視界がふらつく。ドライブの過剰摂取が原因だということは、わかっていた。ここに来るとよくあることだ。どれくらいの量の薬物を注射されたのか、そのあいだの意識を奪われているカール自身にはわからない。
だが、投薬されてからずいぶんな時間が経つはずなのに、未だまっすぐなはずの廊下が歪み、前に進めない。こんな状態で勝手に戻れというのかクソ医者どもめ、特にひとりの男の顔を思い浮かべながら、カールは悪態をつく。アニマの器との同調試験という名目で、彼らが本当になにをしているのかカールにはやはりわからない。
それに関しては死んだほうがましだと思うこともあったが、ソイレントなどという場所のために死ぬことなど、カールのプライドが許さなかった。そんなもののために、死にたくない。いつかここを粉々に踏み潰すまで、正気を手放してたまるものかと歯を食いしばる。
足がもつれ、カールは無様に廊下に転がった。いつもよりドライブ酔いがひどい。倒れこんだ廊下が生ぬるく、柔らかくて、触覚までおかしいのかとため息をついた。しかし、そうでないことはさすがにすぐ気がついた。だれか人間の上に倒れたのだ。たぶん、その人間につまづいたから、転がったのだ。
ふらふらと吐き気と戦いながらカールは身を起こす。押し潰した人間の顔を見て、心臓が止まるかと思った。
「ヒュウガ」
名前を呼ぶが、青い顔で床に倒れているヒュウガは目を覚まさない。体があたたかいのだから、死んでいるわけではないのはわかる。カールと同じように、おそらくはドライブの過剰摂取で倒れたに違いない。カールはヒュウガを抱きかかえて、揺さぶりながら名を呼んだ。
「ヒュウガ。おい、ヒュウガ!」
この狂気の人体実験室ではなんでもありだから、これは本物のヒュウガじゃないかもしれない、カールはそう思いながらも揺すり続ける。三ヶ月前、ヒュウガは忽然と姿を消した。理由はいくつかカールにも心当たりがあった。ヒュウガはゲブラーで一尉の士官であり、地上行動の部隊長としてはカールと並ぶ実戦経験者でゲブラーでも指折りの指揮官だったが、それでも安全な身ではなかった。
ひとつは彼が三級市民出身だということ――ふたつめに、以前、カールが主幹だったエレメンツの一員だったということ(エレメンツという集団が
有能すぎるという評価を受けていることをカールは承知していた)――シグルド・ハーコートの地上への逃亡を幇助した疑いがあること――そして先日、ジェサイア・ブランシュによる護民官暗殺事件に関与した疑いがあるということ――後者のふたつに関しては証拠はなにもないはずだったが、証拠などというものを公安が求めないことなど、カールは能くわかっていた。
カールも、ヒュウガの失踪については話を聞いただけだった。
ヒュウガの部屋を訪れたのはガゼル法院から派遣された兵士だったらしい。なにを言われたかは知らないが、ヒュウガは同行を頷かず、兵士二名を殺害して逃走を謀ったが、失敗。そのまま連行されて、行方はだれにもわからなかった。生きていたのか、どうなのか。少なくとも今は、息をしている。
「ヒュウガ!」
続けているうちに、ぴくりと僅かにヒュウガの体が動いた。反応はある。カールはもうしばらく続けた。……こんなところをカレルレンが通りがかったら最悪だな、そう思うが、カール自身も体力を回復できておらず、どこにあるかもわからない空き部屋を求めてヒュウガを引きずっていくのは無理だった。
必死になってヒュウガに張りついているのは、思うだけでも滑稽だ。ヒュウガとの仲も、シグルドが消えてから疎遠になっていた。なのにこうして必死に呼んでしまうのは、やはり彼が死んだものだと思っていたからだろう。こんなふうにシグルドが廊下に落ちていたんだったらいいのにな、とカールは考えてしまった。
(……ばかばかしい)
シグルドは自分の意思でここを出て行ったのだ。シグルドはソラリスの人間ではなかった、それだけだ。
「ヒュウガ!」
ようやくうなり声のような息がもれて、更に熱心にカールはヒュウガを揺する。
「ヒュウガっ!」
ぼんやりと、黒い目が開いた。だが、まるで瞳孔が開ききった死人のようになにも見ていない。なにかを呟くように唇が動く。乾ききってぼろぼろの唇が、夢を見るようになにかを囁いたが、到底カールの耳には届かなかった。
ヒュウガはまたぱったりと目を閉じると、意識をなくしてしまった。どうしていいのか、カールは途方に暮れた。自分の身体もぐらつくのに、正気のないヒュウガを抱えてどこまでいけるというのだろう。だいたい、ヒュウガを他人の目にさらしてもいいのか迷った。カールの宿舎に連れて行けば、必ずユーゲントなりゲブラーなりのだれかの目に触れるはずだ。そうすることでだれもが死んだと思っているヒュウガの存在を蘇らせていいのかどうかカールは恐怖を感じた。
しかし一瞬の後に、そんなことに恐れを抱いた自分を恥じた。
(どの道カレルレンの仕組んだことじゃないのか――? 俺はいつから、あいつの意図を恐れるようになったというんだ? 畜生、護民官の狙いがなんであれ、俺が構うことか。ヒュウガを抹殺したいのなら俺が蘇らせてやる。貴様の思うままになど、なってたまるものか!)
そうすることによって、むしろカレルレンが今度こそヒュウガを始末しようとするかもしれなかったが、そのためならいくらでも闘ってやろうと思った。今こうしてドライブのせいで知覚さえおかしくなってはいるが、闘って闘えないはずはなかった。このソイレントで科せられる実験がどんなものであっても、そんなものに屈するつもりはなかった。
カールはよろよろと立ち上がりながら、ヒュウガの腕を肩にかけて抱えあげた。
「行くぞ、ヒュウガ」
「いや、です」
返事がないと思ったのに、ヒュウガがやおらそう口にした。悪寒を感じながら、カールはヒュウガの顔を見た。ヒュウガは再び、目を開けていた。
「ヒュウガ」
「いきません。どこ、へも」
「おい、しっかりしろ」
「ぼくは、」
「ヒュウガ!」
カールが大声で呼んでも、ヒュウガはうわ言をくりかえす。完全に壊れてしまった人形のようだった。カールの腕を振り払い、よろめきながら壁にすがりつく。ヒュウガらしからぬ夢を歩くような足取りに、思わず後を追った。
ヒュウガはやがて、カールも滅多に足を運ばないソイレントのエリア00へと辿り着く。『アニマの器』が宿るギア・バーラーが眠る場所は、完全同調者(ヴァーサタイルシンパサイザー)、つまりすべての『アニマの器』と同調することが出来るカールでさえ、カレルレンの同伴なしには踏みこむことが出来なかった。ヒュウガは、彼のIDを使ってその扉を無造作に開く。重い機械音を響かせながら、エリア00の戸が口をあけた。ぽっかりと。ほとんど灯りのない部屋の中へ吸いこまれるヒュウガを追いかけて、カールも慌てて足を踏み入れた。なぜヒュウガがここに入る鍵を持っているのか、カールは知らない。どういうことかわからなかった。
ひんやりとした部屋には、二体の巨大なギアが屹立している。昔ここに来たときは一体しかなかったことに気づき、カールは初めて見るふたつ目の『アニマの器』に眼を凝らす。カールとヒュウガが足を踏み入れたことでエリア00は自動的に照明が点灯して、明るいとはいえないが、その形を視認することは出来た。
さながら太陽の光を浴びた森の緑に似た、緑青の色のギアだった。ヒュウガは迷うことなくそのギアの足元にむかう。足場を駆け上り、ハッチをあけてあっという間にその中に消えてしまった。
カールはただ呆然と、その姿を見ていた。しばらく待ってもヒュウガは出てこない。力が抜けて、カールは床に座りこんだ。
(くそ、なにがなんだか……)
これはドライブの見せる夢じゃないのか。カールはああと呻いて、苦しい身体をとうとう床に横たえた。薄暗い天井を眺めてシグルドとジェサイアとヒュウガのことを思い出した。ソラリスに残っているのは自分だけだとカールは思っていた。シグルドもジェサイアも去った。カールはジェサイアが地上へ逃亡するときに、ヒュウガにも「行ったらいいだろう」と言ったことがある。そのときヒュウガは拒絶した。ヒュウガは三級市民とはいえ、ソラリスで生まれ育った世代だった。ヒュウガにとってソラリスは安住できる家ではないが、かといって大地もそうではなかった。こんなにも汚くて恐ろしく醜い場所なのに、ソラリスが彼の故郷なのだと、ヒュウガは言った。
それでもカールと違うのは、カールがこの国に固執するのとは対照的に、決して
ここにこだわるつもりはない、ということだった。ヒュウガはジェサイアやシグルドと同様に、まずくなったときの地上への脱出ルートを確保していたはずだ。だがヒュウガはそれを使わず(あるいは使えず)……逆にソイレント、このソラリスの最深部にいる。
なにがあったのか、聞かないでここを去るべきなのだろうか。
それにしても気分がよくならなかった。ドライブにはすでにかなり順応しているはずなのだ。それなのにこんなにひどいとは、どれだけ打たれたのか考えるのも恐ろしい。
そうしてずいぶん長いこと、カールは横たわって懐かしいものを思い出していた。シグルドやジェサイアたちを。
ふと、視界が翳った。カレルレンか、そう思ったがカールを覗きこんでいるのはヒュウガだった。
「カール、こんなところでどうしたんです」
「……それは俺の台詞だぞ」
「どうやってここに入ったんです? あなたは、ここに入れないはずでしょう」
「おまえが開けたんじゃないか」
そう言うと、ヒュウガは複雑な顔をした。
「ああ、そうですか。そうか……」
「ヒュウガ」
いま話しているヒュウガは、カールの知っているヒュウガだった。先ほどの狂ったようなそぶりは少しもなかった。
「生きてたんだな」
「……なんとか」
ヒュウガは苦笑した。当たり前だが、かなりひどい眼にあったに違いなかった。
「ずっとソイレントにいたのか」
「そういうわけじゃありません。地上に降りたり、いろいろとしていましたよ。今は、天帝陛下の側近という扱いで落ち着いています」
「カインの? じゃあ守護天使、」
「そうです。守護天使です」
そう言って頷いたヒュウガだったが、カールはようやく違和感を感じた。どう言っていいかわからないのだが、やはり、カールの知っているヒュウガとはなにかが違った。どういえばいいかはわからないが、かつてのヒュウガとは違う、そんな気がした。
カールは体を起こして、さっきヒュウガが乗りこんだギア・バーラーを見る。
「あれはギア・バーラーだな」
「ええ。私の『アニマの器』です」
「……同調したのか」
「だから法院に拉致されたみたいですよ」
相変わらずですよねぇとヒュウガは言った。
「私のユニットが全滅したときもそうでした」
ヒュウガはうさんくさい笑顔で笑う。カールはどう返事をしていいかわからず、困った。そんな風に笑われて、頷けるはずがない。本当にこいつは俺の知っているヒュウガだろうかとカールは薄ら寒さを感じながら見た。その視線に気づいたヒュウガは、もう一度笑った。
「どうしたんです、カール」
「……なにがあったんだ」
「話しても愉快な話じゃありませんよ。あなただって、このソイレントでなにをされて来たかなんて、話したくないでしょう」
「……そうだな、すまない」
カールは詫びると、立ち上がった。二人は並んでエリア00を出て行く。カールがソイレントの出口へとむかって歩き始めると、ヒュウガも続いた。
「あなたも今度、ゲブラーの総帥になるそうですね」
「ああ、そうだ」
頷くと、ヒュウガはちらりと眼鏡越しにカールを見た。そして口元に、なんとも言えない皮肉げな笑みをはく。
「多分同時に、
あなたも守護天使になりますよ」
「俺がか?」
ヒュウガはええと応える。カールは法院の……というよりもむしろカレルレンの思惑を量ろうとした。守護天使はガゼル法院直属の特殊部隊をさすが、部隊とは言ってもほぼ個人だった。軍の要職に留まらず特殊な人材が登用されるが、表立った存在ではない。ソラリスの一般市民はまずその存在を知らないだろう。守護天使はソラリスの政治機構の中枢に存在し、天帝と法院、そしてカレルレンの手足となる。
「しかし俺が扱いにくいのは、法院の連中もカレルレンもわかっているはずだと思うがな?」
「そうですね。けど、あの人たちはもっと早くにあなたが欲しかったんですよ。ただ、いい口実がなかなか見つからなかっただけで。ゲブラーの総帥なら、守護天使としてなんの申し分もないですからね」
「おまえはなんだったんだ?」
「私ですか? あなたの繋ぎ、というところですか」
「なに?」
カールが尋ねると、ヒュウガは飄然とした態度で続けた。
「私は今度、シェバト攻略の任に当たります」
「……ヒュウガ」
「私がずいぶん色々と喋っていると思いますか、カール? この廊下は、意外とカレルレンは監視していないんですよ」
「まさか」
「本当です。まあ実際のところ、もはやカレルレンも怖くないのが本音ですけれどね」
「おまえの生殺与奪はあの男の手にあるんじゃないのか」
「一時期は。今は有難いことに、カイン陛下に庇護していただけています」
それでも、このソイレントでなんだか知らない実験の餌食になることは逃れ得ないというわけだ。カレルレンとは昔から顔をつきあわせ続けてきたカールだが、カインとは接見したことがない。この国の礎である天帝カインは、この世界が生じたすぐ後から存在し続けている、と言われている。それがなんでカレルレンなどの専横を許すのかは理解に苦しむ。
「カインに気に入られたのか」
「憐れまれている、と言ったほうが正しいのでしょうね」
「憐れみ?」
「ふふ、陛下に
僕はどこかおかしいと言われていますから」
「ヒュウガ、」
友人の名を呼ぶと、はい、とヒュウガは答えてカールを見た。
「どうしました」
「……おまえ」
「確かに、僕もそう思うんです。意地を張ってこの国に残ったことで僕はなにかとても大切なものを失った、そういう気がしています。……それがよかったのか悪かったのかもわかりませんが。ただ、シグルドは怒るだろうなあとは思うんです。それだけですけどね。いえ、大したことじゃありません。それがなくても僕は生きているし、戦える。いくらでも町を滅ぼせる――」
そう言って笑うヒュウガを、カールはぞっとしながら見凝めた。
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