと注文をはじめる。
 カールはなにを思っているのか、少し落ち着かなかった。あからさまに苛々しているわけではなく、白い爪でグラスをはじいていた。昔のカールならもっとわかりやすく、表現した気がする。ひどく繊細で神経質に見えた。
 変わったな、とヒュウガは心の中でつぶやいた。あの頃はまだ学生だった。今はもう、全員が軍の主力を担っている。ジェサイアは半年前に、次期ゲブラー総司令官候補に選抜されていた。総司令官ともなれば、実働上の軍の最高責任者というわけだ。今もなかなか時間など取れないのだろう。
 それはヒュウガもカールも同じだった。二人とも尉官としてそれぞれに中隊を持ち、現場指揮官として戦場に出ていた。学生のときにたくさんあったような、おかしくて猛るような、ああいう刺激はあまりない。ルーチン・ワークのくりかえしだ。
 それは少し寂しくて、ヒュウガは自分が変わったつもりがないだけにカールの変貌ぶりが目に付いてしまった。こんな大人びた男ではなかったのに。それでも、カールはひとりでそう変わらざるを得なかったのだろう。




     A(2)

 しばらく食事が進み、他愛もない歓談をして(それでも触れてはいけない「彼」の話題だけはいつも避けて)コーヒーなどを飲みだした頃にカールが切り出した。
「それで先輩、話って?」
「ああ」
 ジェサイアはそっけなく、言った。
「俺もこの国を出ることにしたんだ」
「は。……え?」
 さすがに落ち着き払った様子だったカールも、間の抜けた声を出した。
「出ることにしたって、地上へ?」
 冷静なのは、ヒュウガのほうだった。ジェサイアがいつかそんな選択をするかもしれないという予感はあったから、来るべき時が来ただけか、と思っただけだった。
 だが、カールは違うようだった。信じがたい様子で首を振る。
「まさか、今、あんたが?」
「今しかねえんだよ」
「総司令官になれば、あんたの望むことはできるかもしれないのに、それを棄てるというのか、信じられない。……信じられません」
 信じていたものに裏切られた眼で、カールはジェサイアを見た。ジェサイアは悪びれもせずにその視線を受け止める。彼の自信は決して揺るがなかった。
「これでも色々とわけがあってよ。どう説明したらいいもんだか、ともかく、危ないのは俺じゃなくてビリーなんだ。だからもうこの国にはいられない」
「言っている意味がわかりません、危ないのはビリー? まだ七つの子供が一体、なにを」
「ソイレント被検体候補のリストの中に名前があった」
 ジェサイアがそう言うと、食い下がっていたカールもさすがにはっとした。悪名高いソイレントは、一級市民をしても黙らせる恐怖の人体実験所だ。ラムズや下層階級の人間が日夜、いじられ死んでいっているのはだれでも知ってる。軍内部の常識では、そこでは一級市民だって例外でなかった。実験対象に選ばれてしまえば、どうなるか知れたものではない。ヒュウガは、選ばれて無事に済んだ人間を見たことがなかった。実を言えばまともな死体も、まともじゃなくなった死体も、見たことがある。……一番多いのは行方不明という奴だ。死体がどうなったのか、原形もとどめなくなったのか消えてしまったのか、どこかで生きているのか……だれにもわからない。科学部の実験以上に気違いじみたことが行われているのは、間違いなかった。
「まさか」
「この目で見たんだ。確かに、被検体になるかどうかは確実じゃない。だが、選ばれたらおしまいだ。
 それにもうこの国のやりかたには我慢がならねぇ。そんなこと、いちいち言う必要はないよな? 俺自身がその気に食わないサイクルの中に投げこまれるのも、耐えられない。おい、罪って言うのは、それを実行する人間のものじゃないんだ。その罪があることを知っている人間のものなんだ。――自分の手が真っ赤じゃないからって、許されるものじゃないんだ!
 だから、最後にどかんと一発やって、とんずらしようと思ってな」
 ジェサイアは最後にうれしそうにいって、にまりと笑う。人の悪い笑いだ。
「なるほど、先輩が僕らを呼んだわけ、わかりました」ヒュウガは少しばかり冷ややかに、言った。「その最後のドカン、に僕らを巻きこもうって言うことですね?」
「そのとおり。さすがだな、話が早くて助かる」
「なにをするつもりなんです」
 核心を尋ねると、彼は言った。いつものように自信に満ちた、それでどこか皮肉のこもった微笑を浮かべたままで。
「ひとり、ぶっ殺していく。……護民官カレルレンだ」




     I

「……そんな無茶だ」
 ヒュウガは、間髪いれずにそうつぶやいていた。ジェサイアは苦笑いして、
「やる前から無茶だとか言うなよ、ヒュウガ」
「だって、無茶ですよ。正気じゃない。出て行くならおとなしく、出てってくださいよ。文句は言いませんから」
「派手なほうが、いいだろ? 退屈しっぱなしじゃ腐っちまうぜ。最後にいい思い出を作らせてくれよ」
 深刻な話をしていながら、あまりにばかばかしい案が出たのでヒュウガはむしろ、慌てるというよりも冗談のような気がして拍子抜けしてしまった。おまけにジェサイアは、ごくごく楽しそうに言ってのけるのだ。
 護民官暗殺など、できるはずがない。護民官カレルレンは、このソラリスの実質の最高権力者でもう何百年とこの国に君臨しているという。あまり表には出てこない男だが、文軍すべてを掌握していて、だれだってあの男には逆らうことができないのだ。
 軍の長官くらいならともかく、カレルレンを暗殺するなど、普通は思いつきもしないだろう。この国を出て行くというところまで、一体信じていいものかヒュウガは悩んでしまった。
「……先輩、冗談ならそれらしく言ってください」
「おい、俺は本気だぞ」
「そんなこと言われてもねえ、カール」
 ヒュウガが笑いながらカールを見ると、青ざめたカールは、真剣な面持ちでじっとジェサイアを見ていた。
「……カール」
 カールはこの話をまじめに取っているのだ。考えられない、とヒュウガは思った。カールはいつだってこういう冗談は好まなかったのに、どうしたことか。
「先輩、俺はその話にのってもいいですよ」
「おまえはこの国を出る気はないんだろ? いいのか?」
「――なんだ、俺たちを誘ったのは下にも一緒に行こうか、そういうつもりだったんですか? 確かに、しくじればやばいですからね。ですけど、俺は出て行く気はありません。先輩がいなくなるなら、俺には追い落とす相手が一人減るってことですから、どうしてこの機会を逃しますか。一番やりにくい相手がいなくなるんだから、願ったり叶ったりですよ」
 やりにくい相手と言われて、ジェサイアはにやりと笑う。カールはそのままの調子で今度はヒュウガにむかって、
「ヒュウガ、おまえだってこんなところは出て行けばいいんだ。息がつまるだろ? ここは、おまえの故郷じゃないはずだ」
「私だって、出ていくつもりはないです」当たり前のようにカールに言われて、ヒュウガは少し気分を害した。「確かに私はソラリス人ではないけれど、でも生まれたのはこの国ですから。……捨てるつもりはない」
「それを聞いて、安心たぜ」あろうことか、ジェサイアはそう言った。「わりぃな、勝手なこと言って」
「いえ、先輩。……ビリーを守るためだっていうなら、俺は否定はしません」
「ずいぶん物分りがよくなったな」
 ジェサイアはいつもの調子でカールを揶揄したが、青ざめた顔で彼は答えなかった。
 一方、ヒュウガは図らずもどんどん話が進んでいくことに戸惑っていた。ジェサイアは軽口を叩き、カールは思いつめたように神経質な素顔を見せているが、話は確実に進んでいた。しかも、本当の話として。
 ヒュウガにはまだ、実感すらなかった。護民官の暗殺ということを話し合っているつもりはなかった。
「先輩のことだから、準備は進めているんですよね」
「いまのところ俺とおまえらを入れて12人。多分、懐かしいメンツもいると思うぜ。あの頃の若手シンパくらいしか話を持ちかけられるやつはいないからな」
「12人、随分いますね。みんな、地上へ?」
「これがおかしいことに残るって言ってるやつらばっかりだよ」
「じゃあ、作戦のあとに下へ降りるのは、先輩とビリーと、……ラケルさん?」
「ああ、そうなる」
「なら、よっぽどのことを考えないと」
「実行するのは俺だけで十分だ。やるのは俺だ。おまえらにはただ、協力してもらえればそれでいい。下に行かないなら、それ以上は危険だ」
「それだって十分危険ですよ。具体的な策、あるんですか?」
「ああ、もう立案済みだ。あとは最終調整というところ」
「と言うことは、俺たちの役割は決定済みなんですね」
「カール、おまえには一番大事な役を働いてもらわなきゃあ」
 物騒な会話がどんどん進んでいる。ヒュウガはぽかん、として二人を見た。
「あの」
 ヒュウガがようやく口を開くと、ジェサイアとカールは我に返ったように、彼を見た。
「なんだ? おまえの役割なら、順番に話すよ」
「いや、そうでなくて」
 カールとジェサイアは、ヒュウガがなにを言いたいのか解らなかったようだ。ヒュウガも、なんと言っていいのか解らないし、怒鳴りつけて「護民官暗殺なんて!」と言うのは、いくらこんな酒場でもまずい。
 それだけで牢獄行きだ。
 なんと言っていいのやら、ヒュウガがもぞもぞしているとジェサイアは肩を竦める。
「明日のニイニイマルマル、俺のオフィスでミーティングだ。それっきりだから、来いよ」
 いいもなにも、だ。すっかり決めてしまった様子で、ジェサイアは席を立った。




     N

 カールには帰りがけ、「いいんですか」と聞こうとしたが、けっきょく訊くことが出来ないままだった。不穏当な言葉をなしに話せないような気がしたからだ。ただ、「いいんですか」と訊くのでは、カールが「地上に降りることを認めていいんですか」と訪ねられていると誤解したらどうしよう、と思ってしまったのだ。
 シグルドがいなくなったことに関して、ナーバスになっているのはむしろ、カールよりも……ヒュウガなのかもしれない。こうして歩いていると、シグルドが数歩先を一人で、歌いながら歩いているのではないかという錯覚を覚えてしまう。口ずさんでいるのは、きっとFESTA DE RUAとかいうボサノヴァだ。シグルドが頻繁に歌っていたからなんとなく思い出すことはできたが、歌おうとすると旋律が出なかった。
 ヒュウガは頭を振る。
 シグルドのことを怒っているわけでもない。別れは悲しかったけれど、それは間違ってなどいなかった。
 それでも、友達がここにいない、というのは寂しいのだった。
 カールとは寮の中まで一緒に歩いていったが、会話らしい会話もなかった。
 別れ際に、カールは言った。
「降りたかったら、降りてもいいんだ」
「なにに?」
 カールは応えずに、背中をむけた。
 幾通りにもとることが出来た。ジェサイアの計画を降りるということなのか、しつこいけれども地上に降りるということなのか、……彼らがあの頃望んでいた理想というものに対する努力なのか。
 ヒュウガは自室に戻ると机に座って考えこんだ。ジェサイアはいつ行動を起こすのだろう。食事の場では、さすがになにひとつ教えられなかったが、ミーティングが明日一度きりということは、数日中に行動を起こすということだろう。心の準備が必要だった。
 まだ割り切れていないのだ。
 ジェサイアがやりたいと言い出したこと、その実現可能性と危険性を鑑みて、正気の人間がやろうと試みることでは決してない。
 彼がいったいどんなつもりなのか、そしてそれに真顔で賛同したカールの気持ちもよくわからないのだ。
(実際、12人も集まっているだなんて意外な人数だな。……皆が、この馬鹿げた計画に賛同するなんてよっぽどだ)
 ジェサイアが他の人々をどう説得したのかはわからない。今日の説明は、相手がカールとヒュウガだったから、あんな大雑把な説明だったのだろう(そう願いたい)。
 常識や過去に縛られている自分に気がついたヒュウガはそっとため息をつく。破天荒な性格だと見られがちだがそうでもなかった。
(それとも、これがソラリスの刷りこみなのか)
 ジェサイアの計画に対して、そこはかとない恐怖を感じている自分に、彼は気がついていた。




     S

 翌日、迷いはあったが定時にジェサイアの部屋に行くと、既に数人が揃っていた。毎日見かけている軍部の面々の顔だった。いずれも、数年前のカールたちの計画に賛同していた当時のユーゲント学生たちだ。たいがいはいまのヒュウガの同僚で、意外な人間はいなかった。軍人にならなかったもののもそこにはいたが、文官などの仕事で軍部に出入りしているものばかりだ。
 つまり、この部屋にいて不自然な人間は一人も来ていない。
 やがてカールも入ってきて、片隅にいるヒュウガに目を瞠った。来ないと、思っていたようだ。
 机の上には12個のグラスが置かれている。ジェサイアは来た順にワインを注いだ。この会合はちょっと同僚たちが飲んで歓談をする、という設定らしい。
 全員が揃うと、ジェサイアは居並ぶ面々の顔を見渡した。
 部屋は十二人もいて窮屈とは思わなかった。さすがに、次期ゲブラー総帥候補の執務室だ。こんな待遇をされている人間が、この立場を捨てようとするのはなかなか難しいはずだ。
「これで全員だ。手っ取り早く話すぜ。明日の朝まで話し合いに時間をかけるわけにはいかないからな。質問は一切ナシだ。俺たちはテロリスト集団じゃあないし、理念とか理想の語り合いなんて今は必要ない。そんな小難しい話はずいぶん昔にやっただろ。なあ?」
 そう言ってジェサイアは、カールのほうを見る。視線を受けたカールは、少し苦い顔をして「ああ」と言った。
「まあ、計画に対してどんな理由が確実にあろうと問題はないってことだよ。計画を達成しようとしているなら、それで構わない。それだけが大事だ」
 前置きをすると、ジェサイアはスクリーンを引っ張り出してきた。
「実行は明日、21時ジャストに護民官執務室にて」
「……そんな無茶だ」
「おいヒュウガ、質問はナシって言ったろ!」
「質問じゃありません」
「じゃ、野次もナシだ」
 数人がその会話に笑い出す。この会合もまた、昨日のジェサイアの告白と同様に緊張感に満ちているわけでなかった。ヒュウガは皆の笑い声を聞きながら、この人たちはなにをするために集まっているのだろうかと思う。担がれているような気までしてしまう。もちろん、この国で冗談のネタでも「護民官暗殺」など扱っていたら次の日には極刑だ。ヒュウガは苦い顔でジェサイアをにらんだ。
「続けるぜ。明日の20時半からカールの名前で護民官に約束を入れてある」
 いつの間に、だ。カールの顔をうかがうと、彼も知らなかった様子で驚いていた。
「カールには護民官と会っていてもらう。いいな?」
「もちろん、構いません」
 危険な役割だったが、カールは厳しい顔で頷いた。ジェサイアはそれを見ると、スクリーンに簡易な護民官府と軍舎のマップを表示させた。護民官府と軍舎は隣り合っている。彼は指で、ダクトを通ってこの部屋から護民官執務室までをなぞった。
「俺はこのルートで護民官の部屋の天井裏まで行く。その間、この部屋にはクレメンスとフバートにいてもらう。おまえらは20時にここに来てくれ。まあ、俺がいない間にこのミーティングルームを利用して話し合いでもしててくれ。それで、しばらくの間は俺の不在が誤魔化せる。21時になったら離れていいぜ。あんまり長居はしないほうがいい」
 二人が頷くのを見ると、ジェサイアは続けた。
「ギュンターは20時半になったら港湾広場まで車を出してくれ。そこに、ビリーとラケルがいる。乗せたら第四ポートまで行ってくれ。降ろしたらおまえの出番は終わりだ。第四ポートにはジョセフとイルゼがいる。明日、おまえらは第四ポートにいるんだろ?」
「二週間前にそんな予定が組みこまれてなんだと思ったが、あんたの仕業か」
「第四ポートには小型の輸送船を用意してる。合法的なやつだ。ジョセフはラケルとビリーを頼む。イルゼは21時に第四ポートに入ってくれ。俺は21時半すぎにはつくつもりだから、その案内を頼むぜ」
 それからエテメンアンキの地図を表示させた。
「最後のチームはラウル、ヒュウガ、ベルトルド、アヒム、アルフレト。……おまえらは、これを被って第七街区のここにいてくれ。まあ、俺の逃亡支援だな」
 またも指で示す。護民官府から、第四ポートまでのジェサイアの逃亡ルートの途中だ。そして、ジェサイアは五人に順番に白いものを放った。
 なんです、と問いかけそうになったが質問は禁止されているので黙った。だが、渡された五人が五人とも、なんとも言えない顔で手の中のものを見ている。
 白い石膏でできた仮面だった。黒い線で五人五様の表情が描かれており、どうやらこれを……被らなくてはいけないらしい。
「おまえら五人は第一ポートに集合してくれ。バラバラにな。ルートを表示させるから、いま頭に叩きこめ。集合地点はここだ。軍部サロンの裏側でポートを直接見ることができる。全員集まったら、解散してくれ。カールもできたら、ここに行ってくれ。他のやつらはそのまま自分がいるべきところに戻るんだ。…… 後日、集まったりするなよ。
 以上」
 あっという間だった。ジェサイアひとりが計画を立てたのだろう(おそらく、ラケルも一緒だろうが)。ヒュウガは全員が納得しているようなのを見ながら、どうしても根本の疑問を納得できないでいた。
(どうして、護民官の暗殺なんですか。……確かに派手だけれど、まさかそれだけなんて信じませんよ、先輩)
 カールはまだジェサイアをにらんでいるヒュウガを尻目に、グラスを手にした。
「あとはこれを飲んで解散ですね」
「ああ、そうだ。乾杯と行くか」
 ヒュウガは肩を竦めた。
「なにに?」
「ヒュウガ、野次はナシだぜ」
 また笑い声が起こる。カールはグラスを掲げると、こう言った。
「最後の花火に」




     T

「今なら、質問かまいませんか?」
 皆が部屋を出て行く中、ヒュウガはジェサイアに言った。
「ああ。ずいぶんと納得いかないっていう顔をしているな。ここに来たからには、やめてくれ。他のやつが不安がるだろう」
「みんなだって不安じゃないはずはないです」
「そうかね。みんなお祭りだと思ってるぜ」
「先輩は繊細なところがないからそんなことが言えるんです」
 ジェサイアはにやりと笑う。
 そのとき、はたと人の気配に背後をふりむくと、カールも部屋の戸口で立ち止まって二人会話を聞いていた。
 その顔は冷たく、無駄がなく、まったくもって軍部のエリートらしい。ヒュウガは、その顔を思いっきりはたいてやりたくなった。
「おまえもうまいこと言うよな」ジェサイアがカールに手を振る。「最後の花火、なんてな。
 でも、俺にしたらこれは最後なんかじゃない。これはむしろ始まりののろしなんだ」
 そう言うのを聞いて、ヒュウガは、ジェサイアと明日を最後に会えなくなるということに気がついた。この町は、本当に、居心地の悪い町だから。だからこそ、ヒュウガは食い下がった。今晩、この夜が最後の時間なのだ。シグルドのときには、こんな時間をとることは出来なかった――その後悔がヒュウガを必死にさせた。
「僕はまだ納得できませんよ。なぜ護民官なんです。無茶にもほどがある。本気なんですか?」
「本気じゃないと思うのか、みんなまで巻きこんで?」
「お祭り気分な皆もよくわからない」
「だっておまえは、護民官をぶっ殺せると聞いて楽しくならないのか? 俺だったら、なるね」
「楽しくなれるんだったら苦労はしません。ただなんと言うか……ありえない。夢みたいだ」
「それでいいんだよ。おまえは真面目に考えすぎるんだ」
「そうだといいんですけど。カールも楽しいんですか?」
 カールを見ると、意外に彼はにやりと笑顔を見せた。
「割と。俺の目の前でカレルレンがぶっ倒れるなんて、考えただけでも楽しいだろう」
「病気ですね、皆」
「考えても見ろよ、ヒュウガ。あいつはこの国の支配者だ。この腐敗と暴力の王国の! 護民官なんて役職だが、実際はなにを守っているっていうんだ?」
 ジェサイアはそう言うと、自分の懐から銃を取り出した。そして、まっすぐヒュウガへと向ける。
「……やめてください」
「俺たちは戦い続けて生きてる。戦いは派手なほど楽しいものさ。地上の無辜の人間を虫けらみたいに殺す軍隊の総司令官になるはずの俺がこう言うんだからな。間違いない。
 このきれいな町を一瞬でも戦場にして駆け回れる。反政府主義者の面目躍如ってもんだろ? 俺は、ガキの頃からこの街をぶっ壊してやりたいって思ってた。別にこの街が嫌いだからじゃない。俺は戦うことが楽しくて仕方ない人間だ。……だから、さ。それだけだ。
 ここを出たら簡単には戻ってこられない。だから最後にこの街を舞台にして戦争ごっこがしたいんだ。おまえもやっただろ、子供の頃に」
「……僕らのやることは戦争ごっこなんですか?」
「ああ。だから言っただろ、おまえは真面目に考えすぎるんだ」
 ヒュウガは銃口をすかしてジェサイアを見つめた。一瞬で間合いをつめ、ジェサイアの手を蹴り上げて銃を弾き飛ばした。次にまばたきをしたとき、ヒュウガはその銃把を握ってジェサイアに狙いをつけていた。
「だんだん、楽しくなってきましたよ」
「いい調子だ。大人の価値観なんて塵バコに放りこんじまえ! 規則なんて俺には必要ない。今やれることを楽しんでやる、それだけだ」
 ヒュウガは、銃をジェサイアに放って返す。
「明日は楽しみにしてますよ」
 そう言うと、ヒュウガはカールとともに部屋を出た。




     T(2)

 時間が来る。
 軍部の制服をまとい、カールは護民官府の回廊を歩いていた。腕にはめた時計が一瞬一瞬を刻んでいる。カレルレンのいる護民官執務室までは、あと十秒だ。十、九、八、七、六、五、四、三、二、一。それだけの歩数を大股で進み、鉄の扉の前に立つ。
 案内係にカールは目もくれず、手を上げて下がるように指示した。その手を降ろす。
 扉が開くと、軍部エリートの冷徹な振舞に臆した様子の案内係を置いて、カールは足を踏み入れた。
 中には護民官がただひとり、机についている。だがもちろん、こちらに気にした風でもない。
 音を立てて扉が閉まる。
 カールは口を開いた。
「ご無沙汰しています、護民官閣下」
 そこでようやくカレルレンはカールの存在に気がついたように、わざとらしく慇懃に返す。――
「思いがけない来訪をしていただいたようではないか。君が私に面会を入れるなど珍しい。嬉しいことだ」
 カールは口調と裏腹な険しい視線を受け止める。だが彼はいささかもひるまない。頭の中で、もうじき天井裏から護民官を狙う銃口が用意されることを思って彼は快活な表情を作った。
「閣下におかれましては、おかわりのないようで安心いたしました」
「私になにかあった、……とでも聞いてきたのか?」
「まさか。閣下の御身はこのソラリスの礎と同じように、安泰なものでしょう」
「私にはすぎた言葉だな。それは天帝陛下にお伝えしたまえ」
「次の機会にそういたします」
 カールはそこまで言うと足を進める。腕時計の秒針が時間を刻むのと同じ速さで。彼はカレルレンの机の前に立ち、続けた。
「ところで本日は、お願いがあってうかがいました」
「……君は軍部の人間だろう。軍部は私の直接の指揮下にはないのだが?」
「ですが、この国のまつりごとに関わることで閣下のお耳に入らないこと、閣下の意のままにならないことなどありましょうか?」
「ラムサス。なにを学んできた、この街で?」
「さて?」
 視線が合う。
 時間が来る。腕の時計が時を刻んでいる。




     H

 時間が来る。
 気がつけば腕にはめた時計はずいぶんと時を刻んでいた。ダクトの中をはいずりながら、ジェサイアは自分の進みを早める。腕時計からはカチカチと秒針の起こす音が聞こえてきそうだ。
 ずるずると進みながら、背中にはライフルの重みがある。これはジェサイアの思いそのもの、この街で戦争をしてやるという悪巧みそのものだ。
 我ながら気が狂ってる。ヒュウガにまともじゃないと言われたが、そんなことは承知だ。
 だからこそ、この異様な興奮を味わえるのだ。
 他の街の執政官ビルディングでダクトをくぐったってうんざりするだけだ。
 だが今は違う。ここはエテメンアンキだ。ダクトの閉塞感とソラリスの閉塞感を重ね合わせながら、ジェサイアは進んだ。
 護民官執務室の上へとつく。
 予定の時刻まではあと五分ある。
 天井の隙間からは既にカレルレンとカーラン・ラムサスを見ることができた。なにを話し合っているのやらジェサイアの知ったことではなかった。カールにはカールの理由がある。ジェサイアは、カールが子供の頃に戦争ごっこではしゃいだことがあるとは思っていなかった。
 頭にくくりつけた白い仮面をずりあげる。
 背中から静かにライフルを手にとった。銃口をむけると、照準のむこうに護民官の姿が見える。
 時間まで、ジェサイアは待った。
 秒針が時を刻んでいる。やがて時間が来る。
 十、九、八、七、六、五、四、三、二、引き金にかけた指に力を入れる。
 ジェサイアは心の中で呟いた。
 ――ラケル、愛してるぜ。
 一。
 護民官がその瞬間に確かに視線を上げ、ジェサイアを見た。
 時間が来る。
 次に秒針が刻むのは零だ。その一秒でジェサイアが味わったものは、説明のできない濃密さに凝縮されてそのゼロに切り刻まれた。
 時間だ。




     E

 時間が来る。
 第七街区の街路の隅にある街頭端末ブースでヒュウガは腕の時計を見ていた。ここでジェサイアの銃声を耳にすることはないだろう。しかし、時計の針がそれを知らせようとしている。
 ブースでは五人が銃を抱えて時を待っている。
 ヒュウガもまた、うつむいて無心に時を待った。
 ヒュウガが待つのは戦場のときの声だ。
 既にこの街は日常の色を変え、戦地の緊張につつまれている。
 ごっこ遊びだったが、感じる緊迫と興奮はほんものと同じだった。
 このブースを出ればそこにあるのは撃ち落す的だ。そして打ち落とさなければ自分が打ち落とされる。
 秒針の震えとともに、ヒュウガは頭の中で闘った。一秒ごとに心の中で的を打ち落とした。
 闘うのが楽しいとはジェサイアもよくも言ったものだ。確かに、楽しくなければヒュウガだってここまで強くならなかっただろう。闘うことに天分の才能があったとしても、楽しかったからヒュウガは強くなったのだった。
 こうして闘うことを想像するだけで心が跳ね上がった。秒針の刻むテンポで興奮が募っていく。
 無数に的を打ち落として、腕時計を見ると時間まであとほんの少しだ。ヒュウガは数えながら、やはり世界を心の中で打ち抜いた。十、九、八、七、六、五、四、三、二、一。
「時間だ」
 だれかが言った。
 ジェサイアは今この時に最後の花火を打ち上げただろう。
 まだ外に異変はない。
 彼らのときの声は、これから上がる。
 五人は頭の上にとめていた白い仮面をずりおろした。
 時間が来る。秒針が時を刻むごとに、ヒュウガは喉の奥で銃声を鳴らした。その仮想の銃を打つ衝撃もが、体で感じられるようだった。




     R

 カールは銃声が聞こえたと同時に懐から彼の拳銃を抜き取った。カレルレンはしかし、一瞬前まで座っていたところにはいない。視線をめぐらすと、椅子には弾痕があり、その後ろにカレルレンがうずくまっていた。
 険しい瞳で、カールを嘲う。
 カールは銃口をカレルレンにむけた。
 護民官府にはすでに急を告げるアラームが鳴り響いている。
 ジェサイアの弾丸はそれた。既に彼はとどまらず逃げ出しているだろう。
 カールはここに近衛兵が来る前に弾丸を放つべきだった。
 目の前にいるのは、彼が殺したいと望んでいる男だ。
 だがカールは撃てなかった。
 カレルレンはカールをにらんだわけではなかった。ただ、その冷たい目でカールを見ただけだった。
 だが、カールには撃てなかったのだ。
「その銃を収めたまえ、カーラン・ラムサス。これから来る近衛兵にどう言い訳するつもりかね?」
「護民官、この銃はあなたの身を守るためです」
 そう言うと、護民官はにやりと笑った。
 次の瞬間、二人きりの緊迫は破かれた。扉が開き、近衛兵たちがなだれこんでくる。カールは銃を手にしているが、だれも彼を疑わなかった。
 カレルレンは天井を示す。
「あそこの隙間からだ。追いかけろ」
 またも兵士たちは雪崩をうって部屋を飛び出していく。
 カールは銃を握ったままだ。
「気がついていたのか?」
「それくらい、わからないと思うのかね? さて、主犯が捕まるか否かは、彼の頑張りによるな」
「彼?」
 カレルレンはカールの前で立ち上がり、端末で軍部のコード番号を呼び出す。
「私だ。テロリストが逃亡している。兵を出して追跡しろ。現在は近衛が追っている。詳細はそこから聞け」
 それだけで切れてしまい、相手から聞こえたのは「了解しました」という儀礼的な声だけだ。カールにはその通話の相手がわからなかった。
「ジェサイア・ブランシュを追うには最適の男だ」
 カレルレンはにやりと笑った。カールは衝動的な憎しみを眼光にこめた。
「いつまでも笑っているがいい。
 ……だがいつか殺してやる、必ず」
「そうか、それなら待っていてやろう」
 カールは荒々しく銃を胸元に戻すと、部屋を出た。




     U

 機械音が鳴る。合図だ。ヒュウガたちは仮面のままブースを出る。護民官府のほうから走ってくるもう一人の仮面の男が見えた。ジェサイアだ。彼の大分あとから、数人の近衛兵が銃を手に走ってくるのが見えるが、とうぶん追いつかないだろう。
「待たせたな」
「ええ、待ってましたよ」
 六人は、合流するとしばらく駆ける。人気のない通りに出てそれぞれにしかるべき位置で近衛兵を待った。一団の近衛兵相手なら、六人では相手をするのに多すぎる。
「行け!」
 ジェサイアの声で六人は一斉に銃を撃つ。一秒ごとに引き金をひき、その一秒ごとに的を落した。戦争ごっこには物足りないほど短い瞬間でことは済んでしまう。
「それで先輩、どうだったんです」
「当たると思うか、俺の弾が?」
「当たるかもしれない。例えばカールに」
「魔弾じゃなくたって当たりそうだな」
 六人は通りを抜けて次の区画へと出る。しかし背後の角からまた新たに兵士が追ってきた。今度は近衛の制服ではなく、ゲブラーだ。広い通りに列を作って展開する。かなりの数の兵士たちが動員されていた。百人はいる。
「さすがにやばい感じ」
 ヒュウガが言うと、ジェサイアは叫んだ。
「先に行け!」
「でも、」
「カン違いするなよ、これは俺の単独犯行なんだぜ」
「……わかりました」
 頷くほかなかった。ラケルとビリーを残しているジェサイアが自己犠牲の精神でここを防ぐつもりではないだろうことはわかっていた。なにか策があるのだろう。ただそれを信じて、ヒュウガたちは背中を向けた。
 ジェサイアは仮面をもぎ取ると、街路に落とす。カランカランと硬い音を立てて仮面が転がる。彼は軍靴で踏み砕いた。




     L

 ヒュウガたちが路地を曲がり姿を消したのを見守り、ジェサイアが振り返ると路上は完全武装で展開した兵士たちで埋め尽くされている。固い防護板で一列に隊列を組み、その後ろに機銃を構えたもう一列が静かにジェサイアに狙いを定めていた。
 ジェサイアはライフルを肩に担ぎ、彼らを見つめる。
 静かだったが動揺は見てとれた。そこに立つ男は、次期ゲブラー総司令官となるはずだとほとんどが知っているのだ。
 無数の銃口を突きつけられ、絶体絶命だとは思わなかった。いくらでも逃れきる確信があった。こんな場はかわしてみせる、と言うような自信とは違う。運命が、まだジェサイアの出番は終わっていないと告げているのを、彼は感じ取っていたのだ。
(そうだろ、いるかいないのか知らないが運命の女神さんよ。……)
 隊列を見つめるジェサイアの態度は不敵で、ひるむ気配すらなかった。
「……スタインか」
 ジェサイアは、二列の兵士たちの後ろに立つ指揮官を見てそう言った。
「あなたでしたか」
 イザーク・スタインも、ジェサイアに言う。意図的なこの派兵、……ジェサイアは、悟るしかなかった。
「護民官閣下におかれましては俺たちのことなんかはご存知ってわけだ」
「テロリストたちは仮面をつけている、と聞きましたがあなたはどうしたんです」
「わかりやすいだろ。そんなものがないほうがさ」
「本当に」
 スタインは、護民官を暗殺しようとしたテロリストを捕縛せよとしか言われていないはずだ。それなのに、そのテロリストがジェサイアであることに意外な顔もしない。ただ合点がいっただけなのかもしれなかった。
 いつかジェサイアが行動を起こすと彼は思っていたのだろうか? いや、そんなはずはないだろう。ゲブラー総司令官を目前にして危険な賭けに出るのは、スタインなどにすれば失策に過ぎないだろう。彼はジェサイアを追い落とすために必死だったのだし、彼がこういう行動に出ると予測していたら、あんなに形相を変えたりしないはずだ。
 それとも? それより歪んだ認識で、ジェサイアならそんな失策を犯すこともありうると考えていたのだろうか。
 スタインの考えは、いつもと同様、その不気味な無表情のせいで読めない。
 だが、ジェサイアを逃がすつもりがないことだけは確かだ。それはある意味、ありがたい。スタインのやり方は知っている。執拗な性格の彼は、一点に戦力をつぎこんで中核を徹底的に叩き潰すやり方を好んだ。この場合で言えば、彼はジェサイアを追うことに全力をつくすだろう。
 ラケルを妻にしたジェサイアへの、彼の執着は承知の上だ。
 逃げたヒュウガたちまで手は回らないで済むだろう。そして、ジェサイアの身の上に戦力を集中させるには、逃げて逃げて逃げ続けなければいけない。
(そんなこと、いくらでもしてやるさ、)
 沈黙の直後、ジェサイアは肩のライフルを握りなおして抱えると、数発を前列にむけて撃ち放した。防護板ごと隊列が崩れる。スタインのふりおろした手に呼応して機銃が鳴り出したときには、ななめ後ろへと走りこんで銃弾を避けていた。
 ジェサイアが駆けこんだ細い路地へむけて銃弾が消費される。ジェサイアは街路に跳弾するのを横目に、息を整えた。
 銃撃が一瞬やんだところで顔をだし、また数発撃った。弾切れまで打ち、装填をしなおすと銃撃の合間を縫って再度撃ち放す。
 列は薄くなっていくが、スタインは暫時前進の指示を出している。すぐに、この路地に駆けこんでくるだろう。そうなれば、もう弾の避けようがない。ライフル一丁で防げるものではないのだ。
(そろそろ潮時だな)
 ジェサイアはライフルでまた撃つと、次の銃撃が始まるのも待たずに路地を駆け出した。この先の地理は調べてある。スタインの部下が待ち伏せていることは考えなかった。多分、ないはずだ。……護民官の余裕のあるやり口からすると、そこまで入念な配備ではないように思えるのだ。
 ジェサイアはただ走った。案の定、背後で銃声がしている。しかし、そのときには機銃の弾が届かないところまで彼は走っていた。
「撃ち方やめ!」
 スタインの指示で銃声がやむ。彼が路地に立ち、はるか奥を見たときに眼にはいったものは、ちらつく光だけだった。ジェサイアの手に握るライフルが反射して鈍く煌いているのだろう。
 いまや視認することも難しい暗がりの奥まで走るジェサイアを、もう捕らえられるとは思えなかった。
 彼は懐から拳銃を取り出すと、揺れる光にむけて、引き金をひいた。
 けして届くことはない、そうわかっている弾丸だ。
 肩がその震動を感じ、耳核がその音を聞き、鼻は新しい硝煙のにおいをかいだ。
 スタインは、路地にはいって追跡を行うよう指示を出すと、その拳銃を握ったまま彼自身も路地へと入っていった。




     E(2)

 数時間後、ヒュウガは集合場所になっていた宙港へと顔を出した。ブランシュ一家がソラリスを離脱するための軍用シャトルポートから離れたその場所は、もちろん撹乱のための集合場所だった。
 とはいえ、ここにも追手はない。途中で軍の回線を傍受したが、もっぱら大型船に対する捜索が展開されており、すでにブランシュ一家の乗る艦はこのソラリスを発つ時間を過ぎている。目論見どおりにうまくいったようで、ほっとした。
 もちろん、どこまで「彼ら」に見逃してもらえたのか、はさだかではない。それでも、今回の作戦にかかわったものすべてが国外逃亡を図るはずだという軍部の読みは、うまいことはずすことが出来ていた。
 宙港の離発着床を眺めることのできるテラスは、軍部のIDカードなしでは踏みこめない場所にあった。主に、要人がこの宙港を利用するときに行う監視のチェックポイントとして利用されており、大抵は使われていない場所なのだった。
 柵のむこうは暗黒の宇宙へとまっさかさまだ。軍関係者しか立入の許されないそこは、他に人影があるはずもない。
 見上げれば、大地を眺めることが出来た。そのテラスに立っているのは、まだカールひとりだった。カレルレンに会った格好そのままでここへ来たのだろう。軍部の正装はカールのエリートらしさを引き立てるばかりだった。
 けれど、その表情は大切な人を失った痛みにあふれていて、ヒュウガはシグルドがいなくなったときのことを思い出した。シグルドを裏切り者だ、とののしり罵声を投げつけたカールは、油断をすると泣きそうな悲しみに満ちた顔をしていたものだった。
 実際泣いたのかどうかは、さすがのヒュウガにもわからない。カールはそれを表に出すことはしなかった。泣いていたとしたら彼の個室だけだろう。
 視界の先にある大地と空は、夜闇の中で暗くてなにも見ようがなかった。足下には星が煌いており、見上げた惑星のほうには地上から続いているソラリス・タワーの無機質な警戒灯が瞬きを続けている。ときおり、それ以外の光を見ることができる。空には流星、大地の方ではソラリスと地上を繋ぐ船の灯りだろう。
 いましも地上のどこかから攫ってきた人々を乗せているのかもしれないし、逃れようとしているジェサイアたちを乗せているのかもしれない。
 それはわからなかった。あるのは同じ瞬きだけだ。
 近づいていくと、カールが歌を口ずさんでいるのが聞こえた。
 ――O sol esta queimando mas ninguem da fe.
 昔シグルドが歌っていたあの曲だった。たくさんの人々が集まり、太陽の元で歌い踊る救世主の祭りの歌だった。
 だが祭りは終わりだ。
 ヒュウガに気がついたカールは、やはり作戦時からそのままの格好でここに来たせいで薄汚れた様子の彼を見て少し、笑った。
「他のやつらは、まだだよ」
「早かったですね。……護民官執務室からはそんなに簡単に出られたんですか?」
「……カレルレンにはなにもかもお見通しだったせいでな」
「そっか、やっぱりわかっていたの。
 先輩は……どうなったかな。私たちは断罪されるんですかね?」
「たぶん、平気だろう。……あの余裕っぷりからして、俺たちなど歯牙にもかけていないさ」
「それはそれで口惜しいにもほどがありますね。……」
 二人はしばらく、言葉もなく佇んだ。




     S(2)

 カールはやがて、言った。
「最後の花火は、不発だったな」
「不発でも構わなかったんじゃないですか。先輩が本気で護民官を殺そうとしていたなんて思えない。もちろん、成功すれば万々歳だと思いますけど、それができると信じていたとは思えない。……やっぱり、これはのろしでしかなかったんじゃないでしょうか?
 ――罪というのは、犯した者のものではなくてそれを知っているすべての人間のもの。
 先輩はそう言ってましたけど、私は、知らないことそのものもひとつの罪だ、と思います。罪を知らないこともそれを見ないで済まそうとすることと、同じくらい罪深い、と思うんです。
 地上の人々も、気づこうとすればこの国の支配に気づけるのです。ゲブラーは地上で暗躍しているし、その技術力の高さを見ればなにか異質な存在だと気づいたっていいはずです。無数にある失踪事件を、われわれの仕業だと感づいてもいいはずです。ましてや、シェバトは時折、人々の目にさらされてすらいるではないですか! 私には、地上の人々はただ目を塞いでいるだけなのではないかと……そう思えて仕方がない。
 われわれのことを知って、それでどうできるか、ということは定かではありませんが……けれど人々が結束すれば、この国を覆すことは不可能でないと思います。この国だって、人の王国なのだから。たとえ神々がいたとしても、それでも人の王国なのだから、どうして覆せないことがありますか?」
「いつか行くのか?」
 自然とカールの口からその疑問が漏れた。もちろん、地上へ、だ。ヒュウガは先日、再会したときには苛立ったその言葉を、今は静かに受け止めることができた。
「この国にいて革命を望む……ということに固執するつもりはないですよ」
 そう言うと、カールは寂しそうに笑った。
「そうだな。……
 人間には、それぞれの価値観と意地がある。シグルドには大地への愛着があった。危ない目にあっていたのはシグルドの義弟で、それを見放すことは人非人の仕業だろう。先輩には、ビリーがいた。俺は、この国に居続けるからこそできることがあると、そう思っている。ゲリラやテロで戦うことは俺の性根とは合わないから、俺はこのくそったれの軍の中でどんどん昇進するつもりだ。それに、あの男を直に殺せる機会がある今の立場は、それだけで……俺は捨てられない。
 いつかもっと、あいつらとはおおっぴらに敵と味方に別れることになるだろうと思う。それまで俺やシグルドや先輩が生き残っていれば、実際に銃口をむけあって俺があいつを殺すかもしれないし、その逆だって有りだ。
 それは、いい加減承知だ。だからヒュウガ、俺のことを哀れだとか思うなよ。おまえはおまえの正義で動いてくれよ」
「それでも、カール」
 ヒュウガはカールを見た。
「私たちは友達ですよ。……そうでしょう。いつか夢が叶ったら、また昔みたいな時間が返って来ると思う。あと十年くらいあとには。
 それぐらい、信じて生きましょうよ。私たちの目指しているものは同じなのだから。死んだって、途中で斃れたって、未来では会えるはずです。私たちが望むものを捨てないで、戦い続けていくのなら」
「そうだな。……」
 一度、改革には失敗して辛酸を舐めた彼らだ。だが、そんな日が来ると信じられるほどにはまだ若かった。
 わけもなく信じられるこの希望。ジェサイアの発破はこの国に眠れる新しい時代を望むものたちだけにむけられたものではない、ヒュウガの、カールの胸の奥で休みを決めこんでいた炎にむけられたものでもあったのだ。
 いつでも銃口を上げることは出来る。
 その覚悟がこれから先、ずっとあるだろうということをヒュウガは確信していた。ためらうことはないだろう。相手がだれでも。照準の中に見えるのが、シグルドでも、あるいはカレルレンでも。
 ヒュウガは大地を見上げた。そして、拳をふりあげる。
「見てろ、ジェサイア!」





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カールが大人びていて、こんな考え方ができると言うならその後の悲劇はなにひとつなかったはずじゃあないかと思います。…… 失敗ー! 仕方ない、カールが大好きなんだもん。… (カールが歌っていた曲はボサノバです。スペイン語。シグルドの故郷の歌らしくチョイスしてみました)
旧エレネタはけっこうあって、ソラリスの政治的な物語に絡めて行くと、割と白いカレルレンを出すことになって、それがそこそこ、楽しいです。ずっと、カレルレンは青! で来たわけなのですが。不適に笑う正体不明の権力者というのも楽しい。カインとかももう少し出したほうがゼノギアスっぽいんでしょうけどー(笑)
BGMはAXS"AGAINST THE RULES -AA TRANCE-"で。あの曲のスピードを目指して、書きました

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