――死にたくない
――死にたくない
――死にたくない
痛む場所はひとつもなかった。ただ冷たい。おおきな氷塊が腹部にのしかかって来ているようだった。どうして、どうして、とソフィアは混乱しながらどんどんと重たくなって来る冷たさに愕然としていた。指先は凍りついたように動かず、腰から下などはるか遠くに行ってしまったようだ。やがてがちがちと歯が鳴り出し、白く霞んだ視界の端にさえなにもうつらない。
どうしてだれもいないのか、わからない。いつだってだれかが傍にいたはずだ。ニサンではジークリンデが。戦地ではカレルレンが。二人とも見えない。どこかに行ってしまったのだろうか? けれどジークリンデとカレルレンに彼女自身を置いて行く場所などあるはずがない。二人の帰る場所を奪ったのはソフィア自身だ。ソフィアにも帰る場所は存在しない。ソフィアはニサンの教母だったが、聖地ニサンもある種の戦場で、三人はそこで戦い続けて来たのだった。
そのとき、どんとおおきな音が聞こえた。どこかで爆発があったのだった。横たわったままソフィアは揺さぶられた。悲鳴を上げようにも声は出せず、動揺をこらえようにも身体が動かない。どうなったのかはわからないが彼女は
再び壁か床かに叩きつけられた。
胸の奥からこみあげるものがあり、苦しさに堪えかねてソフィアはそれを吐き出した。ぬるい血が胸に広がり、口中の錆びた味からソフィアは自分が血を吐いたことに気がついた。寒さは続き、歯の根はあわない。身体が痙攣を起こし始めていた。ソフィアは自分が死のうとしているのだと気がついた。
瀕死の傷病者たちを見舞いに野戦病院を何度も訪れたが、そこでソフィアは、こんな風に歯を鳴らし、身体をひきつらせ、寒い寒いと言う兵士たちを看取って来た。それこそ無数に死を見て来た。――はじめて彼女の足元で死んだ人間は、幼いソフィアの足元で臓物を撒き散らし、苦しみ悶えて奇妙な格好になって死んだ。ソフィアはこの瞬間まであの男が死んだとは思っていなかったのだが、それが彼女にとってはじめての死だとようやく認識した。見ず知らずの男はソフィアを殺すためにやって来て、苦悶して死んだ。どう見ても死んでいるはずの男の姿を、死んだと認識できなかったのはソフィアが幼かったせいではなかった。死を理解できていなかったわけではない。認めたくなかっただけだ。あの男を殺したのが彼女だという事実から、眼を背けただけだった。
呼吸が上がり、肺が痛いほど酸素を求めている。もうあと少しも持たない、というのが、無数の死を見て来たソフィアにはわかっていた。もうすぐ彼女の心臓は止まる。ソフィアの足元でのたうちまわった男が不意に動かなくなったみたいに、目を見開いて、凍りつく。すべてが冷たくなって、暗闇が訪れる。
怖くて仕方がなかった。そこにはだれもいなかった。ジークリンデもカレルレンも、ラカンもいなかった。だれもいない。そこにはソフィアがただひとり、死の前に横たわっていた。
――どうしてだれもいないの
――どうしてわたしはひとりなの
――どうしてわたしは死ぬの
ソフィアは強運の持ち主だった。いままで何度も命を狙われたし、前線に立って戦うことすらあった。彼女は抵抗勢力の要なのだから守られて来たものの、おおきな怪我も、命を危ういと感じたこともなかった。こんな恐怖を味わったことは一度もない。
いまと同じくらい死に近づいたのはやはりむかしむかしのことで、高熱が出て息が出来ないほど咳きこみ、眠ることも出来ずに寝台で喘いでいたときのことだった。けれど恐怖は感じなかった。窓辺にはひとつの闇があって、それは眼もないのに彼女を見つめているように見えた。もっとも実際、それは眼を持っていたのだが。咳で苦しむソフィアの傍に暗闇が近寄り、彼女は身を起こした。闇は足を止めた。その闇が遠い場所へ連れて行ってくれるのだとソフィアにはわかった。ソフィアはなにもかもが好きではなかった。弱々しい身体も、彼女をとりまく大人たちも、趣味の悪い部屋の調度も、なにもかもが好きではなかった。ミニマリズムに侵食された修道院はどこもかしこも真っ白で平たく、清潔ではあったが美しいと感じなかった。ときどき、とてもきれいなものを届けてくれる友達がいた。鮮やかな花や、苦味のある木の実や、ぴかぴかと輝く石や、古い陶器のかけらや、きれいな羽の小鳥、いろんなものを。ソフィアが好きだったのは友達が持って来てくれるきれいなものだけだった。それをくれる手だけが、触れたい手だった。その上、友達は大人たちに見つかると鞭で打たれるのでこっそりと来るしかなく、ほとんどソフィアの傍にいてくれなかった。友達が持って来たきれいなものは見つかれば持って行かれてしまって、ソフィアの手には残らなかった。そんな世界をソフィアは必要としなかった。ソフィアはこの世界に繋がれた囚人でしかなかった。柔らかく折れやすいからだに閉じこめられ、白い壁の部屋に閉じこめられ、青い蓋で世界に閉じこめられていた。太陽の光も樹々の緑もわずらわしい。息をするのさえ嫌だった。だから闇が滑るように近づいたとき、ソフィアは神に感謝した。
――わたしの願いを適えてくださってありがとう。毎日お祈りをしていて本当によかった。わたしは真っ暗な闇の中に消えてしまいたいの。そのために闇を遣わしてくださったのでしょう。神様、ありがとう。
すっと息苦しさが消えて、あれほど喉が痛かったのにもう感じなかった。きっと闇が彼女のからだに徐々に染み渡ってきているに違いなかった。ソフィアは祈るように両手を組み合わせ、闇を見つめた。
「ありがとう」
息がだんだんと出来なくなっているのを感じながら、ソフィアはあの頃を思い出していた。かつて彼女は解放されたがっていた。それを適えてくれるのは死しかないと信じていた。けれど本当はいつだって生き延びたかった。自分を殺しに来た暗殺者たちを異能の力で殺して来たのは生きたかったからだ。最後に訪れた闇の男を殺さなかったのは、彼が人でなくて闇だったからだろう。そして彼はソフィアを殺しに来たのではなくて、遠くに連れ出すために来たのだった。
遠くに。
ソフィアはいまひとりだった。カレルレンはいない。どうしていないのだろうとわけもわからずに考えていると、涙が出た。
――どうしてだれもいないの
――いやだ死にたくない
――死にたくない
ソフィアは自分がとった行動を思い出せずにいた。ソラリス側が戦線に投入したメルカバーなる巨大な戦艦を潰すため、ソフィアは乗組員のすべてを旗艦エクスカリバーから降ろして、たったひとりメルカバーへと突入したのだった。最初の爆発は艦の前方で起こった。艦橋のソフィアは投げ出され、機械にからだを打ちつけていた。まだ爆発はすべてに及んでいないが、もはや脱出は不可能だった。ソフィア自身にその力は残っておらず、救出されても半日ともつまい。彼女は混乱し、傍にいるべき人たちが見えないことに泣いていた。
――死にたくない
――どうしてわたしが死ななければならないの
――たすけてだれか、たすけて
冷たい胸の奥をソフィアは探った。かつて幼かった夜、闇が隣にあったときにソフィアは自分の胸の奥にあかあかと灯る神の炎を見た。それは焼き尽くすようなおおきな炎ではなく、細い蝋燭のゆらめく愛おしい炎だった。炎は死ではなくて生であり、彼女の願いを適えてくれた神の影だった。いま、胸の中はがらんどうのようになにも存在しなかった。ただ死にたくないというソフィアの叫びだけが、応じる者もない胸の空虚に谺していた。
――死にたくない
――生きて
――死にたくない
その中にふと彼女自身の声が空耳のように響いた。ついさっき、メルカバーへ突入する直前にソフィア自身が放った言葉だった。大切な男にむかって叫んだ魂の底からの祈りであり、聞いた当人にとっては呪いでしかなかった。生きて、ラカン。その言葉はソフィアを死なせ、ラカンを生かす。ソフィアは目を見開き、ぶるぶると身を痙攣させた。
「嫌よ死にたくない」
――生きて!
「わたしは死にたくない」
ソフィアは死にたくなかった。メルカバーを撃墜することでこの戦いは終わる。勝利ではないが、敗北ではない。これ以上は死なないし、全滅することもない。ラカンが死ぬことはないはずだった。だからといってエクスカリバーに乗るのがソフィアでなければならない理由があっただろうか。ソフィアにはわからなかった。よりによって死ななければならないのが自分だとは、思わない。生き延びるつもりだった。どんな地獄の底に突き落とされても、カレルレンとジークリンデがいる限り死ぬつもりなどなかった。
――生きて、ラカン
――どうしてわたしなの
――ラカン!
もはや混濁した意識の中でソフィアはそれがだれの名前なのかもわからなくなりつつあった。ただラカンを生き延びさせなければならない。そのためだったら、ソフィアの命などいくらでも投げ出して構わないのだった。
――いや、死にたくない
――どうしてだれもいないの
――死にたくないのよ!
もはや助け手はなかった。ソフィアの持つ異能も、既に死の崖に転がり落ちている命を引き止めることは出来なかった。ソフィアは落下し続けた。少しも暖かくない、わずかな光も見えない死の淵の奥底へと。衝突した二機の巨大戦艦も炎を上げて墜落しており、艦橋に火の手が回り始めていた。ソフィアはそれを感じなかったが、彼女の息は、完全に燃え上がるまで堪えきれないだろう。
ラカンは死なない。けれどソフィアの魂はわずかも安息を感じなかった。生き延びたかったのは彼女だったからだ。最後の一瞬、ソフィアはひとりの女の姿を見た。自分のように感じたが、見ているのだから彼女自身ではありえなかった。彼女はまるでソフィアの死を喜んでいるかのように美しい笑顔で笑っていた。彼女は手を組みこう祈っていた。
――あなたさえ生きていればわたしはそれでいいの、アベル、わたしのアベル
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このあいだY氏と遊んだときに、こんな話をしていました(※深夜なので保証しません) 語るのがうまくないのでなんでも話にするわたし。500年前とはいえわたしがさっぱり考えていないエリアがあって、そういうところは意識してY氏の設定を真似している……テンポウ・ケンレンとか、ペヌエル修道院とか(つまりゲーム中に出てこないニサン側の設定あたり、かな)やっぱりソフィアは対存在として特異な存在だと思います。ゼノギアスって強烈なミソギニー原理の物語なので、フェミニストとしてはソフィアの人間としての側面が見たい……わけよね。(070612)
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