この口づけは存在しない
(from SHI-KI)

 破滅への足音が聞こえる。外場という村の。兼政という支配システムの。人間の世界も屍鬼の世界も、音を立てて壊れつつある。どちらも食い止めようとあがき、苦しみ、もがいているけれど、もうどちらの崩壊も止まらない。
 壊れる世界の中にいるのに、徹は暗い森の中にただ立ち尽くしているだけでなにも出来ない。もうなにかをしようという気持ちはなかった。破滅をじっと待っている。それは遅くはないが、一瞬で飲みこんでくれるほど早くはなかった。
 それでも、夜だけしか生きられないと一日は短い。だから、夜も昼も眠らずにすむ人狼にとっては、歯ぎしりするほど鈍い足取りかもしれない。
 遠くから、夏野が近づいて来るのがわかる。暗い森の中には命の気配が乏しく、知っている息吹を、徹は感じることが出来た。きっと屍鬼となった徹の感覚が鋭くなったからではなくて、相手が夏野だからに違いないのだけれど。
 近づいて来る夏野の足音こそが、破滅の近づく速度だ。
 なにかがあったら、そこで落ち合うのが夏野と約束だった。ここに立っていれば、夏野がやって来る。夏野も徹の気配を探り当て、大して待つこともなく姿を現してくれる。
 なぜなら徹はスパイだからだ。屍鬼でありながら屍鬼を滅ぼそうとする、夏野の。
 ここに屍鬼だけの世界を作ろうとする沙子の計画には、多分根本的な欠陥があった。桐敷正志郎のように人間でありながら屍鬼に与する人間がいるように、屍鬼の数も増えればその中には人間に与するものが現れる。
 沙子の計画はもろく、一端がほころびればすべてが瓦解するものだった。だから夏野という小さな因子によって壊されようとしている。たったひとつだけれど、それはもはや決定的な一石だった。
 屍鬼の世界は夜にしか成立せず、もろくはかない夢に似ている。
 夏野が起き上がらなければ、この村は屍鬼のものになったかもしれない。でも、沙子の望んだ世界は夢だ。屍鬼は夢を見るような眠りにはつかない。だから起きているあいだだって、夢を見てはいけないのだ。
 夏野が起き上がらなければ、きっと徹も違っただろう。苦しみながら沙子の夢を手助けできただろう。けれど徹の目の前には、起き上がった悪夢そのものがいる。
 徹への懲罰そのものが、起き上った夏野という存在だ。
 顔を上げれば、少し離れたところに夏野が立っていてた。
「ここだよ、徹ちゃん」
 生きていたときと変わらない呼び方をするのは、夏野なりの呪詛だ。
 最後の夜だって、夏野は徹の名前を呼ばなかっただろうか。あれは夏野からの最後の誠意だったはずだ。そんな彼を殺したのは、徹自身だった。飢えているから苦しいんだと言いながら、徹は夏野の喉に食いつく瞬間、いつだって快感を覚えていた。血を吸う瞬間の満足感、それは、相手によっても違うのだということをもう徹も知っている。
 そして、人狼となった夏野も、たぶんわかっている。
 徹は苦しんだだけではなかった。
「なにがあった?」
 夏野の問いかけに、徹は率直に答えた。
「新しい葬儀屋が来た。やつらは空の棺を埋めてる」
「掘り返す手間は省きたい、ってことか」
「ああ」
 夏野は徹に冷たい一瞥を投げかけると、そのままふわりと身体を翻す。徹は慌てて下生えをならして追いかける。
「夏野、待てよ!」
 夏野は足を止めたが、そのときには既にずいぶん間があいていた。暗い森の中に、夏野の影だけがうっすらと燐光を放っているように浮かび上がっている。なんだか夢を見ているみたいだな、と徹は思った。夢ではいくら歩いても、走っても、手を伸ばしても、夏野には追いつけない。
 けれどいま徹は屍鬼だから夢を見ない。
 ――違う、きっと屍鬼としての命そのものが夢で悪夢だ。
「なにかまだあるの、徹ちゃん?」
 必死になって追いつくと、夏野は相変わらず冷え切った顔のまま徹を見た。呼吸もしないのだから息を切らすことなどないのだけれど、徹は人間だったときに感じた息苦しさを思い出し、肩を上下させる。
「夏野」
 夏野の手を取ると、その手は徹と同じように冷たい。
「いつになったらあんたはそう呼ぶのをやめるのかな」
「夏野だって、俺のこと徹ちゃんって言うじゃないか」
「じゃあなんて呼んでほしいんだよ?」
 嘲いながら、夏野は徹を見上げた。
「……俺は死んでるから、変われないよ、夏野。俺はずっと、夏野としか呼べない」
「早く死ねばいいのに」
 突き放すように言われ、胸が痛む。
「それで、まだ俺に言うことがあるの?」
 夏野は徹を見上げていても、その瞳に徹自身は映っていない。徹が覗きこむ夏野の瞳には、暗闇だけが映っている。
 深くて底のない、本当の暗闇だ。
 ずっと夏野の手を握っていると、じんわりと肌のぬくもりが伝わってくる。人間だったときよりはよほど低いが、夏野は人狼であって、体温もあるし呼吸もある。熱があるということは、生きているということだ。
「夏野は、あったかいんだな」
 夏野は自分を含め、屍鬼たちは死んでいると言うが、夏野は死んでいないのだ。
 人狼は太陽のもとでも起きていられる。屍鬼のように、隠れていなければならない理由もない。
「俺は夏野を殺してない」
「……ふざけるなよ、それで、じゃああんたはだれも殺してないとでも言うつもりか? 俺を殺してなければ罪を免れるとでも言うのか?」
「俺はだれだって殺そうとしたわけじゃない、ただ喉が渇くんだ! だから俺は、水を飲むように血を飲むだけで、殺したいわけじゃない」
「嘘だよ。死ぬまで血を吸い続けてるくせに、なにを言ってるんだ。殺すついでに腹を満たしてるだけだろ」
「じゃあ夏野は血を吸うつもりはないっていうのか。人狼だって、血を必要とするはずだ!」
「吸わないよ、俺はそんなもの必要ない。俺を殺した徹ちゃんとは違って」
「俺は夏野を殺してない。だって夏野の手はあったかいじゃないか」
 夏野の手首を持ち上げ唇を寄せる徹を、夏野は思い切り突き飛ばした。
「そう思うなら、どうして俺の言うままになるんだ」
 夏野は言いながら笑った。
「俺は徹ちゃんが俺を殺したから、こんな裏切りを強制させてるつもりだったけど、徹ちゃんが俺を殺してないっていうならどうして?」
 徹はどうしても、もう一度夏野に手を伸ばさずにはいられなかった。理由なんてない。そこに夏野がいるからだ。夏野は徹も夏野も死んでいると言う。人狼だろうと死人と同じだと。だからここに存在していないと。それなのに徹は夏野に触れようとして手を伸ばし、そして、夢だったら届かないはずの夏野に手が届き、だから、夏野も徹も存在していると思う。確かにここにいるのに、存在していないなどと思えない。徹にとって夏野は夏野で、その他の何者でもない。友達になりたいと思い、この村のあちこちに連れまわし、一緒にゲームをして、笑い、そして他のだれかに殺させるなんて許せないと思った、その夏野だ。
 いまにして思えば、辰巳が徹の家族を殺すと脅してきたのはただ徹に言い訳を与えてくれただけだったのではないだろうか。渋る徹の前で清水恵をけしかけたのも、徹にふんぎりをつけさせるためだったのではないのか。他の屍鬼たちを見ていればわかる。彼らは憎い人間を殺しに行くのではなくて、傍にいてほしい人間を仲間に引きこもうと殺しに行くのだ。
 だから夏野が屍鬼の秘密に気がつかなくても、いつか、徹は自分の意志で夏野の家に行ったに違いない。
 夏野の手にもう一度唇を寄せていたのは、無意識の行動だった。血を吸おうと思ってそうしたわけではない。夏野は今度は突き放さなかったが、鼻で笑った。
「餌がほしいの、徹ちゃん」
 そう言われて我に返る。見開いた目で夏野を見ると、心の底から蔑んだ視線とかちあう。
「さすがにもうあげられない。これは俺にも大事なものだから。徹ちゃんに献血してもらいたいくらいだよ」
「夏野がほしい」
 するりと自分の唇から洩れた言葉に、徹は自分でも戸惑った。
 ずっとずっと、たぶん夏野がほしかった。だからあんなにも夏野の血を飲み干すのが快感だった。夏野の熱を身体の中に取りこみ、徹の思いのままに夏野を支配できる快楽は、けっきょくは徹の中にもともとあったものだ。
 夏野が好きだからと告げるべきだったが、どう説明していいかわからないでいるうちに、夏野は徹を見つめたまま言った。
「……好きにすればいいだろ」
 夏野が言うとは思えない言葉が聞こえて、徹は悲しくなった。夏の日が訪れる前の日々を思い出して、ふざけてじゃれつく徹を拒む夏野の姿からすれば、こんなふうになげやりに言うなんてありえない。
 起き上がってから夏野は怒らない。
 夏野は、自分を存在しないという。徹を存在しないという。だからどうでもいいと言うのだろうか。徹はいまも夏野を見て苦しくなるのに、夏野はそんなことをわずかにも感じないのだろうか。
 徹が夏野の首元に手を伸ばすと、かすかに夏野の身体が揺れる。
 夏野に近づくとき、徹の視線はかつて噛みついた首元に釘づけになり、あああの血をまた啜れたらそれはすさまじい快楽なのだろうなと想像はしたが、それは許されないだろう。
 けれど夏野は、キスは拒まなかった。
 触れるだけのキスに始まり、結局、こらえきれずにわずかに唇を開く。牙をむき出しにしてしまいたいのを我慢して、つたないしぐさで夏野の唇を吸いあげた。そうすると夏野も全く反応しないわけではなく、かすかに吐息を漏らし、徹のキスに応えてくる。そのことにいっそう欲望が募った。きっと生きている頃ならば夏野を押し倒し、そのあちこちに触れて気持ち良くさせたいと思ったろう。でもいまは、組み敷いて血を啜りたかった。その行為は徹にとって快楽であり、吸われる夏野にとってもまた、快楽であるはずだ。望むなら夏野も徹の血を吸えばいい。互いの血を混ぜ、この罪深い快楽に浸ることができるのならばいいのにとそう思いながら、徹は夏野の身体を引き寄せてかき抱いた。
 血がほしい。
 夏野によって欲望が駆り立てられて、血を吸わないまでも夏野を離せない。いま夏野と離れたら、人間を狩りに行ってしまうだろう。そんなあからさまにかつえた姿を夏野に見せたくなかった。
 衝動を飲みこめるまで押さえつけ、徹はゆっくりと夏野から離れた。
 途方に暮れて立ち尽くしていると、夏野はなにも言わずに踵を返す。
「夏野」
 聞こえないほどに小さな声で呼んだから、夏野が振り返らなかったのは本当に聞こえなかったからかもしれない。
 本当に死んでいたら夏野とこうしてキスすることもなかったはずだ。それとも夏野は言うだろうか。自分も徹も存在しないというのと同じ口調で、いまのキスも存在していないと。けれど徹の唇は夏野の唇をとらえ、その感触が残っている。
 死んでいるから存在したキスなのか、死んでいるから存在しないキスなのか、徹にはもう、わからない。

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