第二章 5th. 苦界
《die welt der leiden》

 いつしか、時の経過や日付のうつりかわりが意味のないものになろうとしていた。レナルトは毎日、目覚めると城の壁に刻みをつけた。それくらいしか、日付を数える方法がなかったのだ。とはいえ、壁の刻み目を数えることは一度もしなかった。数えだしたら気がおかしくなる。あまりにも過ぎてしまった月日を思って、気がおかしくなる。
 テオフラストの言った花園は見つからなかった。あれは悪魔の見せた幻なのかもしれないと思ったけれど、いまやもうどうでもよい気さえする。
 この城に来てから、餓えも乾きも覚えたことがなかった。爪も髪も伸びる気配がない。本当の意味で、ここには時間がないのかもしれなかった。本当の夢の中であるかのようだ。
 毎日は単調だった。薄明るい昼間は、二人とも生きる気もなくして城の片隅で妄想にふけった。こんなことにならなければ日常だったはずの現実を思った。ときには、花園か帰る手段を求めて城をうろつくこともあったが、大抵はアレンの体がもたなかった。
 夜になれば悪魔が戻って来て二人を苛んだ。アルンハイムの笑みの下で、自分の体がボロボロになるまでレナルトはアレンを抱いた。抱き続けた。そうやって朝までアレンの体を独占していれば、少なくとも悪魔たちはアレンに手を出さないからだった。
 それは、なにもアレンを独占したい、という恋情からの行為ではなく、ただ悪魔たちに思いのまま蹂躙されるアレンが哀れだったので、そうしたのだ。
 だから、義務感以上に強いものは、行為の間になかった。それは苛酷な肉体労働そのもので、恨みこそすれ楽しさなど少しも味わえなかった。辛くて辛くて、それでも意識がある限りはアレンを抱き、蹂躙し、声を上げさせた。大抵は朝まで、悪魔たちがいなくなるまで抱き続けることになるのだが、疲労のあまりに気を失うことも少なくなかった。
 レナルトが気を失うと、悪魔はなにもしない。彼が目を覚ましたときには朝が来ていて、冷たい石の床の上で、うずくまっているのに気がつくだけだ。残されたアレンがどうなっているかは知らない。だが、悪魔たちの慰み者になっていることは間違いないだろう。そんな朝に、アレンの様子を見に行くと、いつもより血の気のない顔をして死人のように横たわっているのだから。
 死人の寝顔と違うのは、その頬に苦しそうな引きつりがあることくらいだった。死者の安らかな眠りなど、この少年からは程遠かった。
 アレンが夜、行為の最中に気を失うと、アルンハイムは無理矢理にでも正気に戻した。
「心神を喪失した状態の人間を正気づかせるためには」
 はじめてアレンがレナルトの体の下で気を失ったとき、アルンハイムはそう言いながらレナルトをアレンから引き剥がした。
 ぐったりと力の抜けたアレンの姿に、レナルトは恐慌を来たしかけていたのだが、悪魔は静かな声で、訊いて来た。
「どうすればいいと思うかね、レナルト?」
「なにを……馬鹿なことを言ってるんだ! アレン、アレン!」
 レナルトはアレンを抱き寄せて耳元で彼の名を呼んだ。呼ぶとまぶたがかすかに引きつる。
「馬鹿なこと、と言うのか」
 アルンハイムの哄笑が、レナルトのささやかな安堵を掻き乱した。
「うるさい……! 黙れ、悪魔!」
「馬鹿らしくなどないとも、金髪のぼうや。必要な知識だと思うがね。さて、これから先、何度くらい彼は気を失うことになるのかね?」
「こいつに触るな。もう今晩は十分だろう?」
「十分、とはなにをして?」
「気を失ってる!」
「なるほど、しかしそれはまったく十分ではない。さあそこをどきたまえ、レナルト。気を失った人間の気づかせ方を教えてあげよう」
 その申し出が有難いことだとは到底思えなかった。レナルトは、アレンを掻き抱くようにしてそれを拒んだ。
「放すものか」
「では、取り押さえられるほうを選びたまえ」
 アルンハイムがそういうと、居並んだ悪魔たちが二人に手を伸ばした。
「やめろよ!」
 レナルトがいくら叫んでも、悪魔たちの冷たい手は二人を無理矢理に引き剥がした。レナルトは裸身のまま、羽交い絞めにされて押さえつけられる。悪魔のくせに、こんな芸のない拘束しかできないはずがない。わざとわかりやすく押さえつけてくれているのだろう。そしてアルンハイムの思惑通り、びくともしない悪魔の腕の下でレナルトは、彼の無力さを思い知るしかなかった。
 そしてアレンの体は、生贄よろしく台の上へとしつらえられ、アルンハイムは力なく昏睡するアレンの傍に立った。
「人間にとって最もよい気つけ薬は痛み以外にない。どれだけ効き目があるかを君の目の前で見せてあげよう」
「……よせ」
 レナルトは呟いた。言った瞬間に、押さえつけられた腕と首に力がこもる。
 彼がよせと言ったのは、アルンハイムの手に一本のナイフがあったからだった。それでアレンを傷つけるつもりなのだろう。
 もちろん悪魔は聞き入れなかった。
 アルンハイムは始め、アレンの頬を叩いて目覚めないのを確かめると、レナルトの目の前で、その刃をアレンの体につきたてた。まるでパンでも切るように無造作に、刃をつきたてたのはアレンのへそのすぐ下だった。……アレンの腹部には柄を残して短剣の刃がうずまっていた。
 血は見えない、けれど……内臓を串刺しにした刃は、抜けば赤い血が流れだして止まらないはずだ。
「……アレン!」
 レナルトの叫び声と同時に、アレンが目を見開いた。そして少年は、口をあけて苦しそうになにか呟こうとした。
「……う、」
 もちろんそれは、声にならなかった。激痛が走って身動きも取れないのが見てわかる。もがくように彼は自分の腹部に突き刺さる短剣の柄を握りしめた。
「抜くなアレン!」
 聞こえたのかどうかはわからない。一度びくり、と身を震わしたアレンは両手でしっかりと柄を握って持ちあげた。
「うわあああ!」
 アレンの叫び声が城中にこだました。刃の切っ先から、そして傷口から真っ赤な血が流れだし、短剣を壇下へ投げ捨てたアレンは、まるで逃げていく彼自身の命をすくいあげ集めるように傷をかきむしった。
 そのために血はよけい飛び散り、アレンの肘まで流れてゆく。
 アレンはあふれる血を抑えながら体を起こす。動くなと制止するレナルトの声など聞こえないようだった。
「アルンハイム……っ」
「目が覚めたか、イグニシウス」
 その瞬間、アレンにはその流血を笑って見ているレナルトの姿が見えているのかと思うとぞっとする。レナルトはアレンの名前を呼ぶけれど、アレンは体から流れでる血に呆然としているだけだった。
 あのままでは死んでしまう。アルンハイムは血を流すアレンに触れると、引き倒して組み敷く。血も凍るような悲鳴が続く。悪魔が体を動かすたびに、アレンの体から血が溢れた。こんな光景を見るのにも慣れて来たような気がしていたが、そうではないのだと悪魔は夜毎にレナルトに思い知らせる。そして、アレンが苦痛に慣れる日もない。
 痛みは確かに有効だ。与えられる者にとっても、それを見せられる者にとっても。
 もう悪魔はアレンを殺してしまうのかと思っていたが、次に目覚めたときにはアレンの傷は癒されていた。死に至るほどの深手だったはずだと思うが、そんなものを治すのも悪魔には造作ないことなのだろう。
 なにもかもが幻だ。この世界は現実の影で出来ている。偽りのゲルトルート。二人のレナルト(そしてレナルトにとって悪魔はいつまでも奇怪なのっぺらぼうのままだ)。あれきり姿を現さないテオフラスト教授。そして刻まれては消える疵。
 一度だけ、レナルトはアレンにテオフラストのことを聞いたことがある。あのときのテオフラスト教授の言葉どおり、黄昏の時刻であるうちに。
「テオフラスト教授の姿を見たのか?」
 アレンは浮かない顔でそう訊き返して来た。レナルトが頷くと、アレンは口をゆがめた。
「あの人も悪魔に捕らわれているんだ」
「だが、俺にはこの世界から逃れる道があると言ったぜ」
「そんなこと、信じているのか? 俺が見たテオフラスト教授はもうあの人じゃなかった。なんの表情も見せないで俺を犯した」
 信じるほうがおかしいのかもしれなかった。けれど、それなら絶望しろというのだろうか。このまま、この悪魔の封土で狂っていけというのだろうか。レナルトにそれはできなかった。どうしてもここから逃げだしたかった。
 それでもまだ、花園は見つからない。
 城は広大だった。地上に出ている部分はさほど広いわけではないのだが、学園だったゲルトルートではほとんど立ち入ることが許されていなかったり、埋められてしまっていた、山中をくりぬいた砦部分が広いのだ。
 その地下は涯てもなく、どこまでも続いているように思える。
 日中は悪魔の灯す蝋燭はなく、カンテラを持って地下へと潜っていくが、どこへも通じていないかのようだった。
 学書棟から入ってゆく地下は格別に広く、毎日歩き続けても行き止まらなかった。その日も、蝋燭が尽きそうになってからレナルトは学書棟の地下から這いだした。アレンは北塔の下にある部屋で眠っていて、レナルトだけが来ていたのだ。アレンは探索することにすらもう倦んでいた。
 アレンは諦めかけているが、レナルトはテオフラストの言葉を信じたかった。この世界の涯てを見つけていないことこそが、花園がどこかにあるという証だと信じていた。
 身じろぎもしないゲルトルート・フォン・ウラッハの煤けた肖像を横目に建物を出る。
 建物を出ても、あたりは霞にうすぼらけていて、真昼でも明かりを持っていないと不安になる。せめてこの霞さえ晴れれば、花園を見つけられるかもしれないのに、とレナルトは思っていた。だが、霞は晴れることがない。
 永遠の黄昏こそが悪魔の領土なのだろう。
 なんのためにこんな場所にいるのかわからなくなりそうだった。
 レナルトは陽の沈む時刻を気にしながら、北塔へとむかった。学園にいたとき、シャロットの姫君がいるのではないかとこの塔を見あげて夢想した。アルンハイムの領土であっても、この塔の上からは、霞さえなければ素晴らしい見晴らしなのだろうが、見えたことがない。
 塔の小部屋に登り、窓を開ける。景色という概念すらこの世界にはないようだった。
 目を閉じても、その窓のむこうに広がるはずの美しい景色を想像することはできなかった。黄金色に輝く野や、夕陽にきらめく湖を考えようとしても、思考さえ霞に覆われて、白く濁ってしまう。
 こんなに求めているのに、花園はレナルトの前に現れない。
 目を開けると、領土には悪魔の炎が燃えていた。もう悪魔の時間だ。また、苦痛に満ちた夜が始まる。
「どうした、レナルト」
 耳元で金属が鳴り響くような不快だけをつめこんだ声がした。アルンハイムだ。レナルトは振りかえる。
「こんな場所でなにを見ている。なにを求めている?」
 レナルトの脳裏を、この悪魔に花園のことを訊けば答えてくれるかもしれないという思いがよぎった。けれど、すぐにそんなことは頭から追いだす。悪魔が答えるのか。レナルトたちにとって、たったひとつの希望がある花園なのだ。悪魔にとってなんの意味があるかわからない。それに、どうしてレナルトがそれを知っているのかをアルンハイムは問いただすだろう。テオフラストのことも秘密にしていなければいけなかった。
 なによりそれは願いだった。レナルトは決して悪魔になにかを願ってはならないとテオフラストが言っていたのだ。悪魔に願いを言い、それを叶えられたときに魂は悪魔のものになるのだから、願いなど告げては駄目なのだ。
 レナルトは答えなかった。なにも。
 悪魔は笑うと、階段を降りてゆく。レナルトはすぐにそのあとを追った。

 霞に覆われた薄暮の時間に、アレンが口を開いた。
「なあ、レナルト。俺のことが憎いか?」
 唐突なアレンの言葉に、レナルトは咄嗟になにも答えられなかった。こうして捕らわれて以来、アレンのことを罵ったことはなかった。そんなことをしても救われないと思っていたからだし、レナルトがアレンのことを好きになったりしないのだということを突きつけても仕方ない。
 激情に任せて、好きになられることさえ迷惑だと言い渡すこともできたと思うけれど、レナルトは自分の気持ちを抑えていた。そうでなければ悪魔を欺き続けることができないと思ったからだった。それに、アレンを不憫に思う感情はちゃんと残っている。アレンを愛することはできないと思っていたけれど、かといって友情をなかったものにしてしまうには、二人の間柄は近すぎた。
 どうにかして救われたい。どうにかして救ってやりたい。
 たとえ一人でここから逃げだしても逃れたことにはならないだろう。レナルトの存在はアレンの願いと強く結びついているのだから。逃れるのならば二人一緒でなければ駄目なのだ。
 とはいえ、アレンはレナルトがこんなことを望んでいないことはわかっているはずだ。アレンの恋についても、レナルトは口にしたことがない。それはとりもなおさず、その恋に関わりたくないということだった。レナルトが隣にいてくれるのは友情なのだと、アレン自身もようくわかっているのだ。
「ごめんな、レナルト。俺……こんなことになるなんて思ってなかったんだ。まさか悪魔がいるなんて思ってなかったんだ。おまえを苦しめるつもりじゃなかった。ただ……ただ……」
「アレン、いいんだ。おまえの責任だなんて思ってない。アルンハイムのことは憎いけれど、おまえを憎んだりはしてない」
「憎んでくれたほうがいい」
「アレン、聞き分けのないこと言うなよ」
 アレンは頭を振りながら、青ざめて唇をかんだ。
「……アレン」
「レナルト、頼みがあるんだ」
 レナルトがアレンを見ると、彼は悲壮な目つきで口を開く。
「俺を殺してくれよ。そうすればレナルトは自由だ。この世界からも、悪魔からも解放される。そうだろ? 俺だって魂を悪魔のものになんかしたくない。永遠にあの悪魔に苛まれたくなんかないんだ。レナルト。お願いだから……!」
「ふざけるなよ。ここまで来て、俺が一人で逃げて平気だとでも、思ってるのか?」
「俺はただ、ただ……この想いがいつか消えてしまうものだっていいけど、それでもただ苦しくて、ただどこかに吐きだしてしまいたいだけだったんだ」
 レナルトはなにも言えなかった。
「怖いんだ。俺の魂がアルンハイムのものになったらどんなことになるのか。テオフラスト教授みたいに、次の犠牲者を犯させられるかもしれない。それが永遠に続くんだ。なあ、レナルト。お願いだから……俺のこと、許してくれよ……!」
 レナルトは困惑した。死が自由をもたらす単なる手段になるとは思えない。それでも、そこまでアレンが追いつめられているのだけはわかった。けれどもちろん、アレンを殺すことなどできるはずもない。
「俺はおまえを置いてはいかない。悪魔が俺だけを戻してくれると言ったとしても、そんな馬鹿な真似をするつもりはない」
「レナルト」
 アレンは、そんなレナルトの唇を荒々しく奪った。唇は、涙の味がした。

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