エレオノーラ
《ELEONORA》

 いつともなしに心に入りこみ、だれにも言えぬ恋人となるような人がいる。彼女は預かり知らぬことなのだが、彼女はそういう風にいつの間にか私の心に入りこみ、私の恋人になった。くりかえすが彼女は預かり知らぬことだ。私は沈思しつつ窓辺に佇むばかりの少年だったし、彼女は快活な性質でいつも庭先で明るく笑い声を上げていた。だからその頃の彼女は私にさして気を配らなかっただろう。だが私は違った。古い本に沈みこみつつも、彼女の笑い声が響いてくるたびに彼女に焦がれ、カーテンの陰から彼女の金色の髪を眺めてはため息をこぼした。彼女は私の恋人だった。しかし私は彼女の恋人ではなかった。隣家に暮らす私と彼女は、さほど言葉を交わしたこともなかった。
 彼女の名前はエレオノーラといった。たいてい笑顔だったが、感情の起伏が激しく、すぐに腹を立てたし、すぐに悲しんだし、そしてすぐに寛容に笑うことの出来る人だった。彼女の家を訪ねるだれもがエレオノーラに好意を持っただろうし、それは私の家の人間も例外ではなかった。妹たちは足しげくエレオノーラの庭に通っていたようだった。私は窓辺でエレオノーラに恋焦がれながらもその庭を訪れることは一度もなかったし、だから、エレオノーラと過ごした時間を口にするかしましい妹たちのおしゃべりには苛立ちもしたし、うらやましくも思った。
 私はエレオノーラを訪ねることを考えはしなかった。彼女が佇んでいる庭の緑と太陽の下を考えるだけで頭痛がした。そんな場所で闊達に笑う彼女の前に立つ自分は考えるだけで亡霊のようなものに違いなく、私が目の前にいることを彼女は気づかないかもしれなかった。私の姿は陽光の下で透け、エレオノーラだけでなくだれにも見えないはずだ。
 私の夢想の中で、エレオノーラは私の窓辺へと足を運ぶ。それは月光が僅かに雫を垂らす宵闇のもとのことで、エレオノーラの繊細な金髪は美しく輝き、揺れるのだった。そして彼女は静かに微笑み、私の名前を呼ぶのだった。私はエレオノーラの足元に跪き、彼女の白く美しい足に口づける。私はただ、私の窓辺を訪れてくれる彼女の足を祝福したのだった。彼女の肉体にふしだらな思いを投げかけたわけではなかった。そんなことを望むほど、私は健康でも健全でもなかったのだ。
 影に包まれた部屋で、私は古い本を眺めては遠い国々のことを夢想し、庭からのエレオノーラの声をかすかに耳にとらえて、私の恋人の微笑を夢想した。エレオノーラに図々しく触れることなど私には十戒を破るほどの禁忌であって、望みもしなかった。何人にも言うことは出来ないのだが、それでもエレオノーラは私の恋人だった。それでいいではないか。私はエレオノーラの恋人ではないが、エレオノーラは私の恋人だ。それのなにが間違っているというのだろう。私は彼女をこよなく愛していた。夢想以上のなにかを私は一度も望みはしなかった。それを私は神に誓うことが出来るし、本の中の遠い国のことを夢想はしても実際に訪れることなど望まなかったように、エレオノーラに実際に触れることなど、望みもしなかったのだ。だいたい太陽のように眩しいエレオノーラを直かに見つめることも出来ない私に、なにが出来るだろう? カーテン越しでなければエレオノーラを見凝めて私の眼球は溶けてしまうだろう。どうして他の人々が彼女の前で身を滅ぼさないのか不思議でさえあった。私はエレオノーラの前に立ったら、ロトの妻にように塩の柱になるように思えて恐れてさえいた。
 エレオノーラが身体を壊したのは彼女の美しさが絶頂にあった頃だった。私は、庭をそぞろ歩く彼女の姿を見ることが出来なくなった。妹たちは相変わらずエレオノーラを慕って、食卓の席で病に伏せっている彼女の様子を口にしていたが、それは私の心になにも起こさなかった。エレオノーラへの思いが薄らいだのではなかった。私は怖れながらも、彼女の健やかな美しさを求めていたのだった。彼女は陰鬱な私自身と最も遠い場所にいるのであり、だからこそ私は彼女を求めたのだった。
 やがて私は、退屈しているエレオノーラのためにと妹たちに手を引かれ、エレオノーラの部屋を訪れた。病で弱々しく痩せたエレオノーラは美しかったが、私の眼球を溶かすような太陽の輝きはなかったし、私の身体を塩の柱に変えるほどの烈しさも失っていた。妹たちはでしゃばって、私を本のことしか知らない陰気な兄だと紹介しつつも、だからこそきっと伏せっているエレオノーラになにか遠い国の話を出来るはずだと信じこんで私をエレオノーラの部屋に連れて行ったのだった。私は戸惑いながらも、ほとんど本から顔も上げずに話をした。紙に沈みこむようにして訥々と話す以外に身の置きようはなく、その日から毎日、私は妹たちにエレオノーラの部屋に連れて行かれ、そこで話をするようになった。とはいえ私と彼女の間に会話が発生するようなことは殆どなく、私はただ、夢想し続けている遠い国の物語を話すだけだった。
 しばらく経った頃、私が夕暮れ時に自分の部屋の窓辺に佇んでいると、その外をエレオノーラが横切った。私は自分が眠ってしまって夢を見ているのかと思った。というのも、エレオノーラが自分の足で歩くことなどこの三ヶ月ほどなかったことだったし、少し前に、夜着姿で眠ってしまったエレオノーラの部屋から暇請いしたばかりだったので、エレオノーラが以前と変わりないしっかりとした足取りでそんな場所にいるのはおかしいと思えたのだ。エレオノーラは深い青色のドレスをまとい、金の髪を背に流し、だというのに美しい白い足は素足のままだった。エレオノーラは私が見ているのに気がつくと足を止め、私を見た。私は戸惑い、ただ私を見凝める彼女を食い入るように見返した。そこに立っているエレオノーラは間違いなく私の恋人だった。闊達で元気だったエレオノーラのような太陽の輝きは持っていなかったし、病を得て弱々しく眠るエレオノーラのような繊細さとはかなさも持っていなかった。彼女は私がかつてただ夢想していた私の恋人のエレオノーラであり、やがて彼女は、月の光を受けて微笑んだ。
 それがエレオノーラであるはずがなかった。私は困惑し、彼女によく似た亡霊が歩いているのかと何度も瞬きをした。たまらず私は露台へと身を乗り出し、そして白い素足で草を踏むエレオノーラと私は、暗闇に包まれつつある庭へと歩き出した。エレオノーラは確かにそこに存在していて、温かかった。私はエレオノーラの白い手に口づけをした。エレオノーラはただ微笑み、それを許した。そしてとうとう彼女は、私の名を呼んだ。「テオフラスト」。私は身震いしつつも彼女に問い返した。「君は一体だれなんだ」「エレオノーラよ」「エレオノーラは部屋で寝ている」「それでも私はエレオノーラよ。いずれあなたがアルンハイムで出会うエレオノーラなのよ」そう言って彼女はもう一度微笑んだ。「あなたがアルンハイムへ足を運ぶほど私を愛しているから、私はあなたのところへ来たの」私はエレオノーラの言葉の意味が判らなかった。
 エレオノーラはふと私の手を離すと、闇の奥へと歩み去って行った。私は金色の彼女の髪を目で追い続けたが、あとを追いかけることは出来なかった。大分離れてからエレオノーラは一度立ち止まり、遠くから私を振り返った。「テオフラスト、私はあなたの死の女神なのよ。私の死があなたをアルンハイムへと導く。なぜならあなたは私がアルンハイムにいることを知っているから。あなたが愛しているのはアルンハイムの私で、アルンハイムでこそわたしたちが幸福になれるのだから。テオフラスト、それは運命なのでしょう。あなたの死の苦しみを思えば私もまた死ぬほどに苦しいのに、テオフラスト、私もあなたを愛しているのよ」
 それとなく聞いてはみたものの、もちろん、病床のエレオノーラはその出来事を知らなかった。エレオノーラの幻をまたと見ることはなかったが、数年後、回復したエレオノーラと私は婚約した。エレオノーラは病の床の傍らで、慰めも口にせず遠い国の物語を語り続けた私と私の夢想を愛してくれたのだった。私は太陽の強烈な輝きを失ったはものの美しく明るいエレオノーラをもちろん愛したし、その頃には歴史学の教授資格も目前にあった。ほどなくして私はゲルトルート高等学校の歴史学の教師となり、エレオノーラと正式に結婚して息子を設けた。エレオノーラは出産の無理がたたって何年もせずに亡くなった。
 やがて私はゲルトルートの古い学書棟で一冊の本に出会ったとき、かつて宵闇の幻の中であのエレオノーラが語ったことを思い出した。その本は十三世紀に書かれた 》Das Landschaft-Garten von Arnheim《 という名の稀覯本で、そこには彼女が言ったアルンハイムへの行き方が書かれていたのであった。魂の破滅をもたらす方法ではあったが、私はエレオノーラをこよなく愛していたし、なによりも、私が夢想し続けた私の恋人のエレオノーラがそこにいることを知っていたのでためらうべくもなかった。私は魂を悪魔アルンハイムに売り渡した。まさしくエレオノーラは私の死の女神だ。私は彼女への愛のために死ぬが、彼女もまた、私が彼女を死ぬほど愛すように死ぬことになったのであるからだ。エレオノーラ、エレオノーラ、エレオノーラ。私は幾度でも、彼女の名を呼び続ける。彼女はこの地上には存在しない、今はアルンハイムにいる私の唯一の恋人なのである。

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