星測器
(from Xenogears EP4)

 ときおり王が出奔することを、王宮の人々は知りながら容認していた。かつて砂漠をゆく隊商の統領であった王は、彼自身以外のすべてを失って玉座と王国を得た。胸苦しくなる日もあるだろうと、王がふらりと姿を消すたびに、人々は王を理解したように許すのであった。
 実際のところ彼がどうして出奔するのかだれも確かに知っていない。とはいえ、王の身の周りを世話する若い男が心配して尋ねたとき、王はこう返していた。
「ブレイダブリクから一日の古い街の廃墟に、年老いた獣が出るのだよ。それが昔、僕が手懐けてしまったせいで、獲物もろくに出ない場所だというのに離れようとしない。だから時々は僕が行ってやらないと、あれは孤独のうちに飢えて死んでしまうんだ」
「それではその獣を王宮へ連れてきてはどうなのですか」
「そんなことをしたら、毎日ひとりずつ減っていくよ。人に馴れたわけではないんだ」
 王の言葉がほんとうなのか、けっきょくだれも知らないでいる。
 とはいえそんな風に姿を消していたある日、王は死んだ獣を担いで城へ戻ってきた。闇色の毛並みをした大きな獣だったが、もうずいぶん歳を取り痩せていた。これが噂の獣かと、王宮の人々は、王の唯一の友の死を悼んだ。
 獣は皮を剥がれ、その皮は王の居室にかけられた。ファティマ一世が熱病で亡くなる、わずか一月前の出来事である。

 沈思黙考するのに人のいない場所はむいていない。もとより僕はおしゃべりなほうだ。それがだれもいない廃墟にいれば、どうにかして言葉を紡ごうする。ひとりでしゃべっているのも哀しいものだから、書くことにした。書を焼く僕が、書いて残すというのも矛盾であるが、この紙束はここに残しておくことに決めている。こんなところにはだれもこないから、やがては砂に埋もれてゆくだろう。それでも、口から発すれば風しか聞かないものを、書いて残すのは僕の中に残った良心のなすところかもしれない。僕は王国のために過去を灰と風に任せているが、それが僕の、あるいは僕の意思に根付くなにかの、自己満足であることは間違いがないのだから。
 僕はここに一頭の獣に会いに来ている。なんの獣かもさだかではなくて、猫に似た大きな獣だが、僕に懐く様子はまるで犬で、よくわからない。この獣とのつきあいは長く、僕が歳を取ったようにこの獣も随分歳を取っているはずだ。出会ったとき、渇いて息も絶え絶えだった獣は、砂漠で道に迷った僕に救われ、僕もまた獣に助けられた。それから彼は僕だけに懐いて、それでなんとなく僕も獣に懐いている。
 ここへ来れば僕は一人の時間を得られて、そして夜が更けると僕の友である獣に再会できるというわけだ。
 獣に名はつけていないが、僕が呼ぶと喉を鳴らす。砂にまみれてはいるがかつては美しい毛並みで、僕がここにいると気がついて寄ってくるのだった。
 僕は獣相手には語らなかった。むしろ僕はいま、彼に語らないために書いている。
 今夜も獣は来るだろうか。いつか獣が寄って来なくなる夜があるだろうと思っている。獣は会うたびにぼろぼろになっていて、彼が来ない夜があれば、きっと僕が会いに来る間に息絶えたのだと思うしかない。あるいは獣にとっても同じかもしれない。僕がいつか来なくなれば、僕は別の場所で息絶えたと思ってもらうしかないだろう。
 我々はそういう風に時たまの逢瀬を、これが最後かと思いつつ過ごしている。

     ×      ×

 ここへ来ると、あの獣に出会った夜のことを思い出す。僕は砂漠で道を失っていた。夜になれば星を図ることもできるが、それまでは無力で、せめても日影を求めて廃墟をくぐった。獣は僕よりも先住で、怪我をして隅にうずくまっていた。最後の力を振り絞って、というようすで僕の喉笛を食い破ろうともしたのだが、その力もなく、道に迷ったといっても砂漠に慣れ、水も持っていた僕は抑えつけることが出来た。水と干し肉を与え、怪我の手当てをしてやると、僕に敵意は見せなくなった。
 夜半、僕が星測器を手にぶらさげて位置を特定していると、僕の傍に来てうずくまった。あのときは獣の闇の色をした毛並みはつやつやと輝いていて、まるで星あかりを映しているようだと思ったものだった。

     ×      ×

 何度も獣に会いに来るにつれ、僕は考える。どうしていまもなおこの獣に会いに来るのだろう。ひとりになりたければここでなくともいい。ここに来るのは、獣のためだ。僕は君のことが好きだったのだろうかと胸に問うてみる。しかし互いに懐いてはいるが我々はともに生きようとしているわけでもない。時折、こうして、こんな場所で寄り添うだけだ。いずれどちらかがここにこなくなるまで。僕は君を好きだったのだろうか。ここに来ずにはいられないほど。それはここに来る口実がなくなってもなお、僕をここに連れてくるものだろうか。




 電子スクリーンに表示された文字を、目で追っていた護民官カレルレンは、部下の訪問に視線を延べた。音を立ててドアが開く。入ってきたのは軍部の制服を着た黒髪の若い男で、眼鏡越しに、カレルレンよりもスクリーンに目を走らせた。
「……それは?」
 好奇心からついそう口を開いた青年に対し、カレルレンは表情を乱すことなく「用件は」と返す。
「失礼しました。浸潤の数値が75を超えた個体が確認できましたので、ご報告に」
「わかった。なにか目立ったことは」
「いまのところは……」
「経過の報告はまとめて」
「はい」
 頷いて踵を返す部下の背中に、カレルレンは声をかけた。
「これは古いイグニス語の文書だ」
 男は振り返り、鋭い目でスクリーンを見つめる。彼からは鏡文字のように見えるはずだが、それでも言葉を知っていれば解読できるだけの能力は身につけている男だ。
「古いもの……ですか」
「数百年前だな。地上の言語はそれでずいぶん変わる」
「なにか記録のようですが」
 自分がどれだけ読めているか、男は明かさなかった。だが読めてないわけではないと主張している。応答にはこれだけ繊細な気配りができるのに、好奇心だけは押さえられていないのが、彼の長所であり欠点だった。
「そうだな、とうやら保護した動物のことを書いているようだ。署名もなくだれの手かもかわらない」
 なぜそんなものを見ているのか、などと部下は聞かなかった。聞かなかったが、カレルレンの表情とその文書から、なにかを読み解こうとしているようだ。天帝カインの前に立つ護民官の綻びと隙をそこに見いだせないかと考えて。
 少しの可笑しさを感じて、カレルレンは説明を続けた。
「紙に書かれていたからもう現物は読めないが、電子化したデータを残してあった。整然と書かれているが個人的な記録なのだろう」
「個人的な?」
 カレルレンが読んでいるのだから、なにかこの世界の秘密にかかわることだと疑っている部下は、訝しげに声を上げた。カレルレンはこれを書いた男のことを知っていたが、そんなことまで話す気はなかったし、おそらくその男のことを話したところで部下にはなんの益にもならないだろう。
 この文字の連なりからカレルレンは砂漠と一人の男のことを思い出すが、地上を知らない彼には、あの砂の吹く大地のことなど、想像も及ばない。



 ロニ・ファティマがこの手記の最後のページを書いた日、彼は廃墟で、蝋燭の火にこのうちの一枚をかざしていた。カレルレンがロニの手を取ると、柄にもなくずいぶん驚いたロニは大きく目を見開いていた。カレルレンがもう来ているとは思ってもいなかったようだった。
 碧い目がまっすぐにカレルレンを見据える。
 二人はしばらくなにも言わなかった。取り決めたわけではなかったが、ここではなにも語らないことになっていた。口を開けば言ってはならないことを告げ、聞いてはならないことを問いただしてしまう。お互いにもはや顔を合わせてはいけない人間だった。
 しかししばらくするとロニは苦笑する。
「君、僕がこれを書いてるって、知ってたの。君が来る前に片づけるようにしてたんだけど」
「燃やすのか」
「感傷的に過ぎたなと思って。どのみち心の声だ。君にも言わないようなことさ」
 ずいぶん久しぶりの会話だったが、その応酬はいつもの通りだ。
 ロニがそんなことを言い出した理由を、カレルレンも察していた。傍につながれている駱駝の近くに、布に覆われた大きなかたまりを見ていた。この廃墟を根城にしていた獣だ。ずいぶん長生きしていると思っていたが、とうとう死んだのだろう。
 カレルレンはロニの手から紙束を取り上げて、読むともなしに繰る。ロニは止めなかった。
「僕はもう、もうここには来ないつもりだ」
「あれが死んだからか」
「そうだね、あれに会うという口実でここに来ていたのだから、もう来られなくなる」
「おまえのそんな話、信じているやつがいるのか?」
「昔なら、僕の周りにいた人たちは信じなかっただろうね。ところがいまの僕は、たった一人地上に残った英雄だ。どんなに嘘をついても、だれも僕を指さしたりしない。……君はなんて言ってここに来てるんだい」
「なにも。私がここにいることを知っている者もおらんよ」
 ロニはそれからカレルレンに手を伸ばした。頬に触れ、長い髪に触れ、瞳を覗きこむ。てのひらでロニは、確かめていた。もはや手触りそのものがかつて知っていたカレルレンではないことを。白かった肌は変色し、闇の色をしていた髪は色が抜け、まるで別人のようだった。だがロニが大地の掟に従って、若さを失いつつあるのとは裏腹に、カレルレンは歳を取ったように見えない。互いに別の形で、あの頃とは変わっていた。
「これを持って行ってもいいか」
 手に握ったままの紙束のことを言うと、ロニは顔をしかめた。
「君が読まないなら」
「どうせ私のことが書いてあるんだろう」
「書いてないよ、少なくとも君の名前は書いてない」
「なら読んでも構わないじゃないか」
「……地上のだれかに読まれるよりは、ましかもしれないね」
 ソラリスに戻り、カレルレンがその紙束を読む気になったのは、ファティマ一世がブレイダブリクで猖獗していた熱病に罹って死んだと知ってからのことだ。
 そこに書かれていたのは独白以外のなにものでもなく、この世界のどこを探しても、この手記を読んで喜ぶ者はいないだろうと思われた。確かにロニはカレルレンのことを書いていなかったが、そこに書かれていたのはカレルレンだった。
 少ない紙の束を読み終えて、カレルレンは考えた。それで果たして、自分はロニ・ファティマをどう思っていたのか、彼は己に問うた。あの砂漠、あの廃墟、あの獣。……答えが出たわけではない。五百年も経とうとしているいまになっても、なお、カレルレンは答えを出していない。
 それにもかかわらず時折データを開いてしまうのは、あの廃墟でロニと出会った日から自分がどれほど遠くにいるか、それを忘れずにいるためだった。遠ければ遠いほど、カレルレンが得ようとしたものは近づいている。
 かつてロニ・ファティマが地上から星あかりを測ったその空に、カレルレンはいま立っていた。あの砂漠、あの夜、あの男。大地を測る器具を、いまのカレルレンは持っていない。

zoe:back
http://xxc.main.jp/zoe/ (C) zoe