二人の使者










 透は、痛くなった頭をかかえて階段を降りた。今しがたの信じられない幻が、透の心を混乱させていた。だれにもなににも負けなかった少年の屈強でしなやかな精神が、完全に高浪の幻に打ちのめされていた。

 指先が冷たくなって校舎を出るのがやっとだった。

 あの教室からは逃れてみたものの、どこへ行こうとしているのかはわからなかった。行くあてなどなかった。心の中で、大村を魔女と罵っていた。

「とおるーーーーーッ」

 名前を呼ばれて顔をあげると、二人の少年が校門のほうから走ってくるのが見えた。一人はこの波乗の生徒、背の高い三宅拓人だった。もう一人は、共正高校の制服を着ている。何度か見たことがあったが、言葉を交わしたほどの間柄ではない。三宅とは中学の同級生でつるみ仲間だったはずだ。名前は確か、回田だ。

 透の傍まで駆けてきた二人は、息があがっていた。ずっと走りどおしだったのだろう。……どこから、走ってきたのかは知らないが。

「三宅……?」

「透っ」

 三宅は苦しそうな息の合間にすがるように透を見た。

「どうしたんだ?」

「――゛セッション゛だよ」

「え?」

 透はあの、波の幻を思いだす。彼の心を叩きのめした波頭の圧力を。――あれこそ゛セッション゛。人間を滅ぼす病。

 決して逃げられぬ病。

 由貴子はなんと言っていたか?

『゛セッション゛がやって来るわ。
 あなたはたすけなくちゃいけない。
 人間を』

 頭の芯が鋭く痛んだけれど、その痛みの奥にあるものを透は探った。耳鳴りばかりが聞こえる。

 幻がよぎる。透は崩壊した世界の幻をみつめていた。

 透の視界は、まるで鳥のように高く高く、そして自由であった。

 ぼろぼろになった世界。

 ――あれは?

 透は、ひびの入ったビルを過ぎる。

 建物の中に、だれかが見えた。

『゛セッション゛がやって来るわ』

 ビルの中に、由貴子が居た。その背中には――があった。

『たすけなくちゃいけない。
 人間を。
 人を滅ぼす神の子を殺しなさい

「透?」

「え? ああ」

 三宅に荒々しく肩をつかまれ、呼ばれて我にかえる。

「おまえ聞いてたか? わかったか?」

 なにがあったのか説明でもしていたのだろう。表層世界に意識をむけていなかったせいで、なにを喋っていたのかなど聞こえていなかった。

「いや。……なんだって?」

「ちくしょう、聞いてなかったのかよ。しっかりしろよ!」

「俺の知ったことかよ」

「おい、仁のことだぜ!」

「あいつならもう死んじまって、どうにもならないだろ!」

「゛セッション゛だったのは仁のお袋だ」

「どういう意味だ?」

「仁のお袋も゛セッション゛だったんだ」

「じゃあおまえらの顔色が悪いのは゛セッション゛にかかってるせいかもな」

「やめてくれよ!」

「おまえたちはそれで逃げてきたのか?」

「そうだ。糞、においが離れない。あの腐ったにおい!!」

 三宅はの話だけではなにがあったのかよくわからなかった。これ以上聞き出すのも無理だろう。……゛セッション゛。

 回田の方は地面にへたりこんでいて、静かにいつまでも整わない息で喘いでいた。

「苦しそうだな、おまえ」

 透は人の悪い顔をうかべて回田を見る。灰色の制服で、毎度ながら趣味の悪い制服だ、と彼は思った。

 透はひどく冷たい目で回田を見る。どうしてか、回田という少年はひどく排斥したい気分になる。少年のほうも、透のそういった視線に気づいたのか、かすかににらみ返す。透はそれをさらりとうけながして、三宅に言った。

「とにかく、かかわんねえ方がいい。゛セッション゛になるならないも冗談じゃなくなるぜ」

「そう、かな?」と、回田がやおら反発した。「俺はたとい゛セッション゛になったって大丈夫って気がするけどな」

「なんだよそれは?」

 三宅が悲鳴に近い声で言った。

「……おまえはか?」

「いいや」

 透が回田にむかってたずねると、少年はきっぱりと否定する。

「だれだって癒されるはずだ。克服されない病なんて、人類にはもうなくなるんだから」

「かかれば三日で死んじまう。病原体がなにかもわかってないんだぜ、゛セッション゛って言うのは」

俺にはわかる

「――てめえもか」

 低くつぶやく。回田はあの大村沙夜と同類だった。わかりもしない、わかるはずのないことを言いはじめるのだ。

「回田考史、か。マクベスの魔女は二人目。あとひとりはさてだれか」

「なにを言ってるんだ?」

「別に。今日は俺にもわけのわからないことばかりなのさ。おまえもその一種だがね」

「おい三宅。こいつ、どっかおかしいのかよ。そうでなきゃ悪魔に魅入られてんのか?」

 妙な空気が流れ出していた。透は、自分が言い出した事ながら魔女の姦計にはめられていっていることを感じていた。

「いいや」しかし、突如三宅が口にしたことにおどろいてふりむいた。「透こそが悪魔そのものだよ」

 大村と回田は知らない人間だ。だが、三宅はそうではなかった。得体の知れない三人目の魔女となったことは、透にすれば子分の造反以外のなにものでもない。不気味さはそれだけではなかった。いまのいままで゛セッション゛に怯えていた感情は、三宅の顔からは拭い去られていた。

「どういう意味だ!」

 透は、自分より十数センチ高い三宅のえりくびをつかんだ。彼がこうした暴挙に出るのは珍しかった。少年が本当に怒っている証拠だった。他の人間が見れば、透にもこうした子供めいたところがあるのか、と驚いただろう。

 本人の言うとおり、透は調子が狂っていた。透だけではない。どこか大切なものが狂って、だから透も狂ったのかもしれない。

 三宅自身も、自分自身の裡にある不自然なものを感じていた。直感にしたがって喋っているのだが、そのひらめきがどこから来ているのか自分ではわからなかった。透が嬉々として赤の他人を殴っている姿を見て悪魔のようだと思ったことはあるけれど、それといまの言葉はあきらかに違った。

 彼はなにかを見たような気がした。

 ひらめきは彼の裡からくるものではない。いうなれば三宅は透の鏡なのだった。透の目の奥に、深い奈落の暗闇をみていた。

「目だ」

「なに?」

「透、あんたいつもなにを見てるんだ?」

「どういう意味だ」

「それとも、俺が違うのか? 俺の見ている世界が、違うのか?」

 透の瞳は凝った闇の色をして瞳孔も虹彩も確かめられない。

 その中に三宅は自分を見た。そして自分に映った透の姿を見るのだ。

 更にその奥に写った三宅拓人という存在はすべての虚飾をはがされた彼の本当の姿だった。だが吸いこまれるように透を見た三宅は、それにぞっとした。

 知りたくない

「三宅?」

 いぶかしんだ透が顔をのぞく。にわかに透と三宅は視線を交わした。透は見る。三宅もまた読みとる。その闇の奥に隠された可能性を。

 知りたくない

 三宅は透の手を振りほどき、恐怖に顔を引きつらせた。

「おい三宅?」

 回田が不審そうに呼ぶ。しかし、その回田に透も三宅も気を払わなかった。

 透は三宅を見下し、また為政者の顔に戻っている。今つかみ上げて悲鳴を出させたことで、三宅が本当になにかを知って喋ったのではないことがわかって彼自身を取り戻したのだ。

 その情報源がなにかまではわからなかったが、彼と三宅の関係においてはこだわる必要がなかった。

 三宅は聞かれれば透の中に映ったものだと言っただろう。少年は更に逆上するに違いなかったが、三宅にとってもその事実はあまりにもおそろしくて自分から口を開こうと思うことではなかった。それに彼の中のもう一人、預言者はそれを口にすることを許さなかっただろう。

「三宅!」

 無視されたことに腹を立てたように、回田は立ち上がって三宅に寄った。

「……
 なんだ、回田。なにか言いたいことでもあるのか?」

 そう応えたのは、いつもの三宅ではなかった。回田も咄嗟にそれがわかったのだろう、警戒心をむき出しにして叫んだ。

「……大有りだよ。
 ――この馬鹿野郎!」

「同感だな」

「なんだそれは!」

「おまえの意見に同意しただけじゃないか」

「俺は怒ってるんだ!」

「俺には関係ない」

「ちがう! 俺はおまえを怒ってるんだ!」

「おまえが勝手に怒っているだけだ。先公かよ」

「……ふざけんな!! 気にくわねえな。……その目だよ! 白けた目だ! …えぐりだしてやりてえよ!」

「やるか?」

 回田は三宅をなぐりつけた。その怒りは、彼自身もまた自分の中にある違和感を知っているからに他ならなかった。

 なにかがおかしくなっている。おかしいのではないかもしれない、それは、でも昨日までとはなにかが狂っていた。

 なぐられた唇の端から赤い血がとんで、それでも三宅はうすら笑いをやめない。

 少年から流れた血は、ちゃんと赤かった。

「……のやろう!」

 回田は三宅を、何度もなぐりつづけた。三宅は避けることも、防ぐこともしない。なぐられるままの、まるでサンドバックで、それがより回田の神経をいきりたたせているらしかった。

 透も見かねて、いつもやりもしない仲介に入った。

「おいやめろ」

「なんだよ、はなせ! てめえもなぐられたいのかよ!」

 いきり立つ回田に、三宅はあくまでも冷静だった。

「透、そんなことしないでいい。おまえらしくもない。人間愛にでもめざめたか?」

「俺にまで絡むな」

 三宅は無言で透を見上げる。透に従ったのか、三宅は身を引いた。

 回田はその身の引き方すら尋常ではない三宅の様子に、気味の悪いものを見る目つきをした。

「三宅?」

 三宅は回田を見ている。その視線は、回田をあわれんでいるように見えた。

「……なんだよ」

 三宅は無言のままだった。そして回田の憤りは透へとむかった。

「なんだっていうんだ! 瀬野透! あんたわかってるんだろう? これはなんだ、三宅はどうなっちまったんだ。三宅だけじゃない。仁だって……! ゛セッション゛って一体なんなんだ? なんとか言え、なにか言ってくれ! 頼むから!」

「……わかる?」

 透は小さくつぶやいた。次の瞬間には激発した。

「俺がわかってるって!? なにを? なにをわかってるって言うんだ!? 皆、同じことを言う! 大村も姉さんもわかってるって、おまけにおまえまで言う!! わかってるって、なにをだ!! 俺が悪魔だってことかよ! 俺が悪魔だっていうのか、悪魔? 悪魔が人類を救うのか! 潤を殺して? 逆に潤に殺されるのか!? いいかげんにしてくれ!! 魔女はおまえだろう!!」

「……透」

 三宅はゆっくりと言った。

「今日は5月28日だ。イエスの死んだ4月15日から3日と40日……それが永井の誕生日の意味だ」

「潤になんの関係がある! 畜生! 皆おかしい! 潤は関係ない! なにも口を出さないでくれ! 俺たちのことは放っておいてくれ!」

「やろうとしたって、そんなことは無理だ。俺たちの運命はもうおまえに関わっちまってるんだぜ」

「皆おかしい、大村は潤が神で俺が悪魔だという! 潤は救世主なのか? ……馬鹿馬鹿しい、由貴子はそれなら俺に潤を殺せと言っていたのか。おまえらはなんと言う気だ!?」

「永井を」

 三宅と回田は口をそろえた。しかしそのあとに続いた言葉はまったく違った。

「殺せ」

「関わるな」

 前者は三宅で、後者は回田であった。

 透は首をふった。

「違う」

「違わない!」

 三宅が怒鳴った。

「おまえも言っただろう! "潤、死なないか"と!」

「違う! あれは冗談だ!」

「違わない! おまえは知ってたんだ、永井は簡単には殺せない、相討ちでないと奴は殺せないから心中しようと言ったんだ!」

「違う! 潤は……」

「魔縁という言葉がある、透。おまえと永井はまさにそれなんだよ。そのために出会ったんだ」

「違う!」

 透は踵をかえした。暮れてゆく校内を、特別棟にあるホールへ歩いていった。……









▲ / 「月と太陽と」 /


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