銀色の雨
「今日も、雨か……」
 朝めざめて、カレルが開けた窓の外に灰色の大気を見たのだろう、ロニはそうこぼした。彼は雨が嫌いだった。ニサンは雨季に入ってしばらくになる。秋から冬へ移る季節の不安定な空が続き、太陽は厚い雲にさえぎられていた。砂漠育ちの彼は、湿度の高い環境が我慢ならないという。
 窓から、冷やされた風が部屋に流れこむ。心なしか、頬に雨の飛沫が触れた。
 ニサンの街は、霧にけぶって見渡せない。ただ、雨の滴ばかりが目に見える。
「天気に文句を言うな」
 カレルは冷たく応えると、ふり返りながら髪を掻きあげた。
「寒いし」
 ロニは枕を抱えて、布団をずり上げた。
 カレルはため息をつく。
「いつまで布団にもぐりこんでいる気だ?」
「今日は、きみは非番だろ」
「あいにく、客身分のだれかさんとは違ってそれでもやることが山のようにある。いつまでも部屋に居座られたくない」
「だって、寒い」
 布団の中から、微笑みながらロニは言った。
「服でも着ろ」
 カレルも、ロニの駄々には慣れている。あしらう言葉を選びながら、窓辺を動かなかった。
「せっかくの休みなのに」
「怠惰なおまえと同じになりたいとは思わん」
「怠惰じゃなくて、もう少しきみといっしょにいたいだけだ」
 いけないのかい?
 大の男のくせに、ロニ・ファティマは懇願するような目をよくする。身近な人に対して容易に甘えられる身と心の軽やかさは、人をひきつける彼の魅力でもある。冷酷な戦場の指揮官にもなれば、すぐさま少年のような混じりけのない無垢な瞳にかわる。そして、願いをつぶやくのだ。
 その魅惑は抗いがたい。彼に悪意でもない限り、その願いをはねのけることはまずできないだろう。まぁいいか、とつい思ってしまう。
 もちろん、ロニの懇願の仕方がうまいというのは、その願いが受け入れる側にとってもたやすいことが多いからだ。引き受けたからといって、貸借勘定になるようなことはめったにない。それは、彼の商才がもたらすセンスかもしれなかった。
「もうしばらくだけだ」
 カレルは言うと、寝台の近くに戻った。すかさず、ロニの腕が伸びて、彼を絡めとる。そのまま、もつれあって布団の中に戻っていた。
「少し出てただけなのに、もうこんなに冷えてる」
「少し? おまえが目を覚ますまで、ずいぶんあった」
「あれ、そう?」
「……ああ」
 部屋の中まで、雨の音が響く。そして目の前にあるのは深い深い、碧だ。どうやってこの碧さが生み出されたのか、知りたいとカレルは思った。
 彼の碧の瞳は、氷雨の音に似ているものがある。どちらも鋭くて優しくて、そして不透明さをそなえていた。氷雨から生まれる大気に霧がかかる風景のように、ロニ・ファティマの瞳は、砂漠の太陽に世界をゆがめる蜃気楼のようなものだ。
 そうして見つめあってからキスをするまで、長い時間がかかった。
 ロニはカレルの目の中になにを見たのだろう。濃闇のような色をした眼は、多くの人からなにを考えているかわからないといわれる。
 口づけてようやく目を閉じた。唇のぬくもりを感じた。すると雨音ばかりが、体にしみこんでくる。今まで見つめていた瞳の碧が雨音に変わり、指先にまで浸透していくのだ。
 そしてその指先はまた、ロニの肌に触れて戻ってゆく。想いが循環し、そしてふたりは、互いを見つけあるいはまた自分を見つける。
『ソフィア』は、神というのは絶望しないための心の機能なのだ、といったことがある。だから多種多様な神々がいて、それぞれの意味が人によって異なるのだと。それは正しいのかもしれない。神に投げかける思いは、けっきょくは自分に帰ってくるのだ。こうして、指先と唇でめぐるものなのだ。
「雨の日は」離れて目を合わせたとき、ロニ・ファティマが言った。「まぁ、嫌いじゃなくなってきたよ。こうして君と、いつもより長くいられるし。
 それに……きみの唇はあの雨に似ているな」
「ばかなことを」
 カレルは軽く笑って、また唇を重ねた。ああまったく、あの雨のようだ。冷たくて鋭くて、けれど惜しみなく大地に降り注ぐ、銀色の雨。





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