第一章 6th. 呪いぞ吾が身に降り懸れり
《das unheil ist ueber mich gekommen》

 アルンハイムと出会ってから、あの恐怖に震えた一夜から、一度も夜を待ったことはなかった。ずっと、夜が来るのに怯えた。夜闇が来てアレンをあの塔へ誘うことに怯えていた。逆らうことができないから、そしてそれが辛かったから。
 体は確かに、快楽に呻いていたかもしれない。すすり泣きながら、その一瞬あとによがり泣いていたかもしれない。
 でも、心はいつも痛みに引き裂かれていた。レナルトの姿に抱かれることに陶酔を覚えながら、恐ろしさをも感じていた。
 なのにいまは、少しも怯えていなかった。
 制服を着てタイをきっちりとととのえ、アレンは部屋で待っていた。消灯し、みんなが寝静まるのを。そして、あの塔に悪魔が明かりを灯すのを。
 その夜、悪魔の呼び声はなかった。
 鍵をひとつもかけないアレンの部屋の扉は、風もなく音もなく開く。彼は、立ちあがった。
 本当は夜を待たず、あの本を燃やそうとアレンは思ったのだけれど、いつの間にか懐中の鍵がなくなっていた。なくしてしまうはずはない。おそらく、アルンハイムが去り際に掠め取っていったのだろう。錬金術師の部屋の扉は堅固なものだったから、鍵がなければ開けることは難しく、諦めざるを得なかった。
 はっきりとした心と足取りで塔へとむかった。塔の一階の堂内からはヘリオトロープのにおいと悪魔たちの気配、そしてゆらめく蝋燭の明かりが漏れている。
 いつもは軽々と開いた扉は、今宵はひどく重く、軋んだ。本当はいつだって重たいのだろう。だがいままでの彼はそれを感じなかったのだ。
「ようこそ、アルンハイムの領土へ」
 姿を現したアレンに、レナルトを装った悪魔が告げた。ゆったりとあの台にもたれかかり、アレンに笑いかける。確かにどこにも瑕疵はなく、悪魔はレナルトそのものかと見えた。だが、その表情の異質さはレナルトがおかしくなったからではなく、彼がレナルトではないから、だったのだ。
 まだレナルトの姿でいるその悪魔を、アレンはなじった。
「消え去れ、悪魔め。薄汚い本性でレナルトの形を象るなんて……」
「強気だな、イグニシウス。私の炎よ。おまえのレナルトは聖者だとでも言うのか?」
「レナルトは普通の人間だ、おまえと違って!」
 広間にはいつものように、ひしめく悪魔たちが壁をぐるりと囲んでいる。その存在の熱気と蝋燭の熱さ。しかし、アレンは微塵も恐れなかった。
「おまえがレナルトじゃないなら、俺はここにいる意味がない」
「なにを言うか。区別もつかなかったくせに」
 そう言われると返す言葉がなかった。だが、アレンはひるまなかった。強い瞳で悪魔アルンハイムをにらみかえす。アルンハイムもまた、少しも揺るがなかった。
「おまえは何者なんだ!」
 アルンハイムは笑った。そして身を起こすと、数歩、前に歩みいでた。
 ふるまいははじめて出会ったときと同じ、大仰な役者のそれだ。
「この昔、紗露度のあららぎのはるか高処に一人の麗人住めり、その名は伝わらずただ紗露度の姫君と呼ばれたり」
「なんの話をしてるんだよ、」
 アレンは不吉な予感に襲われて、また身を震わせた。
「おまえの話だ、イグニシウス」
「違う、それは『シャロットの姫君』だ」
「だが、同じだろう? 解けぬ呪いをかけられている。姫君の末期の言葉を知らないとは言うまい」
「……呪いぞ吾が身に降り懸れり……」
 その言葉を口にすると、確かにあったはずの勇気が、急激にしぼんでゆくのがわかる。それと対照に、アルンハイムは意気揚々と叫んだ。
「正に! おまえは願い、私を喚んだ。だから私はここへ来たのだ。おまえは願い、対価として私にその魂を差しだした!
 私は悪魔アルンハイム、かつて神の敵サタンとなりて、暁光に導かれて地に墜ちた。私の名はレナルトではない。アルンハイムだ。
 イグニシウスよ、ここを立ち去ってどこへゆく? おまえは私のものだ、未来永劫にもはやおまえは私のものなのだ」
 血の気が全身から引いていった。どうやっても逃がさない、とこの悪魔は言う。
 どうしてこんなことになったんだろう、とアレンは思った。自らの胸の上でぎゅっとこぶしを握る。魂の存在や不在など意識したこともなかったが、アルンハイムの望む魂が彼の胸の奥にあることをいま、感じずにはいられなかった。それは炎のように燃え盛っている、激情という恋の病に冒された魂だ。
 神や救いの概念の前に、それを奪われるのがどれほど恐ろしいかわかった。
 魂をなんと呼べばいいのだろう。それは、アレンの想いそのものであり、それがあるからこそアレンがあるのだ。体の隅々にまで根を張り、指先に至るまで支配しているのが魂だ。
 それをすべて奪うとアルンハイムは言うのだった。アレンが願ったことと引き換えに。
 逃れる術は思いつかなかった。
 脱力して崩れた体を、アルンハイムの足が捉える。革の靴が、アレンの体を着衣の上からなぶった。肩を抑えられ、絞め殺すように首に力がかかる。息が止まるすんでのところで動きだした足は、そのままアレンの体を上から下へ、少年のあえぐ場所ばかりを踏みにじりながら移動していった。わずかに露わにされている首や頬が赤く染まる。アレンの両手は快感を堪えるように床を爪で掻いた。
 それでもありとあらゆる部分を刺激され、ついに怒張したファロスを強く踏みしだかれて、着衣のままアレンは埒を放つ。
「うっく、……」
 惨めに乱れた少年の目から、透明な涙が伝った。屈辱に満ちた快楽に乱れた自分に腹が立ってならなかった。
 アルンハイムは身をかがめ、アレンを抱き起こして優しく囁く。
「泣くな、私のイグニシウス。なぜ喜ばないのだ? 私は必ずおまえの望みを叶えてやろう。おまえのその魂と引き換えなのだから、必ずやおまえの望みを叶えよう。なにをためらうのだ? おまえの魂は廉くない、ゆえに、おまえの夢は叶えられる!」
「それが、なんの慰めになるっていうんだ、こんな……」
「悲しみを装うのはおまえの良識、人間どもの言う良心というやつか、イグニシウス。だが、そもそもその道を踏み外したのはおまえ自身だろう。あの夜、私を喚びだしたのはおまえだ。そうでなければ私がおまえを見つけることはなかったのだから。そして私はおまえの魂に惚れたのだよ。悪魔も喚びだされれば召喚者にかしずくしかない者もいるが、私は違う。私は原初の息吹の中から生まれて来た者だ。かつてはマンドルラを放ちながら、預言者のもとに降り立ちもした者だ! だから私には、魂を選ぶ権利があるものでね。おまえの魂は美しいのだ、イグニシウス、わが炎よ! だからおまえの望みを叶えるのだ。おまえは喜び笑うべきなのだ!」
 アレンは抗いもせず、ただ悪魔の深いくちづけを受けた。それは、まるで愛されていると錯覚してしまいそうな甘美なくちづけだった。目を開ければ、そこにあるのはレナルトの顔だ……。
(確かに、先ず道を踏み外したのは俺だ。それを、この悪魔は間違えていない。でも、こいつを喚びだしたことにあるんじゃない。どこで俺が道を踏み外したのかと言えばそれは、もちろん、レナルトに恋をしてしまったことだ、同じ男なんかを好きになってしまったからだ……! どうしろというんだ、俺は神に救いを求めることすら、許されちゃいないんだ……!)
 すっかりおとなしくなったアレンを、アルンハイムは抱擁から解いた。それでも涙に満ちた彼の瞳を、見凝めた。赤く腫れた眼は、うつろで悲しかった。
「私は恋する魂を愛する。なぜならそれが美しいからだ、イグニシウス」
 言いながら、悪魔はアレンの着衣をはいだ。
「だからその美しい色をもうしばらく私に見せるといい」
「……どうとでもしろよ」
 アルンハイムに抱かれることなど、とうに慣れていた。絶望に覆われたアレンの心は、むしろいままでよりはるかに冷静に、事の成り行きを見凝め、レナルトに化けたアルンハイムの所作を凝視していた。
 アルンハイムは微笑むと、アレンの唇を掠めた。
「そろそろ今夜の司祭を招こうか」
 そう言うのにアレンが首をめぐらすと、いまの言葉に応じたのか一人の悪魔が立ちあがり、部屋を横切ってこちらへと歩いて来るのが目に映った。
 それもまた、見憶えのある男の姿だった。そして、麻痺してしまった彼の精神を、衝撃を持って揺さぶるのに十分だった。アレンはまざまざと、アルンハイムの加虐的な愛を思い知るのだった。
「……テオフラスト教授」
「さあ、今夜のあるじは彼だ。……イグニシウス、おまえは彼の手記を見て私を知ったのだったな? なんともふさわしいだろう、この夜に。おまえの絶望の祝いに」
 久しぶりに見るテオフラスト教授の姿だった。記憶の中となにも変わっていない。目は深い知性を宿しているが、険しく、遠くを見ているようだ。
 だが、偽者かもしれなかった。つまり、アルンハイムがレナルトの偽者であるように、悪魔がその姿を騙っているのかもしれなかった。アレンのその疑問に気づいたように、アルンハイムが言った。
「彼は私の愛しいしもべなのだ。私は彼の望みを叶えたのでね。知っているはずだな、彼が遺したものを読んだおまえは。彼の魂は至福の中にあり、そして私のために働いてくれている」
「テオフラスト教授は悪魔になってしまったのか……?」
「悪魔に? いや、まさか」
 アレンはアルンハイムの腕の中から逃れようと、身じろいだが、悪魔が許すはずもなかった。その男の姿かたちはテオフラストだったが、顔を見れば正気でないのは知れた。アレンを憶えているようにも思えない。
 アルンハイムは無言で、テオフラストに無力な少年の体を引き渡した。
 また、胸の奥底から恐怖が湧いて来るのがわかった。底をついてしまったと思っていた恐怖が、深い深いところから湧きだしてアルンハイムの瞳にうつり、吸いつくされていく。
 アレンも、魂を奪われたそのときにはこんな人形になってしまうのだろう。悪魔に言われるがまま、なにもわからなくなって次の生贄をいたぶるのだ。(呪いぞ吾が身に降り懸れり!)。シャロットの姫君が最後に叫んだ言葉をアレンはまたも脳裏でくりかえした。ランスロットに恋した彼女の最後の言葉は愛だとか恋だとかいう淡い想いを秘めたものではなく、自らの悲運への嘆きなのだ。死にゆくとき彼女はなにを考えただろう。呪われて閉じこめられた命からの解放だろうか? それとも、呪いを呼びさましたランスロットへの怨みだろうか? 即ち、死を彼女は喜んだのだろうか、それとも死にたくないと思ったのだろうか?
 アレンの身に既に呪いは降り懸り、それゆえにこうして幾度も幾度も押し倒され、辱められている。アレンがシャロットの塔から見たのはレナルトの姿だった。塔の下からなにも知らずに見あげたレナルトと目が合ったそのとき、アレンは恋という罠の中に落ちた。いつからかは知らない。この学園ではじめてレナルトと会った日のことを思い出そうとしたが、思い出せなかった。
「い、いやだ」
 テオフラストは刑の執行人のように、無言のままアレンを引き倒す。強い力が、彼の服を裂いてゆく。
 顔をこわばらせるアレンを、アルンハイムは哂った。
「とてもいい顔だ、イグニシウス。おまえの嘆きはなんて心地いいんだろうね」
 そう言うアルンハイムの前で、アレンの顔が苦痛に歪む。メリメリと音がするのではいかというくらい無理矢理に、テオフラストのものが彼の中に食いこんでいった。それでもなお、その痛みすら快感の予兆として、少年の体は燃えた。
 いつか、レナルトの顔をしたアルンハイムに抱かれることに慣れてしまったように、テオフラストに抱かれることにも慣れるかもしれない。けれどいまはそうではなかった。あのテオフラスト教授に犯される、という心を引き裂く痛みと屈辱が、アレンを狂乱させる。
「い、あ、あ、あ、あ、あぁ……!」
 揺さぶられるたびに、鋭い痛みが後庭に走る。そしてその痛みから生まれた熱が、脳を灼く。
 ……そうしてこの夜も、先の見えない陵辱があとからあとから、続いていくのだった。

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