国語科研究室
ホームルームの最後に、瀬野くんを大村先生が呼んでるわ、と駆堂が言った。「あと、屋上の柵がこわれました。しばらく屋上を立入禁止にしますので、気をつけてください」
続く言葉を聞き流しながら、透はあからさまに顔を歪めた。なんの用だというのだろうか。教師である、という以上に、大村は気にくわなかった。できることなら一生関わりあいになりたくない。大村沙夜は悪いことのカタマリ、あるいは疫病神。そんな気がしてならなかった。
会いたくない。教室の数名の生徒が透を見ていた。大村沙夜と瀬野透という組みあわせに、なにか勘ぐっているらしい。
皆いい気なものだ、と透は思う。すぐそばで死人が出たと言うのにお構いなしだ。
今日はおかしな日だった。草加といい、落ちた柵といい、大村女教師といい。
――そして潤といい。
潤の様子がどこかぎこちないのに、透は気づいていた。潤の冷たい顔を思いだしたその時だ。心臓がなみうち、誰かが首をしめているような苦しみが彼を襲った。巨人の手に握り潰されているような強烈な痛みが、体中を襲う。にわかに呼吸がとぎれ、心臓は激しく鼓動を刻んでいた。
すさまじい苦しみだった。眼球が圧迫されて飛び出してしまいそうだ。それと共に魂を持って行かれそうになる。苦しみのうちに、もう一人の透が語りかけた。
――なにに苦しむんだ? なにも苦しむことはないじゃないか。おまえはだれも信用していないし、必要としてもいない。永井潤だって、そのうちの一人だ。おまえはなにも必要じゃないんだから。
(違う! そうじゃない。潤をそんなふうに思ってない。潤だけは違うんだ)
心の奥で闇が蠢いていた。透は、自分の心のどこかがどこかへ扉を開けたのを感じた。それは彼のすぐ傍にある扉だ。なのにどうして今まで、その存在に気づかなかったのだろう。……
――変わるのはおまえじゃない。だから棄てろ! このままとどまったって更に苦しくなるだけだ!
(わかっているのか、おまえは? どうして苦しいのか)
――本当はおまえもわかってるだろう。
(そうじゃない。そうじゃないんだ)
――いいや。わかっているはずだ。本当はもう、すべてわかっているんだ。
(嫌だ。
そんなの嫌だ。だって今までずっと一緒にいたんじゃないか。なにもかも一緒にのり越えてきたんじゃないか。俺がそれを赦すのは潤だけだ!)
――仕方ない。
真実なんだから。
「起立」
号令がかかり、くらくらする頭を抱えて透は自然と立ちあがった。もう一人の自分の声を押さえつけたものの、苦痛の残滓は顔を歪ませるのに充分だった。
……苦しい。
脂汗が流れた。
今日はおかしい、と、透は思った。
* * *
大村のところに行く気はしなかった。苦い思いだけが頭を占めて、なにも考えられなかった。
なのに早々に学校から帰る気にもなれない。それで、透は屋上へむかった。
三宅や草加のことを頭にうかべても、どうしようとも思えなかった。すべての調子が狂ってしまい、ただ彼らも狂ってしまった中にいるとしか考えられないのだ。
透は屋上へ通ずるドアをあけた。立入禁止にする、というので鍵がかかっているかと思ったのだが、一瞬の抵抗のうち、無事に開いた。
少年は屋上を歩んだ。外れた柵はまだ仮の補修もされておらず、透がへりに立つと真下が見えた。ミニチュアの光景に近い。世界が逆さまに、重力が反対に、そんなふうになってしまったように見える。
今、落ちたらどうなるだろうか。彼はまた、そんなことを思った。隣に潤はいない。――きっと大人たちは、透の素行から勝手なことを推測して、もっともらしいものを
゛自殺゛ の理由にするだろう。
透は落ちてみようか、という気になった。別にそれでもよかった。それはいつものきまぐれな心が無軌道におこす悪ふざけと同じものだった。スリルをあじわうのは、透にとってなにより――生命よりも――重要だった。
ここから下へ飛んだら、気持ちいいだろう。その浮遊感と失墜感を想像するだけで興奮してくる。透はその落下後の状態をみじんも考えず、体を風にまかせたくなった。
「透くんっ なにしてるの!?」
体当たりされたように抱きつかれた。透は思わず、うぎゃあ落ちる! と叫ぶ。
我にかえって見てみると、大村沙夜だった。背中に彼女の豊かな胸の感触があり、彼らしくもなく赤くなった。
「危ねぇな。落ちたらどうすんだよ」
「心中。ね、透くん、心中しよっか」
「やめろよ。冗談じゃねぇ」
「そっか、そーよね。一緒に落ちたって、透くんは死なないもんね」
「なんだよ」
「呼んだのに来てくれないんだもん。まさかと思ったら、やっぱりここだったのね。ね、どうやってここに入ったの? 鍵、ここにあるのに」
「あいてたんだよ」
「嘘。あたしがさっき、しめたんだから」
「だれかが途中で来てあけてったんじゃねーか?」
透は大村の手をふりほどいて少しはなれた。
上から下まで女教師をながめる。まじまじと見るのははじめてだった。確かに、大した美人だ。――やりすぎなところはあるが。憂鬱など知ったことではないというその姿は、透の心と対極にあった。
大村女教師は
にやり、と笑う。
「どうしたの、透くん?」
彼は教師の声を無視した。重く、暗い気分が息づいていた。不安は
宿木のように心にからみつき、透をさいなんでいた。狂いそうだ。
一日が長かった。太陽の下で瞳を開くのがひどくつらかった。
「透くん?」
「なんでもねぇよ」
視線をふいとずらした。なにもかもがおかしいから、どうでもいい。こんな調子の狂った世界は、彼の預かり知らぬところだった。だから、興味を持てないのだ。
「永井くんは? いないの?」
「別にいつも一緒にいるわけじゃない」
「気分が悪そうだわ」
「あぁ最悪だね。だから俺の前から消えてくれ。少しはマシになるだろーよ」
透は見慣れた学園からの風景をながめた。遠い海と空と、そして学園をかこむ緑と。
光がにじむ。やおら視界が変調し、分解していきそうだ。
「どうしたの?」
「なにがだよ?」
透はうるさい、と思った。この女教師を相手にしていると、あまりにもひどくいらいらした。それを知っているかのように、おかしそうに笑いながら、大村は尋ねかえしてくる。
こんな反応はいつもの透らしくなかった。日常世界を冷たく嘲笑うのが彼の立場であったはずだ。彼は様々なことをしていたが、幼さがその悪事を覆い隠すことも多かった。そしてまた、透は魔王のように、気づかない世界を嘲うのだ。
この日の彼は妙に浮き足だっていた。総毛立った猫になったようだ。なにも見えない暗闇に放りこまれたような不安は、透には縁の遠いもののはずだった。
(どうやら、どこかが狂っちまった)
彼はそう思って、死んでしまった草加や、゛セッション゛のことを考えた。
草加仁は、中学一年の頃にクラスメイトからいじめを受けて、透や潤に近づくようになった。彼は闇の支配者のそばに来ることで、自らもそのステータスを手に入れたのだ。
繊細でかよわい外見とは裏腹に、だれよりも力に対する執着が大きかった。生き抜くことへのモチベーションはだれにも負けなかった。それでいて仲間意識が強く、草加がいなければ、三宅ら他の少年たちと、透や潤が徒党を組んでいることはなかっただろう。
草加が死んでしまっても、゛セッション゛に対する実感はなかった。
゛セッション゛は発生が確認されてから一ヶ月も経たないうちに数百から千という数の死者を出している。世界中で同時多発している、ということはつい最近になって知られるようなになった事実だから、本当はもっとたくさんの人間が゛セッション゛によって死んでいるはずだった。
でも不思議と、怖くはない。あんなに身近な人間が死んでさえ。
世界が恐怖に慄いている中で、自分だけが平然としているような気がしてならなかった。
唐突に、彼は「歯車のくみあわせ」を思いだした。゛セッション゛という油をさされ、ひとつがおかしな方向にまわりはじめるとすべてが狂っていく、世界の歯車。異様なイメージだった。軋りながら狂った回転に追いつけない歯車がひねりつぶされていく音が、聞こえるようだ。
(――どこかが狂っちまった。俺もそのひとつかよ)
それにしても、と透は思う。どうして、いい奴からが死んでいくのだろうか。よりよい人間から、この世界に見極りをつけていく。そんなにこの世界は地獄だろうか。
「透くん、どうしたのよ。いつもの透くんを知ってるわけじゃないけど、変だわ。草加くんが死んだから?
彼ももったいなかったわよねぇ。ハーフみたいで可愛い顔してたもん。ねぇ、草加くんってそうだったの? どういう国の?」
「……イギリスとかいってたけど。親父が香港に駐留してた将校だって。
あんた、なに考えてんだよ」
「不謹慎だっていうの?」
「自覚ねぇんじゃ仁があんまりだな」
「勝手になんとでも言いなさい。
あたしだって一応草加くんには南斗北斗の居場所を教えてあげたのよ。無能で世間知らずの透くんとは違うもの。
もっとも、どんな神様も゛セッション゛の前にはたちうち出来ないかな。これもすべて、永井くんのせい。かわいそうな草加くん」
「どういう意味だよ」
「あたしの足にキスして『お許しください女王様』って言ったら教えてあげる」
「じゃあ用なしだな。俺は帰る」
「あ、ちょっと待ってよ透くん」
「仁の家に行くんだよ」
「じゃああたしは永井くんのところに行こ」
「おい!」
透はすさまじい顔でにらみつけた。大村の腕をひっぱって(ハイヒールをはいた大村沙夜の身長は透より高かった)、
「痛い! 放して」
「いい加減なことほざいてんじゃねーよ。あんたかなにをしようが知ったこっちゃねぇが、俺にも潤にも、絶対に関わるな!」
「放して」
「絶対に干渉しないと誓え。あんたは不愉快なんだ」
透は、大村の腕を無理な方向にねじあげた。
「痛い! なにするのよ!」
「あんたがひとこと言っちまえばすむ話だろ」
「だって嫌よ、私。せっかく人が……」
「黙れよ。あんたが言うのはひとことだけでいいんだ」
「嫌よ。……痛い!!」
少年は無慈悲に腕を折ろうとした。それは、瀬野透にしてはいくぶんかまずい行動だった。今まで警察沙汰になるような間抜けなことはしてこなかったが、教師の腕を折ればまぬがれようもない。
だが透は、大村は表沙汰なんかにはしない、と思っていた。おかしな女教師だった。
「透くんて、サディストだったの?」
「なんだよそれ。……ねーちゃん、脂汗うかべてそれはないんじゃねぇの? それともあんたはマゾヒストだとでもいうのかよ」
「だって透くん、すごく楽しそうだわ。い、い、いたたたたっ」
透は舌打ちして大村をつきとばした。いまいましい。それというのも、と透は思う。
――おかしいんだ。
なにがかはわからない。ただ、大村もおかしいし、潤もおかしい。三宅もおかしいし仁もおかしい。もちろん、透自身も。
誰かの悪意のように天気のよい五月だった。ここから見える海の、潮が香った気がした。
大村は痛さのあまりすわりこんでいたが、やがて立ちあがった。こりずに透の隣に立つ。息をついてから、また、
「透くん、調子狂ってるの? なに? まさか生理」
「なぐるぞ!!」
「ねぇ、少しあたし疑問なんだけど、
両性具有って、生理あるのかなぁ」
「なんの話だ、なんの。アンドロ……なんだ。」
「アンドロギュノス。ふたなりってことよ」
「なんだよそれ」
「教えてあげない。それより、あずかりものがあるのよ。呼び出した用件はそれ。早く渡しちゃいたいなー。今日デートなんだもん。早く帰らせて」
「なんなんだ?」
「手紙よ。今はないの。国研に行かないと。来てぇ」
懲りたようすもなく、甘えた声を出す女教師に、透は無言できびすを返した。大村といては、どんどん苛立ちが募るばかりだ。いなくならないというなら、透が立ち去るしかなかった。
屋上を降りると、大村も追ってきた。
「国研はこっちよ」
「いいよ、手紙なんて。俺には関係ない」
「いいの? 出した人の名前、
瀬野由貴子ってかいてあったけど」
「……本当か!?」
「なによ透くん。だれ?」
「知らねーのか? 意外だな。あんたはなんでも知ってんのかと思った。あんた『マクベス』の魔女じゃねーのか。残念だ」
二人が国語科研究室に行くと、ちょうど大学生くらいの見知らぬ青年が出てきた。
「あら、
不破くん。どうしたの?」
大村とは知り合いのようだった。大学の文学部かなにかだろうか。
「あ……
国立先生に用があったんですがいらっしゃらなくて」
「国立先生ねぇ。ま、がんばって探しなさい」
彼は暇を告げると立ち去った。透は、珍しく興味を持ってだれかとたずねようとしたが、そのまえに大村が言った。
「あれは不破
端くんよ。大学科の漢文学をやっている三年生。ワタシの後輩」
「そっか。……で、手紙は?」
「待って。ああそこ、コーヒーでも入っているでしょう。二つぶん注いでよ」
透は使われるのにむっとしつつ、適当にコップをふたつ探し出し、コーヒーメイカーのポットをとった。瑞々しい暗い香気が少年をとりまいた。
少しだけ、内なる混沌の荒れがしずまったようで、彼は小さく息をつく。
それでもやりきれない。なにかが。
「ないわ」
透はコーヒーを飲みながらふりかえる。なにがないのか、よくわからなかった。
「なんだ?」
「おかしいわね」
大村は自分の机を――汚い!――もう一度あら探しする。それで見つかるとも思えないのだが、そんな女教師を見て、透はふっとひらめいた。
――不破端。
「おい、ねーちゃん、手紙がないのか」
「そうよ」
「おい!!」
少年はナイフをのどにつきつけられたような、ニワトリのような声を出した。口の中はカラカラだった。手の中のカップのコーヒーを何口ものんだが、よりひどくなるだけだった。
「おい、差出人、瀬野由貴子だったんだろう?」
「そーよ、おかしいわね」
「あいつだ!!」
「透くん? どうしたの」
「不破だ。そーか、あのやろう……」
「どうしたの。不破くんがとったっていうの」
「それしかないだろーが。前もそうだった。ずるがしこい奴なんだ。俺のウラすらすりぬけちまう」
「それはすごい人なのね、不破くんって。さしずめ、オオクニヌシノミコトってところかな。ねぇ」
「なんだよ」
「だって、透くんはスサノオだもの。でも、手紙……」
「そう! あの手紙は姉さんからのなんだ!!」
▲ / 「月と太陽と」 / ▼
[シドウユヤ * all rights reserved * http://xxc.main.jp/]