抱きしめることもできない
(from SHI-KI)

 暗い森の奥から視線を感じ、震えながら徹はふりかえる。亡霊である自分が怯えるなんておかしいと思わないでもないが、それはきっと、徹だけのことではないだろう。起き上がった人間は――いやもう人間ではないのだから沙子が呼ぶように屍鬼というべきだ――みな、姿を見られるのを懼れる。生きている人間に見つかるのは、ひとつは、あさましい姿になり果てた自分を知られたくないと思うからだし、あるいは、自分たちの存在が知られてしまうことから生じる事態への脅威を感じるからだ。屍鬼の肉体は人間にない利点があるといっても脆弱さに関しては大差なく、闇にまぎれていなければ圧倒的な数を誇る人間に勝てるはずがない。だからみな怯えている。存在していることそのもので罪を犯している自分と、その罪を暴かれることに。
 しかし振りむいてもなにも見えない。夜目がきく屍鬼の視界で見えないのならば、それは気のせいか、隠れているかのどちらかだった。
 そしてたぶん、徹の気のせいではなかった。だれかがいる。息を押し殺して、いや、息もせずに。
 ――屍鬼だ。
「だれか、いるのか」
 問いかけても、闇は揺れない。
 背後の足元に並べた野の花ですら、凋むまでは呼吸している。もう息をしなくなった夏野のかわりに。夏野の死を悼む儀式は今日が七日目だ。そして今夜を終わりにしようと決めていた。徹はもう夏野を殺してしまったし、いままで殺した他の人間と比べて、夏野だけを特別に扱うのは不公平だった。
 徹の中の飢えが他の人たちも夏野も殺した。それだけだ。
 いつか夏野も死ぬ。だから徹が殺した。それだけだ。
 風が揺れる。はっとして徹は闇の中に目を凝らす。闇には明らかな憎悪が隠れている。徹を憎む人間など心当たりはほとんどない。夏野の命を先に取られたと思っている清水恵か、あるいは、いくばくかの真実に気がついた夏野の家族だろうか。
 もししかるべき人間が夏野の、あるいは夏野じゃなくても徹が殺しただれかの、死の復讐をさせろと迫って来たらどうするべきなのだろうか。人を殺すことは確かに罪だ。でも殺さなければ死んでしまう。胸の奥にこびりついて離れない罪の意識は、いつか消えるのだろうか。はじめは苦しんだはずの他の屍鬼たちも、もはや罪を忘れ去っているものが大半だ。人間だったとき、自分の血となり肉となった食べ物を提供した無数の命たちに対して、罪悪感などあっただろうか? なかった。そんなこと気にもしなかった。ただ一度だけ、中学のころに屠殺工場の映像を見た日、食卓に並んだ豚肉の生姜焼きを見て、手を合わせたことはあった。でもそれだけだ。
 徹は七日間、夏野のために祈り続けて来た。
 十分じゃないかと、そう思う。
 だがきっと、徹の胸からは消えない。殺したのが夏野だったからではなく、殺したのが命だったから、その理由で。
 でも、だから代償として徹の命を差しだせと言われても、それは出来ない。人間は豚を、牛を、鳥を、食らって自分の肉にする。徹は人間を、夏野を、食らって自分の肉にする。だれかを殺した代償に死ぬのは、彼らをもう一度殺すことじゃないのか。身体の中に取りこんだ夏野の血はいま徹の身体のどこを巡っているのだろう。身体の内側へと耳を澄ましても、その在り処はわかりはしない。夏野の血はもう徹の身体の一部となり、区別することなどできない。
 そういう意味で、屍鬼もまた生き物なのだと感じる。人間と同じように生きているわけではないが、この肉体は有機的なもので、その限りでは徹は生きているのだ。生きていなければ、夏野の血は徹の中に混ざることはなく、返してあげることもできるのだけれど。

 徹は闇の奥をずっと見凝める。この姿を見て欲しくないだれかがそこにいるのではないかと思いながら。でも、だれなら徹は見られても平気なのだろうか。生きている人間は駄目だが、屍鬼だって同じだ。辰巳や清水であれば、叱責が待っているかもしれない。
(なつの)
 ……そう、夏野ならばこの姿を見てもいい。
 一緒に逃げよう、と言ってくれた夏野ならば、人間の命にも屍鬼の命にも苦しみを感じている徹を理解してくれるはずだ。
 きっと夏野だけが、理解してくれる。
 夏野は死んでしまった。起き上がるかどうかを確認する前に、身体は焼かれてしまったようだと聞かされていた。
 夏野が起き上がらなかったことに徹は本当は安堵していた。夏野は徹を理解してくれるけれど、それはつまり、徹の中の最も醜い部分を知っているということだ。人間でもない、屍鬼でもない、徹の中途半端で汚い部分を。
 屍鬼としての命を前に進めと、他の屍鬼たちは言う。人を殺すごとに、その喉に牙を食いこませるたびに、きっと徹は屍鬼として前に進んでいるのだと思う。人間ではもういられないし、屍鬼としての飢えに何度も屈服したのだから、当たり前だ。
 だから夏野のことも忘れていかなければ。
 夏野の死が人間だった頃の徹にとって特別だとしても、死んだ徹には特別ではないのだから。
 闇の中に潜むだれかは、いつまで経っても姿を現さなかった。コンタクトを取る気はないようだ。徹も気にするのはやめて、結城家の裏庭をぐるりと回って山のほうへと歩き出した。すると、気配も一緒について来る。さすがにいらだち、徹は勢いよく振り返った。
「だれだよ、コソコソしてないで出て来たらどうなんだ」
「……後悔しない?」
 答えがあった。聞き覚えのある声に徹は震え上がる。幻聴ではなく、その声は確かに夜のしじまを揺らして徹の耳に届いていた。
「俺を見て、後悔しない? 徹ちゃん」
「それは、夏野、おまえはあのとき窓を開けて俺を見て、後悔したのか? 見なければよかったって」
「したよ。したけど、でも、見なければよかったとは思わない。徹ちゃんが起き上がらなければよかったとは、思ったけどな」
 夏野はゆっくりとした足取りで徹へと近づいて来た。もともと色白だったが、いまは闇の中で浮き上がるほど肌が白い。
「夏野、ほんとうに、夏野なのか」
「幻なわけないだろ。徹ちゃんが、俺を殺したんだから」
 徹が血を吸ったのだから、屍鬼として起き上がる可能性はあった。そんなのは当たり前なのに、だいいち自分自身が死から起き上がったというのに、動く夏野の姿に怖気を感じた。
 ……きっと夏野は、起き上がった徹を見て同じように思ったに違いない。
 夏野だけは、起き上がるべきじゃなかった。
「徹ちゃん、言ってたよな。俺を殺せって言われたって。辰巳に?」
「夏野、起き上がってたのか。どうして、桐敷には、」
「勘違いしてるよ、徹ちゃん。俺はおまえたちの敵だ」
「え?」
 夏野の表情は冷たく、感情がなにひとつ見えない。まるで夏野ではないようだった。
 夏野は簡単に人に心を開くような少年ではなく、自分の感情も押さえつけていた。だからといって押さえつけているものを隠せていたわけではなく、強がりの奥でなにを考えていたかは、よくわかったものだった。それは相手が徹だったから、夏野も油断していたのかもしれない。
 それが嬉しかった。
 でもいまは違う。
「俺はおまえたちを根絶やしにする」
「夏野?」
「そのためにここにいるんだ」
「でも夏野、夏野はもう人間じゃないんだろ? どうして」
「だって、徹ちゃんは俺を殺したじゃないか」
 そう言って夏野は、ちらりと背後を振り返った。そこには夏野の家があり、夏野の部屋があり、そして夏野の部屋の窓の前には、徹が並べた花が七本、並んでいる。それをまるで笑うように口の端を持ち上げて、夏野は徹をねめつけた。
「徹ちゃんが俺を殺したんだ」
「なつ、」
「名前で呼ぶなよ」
 夏野の目に不意に憎悪が満ち、徹は肩を揺らして一歩下がった。
「あんたは俺を殺したんだ、そんな親しげに呼ぶなんて、おかしいだろ?」
「いまは夏野も俺たちの仲間じゃないか」
「仲間? 生きてるときはエサ扱い、起き上がったら仲間かよ。笑わせるな」
「俺は……」
「あんただって、俺の血をすすりながらおいしそうな顔をしてたじゃないか。こんなことしたくないと言いながら、俺を食ったじゃないか。それで、あんな弔いの真似事でだれに許してもらえると思ってるんだ?」
 許す? 許してもらう? そんなことは考えていなかった。あれは徹にとって、生きていた頃の自分と決別するための儀式だった。そして夏野との。葬式なんてもともとそういうものだろう。あれは、結局死んだ人間のためではなく、生きた人間にとっての別れの儀式なのだ。
「そんなことを言うなら、どうして夏野は俺の前に現れたんだ。殺せば、いいじゃないか。殺し方は知ってるんだろ」
「あんたはあいつらの仲間だ。あんたらはどこに隠れてる? あいつらはこんなに殺して俺たちを化け物にして、どうするつもりなんだ? そういうこと、知ってるんだろ? 徹ちゃん
「化け物じゃない」
「なに?」
「俺たちは化け物じゃないよ、俺たちは屍鬼というんだ」
 徹の言葉に夏野は笑った。
「屍鬼ね」
「本気なのか、夏野」
「なにが」
「根絶やしにするって」
「本気だよ。だから徹ちゃんが知ってることを話してほしいんだ」
「本気で言ってるのか?」
「しつこいよ」
「本気で俺に、話せっていうのか?」
「話してくれるだろ。だって、徹ちゃんは俺を殺したんだから」
 夏野の腕が、そっと伸ばされて徹の首元に触れた。温度は感じない。徹の身体も冷たくて、夏野の手足も同じように温度がない。でも彼の身体の奥にゆっくりと脈打つものがあるのは指先から感じられた。
「夏野」
「話せよ」
 夏野のものとは思えない強い力が首にかかる。息苦しさなどあるはずがないのに、徹は顔を歪めて夏野の手を掴んだ。
「なつ、」
「不思議だよな、徹ちゃん。俺たちはもう死んでるのに。俺の憎しみも徹ちゃんの苦しみも、ここに存在していないのに。それなのに俺はあんたたちが憎いし、徹ちゃんは苦しいんだろう」
「存在、してないなんて、」
「してないじゃないか。死んでる人間は、なにも感じないんだ」
「夏野」
 それは違うと思ったけれど、夏野になにも言うことは出来なかった。夏野が言うとおり、夏野を殺したのは徹だ。泣きたいと思ったが涙は出なかった。傍にいるけれど抱きしめることもできない。夏野を殺したのは徹だから。
「徹ちゃん」
 その声は、二人が死んでいるはずのいまは聞くことがなかったはずの、声だ。

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