草加邸










 三宅拓人は表門から学校を出、波乗学園名物の、林にかこまれた「首転坂くびころびざか」をまろぶようにかけおりた。

 拓人は、なにも考えたくないがために走っていた。心がぎくしゃくとする。なぜかよくわからない。少年は恐怖にとりつかれていた。

 その日は彼にとって凶日だった。

 なにか悪いことがあったのではなかった。確かに草加が死んだことを聞かされた。けれどそれはどちらかといえば草加仁にとっての凶運のはずだった。なのに拓人は、死んだ者は安らかだとさえ思った。

 首を絞めるような恐怖が、彼の中にこみ上げていた。それがこの日の、三宅拓人の「凶」であった。

 だれかが拓人に呪いをかけたとしか思えなかった。胃の中のものが逆流しそうで、背骨が震える。

 どす黒い汗は走り出す前から流れおちていた。

 足も力が抜けてひどくだるい。

 少年は、はたから見ればまるで、見えない大きな手から逃げているようだった。そして走りながら彼は、草加家にむかっていた。死んでしまった草加仁の家へ。

 体が重い。肩から腰にかけて、重荷をしょわされたようにだるく、それは思考能力を失わせていた。

 彼の理性は粉々で、とりとめのない断片が心の中にうずをまいていた。

"草加"。

"セッション"。

"死"。

"セッション"。

"死"。

"セッション"。

"死"。

"セッション"。

"死"。

"草加"。

 ――"永井潤"。

 なぜか、永井の名前が思いうかんだ。

(……俺は"セッション"が恐い、死ぬのが恐い、……それに、永井も恐いっていうのか)

 永井潤は、三宅たちの間でも浮いていた。瀬野透を筆頭とするグループを形成しながら、その瀬野透の親友である永井潤のことをどうしても、親しく「潤」と呼ぶことが出来なかった。

 おそろしいのだ。

 彼の眼光は稲妻のようだった。透のように潤のすぐ傍にいる者や、無関係といっていい他の生徒たちはそれを感じないらしい。おそろしいなどと、正気の沙汰じゃないと嘲笑われる。

 確かに厳しい少年だ。完璧主義者だとも思われる。だからって、恐ろしい?

 だが恐い、と拓人は思った。

 だれだって死は恐い。"セッション"も恐い。永井潤に感じる畏怖はそれらに対するものにとてもよく似ていた。草加が死んだこの日に、とりわけそれを感じるのはどういうことだろう?

 草加の家に行くには、日車ヒグルマの隣の駅である国栖クニスで降りなければいけない。駅まで走りに走った拓人は、とにかく電車に乗りこんだ。立ち止まっているのは耐えられそうにもなかったが。

 全力疾走をしたために生理的な汗が、冷や汗を流していた。だが、どうやってそのふたつの汗をわけられるというのだろう。

 息苦しい。長そでのブラウスとブレザー、ゆるんだネクタイが肉体的にも精神的にも圧迫する。

 鞄の中からタバコを取り出し、人目も気にせずに吸った。

 彼は自分の恐怖をまさぐった。なんだというのか。――いくら草加が仲間だからって、全力疾走するほどのことがあるのだろうか? それとも俺が追いたてられているこの恐怖はそれとは違うのか、もしや俺はなにかから本当に逃げているのか、草加のもとに駆けつけているのではなくて?

 空は晴れわたっている。しかし拓人の目には曇って見えた。少年は180センチをこす大がらなたくましい体つきだったが、走ったせいか、目をむいて酸欠のような表情をしていた。

 一、二分も経たずに電車は国栖に着き、拓人をはきだした。駅を出たところの電気屋に置かれたTVが、ターバン姿の男をうつしていた。

 国際平和、という文句が耳に入ってきた。拓人はクソくらえ、と思って草加の家へ、今度はゆっくりと歩いていった。今は走ることのほうにおそれを感じていた。

 心音が乱れていた。呼吸ひとつひとつが拓人の命を少しずつ奪うようだ。

 苦しいし、こわかった。

 ――"セッション"。二日か三日で犠牲者の肉を腐らせ溶かす、未知の病。そんなものが本当に、こんなそばに。

 とおる、と思う。

「透、あんたは恐かねぇのかよ。"セッション"もよ、永井もよ……」

 ひとりごとをつぶやく。人の声もしない静かな住宅地で、返す人もいなかった。

 ふと気がついて三宅が時計を見ると、すでに5時になっていた。学校を出たとき、三時半だった。学校からここまで、隣駅だ。一時間半もかかるわけがなかった。三宅は自分がなにかを飛び越えてしまったような、そんな気がした。

 記憶があるのに、それは失われていた。慌てていたせいかもしれない。

「おい、三宅、三宅だろ」

「あん?」

 呼ばれて、拓人はふりかえる。そこは草加の家の前だった。

 濃紺のブレザーに赤の入ったネクタイをした少年が立っていた。汚く着崩した制服は、波乗学園のものではない。近くにある公立高校のものだった。

 ステレオタイプの不良のいでたちは、ときおり笑いを誘わずにはいられない。オールバックになでつけられた髪型からは、少年の執念深さが感じられた。回田孝史かいだたかしは、目立つ彼の姿を一瞬でも好奇の目で見た人間に対して、それこそ執拗な暴力行為に及ぶ男だった。一度「焼き」を入れると、そのあとに響くことはないのだが、その場での痛めつけかたは、場合が許せば徹底した。三宅は、こいつは相手を殺す気なのかと思う場面に、何度も遭遇したことがあった。

「……草加の通夜か」

「そうだ。回田、てめえは?」

 三宅と回田は同じ卯月うづき中学を卒業していた。高校は別々になり、三宅は波乗に、回田は地元の共正きょうせい高校へ行ったのだった。

「それ以外に、なんかあんのかよ」

「……美好と野原は? 来なかったのか?」

「知らねぇ。この頃まともに口もきいてねえよ」

「そうか」

 三宅はためいきをつく。

「済まねぇな。わざわざ連絡してもらってもらったけどよ、美好も野原も、あいつら駄目だぜ。ミョーに、タメの生徒会長に目を付けちまってよ。あれ、絶対におかしいぜ。いかれてやがる。また、そいつがチビでやわそうな顔してるくせに……全然あいつらに負けねぇんだよ」

 三宅はおや? と思う。草加のことを連絡したのは彼だったろうか。草加仁は、中学生の頃から波乗学園に通っていたが、なじめずに三宅たちとよくつるんでいた。だから、連絡したのだろうか。いつ?

「俺、こえェよ。あいつら、とり憑かれてるみてぇでよ」

 三宅拓人はなにかめまいを感じて回田を見る。けれどそのまま、草加の家の門を開いた。戸口にあるチャイムをならす。

『はい』

「――三宅……」

「と、回田です。あの、仁くんの」

『あ……はい、今』

 二人はすぐに居間に通された。



*       *       *



 どこにでもある家だった。三宅と回田を部屋まで上がらせ、仁の母は力なく腰をおろした。

「ごめんなさい。せっかく来ていただいたのだけれど、もううちには仁の体はないのよ」

 仁の母親はそう言った。はじめて会うが、仁に似た美人だった。かなり若いときに仁を生んだはずだが、それでもなお、本当の歳よりずっと若く見える。仁とは姉弟といったほうが通りがいいだろう。

 三宅と回田は視線をみかわした。

「どういうことですか。だって今夜は通夜じゃ」

 三宅は、草加の母親の様子にいくばくかぞっとする。ぎこちない動作。うつろな瞳……感情のない……

 はじめはたったひとりの子供を失ったことから来る脱力感かと思った。

 回田が拓人をひじでつつく。言いたいことは同じだったらしい。

 ――変だ

「相馬研究所というところがやって来て、仁の体を持っていったのよ」

「そうま研究所ですか」

「ええ。だから、お通夜をする必要はないって言うのよ。わたしも、そう思うわ」

 仁の母は淡々とつぶやく。おそろしいほどに。

 他人の三宅でさえ、だれかの"死"に凍えているというのに、仁の母はそんなものはみじんも感じていないようすだった。

「あ、あの――」

 と、回田がたずねかけた。仁の母は視線を虚ろにさせたままで応えた。

「……は、い?」

「――回田!!」

 三宅は咄嗟に回田の名前を叫んだ。目の前で、腐った肉片がどろり、と落ちた。

 "セッション"だった。









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