勲(いさおし)
 戦闘のあった場所へ戻るなど莫迦げた行為だった。ましてや、負け戦だ。相手の目的はソフィアの身柄を拘束することであったし、せっかく逃れた場所から戻ることは、ともあれ大きな危険を伴う。部下たちの死を確かめるために、カレルレンは戻らなければいけなかった。だがソフィアを連れて行くわけにはいかない。あまりにも、危険が過ぎた。
 しかし、いくらカレルレンが説いてもソフィアは納得しなかった。戻ると言って聞かない。危険だと言えば、「わたし一人を守ることは、あなたになら出来る」とはねのけられ、目を逸らすような惨状が広がっているはずだと言えば、臆した様子もなく「そんなものは見慣れているの」と否定された。彼女は頑として決めたことを覆さない。
 仕方なしにカレルレンは少女を連れてその場所に戻った。
 町の郊外の、やや道から外れた場所には、すでに鷹が獲物を貪りに舞い降りて来ている。さすがに明るいからか、獣の姿はない。ソフィアは血が広がる砂地に一歩二歩と足を進め、それから、不意に駆け出した。カレルレンは慌てて追うようなことはしない。彼女は目の届くところにいるのだし、好きなようにさせたほうがよいのだろう。
 ソフィアが死者たちの中を歩き回る間に、カレルレンも部下たちの死を確認した。これまで、クセル帝の元でカレルレンが組織した傭兵たちを中心にソフィアの護衛を組んでいたのだが、ようやくソフィアのために集った兵士たちで組織することが出来るようになったばかりだった。
 この日、ソフィアの警護をしていたのは、カレルレンの行動に従った者たちではなく、ソフィアのために命を捧げる兵士たちだった。
 それがまたも一からのやり直しだ。カレルレンがその場に留まれば、このうちの何人かは生き延びたかもしれない。だがカレルレンは、ソフィアを無傷で遁すことを選んだ。その判断は間違っていたかもしれない。それはカレルレン自身も認識していた。けれど、カレルレンがソフィアを逃したのは彼女の身を守るためではなく、彼女が恐ろしかったからだった。
 ソフィアの精神はいまだ不安定だ。ペヨトル修道院から連れ出したときほどではないものの、正常な心のありようではないだろう。頻度は減りつつあるが、時に激発し、彼女自身も気づかないうちに異能が周りの人々を傷つけることがあった。もしソフィアを残していた場合、そうなったかもしれない。カレルレンの身も危ういが、それよりも、ソフィアのその不安定さを部下たちに見せたくなかった。ニムロドの追っ手に知られるのもまずい。
 ソフィアがこのまま成長を遂げて、どう変わって行くのかはわからない。彼女の心のひずみが治るものかは疑わしいだろう。ただ、カレルレンはソフィアの常のふるまいと、彼女があんなふうになってしまったのは境遇のせいだと訴えるジークリンデの言葉を信じたようとしていた。
 ソフィアは不幸な生い立ちのせいで精神の安定を欠いているのであって、決してこのまま暴虐な異能者になることはないと、そう。
 しかしそれは、他人には通じない。ソフィアが異能の力を存分に振るうところを見てしまえば、だれもがソフィアを恐れ、かつての修道院であったように、彼女を閉じこめようとするだろう。
 カレルレンがソフィアにつきそうのは、彼女が自分の翼で飛べるようになるためだった。異端者でもなく、傀儡でもなく、一羽の美しい鳥として、ただ彼女があるがままに飛ぶようになることだ。ソフィアは少しずつ成長している。顔立ちは美しいがどこかうつろなお人形から、生々しい肉体と感情を備えた、少女という命へと。やがては少女から血を流す肉体を持った娘に変わってゆくだろう。……ソフィアを連れ出したのは決して憐れみからではなかった。この胸に巣食う義務感がどこら来るのか知らない。だがカレルレンもまた似たような生い立ちを持つ者として、ソフィアが健常な魂として長ずることになにかの望みを託しているに違いなかった。
「冷たい、冷たい、まるで氷のようだわ!」
 ソフィアの叫び声が聞こえた。見れば、少女は服を真っ赤に汚して、細い腕に抱けるだけの亡骸をかき集めていた。涙は流し方を忘れてしまったのだろう、ただ眼を赤く血走らせて、ソフィアは慟哭していた。それは人間の嘆き方ではなく、野獣の嘆きだった。
 カレルレンが静かに傍らに立つと、彼女は牙をむき出す獣のように、口を開いた。
「私のせいなのね」
「そうじゃない」
「私のために死んだのよ」
「そうじゃないんだ」
「だって私を護ったんでしょう。だから死んだんでしょう。だれ一人生きてないわ。みんな死んでしまった。私が殺したのよ!」
「違う」
 いくら否定しようと、ソフィアは納得しなかった。彼女が髪を大きく振ると風が生じ、僅かにカレルレンの肌を裂いた。ゆらりと陽炎が立ち上る。
「ソフィア!」
「私が殺したのよ」
 カレルレンはエーテルの濃密なひずみに屈せず、ソフィアの肩を掴んだ。ソフィアのはしばみ色の瞳には、悲しみよりも絶望の深い闇が見える。ソフィアだけに刻まれた逃れようのない原罪に抱きこまれているのだとでも言うように、彼女の暗がりは深く、とても空を飛べる白さを保てない。
 カレルレンもジークリンデも、ソフィアの魂が生まれたときに持っていた純白さをなんとしてでも取り戻すのだと躍起になっていたが、それは本当にかつてあったものなのか、はじめから黒いものをどうにかして白い染めようとしているだけなのではないかという疑念さえ浮かぶ。
 カレルレンは、彼の息を止めようとする圧力に耐えた。
「違う。彼らは君が死ねと言ったからといっても死なないだろう。彼らは戦って死んだんだ、ソフィア! 君を守るためだが、戦って死んだのだ。彼らの魂は勲の中にこそあれ、悲嘆の中にあるんじゃない!
 ただ純粋に君のために死ねる人間がいるというのか。君が死ねと言うだけで死ぬ人間が。確かめたければ私に言え。ジークリンデに言え! 君が望むのであれば私も彼女も君のためだけに死ぬだろう。触れ、それがこの心臓だ!」
 亡骸を抱く彼女の手をカレルレンの心臓の上に置くと、ソフィアは呆然とカレルレンの闇色の眼を見あげた。カレルレンはソフィアの手を強く握り、なおも言い募った。
「だからこそ君の命を護るために全てを犠牲にする。自分の命を捨てられるのに、なんで他人の命を捨てられないと思う? この世にあるだれかより先に死なせることなどさせやしない」
 やがて少女はか細く頷いた。
 それからソフィアはカレルレンの肩に頭を預けて、泣いた。
「ごめんなさい。もうこんなこと言わない。戻るなんて言わない。ごめんなさい」
 カレルレンはソフィアの身に近寄るすべての死を呑みこまねばならなかった。それが辛いとは思わない。カレルレンは今までも無数の死と血を飲み下してきたからだ。だがそれはますます増えていくだろう。だがそれでも飲み続けねばならない。
 そうでなければソフィアは飛べない。
 ソフィアの傍にある自分が死を飲み闇を呼ぶ人間だったのは幸運だっただろう。光を司る彼女の傍にカレルレンのような男がいるのは相応しくないと言うものもいたが、むしろ、ソフィアの側近はカレルレンのような男でなければならないのだ。
 暗闇でばかり進んで来た彼の人生もソフィアに奉ずるために与えられた必然だったと思えて来る。だとすれば、どのような汚辱も、卑怯も、カレルレンにとっての勲だ。他の人間にとってどうであれ、カレルレンは進んで汚名を着るだろう。ソフィアへの心酔はもはや理屈ではなかった。むしろ病や恋に似ている。
 ソフィアが謝る必要さえなかった。彼女のためであれば、なにもかもが勲なのだ。





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んーーーあまり注釈ももうつけらけれない……(071201)
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