黄の廠 01
《Huang-Chang》

 海南灘ハイナングランドに、夜が訪れる。
 東シナ海に浮かぶ、欠月の形をした人工島、海南灘。中華民国と中華人民共和国による初めての融和の地として造られてから七十五年が経ち、いまは国籍の必要でない混沌カオスの都として大洋に浮かんでいる。ハノイ連邦の成立以来、軍事・政治・経済みなながら状況が逼迫している両国からの支援は途切れ、結局は国家ではなく、複数の資本がこの島を支えていた。
 守宮公司サンクンコンスとウェリタス重工は、ともにこの海南灘に本社を据える企業複合体コングロマリットカンパニーだ。海南灘はこれら企業のおかげで、ハノイからも日本からも商都として自我を保ち続けている。守宮公司もウェリタス重工も、軍事部門を所有し、企業は複数の国家軍隊に影響力を持っている。島の建設当時から、市長と市議会が存在しているが、いまやこの島の真の支配者は資本家たちだった。
 そういった成立事情から、海南灘には多様な人種が集まっている。漢人や新漢人はもとより、アジア一帯の民族で数えられない人種はいないだろう。そして多様な人種というのはその意味にとどまらない。
 華々しい電飾に彩られ、闇が降りて来てから活気づくのが、香海路シャンハイルーだ。国家でない海南灘ならではの飛びぬけた歓楽街が、この香海路に集まっている。規制されることのない性産業も、この島の重要な産業のひとつだ。総じてここに暮らす人々は豊かで、金遣いも派手だったから、こういうものにも金を惜しまない。みせを覗けば豪奢に着飾った娼たちが待ち受けている。廠々はそれぞれ趣向を凝らして客を歓待し、客はこの世の贅を凝らした店の中で、一夜限りの夢を見る。
 香海路では、女たちの廠を「白」、男たちの廠を「黒」という。外見が美しいなら男でも女でも構わないというのがここの住人たちの流儀で、どちらも立派な廠を連ねている。
 その香海路の片隅に、ひっそりと目立たない門扉の店がひとつ、ある。それがジラフの働く廠、香海路では「黄の廠おうのみせ」と呼ばれている。



 ジラフがその仕事を始めたのは、実入りのよさと、あんまり物事をどうこう考えない自分の性格が、この仕事にむいていると言われて誘われたからだった。
 三年前からこの廠に入っている。香海路でも知る人ぞ知る黄の廠で、ジラフは「仕入れ」と呼ばれる仕事をしていた。
「仕入れ」と言っても、ジラフの仕事は白い廠や黒い廠の「仕入れ」とは少し違う。黄の廠の「仕入れ」は客の要望を聞いてから、予定を立てて商品を仕入れることが多い。客は担当の「仕入れ」に直接、自分のほしい商品を言って来るので、「仕入れ」は廠の商品から客の好みを選び出すこともあるし、いいのがなければ探しに行くこともあるし、わざわざ調達することもあった。
 黄の廠は白や黒と違って客の相手をするのは娼たちではない。黄の廠の商品は、黙って客に身を委ねる。もう声は出ないので仕方ない。……香海路に唯一の(そしてもちろん、海南灘に唯一の)黄の廠の商品は屍体だ。巷間で屍体愛好者ネクロフィリアと呼ばれる好事家が、ジラフたちの客だった。
 ネクロフィリアといっても好みは人それぞれだ。きれいな娘の屍体を好む者もいれば、少年がいいとか、老人がいいとか、腐ってないものがいいとか、死後硬直のさなかの硬い屍肉がいいとか、腐敗をはじめて体温と同じような熱を持っているものがいいとか、もっと腐敗が進んでぐちゃぐちゃのものがいいとか。人それぞれだ。ただ言えるのは、屍体を犯す趣味があるような人間はさして多くないし、その趣味を全うするために必要な金をばらまける人間も少ないということだ。だから白や黒の廠と違って、黄の廠ではだれもが上客だ。危険な趣味だけに、安全もかねて彼らは大枚をはたく。
 そして「仕入れ」は、金さえもらえばどんなことでもした。調達とはそういうことだ。つまり、まだ屍体になっていない者を客の好みのために用意するのだ。
「仕入れ」たちはそれぞれ商品の仕入れルートを持っている。その豊かさが、「仕入れ」としての力量の見せ所だ。客はたいがい、担当の「仕入れ」が決まっている。その客たちの嗜好を把握し、彼らの望むときに望む商品をそろえておけるかが黄の廠の「仕入れ」の使命だった。ジラフは毎日、朝から晩まで客のために海南灘中のモルグを駆け回る。客の嗜好に合った屍骸を見つけることがもはや生きがいに近かった。
 ジラフ自身には、屍体愛好の趣味はまったくない。
 用意された房で商品とよろしくやっている客たちは、たぶん人間が怖いのだろう。生きている人間とすることが出来ないから、彼らを罵倒しない、嫌わない、そして愛さない屍体と愛を交わすのだと、思っている。
 別に、咎めだてすることじゃない。彼らはそのための金を払えるのだし、苦労して商品を用意してやれば彼らはジラフに大金を払ってくれる。それだけのことだ。そして人間はいつか死ぬ。それだけのことだ。



 岸上はジラフの担当する客の一人で、かつ、良質な商品の提供者でもあった。
 歳は二十七歳、この廠の客としてはかなり若い。職業は医者だ。医学生だった頃に、指導についていた医局長からこの廠へ死体を卸す手伝いに誘われ、そのままこの廠の木乃伊になった。大病院に勤めているから並よりは収入がいいのだろうが、黄の廠に払えるほどのサラリーがあるわけではない。病院で出た屍骸を黄の廠に横流しすることで、廠からかなりの金が仲介料として岸上に流れている。彼はその金で、黄の廠にあがるのだった。
 珍しい客だ、とジラフは思っている。医者で、見てくれもかなりの美青年だ。恋人に不自由しそうにもないのだが、あいにく趣味は人の道を踏み外してしまっている。
 彼を担当して一年半になるが、ジラフは岸上の嗜好をつかみあぐねていた。たいていの客は、会うたびに、あるいは連絡を入れて来るたびに、うんざりするほど自分が望む商品について注文をつける。熱烈な想いを傾けて彼らはまだ見ぬ屍体の恋人について語る。自分で探せと言いたくなるが、そこをうまくコーディネートするのがジラフの仕事だ。ジラフはいつも、にこりと笑って「知道了わかりました先生シーサン。それじゃあ、来週に」と言う。
 そういう意味で、岸上はうるさくないから有難い。彼の嗜好は、自分より若い男の屍骸だった。十代後半から二十代半ばくらい。女がいいと言われたことは一度もない。人種も、髪の色も、体型も、条件をつけられたことがない。岸上の条件に合致する死体は多すぎるから、ジラフはいつも、適当に鮮度がいいのを見繕っていた。文句を言われたことは、一度もない。
 岸上は、廠に来るとジラフが用意していた商品を黙々と抱く。終わったあとの屍体を始末するとき、射精の痕がなければ岸上も死体じゃないかと思えるくらいだ。ことが済んだ後、完全に落ち着くまでへやからは出て来ないらしく、顔を上気させているのさえ見たことがない。房から出て来る彼の横顔を見て、本当は嫌なんじゃないかと思うこともたまにあるが、さすがに嫌で続けられるような敷居の低い趣味じゃあない。やっぱり、岸上は屍体と愛を交わすのが好きなのだろう。
 金がかかることもあって、岸上が客として廠に訪れるのはせいぜい二ヶ月に一度、それ以外の性欲の処理はもしかすると生きている女かもしれなかった。岸上を見ていると、どうしてもネクロフィリアなどという趣味を持っている人間には見えないのだ。
 その岸上が、ジラフに連絡を入れて来て「どうしても手に入れたい商品がある」と言った。客がこう要望して来るのは、かなり彼らの欲望が行き過ぎてしまったことを意味する。つまり、用意された屍体に満足するのではなく、目の前の手に入れたい人間を屍骸にしてくれという依頼であることが多い。それが、黄の廠でいう調達だ。
 いままでジラフの用意した商品に文句をつけたこともない岸上だ。いきなり、調達を望んで来るなど飛躍しすぎじゃなかろうかと思ったのだが、客がどうしてもほしいと言うのだから、ジラフはイエスと返事をする他ない。
 三年この仕事をやって、ジラフは三人を調達した。もともとジラフはこんな廠に入るような暮らしをしていたのだ、調達することそのものに抵抗はさしてなかった。むしろそのために大枚をはたく客たちを尊敬した。客の気が違ってるというのは、まあ、意外といいものかもしれない。ともかく彼らは、金に糸目はつけないのだ。
「それで、だれなんです」
「会って話そう。今日の夜、礼芳路リファンルー楽園酒家パラダイス・カフェで」
 夜、ジラフが約束した酒家へと行くと、岸上は既に席についていた。あまり、こういう明るいところでは会わないのだが、改めて見ると青年医師の男ぶりはたいしたものだ。顔はすっきりと整っている。黒目がちの目は、どこか憂いを含んでいるように見えて人の気を引くだろう。長身でスーツも白衣もさまになった。きれいな女たちからの誘いなどこと欠かないだろうに。海南麦酒ハイナンビールを一人で飲みながら、ジラフを見つけると小さく手を振った。
 ジラフが席につくと、人目につかないように一枚の写真をジラフに差し出して来た。
「彼だ」
「これが先生の調達希望?」
「ああ」
 写真の中では、一人の青年が微笑んでいる。かなり、親しい人間にむける笑顔だった。歳は二十代半ばくらい。背景はどこかの部屋の中だ。ラフなシャツ姿だが、容貌が整っているので粗野な感じは受けない。繊細で、触れれば壊れてしまいそうな印象があるが、その微笑には傲慢なところも見受けられる。育ちもよさそうだ。これが岸上の趣味というわけだ。今後の参考にするか、とジラフはよくよく見凝めた。
「だれなんです」
 尋ねると、岸上はあっさりと答えた。
楊亘ヤンゲン。ウェリタス重工の社員だ」
「ウェリタス重工、ね。ホワイトカラーなんでしょう。いなくなったら騒ぎになりますよ」
 ジラフたち「仕入れ」がなんでもする、と言っても、もちろん場合による。香海路の娼館の娘がいなくなったならそんなに騒ぎにはならないが、あまりにも真っ当な立場の人間だと、失踪すると警察が動くことがありうる。「仕入れ」がミスをすることで、黄の廠そのものが危険になることがあるのだ。黄の廠は明幇ミンバンの配下にあってトラブルを揉み消すことは難しくはないが、この海南灘はウェリタス重工ら複合企業体の力が大きいため、幇の力が及ばないこともある。この青年がどれだけの社員かによるが、場合によっては、警察よりずっと装備のいい重工の私兵が動き出す。それは、廠として歓迎できない。
「いや、平気だ」
 岸上は首を振った。
「彼の家族は届けを出さない」
「どうしてです?」
「そいつは、俺の弟だ。肉親は俺しかいない」
「へえ」
 ジラフは慌てて、写真と岸上とを見比べた。確かに、似ていると言えば似ている。だが、楊は漢名だ。ジラフが不審そうに見ているのに気づいたのか、岸上は苦笑した。
ワタルとは……兄弟だと日本名で呼んでいるんだ、亘とは、父親が違う」
「それで肉親は他にいない、と」
「ああ」
「すぐにうちの商品にするんですか。もったいない、これならこの歳だって、黒の廠でかなり稼げる」
「調達だといくらになる? それによるな」
「調達はまわりのカムフラージュに一番金を使うんですよ。それが必要ないなら、あまりかかりませんね。先生にはいつもお世話になっていますから、サービスはさせてもらいます。気を揉まなくてもいいですよ」
「それなら、黒には出さないでいいだろう」
 ジラフがうなずくと、岸上はほっとしたように椅子にもたれた。これでこの写真に写っている青年の運命は決まった。かわいそうだけど、あんたの兄貴が悪いんだぜ、ジラフは写真の中で笑う青年に胸の中で囁いた。
「日取はいつがいいんですか」
「亘は、来週の頭から休暇で沖縄に行くことになってる」
「じゃあ、その前に」
「ああ。調達できたら連絡を頼む。……冷たいほうがいい」
知道了わかりました先生シーサン
 ジラフはいつものように笑って、仕事を受けた。



 五日かけて、ジラフは楊の生活を調べた。岸上が「なにも言うつもりはない」と保障していても、楊の雇い主であるウェリタス重工の出方までは彼には保障できないからだった。
 楊は岸上とは兄弟だが、別居していて、海南灘高台にある高級マンションの一室に一人で住んでいる。岸上は香海路からそう遠くはないかなり安い場所に部屋を借りているのだから雲泥の差だ。楊の父親は二年前に亡くなっていて、その相続物らしい。
 楊亘の身の回りを調べながら、ジラフはため息をついた。苦労なく育って来た青年だ。ウェリタス重工でも秘書部にいて、幹部候補だろうことはあきらかだ。将来を嘱望されている。……とはいえ、個人的な事情で姿を消したりしたときに重工が動く可能性はあまりないだろう。まだ社員としても若いし、他殺体で海に浮かんだら話は違うだろうが、死体が出て来なければ問題ない。
 ジラフは楊の写真を見ながら彼を哀れんだが、もちろん岸上の依頼を断るつもりはなかった。本気で同情するようなら、この仕事はとっくに辞めている。
 楊の休暇前日、会社からの帰り道でさらった。薬をかがせると瞬きをする間もなく堕ちた。酔いつぶれたような姿の楊を車に乗せて、ジラフは悠々と廠に戻った。
 房に連れこみ、ベッドの上に寝かせる。楊の顔はとても安らかだ。薬でどんな夢を見ているのだろう。そしてその夢は、楊が見る最後の夢だ。いまや彼は、二度と生きては戻れない廠の中にいる。
 岸上に調達が出来たことを連絡すると、明朝に来たいと言って来た。
「勿論、平気ですよ、先生」
 にこやかな声で答えると、緊張したような引きつった笑いが、電話のむこうから聞こえた。他の客と同じように岸上は興奮している。お望みの商品を手に入れられるとあって、さすがに冷静じゃいられないのだろう。
 電話を切ったジラフは、どこか幻滅を感じている自分に気づいた。岸上は他の客とはどこかが違うと思いたがっていたらしい。確かにいい男だが、所詮はこの廠の客なのだ。人間を相手に恋愛をするのではなく、物言わぬ屍体を相手に性交するような男なのだ。
(そしてその相手がまた、父親の違う弟と来た)
 調達相手に肉親が選ばれることは、珍しくはない。鬱積した欲望は身近な場所にむかいやすいと聞いていた。
 顔をしかめて、ジラフは携帯ハンディをスーツの内ポケットに滑りこませようとし、その手を止めた。楊をさらうために、彼に近づいてもおかしくないような仕立てのいいスーツを着ていたのだ。内ポケットなどにハンディを入れたら、着替えるときに取り忘れるに違いない。彼は大仰にため息をついた。着慣れないものを着ていると調子が狂う。
 ジラフはいつものラフな格好に着替えると、楊の眠る房に戻った。
 明日の朝、岸上が来る。彼が楊を抱くまでに体温をなくしておくためには、そろそろ殺しておかなければいけなかった。常軌を逸した欲望が、彼を殺す。理解できないと言いながら、それに手を貸している自分はなんなのだろうとジラフは思った。
 受け取れる金はいい。だが、自分がそんなものに対して執着していないのも知っていた。
「ジラフ、そいつが今日の調達か?」
 声に振りかえると、部屋の扉を半開きにして立っていたのはジラフの同僚のルァンだった。ジラフより十年は長くこの仕事をしている「仕入れ」だ。ジラフを「仕入れ」にと斡旋したのは他ならないこの男だったが、大陸から流れて来たらしいこと以外、この廠に来るまでの来歴はほとんどの人間が知らない。それなりに親しくしていたが、ジラフも、彼のことはほとんど知らなかった。阮という名前も本名かどうかわからない。どうやらインテリだったらしく、ふるまいはわざと粗雑にしているが、この界隈の「仕入れ」とは少し違っていた。もっとも、阮が変わっているのか、黄の廠の「仕入れ」だから変わっているのかは判断できない。
「お医者センセーのお好みが、このぼうやか。きれいな顔をしてるじゃないか」
「聞いてたのか?」
「ここのところ、廠も調達はご無沙汰だったからな」
「今回は調達とも言えない。簡単なもんだよ」
 阮は肩をすくめた。
「余裕だな。もう手馴れたか」
「というより、ほとんど手間が要らなかった」
 いつもなら、商品が失踪したあとに問題が起こらないよう、様々な工作をしなければいけないのだ。警察への口止めにはじまり、事故を装ったように死体を誤魔化すことだってあった。だが、今回はたったひとりの身内が依頼主だ。厄介な手順は不要だった。
「黒には出さないんだな」
「必要ないってさ」
「勿体ない」
「なあ、かなり稼げるよな」
「でも、プライドが高くて大変そうだ。うっかり逃げだしたりしたら大事になるか」
 確かに、生きていれば黙って男に犯されるようなタイプではないだろう。だからこそ岸上は、ものを言わなくなった彼を望むのだ。
 阮の言葉に相槌を打って、ジラフは棚から、廠に用意してもらった注射器を取り出した。中味がなんだか知らないが、黄の廠で使う毒薬が入っている。商品が苦しまずに死ねることがこの廠でもっとも大切で、それをかなえる薬だった。
 傍に行くと、楊はぼうっとした瞳を開いていた。覚醒していたらしい。だが、意識がはっきりしているわけではないはずだ。どうせ商品になるのだから、という理由で、ジラフたちが調達に使う薬は強いものだったのから当然だ。ここで救出されても、脳は破壊されているから元の生活は送れない。もっとも、ここまで来て助け出された人間がいるなんて聞いたこともないが。
 それでも、楊はジラフが覗きこむと訝しげな顔をした。
「君、は……?」
「俺はジラフ」
「だれ、なん、だ」
 ジラフは笑った。そして、用意した注射針を楊の腕に刺した。楊は不思議そうな顔をする。けれどすぐに、意識が混濁して来たのだろう。ゆっくりと目を閉じて、そしてもう二度と開かなかった。
「先生が入る前に、洗うから。朝早いけど、手伝ってくれるか?」
 ジラフが言うと、ああ、と阮は頷いた。



 翌朝、約束の時間通りに岸上はやって来た。ジラフは彼にうやうやしく房のキイを渡す。キイを受け取った岸上の手はかすかに震えていた。
 だが岸上は至極満足そうに笑っていた。
「ごゆっくり、先生」
「ああ。有難う、ジラフ」
 ジラフは廊下の奥へ進む岸上を見送った。やがて、楊の横たわる部屋の重たいドアが閉じる音が聞こえた。それを確かめてからジラフが身を翻すと、にやにやと笑いながら煙草を取りだしている阮と目が合った。
「そこにいたのか――」
 ジラフが戸惑いながら聞くと、まあなと阮は肩を竦めた。
「どうだ、先生の反応は」
「珍しく緊張してる」
「ふうん、わざわざ調達しただけのことはあるってことか」
「そうじゃなきゃさすがに人殺しまではしないだろ」
「どうかな、あいつら、自分が殺したなんて思ってもねえだろう。よく似せたゴム人形でだって本当は満足できるのさ」
 阮の台詞は確かかもしれない。屍体とやりたければ自分で調達すればいいのだ。彼らはそれをせず、肉食と同じで、屠殺はだれか下々の者にやらせる。いや、むしろ彼らは本意をかなえるために命を奪う必要ですらない。抱かせてくれと相手に懇願すればいいのだ。だが、客たちはそれをしない。
 どうやって調達したのかと聞いて来る客さえ、この廠では稀だ。殺すなんて下賤な仕事の方法を聞かないことがマナーだなんて考える上流階級の客ばかりなのだ。そうじゃなければボタンひとつでお望みの屍体が出て来るんだと思っているかもしれない。
 だから、彼らは自分の欲望が相手を殺したことにさえ気づかない。これが現実だと認識しているかどうかも、本当は危ういのじゃないかと思えた。常軌を逸したファンタジーを満たす場所が香海路なのだから、うたかたみたいに生まれては消えるすべてが夢みたいなものに違いなかったが。
「この仕事をしていると」
 阮が苦々しい口調で笑った。
「自分が人形師になった気分にならないか」
「人形師?」
「そう。あいつらは俺たちが用意した舞台の上で人形とダンスしてる。自分の幻想を満たしていると信じこんでいる客どもは結局、俺たちの操り糸でふらふら揺れてるだけだろう」
 煙を吐き出しながらけたけたと笑う阮を見ながら、ジラフは顔をしかめた。
 阮がなぜこの仕事をしているかは知らない。確かに、実入りはいい。ジラフも何人も手にかけていたが、この仕事がやばいものだという感覚もさほどなかった。黄の廠には明幇のバックアップがあるから、いくらかの醜聞は揉み消してもらうことができる、という安心感もあるのだろう。だがそれだけでは捻じ伏せられない嫌悪感が普通の人間にはあるはずだった。
 日がな一日生臭い死体とむきあいながら、なにが楽しくてこの仕事をしているのか、阮の言いようからすれば、舞台の上で踊る客たちを支配できるのが楽しいからだとでも言いたげだ。
「客は客だろう」
 ジラフが言うと、阮はさあと気のない返事をする。
「……そういや岸上は客っつってもなあ。仕入れもさせてくれるんだったな」
 その言葉に含んだものを感じて、ジラフは眉をしかめて顔をあげた。
「だから、なんだよ」
「いや、ドクターが客だけならいい、仕入れの相手だけなら、いいんだけどな」
「その両方だからって特別なことはしてない」
「怒るなよ、おまえがだれかに執着するのは珍しいなって思っただけだ」
「そんなこと思ってない」
「まあいいさ、おまえは頭がいい分、人には絶対に本音を見せないからな。ドクター・岸上けっこう、便利な男だ。なにしろこの廠の客だからな、裏切ることもない。
 おまえの言ってることは正しいっちゃあ正しい。客は客だ。……だから、肩入れはするな。この廠に来る客がまともなことはないんだからな!」
「肩入れなんてしてない」
「お医者センセーの本性が今回の調達で見えたってんなら、いいんじゃねえのか」
 揶揄する響きに、ジラフは怒りを覚えたがそれを押さえつけた。阮は深く息をつき、煙草をうまそうに吸い続けている。

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