罪深き隠者たちの家-6
 兵士たちの一隊が迫って来た。シェバトの精鋭兵だが、六人程度でヒュウガを抑えられるとは思えない。ユイはどうしようかと迷った。すでにガスパールが帰還しているのだから、彼を待つべきだった。しかし、ヒュウガは足を緩めない。兵士たちが銃を抜くのを見て、走り出す。抜刀はせず、手前にいる兵士を撲り倒すと銃を奪う。軽い動きで、瞬く間に三人を撃ち倒した。硝煙の匂いと血の生臭さが、あたりに広がる。ユイは棍を握り、駆け出したが、すかさずヒュウガの銃が至近距離を打ち抜いた。よろめいているあいだに、残りの人間も戦闘不能に追いこまれていた。明らかに死んでいるのが四人。ひとりは最後に力を振りしぼり、銃口をあげた途端に額を撃たれた。
 あっという間の殺戮だった。ユイは呆然と棍を握りしめたまま、立ち尽くしていた。ヒュウガはあらためて、ユイに銃口をむける。
「やめて」
「その台詞、少し遅かったようですね」
「どうしてこんなことが出来るの」
「どうしてこんなことをしてはいけないんです?」
 ほの暗い銃口が、ヒュウガの第三の眼のようにまっすぐユイを見つめていた。
「あなたはいつも命をそこにないものみたいに扱うのね」
「命が『ある』と『ない』とのあいだに横たわっているものはなんです? 死者も生者もうるさい。なんの違いもないじゃないですか」
 ユイは棍を捨てた。すぐ背後をめがけて銃弾が放たれたが、ユイは血溜まりの中の同胞の銃を握った。腕を振り上げ、ヒュウガを狙い定める。至近距離だったから、お互いに外すはずはない。
「間違ってるわ」
「人間は他の命を奪うことをためらう。ためらいつつも、奪う。……人間存在の矛盾、ですかね」
「ためらうことのないあなたはなんなの?」
 ヒュウガは懐に手を入れ、通信で見せた小さなケースを取り出した。人間を改変するナノマシンが入ったケースだ。
「このナノマシンを投与することを、我々は『リミッターを外す』と言います。それはありとあらゆる意味においてのリミッターです。人間としての束縛すべてから解き放たれる。肉体も、精神も、すべてが。その結果、人間であることをやめてしまう者もいるわけですが。僕は二年前にリミッターを外されました。僕は3パーセントの人間でしたから、いまここにこうしています。強靭な肉体と、精神とを手に入れて。けれど束縛というすべてのものから僕は解き放たれた。人間が人間を殺さずにすむ束縛、それは多分、道徳というものでしょうね」
 にっこりとヒュウガは微笑んだ。
「だから僕は人を殺すことが出来る。遅滞なく、無駄もなく」
 いつ撃ち殺されてもおかしくなかった。ユイは歯を食いしばりながら、ヒュウガを見つめていた。
 すぐに、ガスパールを先頭とした一隊が見えて来た。ガスパールの傍について来ている兵士たちは数名で、決して多くはない。銃をむけあうヒュウガとユイを見た一堂は、一瞬ひるんだようだった。通路は直線に延びていて、お互いを確認しても、まだ距離はある。ヒュウガはもはや、ユイには一顧だにしなかった。ヒュウガはナノマシンをしまいこんで銃を捨てると、大股で、足取りを淀ませることなく進みはじめる。ヒュウガとガスパールの距離はあっという間に縮まった。もうすぐ互い間合いに入る、と思うまもなく、ヒュウガは床を蹴った。
 ガスパールもほぼ同時だった。激しくぶつかり合う音が続く。ユイも、兵士たちも、身を竦ませた。ヒュウガは剣を抜き、油断なくガスパールに構えた。明確な光源のないダクトの中なのに、刃はぎらりと光を放つ。ヒュウガの剣は、己の鍛錬のために磨きあげられた腕ではなかった。人を殺すため、赤く染めて沈黙させるために鍛えられた腕だった。対するガスパールの獲物は槍で、ほぼ杖と同様に扱う。穂先を下に構えると、上にむけるよりも間合いが短くなるのだった。ヒュウガの刀は間合いが短く、彼の素早さを考えると、懐にもぐりこまれる危険を避けるためにそう構えているのだろう。ユイを始め、精鋭であるガスパールの部下たちでさえ、手を出すことのできない戦いだった。
 数合、武器がぶつかり合う。どちらも譲る様子はなく、ユイはひたすら息を呑んでふたりを見つめた。
「さすがに、なかなかお強いですね」
「なにが目的なのだ!」
 ガスパールはそう叫んで頭上から槍を振り下ろした。ヒュウガはそれを刃で受け止め、槍が大きくたわんだ。ふたりとも軽く息を乱して来ていた。
「そのお話はしたはずです」
「それならば、こんな場所に居残っていることはおかしかろう」
「まだ終わったわけじゃない。……先に行ったのはだれなんでしょう?」
「たわけた、ことを!」
 激しくぶつかり合いながら、ヒュウガは笑った。
「僕にとっては大事なことです。あなた方は知らないのですか? この言葉の意味を?」
「私に問うということは、貴様も知らないようだな」
「ええ、そうです。間違えた相手に託したんじゃないかと気が気じゃない」
 ガスパールは明らかに激怒して荒々しく武器を振り回した。ヒュウガは肩を竦めて大きく下がる。ユイのすぐ傍まで戻って、ガスパールを遠くに見た。さすがにガスパールはユイのことが気になるようで、踏みこんでは来ない。
 ヒュウガは額から汗を垂らしながらユイを振り返る。
「間違えたみたいですよ」
「残念ね」
「じゃあいったいだれのことなんでしょう。三賢者って? 先に行った者って? アルタバンって?」
 ユイの応えを待たず、ヒュウガは再びガスパールに駆け寄る。
「カレルレンの走狗めが!」
「それはちょっと返上したいですね。……あの伝言は、天帝からのものですから」
「なに?」
 ガスパールは困惑して身を引く。
「カレルレンではないと?」
「ええ。……なにか?」
「カレルレンがなにをいまさら言って来たのかと思ったが、天帝だと? 天帝がなぜ我々に伝言などするのだ?」
「心当たりがないと言うんですか」
 五百年前の大戦の折に、確かにシェバトはソラリスと戦った。しかしそれは、シェバトの王とソラリスの天帝とのあいだの戦いではない。天帝カインは当時もソラリスにおいては象徴であり、絶対の存在ではあるが、為政者ではないのだ。三賢者であるガスパールも、ソラリスを支配するガゼル法院とは渡り合ったが、カインが戦争に関わって来たことはなかったはずだった。その存在は、太古から生き続けている者という言葉でしかなく、地上勢力がソラリス本土へ戦いをしかけることすら出来なかったあの当時、あまりにも遠すぎるものだった。
 ヒュウガはふと無防備に立ち尽くした。その隙を見たガスパールは槍を繰り出し、ヒュウガは殴打を受けて背後に倒れこんだ。ユイはヒュウガが倒される瞬間に思わず叫び声をあげ、倒れこんだ彼の傍に駆け寄った。
 ヒュウガは血を流す額に手を当て、苦痛に呻いた。眼鏡は吹き飛び、ユイの足元で砕けていた。
「ヒュウガ!」
「……陛下が、このシェバトのだれに伝言を託すというんでしょうね。そう、確かにそうだ。陛下は地上のことなどご存じない。あの方はずっと玉座に閉じこもり、下界のことなど関わらないでいたはずだ」
 身体を起こしながら、ヒュウガは呟き続けた。
「じゃあだれのためか? 三賢者とはだれか? ……先に行ったのはだれか? シグルド? 先輩? そして僕?」
 ヒュウガの手は震えていた。そして彼は手に握り締めていた刀の柄を、ユイに手に押しつけた。その意図がわからず、ユイは困惑した。
「ヒュウガ?」
「……考える時間がほしい……」
 立ち上がったヒュウガは唐突にガスパールにむかって口を開いた。
「投降します。……好きなようにしてください」
 ガスパールはあっけにとられてヒュウガとユイを交互に見つめたが、ユイもなにもわからなかった。ヒュウガの呟いた言葉は聞いていたが、いままで聞いた話では理解しようがなかった。
 ヒュウガはその場で捕らわれ、身体検査を受けた。件のナノマシンが没収され、その他にも小さな武器が取り上げられた。牢へと連れて行かれるヒュウガを見送りながら、ガスパールはユイの傍へと来た。
「無事だったか」
「はい」
「あの男は、どうしたというのだ」
「……わかりません」
 ユイは首を振った。
 ヒュウガはなにかに気がついたのだろう。だがそれがどういうことなのか、だれにも理解できるはずがない。ヒュウガはそもそもなにかを求めてここまでやって来ていた。それは彼がいままで送って来た、絶望的な人生の中のなにがしかの意味になるのだろう。ソラリスで生きて来たヒュウガの価値観も、求めているものも、ユイにはわからなかった。ただてのひらの中には、彼が命を託して来た抜き身の刀が残されているだけだった。



 半日ほど休息をとったあと、ユイは女王の元へ顔を出した。既にガスパールは地上に戻っていた。戦線に戻って間に合うかは怪しい。今回の戦闘はシェバト側の惨敗となるはずだった。
 ユイは、自分の足元に黒々とした死が広がっているのを感じていた。それは彼女が死をもたらした死者たちで出来ていた。探索艇で死んだ仲間たち、ヒュウガが兵員宿舎を占拠する際に殺された兵士たち、地上で砲火の下に力尽きてゆく兵士たち。しかしその暗闇は、ユイだけが持っているものではなかった。ガスパールも、ヒュウガも、ゼファーですら持っているものだ。
 そして、あの幼いマリアも。
 マリアはゼファーの傍にいた。その様子は昨日までと変わりがあったように見えず、戻ってからマリアは話をしなかったのだろうか、とユイは思った。
「陛下、ご迷惑をおかけしました」
「彼は、どうしていますか」
「まだ様子を見ていません。先に陛下にご挨拶を、と思いまして伺いました」
「マリアがあなたと彼のことを話してくれました」
「そうでしたか」
「彼は、何者なのですか?」
「……わかりません」
 説明をするには、あまりにも複雑すぎた。ユイ自身も聞いた話を整理することが出来ていなかったし、ヒュウガ自身が、彼自身という矛盾した存在を理解できているとは思えなかった。シタンだとかヒュウガだとかいう、偽られた名前とそうでない名前とのあいだにある無数のかけらは、彼自身にも拾いつくせるものではないのだろう。だから彼はあんなにも混乱した存在だったのだ。
「尋問は始められているんですか?」
「いいえ、ガスパールがあなたに任せようと言い残していますから」
「私に、ですか」
 彼をシェバトに連れて来たのはユイなのだから、始末をつけろということなのだろうか。あの得体の知れない男をなおひとりでどうにかしなければいけないのかと思うと、どっと胸に不安が広がった。
 ゼファーはユイに微笑みかけ、ただこう言った。
「あなたの許せるように、なさい」
「私の?」
「ええ、あなたの」
 何人もの同胞を殺した男を、裁くのではなく、許せとそう言うのだろうか。
 その足で彼女はヒュウガを訪ねた。
 ヒュウガの牢の鍵を牢番から受け取って、ユイはヒュウガが歩き回っている檻の前に立った。狭い牢だが、ヒュウガはぶつぶつと呟きながらしきりにぐるぐると回っていた。さしだされた食事に手をつけた様子はない。食べるのを拒んでいるのではなく、気がついていないのかもしれなかった。
 ユイが来たことにも気づかず、ヒュウガは一心不乱という様子で考えこんでいる。額の傷は手当されていないらしく、血は止まっているようだったが、流れた血の痕が残っているし、服も汚れてどす黒い色になっている。
「ヒュウガ・リクドウ」
 名を呼んでもすぐに立ち止まらない。しばらく待ったが、一向にかわりがなさそうなので彼女は声を張り上げた。
「ヒュウガ!」
「なんです、って、ああ……あなたでしたか」
「様子を見に来たの」
「もう少し待ってもらえませんか。考えがまとまりそうなんです」
「もう少しって」
「あと少し。……ようやくわかって来たんですよ」
 ヒュウガは実に嬉しそうに笑った。それが彼の思い悩んでいることの結論が出るから浮かべられた笑みではなく、まるでユイ自身にむけられたもののような気がしてはっと胸が苦しくなった。わずかに顔が紅潮したが、ヒュウガは気づかない。また何事かを呟きながら足を動かしはじめる。
「やっぱりいいのかな……けどカールはこの場合……そうだ、総帥就任式のときに会っているんだ。だから……うん」
 少し経ってから、ぴたりとヒュウガの足が止まった。
「お待たせしました。整理がつきました」
 ユイはそれを聞いて、肩を竦めた。
「なんのかは知らないけれど」
「例の伝言ですよ。だれからのものか? だれに宛てたものか? わかりました。やっぱり、間違えていたみたいです」
「そう、それはわかってよかったわね」
「聞いてくれますか?」
「……いいわ」
 どんな長い話が始まるか知れたものではなかった。ユイは檻の前に腰を下ろした。ヒュウガも同様に腰を下ろし、ユイを見た。
「学生だった頃、僕にはかなり親しい友人がいました。ひとりはシグルド・ハーコート。ラムズ出身で、14歳のときにアブダクションを受けソラリスへやって来ました。しばらくは実験体として扱われ、そののちに、士官学校へ入学して来ました。もうひとりは、カーラン・ラムサス。二級市民出身ですが、能力の高さから士官学校に入る前から名前が知られていました。シグルドをソイレントから連れ出して士官学校に放りこんだのも彼でしたし。このふたりは僕と同じ歳ですが、もうひとりは先輩です。ジェサイア・ブランシュ。彼は一級市民で、当時、ゲブラーの次期総帥と目されていた男です。僕らは血統主義の軍上層部に異議を申し立て、能力主義を標榜しました。その際に僕ら四人でエレメンツという組織を結成したんです。まだ学生でしたが、能力の点で我々に追随するものはいませんでした。我々の行動はうまく行っていたんですが、なにぶん急進過ぎて、周囲は追いついてくれなかった。……というわけでまあ、学生運動は失敗しました。それが原因だったわけではありませんが、シグルドは間もなく地上へと帰りました。記憶をなくしていた友人の話はしましたね? ソラリスにいるあいだに家族を殺されてしまった男です。それがシグルドです。噂では、弟さんがひとり生き延びていて彼の元に帰れたというんですが、ちょっと確かじゃないですね。数年後、ジェサイア先輩も地上へ移りました。ソラリスの専制に我慢できなくなったんです。
 これで4引く2。ソラリスに残っているのは僕とカールふたりです。カールはつい先日、ゲブラー総帥に就任しました。いまガスパール殿の軍隊と戦っているソラリス軍の総大将が、カールです。そしてカールが、アルタバンです。あの伝言は、陛下からのものですらなかったんです。陛下は僕にカールの言葉を伝えてくださっただけだったのです。……三賢者とはシグルドと先輩、そして僕のことなのです。なんのことかわかりませんか? つまり……カールは僕にソラリスを捨てて先に行っていいと言ってくれたんです。
 カレルレンの配下になって以降、僕はすべてを壊されました。人生も、精神も、魂も、そして故郷も。僕はそれに逆らわなかった。ふふ、陛下は僕がおかしいと嘆き、カールは僕がおかしいと怒りました。ですが僕にはもはやそれがわからないのです。僕がおかしい? どこが、なにが、どうして? いまもよくわからない。自分が変わったことは知っています。でも、あれを思い出すと他のなにもかもがどうでもよく見えるんです。いまここで思い出しても、声が聞こえて来るんですよ。あのざわめきが。あなたの顔を見ていても、遠く離れたこの世にはない場所から聞こえて来るあのざわめきが、聞こえて来るんですよ」
 そう言って笑うヒュウガは、狂気を感じさせた。もはやユイはそれに慣れつつあった。一瞬ののちには拭い去られるだろうその狂気を受け止めていた。
「だからこそカールは、僕にソラリスを捨てろと言ってくれたのでしょう。ゲブラー総帥になったいま、カールがそんなことをじかに僕に言うわけにはいきませんから、陛下を介して。カールも総帥になったことで陛下に謁見する権利を持つようになったわけですから、ふたりが協力してもおかしくないわけです。陛下も、僕がおかしいことには気にかけていらっしゃったし……ふたりとも僕をあれから引き離してたまらないんですね」
あれというのは、なんのことなの?」
「ああ、そうでした」
 ヒュウガは眼鏡を押し上げようとして、それがないのに気がついた。苦笑した彼は、そのまま口を開いた。
「アニマの器です。……僕はアニマの器の同調者なんです」
 ソラリスと戦うためにシェバトは五百年前からアニマの器を求めている。アニマの器は、器そのものがあったとしてもそれに同調する者がいなければなんの意味もない。ユイはあっけにとられて、ヒュウガをあらためて見た。
「なんですか、僕の顔になにかついていますか?」
 ユイは首を振りながら、てのひらで牢の鍵を握り締めた。ゼファーは彼をユイの許せるままにしろと言ったが、どうしていいのかわからなかった。ソラリスの人間は、捕らえた場合は、情報を取れるだけとって、最後には殺さざるを得ない。こちらの情報をソラリスに渡すわけにはいかないからだ。しかし、ヒュウガをそうするにはためらいがあった。
 彼の奇妙な境遇が惑わせる。
 ヒュウガを見つめつつ、ユイは自分の胸に問いかけていた。どうしてヒュウガを許したいと願っているのか。あまりにも答えは明白だった。ユイは、自分の罪を認めないためにヒュウガをシェバトまで連れて来た。あの事故で死んだ同胞たちへの罪を誤魔化すためだった。いまここでそのヒュウガを許したいと思っているのは、ヒュウガをつれて来ることによって生じたより多くの罪に対して、自分自身を許したいのだった。
 ガスパールもゼファーも、ユイが望むままにしろと言っている。彼らはそこまで気がついているのだろうか。それとも、ユイがヒュウガに感じている憐憫を、ユイの自責に由来する感情ではなくて、恋のようなものだと思っているのだろうか。
「それはあのリミッターが関わっているの?」
「ええ、そうでしょうね」
「あなたはどうするつもり」
「ソラリスというのは僕にとって、どこまでも矛盾した存在なんです。シグルドみたいに、地上から連れて来られたのだったら憎める。カールみたいに、市民と認められていれば愛せた。ソラリスに拉致されたのは僕の祖父で、僕はソラリスで生まれた。ソラリスが母国であるのは僕には間違いがないのです。だからこそ、その政治のいびつさには腹が立つし、それを正したいとは願う。けれど僕は拉致されたラムズの末裔で、だから地上で搾り取られる同胞たちの嘆きにもはらわたが煮えくり返る。僕はいままでソラリスを捨てることが出来なかった。固執するつもりはないけれど、簡単には捨てられない。……ましてや僕には人生も精神も魂もないのに?」
 ヒュウガは挑むようにユイを見た。
「それに囚われの身です。ソラリスの軍人として」
「鍵を開けるわ」
 ユイは鍵を開け、そのまま身を引いた。ヒュウガは目を丸くして、ユイを見つめる。
「処罰されますよ」
「いいえ。私がしたいようにすればいい、陛下からはそう言われているの」
「じゃああなたが僕を殺したいと思えば、そう出来ると?」
「出来るわ。……出ないの?」
「じゃあ、お言葉に甘えます」
 ヒュウガは軽い調子で檻を出た。ガシャンと音を立てて鉄の扉が閉まり、ヒュウガはユイの前に立っていた。
「どうして僕を許すんですか? あんなに腹を立てていたのに」
「シェバトは『罪深き隠者たちの家』と呼ばれているの。この街はとても罪深い。だからこそ、他人の罪には寛大なのよ。私は、あなたを許せるわ」
 それは他ならない彼女自身のためだったが、それは口にしなかった。
「シェバトから脱出する手段はあるんでしょう?」
「僕が出て行くと決めてるんですね」
「違うの?」
「違いませんね」
 ふたりは監獄を出た。牢番は驚いていたが、あらかじめゼファーから話は聞いていたのだろう。咎めるようなことはしなかった。
「脱出の用意をしてある場所まで連れて行って」
「……わかりました」
 ヒュウガは王宮を出てアウラ・エーベイルを目指した。地下港のどこかからだろうとユイは踏んでいたが、王宮のセントラル・リフトを降りたヒュウガはそのまま歩き出した。シェバト内部にソラリスの工作員がいるのだとしたら、それは明らかにしておかなければならなかった。
 空の只中に浮かぶシェバトでは、常に青い空が広がる。風にとりまかれつつ、ふたりは歩いた。王宮から随分離れた空の淵で、ヒュウガは足を止めた。そこにはなにがあるわけでもない。艦も、ギアも、用意されていない。ユイはなにかを言おうとしたが、ヒュウガは目を閉じていた。まるで風の声を聞いているかのようだった。
 待った時間はほんのわずかだった。ジェネレータの生み出す轟音が近づいて来る。そして瞬きもしないあいだに、ふたりの目の前には巨大なギアが浮かんでいた。地上の緑を思わせる緑青のギアだった。
「ソラリスからのサルベージ品の中に紛れこませていたんですよ。……エル・フェンリル。これが僕のギア・バーラーです。僕が呼べばそこへと来てくれる。それが、ギア・バーラーです。成層圏の大気でも、ギア・バーラーなら飛行が可能ですしね」
 ヒュウガはそう言って、ユイを振り返った。
「いざとなると、なにを言っていいかわからないものですね」
「あなたの刀は私が持っているわ」
「ああ、そういえば」
 すっかり忘れていたというように、ヒュウガは腰に挿した鞘に手をやった。少し考え、それから鞘をはずしてユイに渡した。
「預かっていてもらえますか」
 手を握られ、ユイはヒュウガを見た。眼鏡がなく、血の痕を残す顔ではいささか間が抜けていたが、ヒュウガはいままでに見たことのない笑顔を浮かべていた。
「それがなければ僕は人を殺さなくても済むかもしれない。心がとどめなくても、手段がなければ、命を奪わないかもしれないですから。
 いつになるかはわかりませんけど、僕を待っていてもらえますか」
 ヒュウガはとても晴れやかに笑った。それでも彼の眼の奥にあるあの闇を、ユイは見つけた。その瞳に引きこまれるように思わず身を寄せると、ヒュウガにしっかりと抱きとめられた。
「ええ」
 長い時間ではなかった。ヒュウガはすぐに身を離す。
「それじゃあ、行きます」
 返す言葉を思いつかなかった。ユイは眩しさに目を細め、ヒュウガが乗りこんだギアを仰いだ。轟音が再び鳴り響く。離陸する間際、ギアがユイの姿を見たような気がした。それは中に搭乗したヒュウガがユイを見たのではなく、ギア・バーラーそのものに見つめられた、というように思えた。
 遠ざかる機影を見送りながら、ユイは鞘を握りしめ、長いこと立ち尽くしていた。強い風に煽られたが、それでも彼女は長々とその姿を見つめ続けた。なぜか身体は震えていた。別れが悲しかったからではなく、とうとう彼を逃してしまったことへの不安でもなく、その震えはどこまでも得体が知れなかった。まぶたには、あのギア・バーラーの姿が焼きついて消えない。
 それからユイは、踵を返して王宮を目指した。
 風に掻き消されても、いつまでもヒュウガのギアのジェネレータ音を思い続けることが出来た。それは残された刀と鞘よりも、抱きしめられた感触よりも、永く永く、ユイの傍を離れることがなかった。





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シタン先生の話でした。これで、自分がシタン先生について書きたかったことはすべてお蔵出しした・ぞ! 七年ぐらいかけた話なんで、おっそろしい満足感です。会話で全部説明しているあたり、私の能力の限界をあらわしていますが、誠意をこめたので見ないフリ。
シタン先生の話としては、「最後の花火」「架空の森」「kill the silence」「罪深き隠者たちの家」「明日のゆくえ」という流れで読んでいただけると、時間軸的にもすべてフォローできている仕組みになっています。
ヒュウガがシタンになっていく過程、というものにものすごく興味があって、カールやシグルドのような、ユーゲント時代からいまの姿になるエピソードが、シタン先生だけにはないんですよね。けど、そのシタン先生の変化が一番大きい気がするのね。ヒュウガって存在は公式じゃなくてサガクリオ同人誌という準公式がわたしたちみんなの根底にあるものなので、なんともいえないところはありますが。シタンが変わったわけ、というのを考えて、思いついた話でした。
シタユイがすごく好きだというわけではないんですが、シタン先生にとってユイは、存在しなくては自分も存在し得ない、というくらいの人だと思っています。けどこのときユイはまだシタン先生のこと好きになってなくて、このあとシタン先生がせっせと通いつめて結ばれるわけですがね。
カールがすごく大人な役割を果たしていますが、これはまだエルルの悪夢が発生していないので、余裕があるカールなのであるよ。そういえば、第四の賢者アルタバンは聖書に出て来るわけではありませんが、物語として存在しているものです。ヴァン・ダイクの『もうひとりの博士』というのが原典になっています。
捏造どころではなく、ゲーム中と大きく矛盾している部分がありますが、勢いで読んでほしいです。主にリミッターのあたり。資料集持ってないから! とかでは説明できない矛盾ですね。割といつもどおり。
それでは、長いのを読んでくださって、有難うございました!
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