泉のラメイン
《Rameen von Quelle》

 いまは廃墟となっているケルネの城は、足元には波の打ち寄せる浜を持ち、平らに続くかつての領土は、海の潮に浸ってうなぎが採れるばかりだ。これほど貧しい土地はなかろうというほど湿気に満ちた、陰気な土地だった。僅かな高台には暮らせる人間の数も限られているし、眺めているだけでも心の荒む、荒れ果てた風景である。
 しかしこの土地もはじめからこんなに鬱々とした景色だったわけではない。ケルネの城が栄えた頃は、このあたりには肥沃な田園が広がっていたのだという。しかし城から人は消え、それに代わったようにひたひたと潮が這いあがって大地を侵した。その繁栄もいまは見る影もなく、灰色の空の下には生き物の気配が乏しい。
 しかし遠い時代に思いを馳せることは、空想の力を持つ我々にとって難しいことではない。
 ここにひとつの塩辛い泉が湧いている。これもかつては爽やかな清水を湛えた美しい泉だった。野の真ん中にあって、旅人や狩りを楽しむ騎士たちの憩いの場になっていた。空の青さを映す泉の清らかさはこの上もない輝かしさで、傍に佇むだけで心が洗われた。
 晴れ渡った秋の真昼のこと、一人の騎士がこの泉へと足を運んでいた。騎士は水を汲むための桶を手にしていて、彼の背後には大きな天幕が張られている。彼はケルネの若い城主に仕える騎士で、主の狩りの供として野へ出ていた。その一行が休息するというので、騎士マルタンは水を汲むために出て来たのだった。マルタンは銀の甲冑もきらきらしく、兜からこぼれる黒髪も艶めかしい美丈夫である。騎士として城主の信任も厚く、歳が近いこともあって親しかった。この狩りではだれよりも立派な手柄を立てていた。その彼が水を汲みに出て来たのは、狩りの天幕の中で城主があまりにもマルタンを引き立てるのが面映くなったからで、賞賛や羨望、嫉妬の視線から僅かに逃れたマルタンは、泉の清涼な空気を吸って、人心地ついていた。
 彼は泉の前に膝をつき、手桶に水を汲もうとしたところ、はたと傍らに倒れる娘の姿を目に留めた。力なく投げ出された腕は青白い。実りも豊かな秋とはいえ、彼女の着るものはあまりにも薄く見えたし、全身がびしょぬれだった。
 マルタンは胸を打たれて、篭手を外し、思わず青白い少女に手を伸ばした。彼女の肌は冷え切って、生きているとは思えないほどだ。しかしマルタンが触れることで彼女は意識を取り戻したのか、僅かながら呻き声を上げる。
「しっかりしなさい」
 マルタンは彼女を抱きあげた。顔を覗きこむと、金色の髪をした美しい少女なのがわかり、騎士は息を呑む。これほど美しい少女を見たことはなかったからだった。顔を苦しげに歪めながらも彼女は眼を開く。その色は傍らの泉ほどに澄んだ、清らかな青だった。
「いけない――」
 青い唇を震わせて、彼女は呟いた。
「いけないわ、姉さま――」
 うわごとのようななにごとかを囁くのだが、マルタンには心当たりがない。そのまま再び意識をなくした少女を抱きかかえ、マルタンは急ぎ足で天幕へと戻った。狩りの興奮に包まれたままの天幕に、この少女を連れて戻ることは心苦しかったが、いまはそうする他にない。
 葡萄酒があけられ、獲物の肉を食らう大騒ぎが始まっている天幕にひっそりと入ったマルタンは、片隅の毛布の上に濡れた少女を横たえた。その毛布で包んで暖めてやり、葡萄酒を含ませると、少しずつ彼女の身体に温かみが戻って来るようだった。
 やがてうっすらと目をあけた少女は、ぼんやりとした青い瞳でマルタンを見あげた。だれか知っている人と誤解でもしているのか、不躾なほど彼女は騎士の顔を見凝めていた。だがふと我に返ると、顔を赤らめ、弱々しく身を起こした。
「ここは――? あなたはどなた?」
「ここはケルネのご城主の、狩りの天幕です。わたしはご城主に仕える騎士で、マルタンと申します。あなたは泉の傍に倒れていましたが、なにがあったのですか」
「ではここに城主さまはいらっしゃるの? それなら間に合ったのね?」
 美しい少女はマルタンの問いには答えず、彼の肩にすがってあたりを見回した。怯えたような目で無礼講の騎士たちを眺めているが、城主の姿を知っているわけではないらしい。マルタンは城主を指し示して、彼女に教えた。
「あの方がご城主です。なにか御用がおありなのですか」
「用というわけではないの。それに、間に合ったのならいいのよ。ありがとう騎士さま、あなたがわたしを連れて来てくださったのね」
 そう言って少女は爛漫に笑った。先ほどの青白さは夢だったように消えて、頬は薔薇色に輝いていた。すっくと立ちあがりそうになるのをマルタンは慌てて押しとどめた。
「お待ちなさい。ここは狩りの天幕です。あなたがいることがわかると、あまりよくありません」
「どうして。あなたがここに連れて来てくださったんでしょう」
「ここには男しかおりません。皆、狩りのあとで気が立っています。あなたにとってよくないことがあるかもしれない」
「わたしに? そう、心配してくださるのね、騎士さま。でも姉さまたちがいつ来るかわからないわ。そうしたら、みんなだってどうなるかわからないのよ」
 先ほども彼女がこぼしていた言葉がくりかえされて、マルタンは首を傾げた。
「あなたの姉上がなにか?」
「早くこの天幕を引き払いましょう。そうでないと姉さまたちに捕まってしまう」
 彼女が立ちあがろうとするのでマルタンは慌てて強く抱きとめた。少女は苦しそうに顔をゆがめ、騎士を非難した。
「ひどいわ。離して」
「静かにしていなさい」
 そのとき、天幕の外から音楽が聞こえて来た。軽妙だったが決して下卑たものでなく、女の美しい歌声も伴っていて、騒がしかった狩りの男たちもぼんやりとその音に聞きほれていた。
「いけない、姉さまたちよ」
 ただマルタンの腕の少女だけが、その音を聞いて顔を険しくした。
「いったいなんの音だ」
 城主がそう問いかけると、天幕の合わせ目に立っている従者だけが外へと顔を突き出し、見たものを伝えた。
「旅の芸人どものようです。皆軽やかな姿をして、笛や鐘や弦を弾いています。どれも女たちでしょう。それにとても美しい。いれてやりましょう。そうすればこの宴もずいぶんと華やぐのではありませんか」
 そう言うと彼はふらりと天幕を出て行ってしまった。
「いけないわ」
 音楽を聞いて皆と同じようにうっとりとしていたマルタンの腕の中から、少女はするりと身軽に抜け出して、戸口へと走っていた。マルタンは慌てて後を追ったけれども、彼女は従者の一人が出て行ってしまったあとに立ちふさがり、大きく声を張りあげた。
「いけないわ。あの人たちを入れては駄目よ」
「邪魔をしてはいけないよ!」
 少女の声とともに、天幕の外から女たちの声が聞こえた。しかし彼女はなおも首を振った。
「あの人たちを入れては駄目よ。女ならわたしがいるわ。わたしは歌をうたうことが出来る。踊ることも出来るわ。姉さまたちは必要ない。駄目よ!」
 追いついたマルタンは少女の肩を抱き、なんとか止めようとした。どんな事情があるかは知らないが、城主が女たちを入れることを望むとしたら、逆らうことは許されない。けれど彼女は駄目よとわめき続け、とうとう、天幕の外からは悔しがる女たちの声が響いて来た。
「とうとう邪魔をしてしまったね。みんな心地いい気分で連れて行ってやろうと思ったのに、どうして邪魔をするの。あんたのせいで皆苦しんで死ぬことになるよ」
「いけないわ、姉さま。そんなことはよして」
「あんたのせいよ。ラメイン!」
 と、天幕の外にあった旅の女たちの気配はふつりと消えた。それがあまりにも妖異なことだったので、天幕の中は静まり返っていた。少女の身を案じていたのもあるが、さすがのマルタンも恐ろしく思えてしばらく身を強ばらせていたが、やがて、意を決して外を見た。
 広がる平野の彼方にさえ、人の姿はない。もう少し見晴るかそうと天幕を数歩歩いたところで、変わり果てた従者の姿を認めた。石のように干からびた姿となって、彼は息絶えていた。
「これはいったいどういうことだ」
 マルタンのあとを追って来た城主はそう呟いたが、だれの答えを期待していたわけでもないようだ。
「マルタン、君があの娘を連れて来たのか?」
「はい、外の泉で倒れていたのを見つけて連れて来たのですが……」
 二人はすぐに天幕に戻ったが、そこにはあの少女の姿も既になかった。彼女が立っていた場所には水たまりが出来ていたから、そこにいたことは確かだろう。だが影も形もなく、奇妙なことに一堂は身を竦ませた。
 殊に怪訝な顔をしたのは城主のその人で、しきりに首を傾げていた。
「あの声、どこかで聞いたことのある声のように思うのだ。だが思い出せない。なんという不思議なことだろう」

 それから幾日も経ったが、城へ戻ってからもマルタンはあの乙女のことを忘れることが出来ずにいた。彼女にまつわる不気味な出来事も懸念されていたが、なによりも、彼女の美しさにとらわれていた。金色の髪、澄んだ青い瞳、薔薇色の頬が幾度も夢の中にあらわれて、騎士の心を乱した。ただの娘ではないのだろうと思うものの、恋をした心はそれを気にしなかった。
 どうにかして彼女と会うことは出来ないかと思い、マルタンはあの泉のほとりまで出かけた。泉はあの日と同じように透き通り、緩やかに水面を揺らしている。馬を下りてマルタンが歩き出すと、背後でその馬がけたたましく鳴いた。驚いて振りむくとあの乙女が馬の背にまたがり、無邪気な顔で笑っている。馬は興奮して怒り、いまにも彼女を振り落としそうだった。
「いやだ、助けて。騎士さま、早く!」
 呼ばれて彼は駆けより、どうにかして愛馬を宥めた。落ち着いた馬で、こんな風に怒り狂ったのを見たのはマルタンでさえはじめてだった。少女は怯えた仕種で肩をぶるぶると震わせると、息をついた。
「ああ怖かった。あんなに怒るだなんて」
「あなたが驚かしたんでしょう」
「あら、まだ怒っているわ。わたしがあなたの傍にいるから妬いているのよ、あの人」
 彼女は馬を指さしてけらけらと笑う。その言葉がわかるかのように、馬はぶるると唇を震わせた。それから彼女はマルタンを振り返り、微笑んだ。その微笑の柔らかく美しいことといったら、他に比べるものはなかった。マルタンは胸を射られたような衝撃を受け、思わず彼女を抱きしめた。
「ああ、苦しい。苦しいわ、騎士さま。なにをなさるの?」
「今日もあなたは、あなたの姉さまたちとやらを止めに来たのですか」
「いいえ。しばらく姉さまたちは来ないと思うわ。だって、あの城の中にはいまは入る隙間がないのよ。けど姉さまは諦めていないから、いつかは来ると思うの。だからここにいるのよ」
「あなたの名前を教えてくれませんか」
 マルタンがそう言うと、彼女は目を丸くした。
「わたしの名前? どうしてそれが必要なの?」
「あなたの名前を呼びたいからです」
「あら、おかしいわ。あなたがどうしてわたしを呼ぶの?」
 マルタンはその言葉に打ちのめされ、苦しげに呻いた。少女の天真爛漫な微笑みの前にあっては、恋情など大したものではないように思えた。天使のような彼女の前に、騎士は自分がごく卑小で、愚かな男に思えた。ケルネで彼ほど気高い騎士はいないと自負していたのに、この少女の前ではまるで聖母の前に突き出されたような気持ちがするのだった。
「ああでも、あなたはわたしに名前を教えてくださったわね、騎士さま。マルタン。それがあなたのお名前ね?」
 少女の唇が彼の名を呼んだ途端、マルタンはあまりの苦悩にめまいを起こした。耐えようもないほど甘美な響きに変わった彼の名前なのに、それを呟いた人にはいかほどの恋心もないらしいのだ。
「ええ、わたしの名前はマルタンです。どうかそうして名前でお呼びください」
「それならわたしも名前をお伝えしなくちゃいけないわね。わたしはラメイン。泉のラメインラメイン・フォン・クヴェレというのよ」
「ラメイン」
 思い出せばそれは天幕の外にいた女たちが最後に呼んだ名前だった。あまりにも美しい調べだったからなにか知らない祈りの言葉かとでも思っていたのだが、それが彼女の名前なのだった。
「ラメイン」
 名前をくりかえすと、腕の中でラメインは笑った。
「おかしいのね。あなた本当にわたしの名前が呼びたいのね」
 その微笑に心を奪われ、マルタンはとうとう掻き抱いた彼女に口づけをした。唇にえもいわれぬ甘さを感じたのはごく僅かな間のことで、一瞬の後に、ラメインは目を吊りあげて彼の腕を逃れ、強い口調で言い放った。
「なんてことをするの。なんてひどい人!」
「ラメイン、許してください。けれどどうかあなたの美しさに心を奪われたわたしを憐れんでください」
「わたしは姉さまたちを止めるためにここに来たのよ。そんなことをしている場合じゃないの」
「あなたこそ冷たい人だ。それなのにわたしの腕に抱きしめられたというのですか」
「だって知らないもの。あなたがそんなつもりだったなんて! それになんて危ないの。わたしが姉さまたちだったら、今頃あなたの命はないのよ、マルタン」
「口づけだけで命を落とすなんていうことがあるものですか」
「駄目よ、騎士さま! 知らない女に唇を与えてはいけないわ。城主さまのご家来がどうなったか知らないわけじゃないでしょう。姉さまたちに殺されてしまったじゃないの」
 そう言われて恋に眩んでいたマルタンも青ざめた。確かにあの従者の死は、だれにも理解することの出来ないものだった。だれも死ぬところは見ていないのだが、草むらの中に、硬く冷たくなって死んでいた。
「あなたの姉がそれをしたというのですか」
「そうよ。あなたたちには信じられないでしょうけれど」
 そう言うとラメインは悲しげな目になった。
「マチルダ姉さまはお若かった頃の城主さまの恋人だったの。だけど城主さまは身分の高い方を奥方になさったわ。マチルダ姉さまは、それを恨みに思ってあの城を滅ぼそうとなさっているのよ。このあたり一帯をわたしたちのものにしてしまうつもりなの。そんなことは止めなくちゃいけないわ。呪わしい身の上になったわたしたちだけれど、いけないわ」
 マルタンは目を見開き、確かに聞いたことのある名前に驚いた。赤い髪のマチルダは城主がまだ少年だった頃の年上の恋人で、彼が強く入れあげていた女性だった。しかし、彼女は十年も前に亡くなったはずだった。マチルダのことはあまり人に知られていないことのはずだったから、ラメインが知っていることはおかしかった。
「ではあなたの姉というのは亡霊なのか」
「亡霊? いいえ、違うわ。わたしたちはそういうものではないわ」
 目の前にいるラメインはそういう禍々しいものとは思えなかった。美しく、自由で、手に抱きしめることも出来ない太陽の光のようななにかだった。細く柔らかな身体はそこにあって、抱きしめることも出来るのだが、同時に、いくら強く抱いても逃げられてしまうようなのだ。マルタンはその美しさに改めて呻吟し、彼女の足元に身を投げ出した。
「あなたがなんであっても構わない」
「呆れた人ね。姉さまたちは、あの城の人すべてを滅ぼしてしまうつもりなのよ。あなただってそう。それなのにあなたは、わたし一人が欲しいのね!」
「あなたは残酷な人だ。あなたのその美しさは、わたしを惑わすためだけのものだというのですか」
 マルタンがそう言うと、ラメインは沈黙した。あの生き生きとした美しさは一瞬で消え、まるで屍のような静けさの中で、やがて頷いた。
「ええ、そうよ。わたしも姉さまたちと同じ。わたしが美しいのは、あなたたちをたぶらかして、虜にするためなのよ。だからいけないわ。わたしを欲しがっちゃいけないわ」
「ラメイン」
「美しい騎士さま、どうかわたしのことは忘れて! 呪わしい魔女のことなど忘れて! あなたにはお似合いの恋人がどこかにいるはず。泉のラメインのことなど、どうか忘れて!」
 そう言うとラメインは、泉へと身を躍らせた。マルタンはその姿を目で追ったが、泉は少しも揺らぐことなく、飲みこんだ乙女のことなど知らぬげに、静かに水を湛えていた。
 無論、騎士に泉の乙女を忘れることなど出来ようもなかった。人ではないと知ったところで懊悩は深まるばかり、時間が許せば泉まで足を運んだが、ラメインには出会えなかった。だというのに、泉の傍に佇めば、背後にラメインの気配があるように思われるのだ。振り返るとだれの姿もないのだが、マルタンは胸を掻きむしってラメインの名前を呼んだ。
 泉のしぶきが飛び跳ねると、その響きはまるでラメインが最後に言った言葉に聞こえる。「ラメインのことはどうか忘れて!」そう耳にするたびに、彼の心の中でラメインはより美しく輝くのだった。

 さてケルネ城下ではなにごとも起こらぬ風であったが、ある日のこと、漁師が美しい真珠を手に入れたというので城主の奥方の元に参上した。それは丸く大きな真珠で、眺めているだけで虹色の光があたりに浮かびあがるのがわかった。真珠を気に入った奥方はたいそう喜んでそれを買い取り、夫にむけて自慢げに見せびらかした。これをつけて着飾った姿を夢見ると彼女は至福のきわみに到るほどだったが、政略結婚で城主が妻としたこの奥方は醜女だった。彼は辟易しながらもその真珠を指差して言った。
「昔ある人から聞いたのだが、真珠というのは呑むと美しさに効くのだというよ。その人はとても美しい人だったから、真珠を呑んでその美しさを手に入れたに違いない」
 美ではもとろうとも奥方は勘の鋭い人だったので、それを言ったのがかつて夫の恋人だった女だろうということを察知した。激怒した奥方はその場で大きな真珠をわしづかみにして飲みこんだのだが、その真珠が喉につまり、苦しみも掻いて亡くなってしまった。
 それからのことだ。ひたひた、ひたひたと海の潮は少しずつ城に迫って来るようになった。はじめはただ波が高いだけかと人も気がつかぬほどだったが、やがてはっきりと、国は海に飲まれようとしていた。漁に出た船は一隻一隻とそのまま沈み、帰ってこなかった。人々はなにか恐ろしいことが近いうちに起こると感じてはいたが、どうすることも出来なかった。
 マルタンが再びラメインと出会ったのはその頃のことだった。城の中庭にある噴水の傍に、彼が思って已まない乙女が腰を降ろしていた。その姿を見かけたマルタンは、自分がとうとうおかしくなったのかと疑ったが、彼女は幻ではなく、マルタンを見かけるとにわかに立ちあがった。
 泉のしぶきが「ラメインのことは忘れて!」と囁く度に魂を削られるような気分だったマルタンは、待ち受けている彼女の元に歩み寄ることが出来なかった。彼女は彼にとって愛しい人だったが、ラメインにとってはそうではないのだ。しかしラメインの青い瞳はしかと彼を見凝めている。十分にためらったあと、まるで幽鬼に誘い出されるように、マルタンはおぼつかない足取りで噴水へと歩き出した。
 ラメインは白い手を組み合わせて祈るようにマルタンを見続けている。マルタンが目の前に立つと、彼女は青い眼をとよめかせて微笑んだ。
「なんて青い顔をしているの、騎士さま! きっとこの湿気が悪いのね。もうこの城の土台を腐らせているんだわ」
「ラメイン、なぜここにいるのですか」
「姉さまたちを止めるためよ。そのためだったらわたしはなんでもするの。だから騎士さま、どうかわたしに手を貸して!」
「わたしに一体なにが出来るというのです」
 ラメインはその白い手を伸ばして、マルタンの手を握り締めた。それだけのことで、恋の病に衰えていた彼の心臓は激しく脈打ち始めた。ラメインが言う城の滅びをどうにかしたいと望むよりも、ラメインの望みをかなえるためにならなんでも出来るという思いで、胸の奥から活力が湧いて来る。
「城主さまの奥方が亡くなったでしょう?」
「ええ、たいそう痛ましい事故でした」
「それは事故じゃないのよ。姉さまたちがしたことなの。ねえ、奥方が喉を詰まらせた真珠はどこにあるの? それが必要なのよ。城主さまが持っていらっしゃるのかしら?」
 マルタンには心当たりがなかった。わからないと応えると、ラメインは髪を揺らした。
「お願い、あれを探してくださる? 騎士さま。城主さまがそれを持っているのならばいいの。けど、持っていなかったら大変だわ」
「あなたがそれを必要だとおっしゃるのなら、探しましょう」
「ありがとう、騎士さま。早くよ。一日でも早くよ。姉さまたちの怒りがとても強いの。どうかあなたのためにも、この城のためにも、早く!」
 そう言って微笑むと、ラメインは噴水の中へと姿を消した。それはもうマルタンにとっては妖異なこととは思えない。噴水はしばらくの間高く水を噴きあげて、麗しい音楽を奏でるように水滴を振りまいた。飛沫の中に虹の輝きを見て、それがまるであのラメインの影のように見えた。
 マルタンは友でもある城主を訪ねた。ずっと塞いでいた騎士がやって来たことに城主も喜んで、彼に椅子を勧めた。城主は奥方が亡くなったことに憂いを覚えていたものの、世もなく嘆き悲しむというわけでもない。運が悪かったのだと奥方の死を過去のことにして、城主としての勤めを黙々と果たしていた。
 だからマルタンが、奥方の命を奪った真珠の話を始めると、不快な顔もせず、むしろ好奇心を丸出しにして、どうしてマルタンがそんなことを気にするのかと問いつめて来た。
「実はあれは、もともとはある乙女の持ちものだったのです」
 ラメインはそれをマチルダのものだと示唆していたが、まさかそんなことは言えない。だからマルタンはそれをラメインのものだと偽って、話をした。
「ところがひょんなことで手放してしまい、探していたというのです。噂に聞けばあの方は亡くなったときに真珠を喉に詰まらせたとかいうことで、それが彼女の真珠ではないかと思ったというのです」
 城主は人の悪い笑みを浮かべ、騎士の肩を抱いた。
「なるほど、おまえはその乙女に真珠をさしだして、気を引きたいというわけだ! おまえのような騎士にそう思われる幸せな乙女はいったいどこのだれなのだ?」
「お許しください。決してそんなつもりではないのです」
 マルタンはラメインの気を引けたらいいと願っていたが、その真珠のためにラメインがマルタンの情熱を受け入れることがあるとは思えなかった。彼女は以前、あれほど強くマルタンを拒んだのだ。
「そんなに気難しい人なのか。それはますます気になるじゃないか」
 しかし、と城主はやおら顔を曇らせた。
「あの真珠だが、喉を裂いて取り出すのもあわれだと思って、そのままにして葬ったのだよ」
 さすがにラメインのためとはいえ、墓を暴くのは気が引けた。それでは仕方がないと肩を落としたマルタンだったが、夜半、人通りも途切れた月明かりの下で、気がつけば海辺にある墓地へと足をむけていた。墓地の土は重たく湿っていて、踏み出すと地面から冷たい水が染み出し、深々と足を飲みこむようだった。海辺であったから水気は多かったものの、以前は決してこのような場所ではなかった。目を凝らせば墓場はどれほど放り出されていたのだろうと思えるほど荒れ果てている。何度か潮が覆ったのだろう。ひどいものは墓石も傾き、棺は泥の中から顔を出していた。
 記憶を頼りに彼は奥方の墓の前に立ったが、その墓も、波によって暴かれている。恐ろしいことと知りつつ、白い木の棺の隙間に剣の鞘をねじこみ、こじ開けた。棺の中は、どこから入りこんだのか既に海の水でいっぱいだった。奥方の亡骸はその中で腐り果てていて、白い骨ばかりがぷかぷかと浮いている。おぞましさに震えつつも、マルタンは恋する男の勇敢さでその中を手探りにして、とうとう求めていた真珠を手にした。
 水の中から彼が真珠を引き揚げようとしたとき、藻が絡みつくような感覚を覚えて騎士は自分の腕を見た。すると恐ろしいことに、肉の削げた白い骨の手が、しっかりと彼の腕を捉えているのだった。その指にはめられた指輪を見れば間違いようもなく、それは死んだ奥方の手だった。
 マルタンは悲鳴を上げようとしたが、声が出ない。すると目の前で奥方は骨となった浅ましい姿のまま、身体を起こした。
「なぜあたしを呼んでくれないの。なぜあたしはあの人たちの仲間に加えてもらうことが出来ないの。あの女たちは水の中を好き勝手に行き来してるっていうのに、どうしてあたしが棺桶の中で腐っていかなくちゃいけないのさ!」
 しゃれこうべががたがたとがなり、マルタンの腕をいっそう強くつかんだ。
「離してくれ」
「マルタン、あんたからも言っておくれよ。泉の乙女とはいい仲なんだろう。なんであの娘は許されて、あたしは許されないのさ!」
 すると、マルタンの背後から美しい女の声が響いた。
「それはあんたが美しくないからよ。わたしたちはこの美しさで男たちをたぶらかして、その命を啜って生きているの。あんたなんかの誘惑じゃあだれもたぶらかされやしない。諦めてとっととあちら側へ行っておしまい! そんな醜い身体にしがみついてたって、だれもあんたを迎えに来やしないよ!」
 するとそれが破邪の呪文だったかのように、骨は崩れ、水を湛えた棺桶の中に消えてしまった。マルタンは青ざめた顔で背後を振り返り、そこに佇むひとりの女の姿を認めた。燃えるような赤い髪と緑の瞳をした美しい女だ。十年前に死んだときといささかの変わりもない、マチルダだった。あの頃は城主にとっても騎士にとっても憧れる年上の女性だったが、十年の歳月が経ったいまは、実につりあいの取れる年頃に見えた。
「マチルダ、本当にマチルダ殿なのか」
「マルタン、あんたはどうしてその真珠を探しに来たの? いいのよ、知っているわ。あの子に言われたのでしょう。金色の髪をした、澄んだ泉のような目をしたラメインに! けどそれはわたしの真珠なのよ。それなのにラメインに渡してしまうの? ……それにしてもマルタン、あんたはなんて勇ましくて美しい騎士になったことでしょうね。あんたの息吹はさぞやおいしいのでしょうね?」
 マチルダは白い手をマルタンの頬に滑らせ、身を寄せたが、冷たい吐息を感じた彼はマチルダを乱暴に突き放した。にわかに心臓が飛びあがり、険しい顔で睨みつけて来るマチルダに震えあがらずにいられない。マチルダはたおやかな乙女の姿をしているだけだというのに、百人の騎士と戦うよりもマルタンは怯えた。
 と、マチルダは嫣然と微笑み、ちらりとケルネの城を見た。
「まあ、いいわ。その真珠ひとつでなにが出来るわけでもない。あんたがあの娘のためにそれが欲しいというのであれば、構わない。命拾いをしたわね、マルタン。わたしが欲しいのはあの人だもの。あんたの命はラメインに預けましょう」
「マチルダ」
 マチルダはマルタンの呼びかけに応えることなく、ラメインと同じように、すぐ傍まで打ち寄せる波の中に身を躍らせると、そのまま行方はわからなくなってしまった。

 騎士は青ざめながらも部屋へ戻ると、真珠を抱えたまま、恐ろしさに熱を出して早々に眠ってしまった。
 ケルネの城は夜が深まるにつれてますます潮騒に包まれ、波はひたひたと忍び寄って来ていた。城門にはひとりの金髪の乙女が立ち、近づいて来る波を物憂げに見凝めている。
「駄目よ、姉さまたち」
 泉のラメインは波間へとむかってそう告げた。
「こんなことをしては駄目よ」
 海からは嘲笑が響き、女の声が雄たけびを上げる。
「そこをどきなさい、ラメイン。今夜でもうおしまいにしてしまいましょう。その門を開けて頂戴。そしてこの波の中に男たちを溺れさせてしまおうじゃない。ラメイン。あんただってそうしたいはずよ。あんただって、男たちの命が欲しいはずよ!」
「だからって滅ぼしちゃいけないわ」
 ラメインは首を振り続けた。しかしラメインの背後で閉じているはずの城門からは、どんどんと人の手で門を叩く音が聞こえて来た。波と女たちに引き寄せられた城内の人間たちが、酔い痴れた表情で集まって来ているのだった。その音は次第に高まり、ラメインは耳を押さえてうずくまった。
「お願い、やめて、姉さまたち」
「見知らぬ男たちなど気にするのはやめてしまいなさい。いいじゃないの、泉のラメインの恋人は、今夜はあの真珠を抱いて眠ってる。彼は死にはしないわ! あんたのために、それくらいはとっておいてあげる!」
「わたしの恋人? それはいったいだれのことなの。泉のラメインに恋人なんていないわ」
 ラメインの傍らには、赤い髪をした美しいマチルダが立っていた。
「あんたが真珠探しを頼んだ美しい騎士さまのことよ。だからそこを開けて、ラメイン。わたしがわたしの恋人のもとへ行くのを阻まないで」
「駄目よ、城主さまが亡くなったらケルネは滅びてしまうわ」
「けれどこの城の城主がわたしの恋人なのよ」
 ついに城門は、内側から開け放たれてしまった。ふらりとした足取りで、男たちは波間へと飲まれてゆく。佇む乙女たちの腕に抱かれて一瞬は夢心地の笑みを浮かべるが、その腕にだかれ、水中へ絡め取られてゆくときに地獄の試練もこうまではという恐怖を与えられるのだった。女たちは麗しげに微笑みながら、一人一人の命を奪い、喜んでいた。
 ラメインは城門が開かれると中へと走りこんでいた。真珠を探した彼女は騎士の姿を求め、早々に彼の部屋に辿り着いた。だが騎士は熱にうなされて目を覚まさず、その掌にはマチルダの真珠がしっかりと握られている。
 マチルダの真珠さえあれば、魔女たちの誘惑に負けることはなかった。だからこそラメインはその真珠を城主の手にと思っていたのだが、いまここで騎士から真珠を奪うことはためらわれた。その真珠を取りあげてしまえば、マルタンは波から聞こえる歌に抗うことは出来ず、命を落としてしまう。それを思うと、とてもではないが出来なかった。不意打ちで彼女を抱きしめ、口づけた彼の情熱を思うと、ラメインはためらってしまった。
 そうしている間にもいよいよ波は高まり、ラメインは真珠を諦めて再び駆け出した。城の天辺にある城主の部屋へと階段を駆け上がり、いましも部屋を出ようとする城主と出くわす。
「行っては駄目よ。死んでしまうわ」
 ラメインは必死に叫んで城主の腕を掴んだが、彼はうつろな瞳でこう繰り返すばかりだった。
「そんな傍に来ているんだね。わたしのマチルダ!」
「違うわ、マチルダは死んだんでしょう。駄目よ」
 しかし城主は聞く耳を持たず、階段を一段一段降りてゆく。ラメインはしがみつくけれど、留めようがなかった。階下からはマチルダの歓喜の声が響いて来る。
「そうよここへ来て、あなた。ずっと待っていたのよ。あなたを待っていたのよ」
「やめてマチルダ姉さま、呼ぶのをやめて!」
「あんたの声はわたしの恋人の耳に届かないよ、ラメイン! 真珠がないのなら止める方法はたったひとつしかない。それがあんたに出来るというのならやってみるといい。あんたの恋人を裏切って構わないというのなら! あの騎士に恨まれ、嘆かれ、蔑まれてもこの城を滅ぼすのがいやだというのなら!」
「あの人はわたしの恋人なんかじゃないわ。あの人には魔女なんて似合わない。あの人は恋人じゃないわ!」
「それならやってみたらいい。ラメイン、あんたに出来るのならば!」
 進み続ける城主に引きずられていたラメインは、背を伸ばして城主の唇に口づけをした。震えながら押しつけられた唇に彼は瞬きをして、いきなり目の前にラメインがあらわれたとでもいうように驚く。憂いに満ちた青い瞳に魅入られて、彼は思わず尋ねた。
「君は何者だ?」
「わたしの名前はあなたには必要ないわ、そうでしょう? だってわたし、あなたの名前を知らないんですもの」
「美しい瞳だ。まるで澄み切った泉のようだ」
「ねえ、部屋に戻りましょう。わたし、あなたを抱きしめなきゃいけないの」
「どうして?」
「姉さまたちが呼んでいるからよ。さあ、早く!」
 ラメインは城主の手を引き、彼の部屋へと戻った。そこでラメインが再び唇を重ねると、城主は、わけもわからぬうちにマチルダに引き寄せられていたのと同じように、わけもわからぬうちに乙女の身体をその腕に掻き抱いていた。

 マルタンはその夜にあった惨劇に気がつくことなく眠っていたが、翌朝、まだけだるさを感じながら目を覚ました。しかし城内は閑散として、昨日と同じ城とは思われない。なにがあったのかわからないで歩き出したのだが、城門のところまで来て、その足元に波が揺れているのに彼は青ざめた。道や野は波に覆われて、城は海中に取り残されていた。
 慌てて引き返し、城の中を巡り歩いたが、特に男はほとんど残っておらず、女たちもさして多くは残っていなかった。不思議なことに、男で生き残ったのは妻を持っている者だけだった。昨晩なにがあったのかをだれも知らなかった。恋に病んでいた騎士の心もようやく目を覚まし、超自然の力が、城を滅ぼそうとしているのをまざまざと感じていた。
 騎士は城の階段を昇り城主の姿を求めた。眠りこんでいる間に、友人でもある城主さえ消えてしまっていたら、悔やんでも悔やみ切れない。
 部屋の扉を叩いて、彼は主が返事するのを待った。しばらくすると、「一体だれだ?」という城主の返答が聞こえて来て、マルタンは胸をなでおろした。
「マルタンです。どうかこの扉を開けてください」
「入って来るといい。どうかしたのか?」
 マルタンが蒼白な面持ちで部屋に入ると、城主はなにも気づかぬ風で寝台に身を起こしていた。のん気なことだと騎士は苦々しく思ったけれど、城主にとっては無理からぬことだった。というのも、昨晩は天から降りて来たような美しい乙女を腕に抱いて眠りに落ちたのだから、いつまでも暖かな夢の中にいたいと願うのは仕方がない。
「海の水位が上がり、この城はすっかり水に取り囲まれています。城の人間たちもどこへ行ったのやら、ほとんど残っておりません。わたしは昨晩、熱にうなされて眠りこんでしまっていたので、なにがあったのやら見当もつかないのです」
「昨日のことか? なにを言っている、マルタン。そんなことがあるはずがない」
「窓から外を眺めてください。わたしの言っていることが間違いでないとすぐにわかります」
 そう言われて城主は窓辺に近寄り、見える景色に言葉をなくした。高い城の天辺からは、あたり一面の海が見えるばかりだった。
「これはなんということだ」
 城主は急ぎ足で寝台へ戻ると、不思議な乙女の顔をのぞきこんだ。くたびれて眠り続ける乙女の顔を見て、マルタンははっとした。それは見間違うはずもない、彼の恋するラメインだった。どうして彼女がこんなところで、しどけない様子で眠っているのか、マルタンには受け入れがたかった。しかしそれが示すところはたったひとつしかなく、昨日触れられたばかりの手が熱く焦げつくように感じた。心臓は煮えたぎり、このまま死んでしまえたらなんて幸せなのだろうと、彼はうつろな瞳で考えた。
「起きるんだ。君はこうなることを知っていたのか」
 肩を揺すられてラメインは、相変わらずこの上もなく澄んだ青い瞳を開けた。
「ああ、痛いわ、揺すらないで。身体中が痛いのよ」
「この城はいったいどうなってしまったというのだ」
 ラメインは身体を起こし、彼女も部屋に騎士が佇んでいるのに気がついて青ざめた。城主に構うことなく、うつろな瞳で彼女を見つめるマルタンを見凝め返した。その純粋さにはいささかの曇りもなく、そのためにかえってマルタンは傷つけられた。
「この人はいったいだれなんです」
 マルタンは思わず城主へむかってそう尋ねていた。
「わたしの見も知らぬ恋人を、いつ部屋に連れて来たのですか」
 不品行をたしなめられていると思ったのか、城主は決まり悪そうにため息をついた。
「昨日の晩のことだ、わたしはこの上もなく甘美な夢を見ていたんだ。マルタン、おまえは、わたしにかつて美しい恋人がいたことを知っているだろう。あの妻と結婚することになって、心苦しくも離れてしまったマチルダだ。十年も前に亡くなってしまったその人の夢を見たんだ。あの頃と変わりもなく美しい、気高い、月の女神のような姿だった。それでわたしはぼんやりとしていたのだろう。気がつけばこの乙女がわたしに接吻をしていた。どこからどこまでが夢なのかもわからないのだが、もしかすると、彼女はわたしの夢から出て来た人なのかもしれない。ただわたしは彼女の手に引かれるまま彼女を抱きしめ続けた。その歓喜といったら、マルタン、おまえにも理解しがたいだろう! こんな夢見心地で女を抱いたことはいまだかつてないくらいだ。欲望とはいえないえもいわれぬ法悦の波に飲みこまれて、わたしは我を忘れてしまった。あまりの心地よさにすべて夢だろうと思っていたのだが、朝こうして目覚めても彼女はここにいる。ときめく胸の高鳴り以外に、わたしが彼女のことを知ることはないのだよ」
 その告白を、城主とはさかしまに、マルタンは胸が張り裂けるような思いで聞いていた。
 城主は決して好色な男ではなく、結婚のために美しいマチルダと別れて以来は、不服ながらも醜い妻に誠実に仕えていた。その奥方が亡くなっても、新しい妻を見出すでもなかったのだから、ラメインのように美しい乙女に誘惑されて、傾いてしまったのは彼に非があるのではない。マルタンもそれをわかっていたからこそ、ラメインを憎んだ。結局、ラメインがマルタンを拒んだのはこういうことだったのだ! 騎士ではなくその主たる城主の恋人になろうとしていたのだ。
 マルタンは城主の肩を掴み、首を振った。
「そのすべては夢ではありますまい。わたしも昨日、あのマチルダ殿とお会いしました。十年前と変わりのない、美しい姿で。彼女は忌まわしい魔女に成り果てているのです。おそらく、この城が滅びようとしているのも彼女の姦計なのでしょう。そしてこの娘もまた、同じ妖魔の仲間なのです。マチルダを姉と呼び、あらわれるべきでないところにあらわれ、水の中に姿を消すのです。御覧なさい、この美しさ! この美しさこそ、わたしたちの心を惑わし、狂わせる彼女たちの武器なのです。騙されてはなりません」
「急になにを言い出すのだ、マルタン」
「そうでなければ、この異変の夜に限ってこの娘が現れたことの説明はつかないではないですか」
 二人の男の不審なまなざしに射られて、ラメインは白い肩を震わせた。
「ひどいわ、騎士さま。わたしが姉さまたちの味方じゃないってことはあなたがご存知のはずではないの? ひどいわ、騎士さま」
「おまえのその言葉をこの朝までは信じていた。だが今朝はもう信じることは出来ない。呪われた魔女だと名乗ったのはおまえ自身だろう! さあ消えうせろ。そしておまえの仲間たちに、おまえの企みが失敗したと許しを乞うがいい。ケルネの城主を惑わせたはものの失敗したと言うがいい!」
「ひどいわ。城主さまの命を引き止めるためにはこうするしかなかったのよ。そうでなければ、昨日の晩に、この人の命はマチルダ姉さまのものになっていたのよ。あなたたちはもうこの城から逃げなくちゃいけないわ。もうこの土地はわたしたちのものになってしまった。このままじゃみんな死んでしまう」
「それがおまえの望みでもあるのだろう。ここから消えてしまえ、姿ばかり美しい妖魔め!」
 ラメインは泣きながら部屋を飛び出し、マルタンはそれを追った。城門の傍で追いついた騎士は、懐から取り出したマチルダの真珠を、ラメインにむかって突き出した。
「さあこれを持って行け。そして二度とこの城に近づくな」
「いいえ、この真珠ばかりはあなたが持っていて」
「これをまた更なる災いの種にしようというのか?」
「いいえ、違うわ。この真珠を持っている人には、姉さまたちの声は聞こえないの。だから、呼ばれることはないわ。そうでなきゃ、女の人を腕に抱いていない限りは姉さまたちの声には逆らえない。お願いよ、騎士さま。どうかそれを持っていて」
「信じられるわけがない。持って行かないというのであれば、これは海に投げ捨ててやる」
「どうかそれだけはやめて。遠い場所に逃げるまで、それだけは捨てないで。この城からずっと遠くに離れたら捨ててしまっていいから! どうかお願い。それだけは捨てないで」
 ラメインは必死になって懇願し続けたが、騎士の心は憎しみで満ちていた。
「どうしておまえの言うことを信じられるんだ。わたしに微笑みかけて気を引いておきながら、あんな裏切りを見せつけるとは! わたしに取り入ったのはご城主の恋人になるためだったのだろう。そのためにわたしの傍にまとわりつき、その美しい顔で惑わせたのだろう」
「そんなんじゃないわ。わたしだってあんなことはしたくなかった。けどそれしかなかったのよ。とても痛かったの。それなのにどうしてそんなことを言うの。どうしてそんなにお怒りなの!」
「どんなことを言われても許せそうにない!」
 マルタンは懊悩を吐き出して嘆いた。ラメインはとうとう諦め、波の中へと姿を隠した。

 海に囲まれた城から逃げ出す手立てもなく、ケルネの城に取り残された人々は次になにが起こるのかと恐怖に震えて一日を過ごした。消えてしまった男たちが戻って来ることもなく、たださざなみが、城壁に打ち寄せているのが見えるだけだった。
 夜になっても、だれも満足に眠れそうにもなかったが、マルタンはいつの間にかうとうとと眠りに落ち、夢を見ていた。いつぞやの泉を遥かに高い場所から覗きこんでいる夢だ。泉の底では金色の髪の乙女が痛い痛いと泣いている。マルタンは夢の中でこの上もなく哀れな気持ちになって、乙女の名を呼んだ。しかしその名前は響きになることがなく、水底のラメインには届かない。
 騎士が胸の痛みに目を覚ますと、枕元には美しいマチルダがいた。潮騒はうるさいほど城を十重二十重に包みこみ、すっかり海に沈んでしまったかのようだった。マチルダの落とす不吉な影に、マルタンは手にしていた真珠を強く握った。
「裏切られてもまだ真珠を持っているのね、マルタン。あんたはどんなにあのラメインを憎んでいることでしょう。穢れを知らないような青い瞳で、簡単にあんたを裏切ったんですから。あの人は夜明けまであの子を離さなかった。あんなに美しい、愛らしい乙女が身を差し出して来たんだから、それも仕方ないわ。けどラメインを悪く思わないで欲しいの。だれにでも抱かれる売女というわけじゃないのよ。あの子もわたしと同じで、美しいまま、若いまま死ななければいけなかった。あんたがラメインと出会った泉があったでしょう! あの子はあそこに墜ちて死んだのよ。水の底に沈んでゆくあの子は、まるで蒼穹へ飛び立つ天使のようにとても美しかったんだから! とても健気な子なのよ。本当はそれをわかっているんでしょう? 愛していたあんたにあんなふうに言われて、もう泉が潮辛くなっちまったわ。なんてかわいそうなんでしょうね。あんたはこの地を逃れて遠くへ行けば、そこで巡り合った娘と恋をして、可哀想なラメインのことなんて忘れるでしょうけど、ラメインはこれからの長い長い呪われた命を、ずっとあなたに蔑まれたことを嘆いて暮らすのよ。なんて可哀想なんでしょうね!」
「あなたはこの城を滅ぼすほど、ご城主に捨てられたことを恨んでいたのですか」
 マルタンはラメインのことを振り払うように、そう尋ねた。
「そうじゃないのよ。滅ぼしたいわけではないの。ただわたしはあの人が欲しいだけなのよ。それだけ。どうしてなのかは聞かないで欲しいわ。わたしは人間ではないの。マチルダはあなたも知る通りの魔女なのよ。だから愛しいあの人が欲しいだけなのよ。その点では、わたしだってあんたたちと変わりがない。あんただって欲しかったのでしょう。泉のラメインが、そのすべてが! ちっとも変わりがないわ」
 マチルダはそう言って微笑み、やおら声を潜めて、マルタンの耳元に囁いた。波が打ち寄せる音の中にわずかに、マチルダの声が響く。
「あんたがラメインともう一度会いたいと願うのならたったひとつ方法があるわ。その真珠を捨ててしまえばいいの。そうすれば、あんたはラメインに会える。その代わり、あんたの命と引き換えよ」
 それはマルタンの耳の中に滑りこみ、心臓にまで打ち寄せる波の音だった。はっとして騎士がマチルダを見あげると、彼女は部屋を出て行くところだった。開け放った扉からはさやかな月の光が白々と降り注ぎ、赤いマチルダの髪を燃え立たせ、白い肌を輝かせていた。
「わたしはこれからあの人に会いに行くわ。今夜は身を挺してあの人を護る乙女もいないから、わたしの声もあの人に届く。マルタン、あの子の声が聞きたいのならその真珠を捨てることよ」
 マチルダの真珠は、騎士の手の中で七色の虹のヴェールに包まれ、柔らかく輝いている。
 ラメインともう一度会いたいのか? そう問われれば答えはひとつしかなかった。あの美しい乙女にもう一度会いたい。あの白い手に抱きしめられて、甘い香りを吸いこみたい。命を落としてもいいのか? そう問われても答えはひとつだった。マルタンは部屋を駆け出し、城門へと降り来た。波間では魔女たちが笑いながら手招きをしている。その中にラメインの姿は見つけられなかったが、彼はラメインの名前を呼んだ。
「ラメイン!」
 泉の乙女は呼びかけに応えない。ただ、だれか女たちのひとりがこういうのが聞こえたが、それは波の跳ねる音がそんな風に聞こえただけかもしれなかった。
「ラメインに会いたいのならばその真珠を捨てなければならないよ!」
 彼はいま一度、大きな真珠を見凝めた。手放すことが彼の心臓を止めるとわかっていても、どうしてもラメインに会いたかった。マルタンは大きく振りかぶって真珠を海へと投じた。すると、城を取り巻いている潮騒が倍の騒がしさで鳴り響き始める。波が立てる音だけでなく、歌うように呼びかけて来る女たちの声が、彼を包んだ。それは決して恋心を煽るようなものではなくて、むしろ、ずっと昔になくしてしまった故郷に待つ、なにかとても懐かしいものの呼び声のようだった。騎士は誘われるままにふらりと身体を海中に投じた。
 優しく囁く女たちの声の中に、たったひとつだけ、とても悲痛に満ちた叫びが聞こえる。おかしなことに、それこそがいま彼の最も聞きたい声なのだ。安らぎを乱すその悲鳴こそが、マルタンの願ったものだった。
「やめて、姉さまたち。お願いだからやめて。あの人を呼ぶのはやめて。お願いだからやめて!」
 水底に沈んでゆくマルタンの身体を、金色の髪の乙女が抱きとめた。
「どうして真珠を手放してしまったの。やめて。姉さまたち、お願いだからこの人を呼ばないで! どうして真珠を手放したの、マルタン!」
 そう言ってわななくラメインの頬に触れ、騎士は海水に押しつぶされる苦しさを堪えながらラメインに口づけた。
 ラメインの腕の中で騎士の身体は冷たくなり、やがて、ものも言わなくなった。その亡骸を掻き抱きながら、ラメインはなおも叫んだ。
「どうしてなの。この人の命はわたしに預けてくれると言ったじゃないの。それなのにどうして呼ぶの。どうして死んでしまったの。だれでもいいから教えて。どうしてこの人は死ななければいけなかったの!」
「それはラメイン、あんたが呼んだからよ!」
 姉たちの言う声にラメインは顔をあげた。暗い海の底で水よりもさらに青ざめながら、ラメインは周りを取り囲む仲間たちの声を聞いた。女たちは一様に悲痛な声で、ただ事実だけをラメインに教えた。
「わたしたちはだれも呼んでいない。美しい騎士を呼んだのは他ならぬあんたなのよ。マチルダがあの城の城主を呼んだように、ラメイン、あんたがマルタンをここへ呼んだのよ! だからこそ騎士はあんたの胸の中で冷たくなっているのじゃないの!」
 ラメインはマルタンを掻きいだき、その胸に顔を伏せて慟哭した。

 こうしてケルネの城にはだれもいなくなり、海に囲まれた城へ近づく者も絶えてなかった。しばらくすると波は引いて、いまのような泥の沼地が続く景色が作られたが、潮をかぶった泥の中に育つ植物はなく、生き物の気配も見られない。ただ崩れかけたケルネの城だけが、かつてこの地に人が暮らしていたということを教えてくれる。
 ラメインの泉と呼ばれるその泉は、城からしばらくの場所にあり、いまも潮辛い水をこんこんと湧き出させている。あたり一帯が潮の泥沼だといっても、海水が湧き出ているのは珍しい。一説によると、泉の奥底では、いまもラメインが恋人を抱いて涙を流していて、それが泉の水を潮辛くさせているのだということだ。

《終》 《back : TEXT LINUP》
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