"セッション"の恐怖










 五月。

「なぁじゅん

「なに?」

 とおるは、屋上の柵にもたれかかり、何十メートルも下にある風景をながめていた。高いところは心地よい。

 くわえたタバコから、煙が揺れながら立ち昇っていた。

 墜落するときに見るだろうビジョンを思い描きながら、透は続けた。

「心中しねぇ?」

「馬鹿馬鹿しい。僕はやだよ。死にたくないね」

 潤も柵によりかかった。

 透は、今、この柵がこわれたらどうなるだろう、と思う。幼馴染みの潤といっしょに、最低なことに男同士で心中だ。

「死にたくない、ね……」

 はるかむこうにある海を見る。学校の屋上から見える繰巣クルスの浜は遊泳禁止のため、あたたかくなったこの時分でも、色とりあざやかなヨットやらの姿は見当たらない。

 青い海。青い空。充実した学園。

 なかなか、理想的な状況だった。

 紺色のブレザー姿の二人の少年は、己々好みのタバコをくゆらせながら、波乗なみじょう高校の五時間目をサボタージュしていた。

 潤の目には、透の見る景色とは反対側の裏門の方に立つ桜の巨木が見える。葉が青々と茂って、少し汗ばむ太陽の下で見ると暑苦しい。潤は自分のタバコをつまみ、灰を落そうと柵から体を浮かした。

 そのとき、透は体が脱力したように、かしぐのを感じた。

「透! 危ない!」

 潤が悲鳴を上げる。ガシャン、と更に音がして、透はなにが起こったのか感じとった。柵が――四階建て校舎の屋上の柵が――外れたのだ。

 ……落ちる! と思った。下は地面だが、死ぬには十分な高さだろう、と冷たい意識の中で思った。

 冗談だろう?

「透っ」

 潤が透にしがみついた。柵だけは重力にしたがって落下する。弾みで透はコンクリートに座りこみ、息をついた。心臓が激しく動いている。

「……よかった……」

「馬鹿だよ、おまえは!」

「今度ばかりは、俺も、そう思う……」

 下に人はいないようだったから、柵については問題ないだろう。ただ少しやっかいだ、と二人は思った。潤はすぐにタバコをすてた。透のは下に落ちてしまっていた。

 さて、なんと教師に弁明するべきか。

「黙っていようか」

「讃成だ」

「透、僕は思うんだけどね。おまえ、なにもしゃべらない方がいいよ」

「なんでだよ」

「よく考えてみろよ。昔、野球してたときに『ホームランでも、あの窓割ったらしたかねぇな』って言ったでしょ。そうしたら、次の打順に見事に割ったよね。あとは、小犬を見つけたとき。『明日行って、死んでたりしねーよな』って言った。次の日、あの小犬は死んでた。君の姉さんのことだって――」

「関係ねぇよ、そんなの。それに俺は、柵が落ちればいいなんて言ってない」

「でも――」

 と、潤は続けようとした。彼がこんな訓戒めいたことをたらたらと語るなんて、滅多にないことだった。けれど続くはずの言葉はけたたましい声にさえぎられる。

「透!! 大変だよ、じんの奴が、」

 屋上に一人の少年が転がりこんできた。一目で素行の悪い少年だとわかる風体だが、体が大きいせいで妙な威圧感を持っていた。動転しているようだったが、瀬野せの透の傍に永井ながい潤がいるのを見て、彼の顔は強張った。

「永井もいたのか……」

 三宅拓人みやけたくとはそう言って、苦しそうに額をぬぐう。

「仁が? どうしたんだ?」

 透は、少年らしい拗ねたような表情から一転して為政者の表情になった。目が厳しく三宅を見据えた。三宅は息を整える間もなく、告げる。

「あいつ……ビョーキにやられちまって……」

「病気? なんの?」

 潤がたずねる。

「"セッション"」



*       *       *



「まさか出るとは思わなかったな」

 透は、潤につぶやいた。草加そうか仁は、透たちの友人の一人だ。その彼が"セッション"に罹ったとあれば、他人事ではなかった。

「伝染が早いね。"セッション"という病が発見されたのが、先月はじめ。で、もうか……なにか関わりがあったのかな?」

「それが……仁、バイトしてたんだよ。ついこの間から、雑誌社で」

 三宅が補足すると、透はうなずいた。

「じゃあ、そのせいか」

 "セッション"は、つい一月前に発見された類例のない奇病だった。感染経路もまったく知られていない。原因となっている病原体さえもわかっていない。罹患した人間は、たいてい指先から腐りはじめて、しまいには全身がぐずぐずに溶けて死んでしまうのだった。噂ではとある事件がきっかけだと言われているが、その事件は病原体が関わるようなこともないありふれた殺人事件だ。ただ、その事件に関わった警察官や医師、記事にした記者たちの間で、まず"セッション"は始まった。

「問題は、さて"セッション"が伝染性かってことだね」

 潤が呟くと、透は不意に目を上げて言った。

「撰択されてるって感じがする」

「なに?」

 それは透のひらめきのようだった。ひらめきは人間の知を超えたものだ。人間のものではない。我々が神と呼ぶ――神でなくとも、精霊スピリチュアル星気体アストラルボディといった、一段高次の世界で起きることだ。

 潤は「ひらめき」という言葉に、いつになく不安を掻きたてられる。さっき、透の言葉が不吉だといってしまったことと無関係ではないようで、透のひらめきの悪い部分が当たるような気がしたのだ。

「だれが撰択するんだよ。まさか、ウイルスが病気にする人間を撰ぶってことか?」

「ああ。そんな気がするんだ」

「……馬鹿げてる」

 そっけない潤のことばに、透は腹を立てた。

「なんだよそれ」

「別に。馬鹿げてるって思っただけさ」

「潤、てめぇ……」

 透が潤につかみかかろうとするのを、三宅が止めた。

「透、そんな場合じゃねぇよ……」

 そのことに透も気づいたのか怒りをおさめた。ただ、なにかしら引っかかったままだった、どこかが妙だった。

 潤が透を小ばかにしたように振る舞うなど、おこるはずもないことなのに。

 ただ純粋に、透は潤を信用していた。どんな子供じみた計画にも潤は乗ってくれた。だからこそ、透は無意識のうちに傷ついていた。

 透はいらいらしながら髪をかきあげた。

 深い夜の色をした髪が、風にあおられて視界をおおう。すこし伸びたらしい。

 彼は、なにかに立ちつくす潤に目をやった。

「潤?」

 うつろな色をした瞳が動いた。潤ははっとして、透を凝視した。

 静寂、寂寥。透も潤から目が動かせなくなった。妙な圧迫感が存在し、やにわに空間は、背負う重力が増されたようだった。汗がにじみ、不安以上の恐怖があった。

「透、どうするんだよ」

 三宅が言うまで、それは続いた。

 呪縛から逃れた二人は、三宅を見る。

「他に知ってる奴はいねえのか? それに、まだ死んだわけじゃねぇんだろ」

 透が言うと、三宅はうなずく。

「じゃ、黙っていた方がいい。怖かったら一人で逃げればいい。他人もまきこむと、ひどいことになるぜ」

「あ、ああ」

 三宅はうなずいて、屋上を出て行く。チャイムが鳴った。

「透、そろそろ退散しないとやばい。柵に気づいて先公が来――」

「もう来てるわよ」

 二人がぎょっとすると、そこに国語教師の大村沙夜おおむら さやがいた。格好だけを見ると、とても教師には見えない。今日は純白でボディコンシャスなミニ丈のワンピースを着て、踏まれたらとてもじゃない鋭利な――蹴られてもいやだ、と透は思った――やはり白のハイヒールをはいている。すらりとした長身の美女で、みんなが「体中で挑発している」と言っている。彼女が今年度の風紀委員の顧問教師だということは、あまり信じられていない。

「なにしたのよ、あなたたち?」

「なにもしてませんよ」

 ためらいながら潤が言った。透はあまり女教師を見ないようにした。会話でも無節操な教師なのだ。気さくといえば気さくだが、やかましいといえばやかましい。

「あらそうなの? でも、成績優秀品行方正……なはずの永井くんの口から、『やばい』とか『先公』とかいうことばが漏れ出てたような気がするけど?」

 透は矛先が潤の方に行ったので少しほっとした。

「えっ? まさか、先生。キレイでうるわしい大村先生をそんな風には言いません」

 大村はちらり、と潤を見る。彼はぞっとして、思わず柵のはずれたところから飛び下りたくなった。

「永井くんに瀬野くん、こんなところで二人きりで、なにをしていたわけ?」

「どういう意味ですか、センセイ」

「だって、なんだか変な雰囲気じゃない? なんの話をしていたの。階段で顔面蒼白の三宅くんにも会ってるのよ、ワタシ」

「別に……」

「永井くん。別にっていうのは、なにかあるときに使ってしまうものなのよ。ねぇねぇ、なに? 教えてよ」

「なんでそんなこと聞くんです?」

「面白そうだから」

 しれっとして大村は答えた。

 透も潤も、昔から先生という存在がどうしてか、嫌いだった。

 小学校のとき、潤は、はたから見れば異常なほどの良い子だった。けれど決して、先生は「永井くんのようになさい」とは言わなかった。うけもって一月のうちはまだいいのだが、それ以後はけむたがられるだけだった。教師たちはある意味、なんでもこなしてしまう子供を無気味に思ったのかもしれない。

 反対に透は、すばらしく無軌道だった。子供の悪ふざけや冗談という範囲では済まされなかった。家庭が恵まれていないのだ、とカウンセリングを受けたこともあったが、小学校三年生だった透は、したり顔で説教するカウンセラーの前歯を折ったのだった。

 中学は二人とも波乗学園に入った。中高一貫でそのまま、高校も同じところに通っている。以前と比べて、透はめっきり大人しくなった。二人は大人たちの視界の影で動くようになった。そもそも、透から悪戯のスリルを除くことは不可能だった。彼は水面下で世界を支配した。

 潤は、透といた。彼ら二人は友人である以上のものだった。お互いに相対するのはお互いしかいなかった。同じ地平に立てるのは、彼ら二人しかいなかった。

 ――当然、影がいれば、光もいた。

 波乗学園の彼らの学年で、表舞台に立っているのは千条せんじょうという少年だ。目の前にいるこの大村沙夜のお気に入り、という噂だった。

 透の、千条に対する気持ちはただひとつ、いけ好かない、だ。

 以前からそつなく人望を集める少年だった。高校二年になり、とうとう生徒会の会長だ。優秀で人望があり、学園創設者の孫、その強い光のもとに、透と潤は影の世界を楽しんだ。ああいうところに目が行くから、好きなように、今のきわどい生活を続けられるのだ。

「どうしたのかしら、瀬野くん」

「は?」

 いつのまにか、大村沙夜が透の目の前に来ていた。

「なん…だよ」

「瀬野くん、よく見るとかわいいのね。あたしの好みだわ」

「はぁ?」

「瀬野くん、たしか瀬野透っていうのよね。透くんか。かわいい名前。とおるくんとおるくん。とおるくんって呼んでいい?」

「もぉ呼んでんじゃねーか」

「じゃあ呼んでいい?」

「……勝手にしろよ」

「わーいやった。前から透くんとはお近付きになりたかったのよねっ。透くん透くん、君ってば悪魔の申し子なんでしょ?」

「――は?」

 潤がみじろいだ。透も目をみはって、大村を見た。

「なんだよそれ」

 大村沙夜は透が自分のことばに興味を持ったのがうれしいのか、にっこりと笑った。

「だってそうでしょう。透くんは悪魔と人間のあいだに産まれた子でしょう。人でありながら人でないんだわ。ねぇ、永井くん、おさななじみのあなたなら知ってるんじゃない?」

「あんた頭がおかしいんじゃないのか?」

「透。行こう」

 潤は一人でそびらを返し、透もそれに続こうとしたが、

「ちょっと待ちなさい。透くん、それに永井くん

 そう言われて、二人はしぶしぶ足を止めた。自信に満ち満ちた美貌の女教師は、殊に潤を見つめた。潤は警戒気味に、教師に尋ねた。

「なんですか?」

「気をつけてね」

 どういう意味だかわからない。透は大村をにらみつけた。教師面して勝手なことばをほざくのも腹立たしいが、この女の不躾な態度も気にくわない。透のことはなれなれしく名前で呼ぶくせに、潤のことは「永井くん」と呼ぶのも腹が立つ。

「あんたなんかにかまってる暇はねぇんだよ」

 派手派手しい女教師はしかし、恫喝する透の様子に臆したふうもない。

「なに? 透くん、"セッション"にでもなったの?」

 透が表情を変えかけたが、潤は草加仁のことを気づかせてはならじと言った。

「くだらないですよ。透はそういうのには罹らないでしょうね。そういうやつだ。
 行こう、透」

「あぁ」

 二人は屋上を出て、今しもはじまろうとする六限目の授業に参加した。



*       *       *



 潤とは教室の前で別れた。潤は二年一組、透は隣の二組だ。

 六限目、前の時間からサボタージュしていた透と三宅が戻って、二年二組の空席は草加のものだけだった。教室はいつもどおりだ。少女たちが他愛もない話にざわめいている。"セッション"は流行しているが、だれも身近なものとは思っていないのだ。クラスメイトがどこかで死にかかっているなんて、考えも及ばないのだろう。

 原因もなにもわからぬ"セッション"は、AIDSに次ぐ、人類に与えられた試練だと言われている。病気としてはじめて発見されたのが二ヶ月前だというのに、歯止めがきかぬほど広まっていた。日本だけに限ってのことでもなく世界で同時多発している。

 春の生あたたかい風に乗って、恐怖と腐敗をまきちらしながら、"セッション"の様々な噂が流れた。だが、本当のところなにもわかっていない。伝染するのか、ウイルスなのか。

 透は頭の中にある、"セッション"の知識を並べたてていた。

 "セッション"には、潤ともども興味を持っていた。しかしその死に様以上のことは、不気味なほど知られていなかった。

(それにしても、よりによって仁が"セッション"とはな)

 罹って回復できた例は耳にしていない。100パーセントの確率で、ただ死ぬだけなのだ。

 仁は昨日から欠席していたが、珍しいことでもなく気にしていなかった。透が知っている人間で、"セッション"患者になったのは仁が初めてだ。確か、罹患してから三日ともたないはずだ。

 やがて、授業が済むと担任がやってきた。二年二組の担任は駆堂くどうという痩せぎすの中年女教師だ。

「皆さん、大変残念なことをお知らせしなくてはなりません」

 駆堂はそうはじめた。透はその不吉な様子に気づいて、久しぶりに担任の方を見た。

 窓の外は晴れわたって青い色をしていたが、それはいつわりにペンキで塗られているだけのような気がした。

「草加くんが、亡くなりました」

 クラスの動揺はなかった。"セッション"で、とつけ加えれば違うのかもしれないが、あまり授業にも来ない不良が一人いなくなったところで日常生活に変化は生じない。ただ一人、三宅だけが真っ青な顔をしていた。

 あいつもやばい、と透は思う。ひどくショックを受けているようだった。草加仁が゛セッション゛で死んだから?

 "セッション"は、透のすぐ隣に来ていた。









▲ / 「月と太陽と」 /


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