王宮の中庭に、池を造った。回廊に囲まれたその中庭は、閲兵できるほど広い場所だけれど、白茶けた地面には草も生えておらず、ずっと殺風景だったのだ。だれかが王に、それをなんとかしようと進言したのだか、ずっと昔から王の心に計画があったのだか、それとも気まぐれに思いついたのだか、どれともわからなかったが、そこに池が出来た。
そこはかつて、王が即位したときに盛大に焚書を行った場所だった。灰がうずたかく積もった中庭を、王はこの砂漠の王国の山の上まで水を引き、幻のような池にしたのだ。
池はいつも清水を注がれて、淀むことはなく、そこにいるとここが砂漠の真ん中にあると言うことを忘れそうになる。池には蓮が植えられた。淡い桃色の花が、時に花を開く。もともとこの土地の気候には合わない植物だから、花を咲かせる時期は狂っているが、年中いずれかの花が咲くので王宮の人々の目をいつも和ませることになった。
蓮は隣国、ニサンの聖堂近くにある池から運ばれたものだった。以前、修道女の一人が種を撒いたものが、今は手入れもないのに池の片隅に広がっているのだ。そのあたりの小道を抜ける度、王はその景色の絶妙さに息を呑んだのだという。だから、その花を移したのだという。
時々王は、回廊を抜けていく折に「飛びこんだら気持ちよさそうだと思わないか」と口にして傍にいる人間を返答に困らせた。確かに、水は清明だけれど、この町に住む人間は砂漠の乾燥に慣れているせいもあって、水浴びや雨を嫌う傾向がある。豊富な地下水脈を抱えて裕福な都だが、砂漠の民にとって水は貴重なものであることにかわりはない。全身に水を浴びることはこの町の習慣にはなく、そんな王の言葉になんと応えていいのやら、わからなくなるのだった。
もちろん、王が執務を投げ捨てて池に飛びこんだことはいまだかつて、ない。あと十歳若かったらしていたかもしれないね、と昔からの彼を知る人は口にする。それでも、といつも憂いた顔で付け足した。「彼も水に濡れるのは大嫌いだと聞いていた気がするけれど」
数年すると池にまつわる不思議な噂がたった。月の光がさしこむ真夜中に、水音に導かれて中庭に出ると、蓮の花の陰にさながら水の精霊かのように人影があるのだという。だが、池に近寄りあらためると、そこにはもうだれもいないのだ。その姿は人によって様々で、影しか見ない者もあれば、長い金色の髪の娘の姿を見た者あり、闇色の髪を梳りながら微笑んだのを見た者ありと、いろいろだった。
その噂を聞くと、王は笑ってこう言った。
「それは、あっちからニンフを連れてきてしまったのかもしれないな」
「怪しい噂になっていないからいいものの、女官の中には怯えている者もいるのですよ」
「なに、ひきずりこまれた者がいるでもなし、この王宮の守りの女神だと言っておけ。僕も会ってみたいくらいだよ」
王が言ったとおりの風聞も流れはしたが、みながそれを信じているかどうかは別の話だ。
ある夜、水音を聞いて噂を確かめようとした若い官吏がいた。彼が中庭に出ると、すでに先客が池のほとりにいた。彼は手を差し出す精霊に抱かれるようにして、身を乗り出して今にも池に沈みそうだった。ひきずりこまれようとする男の金髪が、そしてひきずりこもうとする精霊の黒髪が、月光に煌いていた。思わずその官吏は驚いて声を上げてしまい、すると精霊は水の中へと沈んでしまった。静かに水音が、中庭に谺した。
官吏は破裂しそうな心臓を抱え、池のほとりで立ち上がった男の傍に寄った。その金髪と立ち姿から、それが王であることに気づいていた。
「なにか触りはございませんか、」
慌てて彼が聞くと、王は静かに、と示した。
「みな寝静まっているよ、静かにしたまえ」
「ですが、いま噂のあやかしが」
「あやかし? なにを言うんだ」
「いまあなたもごらんになっていらしたではありませんか。あなたを水底へひきずりこもうとしたあやかしですよ」
「僕は、噂の女神がいるかと思って水を覗きこんでいただけだよ」
官吏は王の言葉にそれ以上、違うでしょうと迫るわけにもいかず、不気味そうに水面を見つめた。池は静かに、揺れている。蓮の花はみなつぼみで、そこには女神も精霊も見当たらなかった。
「君はそれを見たことがあるのかい」
王に尋ねられて、官吏は首を振った。
「そうか、」
王はそうつぶやいて一度は口を閉じたが、静かな水面を見つめてまた言葉を切り出した。
「噂されているものがなんだかは知らないが、ニサンで一度、似たようなものを見たことがある。あの時もこんな月夜だった。優しい風が吹いていたよ。よく、憶えてる。
この蓮の花のひろがるあたりでね、それは水から顔を出して僕に笑った。長い髪が重たそうに、水に濡れていた。僕は通りがかってそれを見て聞いたんだよ。いったいそこでなにをしているんだって。そうしたらそれはますます笑って答えるんだ。『おまえも入ってみればわかる』と。僕はあいにく、泳ぐのも水をかぶるのも、嫌いでね。遠慮したんだけど。結局はひきずりこまれたんだ。嫌いだって、言ったのにね。……わからなかったよ、僕には」
官吏はそれを聞きながら、本当に王が見たものは精霊だったのかと疑ってしまったが、王が言う以上はそうなのだろう。官吏には詮索するほどの情報はなく、精霊の姿を想像することも出来なかった。
その精霊がここにもいるかと、王はこの池のほとりにやって来たというのだろうか。
さっき見たものは、本当に彼を誘う精霊ではなかったのだろうか。
官吏がいま一度、水面に目をうつすと、そこにかすかな漣がたっていた。まるで月光がたてた漣のようだ。もはや、精霊も女神も姿を見せない。ただ、漣だけが、彼らの足元に打ち寄せていた。
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