アルンハイム幻想
《FANTASY OF ARNHEIM》

 ゲルトルートギムナジウムの敷地には、崩れかけた塔が立っている。生徒たちが口々に「姫君の塔」と呼ぶのは、テニスンの歌った『シャロットの姫君』にちなんでいる。
 塔は、登り口が崩れていて中にはいることはできなかった。
 けれど、塔の上のほうには窓がついていて、そこからの景色はきれいなんだろうな、と思わせるのだった。
 サリはいつかそこに登ってみたいと思っていた。この学園に入ってから、ずっと気になっていたのだ。
 だが、入学してもう何年も経つけれど入り口は他に見つからなかった。だれもあそこには足を踏み入れたことがないという。入れたとしても、いつ崩れるかわかったものではなくて危険なはずだった。
 だから、いつも憧れをこめて下から見上げることがサリの日課だった。
 放課後はたいてい、塔の足元に来て本を読んですごした。いれかわりたちかわり、友人が来ることもあったけれどたいていは一人だ。
 なにがあるわけでもないけれど、そこはいつしかサリのお気に入りの場所となっていた。
 その日もサリは塔へとやって来た。しばらく、何事もなく本を読んでいたのだけれど、ふとした瞬間、塔を見上げてあることに気がついた。
 塔の上にあるあの窓が、開いていたのだ。
(嘘だ……どうやって?)
 風などで開くわけもないだろう。あまりにも不自然すぎる。
 けれど、実際に窓は開いていた。
 中に、だれかいるんじゃないだろうか。サリの心にはその思いがよぎった。窓の中はよく見えないが、人影があるようにも見える。だれかが、あの塔に登る道を見つけたんじゃないだろうか。それとも、教師などはもともと知っているのかもしれなかった。ただ、危険なので秘密にされていただけで。
 サリは立ち上がると、塔の台座になっているホールへとむかった。首をめぐらしても、上に登れそうな場所はない。それは、知っていた。何度もここに来たのだ。
 それでもサリは、壁に手を当てて探り続けた。しばらくして、妙に出っ張っている部分を見つけた。今まではなかったはずの壁に、凹凸ができている。あせりながら、サリはそのあたりをいじった。
 ……そうすると、けっこうな大きさの石が壁のむこうにむかって動いた。大きさから言っても、手で押しただけで動かせるような軽い石ではないのだが、もともと動かしやすいように溝が掘ってあるらしい。
 完全にむこうに押し切ると、人間が一人やっとくぐれるような穴が開いた。
 穴のむこうは自然光がさしこんでいて、階段があるのを見ることができる。階段だ。この、塔に登るための石の階段だった。
 サリはあわてて壁を潜り抜ける。階段は縦に刻まれたはしごのようになっていた。そこまで崩れておらず、サリが体重をかけても崩れることはなさそうだ。
 階段の上からは物音が聞こえる。やはり、だれかがいるのだ。かたん、かたんという規則正しい音が耳に入る。――サリはさすがに、機を織り続けなければいけないシャロットの姫君を思い出した。
(まさかね……)
 階段を登りきると、小部屋に通じていた。あんがい広い。サリは目を丸くして、その光景を見つめた。
 サリの右手には、椅子に腰を下ろして機を織るシャロットの姫君。黒く長い髪を床にまでたらし、白いムーサたちが着るようなドレスをまとい、ひざに小さな機織を抱いていて、布を織る彼女の白い指は休むことなく動いている。
 そして窓辺には、制服姿の背の高い少年が外を見つめて立っていた。
 ふたりともサリの存在に気がついていないように、無言だった。サリはなにを言えばいいのかもわからず、ぼうっとして立ち尽くした。
「かくて姫はまろびつつ、
 小舟にその身を横たえり
 姫はなげきつ 涙を流す
 呪いぞ吾が身に降り懸れり…」
 そう言ったのは少年のほうだった。明らかにこのゲルトルートの生徒のはずだが、サリが見たことのない生徒だ。学年が違うのかもしれないが、あまりサリと年の差はなさそうだ。
 なのに、見たことがない。……
 いつの間にか少年も、そして少女もサリを見ていた。彼女の手の機は止まっているから、本物の姫君ではなさそうだ。
 それでも、制服を着た少年はまだしも、男子校であるゲルトルートに少女は不自然だ。
 サリは無言で、彼らを見返した。
「こんなところになにしに来たの?」
 少女が口を開く。
「この呪われた塔に、なにをしに来たの?」
 サリが戸惑っていると、くすくすと笑う少女にむかって、少年のほうは顔をゆがめた。
「やめないか、アレン」
「怒るなよ、レナルト。こんなところに人が来るなんて珍しいだろ」
「珍しいとかいう問題じゃあないだろう」
 レナルトと呼ばれた少年の、緑色をした目が冷たく、サリに投げかけられた。まあ、彼らの秘密の領域にサリが踏みこんでしまったのは仕方がないとしても……けれどたくさんのことが腑に落ちない。
 ここに入るならば、サリが彼らを目にしなかったはずはない。頻繁にこの塔の下にいるのだ。ずっとここにいるのでもない限り、解せない。
「あ……悪い。僕、ここに登ってみたくて」
「ふうん」
 少女は立ち上がると、サリの肩を叩いた。
「まあいいんじゃないか」
 よく見ると、姫君のほうも少年だった。つまり、二人ともゲルトルートの生徒だということだ。
(変な二人……)
 まじまじと見つめてくるアレンは、にやりと笑うといきなりこう言った。
「君さ、お父さんによく似てる、って言われることはない?」
「え?」
 唐突なもの言いだった。意味がわからずサリは首を傾げてしまう。絡んでくるアレンを、レナルトが腕ずくで引き戻してとがめた。
「アレン!」
 アレンは不服そうにレナルトをにらむ。
「偶然とは思えないよ」
「彼を関わらせないほうがいい」
「偶然とは思えない」
「偶然だよ」
 意味のわからない言葉を交わす二人は、しかし、じっと見つめるサリに気がついて口を閉じた。
 レナルトは息をつき、サリを見る。
「それで……ここに登りたかったって、どうして?」
「そこの窓から、景色を見たかったんだよ」
 そう言うと、レナルトは窓の前から身を退けた。
「この窓からでいいなら、いくらでも見たらいい。俺はもう飽きてしまったから」
「……ありがとう」
 サリは促されるまま、窓に寄り、景色を見た。思ったとおり、すごくきれいだ。遠くまで森が見渡せ、学園の建物が森にうずもれているようなのが見える。
 その森を越えると、町があって。
 そこでサリははっとした。森があまりにも広く、町を見定めることができない。不思議だ。そんなに遠いはずがない。方角が違うのかとも思ったが、それでもどこかに見えるはずだ。こんな天気のよい日ならば、町の瓦が光を反射して、教会の塔が見えるはずだ。
 景色が違う。
 ゲルトルートのすぐ下には美しく整えられたランドスケープ・ガーデンが広がっている。あんなものは、なかったはずだ。
 サリは慌てて振りかえる。窓枠に力をこめてしがみつき、なにかを言おうとした。
 でもそれがなんだったか、サリは憶えていない。
「危ない!」
 そう言われたときには、確かにつかんだはずの窓枠がなくなっていた。掌には触れている感触があるのに、体がかしいで気がつけば、足場もろとも壁がくずれて落下感に包まれる。
 下までの高さを思い、サリは青ざめた。衝撃を感じて、彼の意識は闇に飲まれた。どこかから歌が聞こえる。今にも息をひきとる、シャロットの姫君の嘆きの歌だった。





「サリ、サリ!」
 呼ばれて目を覚ますと、目の前には心配そうにのぞきこむ友人の顔があった。
「……シーナ、……」
「どうしたんだよ。来たら、倒れてるからびっくりしたぜ!」
「僕、落ちたんだ」
「落ちた?」
「あの窓から……救急車呼べよ」
「窓って……塔の?」
「崩れてるのが見えないのか?」
「ぜんぜん、見えないぜ。窓もきちんと閉まってるし」
 友人は、サリがともかく目を覚ましているし、元気もありそうなので肩をすくめてのぞきこむのをやめた。サリも身を起こす。頭を打っていたりして、体を動かすのはまずいのではと思うのだが、痛みも、なにもなかった。
 サリが横たわっているのは硬い石段の上で、本当にここに叩きつけられていたのなら無事ではないはずだ。
 けれど、痛みさえない。おかしいな、と思って見上げると、塔は確かに、シーナが言うとおりにどこも崩れていない。先ほどあいていた塔の窓も、しっかりと閉まっている。
(……え?)
「平気か?」
「うん、なんともない……」
「落ちたって、夢じゃないのか?」
 サリの手元には、読みかけだった本が転がっている。サリは立ち上がると、シーナに来いよと言って堂内に入った。
「どうしたんだよ、サリ!」
「さっき、ここから塔の上にあがったんだ」
「本当に?」
 サリが探すと、石は元通りにはめこまれていた。これはもう動かないのかもしれない、そう思ったのだけれど、押すとさっきのようにむこう側の空間が見えた。さっきと同じように日が差しこみ、階段が見える。
「すげぇ」
 シーナがつぶやいたけれど、サリはそれ以上に驚いていた。あれは夢なのかそれとも夢じゃないのか。窓は壊れていない。けれどこの階段は本当にあった。シーナとサリは、もちろん、壁をくぐった。
 階段を登ったところには、あの小部屋がある。だが、人影はなかった。埃が積もった床には、人の踏み入れた形跡はない。部屋の中には机と二脚の椅子。埃はついているが、そう古いものではなさそうだったから、はるかむかしから閉ざされていたわけではなく、何年か前まで学生でも出入りしていたのだろう。
 それに、さっきよりも部屋は少し狭かった。違う場所のような、同じ場所のような、不確かな印象だけがサリの中にあった。
「ほんとにあるなんて」
「うん、」
 夢で見た二人の形跡はない。壁には、色あせた雑誌の切抜きが張ってある。白いドレスの黒髪の娘が機を織っている絵だ。レイディ・オブ・シャロット。そして机の上には、一冊の本がおいてあった。
 シーナはそれを手に取り、めくっている。サリが混乱している間に、読み終えたらしいシーナは高い声を上げた。
「これ、日記だぜ、サリ」
「え?」
「卒業生の人に聞いたことがあるんだけどさ。あ、親父の知り合いの息子なんだけど。……その人の在学中に、教授と学生が行方不明になったことがあるって聞いたんだ。部屋の荷物もそのまま、姿だけくらましたって。その教授の名前はテオフラストとか言ったはずだ。学生のほうは知らないんだけど。
 この日記、その教授のだよ」
 それを聞いた瞬間、サリははじけるようにシーナの持つ日記をひったくった。シーナが不平をもらすが、サリは聞いていなかった。
「サリ?」
 あまりの剣幕にシーナは戸惑いを隠せない。だが、サリのほうも落ち着けなかった。無我夢中で日記を開くと、題字に確かに、テオフラストと記名されている。
「サリ、おい、」
「……なあ、シーナ」
「なんだよ?」
「その教授が、僕の父親なんだって言ったら、信じるか?」
「え? だってサリ、おまえ両親とも健在だろ」
「僕、養子なんだ。母は僕を産んだときに亡くなって、父はここの教授だったから、友人の夫婦に僕を預けたんだよ。父が失踪して、僕はそのまま養子になったんだ。僕がこの学校に来たのは、……父の手がかりをなにか知りたくて、」
 シーナはなにも言わなかった。そして、サリの肩を叩く。サリは、日記を抱きしめて泣いた。あまりかまってもらうこともなかった父親だ。十年前にいなくなって、記憶もすでに定かではなくて、……でも、悲しかった。
 はたと、サリはさっきの夢のことを思い出した。それが夢なのか夢でないのかは知らないけれど。
(君さ、お父さんによく似てる、って言われることはない?)
 あの二人がだれかはわからない。失踪した二人の生徒だろうか。けれど、父がいなくなったのは十年も前のことで、なのにあの二人はまだ少年の姿をしていて……あの二人は、父のことを知っていたのだろうか?
 サリは、窓を開いた。そこから見えるのは、この学園と周りを囲む暗い森だ。
 かすかに、学園の下方にある湖が太陽の光に輝いているのが見え、遠くには山の下にある町の、教会の尖塔を見ることができる。
 さっき見た景色ではなかった。目に焼きついてはなれないあのランドスケープ・ガーデン。美しかったけれど、けれどどこか胸苦しい景色だった。
 あの幻はなんだったのだろう。わからなくて、サリは日記を開いた。ぱらぱらとめくり、書かれている最後のページを見出した。
 そこにはこう書かれている。

 ――そこはアルンハイムの領土である。

 サリはペンで書かれたその文字を指でなぞった。

《終》 《back : TEXT LINUP》
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