黄金姫 あるいは塔の亡霊 02
《Die goldene Prinzessin; oder das Gespenster habe noch umhergegangen.》

 それより数年後、王宮で一人の男が死ぬ事件があった。それは廷臣の子息の一人で、ハリ王子とは日頃から懇意にしていた青年だった。彼は死んだ夜も、王子と外交についての話をし、酒を飲んでいた。夜も更け、酔った様子で、王宮内に与えられた房へと戻っていく後姿が、王子が見た彼の最後の姿だった。
 翌朝、彼の訃報を耳にした王子はあることを思い出した。昨晩は王子自身も酩酊していたせいであまり考えなかったのだが、去って行く彼の背を追うように、金色の光を帯びた人影が歩いていたように思ったのだ。いまさらながらあれが彼の異変の前触れだったのではないかと思うものの、妖異なことを簡単に口には出せない。
 友人は殺害された様子はなく、眠るように死んでいたのだということだった。あれほど元気な方だったが病気だったのか、と人々は噂した。そしてそのあと、「なんにせよ、姫君の夫として撰ばれる前でよかったではないか」そう続けた。
 ハリ王子の同腹の妹と連れそうことになる夫は、近いうちに決められるはずだったのだ。候補の一人が死んだ青年であり、いま一人は、あのカラ将軍だった。青年が死んだことによって、カラ将軍が妹姫を娶ることはほぼ決まりだった。カラ将軍と妹姫とはいささか歳が離れているものの、それは珍しいことではない。しばらくして、やはりカラ将軍が妹姫の夫となることが定められた。
 ハリ王子が金色の光の夢を見るようになったのは、その頃からだった。その光の夢を見て、息苦しく目を覚ますと、暗い夜闇の中を黄金の光が漂っているように視覚に残った。青黒い闇に包まれたはずの時刻に、あたりが金色ににじんだように見える。
 そんな日が続くと、ハリ王子は友人の死の夜に見た光を思い出さずにはいられなかった。あの光はなんだったのだろう。あれが彼の死を示すものだとしたら、夜毎に訪れる金色の夢も、王子の死を示しているように思えた。
 病など少しも心当たりはなかったが、寝苦しい夜が続いているせいで体調が優れなかった。さすがに気になり、薬師の元を訪れたが、はかばかしい返事をもらえなかった。
「雨季になるとだれでも体の調子が狂うものでございます。お気になさりませぬよう、申し上げます」
 薬師はそう言うものの、夜毎おとずれる金色の夢から逃れることは出来なかった。そのうえ、真夜中に金色の夢を見て苦しく眼を見開くと、以前から見えるその黄金の残滓は次第に濃くなってゆく。寝汗に濡れ、心臓の鼓動が激しく脈打っていた。目覚めているはずなのに、黄金の闇が王子の視界で揺れる。その黄金色の揺動は、まるでウシャス女神の舞のようであった。天上でも類稀なる舞手であるウシャス女神の、衣を翻す舞のようだ。
 気力を養う薬を処方してもらっても、なにも変わらなかった。むしろ、目を覚ますごとに身体が重くなり、心は金色の光と裏腹に暗く翳ってゆく。
 黄金の闇をまとって舞うウシャス女神の衣の幻影もまた、濃くなって行く。ハリ王子は女神が彼の心臓の上で舞っているのを感じていた。女神が足を踏みならすごとに、胸から飛び出しそうなほど鼓動が脈打つのがわかる。
 これはただごとではない、日を追うにつれ、王子にはその確信が強まった。この光がなんにせよ、このままでは自分が近いうちに死ぬだろうという予感がした。毎夜、目覚めては金色の光に悶え苦しみ、気づけばまたうつらうつらとした眠りに絡めとられてゆく。押し潰されたような胸の痛みに、ある夜、ハリ王子は咳きこんだ。口元を押さえた掌にべったりと血がはりつき、彼はなにものかにとりつかれたおのれを呪った。
 さすがに血を見た衝撃は激しく、王子は苦悶しながら金色の光をねめつける。たとえもうこの身が手遅れだとしても、この光がなにかを知らねば気がすまない。この夜ばかりは、うつらうつらと浅い眠りに溺れることもなく、王子は寝台の上に仰臥し、幻影の正体を見ようと眼を瞠いていた。
 やがて、舞う黄金の光がふと遠のいた。部屋の外へと出て行くその光は、確かにかつて王子の友人の死の夜に見たものとまったく同じだと王子は気づいた。いままでは漠然と舞う女神の裳裾のようだと感じていたが、それは人の姿をしているようにはっきりと見えた。すらりとした姿の女だ。華やかな衣装をまとっている。ハリ王子には後姿しか見ることが出来ず、容貌はわからなかったが、ひどく優美な姿だった。彼女はまことのウシャス女神かもしれないと王子は思う。だが、いまは真夜中だ。ウシャス女神は暁を支配する。――
 王子は決意して、苦しい身体を起こした。そしてよろめく足取りで、その黄金の女を追い始める。追ってどうなるものかもわからないが、追うしか手がかりがない。
 王子は怪しげな光に導かれて、闇夜の王宮を歩いた。いつしか廷臣たちに与えられている房のあたりへと来た王子は、追っていた黄金の光が掻き消えてしまったので慌てて見回した。夜も遅いので、起きている者の気配はない。だが、通りがかった中庭のむかいにゆらゆらと揺れる火を見て、とっさにそちらへと足をむけた。その一帯は、ハリ王子の妹姫の夫と決まったカラ将軍の家に与えられている。王子といえど、みだりに足を踏み入れられる場所ではないのでどの房にだれがいるかまでは知らない。とんだ無礼になるかもしれなかったが、王子は朦朧とした意識で紗をめくり、房へと飛びこんだ。
 部屋には揺らいでいる燭の火しか見当たらない。あの黄金の光はどこへ行ったのだろうと思いながら、堪え切れずに王子は膝を折った。咳きこまずとも、臓腑を這い登って口の中に血が溢れている。
「……王子?」
 その声にハリ王子はかすかに顔を上げた。夜着姿のカラ将軍をそこに認めて、彼ならばこんなことをしても許してくれるだろうと王子は安堵した。視界に金色の光がちらつき、やがて王子は意識をなくして倒れこんだ。

 苦しさに王子は呻いていた。体中が軋むように痛み、一瞬ごとに頭蓋を殴打されるような頭痛に襲われていた。口の中には血の味が溢れ、吐き気がこみ上げてくる。ひどく苦しい姿勢なのだが、楽な姿勢になろうにもどうしてもうまくいかない。身体に力が入らない。腹部を強く押されているようだった。
 その上ひどく揺さぶられている。その激しい衝撃は、規則正しく王子の身体を苛んだ。これを止めるためなら目を抉って与えても構わないと彼は思った。
 ふとした瞬間に、王子は自分の置かれている状況に気づいた。身体の下が暖かい。そして激しく揺れている。うっすらと開けた目には、凄まじい速さで動く大地が見えた。
 王子は馬に乗せられているのだ。手足は馬の鞍に結びつけられているようで、乗り手の身体のうしろにうつ伏せてくくりつけられていた。激しい揺れは、馬が駆けているためだった。
 一体なぜこんな状態に陥ったのか、王子はわからなかった。どこかへ連れて行かれるのだろうが、身体の激しい苦痛に叫びたいほどだった。
 馬は、森の中を駆けていた。あたりは朝の色に照らされているが、まだ暑くはなっていない。ハリ王子は馬の背で、何度か吐いた。それはひたすら赤く、王子自身にさえ、どこから溢れたものかわからなかった。
 やがて、馬が止まった。馬を御していた人物は、降りると王子の手足を縛っていた縄を取り除き、あまり丁寧とはいえない仕草でハリ王子を馬から下ろした。抱えあげられ、王子はそれがだれかを知った。じきに王子の妹の夫となる男だった。
 苦しげに王子が唇を震わせているのを見て、カラ将軍は王子が意識を戻しているのに気づいたようだった。しかし、なにも言わず彼は歩き出した。その頃には、眩しいほどの陽光が森を照らしていた。ハリ王子は、青く澄んだ空を見あげ、その青さの中に聳え立つ旧いウシャス女神の塔を認めた。
 カラ将軍は王子を抱いたまま、その塔へと足を踏み入れた。塔の中は暗かったが、将軍は迷うことのない足取りでウシャス女神の祭壇へとむかい、その祭壇に王子を下ろした。ハリ王子は咳きこんで、また吐血した。
「どうして、こんな場所に――」
 発作がおさまると、ハリ王子はそれを問うた。カラ将軍は祭壇に捧げられた燭台に油を流し、火をつけた。わずかな赤い光がカラ将軍の冷たい顔を照らし出す。
「王子に私の部屋で死なれては、困りますので」
「どういうことだ、カラ殿。なぜ私をこんなところに連れて来たのだ。苦しい、頼むから、早く王宮に連れ戻してくれないか」
 すがるように王子は将軍に懇願した。だが、彼がそうしないことをハリ王子も承知していた。
「私が王子を連れ出したことは、だれにも見咎められてはおりません。あなたがここにいることは、だれにもわからないでしょう」
「カラ殿、私はあなたの部屋で、あなたが手にしていた匣を見た。それは、私の部屋に夜毎おとずれては苦しめた黄金の光と同じ色に輝いていた。私をこうして苦しめるものの正体を、あなたは知っているのだろう」
「ご覧になっていたのですか、王子」
「ああ、見たとも。そして私の友人が死んだ夜にも、私はあの光を見たのだ。あれをなんだと言うのだ!」
 カラ将軍は、かすかな光の中で視線を反らした。
「あれがなにかは、王子、あなたもご存知です。この塔に縁のある方と言えば、思い出されるのではありませんか」
 かつてカラ将軍とともにここで見た亡霊のことは、過去の残滓であるとしても忘れようがない。ましてやそれが英雄の呼び名も高い誉れ高い青年だったという話を聞いて、ずいぶんと哀れな思いを掻き立てられたものだ。
 王子はこの塔のことを言われ、亡霊であった戦士ソルマとその恋人の名を思い出したときにようやく、カラ将軍が示唆したことに思い当たった。美しい黄金の光に満たされたあのあやかしは、その名の通りソルマの恋人であった黄金姫ではないのか。あの戦士が亡霊としてこの時代まで永らえているのなら、黄金姫もそうであったとておかしくはない。
「黄金姫……?」
「ええ、あの方です」
「どうして」
 サンニヤーシン翁の話では、行方をくらました黄金姫の消息はついにわからぬままだったのではないのか。
「なぜあれが黄金姫なのだ。あれは亡霊なのか?」
「王子、ご存知とは思いますが、この塔を建立したアヌマティ妃は私の家の者でした。そして、サンニヤーシンはただひとり、その当時を知っているのです。私は王子より先に、サンニヤーシンより話を聞きました。王子にお話したことはすべてではありません。なにしろ、サンニヤーシンは黄金姫の行方すら知っていたのですから。そしてサンニヤーシンは、かつてこの塔の司祭でございした」
「ウシャス女神の、司祭であったのか」
「ここがウシャス女神の塔であったことが一度でもあればの話ですが。王子、この塔でなにが行われたか、想像が出来ましょうか? この塔はアヌマティ妃が邪法を執り行うために建てられた塔なのです。その法力の力があって、件の戦いでパリクシット王は勝利されました。王子が昨晩ご覧になった匣は、その力を制御するためのものです。アヌマティ妃の亡き後、長らくこの塔で眠っていたのですが、サンニヤーシンに話を聞き私はこれを手にしました。黄金姫は、それであなたのご友人を殺し、そしていまあなたを殺そうとしております」
「黄金姫?」
「はい、アヌマティ妃は黄金姫を殺し、その魂をもって力と為したのでございます。釘づけした舟に黄金姫を閉じこめ、柳那河へと流したそうです。海に至るまでに死した姫の魂魄は、呪法によってこの匣に納められているのですよ」
「……なんということを……!」
 王子はその残酷さに顔を顰めた。だがすぐに、自分もまたその力のもとに殺されようとしていることに気づいて悔しがった。カラ将軍が王子を殺そうとする理由はたったひとつだ。アージャシャトラ王にとって王子はハリ王子一人ではないが、みな身分が低い。妹姫の夫となる将軍が王位を継ぐことは十分にありえるのだ。
 カラ将軍は火を吹き消した。暗闇に落ちた祭壇から無情に踵を返す。
 王子は、将軍の姿が出て行くのを見送りつつ、苦しい息を殺して立ち上がった。
 彼が剣でハリ王子の息の根を止めることはしないだろうことはわかっていた。剣で殺せば、そのあとが残る。だが、それでは当たり前のようにカラ将軍が疑われるのだろうから、こうして黄金姫の呪われた力を用いてハリ王子を殺そうとしているのだ。
 ここへは滅多に人など来ない。置いていかれれば、カラ将軍の望みどおりになることは間違いなかった。
 喀血しながら王子は塔を出た。カラ将軍はまだそこにいた。馬にこびりついた王子の血を拭わずに王宮に戻ることは出来ないから、馬を清めていたようだった。ハリ王子が現れて、カラ将軍はとうとう苛立ったように立ち上がって腰の剣を抜いた。
「ウシャス女神に呪われるがいい……!」
 そう言って王子は膝をついた。カラ将軍は、剣を手に王子に歩み寄る。
「ウシャス女神が罰するならば、わが家はとうに絶えておりましょう」
 そのとき、王子が幼かった日に将軍とともに塔へ迷いこんだときと同じことが起こった。中天にある太陽の光がきらめき、その陽光の中にかすれた姿の亡霊が現れたのだ。立派な戦装束に身を包み、腰に剣を佩いた戦士ソルマだった。亡霊だったから、過去に見たときから少しも老いていない。
 王子は咳きこみ、血に濡れた手でただ亡霊に助けを求めた。亡霊になにができるはずもないが、この場で王子の縋るものはその亡霊しかないのだった。
 亡霊もまた、剣を抜いた。
 カラ将軍は戸惑ったように亡霊を見ている。黄金姫の恋人であった戦士が姿を現すには、偶然が過ぎた。だがそれは亡霊だ。亡霊が剣を振りかぶると、カラ将軍はそれを見あげたが剣を構えなかった。
 次の瞬間には、カラ将軍の苦痛の声が王子の耳に届いた。王子が見ると、亡霊の剣で切られたカラ将軍が、驚愕した顔で立ち尽くしている姿が見えた。
 二撃目は、カラ将軍も剣で応えた。亡霊は凄まじい勢いで剣をふりおろし、カラ将軍を攻める。カラ将軍はおののきつつも、決して劣ることなく戦った。
 それはさながら、かつてこの塔の前で執り行われるはずであった神明裁判の再現であった。悪竜であると預言を受けた戦士ソルマと、アヌマティ妃の弟、ラームが戦うはずだった裁判は、始まる前に塔のビシャルヴァーナ神像が持っていた槍にソルマが貫かれ、行われなかったのだ。その再現をしているカラ将軍は、ラームの曾孫に当たるはずだった。
 決着は亡霊が生ある戦士からその生を奪うことでついた。
 ソルマの剣がカラ将軍の胸を抉り、命を絶ったあとにもう一度ふりおろされた。その剣は、カラ将軍がしまっていた黄金姫の小匣を壊したのだった。

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