聖痕
放課後、永井潤はなんとなく校内をぶらついていた。
波乗学園は充分に広い学園で、高校校舎からいちばん遠いチャペルまでは15分以上かかる。ゆっくり歩けばなおのことだった。その間には緑に包まれた散歩道があり、数々の木や花が植えられている。
……潤がチャペルに行こう、と思ったとき、彼はすでにこの道を歩きはじめていた。
けれどうららかな遊歩道を楽しむ余裕は潤になく、足をひきずるようにして彼は歩いていた。体中がだるかった。
――今日は5月28日。
潤は様々なことを考えるのをさけた。今日は潤の誕生日だった。この日の夕方、潤は生まれたのだった。――そうして、また同じ日に彼は17歳になろうとしていた。
――
ひらめき。
とつぜんそれが降ってわいた。潤にはときたま、そういった、動物的なカンがあった。
たとえば、交通事故の予知だったり、地震や火事の予知だったりする。そして、透が近くにいるということがカンでわかるのも、そのひとつだった。
透は、小さな頃から特別な存在だった。はじめて会ったのは公園だったろうか。まだ二つか三つのときだ。潤は、はじめにこう言ったのをおぼえていた。
『きみの名前は?』
そのときの様子は微々に至るまで憶えていた。
黒い大きな瞳。漆黒の髪。見開かれた両目は、潤をひきずりこむようだった。
その少年は、澄んだ声でこう応えた。
『トオル』
『トオルというの』
『うん』
『ぼくは……ジュンだよ』
『ジュン?』
『――トオル!! 帰るわよ、いらっしゃい』
『おねえちゃんだ。いかなきゃ』
『――まって』
潤は透をひきとめたのだ。ひきとめてしまったのだ。
『なに?』
『あした、また、ここに来る……?』
『うん、いいゼ……』
これは私の愛する子、私の心にかなう者。
「え……?」
潤はふとたちどまった。なにか声が聞こえたのだった。
急に潤は不安になった。透になにか悪いことでもあったのか?
透のかけがえのなさはよくわかっていた。潤は透がいなければなりたたないだろうし、透も、潤がいなくてはやっていけなかろう。
閃き。
だれかと、潤は出会おうとしていた。
潤は動き出さなかった。その人と会いたくなかった。いずれ、潤はチャペルへ
行かねばならない。ならばもう少し、もう少しだけ。
校庭では陸上部が走りこみをしている。
インスピレイション。
そして潤は、ゆっくりと、ゆっくりと、しかし確実にチャペルへ進んだ。
体が重く、だるい。ひどいケガをしたようだった。
「……いっつ……」
手と足がひどく痛んだ。それでも、潤はチャペルへ行こうとしていた。
全身に毒がまわったように熱っぽかった。
「いてぇ……」
空気がかわいていて、肺に吸いこむのが辛い。もうすぐ梅雨だというのに。
潤はたおれこむようにチャペルへ入った。
「痛ぇ…ッ」
手のひらと足首が痛んだ。手を見ると、不気味に赤く、血がにじんでいた。ひどいショックのような痛みで、足首の状態も同じだった。シスターはいない。
「痛ぇ!!」
潤は冷静さをかなぐりすてて床に倒れこんだ。しばらくうー、と呻いて気を反らそうとしたが一層ひどくなるだけだった。
両手両足の四肢を激痛にしばられて、上手くうごけない。
「痛ぇ……っ」
世界がぐるぐるとまわる。
『潤!!』
潤は、中学のときに鉄パイプを思いきり頭にくらわされたときのことを思いだした。
透が売ったケンカだった。
撲られてしばらくは、よくわからなかった。透がキレて、叫ぶのだけが頭にわんわんと響いたのを憶えている。
『てめぇら、ただじゃ済まされねぇよなぁ、そんなこたぁ、わかってんだろ!』
「う……っ」
潤は床を転がった。激痛は、治まる気配を見せなかった。
「うーあーッ」
手や足だけではなく、頭までガンガンと痛む。まるであの時、鉄パイプで撲られたときのように。
『潤、しっかりしろよ、大丈夫か!?』
透はあのとき、そう言った。気付くと透の家で、透の姉である由貴子が看ていてくれた。
『おまえんちにそのままつれてったら大変だろ。だからさ』
『あ……ああ。透にしちゃ賢明な処置だね。……ごめん』
『別に、俺も世話になるしよ』
『――潤くん、まだ起きない方がいいわ。寝ていない』
『由貴子……さん』
『こぶになっちゃってるから』
そう言って彼女はほほえんだ。懐かしい微笑みだ。今はもう、見ることもない。
「……痛ぇッ」
肩で息をしながら転がる。ふと、思いあたった。かすかな疑問。――鉄パイプを思いきりくらわせば、骨なんか簡単に折れるじゃないか。
事実――透も潤も、鉄パイプやら金属バットやらでなぐって相手の骨を折ったことがある。それが頭蓋骨――よくこぶで済んだものだ。
「……くしょう!」
――なんだよ、どうもおかしい。
『仁の奴が"セッション"です』
「くそっ なにがっ」
潤はまだ、仁が死んだこと知らなかった。
少年たちは知らないのだ。死は
今、隣りあわせでいることを。
* * *
ハレルヤ、ハレルヤ、さぁむかえよう、神の御子を。
ハレルヤ!
「っ…痛っ……うぅっ」
手足が悲鳴をあげる。
「いて……」
ハレルヤ!
そのとき、潤は見る。
チャペルのステンドグラス。イエス・キリストの御影。かかげられた十字架。うちつけられた四肢。
はじけるように、今までの比ではなく手足が痛んで、赤い血がとんだ。両の手のひら、両の足。
飛んだ赤い血は白いシャツにしみをつくる。まるで今、両手両足を杭打たれたかのように、手足が傷口を生んだ。
「
マリアは男の子を産む。この子は自分の民を罪からすくう。
見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。
――大丈夫ですか?」
頭上から言葉がふりかかった。
「大丈夫ですか?」
もう一度。潤の意識はもうろうとしていた。
ハレルヤ。今、目の前にいる男はだれだ? 彼は祭壇をうしろにたち、奇妙にもステンドグラスの射し込む光が、彼の背中に翼の幻覚を見せていた。それは本当に幻覚なのか?
「いて……」
「大丈夫です。この傷はすぐにおさまります」
「あんた……」
「私は私です。私は私であり父です」
潤は顔をしかめて男を見上げる。そして不思議なことに、男に言われたからか痛みはすっと立ち消えていった。
「だれだよ、あんた……」
「私は私です。私は父・主・あなたの父であられる方の御使い。あなたの母に、あなたを受胎したことを告げた天使、ユーフラテスの面につながれたもの。ガブリエルと呼ばれる大天使です」
「天使? 大天使? ……ふん、えらそう、だね、あんた」
「いいえ、あなたの方が高みにあらせられる。主よ、お立ちください。あなたはかがやく者、
叡智と
栄光をたずさえた方、
背光を持つお方。さぁ、お立ちください。あなたには義務がある。神である父があたえられた約束を行なうのです。すでにそのしるしははじまっています。かの病は災いをもたらし、地上をおおいつつある。神の子よ、地の上から人をぬぐいなさい。あなたにはその義務があります」
「ちょっと……まて」
潤は上半身だけをおこした。痛みはなくなったが、だるさはとれなかった。
「あんた、だれだ」
「大天使ガブリエルです」
「僕に、なにをしろって?」
「人を滅ぼしなさい」
「僕が――だれだって?」
「神の子、イエス・キリスト。聞いたことがありませんか? ユダヤと大和は祖先を同じくしているのですよ。あなたは神の子です。人を滅ぼし、悪魔をうちたおしなさい」
「命令はしないでほしいね。あんただれだ? どこに病院から抜けて出てきたの」
「信じなさい、
潤。私はあなたに伝えるために来た。
ごらんなさい、かのヨナは主から逃れようとして海を荒らした。神からは逃れられない。もうわかっているでしょう、潤よ」
――
すると、主はこう言われた。
「おまえは、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこは、十二万以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」
ヨナは逃げた。主の御前から。
「潤、あなたが神を、あなたの父を信じないのなら、逃れなさい。ヨナのようになるまで。お行きなさい。そしてニネベに滅びを告げるのです。さあ」
潤は、立つのを手伝おうとする男の手を払った。
「僕には友がいる。
逃げることはしない。けれど認めない。
僕には友がいる」
「――瀬野透ですか?」
「だれだっていい」
「あれは違う。友なものか。わかっているでしょう、潤。彼は」
「それ以上、くだらないことを喋るな」
少年は腹立たしかった。血のついていない手の甲で制服を払う。
「彼はあなたの敵。主に逆らった、そして己から栄光をすてた暁の子です」
「黙ってくれ」
潤は払いおわると、男に背をむけた。
水の精霊、ヒエラルキア第三層の大天使であるガブリエルはその潤を見送った。
――ハレルヤ。
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