夢か現か










 畜生、という思いが透をとらえる。

 暑苦しい首元をゆるめ、ホールの外に置かれた椅子に座った。

 髪を掻きあげながら煙草を吸いたくなったが、さすがにここではまずかろう。そしてふと、屋上から転落しかけたときに落としてしまったのはどうなったか、と考えた。

 おかしなものだった。あれはついさっき、五限のことだから二、三時間前のことだというのに、ひどく遠く、昔のことのようだった。

 透はすでに、どうしてか潤との快い毎日が過去のように思えるのだった。つい今日まで、続いて来た日常だったが、どうやらそれはあっさりと崩れて、少年はそれを、懐かしく思い出すのだった。

 自分でも自覚しているその不可思議な思考は、しかし少年を不安にさせるものだった。

 草加仁についての記憶だけが生々しく、いや草加だけでなく他の死者のほうがより身近に思えた。

 透は、目を閉じて放課後の学園の音に身をゆだねた。そうすると、自分の心臓の鼓動だけが次第に浮き上がり、耳ではなく体内にとよんで波の音に似たくりかえしが聞こえるのだった。

 どくんどくん

 心臓の音。水の中――

 そして気がつくと、潮の香りがしていた。見覚えのある砂浜。学校から歩いていける距離にある、繰巣の浜だった。……

 波の音がする。うすぐらい曇天の夕暮れ。

 透は波打ち際に座っていた。

「透、落ちこんでいるの?」

 そこに由貴子がいた。時間が狂っている。透は今の、高校二年生の透だったし、由貴子もまた高校二年生の由貴子だった。透は由貴子が好きだった。由貴子はゆるいウェーブのかかった黒髪を揺らしながら、透の隣に座った。

 二人とも、波乗の制服を着て、浜にいた。

「……わからない」

「おともだちが、亡くなったのね?」

「うん……草加が……"セッション"で」

「それが悲しいの?」

「仁が死んだのは……悲しい? 悲しいのかな。わからない。悲しくないかもしれない。悔しい……ただ、そのせいで潤が遠くなっていくんだ。そんな気がするんだ」

「なら、近づきなさい」

「このかんじさ、大村の言ってたことと関係あるのか?」

「潤くんが"神"で、あなたが"悪魔"だと?」

「そう」

「それが真実であれ偽りであれ、透、あなたにできることはたったひとつだわ」

「由貴子、目覚めろ、とさっき言った?」

「目覚めろ? いいえ! 透、人は目覚めたりするものではないわ。あなたにはあなたの役割があるけれど、それはとても悲しいことね……それでもその行く先を決めるのはあなたよ。潤くんとはなればなれになってしまうのか、そうでなく手を伸ばすかは、あなたが決められることなのよ」

「なにがあるの」

 彼は尋ねた。小さい、子供のように。

 由貴子は困った顔をした。

「なにもないわ……」

 波の音がする。透はとても不安になって、水平線を見つめた。

 無限と普遍。同じであり、背反する言葉。波は無限に、普遍をくりかえすのだ。

「由貴子?」

「なあに、透」

「なにを正しいとすればいいんだ」

「――あなたと、潤くん。二人の心を、ね」

「俺、わからないよ……」

 苦しみは未来への不安。由貴子の姿が、目の前にあればなおのことだった。

 未来の姿はあやふやだ。

 苦しいのは、そのうち、この状況が変わっていくからだった。潤と二人でいることはできない。他の仲間とも。一人一人、歩いていかなくてはいけない。

 それが怖く、苦しいのだった。

 今が、嘘になっていく。忙しい未来に殺されて。それが怖い。

 現実味のない姉を見上げ、口を開く。

「由貴子」

 波の音がする。何万、何億、もっと多くの星の破片のように散らばる波頭のむこうに無限の宇宙が、星が見えた気がした。

「由貴子は、だれ?」

 姉はこたえなかった。

「由貴子?」

 透ははっとする。そこはホールのロビーだった。少しの間、よく意味がわからずぼう、としていたが、彼はあぁ夢か、と思って納得した。

 あたりまえだ。由貴子のはずがない。大村も由貴子が手紙を送ってきたなどと言ったのは嘘だったのだろう(不破かだれかに、入れ知恵をされたかあるいはうまいこと透をからかうネタということで聞き出したのだろう)。由貴子が手紙を送るはずはない。

 由貴子は死んだのではないか

 17歳、この学園で高校二年生のときに。

 やるせない想いで、透は四年前、由貴子をなくしたときのことを思い出した。忘れるはずもない、よく憶えている。透が姉の部屋に入ると、天井から下がった姉の体が目に入ったのだった。窓には夕闇の青い空に大きな満月が見えた。……自殺だった。理由は、今もわからないままだ。

 それでも透は当時由貴子と親しかった不破のせいだと思い続けていた。

 優しい、優しい姉の由貴子。

 彼女は失われ、記憶だけが残っている。不破が殺した、由貴子の記憶だけが。

(……あいつはまた俺のこともどうにかしようとしてるのか、)

「透くん、平気よ。言ったでしょう。メフィストフェレスとルシフェルじゃ格が違いすぎるのよ」

「……センセー……」

 大村沙夜だった。唐突に現れて隣に座ったようだったが、透は驚かなかった。

「デートじゃねーのか」

「やめた。透くんといたほうがおもしろそうだもん」

「……俺は、あんたのおもちゃじゃないぞ」

「そんなこと思ってないわよ。こんなに親身になって心配してるんだから、不安があるなら先生に相談しなさい」

「冗談。あんただけには、絶対に言うもんかよ」

「じゃああててあげようか」

「おい、やめろよ」

「永井くんのことね。永井くんがとても遠くにいってしまった感じがしているんでしょう!」

 大村は喜々として叫んだ。

「お、おい」

 透は動転して天地がひっくりかえるのを感じた。いま心の中で由貴子に語りかけたことを見透かされたようだった。少年は意味もなく口をパクパクさせて、定まらない焦点をフル回転させて大村を見た。

「やった、図星。ほら見なさい、先生は生徒のことをよく見てるのよ」

「悪魔め!」

「悪魔ね。別にいいけど。
 ……そうね、二人の心が徐々に離れていくのね。理解しあっていた二人が、ひとりの友人の死をひきがねに、別々のことを考えるようになる。一人は、今までいた人のありがたさを知り、もう一人は新たにあらわれた人物にひかれていく。そして、いつの間にか二人の愛は壊れるのよ。修復不可能ね」

「愛ってなんだ!!」

「冗談よ。怒らないで、透くん。あたしは透くんの味方なんだから」

「味方!? 嘘だ。不破とグルなんだろ、あんた。センセーが三寸詐欺師だなんて、だれの目にも明らかだ」

「透くん、不破くんに偏見あるもんなあ」

「別に、ないよ」

 透は言い捨てて、視線を二階にうつした。視界の端に人影が見えた。



*       *       *



「由貴子!!」

「どうしたの、透くん」

 二階のフロアに、ウェーブの髪の少女がいた。今度こそまちがいようもない。

「由貴子!!」

 透は大村を無視して由貴子を追った。階段を駆けあがり、走ったが不思議と追いつけない。由貴子の足取りは急いでいるようにも見えないのにだ。もしかすると、永遠に追いつけないのかもしれない、と思いはじめた頃――追いついた。

「由貴子!」

 彼女の肩をつかみ、引いた。

 だが由貴子は、にっこり、と笑った。

「だれと間違えているの?」

「……え?」

「由貴子さんと、喧嘩でもしたの?」

「由貴子じゃ……ない?」

 それはそうだ。何度も何度も、透は自分に言い聞かせた。由貴子は死んだのだ、由貴子は死んだのだ!

 それでも、目の前の少女は由貴子に似ていた。そのままだった。

「あんた、だれ……?」

「あなたは?」

「瀬野透」

「あぁ、あの瀬野くん」

「……俺、有名か」

「学年内じゃね」

「あんた……は?」

「そのまえに手を放して。痛いわ」

「あ……ごめんなさい」

 由貴子まがいの少女は笑った。

「私は、片倉頼子かたくらよりこというの」

「片倉頼子? 同じ名前の女優がいるよな。それに、似てる」

「隠し子なの、あたし」

「隠し子が同じ名前なわけないだろ」

「冗談よ」

 透は肩から力が抜けた。全然違う。由貴子じゃない。外は似ているかもしれないが、中味が違った。

「由貴子って、だれ?」

「いや、あんたに悪い」

「ふうん……」

 死んだ姉の名前だなどとは、もちろん言えなかった。それを知っているように彼女は相槌を打つ。頼子は、凄みのある少女だった。消えてなくなりそうだった由貴子とは違う。

 彼女は出来の悪い弟を見るように透を見た。

「瀬野くん、暇?」

「え……」

 透はとまどった。一体なにを言われたのやら、わからなかった。変にさらりと言われたから、かもしれない。

「由貴子さんを探してて忙しいとかはない?」

「いや……ないけど」

「そう。じゃあ、一緒に来ない? 一人で散歩するのはつまらなくって。鞄、持って来てよ。学校を出ましょう。繰巣に行かない?」

 透は彼女の魅力にひきずられる。繰巣の浜を、こんな夕暮れに散歩するのは、とても素敵なことに思えた。

「うん……」

「瀬野くんって案外、普通なのね」

「……どういう意味?」

「もっと怖い人かと思ったのよ」

 頼子は、そのあとに小馬鹿にしたように笑った。不思議と、大村にこう笑われたら怒っただろうに、透はちっとも腹立たなかった。

 ――顔のせいだろうか? 由貴子と同じ顔だからか。

 少年は口元を押さえて考えこんだ。いいや違う、目だ、と。頼子の黒い、強い光を放つ目のせいなのだ、と思った。



*       *       *



 波乗学園から歩いて二十分もすると、繰巣にたどり着く。遊泳禁止されている砂浜は綺麗だった。

 夕陽とは反対の空、薄暗くくれた色の中に月が昇っている。白くて丸い、満ちた月だった。

 妙なものだ。由貴子とここにいる幻を見た日に、見かけだけは似た頼子といるだなんて。

「私ねえ」

 頼子が言った。

「月って好きだわ」

「月? 好きなの? どうして?」

 頼子のことをよく知りたかった。一見似合わなそうで月の似合う少女は、笑って透に応える。

「……綺麗だわ。憎らしいけど、好きよ」

 彼女の感情は激しそうで、けれどその激しさは闇のものだった。月の冷え冷えとした光が頼子を美しくさせるのか、由貴子の優しげな笑顔とは少しも似ていなかった。

「瀬野くんはいつもこんなに付き合いがいいの? 今の瀬野くん見てたら、普通の人みたいだわ。
 あたしが、由貴子さんに似てるから来てくれたの? ……大変ね、瀬野くん。すごく疲れているみたい。……そんなに由貴子さんに振り回されているの?」

「いや……そんなわけじゃ……」

「どういうわけ?」

 頼子は、また薄笑いする。透は、彼女になんときりかえせばいいのかわからなくなった。

「――なぁ」

「なにかしら」

「片倉頼子、あんた本当にそこにいるのか? いや、ここは存在するのか? あんた、幻じゃないのか、本当にそこにいるのか?」

「なにを聞きたいの?」

「由貴子は死んだんだ。何年も前に、不破端に殺されたんだ! なにの今日、二度も幻を見たんだよ」

「それで、私のことも疑うのね」

「みんながおかしなことを言う。由貴子は死んだのに手紙が来たなんて。……俺と潤が殺し合うとか、そんなことばっかりだ」

「潤くんは? なんて言ったの?」

「潤?
 ……なにも。会ってない。
 今日は、潤の誕生日なんだ」

「そう……」

 頼子は渋い顔をして、海を見た。

 海風が、彼女の髪を後方へ流した。初夏の五月、風はまだやわらかい。すぐに梅雨がやって来て、終わったら、強い日差しと風がおこるだろう。夏が来たら

「迷っているの? 潤くんとの時間はあなたにとって大切だったのね。それでも、心のもっと奥では、もうどうしようか決まっているのじゃなくて?」

「そうかもしれない」

 彼は一拍おいて、こたえた。下をむいて、足元にまで寄せて来る波を見た。あの夢と変わりはしない波のゆらぎ。無限であり、普遍だった。

 繰りかえし――

 ――潤。

 今、おまえはなにを考えている? なにをしている?

 ――透。

 海の深いところを通って伝わったように、ふと潤が自分の名前を呼ぶ幻聴を聞いた。それに透は苦笑いをして、俺もしょうがねぇ、今日はいったいどうしたんだ? と思うのだった。

 海はなんの疑問もなく、寄せてはかえしていた。

「透くん」

 頼子は腕を組んで海を見つめたまま、言った。

「この海に、人魚の伝説があるのを知ってる?」

「人魚」

「昔……この浜に住むひとりの乙女が人魚に恋をしたのよ。けれど、村人に反対された。邪魔をされて腹を立てた人魚が、村にわざわいをもたらしたっていう伝説なのよ。
 乙女は拾われた子だったの。もしかしたら、彼女も人魚だったのかもしれない。それなのに、同胞との想いを村人によって切り刻まれてしまったのよ」

 透は、頼子の言葉を黙って聞いていた。

「乙女を陽とし、人魚を陰とする。そうすると……見えてくるような気がしないかしら」

 頼子は、声にも顔にもなんの感情も見せなかった。

「わかる? 人々の思惑がどうであれ、それでも、乙女と人魚は結ばれた。その人が自分の半陰であるなら、おのずと運命が結びつけてくれるわ。だから、あなたはやりたいようにするのがいいのよ……結論は、運命がだすわ。逃れえない運命があなたの答えを出すでしょう」

「……あぁ」

 透は、間違いなく潤はおのれの半陰、半陽だ、と思うのだった。それは、磁石のN極とS極のごとく、違う性質でありながらひかれあう。陽があるからこそ陰が存在するのだ。

 二人は、運命から逃れることは出来ないだろう。だがそもそも運命とはなんだというのだろう。透にあるのは何人かの預言じみたものと、自分の心にある潤との疎外感だけなのに。

 こんなものが運命なのだというのだろうか。

「……瀬野くん」

 頼子が笑う。

「なにか……悲しいの?」

「由貴子と同じことを聞く」

「よして! 私は生きているわ。私はその由貴子さんとは違う。私は生きているのよ」

 透は涙が出かかるのを感じた。なにが辛いのか? なにに泣くのか、自分は!

「違うんだ。怖いんだ、俺は」

 それを聞き、頼子はゆっくりと微笑んだ。暮れてゆく夕陽の赤さは、橙がかかった蝋燭の炎のような色だった。彼女はまた、海の彼方をみつめていた。

 斜陽の太陽は真円で、海や雲や、砂浜や頼子や――透を照らしだしていた。

 少年は、太陽ひかりはなんでも公平に照らすものなのだな、と知った。

 光はおそらく、潤も透も公平に照らすだろう。

 森羅万象は、人間の関与できるものではないのだ。全ては人間という存在の前に無限だった。太陽の光も波の寄せ返しも、全てが無限、永劫のものなのだ。そして、全ては普遍であった。すべてはいつもそこにあった。

 瞬間は凝固し、永遠になる。

 けれど、宇宙は変化するのだった。その包容は変わらずとも、宇宙は、太陽は、銀河は渦をまき続けるのだ。永遠に変化し続け、全てはそこにある。

 頼子はなにも尋ねて来ず、二人は無言で海に飲まれてゆく太陽を見守っていた。

 太陽が完全に沈み、あたりが薄暗くなってきたころ、頼子は言った。

「透くん。相談にのりたいの、あたし。なにがどうなっているのか、教えて。私に」

 頼子はそう言うのだった。









▲ / 「月と太陽と」 /


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