おはなしの終わり
(from SHI-KI)

 死神が行進を始めた。高らかに殺戮のラッパを吹き鳴らしながら死が外場を覆い尽くす。もう進みはじめた彼らの行進は止まることがない。殺して殺して殺し続けるだけだ。すでに死神は最初のいけにえを選び、その噴出した血が、人間たちを狂わせていく。
 森の影から、走り回る人間たちを見下ろして夏野は思う。屍鬼はもうとっくに死んでいるのだから、彼らを追いまわしているのは死神などではないのだろうか。だとしたらなんだろう。杭を打ちこまれた屍鬼たちに訪れるのは死なのか、死でないのか。もし村人たちを突き動かしているものが死神でないとしたら、それは秩序と呼ぶべきものか、混沌と呼ぶべきものか。
 だれも夏野の問いには答えてくれない。
 彼は頭を振り、村を覆う死を背に歩きはじめた。
 夏野の役割ももうすぐ終わる。屍鬼たちの夢は終わる。死者は死者に還り、夏野もまたその列に加わるはずだ。ここまでくれば夏野の心を支配するのは「一刻も早く」という衝動だけだった。早く、終わりたい。偽りの命は空虚で渇く。人狼である夏野は屍鬼たちよりも吸血衝動を抑えていられるが、それでも渇きは筆舌に尽くしがたい苦しみだった。屍鬼たちがこれ以上の苦しみを味わっているのだとすればその欲望に負けたことをなじるのは憐れだとも思う。
 いま夏野の心を支配するのは早く動かなくなりたいという願いだった。人間だったころに渇望した夢を、夏野が忘れてずいぶんになる気がする。早くここから出て行きたい。そのことばかり願っていたはずなのに。
 自分になにが起きたのかは、夏野にも正確にわからない。どうしてここから逃れたいという願いが消えてしまったのかも。屍鬼でなく人狼である夏野は鼓動が止まる前に変化し、一度も死んでいないはずなのに、彼自身も死という静寂の中から引きずり起こされたことに変わりなかった。
 でも生きてない。
 鼓動があるし、食べものも喉を通る。でも、生きていない。なぜなら夏野はなにも感じないからだ。
 森を駆け、夏野は獲物を探した。もはや屍鬼たちは順番に屠られてゆくだけだ。そこに夏野が関与する必要はない。ただの屍鬼たちは尾崎や人間たちが始末してくれる。
 夏野が狩らねばならないのはごく限られた者たちだ。屍鬼ならば太陽が昇ると動けなくなるから殺すのはたやすい。千鶴はすでに死んだ。だが人狼である辰巳や佳枝、人間の正志郎は別だ。彼らは屍鬼の首魁である沙子をなんとしてでも逃そうとするだろう。それでは駄目だ。屍鬼たちは根絶やしにしなければ。
 夏野は聴覚をとぎすまし、断末魔の絶叫のむこうで蠢く彼らの意思と囁きに耳を傾ける。どこにいる、なにをしようとしている。逃げようとしても無駄だ、閉鎖された村を狩り場に選んだのは彼ら自身だ。仮の獲物とハンターの立ち位置はもうすでに変わっている。夜の闇さえなければ彼らは人間に敵わない。死神の行進が動き出したのなら、もう夜でさえ彼らを守らない。
 人間は生きている、という絶対的な有利さを持っていた。この彼我の差は太陽の光が彼らを容赦なく打ちのめすのと同じ絶対的なものだ。人狼の生命力や力強さですら、群衆となった人間たちには太刀打ちできないだろう。屍鬼は個で存在する。だが人間は違う。人間は人間という塊で生き、束で数えられる。屍鬼の牙は一対だが、人間の手は二本ではなく、無数になるのだ。まとめあげるのには多少手間がかかるが。
 尾崎の扇動力はおそらく辰巳の力に拮抗するだろう。村の支配者の家系、というのはまんざらでもないのだなと夏野は思う。この旧弊な村を動かすには、その村に根づいたルールを利用するに限るというわけだ。夏野や彼の父親は外部素子として動けばいい。外から来た人間として、そしてイレギュラーな人狼として。森の奥で、夏野の知覚は外場を駆け巡る人間たちの動きを感じ取り、その生ける網が村を囲むのを感じていた。はじめ、この村は死に取り囲まれていた――いまや生に囲まれている。死よりもはるかに暴力的で、圧倒的な、生に。
 その網から逃れようとするモノはないか。この粛清をやり過ごそうとするモノはないか。夏野は耳を澄ませる。さあ早く、終わろう。塵は塵へ。死者は、死者へ。
 この村は死に覆われ、そしていま生に覆われる。その網に引っ掛かったのも夏野も同じだった。屍鬼ではなく人間でもなく、夏野は人狼だったが、この行進の先導ではあっても行進から外れることはできない。彼はハーメルンの笛吹きなのだ。
 逃げたいというかすかな欲望は、胸の奥で小さく響いていたけれど、それをかき消すのは夏野を駆り立てるしじまだった。森の奥にあって人の声もしない場所にうずくまっていると、そのしじまはより一層強く響き渡る。そして夏野を駆り立てる。走らされながら夏野は思う。早く。早く終われ。走らなければならないのならば、早く終われ。そして自由になりたい。
 無になりたい。
 本当に不思議だ。自分の胸の中はこんなにからっぽではなかったはずなのに、もっと希望や願いや夢に満ちていたのに、いまはこんなにも冷え冷えとして空しい。尾崎たちが死体を放りこんでいる洞穴のように、暗くてからっぽだ。
 この胸には大切なものがたくさん詰まっていたはずなのに。
 夏野自身も死をまき散らし、そして、まだ死んでいない辰巳と沙子を求めて山入へとたどり着いた。山入の隠れ家については尾崎にも伝えてあったが、どうやら大挙して屍鬼たちの始末に入ったらしい。草地には杭を打たれた死体が無数に転がっている。そして火が、山入を照らしだしていた。夕闇が迫りつつある中、山奥のこの地域はいつも真っ先に暗くなる。だが今日は燃えあがる炎に赤々と照らされ、肉の燃える匂いがあたりに漂っていた。けれど夏野は熱さを感じない。
 なにも感じない。
 山入に発した炎は、秋枯れした森の木々に飛び火し、風に乗ってうねるように山を下りてゆく。高台から見る景色は、まるで盛大この上ない葬送の送り火だ。この火は食い止められるものとは思えない。村は火に飲みこまれる。なにもかもが消える。生も死もすべて塵に還る。
 これが外場の物語の終わりだ。
 夏野は辰巳たちの手掛かりを求めて死体と炎のあいだをかいくぐった。そして積み重なった死体の中に徹を見つけて脚を止める。何か月も前に、一度この顔を見た。棺桶に収められて眠る徹は生きているようだった。いまもそうだ。死んでいるなんて信じられない。胸に杭を打ちこまれて人間であれ屍鬼である生きているはずはないのに、それでも、屍鬼として動いているときよりもよほど徹は生きているように見えた。
「徹ちゃん」
 でも夏野はなにも感じない。悲しくて仕方がないはずなのに、あるいは、彼が苦しみから逃れられて安堵してもいいはずなのに、夏野はなにも感じない。
 けっきょく彼はなにかをなしたのだろうか。死んだ後にもまだ生き延びて。夏野を殺したこと? でも夏野は徹でなくてもだれかほかの屍鬼に殺されただろう。あるいは夏野のスパイとなったこと? それだって微々たるものだ、徹がいなければ手間取っただろうが、外場村の終焉は変わらない。それなら徹はただ苦しんだだけだ。夏野を殺したことに苦しみ、渇きに苦しみ、そして屍鬼として冷徹になれないことに苦しんだ。
 本当にそれだけだったのだろうか。
 唐突に夏野は、徹と唇を重ねたことがあったのを思い出した。
 そういえばあれだけは、生きているあいだにはなかったことだ。徹が死んだあと起きあがった意味がなにかひとつあるとすれば、もしかするとあれかもしれない。
 いま、血を吐いた徹の口元は彼の血で汚れ、苦しそうに開かれた口唇のあいだには白く尖った牙が見える。
 徹は、起きあがったあとなにかを感じていただろうか。夏野にキスをしたのだから、彼はなにかを感じていたのかもしれない。だとしたらどうして夏野はなにも感じないのだろう。この村を出ていきたいと望まないのか、徹を助けたいと願わないのか、生きたいと思わないのか。それは夏野が人狼だからなのだろうか。辰巳にはやはりなにもないのか。
 徹を見つめていると、胸の中にある空虚が大きく膨れ上がって爆発しそうになる。早く早く。急き立てる虚無が夏野を苛む。この声はなんだ。死神は夏野の精神を食らっているのだろうか。
「徹ちゃん」
 死にたくなんかなかった。その前に逃げ出したかった。なのに夏野は徹にとらわれて、この村から出ていけない。人狼という肉体を得たにもかかわらず。どうして、どうして、炎の中で夏野は問い続けるが、だれも答えない。
「徹ちゃん」
 思い出すのは去年の夏の日、ふたりだけで歩いた夕暮れの林道だ。湧水の冷たさと清冽さ。大嫌いなこの村で、徹だけを夏野は好きになった。ここで過ごさなくてはいけない三年間、彼だけは好きになれると思った。
「徹ちゃん」
 呼び声は届かない。もう徹は夏野を呼ばない。でもあの夏の日に、徹が呼んだ声が聞こえる。夏野。夏野。夏野。そう言って徹が笑う顔を思い出せる。
 好きだったよ、徹ちゃん。生きているあいだは。死んでもなお。でも夏野の胸はそれを感じない。いままだ残されているのは事実だけだ。夏野が消えればその事実もなくなる。
 でももう外場のすべてが燃え尽きようとしている。だから終わらせよう。この世界をなくしてしまおう。
 そのとき夏野の物語が終わる。
 そのときようやく、夏野をがんじがらめにするしじまから解放される。だから最後にきっと思い出せるはずだ。徹への気持ちを、胸いっぱいに、感じて死ぬことが出来るはずだ。

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