大天使は弓をつがえ、月を落とす
2、海で(落花のこと)

 早く帰ったほうがいい、ということはわかっていたのだけれど、やっぱり先輩のことが気になった。好きだって言ってくれたのは嬉しいけど、じゃあつきあうとか、そういう話にはならなかったし、少し様子もおかしかった。
 ……様子がおかしかったのは、昨日からのことかもしれないけど。
 先輩のあの言葉は、本当だったのかな。
 先輩がどこに行ったのかなんてわからなかったから、なんとなくさっきからの潮の香りに誘われて校門を出た。月は真ん丸だから、今日が満月かな。月を見上げながら、あたしはついつい学校から二十分も歩いて、浜辺に出た。
 繰巣浜は学校から一番近いところにある砂浜だけど、遊泳禁止だし、狭いからあまり人は来ない。
 海は夕陽の照り返しで暗い赤にかがやいている。空の端はあたしの好きな、先輩に似合うあの紺色になっていた。
 海なんだから、潮のにおいがするのは当たり前で、あたしはなにを追いかけてここに来たのか、わからなくなってしまった。でも足元を見ると、砂浜の上に濡れた足跡が続いている。そこからは、はっきりとわかるほどの濃い磯の香りがしていた。
 まさか、と思って目で足跡を追って行くと、その先には先輩らしい人影がいた。
 海の暗さに、いままで先輩の姿も紛れてしまって気がついていなかったみたい。
 先輩は水際に立ち、前のめりになっていて、いまにも海に飛びこんでいきそうだし、倒れそうなのかもしれない。
 それじゃあなんで、こんなところに来たんだろう。
「先輩!」
 あたしは彼を呼んで走りだした。
「先輩、危ないです!」
「乙女」
 先輩はあたしを見たけれど、夕陽の逆光のせいだけではなくて青白い顔をしていた。
「先輩、気分悪いんじゃないですか? 平気?」
「平気じゃないよ……」
 絞るような低い声は、彼がひどく具合の悪いことを示していた。
「とにかく、どこかで休まないと」
 そうは言っても、そこは砂浜だったし、これといってなにもない。すると、先輩が言った。
「そっちの……後ろに、カバーのかかったボートがあるんだ……それを……」
「あ、はい」
 先輩がなんでそんなことを知っていたのかわからない。あたしが必死に探すと、ボートは半ば砂に埋もれてそこにあった。
 とりあえずボートの上に並んで座ったけれど、先輩はひどく具合が悪そうで、いい加減真っ白になった顔をあたしの肩にうずめるようにした。先輩からは、潮の香がする。海から上がったばかりのように濃いけれど、そんなのは不自然だ。
 いくつもいくつも汗が流れ落ちていくのに、先輩の体はひどく冷たい。どうしたっていうんだろう。
「やっぱり、海に出ないと……」
 先輩がそう呟いた。苦しげに開いては閉じる目は、波の揺らぎを見ているようだ。
「なんですか?」
 あたしは、なんですか、というよりも、その言葉が理解できなくて尋ねた。こんなひどい状態で、海に出るなんてどういうつもりだろう?
 先輩はどこかおかしい。
「乙女、このボートを出してくれないか。カバーをとって、そっちに……持っていって」
「先輩、なに言ってるかわかってるんですか?」
「いいから」
 言うと、先輩は無理矢理あたしから身を離して立ちあがる。
「先輩、どこに行くんですか」
「早く」
 あたしは仕方なくボートからカバーを剥がし、ひっぱって海辺まで運んだ。先輩の言うままに、オールを備えつけ、そして船を水に浸ける。先輩はふらふらとその中に倒れこむように座り、あたしに船を押しださせ、もちろんあたしは先輩を一人にするのが不安で乗りこんだ。
 あたしは泳げないのでいくらか不安だったけれど、まさかひっくり返ることはないだろう。たぶん。
 しばらく、先輩はなにも言わず、苦しそうに目を閉じていた。
 ボートは少しずつ波に流され、少しずつ浜から離れていく。
 夕焼けが暗黒に飲みこまれていく。
「オール、漕いでくれる?」
「あ、はい」
 あんがい力のいる作業を続けながら、先輩を見ると、右手を水に浸して瞑想していた。やっぱり、紺の色は彼によく似合う。空に、満月の映える美しさがなんとも言えない。
 疲れてオールを置くと、先輩は目を開けた。
「ごめん。疲れたろ?」
「いえ……」
 否定しながらも、息が上がっていたので説得力はなかったように思う。
「もういいよ。元気になったから」
「そうですか?」
 先輩の顔は青いままだ。けれど、確かにさっきのような苦しさは見えないから、いくらか回復したんだろう。
「交替するよ」
 どこまで行くつもりなんだろう。傍には先輩もいるし、ボートに乗っているし、恐いことはないはずなのだけれど、周りを水に囲まれているのはぞっとしない。
 この繰巣が遊泳禁止なのは、しばらく続く浅瀬から急に深く落ちこむために、危険だからだと聞いていた。まだ浅瀬にいるのならいいのだけれど、ずいぶん漕いだはずだから、怖い。
「あの、あたし泳げないんです」
 そう言うと、先輩は気にした様子もなく返事をする。
「そうだったの? なら、来なくてもよかったのに」
「さっきの先輩を一人で乗せたら、一ヵ月後に干涸びた死体が見つかりますよ」
 こんなに心配しているのに、ひどい言い方だ。あたしがむっとして言うと、先輩は吹きだす。
「それはないと思うけど」
「そうですか?」
「海に来ると、元気になるから。
 ……放っておいてくれたほうがよかった」
「なに言ってるんですか!」
 先輩はあたしの剣幕に気づいたのか、首を傾けて微笑んだ。
「ごめん。投げやりな意味じゃないんだ。心配する必要はないんだと言いたかったんだよ。もう、平気に見えるだろ。海に出れば楽になるんだ」
「まだ、いくらか顔色が悪いです」
 あたしは食い下がったけど、さっきより回復していることは確かだった。先輩はありがとう、と小さくつぶやく。船はゆるりと揺れながら、暗くなってゆく海にさまよっている。いまどこにいるのか、あたしにはわからなくなっていた。
「話をしようか」
 急に先輩はそう言うと、空の月を見た。
「俺の下の名前ってわかる?」
「え……と。漢字は、知ってるんですけど、なんて読むんですか? 立つ果実、ですよね」
「そう、リッカと読むんだ。立果さ。実をなすべく立て、というわけだよ。
 縁起のいい名前に見えるよな」
「そういえば、そうですね」
 先輩はゆっくりとため息をついた。まるで告白をするためのように。
「ところが違うんだよ。
 俺には、姉がいたんだ。俺よりふたつ年上のはずで、俺が母さんのお腹にいるときに死んでね。名前を、真実の花と書いて真花、といったんだ。それで、真花は死んだから花が落ちて落花、らっかの次はりっか、で立果なのさ。ひどいだろ」
 心臓が苦しかった。なんでこんなに苦しいのだろう。昨日からずっと、不安な気持ちが胸を渦巻いてる。先輩に告白しても、先輩に好きだと言われても、消えない。もっと浮かれたっていいはずなのに。
 名前のこと、お姉さんのことは先輩の告白に聞こえた。
 それは、先輩のために愛と罪の告白をした、あたしだけにむけられたものだったから。
 どうして先輩はいま、あたしにそんな話をしてくれる気になったんだろう。
「でも、立つっていう字、先輩らしくて好きです。すっと伸びた感じで、あたしの好きな、先輩らしいから」
「ありがとう」
 先輩は苦しそうに微笑んだ。そして手を延ばして、あたしの手を握る。
 聞こえるのは、波の音だけだ。岸から見える丘に、家々の灯が見える。
 ――もしかして、先輩が昨日チャペルに来たのは、愛と罪の、あの告白をするためだったんじゃないだろうか。今日、あたしの前でしたようなことを言おうとしていたのではないだろうか。
 でもそれを、あたしが聞いてしまった。
 昨日あたしが、チャペルにいたから。邪魔をしたから。
「……先輩」
「なに?」
「昨日、どうしてチャペルへ来たんですか?」
「君がいたからだよ」
 そんなわけはない。だって、先輩はあたしがいることに驚いていたじゃない。
 心臓が震えるのと――それは、先輩の言葉にときめいたからだし、おびえたからでもあった――先輩があたしを引き寄せるのは同時だった。船が大きく揺れてあたしは先輩にしがみつき、あたしたちはキスをしていた。
 こんなところに孝介は来ないし、あたしはどうしたらいいのかわからなかった。
 先輩の唇は冷たい。
「先輩?」
 離れてあたしは、先輩の嬉しそうな顔を見る。本当に、嬉しそうだった。
 不意にそこにいるのが怖くなった。海が怖いのじゃなくて、先輩と二人きりであるということが。それは別に、孝介が言っていたみたいに、自分の貞操のこととかではなく、もっと深い、海の中に沈められるような怖さだ。
 先輩が、あたしを好きでキスをしてくれたことくらいはわかる。でもそれが、なにか、おかしいのだ。
「乙女。天使は、悪魔に魂を売りたいという願いをかなえると思う?」
「どういう意味ですか」
 彼は満足気に笑った。それが先輩の望みなんだろうか? 天使様に告白してそんなことを言おうとしてたの? まさか!
「目を閉じて」
 そう言われて、あたしはとにかく目を閉じた。怖くて、これ以上先輩の笑顔を見ていたくなかったから、素直に応じたのだ。そうじゃなかったら、目なんて閉じなかった。
 強い潮の香がして、彼はあたしの問いに答えを言うつもりだろうと思っていたのに――なにもなかった。なにもなくて、あたしはとうとう目を開けた。
 そして、ボートの上にはなにもなくなった。
 海の真ん中で、先輩の姿は消えていた。ゆらりゆらりと揺れるボートには、あたしとオールが残されている。それから他には、まんまるい月が、紺色の空に浮かんでいるだけだった。



 声は出せなかった。先輩、と呼びかけるのが怖い。だって声がどこかから聞こえて来たらどうしたらいいのかわからなくなるじゃない。
 どこもかしこも静かで、あたしは身震いする。いま目の前にいた人が、消えてしまった。しかもこんな海の真ん中で。海中しか消える場所はないけれど、飛びこむ音だって聞こえなかった。ボートだって大きく揺れたりしなかった。先輩は本当に、消えてしまったのだ。
 あたしは馬鹿みたいに空を見上げたけど、そこにだってなにもない。月が浮かんでいるだけ。
 大声で泣きたいくらいだった。
 夢でも見てるんじゃないかな、そう思いたかった。でもあたしは先輩としたキスを覚えているし、先輩と話したことも覚えている。夢なんかじゃない。いまこのボートの上であった出来事が夢なら、長尾先輩の存在そのものが夢だ。
 先輩が座っていたところには、大きな水の痕がある。追いついたときの先輩は汗をかいていたけれど、あれは本当に汗だったのかな。チャペルから続いていた足跡は、先輩のものじゃなかったのかな。でもどうして、チャペルなんかで海の匂いのする水をかぶったりするんだろう。
 あたしはしばらく打ちひしがれていたけど、ともかく、そのままでいるわけにはいかなかった。このままじゃ、あたしが干物になっちゃう。
 あたしは震える腕で、行きにも漕いで来たボートを一生懸命漕いで、また浜まで戻った。暗くて様子がわからなかったし、ずいぶん流されていたような気がしたけれどそうでもなかった。一人だったからか、無我夢中だったからか、すぐに着く。
「君!」
 浜に近づいて来たとき、あたしは防波堤のガードレールごしに叫んでいる人がいるのに気がついた。
「君! ……だれ? ウチの生徒?」
 薄闇の中で、あたしが着ている学校の制服だけはわかったんだろう、彼はそう言った。その人もうちの学校の紺ネクタイをしめた少年だった。身をいっぱいに乗りだし、興奮のあまりか裏返った声で叫んでる。
「なにしてるんだ? 俺のボートに乗ったりして、なんのつもりだよ?」
 それに始まってしばらく、非常識だのなんだのとずっと罵倒されていたのだけれど、あたしは困惑した表情のまま、なにも出来ないでいた。長尾先輩が消えてしまったことに手一杯で、他のことを考える余裕なんてなかった。
 すると、その少年(といっても、すぐにわかるのだけれど、彼はあたしの先輩だった。お互いのことがわからなかったのは、あたしも彼も気が動転していたせいだと思う)は走って浜辺に降りて来る。
「おい、聞いてるのか?」
「はい? あの?」
 あたしがぐずぐずしていると、彼は力任せにボートを浜に引きあげる。ボートを浜に上げるためには、一度海に入らなくちゃダメかなって思っていたところだったので、よかった。
 別に、濡れるのが嫌だってわけじゃなくて、先輩が消えた海水に触らなくちゃいけないのが、とてつもなく嫌だったのだ。
「早く降りるんだ!」
 怒鳴りつけられて、あたしはようやく、その人がだれか気がつく。長尾先輩の友達だ。確か同じ部活で、篠生さんという名前だったはずだ。
「あのこれ……篠生先輩のなんですか?」
 ボートから降りると、篠生先輩は乱暴な手つきで砂浜の上を引きずっていく。あっという間にボートは砂にまみれていた。
「そうだよ。
 あれ、君、たしか高二の生徒会の子だよね……乾さん、だっけ」
「そうです」
「本当になにしてるの? こんなところで、こんな時間に、こんなもので」
「あ……長尾先輩が……」
 先輩の名前を言いながら、そういえば去年の生徒会メンバーも、周りの友達も、みんな先輩のことを「長尾」と名字で呼んでいたことを思い出す。珍しいことじゃないけど、たぶん先輩は名前で呼ばれるのがきっと嫌いなんだ。
 とにかく、篠生先輩からのたくさんの質問は、長尾先輩が、の一言で返すしかなかった。なにしてたかなんて長尾先輩に聞いてほしい。ボートのことも。それに、先輩がいまどこにいるのかも。
「長尾?」
 先輩の名前を出すと、やおら篠生先輩の口調はやわらかくなった。
「長尾立果に、このボートのことを聞いたの?」
「……はい。
 でも、先輩が消えてしまって」
 篠生先輩から、次の返答はしばらくの間なかった。たぶん、あたしの言ってることがわからなかったのだと思う。普通は、ボートの上から消えるだなんて思わないよね。だから、あたしがボートに乗っているあいだに帰ってしまったとか、そんなふうに思うはず。
 さすがにあまりにも長い沈黙に耐えがたくなってあたしが顔をあげると、篠生先輩は目を見開いて、海を見ているところだった。陽が落ちた海はもう真っ暗で、どこが水平線かもわからない。月の光が海面をきらきらとかがやかせるけど、それをきれいだといまは思えなかった。
 篠生先輩は、あたしなんかを気にしている様子ではなかった。彼はそれから身震いし、こちらを見た。
「長尾から、なにか話を聞いた?」
「……えぇ、少し」
 篠生先輩がなんのことを言っているのか定かじゃないけど、一応頷いた。
「俺のこと、聞いた?」
「いいえ」
「話をしてもいいね? 長尾のことを聞きたいんだ」
 そう言われて、いまさらながらあたしは慌てて腕時計を見た。もう七時になる。
 これから話して帰ったら、もっと遅くなると思う。家では心配はするかもしれない。遅くなるってメールを送ろうかと思ったけれど、いまはそういう気分にはなれない。
「大丈夫です」
 それであたしたちは、さっきのあたしと長尾先輩のように、カバーをかけたボートの上に並んで座った。
 ゆったりとした波の音が聞こえる。
 空には満月が浮いている。

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