リシャール・ド・サジエ あるいは聖ベルナールの弟子
《Richart de Sagie; oder der Anhaenger von Sankt Bernard》

 昼なお薄暗い森の小道を、一頭の馬が駆けていた。よく手入れされた精悍な軍馬に跨る騎士は、腕に白い布はしを結んでいる。それは彼が教会に書簡を託された者であることを示したものだった。鎖帷子を身に纏ってはいるが、華やかな飾りのついた兜は鞍に結わえていたので、騎士の顔がよく見えた。厳しい面立ちで馬を進めてはいるものの、そこには若い騎士らしい快活さが宿っており、騎士にしてはいささか柔弱な容姿に見えた。騎士の名はリシャール・ド・サジエ、ディジョン近郊を治めるフォンテーヌ家の騎士だった。
 リシャールは勢いよく馬を奔らせていたが、森の街道の上にあらわれた黒い人影にはたと目を止め、馬足を緩めた。よろめきながら道を塞いだ人物は、長い黒の外套を目深にかぶり、どんな姿か少しもわからない。リシャールは警戒しながらも馬を止めた。すると、外套からは雪のように血の気のない、白い手があらわれた。思わずぞっとするが、それが女性のものであること、しかも美しく若い貴族の女性の手であることに気がついて、構えかけた身体をただす。
「騎士様、どうかお助けを」
 声もまたこの上なく美しい、鈴のような声だった。彼女は震えながら、頭から外套をはずし、顔を露わにする。そこに現れた、人のものとも思われぬ美しいかんばせに、リシャールは息を呑んだ。肌の白さは手と同じで、真冬に降り積もった雪のように白い。蜜の流れのような長い金の髪は、太陽の光ほどもまぶしい。赤い唇は血のごとく赤く、まだ歳の頃は若いのか、硬い果実を思わせた。しかし左の指には金の指輪がはまっており、人妻か、婚約者のいる女だった。
 しかしただならぬ様子で、そうして顔を見せるのも屈辱に耐えるような有様だった。リシャールのような騎士の身分の者がおいそれと声をかけられる女性ではなさそうだ。
「どうかなさいましたか?」
 リシャールが馬から降りて尋ねると、彼女は青ざめた顔でこう言った。
「どうか、わたくしを夫の元まで連れて行ってはくださいませんか」
「どうなさったのです。あなたのような方が、この森を徒歩でさまよっているとも思えない」
「追われているのです。馬車でこの森まで参りましたが、根に轍を取られ、馬車が壊れてしまったのです。もう追っ手がそこまで来ていましたので、逃げ出しましたが、供の者ともはぐれてしまったところをあなたにお会いしました」
 リシャールは女の申し出に迷い、顔をしかめた。
「どちらへ」
「オルレアンです」
 女はここから南へと抜けた場所にある町の名前を告げた。しかしそれはリシャールの目的地から迂回してゆくような場所にはない。リシャールは迷いながらも、提案した。
「生憎ながら、私はある方にお会いするため、これから明朗の谷クレルヴォー へ急がなくてはなりません。あなたをご主人の元にお連れしては、私の用が間に合わないのです。トロワのシャンパーニュ伯からお預かりした書簡を渡すお役目ですから、滅多な理由では遅れることが出来ません。……私に出来るとすれば、あなたを共に谷へお連れすることだけです。どのような事情かは知りませんが、谷にあるのは修道院のみ。少なくともあなたにとっての避難所アジールとなるでしょう」
 女はさすがに惑ったようだった。だが、その間も惜しいのか、容貌のはかなさとはかけ離れた強さでリシャールを見凝め、頷いた。
「あなたにお任せいたします」
 彼女の言葉は、その美しさとあいまってどこか人の血を凍らせるような、強い決意のこめられたものだった。
 リシャールは彼女の手を取り、馬上に乗せた。それから、彼はまた、目的地へとむけて馬を奔らせはじめる。しばらく駆けたあと、事情を聞かせてもらおうと馬を並足に戻したリシャールは、目の前の女性に尋ねた。
「それで、一体なにに巻きこまれていらっしゃるのですか」
「宮廷の騒ぎはお聞きになっておりますか?」
「いいえ、私は田舎の者ですから、パリのことはとんと」
 リシャールが言うと、彼女は大きくため息をついた。
「それではルカ・ド・サジエと申す者のことはご存じないでしょう。領地もなく身分のある騎士ではありませんが、国王陛下の憶えはめでたく、一隊を率いるほどの兵力を与えられています。もっとも、国王陛下のお力も今はさほどではございませんから、たかが知れているというものですが」
「……その者が、都で騒ぎを起こしている、と?」
「いえ、そもそもこの度の騒乱は陛下が望まれたことなのです。法務長官ガーランド公が宰相ダピファーにまで任ぜられて、文武両官の長となり、王国の政治を私にして傲慢にふるまっているのを見ては、陛下のご辛抱にも程があったのでしょう。陛下はガーランド公の不在を狙い、役所のいくつかをサジエ卿に占拠するようお命じになられました。夜陰に乗じ、サジエ卿は手際よく陛下の命をなし、そしてそのまま、ガーランド公の私邸の占拠にも踏み切りました。わたくしはそこから逃れて参りました」
 リシャールは彼女の告白に驚いて、思わず手綱を取り落としそうになった。告白が真実だとすれば、彼女も、そしてリシャールもとんでもない政争の中に身を置いていることになる。彼女は済まなさそうに眉をひそめた。
「わたくしはあなたをとても厄介な事態に巻きこんでいるのですわ。わたくしの名前はヴェリテ・ド・ガーランド、ガーランド公エティエンヌの妻なのです」
「では、追っているのは国王の臣下だと、」
「侫臣でございますわ」
「しかし、国王の命に従っているのでしょう」
「エティエンヌの屋敷に押し入ったのは国王陛下の命ではございません」
「なぜそう言い切れるのです?」
 リシャールが尋ねると、ヴェリテは首を振った。
「それは申し上げられません」
「なぜ追われているのです。騎士ともあろう者が、あなたのような方を捕らえようとこんな場所まで来るとは、おかしいではありませんか」
「お願いですから、お尋ねにならないでください」
 身を震わせて彼女が言うので、それ以上は尋ねられなかった。
 しかしリシャールは晴れぬ気分のまま馬を走らせた。このまま彼女を連れているのは彼自身にただならぬ災厄をもたらすような気がしたのだ。なにを隠そう、ルカ・ド・サジエはリシャールの実の兄なのだ。屋敷を出てどこを放浪しているものかリシャールも知らなかったが、まさか国王に気に入られてパリに居るとは思わなかった。どのような経緯があったかは知らないが、リシャールも兄も身分は高くなく、国王陛下の前に出ることが出来るような身ではない。
 その兄が追うヴェリテを自分が連れているというのも奇妙な巡り合わせだった。
 しかしなんでまた、あの兄がヴェリテを追ってこんな場所まで軍を進めているのか、はっきりとしない。この女性がなにか政治に関わる力を有しているとでも言うのだろうか。
 谷まで連れて行くという約束をしたはいいが、その後はどうするべきか、リシャールは頭を痛めた。谷で主人を訪ねたあと、ディジョンに帰るか、オルレアンへとヴェリテを送り届けるか。彼がルカ・ド・サジエの弟であることが知れれば、ヴェリテを送ってガーランド公の前へ出ても無事では済むまい。リシャールの名はまだヴェリテに告げていなかった。ヴェリテほどの身分の女性であれば、騎士の名前など気にしないのが当たり前だ。それでヴェリテはリシャールの名を問わないのだろうが、有難かった。
 これから訪ねる修道院は、女性を修道院に近づけないという厳しい修道会則を持っていた。わずかな間、逃れる場所としては許されるだろうが、ヴェリテが長く留まることは出来ない。森の中に放り出すわけにもいかない。
 谷へ着いたら主人に相談せねばならないだろう。田舎育ちのリシャールでは判断をつけられなかった。

 夜半にさしかかると、二人は草を枕に休むこととした。リシャールは自らの外套をヴェリテに手渡した。それでも彼女にとっては辛い夜だろうが、我慢してもらう他はない。ヴェリテは横になりながらもリシャールに警戒を見せた。若い騎士の不埒なふるまいはありがちなことで、特に、この深い森の中で二人きりとあれば、過ちを犯さない者の方が少ないだろう。
 リシャールはヴェリテにご安心ください、と告げた。
「私は世俗の身ではありますが、これから訪ねる方に従って修道士になることを考えています。その方はもともと私の主君でいらっしゃいました。神かけて、あなたが不安に思っているような真似をするつもりはございません」
「では、その方は貴族の身分を棄てて、修道院に入られたのですね」
「はい、三年前にシトー会に入られました。一族の者は多く主人に従いましたが、私はまだ踏ん切りがつかず、世俗におります」
 それでヴェリテが安心したかどうかは、闇の中ではわからなかった。しかし、張り詰めていたものがにわかに和らいだように感じられる。
 リシャールは剣を引き寄せ、遠くの気配を探った。どれほど距離を稼いだかはわからないが、追っ手がヴェリテは徒歩のままでさまよっていると考えていれば、遠いだろう。通りがかっただけのリシャールの馬蹄を追って来るかどうかはわからない。
 彼は随分と会っていない兄のことを思った。リシャールの知るルカは学問に秀で、槍でも騎士連中に負けたことはなく、どこへ出しても恥ずかしくない高潔な騎士だったから、ヴェリテの話をまことと信じかねる気持ちもあった。ルカとリシャールとは五つほど歳が離れていた。翡翠ジェイドをした瞳と互いの顔立ちはよく似ていたが、リシャールと違って、ルカには佇むだけで人の視線を引き寄せる華があった。そのせいで、見る人はまったく似ていないように思えるらしかった。ヴェリテがリシャールをルカの縁者と気づかないのはそのせいだろう。パリの宮廷にいるというのなら、ヴェリテの知るルカは、リシャールと違い瀟洒ないでたちをしているに違いない。
 ルカが出奔したのは、彼ら兄弟が仕える主人が修道会に入ることを心に決めていたからだ。一族のほとんどが修道会についていくことになりそうだったのを、ルカは嫌った。彼は騎士であることに誇りを持ち、剣を棄てることを望まなかったのだ。
 ヴェリテが傍にいなければ、報せが遅れるのを承知で兄に会いに行ったかもしれなかった。主人が世俗を去って以来、リシャールは自らも主人の後に続くべきかどうかを悩んでいた。迷っていたリシャールを強引に修道会に連れて行くことはだれもしなかった。とはいえ、仕える主君のいないまま騎士であり続けるわけにはいかない。早々にリシャールは身の振り方を決めなければならなかった。
 兄の姿を見れば、なにかの答えになるのではあるまいか、とリシャールは考えた。世俗のままに留まるか、神の僕となるか。兄ならばなんと言うのだろう、そう思いつつリシャールは目を閉じた。

 谷に近づくにつれ、荒涼とした景色が続くようになった。馬は砂利道を進み、真昼には日陰といえば高い断崖の作る庇ばかりで、樹影ははるか後方を振り返らなければ目に映らない。ヴェリテは苦しげにその風景を眺めていたが、決して不満は口にしなかった。放り出されれば、彼女は夫の元にはむかえない。リシャールは、罵倒されようとか弱い女性を放り出すような騎士ではなかったが、ヴェリテなりに気遣っているのだろう。リシャールの旅にとって、明らかに彼女が重荷であることをわかっているようだった。
 谷はリシャールの主君が修道院をひらくまで、いかなる人間も住み着いたことのない荒野にあった。はじめの年は、食糧が尽きて真冬に何人もの餓死者が出たという。いまはかろうじて生きていくことが出来るくらいには開墾が進んでいた。
 リシャールは修道院に着くと、修道院長となっているかつての主君への面会を求めた。簡素な修道院は広くないが、いくつもの僧房に仕切られている。リシャールが案内されたのは、入り口に程近い部屋だった。トロワからの書簡とヴェリテを連れて、リシャールは修道院長の前に進んだ。
 修道院長ベルナールは粗末な白い服の上に肩衣スカラプリオを纏い、ひどく痩せていたが、強靭な精神を内に秘めていた。ベルナールは若くして修道院を志し、ついに回心し、それからわずかな間に自らの修道院を持った。修道会では彼の知識と意欲、そして厳しさはこの上もなく讃美されている。ヴェリテはベルナールの若さに驚いたようだったが、典雅なしぐさで一礼した。実際、ベルナールはリシャールといくつも歳が違わなかった。
 ベルナールは苦しい谷の暮らしで身体も辛いという話だが、その様子は見えなかった。焔のように青い目は炯々と意思を湛えており、無駄な肉がそぎ落とされたことで、むしろ貴族であった頃よりも苛烈な風貌になった。わずかに首を傾け、リシャールを見る。その視線に落ち着かず、リシャールは面を伏せた。と、ベルナールが口を開く。
「女性を連れてこんな場所へ来るとは、どうかしたのか?」
「ここへ来る途中でお助けした方です。そもそもはシャンパーニュ伯から預かったこの書簡をお届けするのが私の役目です」
 リシャールが書簡を渡すと、ベルナールは封を切って中を検めた。ベルナールの表情はわかりにくく、厳しさの中にその手紙の意味を推し量るのは無理だった。リシャールはもとより、書簡の中身など知らず、ただ急ぐようにと命じられただけだった。
 ベルナールがそれを見ていたのは僅かな間だった。彼はすぐにその書簡を胸にしまうと、ヴェリテを見た。
「それで、リシャール。その女性がどなたかは知っているのか?」
 リシャールがかすかに彼女を振り返ると、ヴェリテは腰をかがめ、修道院長への敬意をこめて名乗った。
「ヴェリテ・ド・ガーランドと申します」
「ガーランド公のお身内か」
「ガーランド公エティエンヌはわたくしの夫でございます」
 ヴェリテがそう言うと、ベルナールは僅かにリシャールを見やった。唇の端には以前と変わらない皮肉げな頬笑みが浮かんでいたが、ヴェリテは気づいていないだろう。
「なるほど、いまを時めくガーランド公の奥方か。……奥方というには親子ほども歳が離れているようではあるが」
 ヴェリテは賢明にもベルナールの言葉には無言で通した。ヴェリテは自分がこの国で最も力を持つ貴族の妻である、ということの意味を知悉しているのだろう。だからこそ必死にルカ・ド・サジエの手を逃れて来たのだ。ベルナールはヴェリテに事の説明を求め、彼女はリシャールにしたのと同じ身の上話を語った。話に出て来るルカ・ド・サジエが、自分に仕えた騎士であることは気がついたはずだが、ベルナールはそれには一切の反応を示さなかった。リシャールには、ベルナールがリシャールのことを慮ってルカについてなにも言わなかったのか、それとも既にベルナールの庇護を外れた騎士がどうしようと興味がないのか、いずれともわからなかった。
「あなたの難儀なお立場は理解した。しばらく休まれるといい。私はこの者と話をすることがあるので失礼しよう」
 ヴェリテを助修士に任せ、ベルナールはリシャールの肩を叩いて部屋から連れ出した。回廊を奥へと進み始める。回廊から見える畑では、知った顔がベルナールと同じ白い修道衣で汗を流していた。
「ご苦労だったな。発つときにはシャンパーニュ伯への返答も持って行ってもらわなければならないが」
「なんなりとお申しつけください」
「しかし困った女を連れて来たじゃないか? なぜ、谷まで連れて来たんだ。そんなことをせずに、おまえの兄に引き渡せばよかったではないか。それとも情が湧いたのか? この上もなく美しい娘だからな」
「本当に、兄に引き渡してよかったとお思いなのですか」
 リシャールが戸惑って聞くと、ベルナールは笑った。
「いいや。ここまで判断を保留したのは正しかろう」
「私には、パリの政争など想像もつきませんので……」
 リシャールはそう言って、ためらいがちにベルナールを見凝めた。
「彼女をどうすればよろしいのですか」
「ガーランド公に送り届けることだ。王がルカ・ド・サジエを使ってガーランド公の力を弱めようとしたところで、今更だ。おまえの兄が逆賊として処刑されるのも遠くはないぞ」
 それはそれで、リシャールには辛い事態だった。ルカと離れて随分になるが、彼が兄であることに変わりない。逆賊として処刑されると聞いては、平静でいるのは難しかった。リシャールが眉根を寄せたのでベルナールはまたリシャールの肩を叩いた。
「ルカが気になるのか」
「あれでも私の兄ですから」
「ルカを救うのは難しかろう。修道士になるというのでもあれば、別だか」
 リシャールは頭を振った。修道会に入るのを嫌って出奔したルカが、そんな選択をするとは思えなかった。
「しかし、なぜルカは彼女を追って来たのであろうな?」
 ベルナールの言葉にリシャールは首を傾げながら尋ねた。
「ガーランド公の奥方だからではないのですか?」
「それでは理由になるまい。人質にするつもりだとしても、おまえが出会った場所を考えれば随分遠いところまで追いかけたものだ。その間、都を押さえる将校がだれかは知らないが、放り出しているも同然だ。まるで彼女自身が目的のようではないか? あれだけ強大な権力を手にするガーランド公を失脚させることは、国王にもルカにも不可能だ。人質など、ガーランド公の怒りを買うだけで莫迦な振る舞いとしか言えない」
「では彼女自身が目的だ、と?」
「おそらくは」
 ベルナールはわかったような顔でリシャールを見て、踵を返した。
「今宵は修道院で過ごすといい。おまえとご婦人の部屋を用意させておこう。粗末な場所だから、彼女には断っておいてくれ。リシャール、おまえは懐かしい顔を見て来るといいだろう」
「はい」
 リシャールは頷き、ベルナールを見送った。それから彼は、修道院長からなにも言われなかったことに気がついた。リシャールが迷い続けている修道士となることについては、彼はなにひとつ言わなかった。ベルナールが修道院に入る前は散々説き伏せられたのに、ここへ来てなにも言われないというのは、リシャールに出家の意志がないと見て取っているのか。なにやらそれが空しく、リシャールはまたも強い迷いを感じていた。

 世を棄てた修道士の間にあっても、ヴェリテの美しさは毒に違いなかった。修道士たちは決してヴェリテと顔を合わせようとはしなかったので、陽が傾くと、リシャールはヴェリテにあてがわれた僧房へと食事を運ぶようにと命じられた。彼自身の分とあわせて持って行くと、ヴェリテは粗末な食事にも不満を漏らさず、受け取った。
 彼女は不安げにリシャールを見凝め、口を開いた。その真剣な様子がまたさらにヴェリテを美しく見せていた。リシャールは彼女に魅惑されている自分に気がつき、ベルナールになにも言われなかったのと同じくらいに落胆した。
「修道院長は、なんとおっしゃっていたのでしょう」
 思えば、ベルナールはヴェリテになんの約束もしていなかった。ガーランド公の元へ送る、とは言っていなかったのだ。ヴェリテが不安に感じるのも当然だった。ヴェリテをガーランド公の元へ連れて行く他に道はないにもかかわらず、リシャールはベルナールの判断をいささか怪しんでいた。それでわざとはぐらかすように、ヴェリテの真意とは違うことを答えた。
「修道院の部屋はあなたには粗末なものでしょうが、お許し戴きたいと――」
「そんなことではありません」
 ヴェリテは思わず強い口調でリシャールを遮った。
「わたくしをエティエンヌの元へ送っていただけるのですか?」
 リシャールは返答に迷った。リシャールはルカ・ド・サジエの弟であり、ガーランド公の元で名乗ったときに無事では済まない。それをベルナールが考えているのかリシャールにはわからなかった。修道院へ来ないのであれば使者の役目を果たして死ねということなのか、とまでリシャールは考えていた。そうであれば、ベルナールの指示を無視して兄の元にむかうということもあり得た。ルカの行く末が明るくないとはいえ、ヴェリテがいることで拓ける活路があるのかもしれなかった。
「まさか、わたくしをルカ・ド・サジエに渡すようなことはなさらないでしょう?」
 まるで考えを読まれたようだったが、それがヴェリテの最も恐れるところ、というだけなのだろう。仕方ないとはいえ、リシャールはいささか兄を哀れに思った。
「ベルナール様も急なことで驚かれています。まだなんとも」
「迷われるようなことではございません。ルカ・ド・サジエは国王陛下を唆した佞臣です」
「とまれ私はあなたの身を既に修道院へと預けました。ベルナール様のご判断をお待ちください」
「こんな谷に隠遁されている方にはなにもわかりますまい!」
 リシャールが話を終わらせて立ち上がろうとしたので、ヴェリテは縋るようにそう叫んだ。
 生憎ながら、彼女の言葉は間違っていた。ベルナールは単なる隠者ではなく、厳しい求道者に留まらなかった。この谷にいてなお、リシャールよりも当たり前のように世間のことに通暁しているはずだった。入会から数年で修道会の枢要に位置し、そもそもの身分も手伝って各国に知己があった。パリで暮らしていたとはいえ、まだうら若いヴェリテよりも、ベルナールは世界を見ていただろう。シャンパーニュ伯からの書簡だとてそのためにもたらされたものに違いなかった。この世界の片隅でベルナールがなにを画策しているのか、リシャールには想像することも出来ない。
 ベルナールを貶すつもりではなかったろうが、ヴェリテの言葉はリシャールを苛立たせた。世俗、修道会と道は別れていたが、ベルナールがリシャールにとって敬愛する主人であることに変わりはなかった。世俗に未練を残しつつも修道会に入ることを考えずにいられないのはそのためだ。
 リシャールの態度が変化したのに気づいたヴェリテは、巧妙にうつむいた。その仕種はいかにも芝居がかっていて、リシャールの機嫌をとろうとしているのがありありとわかった。だというのに、ヴェリテは美しく、それだけの仕種に、リシャールはまたも心が揺らぐのを感じた。
「あの男に引き渡されるくらいなら、森で狼たちに引き裂かれたほうがいくらもましでしょう」
 そう呟くヴェリテは、危うい立場にいる可憐な姫君そのものだった。ヴェリテは天使のように美しく、彼女の姿を垣間見たことのある男だったら、彼女を目当てに血を流すこともありそうだ。あの兄が血迷うとは思えないのだが、自分であればわからないなとリシャールは思った。ふとリシャールは気になり、ただわずかに尋ねてみた。
「ルカ・ド・サジエと顔を合わせたことはございますか」
 ヴェリテは顔をあげ、食い入るようにリシャールの顔を見凝めた。十分に逡巡したあと、彼女は首を振った。
「いいえ、ございませんわ。追って来る馬上の、兜をつけた姿ならば見たことがありますが」
 その言葉が本当だとすれば、リシャールの顔を見ても、ルカと血縁であることに気づかないのも無理はなかった。けれどリシャールは、彼女はルカの顔を見たことがあるに違いないと思った。そして彼女は、リシャールが彼女の追っ手に似ていることにも、気づいている。
 けれどどうにも解せなかった。なぜルカ・ド・サジエの顔を知らないと言い張るのだろうか。偽りを口にすることに意味があるとは思えなかった。

 終課コンプレトリウムが終わると同時に、リシャールはベルナールに手招きされた。修道会則では、修道士たちはすでに一言も喋らず就寝する決まりとなっている。それぞれの僧房へと引きあげていく無言の修道士たちの流れに逆らい、リシャールは修道院長に従って、奥にある彼の部屋へと入った。ベルナールはまだ生暖かな封蝋のついた手紙をリシャールに差し出した。
「これをシャンパーニュ伯の元へ届けてほしい」
「はっ」
 リシャールは応諾し、手紙を胸元にさしこんだ。それから戸惑ったように、ベルナールを見る。
「シャンパーニュ伯の元へむかうということは、オルレアンへは……?」
 シャンパーニュ伯のいるトロワとオルレアンはまったく逆の方向にあった。問いかけるとベルナールは笑った。粗末な蝋燭が灯るだけの部屋なのに、彼の顔は手に取るようによく見える。その笑いは強い皮肉に満ちており、リシャールは内心で、この人はなにも変わっていないのだなと息をついた。
「オルレアンに先に行くといい」
「オルレアンでは、おそらく、私は無事では済まないでしょう。ルカ・ド・サジエの弟であることがわかれば、命を取られることは間違いありません」
「なに、そうとも言えない。リシャール、こうなればおまえが撰ぶ道はひとつしかないのだ。私に従い、私にすべてを委ねるしかおまえに道はないのだよ」
「私は常にあなたにすべてを委ねています。なにを私に求めていらっしゃるのですか?」
 困惑しつつリシャールは尋ねた。ベルナールはわからないのか、とまたも笑った。
「修道士ならばそんなことにはならない。騎士としてガーランド公の御前で名を名乗れば、そこからおまえがルカの弟であることが知れるだろう。だが一介の修道士であればどうだ? おまえは無事にオルレアンを発つことが出来る。他に道はなかろう。いますぐに世俗の名を棄てるんだ」
 ベルナールはリシャールの肩を捕らえ、騎士の身体を引き寄せた。
「おまえは迷い続けている。しかしそれになんの意味があるというのだ。おそらく、修道士になったところでおまえは迷い続けるのだろう。結局、どちらでも同じことだ。それともリシャール、あの娘に惚れたのか? 彼女をさらい、我がものにしようというのであれば話は別だが!」
「なにを、まさか」
「あの娘とて満更ではなかろう。ガーランド公エティエンヌは五十を越えていて、すでに彼女よりも年嵩の子供さえいる。それよりも、眉目秀麗な若い騎士に身を委ねたほうがどれだけましなことか!」
「彼女は夫君の元へ参ろうという一心ではありませんか。それを、そんな」
 リシャールは動揺していた。突然ベルナールに出家を迫られたからでもあり、胸の奥底で夢想していたヴェリテのことを暴かれたからでもあった。震えつつ、リシャールは間近にあるベルナールの顔を見た。そこにあるのは野心で、それに加えて神への真摯な信仰があり、ベルナールの野心をなおのこと頑強にしていた。ベルナールは貴族の身で果たせる世俗の勝利を一顧だにもしなかった。ガーランド公が得たような宮廷での権力など、彼にとってあまりにも小さかった。彼が望むのはそれよりもはるかに大きな野心で、神の名の元でのみ、果たすことの出来るものだった。
「彼女ひとりの足では夫の元には辿り着けないのだぞ」
「それにつけこんで彼女をかどわかすなど」
「昔はやったじゃないか?」
 ベルナールが笑うのに、リシャールはこらえ切れず声を高くした。
「それもすべて、あなたが私に手ほどきをしたことではありませんか! その手で今度は私を修道会に引きずりこむのですか!」
「引きずりこむとは随分な言い様だ。確かに、おまえにありとあらゆる不埒な振る舞いを教えたのは私だが、あの頃の罪がなければおまえは修道士になる気も起こらないだろうよ。そうじゃないか? ご令嬢を口説き落として自分のものにするのが楽しくなかったなんて言わせはしない。女を抱いて得られる肉体の快楽に溺れることも罪だが、甘美な囁きで、身持ちの固い娘たちをその気にさせるのを娯楽にするのはそれよりもさらに罪深い! その罪深い行為が楽しめたからこそ、贖罪に意味があることを知っているんじゃないか? 放埓な肉欲を知りもしない者が、清廉の誓いを立てたとて、知らない者の僻みでしかなかろう。罪を犯すこともまた自由リベルタスのひとつなのだ。すべての選択肢を知らぬ者になにが撰べるというのだ?」
 その言葉通りのことをたった何年か前までベルナールはしていたし、リシャールを連れ出して、弟でもあるかのように手ほどきした。リシャールは常にこの若い主君に圧倒されて来た。修道士の清廉潔白な生活と、その頃の彼の生活とがまったく別のものだったわけではない。ベルナールは教会で学問を修めながらも、傍若無人に若い娘たちを誘惑した。彼は言葉巧みに娘たちを陥落させて、同じやり方をリシャールに教えた。それがただの放蕩でないことは若かったリシャールにも察せられた。娘たちを魅了しても、彼自身が魅了された素振りを見せることはなかった。ベルナールは自堕落にはならず、それは一層、硬質な求道者としての彼の平素と、囁く甘言との違いを引き立たせて、娘たちの心を乱した。
「まさか贖罪のためにわざわざ罪を作った、と仰るのですか?」
「私が? 馬鹿なことを。知らない者にはなにも出来ない。それだけだ」
 ベルナールとリシャールでは見えているものが違い過ぎた。どう問いかけても自分が求めていることの返答が与えられるとは思えず、リシャールは顔を伏せた。
「私にどうされよ、と」
「世俗を棄てるのだ。これはいい機会だろう」
「彼女のために世を棄てろ、というのですか。美しい方だが、つい昨日会ったばかりの人ではないですか」
「修道士になることくらい、大したことではなかろう。いずれはおまえが辿るべき道なのだから。
 あの女は関わりあう男の運命を狂わせる女だ。それほどに美しい。その上あの女は美しいだけでなくて、賢い。リシャール、おまえはあの女の言うことをすべて信じているのか? 彼女はなにか大きなことを匿しているぞ」
 そのことは、リシャールにも心当たりがあった。ルカのことだ。リシャールは迷いつつも、自分が覚えた違和感をベルナールに話した。
「そういえば彼女は、兄の顔を見たことがない、と言うのです。追われてはいるが、兜をつけた姿を見ただけだと。しかしそれがどうにも偽りに聞こえるのです。私の顔を見てなにか思うところがあるようなそぶりが見えるものですから、余計に彼女の言葉が疑わしく思われるのです」
「ならばその偽りを口にしなければならないわけがあるのだろう。つまりどこかにまだ嘘があるのだ。おまえの兄に関することで」
「それでも、私は彼女をガーランド公の元へお連れするべきですか」
「ああ。収まるべきところに収まらせよ」
「それならばどうか、私ではなく他の修道士に付き添いをお命じください。兄の身を滅ぼすことに加担するのには耐えられません!」
「いいのか?」
 ベルナールは逆に、リシャールに尋ねた。
「ここで彼女と別れれば、おまえは決して兄の運命の行く末を知ることはないだろう。ルカはこうなればもう、逆賊として処刑されるか、討ち死にするか、どちらかだ。その報せは耳に出来ようが、なにが真実なのかは永遠に知ることなく終わろう。それでいいのであれば、他の者に任せるがいい。しかし兄の運命を見届けたいと願うのならば、ゆくべきだ」
「行って、わかると言うのですか」
「彼女の嘘がなんであれ、いずれは明らかになる。偽りとはそういうものだ」
 もはやリシャールにはベルナールの指示を拒むことは出来なかった。どのような反論も既に抑えこまれていた。それでもなおリシャールは懊悩した。
 神に奉仕し、魂の自由と栄誉を求めることに惹かれないといえば嘘になる。だが、修道士になるということは、命も誇りもなにもかもを放棄することだ。富にも、騎士という身分にも、男としてのリシャール自身の魅力にも、未練があった。しかし他に道がないのはベルナールの言うとおりだった。
 リシャールは歯を食いしばり、呻き声を上げた。ベルナールは敬愛する男だったが、神のように、リシャールに試練を与えて来た。世俗の名を棄てるこのときこそ、最大の試練だとも言えた。
「なぜもっと違う言葉で私を説こうとなさらないのですか。あなたの言葉はまるでヘロデに対する洗者ヨハネの警句のようだ! あなたの言葉で身も心も苦しみのたうつのは、私が愚かなのだからですか。それとも、あなたの言葉が間違っているからなのですか?」
「私を疑おうというのか、リシャール?」
「修道士になれ、というのなら兄のことなど、ましてや会ったばかりの彼女のことなど引き合いに出すべきとは思えません。あなたなら、それではなく、神の徳を説いて私を心変わりさせることくらい出来るはずではありませんか。なぜそうしてくださらないのですか。なぜ、ことさら私を苦しめるようなことをおっしゃるのですか!」
「私に理想的な聖職者たれ、と言うのだな、リシャール。しかしそれは一体なんだ? おまえの信じられる聖職者というものが本当に真の聖職者であると言えるのか? 聖ベネディクトゥスの教えを守り、敬虔と回心、貞節と従順を頼りにおまえを説き伏せよ、と? ならば私は聖職者ではないのかもしれない」
 ベルナールは両手でリシャールの顔をとらえ、燃えるように青い瞳で困惑するリシャールを覗きこんだ。
「私はこの世の魔獣シメールなのだ。修道士でもなければ俗人でもない。
 私はいずれでもない者になろうとしているのだ。そもそもこの世の人間たちに聖人と俗人がいること自体、三位一体たる神への冒涜ではあるまいか? なぜすべての俗人が聖人で、すべての聖人が俗人であってはならないのか? 見るといい、聖職者であるということを免罪符に、俗人に厳しく禁じようとしている肉欲と飽食に明け暮れている肥え太った修道士どもを! 志ある者、神への無垢な忠誠心を持つ者は俗界にあれ聖界にあれ神の御心に適う者なのだ。そうであれ。
 しかし挫けやすいおまえは、騎士の身分のままに留まろうとしても、私以外の元で修道士になろうとも、迷い続けるだろう。おまえは私にとって、柔らかく枯れやすいトウゴマなのだ。神が枯れたトウゴマを惜しんだように、私もおまえを惜しむのだ。私が騎士のままであればおまえをも騎士のままにさせただろう。しかし私はこの荒野を撰んだ。だからこそおまえをも荒野に導くのだ。リシャール、おまえも私を撰べ。私をだ!」
 その言葉の前に踵を返すことなど出来るはずがなかった。リシャールは呻吟しながらも身をかがめ、ベルナールの足に口づけた。

 夜明けの礼拝ラウデスを済ませ、リシャールがヴェリテの休む僧房へとむかうと、彼女は既に身支度を終えていた。膝をつき、手を組んで祈りをささげている。礼拝堂から響く聖歌に耳を傾けていたのだろう。人の気配に顔をあげたヴェリテは、見慣れぬ男に首を傾げ、それからまるで亡霊でも見たかのように青ざめた。リシャールはすでにトンスラと修道衣姿で、昨日までの騎士のいでたちを棄てていた。
「支度が整っているのならば出発いたしましょう。オルレアンまでお供いたします」
 リシャールが暗い瞳を伏せると、ヴェリテはわずかに身じろぎする。なにかを問いたげだったが、リシャールにかける言葉が見つからないのか、まばたきをするだけで一向になにも口にしない。
 リシャールはヴェリテを待たずに僧房を出て、助修士が前庭に連れ出していた馬の傍に立った。あるじの姿が変わっても、愛馬は以前と同じようにリシャールに従順だった。
 ヴェリテもすぐに出て来て、リシャールに並んだ。しかし顔を合わせようとはしなかった。外套から見える白い手は震えていた。彼女を貴婦人として気遣うのももはや億劫だった。その白い手がいかに美しくとも、その指先にリシャールが恋し唇を寄せるようなことは二度とないのだ。
「参りましょう」
 そう促すと、ヴェリテは頷いた。

 オルレアンまでは数日の旅となる。森の中の道を駆けながら、リシャールは無心になろうと努めた。同乗するヴェリテのことも、同じようにこの森の中をさまよっているに違いない兄のことも、世俗に残した数多の未練のことも。
 夜になると再び馬を止めて、夜を過ぎる支度をした。月と星は出ていたが、森の中では大した明かりにもならない。黒い外套をかぶってしまえば眼を凝らしてもすぐには気づかないだろう。リシャールのまとう修道衣の白と、ヴェリテの陶器のような肌だけは、にぶく光を受けていた。
 ヴェリテとリシャールは、リシャールが騎士だったときと同じようにしばらくの距離をとって休もうとしていた。僧侶とはいえさすがにリシャールは剣を携えており、馬から下りると、鞍にむすびつけていた剣を握って夜に備えた。
 ヴェリテは怯えたように膝を抱え、うつろに夜の森を見上げている。やがて夜も更けて来た頃、なにも言わないリシャールに耐え切れなくなったように、口を開いた。それは彼女が僧侶となったリシャールにはじめてかける声だった。
「なぜ、回心されたのですか。それも急に」
「前から心に思っていたことですから」
「わたくしのことに関係があるのではないですか?」
 訴えかけるようなヴェリテの高い声に、リシャールは闇の中で眉をひそめた。
「なぜそう思うのです。つい二日前に会ったばかりのあなたのために、どうして私が世俗を棄てる決意をせねばならぬのですか」
「あなたのお名前を聞かせてください」
「リシャールと申します」
「わたくしが知りたいのはあなたのご家名です」
 その問答の奥に、ヴェリテが口を塞いでいたなにかがあるのをリシャールは感じた。やはりルカのことを知っているとしか思えない。しかしリシャールは、ヴェリテの問いには答えなかった。
「私は既に家の名を棄てた人間です」
 星明りで、ヴェリテの白い手が彼女の顔を覆うのだけが見えた。むせび泣く声が耳に届く。旅人の気をおかしくさせる精霊の嘆きの声のようだった。
「お願いです、本当のことをおっしゃってください」
 ヴェリテは懇願するように呟いた。
「なにをですか。私には隠すようなことなどなにひとつございません」
あの方の弟君なのでしょう」
「私にとって兄弟とは修道士たちのことを呼ぶのです」
「ではルカ・ド・サジエを兄と呼ぶつもりはないとおっしゃるのですか」
「なぜそんなことを聞かれるのです」
「リシャールという名前の弟がいると聞いています」
「リシャールなどという名前はありふれた洗礼名です」
 リシャールが否定すると、ヴェリテが苦しげに呻くのがわかった。
「その翠の瞳――!」
「あなたはルカ・ド・サジエと顔を合わせたことはない、そうおっしゃったではありませんか。一体どこでお会いになったのです。彼があなたを追うのは、なぜなのです?」
「あなたが本当のことを口にされるのでしたら、わたくしも申します」
 リシャールはしばらくのあいだ考えた。ガーランド公の前に出て問題ないよう棄てた身分だったが、ルカ・ド・サジエの弟であることをヴェリテに告げてしまっては意味がない。彼女がそのことに口を噤むとは限らないのだから、危険なことだった。
 しかしその一方、リシャールが名を棄ててまでここにいるのはルカのことを知るためだった。その真実が語られようとしているのに、なにを拒むことがあるだろう。ルカに起こったことを知る権利は、ルカ・ド・サジエの弟であるからこそリシャールのものなのだ。
 リシャールは覚悟し、ヴェリテに眼を凝らした。
「確かに、棄てる前の私の名前はリシャール・ド・サジエです。おそらく、あなたを追っているルカ・ド・サジエは私の兄なのでしょう。故郷を離れて以来、便りもないままですが」
「では、二日前、わたくしたちが出会ったのは偶然だとおっしゃるのですね」
「神に誓って。私が兄と通じているとお疑いなのであれば、どうして私について来たのです?」
「はじめは気づかなかったのです。似ているようにも思いましたがわたくしの気のせいだ、とも。けれど今朝方わたくしを見つめたあなたの瞳が……まるであの方と同じ」
「なぜ兄を知っているのです」
 ヴェリテも再び言いよどんだ。しばらくののち、息をついてから細い声で返事した。
「あの方はわたくしに求婚なさっていました」
「ガーランド公の奥方に?」
「エティエンヌの元に嫁ぐことは決まっておりましたが、まだ結婚はしておりませんでした。実際のところ、わたくしはまだエティエンヌの妻と言えないのです。わたくしの父が亡くなりましたので形式だけでもと、先日エティエンヌと会うこともないまま嫁ぎました。わたくしはエティエンヌの顔さえ知りません」
「では、兄はあなたを手に入れるために騒乱を起こしたと?」
「そうなのでしょう」
 ヴェリテは頷いたが、そんなことは到底信じられなかった。国王を巻きこんでまでの騒乱を起こすなど、一人の女を手に入れるためだけに、あの誇り高い兄がすることとは思えなかったのだ。それとも宮廷へと出てルカは変わってしまったのだろうか。あるいは目の前にいるヴェリテ・ド・ガーランドの美しさはルカを狂わせるほどのものだというのだろうか。
 ヴェリテはリシャールが知るどんな貴婦人よりも美しかった。にわかに彼は、傍らの女性に欲望を感じた。騎士として隣にいたときには芽生えなかった感情が、修道士になったいまになってわずかに震えている。まだエティエンヌ・ド・ガーランドの名目上の妻でしかない彼女は処女おとめなのだった。
 これもまた、ベルナールから与えられた苦行のひとつに違いない。リシャールは大きく嘆息し、感情を振り払った。
「しかし、あなたを手に入れたとて逃げる場所もないではありませんか。兄はどうするつもりだったのです」
「さあそれは……わたくしにはわかりません」
 未だ釈然としなかった。ヴェリテは押し黙ったが、リシャールには聞きたいことが山ほどあった。
「私の名前を知っていたというのは、兄とは言葉を交わしたことがあるということですね」
 ヴェリテは答えなかった。リシャールはいらだたしげに彼女を責めた。
「すっかり話してください。この森にはもはや私とあなた、そして彼方に兄がいるきりです。兄はいずれ、捕らえられて処刑されるでしょう。あなたのためにです」
「あの方は自ら身を滅ぼされるのです。わたくしにはどうすることも出来ません」
「そして私もまた、あなたのために世俗を棄てたのです。あなたは我々兄弟を二人とも殺したようなものではありませんか」
「あなたは自らの決意で回心されたはずです。わたくしには関わりのないことです!」
 強い拒絶の言葉に、リシャールは思わず身を起こし、闇に浮かぶヴェリテの手を取った。ヴェリテはか細く悲鳴を上げて、修道士を見返した。
「離してください」
「私たちの兄弟はあなたのために身を滅ぼすのです」
「やめて!」
 ヴェリテはリシャールの瞳に耐え切れないように顔を逸らし、リシャールの腕をもぎ離そうと身をよじった。
「やめて――離して――ルカ!」
 声の大きさにリシャールは思わず手を離した。ヴェリテは土にまみれるのも厭わずに背後へとずりさがる。怯え切った瞳でリシャールを見ていた。
 リシャールは、思わず手を離してしまった自分に苦笑した。彼はそういう人間だった。
「兄となにがあったのです」
「どうしてあの夜に死んでいなかったの」
 ヴェリテはまた顔を覆った。身を震わせながら彼女が顔をあげたときには、てのひらについた土がその美貌を汚していた。金色の髪を乱し、頬に泥をつけ、水晶のように絶望的な涙を流した。
「あの夜に死んでさえいればだれも苦しまなかった! わたくしも、あの方も、そしてあなたも! ……わたくしに触れないで!」
 リシャールが再び伸べた手をヴェリテは拒み、立ち上がった。
「ああどうして、どうしてあの方と同じ目でわたくしを見るの。その翠! お願い、わたくしを見ないで。どうか!」
 そのまま身を翻す彼女を、さすがに追いかけた。夜の森には獣が潜んでいる。ベルナールに彼女を送り届けると命じられた以上、危険な目にあわせるわけにはいかなかった。行く当てのあるはずのないヴェリテは闇雲に走った挙句、木の根につまずいて倒れこんだ。追いついたリシャールが彼女を援けると、ヴェリテはリシャールに抱えられながら声を上げて泣いた。
「どうしてこんなことになってしまったの。わたくしがなにをしたというの。わたくしたちがなにをしたというの!」
 涙で輝く瞳をリシャールにむけ、ヴェリテは彼を憎むようなまなざしで睨みつけた。リシャールの僧衣にしがみつき、殆ど揺さぶらんばかりの剣幕で口を開いた。
「わたくしもわかっています。愚かさが罪だっただけです。それをお知りになりたいのでしょう、修道士様。わたくしがガーランド公の屋敷へ入る前の夜のこと、あの方はわたくしを訪ねていらっしゃいました。もちろん、夜闇にまぎれて息を殺して! あなたと同じその翡翠の瞳ジェイドでわたくしを見凝めましたわ。もはやわたくしたちが会うことが出来るのはその夜が最後だったのですから! あの方はわたくしを見凝めました。無論、愚かな真似をするつもりなどございませんでした。わたしはエティエンヌ・ド・ガーランドの妻となるのですから。けれど最後の夜に熱く囁きかけられ、二度と会えない恋人に求められ、どうして拒みきることが出来ましょうか? 誓って申し上げますが、わたくしがあの方に肌を許したのはあれが最初で最後のことです。それで忘れてしまうつもりでした。忘れなければならなかったのです! けれどあの方はわたくしを忘れなかった。なんて愚かなルカ! もはやあの方には死しかない。わたくしのために。共に死ぬことの出来ないわたくしのために!」
 すべてを話したヴェリテは、猛々しい剣幕を押さえ、深く息を吸いこんだ。取り乱したことを恥じるように濡れた頬をぬぐい、やんわりとリシャールの手を退けた。
「わたくしに残された道はあなたと同じかもしれません。神に仕える他に、わたくしになにがありますでしょうか。ルカとて同じ。修道院を避難所アジールとする他になにがありますでしょうか?」
「しかし騒乱まで起こした男がそれであなたを諦めますか?」
 リシャールがそう言うとヴェリテは苦々しく微笑んだ。
「いいえ、きっと、諦めますまい」
「あなたはまだ、ガーランド公の元にむかいたいと思っていらっしゃるのですか」
 ヴェリテは顔を上げ、リシャールの顔を覗きこむ。目を見開き、食い入るように見凝めて来る彼女の視線には暗い炎が燃えて、リシャールは彼女のなにかは知らない意思の強靭さを垣間見た気がした。ふたりを囲繞する夜の森はにわかにざわつき、さながらヴェリテの想いに応えているようだった。ベルナールが彼女を評した言葉がリシャールの脳裏に去来する。
 ――その上あの女は美しいだけでなくて、賢い。リシャール、おまえはあの女の言うことをすべて信じているのか? 彼女はなにか大きなことを匿しているぞ。
 彼女はルカとの不名誉な関係を匿していた。それは、エティエンヌ・ド・ガーランドの妻であるヴェリテには憚られることだったろう。しかしそれを聞いてもなお、彼女の瞳は謎めいており、それが彼女の美しさから来るだけのものなのか、彼女の賢さが見せているものなのか、リシャールにはわからなかった。ヴェリテは何度か意図的な振る舞いを見せており、彼女の表面上の態度だけを信じるわけにはいかない、ということは感じていた。
「修道士様、なぜ今日に限って出家の決意をされたのですか。なぜ、それがわたくしのせいなのですか」
「あなたの名誉を考えれば、どこのものとも知れない騎士と旅することだけであなたにはよくないことでしょう。そもそも修道士になることを望んでいたのですから、あなたのことはよいきっかけであると思い、ベルナール様に赦しを頂きました」
「わたくしたちはもはや多くの道を撰ぶことは許されません。わたくしも、あの方も、そしてあなたも。あなたはその中からきっと、修道士になるという道を撰ばれたのですね。エティエンヌの前で名を名乗ればあの方の縁者であることは明らか。エティエンヌがあなたを打ち殺すこともありえますもの。
 わたくしにもさほど道はございません。ルカと手を取り合って逃げ延びて、不幸に互いを罵り合いながら死んでいくことなど望みません。修道院に入ることも、ままなりません。なぜわたくしが修道院に入ったか、エティエンヌには解せぬことでしょうから。だからこそわたくしはエティエンヌの元へむかっているのです。なにもなかったことにするしかございません。修道士様、おわかりいただけますね? あなたは生き延びるために修道士となられた。であれば、わたくしが生き延びるためにも口をつぐんでいただかなければなりません。ルカがたとえあなた様の兄君であろうと、わたくしとあの方のあいだにあったことを決して口外しないと、お約束いただけますね?」
「兄があなたのことを口にしたらどうするのです。あなたの名誉を傷つけるためのたわ言だと、信じてもらえるのですか。ガーランド公と寝所を分かち合えばあなたの身が純潔でないことは知れるでしょう。そのとき、兄の言葉が真実のものであるとガーランド公が思わないともわかりません。そうしたときはどうされるのですか」
「そのときこそ修道院へ参ります。ですが、いま参るわけには行きません。わたくしが嫁がなければ、渡るものが渡りません。そのための結婚なのですもの」
 強い口調でヴェリテは言い切った。彼女の婚資としてガーランド公に渡るものは莫大な財産だ。まことに彼女は賢く、立ち振る舞いに長けていた。供もなく森をさまよいながら、これだけのことを洞察できるとは意外だった。唖然としながら、リシャールは臍をかむ。結局のところ、彼女がリシャールに要求しているのはルカを見殺しにせよということなのだ。実の弟であるリシャールにむかって平然とそれを望むヴェリテの意思にリシャールは恐ろしいものを感じた。ルカの不幸はといえば、これだけの女性に恋をしてしまったことだろう。
「リシャール様、お約束ください。いまここで。はっきりと」
「もとより、私ごときの誹謗中傷をガーランド公が真に受けるとも思えませんが」
「いいえ、お約束ください。わたくしに」
 ヴェリテは強く迫り、口づけせんばかりに顔を近づけた。リシャールはなんと答えたものやらと苦々しく考えたが、考えつくす前に馬のかすかな息遣いを耳にして顔を上げた。ヴェリテのむこう、森の木々の間にわずかな星明りできらめく人影が目に入った。
 リシャールの様子にヴェリテもはっとして背後を振り返る。やや間遠ではあったが、それは武装した騎士に違いなかった。この森をさまよう騎士がそう何人もいるとは思えない。ヴェリテは身を硬くして、まだ遠い騎士の姿を見た。
「あの方です」
 リシャールは迷った。彼の馬から離れてしまっていたし、夜の森の中で馬を走らせるのは危険だった。携えて来た剣も馬の元に置き去りにして来ていた。
 ルカのほうも二人に気がついたようだった。引いていた馬の手綱を放し、走り出す。リシャールは咄嗟に肩衣の頭巾を目深にかぶった。身をこわばらせるヴェリテをそっと背中に隠して、息を切らせて駆け寄る兄を見ていた。
 ルカは逃亡生活で髪は乱れていたが、大して明るくもない夜のもとでは見苦しいほどではなかった。兄弟の揃いの瞳は深い翡翠の色をしており、まっすぐにリシャールの背後にいるヴェリテのことを見ていた。
 ルカはリシャールの前に立つと、腰の剣に手を当てて口を開いた。
「そこもとのお連れになっている女性の名をお聞きしたい」
「……私の連れになにか用むきがございましょうか、騎士殿」
「私がお探ししている高貴な女性であるようだ」
「それは存じ上げません」
「修道士様、手荒な真似はしたくないが、その方を手に入れるためであれば、あなたを斬ることも私は辞さないつもりだ。お命が大事なれば引かれよ」
「彼女が望んでいるのならば私も邪魔だてはいたしません。しかし、彼女は望んでいない」
「ヴェリテ殿、私を裏切るというのか。修道士などに付き添わせて、ガーランド公の怒りをやり過ごすつもりなのか。これはあなたも望まれたことのはずだ!」
 ヴェリテは無言だった。リシャールは兄に僧形の姿を見せて説得すべきかもしれなかった。そうすればさしもの兄も、生きる道は修道院に隠れることだと納得できるかもしれなかった。
「ヴェリテ!」
 ルカはもどかしい思いに耐えかねたように、ヴェリテの名を呼んだ。それを合図にしたように、ヴェリテは踵を返し、駆け出す。リシャールは遠ざかる背中にむかって叫んだ。
「馬をお使いください!」
 そうしてから騎士をとどめようと腕を掴んだが勢いよく振り払われた。ルカは腰の剣を抜き、怒りをみなぎらせて叫んだ。
「修道士め!」
 リシャールは大きく息を吐き、もう一度兄を説得しようと試みた。
「あとを追うのはおやめなさい。あの方はあなたとともに行くことは望んでいません。それはあなたもわかっていることではないのですか。たとえ一度なりと情を交わしたことがあろうと、彼女を悲惨な野の暮らしに引きこむ権利などないはずです」
「あなたにはわからないのだ。私が彼女に傾けた情熱と、彼女がそれを受け止めた法悦とが! 修道士などに、それはわからない!」
「ええ、わかりません。だからこそ言うのです。結局それはあなた方を不幸にするものではありませんか。彼女は確かに美しい。ですがそれはあなたが身を滅ぼすほどのものなのですか。あなたのように高潔な騎士が汚名を被るほどのものなのですか!」
「貴婦人を遠くから崇めるのが騎士の倣いというのであれば、騎士の身分など棄てて構わない。修道士にだってなってやろう。それで彼女を得られるのならば!」
 リシャールは呻き声を上げて胸をかきむしった。兄の誇り高さが同じだけの強さでヴェリテにむかっていると気づいたからだし、修道士となった自分の身をあてこすられているようにも感じたからだった。リシャールは彼女に惹かれつつも手に入れようとはしなかったその臆病を見透かされているようだった。
 ヴェリテがひとりでどこまで逃れられるか怪しいことだった。立ち去った方向は間違っていなかったが、無我夢中でここまで走って来た彼女が馬のところに戻れるとも限らない。
 兄の熱情も理解できないものではなかったし、とはいえヴェリテが過ちを消したいと願うのもわけのないことではなかった。二人の間でリシャールは懊悩し、ベルナールの導きを求めていた。ベルナールはヴェリテをガーランド公の元に送れと言っていたのだが、もう一度あの厳しい言葉を聞きたかった。
「修道士よ、通していただけぬというのなら力づくでも通していただこう」
「おやめください。だれもが不幸になることをなさろうとしているのですよ」
「では私一人にだけ不幸を撰べというのか」
 そう言ってルカは剣を頭上に振り上げた。リシャールは覚悟しててのひらを握り締める。ルカはまだ眼前に立つ修道士が弟であるとは気づいていなかったが、弟であることを名乗ろうとは思わなかった。それを理由に見逃してもらいたくはなかったし、この姿をルカに知られたくなかったのだ。
 しかし頭に血が上っていたとはいえ、抵抗もしない聖職者を斬ることはためらわれたのだろう、ルカは剣をさげた。
「少なくとも私がヴェリテの真意を問いただすくらいの時間はあるはずだ。無体はしない。彼女に会わせてくれないか」
 兄を信じてリシャールは無言で頷き、二人は足早にヴェリテの逃げたほうへとむかった。木々の狭間から獣の声が聞こえた。それを耳にしたリシャールはなにやら胸騒ぎを覚え、森の中に目を凝らした。と、彼方に白い獣が走るのが見えた気がしたが、すぐに目に映らなくなってしまった。
 愛馬が見えた頃、リシャールは血のにおいを嗅いでいた。濃く、新しい血のにおいだ。獣たちはこれを嗅ぎつけて来たに違いなかった。
 嫌な予感に胸を翳らせ、兄弟は足を止めた。眼前には無残な光景が広がっていて、いずれも口をきくことが出来なかった。ヴェリテはリシャールが残して来た剣を抱くように地面に横たわっていた。首筋から止まることなく血が流れ、彼女の金の髪を浸していた。
 リシャールは慌てて彼女を抱き起こした。と、わずかにヴェリテは目を開けて、リシャールの顔を見上げた。少しばかり彼女は微笑んで、リシャールの眼を見凝める。
「その翠……わたくし好きでしたわ……」
 それだけをつぶやくと力なくうなだれ、もうどれだけ揺らしても動かなかった。
 ヴェリテの最後の言葉が自分の瞳のことではなく、兄のそれについてのことであるのは間違いなかった。リシャールが振り仰ぐと、ルカは愕然として息絶えたヴェリテに食い入るばかりで、やはりリシャールが弟であることになど気がついていない様子だった。
 やがて彼は動かなくなったヴェリテの手を握り締め、美しい白い手に口づけた。涙をこぼし、ヴェリテの名も口に登らせることが出来ないほど悲嘆に呻いていた。リシャールは亡骸をルカに譲って立ち上がった。ルカはヴェリテを抱きしめると、声を上げて泣いた。
 獣たちの声とルカの嘆きが合わさり、リシャールははっとした。
「血のにおいに獣たちが集まっています。逃れましょう」
「この人を置いて、どこへ」
「その方の魂はもうここにはおられません」
「それがなんだというのだ。この美しい人が獣たちに食い荒らされるのを甘受しろと言うのか。たったひとつの望みが絶えた身に、一体なにをしろと言うのだ!」
 ルカは首を振ってリシャールの言葉を拒むと、ヴェリテが左手にはめた指輪をはずし、血にまみれたそれを差し出した。
「あなたはガーランド公の御前にむかう必要があるだろう。これを持って彼女が哀れに亡くなったことを伝えるといい。ルカ・ド・サジエの暴虐から身を守るために、自ら命を絶たれたと。そしてあらん限りの呪詛を私に投げかければいい。私自身が投げかけているほどはだれの呪詛も強くはなかろうが!」
 そう叫んで彼は再びヴェリテの亡骸を掻き抱いた。リシャールは彼を助けようもないことを承知した。思わしげにルカを振り返りつつ、リシャールは馬に跨る。ルカは彼が弟であると気づかないままだったが、いまさら告げることに意味はなかった。
「あなたの魂に安らぎのあらんことを」
 そう口にすると、リシャールは馬を走らせた。夜が白む頃には森を抜け、道から外れた木陰に馬を結わえて眠りに就いた。

 数日の後、リシャールはオルレアンに辿り着いた。血まみれの僧衣をまとったリシャールが教会にたどり着き、ガーランド公に謁見を申し出ると、さほど待たされることもなく通された。ガーランド公はパリの政変のことを憂慮していたのだろう。なんらかの報せを持って来た使者だと思われたに違いない。
 リシャールは血に汚れた指輪を差し出して、ヴェリテ・ド・ガーランドが亡くなったことを告げた。老ガーランド公は明らかにその報告に心動かされた様子はなかった。彼が望んでいたのは、パリでのもっと具体的な出来事であって、会ったこともない妻の死など聞きたいわけではなかったのだ。
 しかし、憔悴した様子のリシャールを見て少しは心が咎めたのか、嘆息して、彼をねぎらいつつこう言った。
「あれはまことに不幸な娘だった。あまりの美貌が災いになるだろうと、彼女の父上は私に彼女のことを託されたのだ。私に逆らってまで彼女を望む者はいなかろうと考えて。しかしそれも甲斐のないことだったようだ」
 リシャールはオルレアンを辞してトロワへとむかい、シャンパーニュ伯に書簡を届けた後にベルナールの待つ修道院へと帰った。兄と薄幸なヴェリテの菩提を弔いつつ、ベルナールに導かれて多くを学び、やがてはトゥールーズ近郊に開かれた修道院で院長を務めた。
 幾多の年月が過ぎ去ったあとでも、あの夜の獣たちの叫びは彼を悩ませた。リシャールにも、ヴェリテにも、そしてルカにも他の道を撰びようはなかったと思いながらも、むざむざ死なせた二人のことは、忘れることがなかった。だがそれも結局は過去への郷愁であり、彼が既に棄てた俗界の輝かしいものと違いはなく、リシャールは生涯、ベルナールに仕えることを辞めはしなかった。二人を亡くす前の夜すでに、リシャールはベルナールを撰んだのであって、その導きから外れることだけは避けたかった。リシャールは悩みの多い魂だったが、それだけが彼の人生の灯し火なのだった。

《終》 《back : TEXT LINUP》
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