ツオエ
《Zoe; oder Gradiva in dem Gemaelde》

 D国の宰相ベイベリルには一人の娘があった。今日この善き日に、国王と結ばれたその娘は、国中のだれもが知る美姫で、名をツオエという。首都の酒場では民のだれもが、国王とツオエの婚礼に祝杯をかかげていた。
 そんな浮き足立った酒場の片隅に、黒い衣装をまとった男が一人、座っていた。どういった身分の者かは知れなかった。足元には大きな袋が横たえられており、袋の口からは無造作に六弦琴の柄と大き目の額縁がのぞいていた。だからといって決して詩人には見えなかったし、画家にも見えなかった。身にまとう空気は鋭く、不吉だった。男は一人で酒を傾けていた。浮かれた様子のあたりの酔漢どもを気にした様子もない。
 やがて出来上がった酒場の客たちは、楽隊が陽気に店に乗りこんで来ると一緒になって歌をうたいはじめた。なんとめでたい日なのだろうと、国王とツオエをたたえる歌を即興で口にする。出来がいいとは言えないが、若き国王夫婦への敬愛だけはつめこまれていた。
「麗しき輝く爪先のツオエ!」
 歌声が重なり、者どもは興奮して酒を飲み干す。どっと声をあげて、歌い合う互いを励ましながら、客たちが満足げに笑っていたときだった。例の黒衣の男が、荷物から六弦琴を取り出した。調弦する男の手は白く美しく、決して下賎な身分の男ではないらしい。よく見れば姿かたちも整っており、女に生まれていれば、ツオエもかくやの美女だったろう。そんな男が歌うのであれば、さぞかし妙なる調べに違いない、と男に気づいた客から順に口を閉じる。
 そうして瞬く間に、酒場は静けさに満ちた。黒い男は愛想笑いを浮かべることもなく、どこか遠くを見るようなまなざしで歌いだした。


   いかなる神がツオエを塑像したのか
   輝く爪先を持つツオエの並ぶものなき美しさ
   ギルランダイオのニンフさえ
   ツオエの前には道を譲る
   ツオエは輝く爪先で
   軽やかにニンフの歩む道を歩む
   柔らかなふくらはぎには裳裾が絡まり
   衣擦れから花が落ちる
   いかなる神がツオエを塑像したのか
   輝く爪先を持つツオエの並ぶものなき美しさ


 歌い終えると男はまだ六弦琴を置かず、こう話し出した。
「ところで皆さん、その美しいツオエの姿をなんとしてでも描きたいと望んだ男がいるのをご存知ですか」
 客たちは顔を合わせて、口々にそれくらいはいくらでもあるだろうと囁き交わした。なにしろツオエの美しさは、広く知られている。彼女の似姿を見て国王が恋をしたのだという話もあるくらいなのだし、あの美しいツオエの姿を描きたいと望む絵描きなどいくらでもいるだろう。そんなざわめきが酒場の中にひろがったが、男はもったいぶったようにこう言った。
「しかしそれはただの画家ではありませんでした。ベイベリル様の弟君のご子息、つまりはツオエ姫の従兄弟に当たる方でした。ツオエ姫の美しい姿をなんとしてでも描きたいと望んだ彼は、筆を取り、彼女を描きはじめたのです。半年で絵は描きあがり、ため息とともに彼は筆を置きました。というのも絵の中のツオエはむしろ本物のツオエよりも美しく描きあげられたからでした。そこからが彼の悲運! 美しい従姉妹に恋をしていたはずの彼は、すっかり絵の中のツオエの虜になってしまったのです。来る日も来る日も絵のかけられた部屋に佇み、絵の中のツオエに語りかけるばかり。恋わずらいは魂を焦がし、とうとう彼はその絵の前にうずくまり、かなわぬ恋を抱いたまま、死んでしまったのでした。
 これには彼の家族も、ベイベリル様も、そしてツオエ姫もたいそう悲しんだものですが、ベイベリル様もその絵を見ては、彼の気持ちもわからないではないと思ったそうです。なにしろその絵の中に描かれたツオエは美しかった!
 皆さんは絵画などただ世界を写しただけで、本物のあたたかみや輝くばかりの美しさには適わないとお思いですか。しかしいったいそれは正しいのでしょうか。確かにツオエは美しい。けれど絵の中のツオエは更に美しい! なぜならツオエ姫が美しく生まれたのが偶然であるのなら、絵の中のツオエが美しいのは必然だからです。空を御覧なさい、美しく澄んだ空を求めても、どこかに雲が浮かんでいたり、もっとひどいときには灰色の雲がかかってしまうでしょう。山を御覧なさい、鮮やかな早緑を愛でたいと思っても、虫に食われた葉が目につくでしょう。自然とは完璧ではないのです。完璧な美しさを求めるのならば、絵の中に求めるしかないのです。ツオエを御覧なさい、いくら美しくとも、やはり彼女さえ完璧ではないのです! だからこそ絵の中のツオエはこの世のいかなるものよりも美しい。
 かくして人一人を死なせたものの、その絵の美しさはたとえようもないものだったので、ベイベリル様もこれをしまいこんでしまう気にはなれませんでした。いずれツオエ姫が嫁ぐ日が来れば、この絵で彼女の不在を慰めることも出来るでしょう。そう思われて、ベイベリル様は絵を飾ったままにしておりました。
 そこに足を運んだのは他でもない、国王陛下です。ベイベリル様の開いた夜会に招かれて国王陛下はベイベリル様の屋敷へといらしたのですが、そこであの絵を見てしまわれたのです。国王陛下はやはり恋をされました。無論、ツオエ姫にではなく、絵の中のツオエに!」
 そこまで来て、男の話に引きこまれていた客たちは我に返り、なんてことを言うのだといきりたった。酒を飲んでいたこともあり、席を立って男に掴みかかろうとするもの、手近なものならなんでも掴んで投げようとするもの、不敬な男の発言に罵声を浴びせようとするものと一瞬で酒場は騒がしくなった。しかしだれも男には触れられなかったし、なにも男には当たらなかった。そしてどんな罵詈雑言も酒場には響かなかった。地獄のような静けさが、陽気だったはずの酒場を包んでいる。
 男はそこでようやく笑い、じっと石のように固まった客たちを眺めた。
「まだ話をやめるには早いでしょう。まだ僕が語っていない登場人物もあるのですから、静かにお聞きになってはいかがですか。もっとも黙っておられないようでしたので黙っていただきましたが
 男は酒場を見回し、六弦琴を爪弾きながらまた語りはじめた。
「ツオエ姫は美しい。それはだれにも頷ける。だが完璧ではない。しかしむしろよいことでしょう。完璧な美しさはすでに人一人を恋に狂わせ、死なせてしまった! そしてまた、完璧な絵のツオエは一人の男を恋に落とした。それが国王陛下なのです。国王陛下もはじめは、ご自分が恋されたのがまさか絵の中のツオエだとは思ってもいらっしゃいませんでした。そのため陛下はベイベリル様に、ツオエとの婚礼を望まれました。ベイベリル様は一抹の不安を覚えながらも承諾し、ここに今日挙げられているようなツオエ姫と国王陛下との華燭の典が開かれる運びとなったのです。ほむべきかな、D国の栄えとツオエの美しさ!
 さて、陛下はツオエとの婚礼を待つことも出来ずベイベリル様の屋敷にあった例の絵を、城へと移されました。そして夜毎にその絵画にむかって恋を語り、胸を焦がされたのです。その様子を知ったベイベリル様は、甥と同じような国王陛下のお姿に驚かれ、国王陛下が愛しているのもツオエ姫ではなくやはり絵のツオエなのだとお気づきになりました。これではツオエ姫がいよいよ嫁がれたとしてもなにか災いになるのではないか、そう感じて、ベイベリル様はひそかに一人の男を屋敷へと招きました。その男は錬金術師と呼ばれていましたが、果たしてそうなのかはだれも知らぬことです。ベイベリル様はなんとしてでもあの絵を始末するようにと男に頼みました。国王陛下の居室にある絵画を始末しろとは大層な頼みです。まして、国王陛下は日に日にその絵の傍にいる時間が長くなり、ますます恋心を募らせるばかり。得体の知れぬ錬金術師にとっても容易なことではありませんでした。
 錬金術師はツオエ姫とともに城へと入りました。国王陛下は喜んで姫をお迎えになられましたが、生身のツオエを見て、ようやくご自分が恋をしているのはツオエ姫ではなく絵の中の美女なのだとお気づきになられました。困惑するツオエの前で陛下は苦悶し、乱暴にツオエの手をとると例の絵のかかった部屋までむかわれました。ツオエは確かに美しい。けれど絵の中のツオエは完璧でした。王はツオエの足元に膝をつき、ご自身とツオエの身の不幸を嘆きました。絵画に恋をしてしまった陛下を、そしてそのために愛されてはいない真のツオエを。陛下は落胆されてツオエとの婚約を破棄しようかとも思われたようですが、宰相ベイベリルの娘であるツオエと陛下の婚礼はすでに広く知れ渡ったこと。いまさら、なかったことには出来ようもありませんでした。
 そこで錬金術師は――ツオエが彼をつれていたことはお忘れになっていないでしょう――陛下にこう言いました。
『こうはお考えになりませんか、陛下。絵の中のツオエと姫君を入れ替えることが出来たのなら
『しかしまさか、そんなことが出来るはずはない』
『さあどうでしょうか、これほどにも美しく生き生きとした肖像なのですから、不可能とは限りませんでしょう』
 さすがに陛下も錬金術師の言葉に笑いました。
『つまり私のこの恋は、他のものからすればそんなたわごとと同じくらい莫迦げたことだということか!』
『いいえ、陛下』
 そう言うと錬金術師は、不可思議な笑みをたたえたまま絵画へと手を伸ばしました。そして、絵の中のツオエの手をとると我々のほうへと彼女を誘ったのです。ギルランダイオのニンフさえ恥らい道を譲る美しい完璧な乙女ツオエが、本当に陛下の前に立っていました。絵画の中は空っぽの背景が残されているばかりで、陛下の前には一瞬前までその額縁の中にいたツオエが立っていたのです。その輝くばかりの美しさ、高貴さ、あでやかさは言葉には出来ないものでした。この国で一番美しいといわれている真のツオエでさえ、その前では重たくわずらわしいとさえ見えたのです。陛下は愕然としながらも、錬金術師に導かれるまま完璧なツオエの手をとりました。そして惑わされているのではないという証のために、彼女のぬくもりを確かめました。
『これは本当に起こっていることなのか』
 陛下がそう尋ねられますと、しかと錬金術師は頷きました。
『陛下のご覧になっている通りに』
『これはまた絵の中に戻ってしまうのか?』
『私が戻そうと思えば――ですが陛下はそれをお望みになりませんでしょう』
 錬金術師は笑いました。
『さあどうなさいますか、陛下。ここにふたりのツオエが! 一人は宰相ベイベリルの娘ツオエ、一人はどこのだれでもありませんが、あなたの愛するツオエです』
 陛下は恐ろしい目でツオエ姫を見つめました。
『どうすればいい。ふたりのツオエがいてよいものか?』
『陛下がお望みであれば、一人をこの絵の中に戻すことが出来ます。ただし条件があります。どうかその絵は私にくださいますように』
 錬金術師の願いを、国王陛下はいちもにもなく承諾されました。
『このツオエを私に残してくれるのであれば、いかようにでもするがいい!』
 その言葉を聞くと、錬金術師はツオエ姫の手をとりました。絵の中のツオエが一瞬で出て来たように、生身だったはずのツオエが絵の中の肖像になるのにも瞬きほどの時間も必要ではありませんでした。その絵は先程と同じように見えましたが、なにかどこかが異なっていました。
 陛下はもう腕の中のツオエしか目に入らない様子でしたが、錬金術師は絵を抱いて部屋を出るときに振り返り、こう言いました。
『陛下、それはツオエですが、完璧な美しさのほかにツオエ姫となにが違うのかと言われれば、それは魂でしょう。神がおつくりになったものでないそれには、魂がありません。そのツオエと結ばれることで、陛下、あなたは魂の半分をツオエとわかつこととなります。いえ、それは悪いことではありません。古来より、魂を持たぬ精霊たちは、人間の男と結ばれて魂をわかちあうことで、ただ泡となって消えていく運命から逃れ、神の御国へと入ることが許されて来たのです。
 もしかすると彼女が病や、怪我や、さまざまなことで、死んでしまったように見えることがあるかもしれません。息をしなくなり、鼓動が止まり、もはやどんな言葉も口にすることはなくなるでしょう。ですが、それは彼女の真の死ではありません。彼女はあなたが死ぬときにのみ、真の死を迎えるのです。ですから、彼女が死んだと思ってさびしさを紛らわせようと別に新しいお妃を迎えるようなことがあれば、彼女は墓場から立ち上がり、あなたとともに神の御国へ入るためにあなたを迎えに来るでしょう。それは彼女の存在に科せられた禁忌であり、運命です。逃れることは出来ません。くれぐれもお気をつけください』
 こうして錬金術師は、絵を抱いて姿を消しました。そして今日、並ぶものなき美しきツオエと陛下の婚礼が行われたというわけです」
 男が言葉をやめ、六弦琴から指を離すと、酒場にいた者どもの身を呪縛していたなにかの力も解けた。だが、だれ一人動こうとはしなかったし、なにも言わなかった。酒場を見回しながらも六弦琴を荷物の中にしまった男は、満足げにつけくわえた。
「私がこうして皆さんにこの話をしたのは、なにも陛下の御世に石を投げようと思ってのことではないのです。どうぞ、皆さんこそ最後に錬金術師が申し上げた禁忌をお忘れなきように。陛下に万が一のことがないように、一人でも多くの方にこのことを憶えておいていただこうと思ってのことです」
 男は荷物を抱えあげると、酒場を立ち去ろうとした。
 だがたった一人だけ、口を開いた者がいた。彼は黒い男に震える声でむかってこう尋ねた。
「それでその錬金術師とやらはなぜ美しくもない絵を望んだのだ
 男は高らかに笑って、その疑問を一笑にふした。
「人間は美しければ魂は必要がないと来る。君らの魂は可変的で、魂のない絵のツオエにさえわけることが出来る実に素晴らしいものなのだが! しかしこの広い世界には、魂こそをほしいと望む者もいるのだよ。この僕のように。人間はこれほど美しい魂をしたツオエの価値がわからないと来たものなのだから、まことに彼女は哀れなものだ!」

《終》 《back : TEXT LINUP》
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