エゴンシーレの監獄 02
《Das Gefaengnis von Egon Schiele》

 翌朝、寝不足のけだるげな気分のままに目を覚ました。衣装を借りるならば早く行く必要がある。念のため連絡をすると貸してもらえるという話だったので、安堵してタクシーで寺へとむかった。
 車はあるのだが、母親から絶対に運転するなときつく言われていた。葬儀の行き帰りで事故を起こす人間が多いのだというのが母の持論だった。確かに、ふとした拍子に意識が遠のくというか、現実味を持たなくなる。運転が危険なのは孝輔もわかっていた。
 寺に着くと、母親がもう孝輔の喪服を用意してくれていた。
「大丈夫なの、あなた。どうしたの?」
 孝輔がなにかやらかして喪服を駄目にしたと思っているのだろう。誤解は解きたかったが、櫂のことを軽はずみに言うわけにも行かないだろう。まして自分の親族ならいざ知らず、理紗の親族だ。孝輔は眉をひそめて、「ちょっと」と言った。
「後で話せるようなら話す」
「孝輔、大丈夫なの」
「大丈夫だよ。俺が取り乱したわけじゃないから」
 そう言っても母親は一向に安心しないようだった。孝輔は喪服に着替え終えると櫂の家族を探した。葬儀には一家そろって来ていたはずだ。親族の待合所に入ると、背の高い男がすぐに目に入る。櫂の兄だ。
(……名前を確認してくればよかった)
 兄の名前も記憶になかった。櫂の兄なのだから、苗字が菊池なのはまず間違いないだろう。呼びかけるのなら苗字だけでも構わないだろうかと思ったとき、内ポケットに入れた携帯電話が振動した。知らない携帯電話の番号からの着信だった。こういう騒ぎなので、だれからの必要な連絡が入るかわからないわけだから、孝輔はためらうことなく出た。
「小倉ですが」
「……菊池ですけど。菊池櫂です」
 思わず大声を上げそうになったが、冷静になってこらえた。櫂の声は非常に低く、携帯電話では聞き取りづらい。
「気分は平気なのか?」
「家族にもう話しました」
「昨日のこと?」
「メモに書いてあったでしょう」
「まだ話してない」
「言わないでください」
「けど」
「俺を見たことも言う必要はないです」
「心配するだろう」
「俺がふらっといなくなるくらいじゃ、心配しませんよ。いつものことだから」
 もしかしてリストカットはいつものことなのだろうかと嫌な気分になったが、本人が嫌だというものを孝輔から言うことは出来なかった。彼だってとっくに成人しているのだ、責任は自分で取るべきだろう。
「……まさかまた、」
「やだなあ、そんなこと気にするんですか」
 その声の調子が妙に明るく、逆に心配になる。どう言おうかと考えて、赤の他人へのおせっかいなど焼いてる場合じゃないとその考えを振り払った。言わなくていい、と言っているのだからそれまでだ。あとは孝輔の関わらないことだろう。またマンションでやられたらかなわないのだが。
「それじゃあ」
 孝輔が言うと、櫂はなにも答えない。その間の奇妙さに孝輔が戸惑った瞬間、櫂は返事をした。
「服は返しに行きます」
「それこそ気にするな」
「いえ。待ってます」
 病院に来いということなのだろうか。しかし今日のうちに退院できるのではなかったか。都内に住んでいるはずだというおぼろげな記憶はあるが、住所はかなり調べないと出てこないだろう。問いただそうとする間もなく、電話は切れた。かけなおすのも億劫だったので、そのまま携帯をしまう。櫂の兄の視線を感じたが、孝輔は会釈だけをして、部屋を出た。あとはもう知らないことだと思おう。今日もまだ、孝輔のすべきことは残っていた。
 告別式で喪主がスピーチをするとかいう習慣はいつからあるんだと気分を腐らせつつ、理紗の遺体が安置されている部屋に入る。すでに棺は中央に据えられていて、これからの献花を待っている。これが理紗の姿を見る最後なのだった。
 棺をのぞきこむと、理紗は目を閉じて硬直している。死に化粧には死体を生き生きとさせる効果はない。その身体はやはりもう動かない。眠るように横たわる死体だなんて言ったりするが、そんなのは嘘だった。どうやっても死体にしか見えない。頬に触れてみる勇気もなかった。
 孝輔はため息をついて並んでいる椅子に腰を下ろした。告別式のスピーチなど、お涙頂戴の茶番劇のように思える。これが五十年連れ添った妻のことなら、温かく懐古できるのだろう。だが理紗と孝輔が共に暮らした時間は三年にも満たない。冷静なほうだという自信はあるのだが、やはり理紗を失った衝撃はあまりにも大きかった。本当にこんなものを読めるのだろうかとスピーチを書き留めた紙を広げる。
 そうしてぶつぶつと呟いていると、心配げな母親が入って来る。孝輔はため息をついた。
「平気だって」
「嫌ね、わたしが動転してもしょうがないのに……」
「俺は動転なんてしてない」
「じゃあ喪服はどうしたの」
「後で話すよ。いまは勘弁してくれよ」
「そんなんじゃ理紗さんも休まらないわ」
「大声で笑うよ、あいつは」
 やがて親族が集まり、時間が来ると、告別式が始まった。やはり櫂は現われなかった。それでいいのだろう。菊池の人間が孝輔に彼のことを聞いて来るようなこともなく、孝輔は理紗との別れだけに心を傾けた。なにもかもが水のように流れてゆく。告別式での参拝も、自分のスピーチも、理紗の友人や家族たちから引きつるような泣き声が聞こえてくるのも、彼女の棺に花をこめてゆくことも、そして棺が打ちつけられ、黒く塗られた霊柩車の扉の中に理紗の遺影を抱いて閉じこめらることも、孝輔に考える時間を与えずに過ぎ去ってゆく。
 人前で泣き崩れずにすんだのだけが幸いだった。
 遺影は新婚旅行でメキシコに行ったときのスナップ写真を引き伸ばしたものだった。明るい太陽の下で微笑んでいるその写真はどんな写真よりも理紗の内面が伺われるものだったので選んだ。
 夜遅くになり、壷に籠めた遺骨を抱いて、孝輔はマンションに戻った。初七日の精進落としも終え、これで、骨を納める四十九日までは儀式はなにもない。役所関係の手続きなどは様々にあるはずだったが、いまは考えられなかった。
 孝輔は親族たちにソファの上に突き飛ばされ、君は休んでいなさいと言われて頷き、理紗の位牌と遺骨と並んで、右往左往する人たちを見ていた。当たり前だが、結婚して何年も経っていない二人のマンションには仏壇がない。理紗が亡くなってからあわてて仏壇のようなものを買ったのだが、あまりのあわただしさにまだ遺骨や位牌を納められるような状態ではなかった。孝輔がややネクタイを緩め、だれかが淹れてくれたお茶を飲みながらぽかんとしていると、いつの間にか準備が出来ていた。
 促されて位牌を中に納め、骨壷を仏壇の隣に置いた。線香を立ててりんを鳴らし、瞑目して手を合わせた。理紗がもうここのにしかいないというのをいまさらのように実感した。もうなにもかもが終わったのだった。
 一通り理紗への焼香が済むと、両親を残して親族たちは帰っていた。帰り際に櫂の兄がちらりと孝輔を見たのを居心地悪く感じた。
 櫂のことがやはりまだ頭に引っかかる。人がいなくなったあと、孝輔はクローゼットをあけて荷物を探し始めた。また母親が目をむいて、孝輔の突然の行動をとがめた。
「なにをしているのよ」
「名前が思い出せなくて」
「だれの?」
「理紗の従姉弟。ほら、背の高い男。兄弟の兄のほう」
「なんて名前だったかしらねぇ」
「母さんには期待してないよ」
「お父さんなら覚えているかもしれないわよ。お父さん、ちょっと!」
 両親がわいわいと話している間に孝輔は目当ての箱を見つけた。結婚式のときに使った資料やらなにやらを一緒くたにつめてある箱だ。居間に持って行って開けると、すぐに座席表を書いたカードが出て来た。菊池家の机を見ると、新婦従兄弟の肩書きで菊池櫂と菊池礼という名前が並んで印刷されてあった。そうだった気もするし、そうでなかった気もする。ようは憶えていないのだ。とまれ、理紗の従兄弟は他には女がひとりいるだけなのだから、間違いないだろう。
「それがどうしたの?」
「いや、思い出せなかったから気になっただけ」
「そういえば弟さんのほう、今日は来てなかったわね」
 昨日この部屋で自殺を図ったからとは言うのも気分が悪い。孝輔は肩を竦め、聞き流した。

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