あたりはま白い砂に囲まれて、乾いた岩が砕けてゆく。
「オアシス?」
カレルレンは少しばかり怪訝そうに、眉根を歪めて尋きかえした。ロニは汗と砂まみれの金髪を掻きあげ、ああ、とつぶやく。その視線は西のほうを見つめていた。西の空には、遠ざかってゆく一羽の鳥影らしきものが見えるばかりだ。
「あれは、ショウキバトだ。オアシス伝いに飛んでゆくから、あの鳥の飛路を辿ればどこかにオアシスがある」
「……それは、歩いて行けるような距離にあるのか?」
「それはなんとも言えないね。ショウキバトは一日に数回は翼を休めるから、正確な方角を測れば今日のうちには着けるんじゃないかと思うけど」
カレルレンは、無言で完全に機能を止めたバギーから飛び降りた。バギーの燃料は十分すぎるほど残っていたが、整備不良だったらしい。砂漠の真ん中で、ロニとカレルレンは十分な水もなく立ち往生していた。
灼熱の太陽が降り注ぎ、このままでは干からびること間違いなしだ。
「行くぞ、迷ってる暇はない」
「そうだね。願わくば、僕らの渇きを救ってくれるくらいのオアシスだといいんだけど」
ロニもため息をついて立ち上がった。
まあ、願わくばという以上なのだが。ある程度水が出ないのなら、本当にこのまま干からびて死ぬことになる。
足元の砂面は残酷なほど乾いて、軍靴になじむことすらなく空に舞っている。
最低限の武器と水だけを身につけると、荷物に入れていた布で頭を覆った。そして既に屍骸となったバギーを後に、二人は道もなく、影もない砂海原へと歩き出す。
やがて汗すら出なくなる。それでも、歩き続けなければならなかった。
ショウキバトが飛んできた方角へと歩き出した二人は、眼に入ってくる汗をまばたきで払い落とし、寡黙になって進んだ。喋るとそれだけ体液が失われるし、頭部を布で覆っているとはいえ、口中に飛びこむ砂の感触はいかんともしがたい。
足音と風の鳴る音だけが耳に聞こえる。ざくざくと砂を踏みしめる音はいつまでも途切れない……自分たちの足音なので当たり前だが、いささか耳障りだった。
カレルレンは目を細め、涯ての見えない砂漠を見る。白く強い陽光が満遍なく降り注ぐ死の世界。眩暈が起きそうだ。
どれくらい歩いただろうか、少しずつ潅木が増えはじめた。水脈が近いだろうことはわかる。問題はその量と、そしていま地上に流れているかどうかなのだが。
砂漠の水は、流れる場所を常に変える。つまり、辿り着くところに、いま水が流れているかは神のみぞ知る、なのだ。それゆえにふたりは足を進めながらもこのまま干からびることを頭の片隅から消せなかった。
――けれど、視界の先にはっきりとオアシスが見えてきた。
高い木は常にある程度水量がなければ育たない。数本ではなくいくらか稠密した木々の枝振りがうっすらと、乾燥して歪む大気のむこうに見える。
「……蜃気楼」
ロニが不意にそうつぶやいた。
「あれは、蜃気楼かもしれないよ」
「だとすると、どのくらい先の幻影だ、あれは?」
「数十キロ先だね」
「そこまで歩けない。あれが幻じゃないよう祈っていろ」
それから二人はまた、無言でざくざくと足を鳴らしながら歩いていった。
有難いことに幻は遠ざかり続けることはなく、小一時間したあとに二人は潅木に寄り添うように半ば崩れた石門を前に立っていた。斜めに傾ぎつつ枝を伸ばす橄欖の樹が影を落としている。植物相(フローラ)からして、充分な水があることは確かだ。
「……廃墟か」
カレルレンが呟くと、ロニはいささか難しそうな顔で肩をすくめる。
「人がいるかもしれないな」
「ああ。……まあ、ここまで無事にたどり着けたということは会って困るやつらではなさそうだな?」
もしもここが野盗の基地になっているなら、この門に辿り着く前になにか起きているはずだ。なにも起きていないということは、そうではないのだ。だから、仮にだれかと顔を合わせても困ったことにはならないだろう。水がだれかの占有しているものだとしたら対価を払って得れば済む話だし、……にもかかわらず、カレルレンもロニともそこはかとなく不安を覚えていた。
この門のむこうに人の気配はないのだけれど、これだけ豊かなオアシスが放置されているのも奇妙だ。
崩れかけた石門の紋様に目を落とすと、幾何学模様に文字らしきものが刻んである。あいにくながらカレルレンの知る文字ではなかった。ロニを見て、心当たりはあるかと問う。砂漠の民の言語は複数ある。多くの民族が勃興しては砂に埋もれていったのがこのイグニスの歴史だ。ロニは商売柄、かなり多くの言語に精通している。この手のものは、ロニのほうが知っているはずだった。
ロニは門扉など見ていなかった様子で、カレルレンが指差した紋様を驚いたように見た。
「文字は見たことがあるよ。ううんと……どうかな、……至れ、……これはなんだかよくわからない。……喜びて、至れ、……住まいが……ううん」
「オアシスの門扉には別段珍しくもない献辞か」
「そうだな。気にすることはないだろ。
さて、行くか。……渇きを癒さないことにはな」
「……そうだな」
気は進まなかったが、二人は門扉をくぐりオアシスの中へと進んでいった。
砕けた石畳を進み、緑に侵食された壁を潜り抜けて泉まで辿り着く。自然に湧き出ている源というだけではないようだ。音を立てて入ってきた人間に反応して、鳥たちが一斉に羽音を高く飛び立った。
やはり崩れかけた石の噴水からは、贅沢に水が溢れ出している。
石の廃園にあふれる豊かな水。砂漠の真ん中であることを忘れてしまいそうだった。
「ロニ、これくらいの場所、おまえなら心当たりがあるんじゃないのか?」
「あいにくながら、初めて来た。こんなところ、話に聞いたこともない」
「さっきの門扉から思っていたが、あれも、この噴水も、このあたりの建物も石を切り出したものが組み合わされてる。見たようでは花崗岩らしいが、このあたりでは花崗岩は出ないはずだな? 古さから見れば三百年くらいは経っているんだろうが……本当に知らないのか?」
「ああ。残念ながらね。奇妙なのは僕だって感じてる」
ロニはとりあえずとため息をついた。
「喉の渇きを癒そう。これだけあるから、いくら飲んでも平気そうだ」
「水は平気なのか?」
「鳥が飲んでた。平気だよ」
泉からこぼれてくる水は、澄み切っていて汚れてはいないようだった。口に含むと、痛いほど清冽な味がした。それは味ではないだろう。地下からにじみ出てきた冷たさが、乾いてつばも出なくなり、そのために砂で傷ついた口中に染みるのだ。
味はまずまずだ。
噴水のあたりは昔は庭園だったのだろうか、それとも勝手に植物が繁茂してしまったのかはよくわからない。鳥が鳴く声がオアシスに響き、泉から顔を上げると女神の立像と視線が合った。アルカイックな容貌に流れる髪、裸身で複数の乳房を持っている。手には矢となにかの果樹。この園の守護者なのか彼女のために作られた園なのかは知らないが、威圧感がある。ここはこの名も知らぬ女神の領域なのだとわかった。
ロニは手にした水筒に水を汲んでいる。
「さてと……今の渇きが癒えたのはいいけれど、これから僕らはどうすればいいのかな?」
「位置の特定もできないか」
「大体のめぼしはついているんだけれどね。夜になって星が見えれば方角がわかるよ。まあ、ここはありがたいことに果樹もあるようだし、しばらくは凌げる」
「そうだな。それまでは休もう」
嘆息しながら、カレルレンも水筒に汲んだ水を喉に通した。
噴水のあたりは、緑が繁茂しているといっても陽が当たる。長い時間、いたい場所ではなかった。それに、あの女神の立像がいささか気持ち悪い。少し進むと大きな木もあり、屋根のある東屋さえあった。半ば崩れかけてはいるが、まだその役には立ちそうだった。
「しかし、奇妙な場所だな」
カレルレンが言うと、ロニも頷いた。
「うん。四囲は囲まれてる。ここは完全に壁の中だ。かといって要塞のようでもないし、街でもない。あの建物、住居の役には立たない気がするよね」
「庭だけあるみたいだ」
水を含みながら、カレルレンは木のもとに腰を下ろした。かすかな風が、影に包まれた木の下を涼しくしている。ロニもその隣に座った。
ロニは厳重な軍靴を脱ぎ、伸びをしている。一眠りするつもりなのだろう。
ロニが傍らで目を閉じる。いくばくかのあとにもう寝息が聞こえた。
確かに気分がいい。緑に覆われた園は、楽園に似ていた。
しばらくしてから、長くはない午睡からロニが目覚める。そしてぼんやりとした瞳で、「夢を見た」と言った。
「呑気だな」
「それでいろいろ思い出したよ」
「なにをだ?」
「ここさ。あの門扉にあった歌のことも思い出したんだ。
旅人は喜びの場所、幸いの緑へと至る。
そこは至福の女神の住まいである。
そこで大気は光に満ちて野を覆い、
旅人はここだけの太陽、ここだけの星を見る。
――ここは、ロークス・アモエヌスだよ」
「ロークス・アモエヌス?」
「そう。『喜びの地』……ってところ。街ではなくてね、さまざまな部族の共通の社交場みたいなものだよ。少し特殊だけど。簡単に言えば恋人たちの出会いの場かな。ずいぶん昔の風習だけど、ここで結婚相手を見つけるのが部族の習わしだったんだ。まだ、残ってるんだな」
「どんな夢を見てそんなことを思い出すんだ」
「まあ、それは」
ロニはにやりと笑う。その顔はなんともいえない企みを含んでいた。カレルレンは呆れたようにため息をつく。すると、ロニは腕を伸ばしてきた。
「……おい、なんのつもりだ」
「せっかくだから、しきたりに従おう」
唇を重ねた。庭の泉で潤った唇は湿度が高かった。ため息がこぼれる。
「体力が保たない」
「しばらくここで休んでいけばいい。至福の女神が見守ってる」
ロニは緑の草木のむこうに頭部だけ見える女神像を振り返る。繁茂した緑の中に、濃密な吐息をつきながら立ち続ける至福の女神。
ロニの胸で碧玉の片割れが揺れている。手を触れ合わせて口付け、緑の中に倒れこんだ。折り重なった樹木の葉の木漏れ陽が見え、それはさながら満天の星空のようだった。
――ここだけの太陽、ここだけの星を見る、か……
深い緑の褥で、二人はただ、息を重ねた。
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こういうものは絶対にヘヴンでは書き得ないから。ロニカレは私にとってやっぱり永遠。
和辻哲郎の『風土論』を読んでいて、ロニ・ファティマという人間の造形を、あるいはその対称としてのカレルレンという人間の造形を、考えます。和辻にとって人間性を決定する大きな要因は「風土」……なわけですが。
これにぶちこもうと思っていたネタが入らなかったので少し落胆。また書くからいいです。(040707)
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