千里眼
《Die Hellseherin》

 森の片隅にひっそりと佇む古い城がありました。馬でたどり着こうとすると並大抵ならぬ辺鄙な場所にあるのですが、小さな川を小船で下るとこの城の近くまで容易にたどり着くことができるため、時々その城を訪れる客人たちにはなんの不便もありませんでした。城には年老いた魔女とその娘とが住んでおり、母親はビート様、娘は千里眼と呼ばれておりました。母親はかつては諸侯たちが怖れながらも求愛せずにはいられなかった美貌の持ち主でしたが、いまはもうその面影もありません。ただし、若い頃に彼女の呼び名の由来となった赤い髪だけは、炎のように美しいままでした。
 さて、城へはたびたび客がやってきました。というのも、千里眼と呼ばれていた娘は確かにはるか遠くまで見通すことができる不思議な力を持っていたからです。彼女はどんな遠くにあるものも言い当てることが出来ましたし、ずっと先の未来まで知ることが出来ました。ビート様はそんな不思議な力を持った娘を高い塔の上に閉じこめて、船に乗ってきた客人だけを千里眼のいる部屋へと通しました。そして乞われるまま、千里眼は自分に見えることを話しました。千里眼の言葉を聞くのにビート様はたいそうな金額を求めましたので、だれでも千里眼を訪れることができるわけではありません。それでも、さまざまなことを知るためにお客はひっきりなしに城を訪れました。
 千里眼は美しく長い黒髪を持った乙女でした。ビート様には似ていませんが、千里眼を訪れた客人たちはだれもが彼女の姿に見ほれました。ですが、かつてビート様が沢山の求婚を受けたようには、千里眼は求められませんでした。というのも、千里眼はなにもかもすべてを見渡すことのできる力を持っているからです。偽りも、隠し事も、千里眼の前には存在しません。それを怖れて、千里眼を愛する者はいませんでした。千里眼も、そのように自分が怖れられていることを承知していましたし、高い塔の上から世界を見晴るかすだけの暮らしを嫌ってもいませんでした。
 千里眼のいる高い塔からは、森の遠くまで世界を見渡すことができます。景色を眺めていると、不思議なことに、千里眼は自らの力を忘れることができました。本当に遠くを見ていると、存在しない目で見る世界のすべてのことは夢のように思われてくるのでした。
 ビート様は千里眼を決して外には出しませんでしたが、千里眼もそれを望んでいませんでした。むしろ千里眼はビート様に感謝をしていたくらいです。ビート様は千里眼の本当の母親ではなく、千里眼の力に気がついて彼女を引き取ったのでした。千里眼はこの森の離れた場所に暮らしていた夫婦の五人目の子どもでした。しかし貧しかった両親が育てられないからと千里眼を殺してしまおうとしたところを、ビート様がもらいうけたのです。この力がある限り、幸せに生きていけないことを知っていた千里眼は、こうして人里はなれた城で暮らせることにたいそう感謝をしていました。
 子どもの頃、千里眼は自分の未来を見てしまったことがあります。自分の未来が見えてしまうということはとてもおそろしく、悲しいことです。その頃の千里眼はまだ幼い子どもでしたが、あまりにも辛い未来を見てしまったので、もう二度と自分の未来など見たくありませんでした。それは、こんな未来でした。客としてこの城を訪れた蜂蜜色の髪をした王子が千里眼に恋をして、彼女を自分の宮廷へと連れてゆきます。しかし王子にはすでに婚約した姫君がいて、姫君は大臣の娘でしたので、千里眼は大臣から憎まれ、とうとう殺されてしまうのでした。千里眼の力の恐ろしさを誇張して喧伝したことにより暴動が起こり、それは千里眼が起こることを知っていてもどうすることも出来ないのです。王子は傷ついても逃れましたが、千里眼は逃れることができず、辱められ、目を抉られて殺されるのです。目を抉られても千里眼は愛する王子の様子を知ることが出来るのでした。けれど千里眼は最期の瞬間に、魔女めと千里眼を罵る王子の言葉に絶望しながら、暗闇の中に落ちていくのです。
 未来は確実なものではなく、千里眼にとっても揺らぐものですが、この城を出た自分が苦しみぬいた末に死んでしまうことを見てしまいました。そのような未来はこの城を出なければ起こりません。千里眼はそれ以来、この城でただ静かに生きていくことを決めていました。
 ある日のこと、ビート様が千里眼の部屋に連れて来たお客こそ、かつて千里眼が未来で見た王子でした。千里眼は動揺しましたが、首を振り、心を落ち着けました。千里眼が見た未来は、彼女がこの城を出なければ起こらないことなのです。
 王子が聞きたがったのは、重い病にかかった彼の母親の病状がどうなるかということでした。千里眼は自分が見たことをありのままに伝えました。彼の母親は持ち直すように見えるが半年後に亡くなるだろうということをです。王子は意気消沈して、どうにかならないのかと蜂蜜色の髪越しに千里眼をじっと見つめました。
 ですが千里眼は首を振って、こう言いました。
「私には未来が見えるだけです」
 それからしばらくのこと、千里眼は塔の足元をうろつく一頭の馬を見かけました。芦毛の優しい顔つきをした馬ですが、派手な武具を着けているわけではありません。その背に乗っている男は、お仕着せの礼服を着ていました。剣は佩いていましたが貴族ではなく、貴族に仕える身分の男です。黒い髪に精悍な顔立ちで、千里眼のいる部屋を見上げています。見覚えがあるような気もしますし、ないようにも思えます。千里眼の力を頼って来た客人なのか、それとも別の目的があって城の周りをうろついているのかはわかりませんでした。あまり不用意に千里眼は自分の力を使うのは好みませんでしたが、彼がだれなのかを思い出そうと、男を見つめました。すると千里眼の脳裏に浮かんできたのはあの王子の姿です。彼の従者の一人として、男はここへ来たことがあったのでした。
 もしかすると王子の使者として男が来たのではないかと千里眼はぞっとしました。彼がなんのためにここへ来たのかと見通そうと、千里眼はさらに力を使わざるを得ませんでした。窓から身を乗り出すと、男と視線が合いました。黒い瞳はまっすぐに千里眼を見つめ、千里眼は小さく「あ」と声を上げました。というのも、男は王子につきしたがってここへ来たときに、千里眼に恋をしていたのです。
 男は遠い窓を見上げて、千里眼へと語りかけました。
「どうか私の話を聞いてくださいませんか。それとも私が語る言葉など、あなたにはすべてお見通しでしょうか?」
 千里眼は迷いました。彼と関わることでなにが起こるのか見るべきなのか、それともそんなこともせずに拒むべきか、迷ったのです。彼の想いが真実のものであることは、千里眼には見えていました。しかしそれは、かつて千里眼の中で見た王子の求愛も同じことです。あのおそろしい未来を回避した千里眼は、しかしそのおそろしい可能性に怯えていました。千里眼は目を閉じました。そして、こう応えました。
「いいえ、私にはなにも聞こえない。私にはなにも見えない」
 そう言うと千里眼は窓辺を離れ、男に姿を見せませんでした。
 ですが翌日も男は現れて、千里眼の窓を見上げては語りかけました。千里眼は男を見下ろしながら、未来を見通したくなる欲望に耐えていました。というのは、千里眼は彼に心惹かれていたからです。彼と幸福になる未来を見ることができるかもしれないと心の片隅では思ってしまうのです。ですが千里眼は、自分の力がこの城を出れば大きな災いになるしかないことも承知していました。不幸になることは、千里眼を使うまでもなくわかることなのです。
 毎日のように男は千里眼を訪ねました。そしてある日、彼はビート様が出かけていくのを眼にしました。男は千里眼にこう尋ねました。
「ビート様はお出かけのようですが、どこかへ行かれるのですか」
「マインツの侯爵の下へお出かけになりました」
「では扉を開けてください。ビート様がおられる限りは客としてしかその扉をくぐれませんが、ビート様がいらっしゃらないのであれば、私は恋人としてあなたの部屋を訪ねることが出来る」
 千里眼は震えました。男の声が、千里眼を窓辺へと吸い寄せ、彼女は男を見下ろしました。
「千里眼、」
「いけません」
「なぜですか。あなたが私を見つめる瞳は日に日に熱く重たくなっていくというのに、私はここで立ち続けなければいけないというのですか。私たちが結ばれることがあなたの目にはそんなにも忌まわしいことだと映るのですか」
「私はなにも見ていません。あなたのことも、私のこともです」
「ならば御覧なさい。あなたの手を取る私を、その眼に映したらいいのです」
 千里眼は胸を押さえながら、とうとう未来を見ました。確かに男の言うように、未来で千里眼は男に手を引かれていました。しかし彼は艱難辛苦の末にすべてを失うのでした。ありとあらゆるすべてを、千里眼も、彼のいのちも、なにもかもを。千里眼は呆然として彼を見下ろした。
「なにを見たのですか」
「あなたは今すぐにここを立ち去るべきです」
「そんなことが出来るなら、苦しみなど知らないでしょう。夢にも現にもあなたの姿が思い出されて、狂いそうだ」
「あなたはあの扉を潜くぐったが最後、すべてを失います。光を失い、音を失い、そして私を失うでしょう。最後にはあなたの命まで失うでしょう」
 千里眼は沈鬱な面持ちで男へと告げました。けれど男は少しもひるみはしませんでした。
「光も、音も、命さえ、失うのになにをためらうでしょう。あなたを抱きしめることが出来るのならば、なにを惜しむというのでしょう。千里眼、扉を開けてください。あなたが扉を開けてくださらないというのならば、私はこの壁を昇ってでもあなたのもとに参ります」
 千里眼は、窓辺を離れると、ゆっくりと階段を下っていきました。暗い塔の階段は、さながら地獄へと下りて行くたったひとつの道のようでした。扉の前に立った千里眼は震えながら、木の扉にそっと身を寄せ、決心をつけられないでいました。その扉のむこうに、彼女の愛する男が立っているのを千里眼は見ていました。
 そしてとうとう千里眼は閂をはずし、扉を開きました。太陽の光が階段へと入って、千里眼の姿を照らします。男は千里眼をきつく腕に抱き寄せると、唇を重ねました。そうしてから、悲しげに千里眼を見つめたのでした。
「それは本当のことなのですか?」
「私は偽りは見ません。偽りも語りません」
「しかし私はもう、この扉をくぐってしまったんです」
 そう言って彼は千里眼に再び口づけると、彼女を抱き上げ、塔の高みへと昇って行ったのでした。
 翌朝、ふたりは芦毛の馬の背に乗って城を出ました。ビート様が戻って来ると、闖入した男にビート様が腹を立てて彼を苦しめることを千里眼が見たからです。男はいとしい千里眼を腕に抱いていましたが、顔は青ざめていました。彼もまた、千里眼が王子に告げた言葉を忘れていなかったからです。千里眼は、見るだけ。未来に待ち受ける苦難を避ける術を知っているわけではないのです。馬を走らせながら、男は言いました。
「光も音も命も失うことは怖くない。けれど千里眼、一度手に入れたあなたを失うのは恐ろしい」
「あなたは私を失うでしょう」
 川を下ることができず森を越えるしかありませんでした。長い旅路の果て、疲れきったふたりはようやく彼の仕えるあの王子が治める国へとたどり着きました。疲労してはいましたが、愛し合うふたりは、長い旅をともにしたことでより絆を深めていました。男の家に帰り着いたとき、未来を見た千里眼は、自分が身ごもっていることを知りました。男はまだ、光も、音も、千里眼も、ましてや命も失ってはいませんでした。
「それでもまだあなたには、すべてを失う私が見えるのですか」
 ビート様からは既に遠く離れていました。千里眼は改めて未来を見ようとしましたが、その前にと喜びに顔を輝かせて、男の手を取りました。
「私は未来を見ることができます。しかしそれを見るだけです。原因や因果はわからないことが多いのです。ですが、私はかつて、この国の王子に求められて死ぬ自分の未来を見たことがあります。それで王子には冷たい言葉しか差し出しませんでした。ですが今はその未来はなくなっています。だからあなたの運命が変わっていることはありえると思うのです」
 しかしそうではありませんでした。千里眼は、この町が大火に包まれているのを見ました。それはかつての未来で見た暴動と似通った光景でした。材木置き場から火が発し、男は炎にまかれ、光も音も千里眼も、そして最後には彼自身の命まで、失うのです。千里眼の顔が恐怖に強張るのを見た男は、彼女を抱き寄せました。その腕の中で千里眼は言いました。
「ここを出ましょう。この町でこれから大きな火事が起きます。その際にあなたは命を落とすのです」
「わかった、そうしよう」
 ふたりの道行きはなおも暗く運命の闇が包んでいましたが、立ち止まることはできません。しかし家を出ようとしたところに男を訪ねて来た人がありました。それは王子の使いで、男が戻ってきたことを知った王子が挨拶に来るようにとさしむけたのでした。男は急いで町を出なければと考えていましたが、同時に、これから大きな災いが起こるのに主になにも伝えずに逃げるのかと考えると心苦しく思うのでした。
 火事が起こることを王子に伝えようと男が言うと、千里眼は首を振りました。
「それは、あなたが止めようとして止められるものではありません」
 かつて見た未来で、千里眼はやはり暴動を止めようと手を尽くしたのでした。しかしそれは、千里眼自身はもとより、王子にすらとどめることが出来なかったのです。
 男は首を振りました。
「このことだけは王子にお伝えしたいのです。王子に会ってすぐに町を出ましょう」
 そう言って男は城へとむかったのでした。千里眼は不安げに、家に留まったまま男の様子を見守っていました。しかしそのせいで、彼女は既に火事が起こっていることに気がつくのが遅れました。窓から通りを眺めると、あちこちから煙が上がり、斧や鉈やたいまつを手にした男たちが走り回っているのが見えました。火事をいいことに略奪をするつもりなのです。
 男の家の扉を激しく殴打する音が聞こえました。千里眼は地下にくだって隠れ、震えながら男が帰って来るのを待とうとしました。幸い、千里眼は見つからずに済むことになっています。
 彼女は暗い穴倉で、千里眼で男を見ていました。彼はあわてて城を飛び出したのですが、あたりはもはや火に包まれています。千里眼は叫び声を上げそうになりましたが、すぐ傍で暴徒たちが略奪の限りを尽くしているために身動きが取れません。男を助けに行くことも、火のない道を伝えることも出来ないのです。男は必死に道を求めましたが、とうとう燃える壁に行く手を阻まれました。そして崩れて来た屋敷に押しつぶされてしまいました。
 千里眼は部屋から人の気配が消えるとすぐに隠れていた場所から飛び出して、外へとまろびつつも駆け出しました。町並みはすっかり変わり果てていましたが、千里眼は男のもとへと急ぎました。まだ彼は遠くへ旅立ったわけではなかったからです。炎を避け、崩れた道を避け、何時間もかけて千里眼は男の下にたどりつきました。既にそのあたりは火を消し止められて、男は沢山の死体とともに並べられていました。身体中が焼けただれ、だれともわからない有様でしたが、千里眼はそれが彼女の恋人であることをわかっていました。
 燃え盛る炎にあぶられて目も耳も使うことが出来ず、ひどいやけどで千里眼が触れられる場所さえありませんでした。千里眼の落とした涙が男の額に当たると、男は最期の息をつき、動かなくなりました。
 千里眼はさめざめと泣き続けていましたが、やがて王子の兵士たちが彼女の傍へやって来ました。男が千里眼の力で火事が起こることを知ったと王子に告げていたため、王子は千里眼を探していたのです。何人かの目撃者がいたので、男の家を飛び出していった千里眼が彼女だと、兵士たちは知っていたのでした。千里眼はそのまま、王子のもとへと連れて行かれました。
 蜂蜜色の髪をした王子は、千里眼を見て確かに彼女が千里眼であることを納得しました。彼の母親は千里眼が言った通りに亡くなりましたので、彼女の力を疑っていませんでした。王子は千里眼に感謝を伝えました。というのも、千里眼の言葉のために火事の被害を食い止めることが出来たからです。千里眼の見た未来では、火事は城にまで及ぶはずでしたが、そうはなりませんでした。
 そのまま、千里眼は城に留まることを許されました。王子は千里眼の力が自分の手にあることを喜びましたし、身重の千里眼にはありがたいことでもありました。ですが彼女は、かつて見た未来が少しずつ迫ってきているのを感じました。子どもの父親と出会う前、王子につれられて古城を出る未来のことです。千里眼は王子に寵愛されているわけではありませんでしたが、大臣とその娘は千里眼をよく思っていませんでした。
 なんとしてでも、お腹の子どもは守らなければなりません。千里眼は、もとの城に戻りたいと王子に願い出ましたが、王子は頷きませんでした。彼女は途方にくれながら、鮮やかな王宮の廊下をゆっくりと進んでいました。城は広く、千里眼がかつて暮らしていた古城とは比べられません。だというのに、彼女はここでも同じように囚われていました。なお悪いことに、千里眼はここにいれば殺されてしまうのです。千里眼は息をひそめ、少しでも悲劇の起こる日を遅らせようと努めました。ですがその日は少しずつ千里眼に追いつこうとしていました。
 とうとう城下の町で騒ぎが起きたのは、千里眼が臨月に入ったときのことでした。王子は暴動が起こらないようにと心を砕きましたが、やはり無駄でした。以前の火事で人々の暮らしは苦しくなりましたが、城は無傷なままだったためです。王子が魔女を囲っているという噂が人々をたきつけ、騒ぎが起こりました。戦争のような騒ぎの中、千里眼は一人、陣痛に苦しんでいました。とはいえ彼女は、既に思い悩んではいませんでした。これから起こることを知っていたからです。子どもが無事に生れ落ちると、懐かしいあのビート様が千里眼の枕元に立っていました。
「この子どもは千里眼を持っているね。死んでしまうはずだったおまえを連れて行ったように、死んでしまうこの子も私が連れて行ってやろう」
 千里眼は頷いて、抱いていた子どもをビート様に渡しました。ビート様はそのまま、赤い髪を揺らして部屋を立ち去りました。千里眼は無事に子どもが町から逃れるまで見ていましたが、そこまで見届けると、まだ暴徒たちが部屋に至らぬ前に目を閉じ、静かに息を引き取りました。
 暴動から逃れた王子は千里眼を魔女だとののしりましたし、千里眼のなきがらは辱めを受けましたが、それを千里眼はもはや見ずにすみました。千里眼の娘は母親と同じように千里眼と呼ばれ、ビート様に守られて育ちました。そして一生その城を出ることなく、幸せなまま亡くなったということです。

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