この思い出のために
 少年が走り去ったあとの暗い廊下を、シグルドは胸を締めつける痛みを抱いて、見凝めていた。たいまつが所々に燃えるだけのこの王宮の回廊は、昔見たおぼえがある蒼闇に包まれている……苦しいほど、この夜の闇は変わっていなかった。何年も昔、彼がこの宮殿で王に仕えていたあの頃と。
 シグルドはぎゅっと自分の拳を握り締める。
 ――あの子は、どんな気持ちで言ったんだろう。
 どんな気持ちで気付き、ずっと悩み、そして今言ったのだろう。
 シグルドはあえてバルトのことを思った。そうでないと、昔のことばかり思い出しそうだ……優しかった先王、エドバルト。バルトの父親で、シグルドの父親でもあった彼だ。
 この闇の中を、シグルドは昔、よく歩いていた。バルトが寝ついたことを知らせるためにだったり、寝所から抜け出したバルトを探してだったり……色々だが、彼はこの闇の中をよく、巡り歩いた。
 昼間歩いたことももちろんある。やはり昼間の方が、頻度としては多かったはずだが、それでも夜闇のこの回廊の印象は強く強く、彼の心に残っている。
 今日は月はなく、照らすのはたいまつだけだ。けれど月に照らされると、この中庭の景色は冴え冴えと石の柱を輝かせて夢のように美しいのだ。
 エドバルトを弑殺したシャーカーンを倒し、その光景はまた、見られることになった。……今、あの人はここにいないのだけれど。
「……シグ?」
 その回廊に、ふいに人影があらわれた。はじめ灯りに照らされてぼんやりとしか姿が見えず、シグルドはどきりとする。夜着姿のマルーだった。
「マルー様」
「どうしたの?」
「起きておられたんですか?」
「だれか走っていったんでビックリしたの。……今の、若?」
「……ええ」
 そう言われてまた、バルトのことを少し忘れて昔のことばかり思っていた自分に気付く。彼がエドバルトの遺言を伝えてくれたには、相当の決意が必要だったはずだ。なのに、のんびりと思い出しているだけなんて。
 でも、あの背中をどうやって追いかけたらいいのだろう。明日、朝ただ普通に挨拶をするのがシグルドの思いつける精一杯だった。
「……シグ?」
 また、ぼんやりとしていたのかマルーに名前を呼ばれた。シグルドは、見上げてくる少女の、まっすぐな視線を受け止めきれずに眼を泳がした。
「シグ、若となんか喧嘩したの?」
「そういうわけじゃありませんが……ただ」
「ただ?」
 シグルドはくちごもり、なんと言うべきか考えた。
「……なんて言ってさしあげればいいのか、少しわからなくて。もしかすると、あの人は私のことをすごおく、嫌いになってしまったような気がするんです。なんて言えばいいのか」
「まさか、若がシグのこと嫌いになるはずもないよ」
「でも、実はずっと、ずっと若に黙っていたことがあるんです。それがわかって、でもなんて言えばいいのか……」
「心配なの?」
「そうです」
「……ボクにはこんなふうに言えるのに?」
 シグルドはまた少し、考えた。
 バルトと同じ目の色をした彼女に言えるのは、どうしてなのだろう。
 ――それは若が、俺をまっすぐに見なかったからだ。
 だからなにも、言えなくなってしまった。かけてあげたい言葉は山ほどあるというのに、かけてあげなければいけない言葉は山ほどあるというのに。
 なにも言わずに済まそうとするのは、大人の習慣だ。
「言ったほうが、いいでしょうか」
「当たり前だよ、シグ。大丈夫」
 事の次第など知らないはずなのに、でも彼女は笑って、シグルドの背を押した。
「……じゃあ、会いに行ってみることにします」
 まずはマルーを部屋まで送り、そのあとでシグルドはバルトを探しに足を進めた。
「大丈夫だよ、シグ」
 マルーは扉を閉めるとき、もう一度そう言った。
 たいまつが赤々と燃えている。
 ――そう、こうやって昔も歩いたものだ。
 そして彼は、自然と、かつてバルトを探した場所に足を運んだ。
 そこはむかし物置部屋で、いろいろなものがごたごたとほうりこまれている、未整理のガラクタ小屋で、王子はそこを好んでいた。バルトが入りこむようになる前は、刃物とか危ないものも置いてあったのだけれどさすがにそれは別のところに移された。移してしまったもののいくつかが、バルトのお気に入りだったらしく、ずいぶんと駄々をこねていたものだ。
 それでも彼は、埃っぽいその部屋が大好きで、よく遊んでいた。
 今は、部屋はがらんとしている。
 バルトはそこにいた。暗くなってしまうせいだろう、扉は開け放ったままだった。
 がらんとした部屋に、一組の机と椅子が残されている。机の上にランプがのっていて、他にはなにもない。窓は部屋の上の方に、ひとつが小さくあるだけだ。
 バルトはその机に腰かけていた。
「若、こちらでしたか」
「……シグ。
 なあシグ、ここって、どういう部屋に使われてたんだ?」
 シグルドは部屋に入ると、ランプに火を灯した。なにもない部屋が、ぼうっと照らし出される。壁に、二人の影が浮かび上がった。
 目でその影を追うと、壁の中ほどに小さな穴が開いているのがわかる。薄く長い穴で、紙切れ一枚が通るので精一杯だろう。
 昔はなかったはずだ。
「この部屋の裏はシャーカーンの執務室になっていました。話では、密告するものがこの部屋に来て、ここで、この机で密告する中身を紙にしたためたのだそうです。そして、あそこにある穴から、奴に渡したのでしょう」
「ふうん……だから、なにもないのか。昔は一杯つまってただろ」
「そうですね」
 二人はしばらく、その穴を見凝めていた。ガラクタでいっぱいだったこの部屋、そしてがらんとして、穴の開いたこの部屋。……同じ部屋なのに、あのガラクタたちはどこへ行ったのだろう。バルトがお気に入りだった宝箱があったはずだ。バルトはそのとき一番大切なものを、その小さな箱に入れておくことに決めていた。
 シグルドが最後に憶えているバルトの宝物は、この部屋の中で見つけた、ごてごてと装飾のついた剣の柄だ。刃はとうになくなっていた。
 たぶん、シグルドがいなくなってからそれはまた変わっただろう。いくつもいくつも。
「それでシグ、なんの用だよ?」
 しばらくして、バルトがそう尋いた。シグルドは、またも昔のことを追い出してばかりいる自分にまた気付き、大きくため息をついた。
「……なんだよ」
「あ、今のは、俺もしょうがないな、というため息」
「……なんだよ、それってどういう意味」
「若、ありがとうございました」
「いいよ、気にするなよ。当然…だろ」
「当然と言ってしまえるのは凄いことですよ」
「そう、かな」
 バルトは照れた顔でシグルドを見上げた。その眼はシグルドの目を見凝めてはいなかったけれど、気まずそうにシグルドの首のあたりをウロウロしていた。
 本当はさっき、バルトが逃げ出すかのように背をむけて走っていったとき、彼が泣いているのではないかと思ってしまった。
 なにに泣くのかわからなかったけれど、泣いてしまうような気がした。
「昔この部屋に、俺の宝箱があったの、憶えてる?」
「憶えてますよ」
「どこ行っちゃったのかな、残ってたらいいなって思ったんだけど」
「さあ、そこまではさすがに。
 なにが入ってたんですか?」
 バルトは答えず、またシグルドから目をそらすとつぶやいた。
「なんとなく気付いてから、ずっと思ってたんだ。シグは、オヤジから俺を守れって言われてたんだろ。だから、シグはオヤジの代わりにずっと俺を守って来てくれたんだなあ、って。アニキだから、オヤジの代わりに俺を守ってくれたんだなあって。
 でも、違うよな。
 シグはシグだよ。
 それを、確かめに来たんだ。あの宝箱、残ってたら良かったのに。……まあ、そんなはずねえか。とっくに捨てられてるよな」
 はにかんで笑い、バルトの目は床をうつろう。
 シグルドはもう一度、なにが入っていたのか聞いた。
 少年は誤魔化すように笑ったけれど、こう言った。
「……折り紙」
「なんです、それ?」
「憶えてねえ? シグが教えてくれたんじゃないか。ノルンの遊びだって。……シグが、俺に最後に作ってくれた奴だったんだぜ。もうなんの形をしてたか憶えてないけどさ。……」
 あいかわらず目線はうつむきかげんで、でもバルトはやはりとてもまっすぐだった。それはその言葉が、とても強く示していた。
 どんな視線よりも雄弁に。
 シグルドは微笑み、こう口を開いた。
「また教えましょうか、折り方」
「……暇になったらな、頼むよ。また宝物にするから」
 シグルドはうなずいて、ランプを消した。バルトをうながして、彼らは部屋を出た。城は、闇に沈みとても静かだった。





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別に話の雰囲気自体は嫌いじゃないがノルンの伝統工芸おりがみなんていうネタ、死んだほうがいい思い付きだよね。(040210)

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