由貴子の姿
透は、姉のことを思いだしていた。
透には、たったひとりだけ姉がいた。四つ年上の姉で、彼女の優しさに触れると透も猫のごとくなり、穏やかになるのだった。
少年は、大村のいる国語科研究室を離れ、高校校舎のほうに戻っていた。夕陽の落ちかけた学校内は人気もまばらで、高校校舎からはよく見えない運動場、そして大学科の運動場からの声がかすかに、ゆがみながら女の断末魔の声のように響いていた。
あの女教師のにおいから離れたからなのか、ひどく安心できた。戻ってきた、心からそう思った。
かつて、透の姉、由貴子もまた、この学園にやって来ていた。
ふと考えれば、ずいぶんとおかしい。透はもう、かつての由貴子に追いついてしまっていた。四年という時間差が歪み、一瞬わからなくなる。歩いていった先の教室にあの頃のままの由貴子がいるような気がしていた。姉さん、と呼ぶとふりむき、一緒に帰りましょうと笑うのではないかと思えた。
夕暮れの校舎は暗い。透は階段をのぼる。二階が二年生の教室だった。階段のおどり場にある聖母マリヤの絵が、夕日をあびて、ひどく光々しく君臨していた。
そのマリヤを目にして、透は胸に熱い鉛を注ぎこまれたように思った。嘔吐感すら越えた気味の悪いものが、胸と口腔にひろがる。
なにかが騒いでいた。
透は、しばらくマリヤを見つめた。
神々しく、尊き聖母は普遍なる存在、そうしてそこにいる。
透はその顔に似ても似つかない姉の面影を重ねた。由貴子
こそマリヤのような慈愛、寛大なる女だった。
透はその小さな絵を額ごととると、ひどく憎々しい顔を表情をして床にたたきつけた。ガラスが割れ、額が外れる。からからと木の枠は音をたてて転がった。少年は守りを外された聖母像を足でふみつける。
彼は凍った表情で踵をかえした。マリヤの顔は、慈愛の表情を消すことはない。
聖母は聖母、ゆるがないもの。
透が階段を昇ると、そこにはやはり、だれもいない。鈍色の粒子が学校を満たしていた。
毒々しいかおり、化生のかおり、芥子の花のようなかおりがしていた。鼻がむずがゆくなる。
視界、色覚、聴覚といったものが狂う。三半規管に異常が生まれ、透はなにかやわらかいもの、例えるならこんにゃくかなにかのようなものの上を歩いているような気がした。
(ちくしょう、大村のにおいだ)
魔女めと悪態をついて、透は出てきた(あるいは逃げ出してきた)国語科研究室での、大村との対話を思い出した。
「透くん、やっぱり器が小さい」
「どういう意味だよ!」
大村沙夜はにやり、と笑って透に言った。
「だって、スサノオは娘をとられたってオオクニヌシを赦したのよ。お姉さんぐらい、大したことないわよ。親子の縁は切れないけど、姉弟なんて結婚しちゃえば終わりなんだからさっさと卒業しなさいよ」
「おいおまえ、その論理はおかしくないか」
「姉弟なんてだめだめ。だって、アマテラスとスサノオよ。とてもじゃないけど仲なんていいままじゃいられないわ。追放しちゃったくらいだもん」
「俺と由貴子のことをなにも知らないくせに、勝手なことを抜かすなよ。それとも、あんたにも弟がいて、放り投げましたって言うのか?」
「あら、鋭い。でも私に四つ年下の弟なんていないわよ」
「……なんで俺が四つ年下だなんて知ってるんだ! この悪魔。俺のこと悪魔だなんて抜かして、本当は自分が悪魔なんだろう。あんたは本当に悪魔じゃないのか? 俺はファウストにはなんねえぞ」
「なに言ってるのよ。あたしがメフィストフェレス? 違うわよ。悪魔は透くんでしょうが。メフィストフェレスとルシフェルじゃ格が違い過ぎるわよ。それこそアマテラスとオオクニヌシだわ。天に属す者と地に属すものは決定的に存在の根底が違うのよ」
「どういうことだ? あんたなにを知ってるんだよ。こたえてくれ。今日は……どうもなにがなんだかわかりゃしねえ。姉さんのなにを知ってる? 俺たちのなにを知ってるんだ」
「んー、君たちが四つはなれてて父親が違うってところかな」
「父親が違う!?」
「あれ、透くん知らなかったの? じゃーちょっとショックだった?」
「な、な、な、な、な、な、なんだよそれ! なんのデタラメだ! いくらあんただってたちが悪すぎる!」
「そうだった? でもウソじゃないのよ」
「あんた姉さんのこと知らないんだろう!」
「思いだしたのよ。ずっと忘れてたわ」
「あんたは悪魔だ!」
「だから悪魔は透くんだって」
「じゃー神様はだれだよ」
「潤くんだって」
透はおしだまった。
「潤?」
「そうよ。今日は潤くんの誕生日だもんね。草加くんが死んじゃったのはそのせいでしょ? 透くんも気をつけたほうがいいよね。"セッション"にはかかんないだろーけど、闇討ちされないようにね。きっと潤くんだけじゃなくて、狂信者どもが襲ってくるわよ」
「来ねーよ。狂信者ってだれだ? なんで闇討ちするんだよ!」
「透くん、上手くたちまわらなくちゃ。透くん、自分が支配者のつもりで、あやつってるはずの人間にあやつられることになっちゃうわよ」
「だれだよそれは」
「さーね。あーあ、大変だ」
と言って、大村は大きなあくびをした。透は怒髪天に達して荒々しく部屋を出た。
苦々しくそのことを思い出しながら、透は2−2、自分のクラスのドアをあけた。二、三人の女子がいる。端にも棒にもかからない、透が名前を憶えようとも思わない女子たち。いつもアイドルや格好のいい男子生徒の話ばかりしているくだらない人間だった。そして他人の悪口と。
今も透を見ては、ひそひそとささやきあっている。
透は彼女たちを冷たく見つめた。と、三人もそそくさと荷物をまとめて教室を出て行く。
ドアがしまり、透はくだらねえやつら、とつぶやいた。
廊下から、さっきの女子のものと思われる声が聞こえた。
「あ、千条くん」
透は椅子に座り、目を開いた。千条――
「疲れた顔してるね。どうしたの?」
「ようやく生徒会が終わったところだよ。かしましい
吹禅から解放されて、ようやく息がつける」
「いいの、そんなこと
夜染子が聞いたらまたなにか物が飛んでくるよ」
「障害物除けなら、かなりの腕だから平気。
時友さんたちは?」
「あたしたち? 週番なの」
「まだ時間があるんじゃないの?」
「だって、教室に怖いヒトがいるんだもん」
「へえ、だれ」
「ほら、あの…瀬野くん」
「あぁ。同じクラスなんだっけ……
瀬野」
「……なんだよ」
廊下からの声、千条の言葉に腹立たしく思いながら、煙草に火をつける。
外の声を意識からはずすと、実に静かだった。
橙の夕日。積もった塵埃。その空気に煙が混じってもなにもおかしくなかった。
廊下の会話は漫然と続いている。
「千条くん、爪、どうしたの?」
「あ、この間、ドアに挟んじゃったんだよ」
「痛そう、真っ黒になってる」
「そのうちこの爪、はがれてくるよね。ぞっとしない」
それから声がやみ、少女三人のさわがしい声が笑いながら、けたたましく去っていく。
ひとつ。ゆっくりとした軽い足取りだけがその場に残った。
二人はとぎすました感覚でお互いを探っていた。端からはそれと見えないほど意識の下で探りを入れあっていた。
「
朱生さん」
時期を見計らったように、女の声が名前を呼んだ。緊張した時間は崩れ、千条の声が美しい凛とした女の声に応えた。
「あぁ……姉さん。どうしたんですか?」
「車で来ているから、送りましょう」
「いいですよ、」
「遠慮はしないで」
「わかりました。じゃあ少し、待っていてください」
千条はさっさと透のいる教室の前を去った。千条の姉は、教室の廊下にむいた窓によりかかり、透からはそのシルエットがよく見えた。セミロングのストレートの髪をした女で、肩のラインがきれいだった。
姉の由貴子とはまったくちがった。
「行きましょう、姉さん」
「……ええ」
二人が去り、また無音が続く。
――千条。千条朱生か。
「くそ……くだらねえ……」
「くだらなくなんかないわよ、透。どうしてそうつっぱるのかしら。素直になりなさいよ」
幻聴が聞こえてきた。
透以外に人のいないはずの教室の中から、声が聞こえた。……
「由貴子……?」
そこにいたのは透の姉、かつてこの学園に通っていた瀬野由貴子だった。
「そうでしょう? まるで人間のようにいじけたり、悩んだりする必要はどこにもないわ。脱皮するのよ透」
そしてまた、かつてのままの姿で。
美しい少女の姿で。
「由貴子?」
「あの先生も言ってらしたわね。あなたについて。あなたの姉について。
あなたの父親について……」
「……なんだよ」
「もう目覚めのとき――あなたは助けなくちゃいけない。
人間を。世界を。
――あなた自身を」
「姉さん!? なにをいってるんだ。あんた本当に姉さんか?」
由貴子は笑った。
「なにを言うの。私たちは兄弟よ……」
「ちょ、ちょっとまてよ」
「"セッション"がやって来るわ。
偽救世主が神の名のもとに世界を滅ぼそうとしている。
見なさい、」
透ははっとした。波のとどろきがきこえた。轟々と音をたててまきあがる高浪の立てる音だ。
どどどどどどどど…と。
少年は幻影を見た。
幻。
襲いくる高浪。
――海を治めるはずだったスサノオノミコト。
シオヒルタマとシオミツタマ。
ホオリノミコトの復襲。
トヨタマヒメの怒り。
「"セッション"がやって来るわ」
「おい!?」
由貴子の体が溶けた。"セッション"のように。
「"セッション"がやって来るわ」
「姉さん!!」
溶けた。
すべて溶け、あとにはなにも残らなかった。
幻だったというように。
――"セッション"だというように。
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