君の想い出のために
 どんどん、と扉が叩かれた。マルーは少しびくりとして、まだなにか起きたのかと身を固くする。……そんなはずはないのに。ここはもう、安全なはずなのに。
 王国を取り戻し、そしてバルトがまた手放してしまったのは今日の昼のことだ。手放したわけではなく、それは本来あるべきところに戻ったということかもしれないのだが。
「マルー、起きてるか?」
 バルトの声だった。マルーは夜着にガウンを羽織ると、扉を開けた。
「若、どうしたの」
 見るとバルトは、ひどい顔をしていた。別に怪我があるわけではなく、けれどその表情は暗く暗く、傷ついた顔をしている。
「なにか……起きたの」
「ああ、そうじゃない。驚かせちまったなら謝る。そうじゃなくてさ、あの……そこのテラスにシグがいるから、ちょっと慰めてやってくれよ。頼む」
「若、またなんかしたの?」
 少し叱るように、年上の従兄弟に言うと彼はむっとしてもっと子供らしい表情を作る。
「そうじゃねえけど。……わりい、俺はもう寝るから」
「若?」
 バルトは力なく笑うと、廊下を、テラスと反対に歩いて行った。むこうに、バルトの部屋はない。今日はいったいどこにいくのだろう。どこで眠る気なのだろう?
 ――せっかく、ここを取り戻したのに。
 シグルドに会いに行くのでなく、バルトのあとを追って、抱きしめてあげる方が必要な気がした。シグルドと喧嘩をしたのだろうか?
 けれどマルーは、バルトを追わなかった。バルトは、マルーの手は必要ないと言ったから。それに、マルー自身、シグルドに会いたかった。
 マルーは部屋を出ると、シグルドを探した。彼は、庭のたいまつに照らされながら、テラスにひとりでぽつんと立ち尽している。うつむき加減に、城の中庭を見下ろしていた。
「シグ」
 呼ぶと、青年ははっとして頭を上げる。しばらく、遠目に彼女を確認するように目を眇めてから、答えた。
「マルー様」
「どうしたの?」
「起きておられたんですか?」
 青年は誤魔化すように笑った。
「若に、シグを慰めろって言われて起こされたんだよ」
「……そうですか。すみません、私は大丈夫ですから、お戻りになって休まれてください。明日からも忙しいですよ」
 マルーはシグルドの傍に歩みより、彼を見た。シグルドはその視線を避けるようにしてまた、中庭を眺める。
「どうしたの……?」
「ちょっと昔のことを思い出して、それで少し感傷的になってたんです。……ああ、いろいろと思い出すものだな、この城は。嫌が応でも。……」
 そう言われ、マルーも夜闇に沈む回廊を見渡した。
 あんまり、ここに思い出はない。……マルーはこの城に住んでいたわけではなくてときどき滞在するくらいだったから、当たり前だと思う。
「どんな、思い出?」
「……若のおもりをしてました、よくこの廊下をぐるぐる歩いて」
「ずっと、昔だね」
「ええ。まだ、エドバルト陛下もご健在で……」
 そういうシグルドの表情はとても淋しそうで、マルーの胸まで痛くなった。あの優しそうな伯父様は、マルーの記憶にも残っている。きっとだれよりも、シグルドはあの王を敬愛していたのだろう。幾度となく、そう口にしてきたシグルドだったが、万の言葉よりも今の表情が、そのことを示していた。
 ――でも。
 マルーは手を伸ばし、シグルドの腕を掴む。はっとして青年は、マルーを見た。
「シグ、それだけ……?」
「それだけって、…」
「それだけで、若がボクに、シグのことを慰めろなんて、言わないよ。そうでしょ?」
 シグルドはおし黙り、ひどく苦しそうな顔をした。じっとシグルドを見凝めていたマルーは、その時だけ、怯えた。手を放して逃げ帰りたい気持ちになったけれど、それでも彼女は踏みとどまり、シグルドの腕にしがみついた。
「ボクでよかったら話してよ」
「……。マルー様、その、……お話します。エドバルト陛下のことを」
 シグルドは一度口を開くと、もうためらわなかった。彼は流暢に、すべてを話した。
 その言葉が夜闇の中に吸いこまれていく。にじみながらシグルドが語る物語はこの場という過去に捕らわれて、言葉は形を無くしていく。ぼろぼろと壊れながら、風景の中に溶けていく。
 この城は過去そのものとなっていくように、マルーには思えた。そこにはマルーはいない。時折、まだ赤ん坊のマルーが視界を過ぎったけれど、たいていはシグルドとそしてその父であるエドバルト、それから彼の弟のバルトロメイが、この城の中を歩いていた。
 笑い顔と隠された想いと、そして絆が。
 やがてシグルドが口をつぐむと、冷たい風が吹いた。それが幻の想い出をすべて吹き去った。
「……シグ」
 怯えたように、マルーは現実のシグルドの腕を、強く強くつかみなおした。
 青年は未だ夢から覚めやらぬ瞳で、少女のその顔を見た。
「ボクには、関係ないよね?」
「え?」
「シグは若と兄弟だけど、でも……ボクとは関係ないよね。シグは、シグだよね?」
 ――こんなことは言ってはいけない、そう思うのだけれど言わずにはいられなかった。シグルドがはたと、幻を吹き消した風を追ってどこかへ消えてしまうようなそんな気がして、マルーはシグルドを見つめた。
 二人の視線がぶつかって、その狭間で過去と今とが、震えた。
「ボクには……それ、関係ないよね。シグはずっと、ボクたちの傍に、いるんだよね。ねえ、そうでしょう?」
「マルー様。……」
 シグルドはふとさみしげに笑って、自分の腕をつかむ少女の掌に、自分の手を重ねた。
「ええ、いますよ。……もうすべて、昔のことですから。想い出はとても大切だとは思いますが、そしてそれは、今と未来とを縛り続けるものではありますが。
 大丈夫、そんなに怯えないで」
「うん。……」
 マルーは青年の言葉に安堵し、彼の瞳に揺れるたいまつの火影を見て笑った。その拍子に眼にたまっていた涙の滴がひとつ、こぼれた。
 それを見せないために、マルーは頭をシグルドの胸に凭れさせる。そして彼の暖かさを感じて、もう一度、笑った。





[ back ]

(C)2001 シドウユヤ http://xxc.main.jp