第三章 5th. 無限のランドスケープ
《die unendliche landschaft》

 塔の足元から見あげても、高い場所にある小部屋にアルンハイムがいるのかどうかは見えない。けれど、塔基部の堂内にはだれの姿もなかったし、どうしてか、あそこにアルンハイムがいるような気がしたのだ。
 階段を登っていくと、やはりそこに悪魔がいるのが感じられた。声が聞こえるわけでもなく、姿が見えるのでもない。ただ、そこで、なにかがアレンを待っているのがわかった。胸は人知れず鼓動を高くしていて、一段一段を踏みしめて登りながら、アレンは心臓の上を押さえる。強く脈打つ心臓が、まだそこにあるのは不思議だ。何度も殺されるような目に合わされて来たし、自分でも、死んだっておかしくないことをした。苦悩で心臓が止まったっておかしくなかった。悲哀に止まったっておかしくなかった。それなのにいまもまだ、アレンの心臓は打ち続けている。一人で〈シャロットの塔〉に登って黒魔術を執り行おうとしていたあの夜のように、興奮している。
 制服の懐中にあるナイフに触れて、アレンは少し考えてから、ナイフをズボンの後ろにあるポケットへと移した。胸では取り出しにくいと思ったのだ。
(俺は本当にアルンハイムの眼を抉れるんだろうか……)
 自分にできるのか、という不安だけではなかった。アルンハイムがアレンのしようとしていることに気がついていてもおかしくない。アルンハイムはこの領土のあるじで、アレンたちを支配しているのだから。
 けれども、錬金術師はそんなことは言わなかった。ただアルンハイムを油断させろと教えてくれただけだ。
 石を積んで出来た塔の壁を、指でこすりながらアレンは上を目指した。もしアルンハイムの右眼を抉ることができたら、この塔を登るのもこれが最後になるはずだ。呪いは解けるだろう。そのときどうなるのだろうか。アレンは、レナルトは、それから錬金術師は。
 早鐘を打つ心臓が、なにかを考えることを阻んでいた。手にはじわりと汗がにじんでいる。
 どこかでこんな物語を読んだことはなかっただろうか、とアレンはふと思った。心臓が張り裂けそうになりながら、それでも、自分のためにだれかの命を奪いにゆく話だ。『シャロットの姫君』ではない。彼女は自分から塔を降りて、死んでしまうのだから、ランスロットを求めて塔の階段を登ったりしない。
 どこでだったろう、なんだっただろう。……それからアレンは、自分が思い出したのは『人魚姫』だと気づいた。
 にんげんとなった人魚姫は、人魚に戻るには愛する王子の心臓の血が必要だと魔女にいわれて刃を手に王子の部屋へとむかうのだ。
 ――そうしなければおまえは、海のあぶくとなって消えてしまうよ!
 王子に愛されるために、家族も美しい歌声も犠牲にしたというのに、今度は自分の命を守るためには王子を殺さなければならない。
 だが、アレンは慌てて頭を振った。
(どうかしてる。それじゃあ、俺がまるでアルンハイムのことを愛してるみたいじゃないか。レナルトと同じ姿をしてるからって、ばかげた妄想だ)
 そんなはずはなかった。胸が苦しいのは、やっと呪いを解く方法を見いだしたからであって、アルンハイムを殺すことを嫌がっているわけじゃない。錬金術師に、あの悪魔に愛されているのだと囁かれて、馬鹿げた情を感じているだけだ。
 どれだけの月日かもう憶えていないほど、アルンハイムの手にずっと苦しんで来た。悲しみと痛みと望まない快楽に毎晩泣き叫んで来た。それなのに、アルンハイムを滅ぼすことにためらっているなんて、馬鹿げた話だ。
(俺はためらわない)
 果たして、登り切った小部屋にアルンハイムは佇んでいる。レナルトと見まごうその姿で、窓に凭れて外を見ていた。闇は薄くなり、ほのかな風が夜のヴェールを剥ぎ取れば、すぐにでも朝が来るだろう。もっとも、朝とは言っても、このアルンハイムの領土では永遠の黄昏に過ぎないのだが。
 暗くて見えるはずはないのだが、悪魔は窓の外を見凝めている。本当は赤と灰色だという悪魔の眼には、夜明け前の闇の中でもあのランドスケープ・ガーデンが映っているのだろうか。どこまでも続く花と木々の楽園。夜更けでも花は開いてその馨りを振りまいているのだろう。新しいエデンの中央には、アレンの魂が宿るはずの、生命の樹が立っている。
「……アルンハイム」
「イグニシウス」
 アレンが呼ぶと、悪魔はレナルトよりもなお優しい声で、アレンを呼んだ。
 その声でアレンは思い知った。レナルトはアレンを思ってくれている。だがそれは決して恋じゃない。彼が愛しているのはアレンではない。レナルトが昨日の晩、アレンを抱きながら囁いた名前は、優しく慈しみに溢れていたが、アレンの心に届くべきものじゃなかった。恋のために燃え盛るアレンの魂には届かない。
 道理で、いつまでもアレンの呪いが成就しないはずだ。アレンの願いはちっとも叶っていないのだから。
 けれどそれは少しも悲しくなかった。
 儀式をしたときから、その願いが叶うとは思っていなかった。レナルトがアレンのことを好きになるなんて、望んだことは確かだけれど、信じたことは一度もなかった。
 それでもアレンがしなければならないことはひとつだった。静かに、ズボンの後ろにさしこんだナイフに指を這わせる。
 アレンはアルンハイムから目を逸らして、口を開いた。
「俺が……愛しているのはもしかすると、レナルトじゃないのかもしれない」
 悪魔が身じろぎするのがわかった。頭の中で彼女の声がこだまする。(どうすればあの方を無防備にさせられるかは、そなた自身がアルンハイムの君に何度も教えられているはず)。
 アレンはアルンハイムに手を伸べた。指先が震えている。小部屋は狭かったが、階段からの入口に立ち尽くしたままのアレンと、窓辺に佇むアルンハイムとの間には、二人が手を伸ばさなければ届かないくらいの距離はあった。
 困惑する悪魔の顔はレナルトと同じだ。だが違う。レナルトはそんな目でアレンを見ない。アレンははじめて、悪魔アルンハイムの顔を、恐れることなく、怒ることもなく、嘆くこともない心で見凝めた。アルンハイムの萌黄色の瞳はレナルトとまったく同じなのに、レナルトの瞳にはない炎がそこに宿っている。真摯とも言うべきそれを確かめてから、アレンは叫んだ。
「いったいだれにわかるって言うんだ。アルンハイムとレナルトは同じ顔をしてるんじゃないか。俺が愛したレナルトがアルンハイムじゃないなんて、だれにわかるって言うんだ。俺が愛してるのがレナルトじゃないかもしれないなんて、だれにもわからない! 俺にとってのレナルトが、アルンハイムであってなにがいけないんだ!」
 レナルトの想いが、アレンに対する恋情だという偽りがありうるなら、アレンが恋したレナルトが、アルンハイムだという偽りが存在しても、少しもおかしくなかった。
 アレンは窓辺のアルンハイムに歩み寄り、さしのべられた腕の中に身を委ねた。悪魔の心臓が感じられる。それは胸にはなかった。錬金術師の告げた右の眼から、人間のものとは違うけれど確かに鼓動らしい音が、響いていた。
 一瞬だけ、アレンは、悪魔の顔に赤い眼を見たような気がした。けれどそれは気のせいだったかもしれない。次の瞬間、アレンを抱き寄せる腕は苦悶にはがされ、どす黒い血がレナルトの顔に溢れた。
 レナルトの姿をした悪魔アルンハイムは身をよじり、声にならない悲鳴を上げながら、右眼に突き刺さったナイフを掴もうとする。だがアレンは容赦しなかった。歯を食いしばり、手が悪魔の血潮でどろどろに汚れても、力をこめて悪魔の眼を抉り続けた。
 アルンハイムはよろめき、階段へ逃れようとよろよろと足を進める。アレンの手からはナイフが滑り落ちて、床に転がり、ガキンと硬い音を上げた。
 アレンは呆然と悪魔を見ていた。そうなってもなお、アルンハイムの姿はレナルトのままだった。
「――アレン!」
 階下から、彼を呼ぶ声が聞こえた。アルンハイムは彼のことをそうは呼ばない。イグニシウスをアレンと呼ぶのは、この領土でただ一人、アレンが恋をして、それでも、アレンの親友であり続ける少年だ。背がすらりと高く、色の薄い冷たい目をしていて、髪はくすんだ金髪だった。皮肉屋だが、面倒見がいいから、アレンを見捨てたことはない。情が薄いように思われがちだけれど、大切なもののためには体を張ることができる。だが決してアレンに恋をすることはない。この悪魔の領土でも現実の世界でも、悪魔の狡猾な罠に屈しなかった、強靭な精神の持ち主だ。それがアレンの恋をしている少年だ。レナルト。
 アレンは階段の上に立ち、強ばった顔で見あげるレナルトと視線を交わした。
 アルンハイムの肉体は幻の炎に舐めあげられて、二人のあいだで見る間に消え去っていく。
 遠い場所から声が聞こえて来た。
 ――おお、おお、わらわの愛しい方、アルンハイム!
 少女の悲鳴は、アルンハイムの領土に響き渡り、やがて、鐘の音がとよんでいつかは消えていくように、薄れていった。
 アレンはレナルトに笑いかけた。この上もなく晴れやかな気持ちで胸がいっぱいだった。悪魔は滅びたのだ。アレンの身に降りかかった呪いは消えうせ、地獄との契約は破棄された。アレンもレナルトも、とうとう自由だった。

 アレンが「右だ」と言い残して出て行ったあと、目覚め切らないレナルトは、その言葉の意味を考えることもなく放心していた。アレンが言ったことばはわかるのだが、理解できない。アレンが横たわっていた寝椅子に横たわりなおして、天井を見凝める。
 レナルトはまだ夢の余韻の中にいた。黒髪の少女がレナルトの名前を呼ぶ夢の声が、頭の中に響き続けている。それからゆっくりと、あれは夢ではなくて、実際にアレンが呼んでいた声だろうかと思い直した。
(それでアレンはどこに行ったんだ。……あんな怪我をしたあとなのに。もしかしてまた同じことを、)
 そこまで考えてレナルトは飛び起きた。ようやく、アレンの言葉に合点がいったのだ。
 どうやったのか知らないが、悪魔の魂が宿る眼を錬金術師から聞きだしたのだろう。そして、一人で悪魔を倒しに行ってしまった。
 レナルトはアレンを追って学書棟を出た。アレンの行く先を考えた末に、レナルトも塔へと足をむけた。いくつも建物はあるが、いつだって重要なのはあの塔だったからだ。
 塔の足元まで走って来て、レナルトは高い窓を仰いだ。窓辺には人影がある。陰鬱な顔で景色を眺めているのは黒い髪の少女だった。闇の中であるのに、彼女の指先と頬が蓮の花の色をしているのがわかる。唇はわずかに乾いてひび割れ、まるでだれかの名前を呼ぼうとしているように少しだけ開いている。
 レナルトは慌てて頭を振った。そんな細部が見えるはずはない。
 悪魔がアレンの姿に見えて来ている、という恐怖よりも、自分の夢が漏れだして来ているような錯覚に背筋を震わせた。あれは悪魔ではなく、レナルトが憧れているシャロットの姫君だったら、と気の迷いだと承知しつつも思ってしまう。そうすると、錯乱しそうなほど激しい感情が溢れるのがわかった。
 彼女の名前を呼びたいが名前を知らない。夢の中で彼女のことをアレンと呼んでいるが、彼女がアレンでないことも本当は気づいている。胸の奥底から、思い切り声を出して彼女を呼びたかった。たとえそれで、シャロットの姫君の呪いを呼び覚ましてしまうのだとしても。
 そういえばサー・ランスロットも、レイディ・オブ・シャロットの名前はついに知ることがない。
 アレンの心配をしなければならないのに、レナルトは自分の中に満ちている想いに翻弄されていた。もう一度窓を見あげると、そこにはだれもいない。あたりはまだ暗くて、高い窓の内部が見えるはずもないのだから、たとえ部屋にアルンハイムがいたとしても悪魔の姿が見えるのはおかしい。
 だが、鮮やかで狂おしい彼女のたたずまいが、幻影や妄想だとは思えなかった。
 レナルトは塔の中に飛びこみ、階段を登り始める。すると頭上からは、アレンの声らしい音が伝わって来た。なんと言っているのかは聞き分けられない。だが、追って来た場所は間違っていないのだろう。
 アレンは悪魔と契約を交わしているのだから、殺されることはないだろうが、レナルトは息を切らしながら階段を登る。どうしてこれほど焦り、恐れているのか胸に聞いてもはっきりしないのだが、レナルトは駆け続けた。嫌な予感としか言えない黒い塊が、胸を押しつぶそうとしている。
 すぐに小部屋へと続く入り口が見えた。扉もなく、ただぽっかりと口が開いている。まだ階段の下にいたから、アレンの姿も、悪魔の姿も目には映らない。だがレナルトは切れ切れになる息の中で声を振りしぼった。
「――アレン!」
 と、黒い人影が部屋から現れた。レナルトは目を見開き、よろめきつつ階段を降ろうとする少女を凝視した。長い黒髪は彼女にかけられた呪いのように、美しいが重たい。白く細い手は血に汚れていた。白い顔も同じように血に汚れ、右半分を掌で押さえているが、よく見えないはずの右の眼窩が空洞なのを、レナルトは確かに見ていた。声にならない苦痛の悲鳴を上げて、彼女はレナルトにむかって、血に汚れていないほうの手を伸ばした。細く、しなやかで、薄く蓮華色を帯びた指先は、夢の中で何度もレナルトの手を引いた指先そのものだ。
 あえぎながら彼女は、蓮の花びらのように可憐な唇を動かしている。少女がレナルトの名を呼んだ気がした。それは耳に届かなかったし、レナルトの思いこみかもしれなかったが、レナルト、と呼ばれたような気がした。
 レナルトは階段を駆けあがろうとしたけれど、そうしようと足の筋肉に力をこめた刹那、目の前で青白い炎が噴きあがり、彼女の姿を包んだ。紙が燃え尽きるよりも早く、少女の容貌をした悪魔は灰となり、霧散した。
 階上には、いつの間にかアレンが立っていた。その顔はこの上もなく晴れやかだ。レナルトをか細い声で呼んだあの少女を殺して、アレンの顔は、喜びに溢れていた。
 そしてレナルトもようやく悟った。レナルトはアレンに恋をしていない。悪魔のそそのかす声と、背徳の関係があってさえそれは変わらなかったのだから、未来永劫そういうことにはならないだろう。……レナルトが恋をしているのはこの世に存在していない少女だった。アレンの顔をした、けれども少女の肉体を持ったシャロットの姫君。いつまでも悪魔の呪いが成就しなかったのも道理だ。
 彼女はこの世のどこにも存在していない。ただ、可能性はあった。恋する者の姿で現れる悪魔アルンハイムであれば、レナルトの求める彼女になるかもしれなかったのだ。
 けれど悪魔は彼の前で燃えあがり、塵と消えた。
 階段の上にはなんの痕跡もない。レナルトは眩暈を覚えながら段を登り、アレンと並んだ。
「……やったのか」
「ああ、やったんだ。とうとう、やったんだ。レナルト。俺たちは自由になったんだ。悪魔はいない。これで帰れる。ゲルトルートに帰れる……!」
 アレンはそう叫ぶと、苦しそうに顔を歪め、それから、こぼれだした涙を見せたくないかのようにレナルトに抱きついた。レナルトの肩に顔を埋めるアレンの体からは、彼自身の血と、そしてアルンハイムの血の匂いがした。
 レナルトはアレンを抱きしめながら、もはや主のない領土の空気を吸った。
 呪いから自由になった実感はなかった。喪失感で、だれにも預けたことのない魂がもぎ取られたような気がする。だが、喜ぶアレンを突き放すようなことはできない。彼はレナルトのために魂をかけたのだ。その勇気をレナルトは素直に尊敬していたし、レナルト以上に苦しんで来たアレンが解放されたのを、いいことだと思えないわけがない。
「レナルト……おまえがいてくれてよかったよ、本当に。おまえに出会えて、俺は幸せなんだ。こんなことに、なっちゃったけど、でも」
 服越しでも十分に、アレンの温かみがレナルトに伝わった。
 これからどうなるのだろう、そう思ってレナルトはふと窓の外に視線を移した。いつの間にか、領土は黄昏の明かりに包まれていた。うすぼらけた景色はいままでの毎日となんの違いもなく、本当にアルンハイムがいなくなってしまったのかと問いたいくらいだった。
 アルンハイムの創ったランドスケープ・ガーデンに変化はなく、あまりにも世界はそのままであり過ぎた。アレンはゲルトルートに帰れる、と言ったが、その方法がどこにあるのか、レナルトは疑っていた。悪魔が消え去ったなら、ゲルトルートの塔に戻っていてもいいのではないだろうか。知らない間に、〈シャロットの塔〉からアルンハイムの領土へと来ていたように。
 なのに二人は、相変わらず、悪魔が創った楽園の塔にいる。どこかに帰り道があるのだろうか。どこに? だれがそれを知っていると言うのだ? そう問いかけて、レナルトは俄かに、それを知っている者はいないのではないかと震えた。
 夜の闇よりもなお黒い、どろどろとしたピッチのような恐怖が、瞬く間に胸を塞いだ。テオフラストは可能性だと言ったのではなかったか。魂の宿った眼を抉れば悪魔を倒せるが、それは現実に戻るための可能性なのだと、言ったのではなかったか――
 レナルトは恐怖に目を見開いて、美しい世界を見た。
 少しずつ光は強くなり、ゲルトルートの魂が照らす世界は美しく輝き始める。悪魔アルンハイムが幸福な魂をひとつひとつ並べて創りあげた楽園は、まどろむ乙女のように至福に満ちている。その光はレナルトに恐ろしい予感をもたらしていた。けれどもそもそも時のない世界で予感などありうるものだろうか。過去も未来もないのだから、予感アーヌンクされたものは現実ゲーゲンヴァルトなのではないだろうか?
 アレンの抱擁をといたら、城中を、そしてこの世界中を歩き回ることになるだろう。ゲルトルートに帰還する扉を求めて、どこまで続くとも知れない花園をさまよい続けなければいけない。けれどもし、探しても探しても、帰る道が見いだせなかったらどうなるのだろう。この、時のない世界でどうすればよいというのだろう。永遠にここに閉じこめられて、黄昏の世界で生きていかなければいけないのだろうか。
 そうなったとき、一体いつまで正気でいられるのか。いままでは希望があった。悪魔を倒せば帰ることができるかもしれないという、わずかな希望が。だが、恐怖と共にその希望が消え去ったのだとしたら、なにを求めて生きればいいのだろう。
 アレンの体がずっしりと重い。彼はただ解放された安堵にだけ息をついていて、まだ無邪気に、これでゲルトルートに帰ることができると信じているようだった。けれどレナルトは信じることができない。杞憂かもしれないが、戻り道の心当たりをどうしても思いつかないのだ。
 完璧なランドスケープ・ガーデンに、ゲルトルートへ戻る道が用意されているはずがない。アルンハイムの領土はここだけで完結した、完成された世界なのだ。悪魔がそこに瑕疵を認めるはずがない。アレンも、あの錬金術師も、この庭の幸福な魂となるはずだったのだから、帰り道はそもそも必要ないだろう。この世界でその道を必要とするのは、悪魔に願いを伝えたことがないレナルトだけだ。アルンハイムがレナルトのために、そんな道を用意しているとは思えない。
 悪魔の力があれば違うだろう。二人をゲルトルートから連れ去ったように、戻す術があったに違いない。アルンハイムが滅びてしまったいま、二人は、永遠にこの世界に留まらなくてはいけない。
 窓の外には、霞がかった景色が延々と続いている。太陽の光ではない薄明かりが城と庭とその遠景のすべてをあまねく照らし、魂だった木々や風景のかけらすべてが、喜んで美しさを誇っているように見える。
 あの庭の魂たちは、すべてが幸福だ。無限に咲き続ける枯れない花となり、そのすべての魂が悪魔アルンハイムによって望みを叶えられた魂なのだ。そうして至福の存在となり、望みを叶えた瞬間の幸福を閉じこめたあの庭が、美しくないわけがない。
 レナルトは満ち足りたその魂たちに嫉妬した。
 レナルトに身を寄せているアレンも、その花になったほうがどんなに幸せなのだろう。失われることのない瞬間で閉じこめられたほうが、どれだけ幸せなのだろう。
 どうして悪魔に願わなかったのかとレナルトは胸の内で慟哭した。喪失の痛みに彼は虚脱していたから、声を上げることはできなかったが、魂の底からの深い嘆きに叫びたかった。生まれてからこの方、感じたことのない深い絶望だった。この領土でどんな苦しみを与えられても突き落とされたことのない深淵に、彼はいた。
 こんな結末のなにが、だれのためになったというのだろうか。アルンハイムは身を滅ぼし、アレンはレナルトに愛されることがない。レナルトはと言えば、存在しえたかもしれない恋人を失っていた。
 悪魔に願うべきだった。なんでもいい、どんなに小さな願いでもよい。花園で花になりたいと言うだけでもいい。テオフラストの教えのまま、すべての望みを口にしなかった彼は、結局、胸の内にくすぶる想いを抑えこまざるをえなかった。
 しかしこうなってしまえば、一体だれが彼の望みを叶えてくれるというのだろうか?
 帰ることもできず、彼女を抱きしめることもない。だれもいない、聞く者さえもいないアルンハイムの領土で、この先いったいなにをしてゆけばいいのだろう。生きるということは、ただ無為に幻の中をさまようことではないはずなのだ。
 レナルトは、満ち足りた幸福に焦がれた。もはや手に入れることのできない至福を求めていた。悪魔に願いを叶えて欲しかった。
 どんな小さな願いでもいいのだが、レナルトは、自分が心の底から望んでいる願いがあることを知っていた。
「君に会いたい」
 聞く者のない願いを、レナルトは口にした。だがその声は小さく、傍にいたアレンにさえ届かなかった。ましてや、この世に存在しない幻の乙女の耳元に聞こえるはずがない。失われた恋人への想いに、レナルトの心はどこまでも虚ろだった。
「レナルト?」
 レナルトが何事か呟いたのに気がついたアレンは顔を上げて、レナルトを見た。その顔は、レナルトが恋をしている少女とまったく同じだった。だが、違う人間だ。アレンにとってのレナルトとアルンハイムが違う人間だったように、彼にとって、アレンと彼女は違う。
「なんでもない」
 彼は絶望の中でようやくそれだけを呟いた。
 レナルトが恋をしたあの少女はこの世のどこにもいない、幻の乙女だ。アルンハイムの領土にも、ゲルトルートのある現実にも、存在しない。この世でもっとも彼女に近しい存在であるアレンは、レナルトの腕の中にいた。
 これ以上のなにを望むというのだろうか。
 これ以上の至福がどこにあるというのだろうか。
 なぜいまをしあわせだと思えないのだろうか。レナルトはかぶりを振った。

 古城は常春の花園に囲繞され、窓を開ければ花の匂いが塔の高処まで届いて来るだろう。華やかに植えられた草木の間には、逍遥するための小道が用意されている。その楽園は、そこに棲まう至上の一対のために用意されたのだから、神に愛されたアダムとエヴァがそぞろさまようことができるように、美しい道があるのだ。城も、園も、川も、森も、空を横切る鳥たちも、そのすべてが彼らを喜ばせるためにある。時のない花園では、なまめかしい花弁を開く薔薇がにおわないことはなく、いつも露に濡れていて、枯れた醜い姿を晒すようなことはない。生まれたままの姿を恥じることもない至上の一対は、いつまでも花を見凝めては笑いあい、エヴァの言葉は風に乗ってどこまでも届くだろう。
 ――ほうら、きれいよ。
 御使いによって剪定された潅木は、野生のように乱暴に枝葉を伸ばしたりはしないし、本当に剪定されたみたいに痛ましい断面もない。このアルンハイムの楽園においては、時がなく、従って葉は落ちることがないし、伸びゆくこともないのだ。完全なまま、永遠にこの世界に佇み続けるだろう。
 太陽に似た光は気まぐれで、空の高さに昇ったかと思えばふと姿を消してしまうこともあった。けれども、太陽の光は届かなくとも永遠の楽園に夜は存在しない。
 太陽をかくまう霧は、ときに渦巻き、世界を埋め尽くすこともあった。海中の罪深い都に押しこめられたように、胸の苦しくなる空だ。世界のどこに涯てがあるのか、高い塔の上からでさえ見えなくなる。庭園があるはずの垣根は霧に沈み、小道は一寸先も見えない迷路となる。だがそれがなんだと言うのだろう。アルンハイムの園はこの世界においてただひとつの場所であり、すべてでもある。世界こそこのランドスケープ・ガーデンであって、アダムとエヴァを楽園から追放させる神が存在しないのだから、生垣の外の世界など必要ない。人間たちが追放された曠野などこの世界には存在しえず、ただ肥沃な楽園が続くばかりだ。
 ひとたび光が差せば、滲む黄昏の光の中に、涯てのない遠景が浮かびあがる。
 森の木々は重なり合いながら黒く稠密し、世界を包みこんでいる。遠ざかれば遠ざかるほど、梢の細かさは見えなくなってゆき、そして神秘さは増してゆくだろう。
 うねる丘は影となり、その奥に続く稜線は少しだけ色を失いながら、さらに背景となる赤く柔らかな空に続いてゆく。その色も、山の端の赤さから、天頂にむかうにつれて澄んだ青へと移り続けている。
 あの丘は芝の緑、あの丘は麦の黄金と、色を変えながら、波のようにどこまでもどこまでも風景は広がり、常に涯てを拡げ、遠ざかる。アダムとエヴァが歩いた分だけ遠い景色が目に入り、その分だけ、世界の涯ては遠のき続ける。
 つまりこの世界に本当の涯ては存在しない。世界のすべてが、この庭なのだ。
 森の木々は霧中に枝を伸ばしても、戸惑いはしない。どこに天があろうと、その木々は至福の存在で、この世界にある限り彼らの夢が終わることはない。というのも終わりがないというのは始まりもないのと同義だからだ。永遠とは始まりも終わりも存在しない完全な世界のことを指すのだ。
 時間にも空間にも、涯てもなく境界もない。世界のすべては幸福に満たされている。ただ園になりきれぬ魂だけが、押しつぶされそうな孤独に嘆息していた。
 幸福も悲哀も皆ながら、永遠に終わりを迎えることのない封土――それこそが、アルンハイムの領土ドメイン・オブ・アルンハイムだ。

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