第一章 1st. 〈シャロットの塔〉
《der bergfried von shalott》
古城を霧が取り巻いていた。やや春めいて来た暖気が誘う乳白色のもやは、森に囲繞された城を覆い尽くし、空というものなどこの世界にはないかのように、あたりをうすぼらけにさせている。見あげれば天にむかって手をさしのべる木々は霧中に消えてゆき、どこまで枝を伸ばしているのか、それさえもわからない。
城の北に建つ
その塔の高処に位置する小部屋からは、濃く白い霧の流れを見ることができた。
河の水が流れるのを見るように、白の濃淡を帯びた空気が流れ、渦巻く。それも河岸から眺める川面の様子ではなく、水底に沈む罪深い王国から見あげた景色のようだった。それは陰鬱に澱み、はるか彼方上方のさざなみも見えない、暗い地獄の風景だ。
真白い霧のむこうに透けて見える黒は、無数の樅の葉だ。朽ちることにない緑が、霞んで見えていた。
いつもは塔から、見渡す限り高い森の木々が眺められる。樅などの常緑樹ばかりで、雪が降らない限り真冬でも植生の景観は変わらないのだが、この日ばかりは違った。いまは、塔からでさえ、いかなる景色を見ることもできなかった。霧の深さは朝から変わることもなく、太陽の光も遮られて、時間の移り変わりさえわからない。
現在はゲルトルート
町から学園へと往来するためにある唯一の道は、いつ敷設されたのかもわからないような古い石畳で、山全体がこのギムナジウムの持ち物であるせいでろくに舗装もされていない。学園の人間以外にだれも通らない道なのだ。車を乗り入れるのもやっとのことなのだが、古い学園の設備を維持するだけでもかなりの金が使われているため、道が舗装されるのは、計算の強い生徒によると四十年後になるらしい。長い間使われて来たせいで路石は丸くなり、苔むし、散歩者は雨が降らなくてもよく足元を滑らせる。
校舎となっている古城は十六世紀に建てられた石造りで、その名もホーエン・ウラッハ城と呼ばれていた。砦として設けられたため、装飾にあたるものはほとんどなく、無骨な姿をしている。この一帯は諸侯の勢力争いが多かった地域であり、このような戦城が必要だった。
城を築いたのはゲルトルート・フォン・ウラッハという女伯爵で、女だてらに出陣して百人の敵の首を刎ねたという逸話が残されている。現在も続くウラッハ家は宮廷に仕えて爵位を持った名家であり、その権勢はこの城ひとつがあったためと言っていい。古くはカール大帝の時代にまで遡る騎士の家系であり、その中でもゲルトルート・フォン・ウラッハの名前は一族史の中に欠かせない。現在も、城にはいくつかの彼女の肖像が残されており、その容貌と恐ろしさを伝えている。
ホーエン・ウラッハ城は必要性から堅牢な石で造られ、霧の中で、城は黒い石のために影になったように見える。本物の城はこの霧のはるか上方に建っていて、この世界はそこから落ちて来る影なのではないかと思わせる。霞がなくてさえ、物憂い陰鬱な景色の中に建つ城だが、この雰囲気に憧れて門をくぐる生徒も少なくなかった。
深い森に包まれた城は、冬になると深閑と冷えて、各部屋にあるスチームだけでは耐え切れないほどだ。校舎と校舎の移動ですら、オーヴァを着ないでは凍えてしまう。雪は頻繁に降り、生徒たちは雪原でサッカーをした。
塔からその様子を眺めつつ、一人の少年が窓辺の椅子に腰をおろしていた。周りに人気はない。霧に包まれているせいで、数百人存在する学生の姿の一人も、そこから見ることはできなかった。世界に彼一人だけが存在しているような気さえした。
少年の金の髪がくすんだような色合いに見えるのは、霞のせいだけではない。艶を殺した黄金のように、光りはしないが美しい色合いをしている。瞳は髪と同じように色素がうすく、ほとんど色のない萌黄で、のぞくと虹彩の筋がよく見える。横顔が冷たく見えるのは、少年の性質だけでなくその瞳に負うところが大きい。年頃の少年にしては表情が乏しくて、なにを考えているかわからない、とよく人に言われていた。
立ちあがると、すらりと背が高いのがわかるだろう。まだ成長途中の少年に特有の、薄く細長い体格をしていたが、ここ最近で筋肉もずいぶんついて来て、男らしく変わりつつある。
窓は開け放たれていた。窓にはまっているガラスは古いもので、分厚く、光を取り入れるのには十分だったが、外をはっきりと見ることはできないからだ。
塔の小部屋は人が三人もいたらいっぱいになる狭い場所で、典礼室から失敬して来た二脚の椅子と、折りたためる小振りの卓がひとつ置いてあるだけだ。
壁には雑誌から切り抜いたらしい絵画の写真があるが、黒ずんだ壁に溶けこむようにかかっているのであまり目にとまらない。この塔の小部屋と似たような石部屋の椅子に腰をかけて、物憂げに機織をしている黒い髪の娘の絵だった。背後には青い空をうつす窓が見えるが、彼女の目はその空を見ない。彼女の名前はレイディ・オブ・シャロットという。
窓外の空気は灰白に染まり、鬱蒼とした森の木立の姿さえ隠す。さながら、森の呼気が冷気に晒されて白くなっているように、風による霧のゆらぎは森の呼気の一息一息であるかのように見えた。濃密で、吸いこむと息苦しくなる。
こういった景色は、春が近くなって来ると時折見られた。霧は、城から獣道を降って二十分も歩いた場所にある湖から這いあがり、ここを取り巻く。今年ははじめて見る現象だ。身を切るような真冬の頃の寒さを考えれば、今日は制服の上にオーヴァを羽織る必要もない。空気は春にむけて暖かくなって来ているのだろう。
塔の窓辺で本を開きながら、レナルトは息をつく。
こんな日に城を出れば道に迷ってしまうに違いない。町へ行くというならまだしも、まともな道すらない湖に行くとなれば、危ないことこの上なかった。簡単に道を見失い、森の奥へ迷いこみかねない。
リーン……ゴーン……リィン……ゴォン……
荘重な鐘の音が、霧のむこうから響いて来る。心なしか、いつもより遠い。
レナルトは鐘の音に本を閉じ、立ちあがった。はるかを見渡すことのできない景色に、改めて目を移す。もともと本を開いていてもほとんど綴りを追っていなかった。別世界のような景色にじっと見入っていたのだった。本当に、なにかが見えるわけではない。もう永遠に太陽の光が射さない呪われた封土に、閉じこめられてしまったのではないかという錯覚さえ受けた。
そんな景色のほうが平面にこびりついたインクの染みを眺めるよりもずっといい。ありえない世界の景色に似たこの景色は、特等席で見ると、なお興をそそった。いつも見ることのできない景色だからこそ、レナルトは好きだった。
(もう時間か、なんだか早かったな。……)
鳴り響いた鐘は、授業終了の
(しかしアレンのやつ、こんな霧の日に湖まで行ったのか?)
眼下の、あてどもない霧景色を見凝めながら、物好きな友人のことを思う。前の時間の授業が休講だったのをいいことに、アレンは昨日落としたものを探しに行くと言って城を飛びだしたのだ。昨日の放課後に皆で湖へ行ったときに落しものをしたらしいのだが、こんな天気に探しにいくくらいなのだから、よほど大事なものらしい。
とはいえ、この分では見つかるはずもない。音が聞こえにくくなっているから、この鐘の音にも気がつかないだろう。霧の中では、時間の感覚が狂うのだ。気をつけていない限り、一時間半など簡単に過ぎてしまう。どのみち鐘に気がついてから戻ったのでは授業に間に合わないし、次の時間は欠席というわけだ。
ため息をつきつき、レナルトは狭い石梯子を降り、塔を降りていった。
「レナルト!」
塔を出て回廊を抜けていくと、草叢から中背の少年の姿が現われた。草叢は、学書棟から教室に行くのに絶好の抜け道となっていて、通りやすいようにぽっかりと穴があいてしまっていた。何人も、抜けていくせいだ。いま現れた少年が抜け道を使ったことは、肩についた枯れ葉からわかった。
「クレイ」
「どこにいたんだよ。訊きたいことがあったのに」
クレイは枯れ葉を気にして払い落としながら、レナルトに言った。この抜け穴を通ることは厳禁とされているので、葉っぱには注意しなくてはいけない。長身のレナルトは、ちかごろ通り抜けるのもやりにくくなって来たのであまり使っていなかった。
「塔だ」
「なんだ、やっぱりあそこか……で、シャロットの姫君でも気取ってたのか?」
「いいや、シャロットの姫君にはできないことをしていたよ」
城の北に建つ塔は、単純に〈北塔〉という名称なのだが、だれが言い始めたのか定かではないけれども学生たちの間ではテニスンの『
レナルトはその呼び名をいたく気に入っている。塔にかかっている切抜きはウォーターハウスが描いた『シャロットの姫君』で、持ちこんだのはレナルトだったのだ。
レイディ・オブ・シャロットと呼ばれるその姫君は、塔の高処で永遠に機を織り続けねばならない定めにある。手を休めて窓外の景色を眺めると、彼女は呪いによって命を落とすのだ。長い時間を孤独に過ごした姫君は、しかし魔法の鏡に映ったサー・ランスロットの美貌に思わず手を止め、窓から騎士の姿を見ようと身を乗りだす。その一瞬の誘惑が、彼女の呪いを呼び覚ましてしまう。
――呪いぞ吾が身に降り懸かれり!
そう叫び彼女は崩おれるのだった。
小船に倒れこんで落命した姫君は、その亡骸だけがランスロットのいるキャメロンへと流れつく……
「窓の外を? こんな霧の日に眺めたって、なにも見えないだろう。……あ、つまりぼうっとしていたわけだな。あの塔ってさ」言いながらクレイは、上方を真白い霧に包まれて確認できない塔を見あげた。「どこから登るんだ? 俺、どうやっても入り口を見つけられないぜ」
「コツがあるんだよ」
「なんだよ、教えてくれたっていいだろ」
レナルトは笑って応えなかった。あんな狭い場所は、わかってしまえば独占できるものではなくなる。城の中では景色も一番いいかもしれない。
いまのところ、登り方を知っているのはレナルトとアレンだけだった。冒険したがりのアレンが、長いことだれも登ることのできなかった塔への入り口を探しだしたのだ。
城は古く、地下などは立ち入り禁止の部分が多い。危険だから、というのがその理由だった。〈シャロットの塔〉も長いことそんな場所のひとつになっていたらしく、はじめて塔の中に踏み入れたとき、内部は荒れ果てていた。長い間使われていなかった塔で心地よく過ごすために苦労した数々のことを考えると、簡単に人を入れてやる気にもなれない。
霧がなくとも、下から見あげただけでは、レナルトのいた塔の窓の中を伺うことはできない。レナルトは、そこから狭いギムナジウム世界を眺めるのが好きだった。
少年は元来、人づき合いが得手なほうではなかった。人と関わることは構わないのだが、寮生活だと一日中気を抜くことができず、それを息苦しく感じるたちだった。寮は十一年生になった去年から一人部屋を与えられるようになったのだが、そこも寮監に鍵を握られていて、どうにも安心ができない。その上、ときに抜き打ちの検査がある。踏みこまれてやましいことがあるわけではないのだが、検査があるとわかっている時点で落ちつかなくなる。その点、塔の小部屋には、だれかがやって来るとしてもアレンだけだ。彼が共にいることは苦にならなかったから、そこが一番この学園の中で落ち着ける場所だった。
だれもが、北塔の中のことに気づきもせず、通り過ぎていく。それはさながら、シャロットの塔の麓を、姫君のねつい視線など知らぬサー・ランスロットが馬を駆って通り過ぎてゆくのと似ている。レナルトがシャロットの姫君のように、特別な熱い想いをこめて下界を眺めることはなかったが。
逆に下から見あげたとき、そこにかの姫君がいるのではないかと思うことはあった。他の生徒たちはけして気がつかないけれど、ウォーターハウスの描くあの黒髪の姫君が悲しい瞳でこちらを見ていたりはしないかと空想する。
サー・ランスロットもその可能性を知りながらシャロットの塔を過ぎていったのかもしれない。あるいは、本当に知っていたのかもしれない。けれど、視線を合わせることのできない二人は引き裂かれる他にないのだった。
レナルトはふと、アレンのことを考えた。レナルトよりもよほど物好きなのがいたことを思い出したのだ。
「霧の日に景色を眺めるのがおかしいって言うなら、アレンなんかどうなんだよ。あいつ、この視界が悪い中、わざわざ下まで行ったぞ」
「アレン?」
クレイは少し驚いたように、レナルトの呼んだ名前を繰り返した。
「いまの時間か? 学書棟で見たけど。自習時間にアレンが学書棟なんて珍しいなと思ったんだけどさ」
「学書棟で?」
気を変えたにしては妙だ。「こんな霧なのに」と親切にも止めてやったレナルトを、アレンはわざわざ振りきって出て行ったのだ。頑固なアレンが、そう簡単に決意を翻すはずがない。それとも、落しものを早々に見つけて戻って来たのだろうか。昨日も落とすようなものを持っていたように思えなかったので、アレンが湖に行くと言いだしたときにはおかしいなと思ったのだが、嘘をついてレナルト避ける理由があった、とでもいうのだろうか。
(だとしたら、学書棟で俺と鉢合わせしたら気まずいだろうに……? なんだ?)
自習時間にアレンがおとなしくしていることなどまずありえない。学書棟が嫌なわけではないだろうが、せっかく手に入れた自由時間を暗い学書棟で過ごすことなど考えられないらしい。課題を五分で片づけると外に飛びだしていくのがいつものことなのだ。それが学書棟にいたとなると、なにかあると思わずにはいられない。
(学書棟でまたなにか見つけたのか……?)
アレンは、〈シャロットの塔〉だけでなく、他にも生徒たちが知らない城内の隠れた場所の数々を知っていた。知っていてありがたい隠れ通路から、本当にどうでもいい崩れた部屋まで様々だが。毎回、見つけだした場所については熱をこめて語り、挙句にレナルトを連れて行く。
この間連れて行かれた地下ではかなり散々な目にあったので、今回は連れて行かれなくてよかった。アレンも、あのときのレナルトの剣幕を憶えているのだろう。レナルトは、しばらく黴臭いところは御免だと思っている。
少年は肩を竦めると、口を開いた。
「で、訊きたいことって?」
はたとクレイは真剣な顔になって、
「ああ、次の化学なんだけど、あてられそうでさ……。どうにも、わからなくて。おまえも今日あたるはずだろう。また変なこと言うと文句を言われそうだからさ、予習見せてくれよ」
「教える見返りはなにがもらえるんだ?」
「そんなこと言うなよ、お互い様だろ」
「俺がいつおまえの世話になったって言うんだよ」
そうしてレナルトはクレイと言葉を交わしつつ、教室へと急いだ。
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