光と闇










 逃れるように学校を離れた潤は、家へと足をむけた。

 頭の中に、不吉な預言に似たあの男の言葉が渦巻いている。

 彼が口にしたこと自体は神の言祝ぎ、なにも懼れる必要はないはずだった。なのに潤は本能でそれを拒否した。神に授けられるものであっても、それは彼の大切なものを否定しようとするように思えたからだった。それは瀬野透という友人のことだけでなく、透をとりまく全て、なにもかもを否定するように思えた。

 しかしぞっとする反面、違和感なく受け入れそうになる自分が、そこにいた。少年は白い貌をして、うつむいて歩いた。路傍にはだれもいないのに、人々から嘲笑されているような気になった。

 あんな男が現れずとも、少年の身の上は充分に奇妙なものだった。彼の家庭は、三年前に祖父が亡くなり、今は遺された広い家に母と二人きりの母子家庭だった。ときおり、「父だ」と名乗る男が母子を訪ねてやってくる。預岐次郎という名の男だ。母と同じ世代なのだろう。まだ若く、三十代前半にしかみえなかった。男が何者なのか、潤は正しく知らない。彼は自ら父だ、と言うのだけれど、その若い貌を見ているととても信じられなかった。

 潤の母――耀子が潤を産んだのは彼女がわずか15歳のときだった。熱心なクリスチャンだった潤の祖父の助力によって彼は産まれ、育てられた。祖父が死ぬまで現れなかった"父"というのが、どういった目的を持って家にやってくるのか、潤はつねづね図りかねている。おおよそ世間の父らしくもなく、決して潤に対しても、馴れ馴れしい様子は見せなかった。ただ静かに、母と二人で語らうのが常だった。

 預岐がやってくると、自室でさえ、彼の居場所ではないような気になった。たいていは表へ逃げ出すことにしている。母も預岐も、敢えてそれを止めることはなかった。そのことも、潤の心を混乱させた。

 いま歩く道筋は、預岐が家を訪れたときのように居心地が悪く、落ち着かなかった。どこかへ逃げ出したかったが、どこへ行ってもその具合悪さは離れてくれそうにない。

 木々のこずえが風に揺れた。こすれ合う葉擦れの音さえも、彼を先へ先へと追い立てる。風はなまあたたかく、湿り気をおびていた。

 梅雨になるのかもしれない、と潤は思った。まだ時期には早いが、不安定な曇り空はそれに似ていた。

 潤は傘を持っていなかったので、道を急いだ。

 空気は重く厚く、急く少年の足をなぜか引きとどめるようだった。潤はチャペルにむかったときのように逸る気持と留まりたい気持とに葛藤していた。潤自身はなにをなすべきかその重い足どりの中に承知していた。

 進めばいいのだ、進むしかないのだ。だというのにどうしてかこんなにも空気が重い。

 進みたいのか、進みたくないのか。どちらも潤の気には染まなかった。どちらに行ってもなにかを喪うとわかっていた。だが戻ることは赦されず、進んだ末に喪うものを喪うしか、潤にはできないのだった。

 空を見ると灰色に濁った雲が、空を覆いかけていた。無意識に、わずかな切れ間からのぞく青空を捜し求める。希求した蒼穹の色が見えたとたん、なにごとかが聞こえた。

 空には雲の――

 讃美の声。

 潤ははっとしてあたりをみまわした。

 讃美の声がきこえた。

 主、イエス・キリストをたたえる、そして潤をたたえる声だった。

 空の青に、吸いこまれるように陶然としていた潤は、しかしすぐに顔をしかめた。

 聞こえないものは、聞くべきではなかった。それとも違うのだろうか、聞こえないものを聞け、ということなのだろうか。少年は、胸の底にむかって問いかけた。その答えも、潤は既に識っていた。

 それでもなお、まやかしだ、おもい過ごしだ、と潤は考えようとした。チャペルで出遭ったあの男に、気違いじみたたわごとを吹きこまれたせいだ、と思おうとした。

 あの男、大天使などと名乗った男。馬鹿馬鹿しくて名乗った天使の御名で呼ぶことも憚られた。頭がおかしいのだろうが、身なりはきちんとしていた。紺色のスーツにネクタイまで締めて――その容子を思い出した潤は、どことなくあの男が預岐に似てはいまいか、と感じた。貌が似ているわけではない。佇む容子、まなざし、しぐさ、言葉の発し方、そういうものが似ていたのだった。

 そうして預岐のことを考えて、潤の誕生日を祝うために、彼が家へ来ていることに気がついた。朝、母から告げられていたのだ。それで足どりが重くなっていたのだった。

 父親。潤にとってはひどく得体の知れないものだった。

 長い間、祖父と母からきかされていたそれは、まさしく主、神そのものであった。

 預岐次郎は漠然と抱いていた父親のイメージとも異なったし、どう受け入れればいいのか潤にはわからなかった。

 ――ハレルヤ。

 また、聞こえる。潤を讃える声が。

 ふらふらと、一人の男が道のむこうから歩いて来た。その歩みは、おぼつかない潤のものよりもひどく、腐敗の臭いがした。

 男の膚は黒ずみ、その下の組織の変容を見せつけていた。皮膚はおかしなところでたるんでいる。細胞のしきりが溶け、内容物が流出していっているのだ。もはや、肉はそもそもの形を保っていない。

 爪がはがれ、その手で掻きむしった服の喉もとが赤と白の血と肉片でおどろに汚れ、男の苦しみを伝える。

 ――"セッション"。

 男は、潤の前に倒れこんだ。いや、しゃがみ、跪いた。

 既に崩落した舌で男が、神の御名を唱えるのが潤の耳に届いた。

 潤は、男に手をかざした。

 すると、男の病は癒された。

 潤の胸の中には森羅万象のすべてが去来した。眩暈がする。



*       *       *



 不確かな知覚のまま、潤が我が家にたどりつくと、すでに預岐が来ていた。いつものように、耀子と二人、居間に腰掛けて穏やかに笑み交わしていた。そうして二人とも、潤の帰りを待っていたのだ。なにかを話していたのだろうが、その中身は潤には想像もつかなかった。

 少年が部屋の間口に立ち、両親を見ると、

「おかえりなさい」

 母がそう告げた。預岐もほほえむが、なにも言わなかった。

 二人の容子はひどく穏やかで、そして温かかった。

 夢を見ているようだと潤は思った。こうしたなごましい空気は、父と母と子、三人でいたときに決してなかったものだったのに、それがいま実現していた。ありえない、ことだった。潤は男を父とは認めていなかったし、預岐に対する母の、どこか少女めいたところも気に入らなかったのだ。だから、彼は一家の団欒を拒否して今までこの空気は作られることがなかった。

 心のどこかでは望んでいたに違いない、というのもこの時、ひどく心地がよかったからだ。

 チャペルに現れた天使も、潤の前に跪いた"セッション"に罹った男もなにもかもが、夢のようだった。様々なことで気が重くふたがれ、そのせいでこんな感じを持ったのだろう……

「ただいま……」

「どうしたの潤、顔色が悪いわ」

 消沈した容子の潤を見て、耀子は当たり前のように慮った。どこか決められた台詞のようだった。心なしか反発を覚え、潤はそっけなく答えた。

「なんでもないよ」

 それを聞くと、預岐は立ち上がり、自室に行こうと身を翻しかけた潤の手首を取った。

「なんでもないわけがないじゃないか。怪我をしている」

「え? ああ」

 潤は、未だ赤い血の流れる手に目をやった。にじむ程度になってはいるが、手の平から、手の甲から、伝った血は幾筋かは制服の袖口に吸いこまれ、幾筋かはその奥まで這って固まり、どす黒くこびりついている。その血が、預岐の手を汚した。彼の視線を追って自分の足元を見ると、やはりそこも真っ赤だった。

 どうしてこれを見たなりで、二人とも驚かなかったのか、潤はちらりと不審に思った。見過ごすような血の量ではない。潤に見せつけるように、二人とも見凝めた。

 少年自身はこの傷の存在をすっかり忘れていた。痛みはなかったから、あえて意識からはずしていたのだ。

 赤い疵。これはなんのしるしだろう。

 痛いのだ。心が。傷は決していたまなかった。

 傷は紋章なのだ。潤がなんであるかの。

 潤は苦しげに身を竦ませ、預岐の手から逃れようとした。男は一瞬、強く握ってから潤の望むまま、その手を離す。懼れ怯えている少年を見て、預岐もまた、ほんの少し顔を歪めた。

「どうした」

「転んだだけだよ」

「転んだんでそんなに出血するのか?」

 気を取り直したように、彼の"父"はにこり、と笑った。

「こっちへ来るんだ、潤」

 預岐は潤を促すと歩きはじめる。

 居間から庭に出て、奥へむかうとそこに小さな祈祷室が作られていた。

「さぁ、潤」

 母も潤を促す。潤は不安と予感をかかえ、歩きだした。いや、本当はもうなにもかもわかっていた。今もまた、潤の耳には届いていた。――彼を讃える声が。

 預岐が祈祷室の扉をひらく。

 今日は5月28日。潤の生まれた日。

 祈祷室は、祖父の陣一郎が、耀子が潤を孕んだときに建てたものだった。たった一人の手だけで造り上げた祈祷室は、人が十人も入れば一杯になってしまうほどだったが、南西にむいており、そこには窓が穿たれていた。色硝子をはめこんだ窓は、少し日が傾いたころに美しく、輝き出す。室中がその美しく淡い色彩に包まれるのだ。

 聖母マリアの受胎告知を描いたそれを見て、潤は複雑な気持ちになった。優美な白百合を手に持ち、乙女マリアに受胎を知らしめているのは天使ガブリエルだった。

 あの男。

「潤、顔色が悪いわ……」

 母はまた、訊いた。その顔色の悪さが傷のせいではないと知っているように。少年は一度ちゅうちょして、そして口を開いた。

「友人が死んだんだ。"セッション"でね――死んだ、とは聞いてないけど駄目だろう、"セッション"だから」

 祭壇の場所まで行っていた預岐はふりかえる。祭壇には、金盥に清らかな水が満たされ、傍には聖書が置かれていた。

「それで?」

「え?」

「それで、どうしたんだ?」

「それでって?」

 問いかけの意味がわからず、潤は困惑した。

「潤、今日はおまえの生まれた日だ」

「潤、あなたは神の子イエス・キリストよ」

「母さん?」

 母までもがあの青年と同じことを言いはじめた。

「なんだって、いうんだ」

「主を信ずること。人の身である私たちにできるのは、ただそれだけだ」

 預岐は目をふせて言った。潤にはまた、讃美の声が聞こえるのだった。

 主よ、イエスよ、メシアよ。

「潤――」

 閉じていた扉が急にひらいた。チャペルの中に風が吹きこみ、神の息吹のように潤の体を取り巻いた。少年が見ると、戸口にはあの男、大天使ガブリエルがたたずんでいた。

洗礼バプテスマを」

 男は預岐が手を触れる水盤の水面を指差し、告げた。それを受けた預岐は、苦しげな面持ちで、言った。

「本当ならば、私ごときの与えるべきお方ではない。けれど」

 男は双つの手を水盤に沈め、静かに水を掬い上げる。両手一杯の水は、彼の指の間より零れ落ちながら、潤の額を待ち望んでいた。その白い額に伝い落ちることを焦がれ望んで、冷たい水は灼熱していた。

 潤には、すべてのことがわかっていた。預岐次郎こそ潤のヨセフであり、母はマリアである。大天使ガブリエルもまた、人の姿をまとってそこにいるのだ。

 潤は天の御使いの姿を見た。ガブリエルは真摯な瞳で少年の視線を享ける。

「あなたのしもべの名をお尋ねください」

 そういわれて、潤は問うた。

「あなたの名前は?」

「――名取征人なとりまさと、と申します」

 潤はうなずいて、祭壇を見た。


 ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ
 命の君こそ おわりのあだなる死に勝ちましけれ ハレルヤ
 清けき明に 陰府より昇りて この世を統べたもう ハレルヤ
 主の死に生かされ 御傷にいやさる
 よろこびたたえよ、よろこびたたえよ、ハレルヤ。


洗礼バプテスマを」

 潤は小さくつぶやいた。預岐は水に満ちたその手を差し出した。潤は父のもとで膝をつき、祈りを捧げた。

 ――父よ。

 清冽な水の雫がひとたり、こぼれた。

 ――透。

 潤は暗くしずんだ部分でその名を呼ぶ。これまでとは全てが相容れないだろう。それを潤は承知していてなお、水を受けずにはいられなかった。

 この日こそ潤の生まれた日だった。そして、少年は神の子としてこの世に生まれてきていた。





 ハレルヤ!









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