1
「あれ、出口っぽくねぇか……?」
バルトは目を細めて樹木のむこうをゆびさした。
「そうかなぁ……?」
さも疑わしそうにそれに応えたのはビリーだった。少年は足を止め、ため息をつき、くたびれた全身を伸ばしてからバルトが指した方を見る。
「さっきからその言葉、何度目だよ。うーん、少しひらけてはいるみたいだけど、どうかなぁ」
「な、フェイ、おまえどー思う?」
バルトは言いながら、うしろにいるはずのフェイを振りかえった。
しかし、そこには誰もいない。とうぜんいるはずの黒い髪の少年は、そこにいなかった。
「……フェイ?」
呆然とバルトが呟いて、なにかと思ったビリーがふりむく。
「あれ?」
二人とも、あっけに取られて周囲の樹海を見回した。木肌と葉ばかりが目に映り、フェイの姿はどこにも見えない。今の今までうしろにいたはずなのに。
「フェイ!」
バルトは大声で呼んだ。しかし、周囲に気配すら感じなかった。風がざわざわと木々の枝を揺らしていくが、フェイはどこにも見当たらない。……
樹海で道に迷ってしまったのは、しかたのないことだった。そういうことにしておこうと思いながら、フェイ、バルトとビリーの三人はもう二、三刻は森の中をさまよっていた。
なんてことのない森に見えたのに、いつしか右も左もわからない鬱蒼としたあたりに踏みこんでしまったらしい。
それらしい方向にむけて歩き続けているのだが、一向に樹の並びはとぎれなかった。
ここのところ、くさくさしたことが続いていたし、だから気晴らしに行こうぜとフェイに提案したのはバルトだ。二人じゃ辛気くさいことになりそうだし、安全面も考えてビリーにまで声をかけたのはフェイ。それ以上広言すると、シグルドやシタンまで届いて怒られるに違いないから三人はこっそりとユグドラを出てきた。
けれど迷って帰り着けそうになく、気づかれないようにこっそり出て帰ってくる、などという計画は駄目になりそうだ。
つくづく、悪いことはできない、とバルト思う。
こっそり出てこようが怒鳴られて飛び出そうが、どこかで怒られなければならないというわけだ。「遊んできた」ことにプラスして「こっそり企んだ」分まで怒られるはめになるのだから、こういう事態に陥ってようやく、割に合わない賭けだったと気づくのが、遅い。
なんて言われるかもだいたいわかる。
――別に、ちょっとぐらい気晴らししたっていいじゃねぇか。
バルトは歩きながら、頭の中で半日後ぐらいに聞かされるだろう説教を想像して、それに抗弁した。
――俺たちだってもう、危ないところとそうじゃないところの区別ぐらいつく歳なんだしさ。たしかに迷ったけど、問題は起きなかったし。ただちょっと疲れただけで。一晩眠れば元気になるって。目くじらたてて怒んなくたって、いいだろ?
ここでいくら考えても、もちろん、いざシグルドを前にするとなにも言えないのだが、だからせめて頭の中でシグルドをやりこめてみる。バルトの言質に不承不承うなずいて「無理はしないでください」とだけ言って引き下がるシグルド――気分がいい。
いっぺんぐらい、そういうことがあったっていいのに。
バルトは手の届くところにあった下草の葉をちぎりとった。
「ハァ、参ったなぁ」
「俺のせいだ」ぽつり、とバルトのすぐ後ろを歩いているフェイが言った。「ごめん」
「フェイのせいじゃないぜ」
バルトは葉を口にくわえ、それをまた指でむしった。
「これで結構、この状況も楽しいしさ」
「よく言うよ」
ため息まじりのビリーの声は、けれどまだ余裕がある。ただ口悪く言っているだけらしい。
「本当だって。ただ、シグに怒られんのがいやなだけでさ」
「俺がみんなをどんどん奥の方までひっぱりこんだから……」
「そんなのお互い様だろ」
たしかに、森の奥まで一行をつれこんだのはフェイだった。珍しくはしゃいだフェイが楽しそうに先導するので、バルトもビリーも反対などしたくなかったのだ。
あんなに嬉々としていたのに、今はどんよりとくらい表情をしている。
――なんのためにここまで連れ出したんだかわからないじゃないか。
バルトは内心舌打ちしてしまう。どこかずさんな自分が、今日ばかりは嫌になる。
「奥まで入ったのが問題じゃない。方向感覚がなくなったのが問題なんだから……みんなが悪かったんだよ、フェイ」
たしなめるようにビリーが言っても、フェイは首を振るばかりだった。
「だめだよ……」
「そんなこというなよ、フェイ。このまま進めば、どっかに出るだろ。たいしてでかい森じゃないんだしさぁ…」
バルトは必死に、フェイを励まそうと喋った。
「でもホント、俺らって間抜けだよな。ふだんは滅多に迷わないのに、こういう、ばれちゃいけないってときに限って道がわかんなくなったりするんだぜ? アハハ、不思議だよな! そういや昔、マルー連れてニサンの北にある森に、シグに内緒で遊びに行ったら、やっぱり道に迷っちゃってさぁ大騒ぎに…」「止めろよ、バルト、喋るとあとで疲れが出てくる」
けれど、真剣な声でフェイにそう言われてしまえば黙るしかない。
そういうわけで、三人は黙々と歩き続けた。歩き続けて、迷ったままだ。
そして、フェイがいなくなった。
やっぱり、そこも森の出口ではなかった。小さな沼があり、そのほとりが少しばかり、ひらけているだけだ。あまり期待していなかったから落胆したというほどでもないのだが、それでもどっと疲れが出てくる。
バルトとビリーは立ち止まり、またあたりをぐるり、と見回した。バルトが草の上にしゃがみこむと、ビリーも続いた。
「ここにいれば目立つかもしれないから、フェイも気づくかな」
「ま、いい目印になるってことは確かだな」バルトは足を地面に投げ出して、空を見上げる。「……ハァ」
「今度は、きみが『俺のせいだ』とか言い出すつもり? やめようよ。本当にだれのせいでもないんだから」
「うん? いや、腹減ったなって」
「……きみね」
ビリーは呆れた声を出したが、面倒見のいい彼のことで、こう続けた。
「携帯食はあるけど……まだこの先どうなるかわからないし、もう少しとっておいた方がいいよね」
「ケイタイショク?」
そういわれて、バルトは自分がいやに身軽なのを思い出した。ちょっと二、三時間出てくるだけのつもりだったから、そういうものは用意していない。
ひょっとすると、今日は野宿の羽目になるかもしれない、ということに思いあたり、彼は少し蒼ざめた。そういうための準備なんてなにもない。
「バルトはどれぐらい持ってる?」
当然、ビリーは聞いてきた。とても大事なことだ、それはわかる。
「……持ってない」
「嘘だろ」
「と、ともかく! 早く森を出ちまえばいいことじゃねえか!」
「フェイともはぐれたのに?」
「だから、とっととフェイを探そうぜ」
「とっととって言っても……」
「わかれて探して、ここで落ち合おう。グダグダ言ってるより動いちまったほうがいいんだよ! ほら!!」
やけにやる気になったバルトに、ビリーは不審な目を送る。
「なんだよ……?」
「陽が暮れる前にこの森でねぇとマズイだろ! だから!」
「……。ひょっとして、バルト、なんの準備もしてないのか」
「どうでもいいだろ、そんなの…」
「どうでもよくないってことは、君が自分で良くわかってるだろ。だからそんなに焦ったりするんだ」シグルドみたいな小言だった。「もう、バルトの誘いに乗るのはやめよう」
――俺だって、わざわざシグから逃げ出してんのに説教されるなんてまっぴらだよ!! もう誘わないからな!
そう思ったことは、バルトは懸命に胸のうちにおさめておいた。これ以上、ここでは問題は起こしたくない。……
2
フェイは、ずっと地面ばかりを見つめて歩いていた。長くさまよい歩いていると、森のものめずらしさも疎ましくなるばかりだ。なんでこんなとこに来ちゃったんだろう、という後悔のもとになるばかりで、だから下を見て歩く。
疲れたみんなの背中を見つめるのも、嫌な気分だ。フェイが調子に乗ってこんなとこまで踏みこんでしまったばかりに、こんなことになって。
自分の足が、右左交互に、なにを考えてなくても動いているというのを見るほうが、よっぽど暇つぶしになった。
――俺なら方角がわかるぜ。貴様らみたいに馬鹿じゃないから。
「え?」
その言葉が聞こえたとき、バルトかビリーか、どちらかに言われたのかと思った。その場にいたのは三人だけだったのだし。
けれどそうではない、と気がつくのは一瞬遅かった。落胆していたために心のガードが甘かったのだが、そのときにはもう、フェイは『一番上』にはいなかった。
――やられた!
もうひとりの彼はやおら立ち止まると、フェイの異変にも気づかず前進し続ける二人に冷ややかな視線を送った。
――邪魔くさいな。
彼がそう思ったのがフェイにはわかった。彼が表面に出ただけだというのに、周りの空気は不穏当な彼の気配を汲みとって、ざわついている。……気づかれたくない人々は前進するだけで、ふりむかないのが幸いだった。
――やめろ!! ひっこめよ!!
二人になにかするかもしれない、という恐怖でフェイは必死に彼に訴えた。
それが聞こえたのか聞こえないのか(聞こえないはずはないのだが)彼はバルトとビリーの存在は無視したように、踵を返して道から足を踏み外した。
――どこへ行く気だよ!
フェイには、彼がなにを考えているかはわからない。彼と交換しているあいだに意識がもてるのは幸いなのだが、でも、自分のもののはずの体が、意志に従わずどこかへ行くのを止めることは出来ない。
あっという間に、失われた方向感覚そのまま、バルトとビリーの居所もわからなくなってしまった。どこへ行こうというのだろう、こいつは。
本当に、道がわかっているのだろうか。
――彼が、なにをしようとしてこんな森の中をやたらめったら走りまわることにしたのか、小一時間経ってもフェイにはわからなかった。
ともかく、どこかにつこうとしているとはあまり思えなかった。とはいえ本当に無目的とは思えない。
と、視界の端に金色の光が見えた。気配を殺した彼は、じっとそちらをうかがっている。ため息をつきつき、木の幹にもたれかかっているのはバルトだった。
ビリーの姿はない。更にはぐれてしまったのかもしれなかった。
ピリピリとした、彼の殺気を感じて、フェイは身震いした。バルトに興味を持たなくたっていいのに、彼にとって、バルトは子供のようなもので、なにも立ち止まる必要はないのに、などと必死になだめる思考を送るが、彼はただ笑っただけのようだった。
彼はゆっくりと、バルトに近づいていく。
バルトは気がつかなくて。
フェイは恐慌を起こしかけていた。バルトまで失いたくない。でも、フェイには止められない……!
彼がその気配をあらわしたのは、バルトがもう逃げられない距離になってからだった。
はと気づいて身を起こしたバルトは、信じられないといった表情で、隻眼を見開いて彼の方を見ている。手後れだった。バルトは咄嗟に身を翻しかけたが、こんな間合いでそれをするのでは、次の瞬間に喉笛を切り裂かれている、などという結果を招くにすぎない。
ともかくそれで、バルトの命は一瞬だけども繋がった。
でも、バルトはもう逃げられない。だから、彼を助けるにはどうしても、フェイは『一番上』に出なければならなかった。
でも、も掻いてもも掻いても紅い意識の暗闇は綻びを見せない。あがいても、あがいても。
「……イド」
掠れた声で、バルトが彼の名前を呟いた。まさしく猫ににらまれたネズミだ。あまりにも力の差がありすぎる。
ここで、こんなところで、バルトを失ってしまうのか、と考えただけでフェイは気が狂いそうだった。バルトを殺したら、今度はイドはビリーを探しに行くだろう。そして、そのあとは? そのあとはどうなるんだ?
「昔、イトコを連れていて森に迷ったことがあるんだろう」
「え?」
バルトが聞き返す声が響く。フェイもえ、と思った。
――なにを言ってるんだ、こいつ?
「その、続きは?」
「え……うん、ああ、それな……」
さっき、バルトが言いかけて、フェイが黙らせてしまった思い出話。そんなものを聞いてなにをしようというのか、イドはあっけにとられてなかなか話し出さないバルトをせかした。
「早く話せ」
「ああ。
俺がまだ……ニサンに行って一年かそこらのころだよ。マルーを森に連れ出したんだ。森にな、白い鹿が現れるらしいって聞いて、それを見ようとしたらしいんだ。白い鹿っていうのは幸運の象徴なんだ。白く光る神の使いなんだって。……それが、本当の理由かどうかはわからない。俺は覚えてなくって、あとからシグがこうだったと言った話だから、本当に、その時俺がそう思ってたかどうかは」
バルトは戸惑いつつも、話を続けた。
「それで、俺はマルーをつれて森へ行った……けっきょく道に迷って、あたりは暗くなって、マルーが怯え出した。俺、その頃、シャーカーンに捕まってたとかいうときのこと忘れてたはずなんだけど、たぶん思い出してたんだと思う。そばにいるのはマルーだけ、真っ暗で、だれも守ってくれない……いつ殺されるかわからない。すごく状況はそっくりだろ。ともかくそれで、怯えて木の根元で丸くなってた。どれぐらい経ったかは覚えてないけど……明りを持ったシグたちが見つけてくれて、うん、ちゃんと無事に帰れたよ。それだけだ」
口をつぐんだバルトは、まっすぐにイドを見た。毅然として、イドがなにを考えているのか探るように。
それでいて、なにかを待っているようにも見えた。フェイは、それが一瞬自分にむけられているような錯覚をする。けれどそうではないのだ。バルトが今見ているのはイドであって――フェイではない。バルトは、フェイがオブザーバとなっていることに、気づいてもいないはずだ。
――どうして。
どうしてこんなふうに見つめられるのが、自分じゃないのだろう、と彼は思った。バルトは一度だって、こんなふうにフェイを見つめたことはなかった。なんだか今のバルトは、とても弱々しく見える。弱々しいという表現は違う――いつも、バルトは強くて熱くて、ひたむきな瞳をしている。今はそれがないのだ。
「……イド?」
「……いや。暗くならないうちに森を出る」
「なに言ってるんだ、おまえ?」
「暗いのは怖くないのか?」
「はぁ? どうしたんだよ」
「森を出る道は、大体わかっている」
そう言うと、イドはバルトの手を取った。彼はそれを、拒みもしなかった。イドがなにを考えているのか計り知れなかったのだが、バルトは害意を感じてはいなかった。
バルトが文句も言わずずいぶん引きずられていくのを、フェイは腹立たしく思った。こいつがなにをしたいのかもわからないのに、無抵抗でただ従うなんてバルトも考えがなさすぎると。
別に、バルトは文句を言っていないわけではなかった。ただ、あまり強くないのでフェイにそうとは思えないのだ。もっと――手をふりはらって敵愾心をむき出しするべきだ、とフェイは望んでいたのだ。
イドはけっして味方じゃない。なのに、どうしてバルトは。
「おい!」
バルトは足を進めるイドに叫んだ。
「どこに行くんだよ」
「森を出るんだ、あたりまえだろう?」
「道、わかってるのか?」
「そう言ったはずだ」
「このまま?」
「おまえは疑問文しか知らないのか?」
「待てよ。まだビリーと落ち合ってない。このままで帰れるわけねぇだろ!」
「……あいつか?」
また、イドの感情に触れる。刺々しい、まだ未発達なぎこちない感情だ。子供みたいに利己的で、物事の道理など考えもつかない、そんな。
「どうでもいい」
イドは心のまま、そしてフェイが一瞬前に予想したままの答えを口にした。
「どうでもよくねぇんだよ」
音を立てて、バルトはイドの手を払った。「森を出たいなら、勝手に一人で行っちまえよ。……あと、フェイは置いてけ」
バルトはいつでも戦闘に入れるよう、油断なく体勢を変えながらイドをにらむ。しかしイドは、こう言っただけだった。
「怖くないのか、夜の森は?」
「……は? おまえ、……本当に今日はどうかしてるぜ」
「怖いはずだ」
「もう、怖くなんかねぇよ」
「おまえが言ってるのは、強がりだ」
「なんでそんなこと、おまえに言われなくちゃならないんだよッ ……とっとと、フェイを出せ!」
「目を見ればわかる」
イドの瞳とバルトの目が合った。むっとした奥に、確かに怯えた子供の姿が見えるような気がした。
「イド……?」
二人はしばし、動きを止めた。バルトの表情が、強気なものから少し様がわりしていた。目を開いてただ驚いているようだった。それを感じて、イドがひるむ。
バルトがイドの目の中になにを読み取ったのかフェイにはわからなかった。それがとても気になる。けれどともかく、イドの心に出来たわずかな空隙を、見逃すわけにはいかなかった。
「フェイ!」
一瞬でもとの姿に戻ったフェイに、バルトは思わず手をさしのべた。ぐらりと上体が揺らいで、フェイの方もバルトの腕をつかんだ。
「大丈夫か? フェイ?」
「バルト……ごめん」
「謝るなよ、いいから」
「俺、」フェイはひどい嫌悪を感じていた。バルトがあんな顔をしたことや色々とこの森で起こったことすべてに。一番悪いのはイドだった。あいつさえいなかったらいいのに、と彼は思った。あんなのが自分の中にいる人格だなんて、ひどすぎる。「イドは嫌いだ。大っ嫌いだ……!」
「フェイ、落ちつけよ」
「……あ、うん、悪い…」
身を起こしてフェイはバルトを見た。
――イドなんて、大嫌いだ。
あいつは子供だ、とフェイは思った。
「ともかく戻ろうぜ、ビリーと落ち合う約束してんだ」
「うん……」
もうバルトをイドに会わせたくない。強く彼は思った。
イドの心が、フェイにもわかっていた。フェイだってとても似た心を持っていたので、そして彼はイドの心に怯えた。
恐いのは、彼がなによりも純粋だからだ。
歪んだ人格で、子供で、だからこそ純粋でまっすぐなのだ。
そんなイドの情緒を見抜いたら最後、バルトはイドのことをむげに出来なくなってしまう。なによりも、そう言う感情に弱いのだ。
だからもう会わせたくない。
3
バルトは、フェイをつれて先程ビリーと別れた沼まで戻った。がらんとしたそのほとりに、まだ友人の姿はない。彼のことだから、更に道に迷うなんて間抜けなことはないと思うのだが、少し遅い気がする。
それでも、待つしかなかった。
「少し、休もうぜ」
言うが早いか、バルトは樹の根本に座りこんだ。見上げると、渋々というようすでフェイもその傍に腰を下ろす。落ち着かず、そわそわしているのが変だった。
バルトはつとめて爛漫な笑みを浮かべるようにして、言った。
「野宿の準備してないからさ、なんとしてでも森を抜けなくちゃな」
「あ、うん……うん」
フェイの返事はひどく宙に浮いている。
「フェイ? 平気か、イド、なんかしたのか?」
「いや、ううん……大丈夫。バルトこそ」
「俺はなにも…少し話しただけだよ。あいつと話するなんて、はじめてだった」
「イド、なに話してた?」
ああそうか、こいつはイドでいる間のことを憶えていないんだ。そう思い出して、バルトはイドのことを忌々しくふりかえる。記憶がないことの不安は、バルトも昔体験しただけに理解できた。忘れ去ってしまっても、空白というオブセッションで迫ってくるその恐怖。バルトのあの記憶喪失は、フェイのものとは違うのだろうが、忘却で蓋をしてもなおにじみ出てくる恐怖が、そこにはある。
「あのさ……さっき俺が、話しかけたこと憶えてるか? マルーと二人で迷った話」
「……呑気なんだな」
「怒るなよ、あいつがやけに真剣に聞いてくるからさ。
あっ、あいつ、森を抜ける道知ってるって言ってたな、そういや!」
思いだしたバルトは、ついついそう叫んだ。すると……フェイの様子がやおら、おかしくなる。その変わりようがあまりに急激だったのでバルトはいささかたじろいだ。イドが現れるかもしれないと思ったからだった。不穏な気配は、そのときのものに似ていた。
「…………」
「え?」
なんと言われたのか、声が小さくてわからなかった。バルトは身を乗り出してフェイの顔をのぞきこむが、彼はくりかえしては言わなかった。そして急に立ち上がると、
「俺、ビリーを捜してくる」
「フェイが行くなら俺も」
「ここに戻ってくればいいんだろ。だいじょうぶだよ。バルトはもう少し休んでろよ」
「でも一人じゃ」
「うるさいな、ひとりにさせてくれよ!」
もともと、フェイはなにで機嫌が悪くなるか読めないところがあるのだが(そういうところは非常にシタンと似ていると思う)、このときもそうだった。いったいなにがフェイの逆鱗に触れたのかわからない。イドに表層意識を奪われたりと不安定な時に、自重しないフェイを久しぶりに見て、バルトは少し怖くなった。
――フェイの好きにさせる方がいいかもしれない。
そう思って、バルトは言った。
「き、気をつけてな」
「おまえこそ。じっとしてろよ」
バルトはフェイが去っていく後ろ姿を見送った。ざくざくと草木をおしわける音が遠のいていく。
ため息をついてまた座りこんだバルトは、そのざくざくがまた近づいてくるのを聞いてもう一度ため息をついた。
見ると、今度は赤い髪のやつが近づいてくるのだった。
――大丈夫じゃないじゃねえか、フェイ。
バルトとイドは、お互いににらみ合った。少しの距離を保ったまま、イドは近づいてこない。また、さっきと同じ状況に逆戻りだ。
いい加減に疲れてくる。
――ビリー、とっとと帰ってこねぇかなあ。大体あいつが帰ってこないから悪いんだ。
バルトは立ち上がる隙すら見出せず、イドを見返す。イドの顔はやっぱり、フェイと同じ顔だ。あいつが暗い顔をしているのも嫌だけれど、こんな表情は違う。ぜんぜん違うと、彼は思った。同じ顔形なのに、フェイのしない表情をしているのがいやだった。
その顔は、冷たくてなにも必要としていない空白と言ったところだ。フェイはそうではなく、手を差し伸べたくなるような顔をする。そして、その手を差出しても決して裏切るようなことはないという信頼を与えてくれる。……ぜんぜん違う顔だ。
イドはまた、ざくざくと草を掻きわけて近づいてきた。そしてバルトの傍に立ち尽くす。
「降参か」
薄笑いしたイドは、そう言った。
「……うるせーよ、だれがいつ勝負したんだよ」
「おまえの負けだ」
「しつこい…」
言いかけたバルトは、しこたまみぞおちを蹴りつけられて言葉を失った。寄りかかっていた木の幹にいやというほど頭をぶつけ、視界を星が飛ぶ。
「な、に、するんだよ……!」
「おまえは負けたんだからな、俺のいうことを聞け!」
「言ってること、さっぱりわかんねぇッ……ゴホ、子供みたいなこと言ってるなよ」
「この森を出る」
「……なに?」
「立て、出るんだ」
ひきずりあげられそうになって、バルトは、イドに掴まれた腕を振り払った。イドの表情は読みにくい。――作り方を忘れてしまったように、なにもうかがい知れない。
暴力よりなにより、イドはその無表情が怖い。バルトはむきになって返した。
「俺はおまえとは行かない! 負けたのなんだの言ってんじゃねぇよ、こっちは暴力でごり押しされるのなんか慣れっこなんだ。怖かねえっつーの! そんなんで怯えてほいほい従ってたら、命なんかいくつあったってたりねぇよ」
「だれがおまえを殺すんだ?」
「……おまえ、俺の話聞いてる?」
表情がない、鉄面皮というよりも、まるでイドはその作り方を知らないようだった。小さな子供だって笑い方と泣き方だけは知ってるというのに、そんなことも知らないみたいに見えた。
――なんだか。
苦しくなる。昔、シグがしまいこんでいた写真をうっかり見つけてしまったことがあって、それはまだシャーカーンに受けた心の傷を癒せないでいた頃のバルトの写真だった。……こんな顔をしていた気がする。
――なんだよ、なんだって言うんだよ!
バルトははっとして、うつむいた。イドは理解できない様子で答えた。
「おまえこそ俺の話を聞いてないだろう」
「聞いてるけど、おまえが無茶なこというから……」
イドはバルトのジャケットを掴むと、信じられないような腕力でそのままバルトを立たせてしまった。そのまま連れて行かれそうで、バルトはまた渾身の力で抵抗する。イドも躍起になって力をこめてきて、首が締まった。
「く、苦しい……」
「来い!」
その時、救いの声が聞こえた。
「バルトを放せ、さもないと鉛弾をブチこむよ」
バルトはさっき悪態をついていたのも忘れ、その声に喜んだ。待ちに待っていたビリーだ。
いつもうっとおしいとばかり思っている彼の声が救いに聞こえるなんてやきがまわったと感じたが、窮地を救ってくれるのはビリー以外にはいないので、本当に喜んだ。
イドの肩越しに、剣呑な目つきで銃を構えるビリーが見える。イドの頭に銃を突きつけているが、そんな近くに来るまでイドもバルトも気配を察していなかったとは、さすがだった(いや二人ともやりとりに夢中だったのかもしれない)。
――でもフェイの頭を吹っ飛ばされるのは困るな。……
やりかねないだけに、イドがその手を放してくれることを、バルトは切実に願う。
「邪魔をするな」
イドは威嚇しながらそう言った。だが、ビリーの銃は完全にイドの頭に密着している。いくらイドでも、逃れられないはずだ。ビリーの射撃の腕は確かなものだし、この至近距離で不意打ちを食らっても仕留め損ねるとは思えない。
「ほら、早く」
ビリーが促すと、ところがイドはあっさりとバルトをしめあげていた手を外した。
あまりのあっけなさに、バルトは逃げ出すことも忘れてしまった。ビリーの方も抵抗が無さすぎて、銃をはずしそびれている。
「イ……イド、ええと」
イドはすごい勢いで振り返った。ビリーは警戒してぎゅっと銃底を握った。勇ましい勢いだったが、やっぱり多少はびくついていたらしい。
「ともかく、こいつが揃ったんだから俺が言った方に進んでいいんだろう」
「……は、」
「おまえが来ないのは、こいつがいなかったんだろう。来たならいいんだな? 森を出る」
ビリーは呆気に取られたようにバルトを見た。
「なんの話、」
「なんて言っていいのか……」
困惑している二人を尻目に、イドは草を掻きわけて進みだした。数歩あるいてからじろりと睨んでくる。すさまじい圧迫感のある眼力だったが、どうやらそれでもついてこいと言っているようだった。
「い、行くの、バルト?」
「行くしかねぇだろ、ここで行かなかったら殺されるぜ、多分」
「ああ、有利な態勢のときに殺しとけばよかった」
「頼むから、フェイを殺さないでくれ」
あ、そーだったっけとビリーが驚いたように納得していたが、どうもフェイとイドが同じ人間の違う人格であることを忘れかけていたらしい。ビリーが撃たなかったことを、バルトは神様に感謝した。
沈黙に導かれるように三人は、一列に並んでひたすら森を歩き続けた。この森に迷ってしまったときとまるで同じだ。気落ちしてなにを話したらいいのかもわからず、気まずいことだけはわかってもそれを覆せなかった。
バルトは、ときおり後ろをふりかえりながら歩いた。そこに、フェイがいるんじゃないかという気になったので。
イドという人格になったフェイが前を歩いているのだから、フェイがいるはずなどないのだけれど、そういう理屈とは違って、フェイは今、後ろにいるべきだとバルトは思った。
やがて、森の空気が変わりはじめた。
――砂漠の匂いがする。
懐かしい匂いだった。そんなに長いこと離れていたわけでもないのに、とても懐かしかった。森の中の湿り気は、サラサラした粉っぽさに替わっていく。
「そろそろ森を抜けそうだな」
バルトが言うと、ビリーは目を丸くした。
「どうして」
「どうしてって、わかるだろ」
「わからないよ。さすが、原住民」
少年はそう言って肩を竦めた。目の前の銀髪頭を小突きたくなったが、状況を考えて止めておいた。
その会話を聞いたのか、イドはバルトたちをはじめて振り返った。そして腕を上げる。
「……森を出るぞ」
イドの指し示す先、木立の合間から白い空が見えた。地平線と空の境があやふやに白く溶けているあの砂漠の景色だった。
「本当にわかってたんだな」
思わずもらすと、イドはむっとする。悪い目つきをもっと光らせて、口を尖らせるように言った。
「当たり前だ」
「……怒るなよ、疑ってたわけじゃなくて、思わず出ちまったんだ」
「怒るだと、俺が?」
イドはますます不機嫌になった。けれど、それ以上はなにも言わなかった。また、背をむけて歩き出す。慌てて二人はあとを追った――そして一瞬にして、森の木立は途切れて茫漠の砂漠が視界を覆った。
太陽に照らされて、砂漠の砂は痛いほど明るい色をしている。
「そんなに時間は遅くないんだね」
ビリーがつぶやいた。
「……そうだな」
陽は、落ちるには早い高さにまだ留まっている。影は長くなりつつあるが、夕方にはユグドラシルに拾ってもらえるだろう。
「バルト」目を眩ませていたバルトの腕を、ビリーが引いた。「バルト、イドがいない」
「え」
彼は慌てて、あたりを見回した。
けれど確かに、砂漠の中にもふりむいた森の中にももう、イドの姿は見えなかった。まるで追いかけてきたあの背中は幻だったみたいだ。フェイもイドも、一人の人間と言うにはなにかが弱い。だから森でフェイとはぐれたときも掻き消えた幻のようだったし、今消えたイドも、陽炎のようだ。
「どうしよう、探しに戻った方がいいかな?」
ビリーは嫌そうに言った。
森に戻るのは御免だというようにも取れたし、あのイドを今更、また探すことが嫌だというようにも取れた。その両方かもしれない。
――どこにいったんだろう。
ともかく二人は、その場で発信機を作動させて、ユグドラシルがやってくるのを待った。
できるのはそれが精一杯だった。フェイのことが心配なのはバルトもビリーも同じだったけれど、森の中に入ってもたぶん、また迷うだけだろう。
信じるしかない。
あの彼がユグドラシルに来るはずがないのは、当然だ。彼はいつフェイに戻るだろうか。フェイに戻ったら、ユグドラシルに帰ってくるだろうか?
ビリーが、ぽつりと言った。
「僕思ったけど、イドって……子供みたいだよね。
少しかわいいと思っちゃったな。僕の孤児院にもあんな子がいるよ。照れて、素直にできない子」
「急になんだよ」
「ううん別に……早くシグ兄ちゃん、迎えに来ないかな」
「おい、ビリー、あれは……フェイなんだぜ」
「本人も言ってたじゃないか。本物はイドの方だって?」
「やめろよ、そういうこと言うの……」
やがて、艦がむかえに来た。シグルドはもちろん、消沈気味の二人を容赦なくしかりつけた。
それを聞き流して、バルトは言った。
「フェイがさ」
「フェイくんがなんです、彼なら部屋にいますよ」
「……え?」
バルトとビリーは顔を見合わせた。二人の様子がおかしいのに、シグルドは頓着しないでそのまま説教を続ける。「フェイくんは思慮深くしているのに君たちと来たら、二人で遊んでばかりいないで、少しは彼を見習ったらどうです」
「見習うって」
ビリーがぼやくのを、シグルドはすごい剣幕で注意する。
「なんだ、その言い方は!」
矛先がビリーをむいたのを見たバルトは、すかさずその場の脱出を図った。シグルドは叫びあげたけれど、それをそのまま無視してフェイの部屋の方に彼は走った。
あの森でのことは、ほんとうのことではなくて夢だったのだろうか。フェイはあの森にいなかったのだろうか。あるいは、イドは。
戸を叩いても返事はなく、バルトは静かに戸を押した。
中からは寝息が聞こえてくる。
「フェイ」
小さく呼んでも彼は答えず、バルトは寝台に近寄った。眠っているのは黒髪の、フェイだ。疲れた顔で眠っている。
バルトはなにも言えず、立ち尽くした。
「……フェイ」
もう一度その名をつぶやくと、フェイはうっすらと目を開けた。その目を見た瞬間、バルトはどきりとして、ビリーがイドのことを評したあの言葉を理解した。……イドは子供みたいだ。
フェイのその目は、疲れきっていたし寝ぼけていたけれどしっかりしていた。
でもあのときのイドの目はそんなものではなかった。
傷ついた子供の目。イドの戦いは世界に対する子供の戦いだ。
どうしようもなくてどうしようもなくて世界に復讐する、でも勝ち目などあるはずもない子供の、戦い。
「……バルト?」
「お疲れ、フェイ。おやすみ」
バルトはそれだけ言って、部屋を出た。イドのあの目を、忘れられそうにないと思いながら。
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