呼んで手を伸ばして囁いて
(from SHI-KI)

 さして気温は低くもないのに体中に悪寒が走り、氷塊に押し潰されているようだ。身体はぎしぎしと軋み、末端はすでに夏野の意志による支配から逃れて死の専制に屈している。やがて呼吸はあっけなく止まって死ぬのだろう。
 死というものはこれだけ周囲を取り巻いていてもいまだ理解できるものではなかったが、夏野には死という概念の中に一本の線を引くことは出来た。そのひとつは死んで肉体が朽ち、微生物たちに分解されてやがて森羅万象の中に散っていくこと、もうひとつはそれを拒み起き上がりとして目を覚ますことだ。冷たく変わっていく自分の身体が死のどちらの領域にむかっているかは知りようがない。それはまるで、重篤な病気が始め当たり前の風邪と区別がつかないのと似ていた。どこかの時点で自分が起き上がりになることに気づいたとしても、もはや手遅れなのだろう。
 失われていく肉体の熱とともに精神もまた急激に熱を失いつつあった。この世界から自由になりたいという、夏野を突き動かして来た希望はいまや蜘蛛の糸のように細く、下から引っぱられれば簡単に切れてしまうだろう。思えば起き上がりを狩りたいと願ったのも、彼らの手にかかれば閉じられた外場村という世界を脱することが出来なくなるのを厭ったからだった。自由になりたい、それが夏野の願いだった。その願いは徹を奪われた怒りと絡み合い、夏野を動かしていた。だが身体の自由が失われるにつれて闘争の意志すら蝕まれ、残されているものは闇のような想いだ。
 夏野に触れる冷え切った指、あるはずのない涙、それから血を貪りながら泣く声。抱きしめてやりたいと思っても、夏野にはもうそれすら出来ない。身体にかかる徹の重ささえなければ、夢の出来事のようにしか感じられない。苦しむ徹の姿は夏野の願望で、曇った目を晴らせばそこには残虐な笑みをたたえて立ち尽くす起き上がりの姿があるだけかもしれないのに。だがうなされながら見る夢の中でも、夏野の腕を抑えこみ喉笛に喰らいつく現実の徹も、夏野の弱々しい姿を見て心臓を切り刻まれているように顔を歪める。
 今日も闇のむこうに、気配がうずくまっている。
 以前はだれのかと疑ったけれど、いまはもうそれが徹のものであることがはっきりとわかった。
 徹が存在することだけで自らに感じている愁緒は、夏野が血をさしだしたところで変わらない。許したところで変わらない。夏野の手をとり共に逃れたところで変わらない。徹がここにいるということはすでに何人もの人間を殺した結果だということは夏野にもわかった。その闇はもう徹の二度目の生が尽きるまで果てることはないだろう。
 夏野の前に現われた徹は以前のままではもちろんない。だが違いといえば大きなことではなかった。そこにいる武藤徹は「人を殺した武藤徹」だ。それ以上にめざましい違いなどなかった。生きていた徹が人を殺してもきっと同じ愁いを帯びるのだろう。起き上がりにとって人間の生き血は糧で、人間が豚を屠殺するのと同じだと嘯きながら、同じことでないのを徹がなによりも感じている。
 徹は窓の外で夜の闇が尽きるのを待っているようだ。彼の渇きと朝日の到来との根競べでもしているのだろうか。これがきっと夏野と徹にとっての最後の夜になる。戦いは夏野と徹の中にあるのではなく、ただ徹の中にあった。
 徹が自らの飢えや他の起き上がりからの重圧に負けることは予想がついているのに、夏野は怖いとは思わなかった。ただ苦しみながら徹が自分の身体の上にのしかかってくるのを見ることだけが苦しい。この夜までに見せた徹の苦悶が夏野の胸さえ塞ぐ。
(徹ちゃん、まさか俺に最後までそんな顔しか見せないもつもりじゃないよな。……そんな顔しか見られないなんて、俺の最期がかわいそうだと思わないのかよ。笑うくらいしてくれればいいのに)
 そんな暗闇でひとりでうずくまっていないで、寒いのなら夏野を呼んでくれればいいと思う。徹を拒んだことがいままで一度だってあったと思っているのだろうか。夏野にとって起き上がっても徹は徹だった。それ以上のなにかにはならない。
(わかってないよな、徹ちゃん)
 徹が苦しむから夏野も苦しまなければならない。どうして呼んでくれないのか夏野にはわからない。徹に決断がくだせないのならば夏野を呼んで決めさせればいいだろう。徹に決められないことでも、夏野になら決められる。
 夜が更け時が経っても、いつまでも徹は夏野を呼ばない。
 死は怖いと思う。死もこの村も憎くて仕方ないし、逃げられるのならばいますぐにでも逃げたいと思う。だが夏野は徹が呼ぶのを待っていた。馬鹿馬鹿しいと思うけれど、欲望に負けて夏野を殺そうとする徹を、夏野は待っていた。
 どうせなら忍びがたきを忍ぶようにむしゃぶりつくのではなく、おいでと呼んで笑ってほしかった。
(だってそうだろ、徹ちゃん)
 苦しんでいるのなら夏野を死なせたくないと思っているはずだ、死なせたくないと思っているのなら渇いて仕方ないなんて言い訳をせずに夏野に手を差し伸べればいいだけだ。おいで、と徹が呼べば夏野は拒まない。もう拒む力は残っていない。命は鞠のように暗い淵へとむかって落ちて行っている。ただその暗闇の果てに辿りつく場所がほしかった。
(最期には、なにか聞かせてくれるだろ)
 闇の中で気配が震える。夏野の呼吸は細くなり、意識がわずかなあいだ途切れる。瞬きをしたと思った時間は夏野が思っているより長かったのだろう。身体の上に徹がのしかかっており、夏野の名前を呼ぶ。
「なつの」
 けれどそれは夏野が聞きたいと願った声ではなかった。徹は今夜も、泣いている。

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