不吉な朝










 透が憶えてもいない悪夢から目覚めると、疲れもとれぬままなのに朝になっていた。不機嫌な顔で起き上がった透は、いやいや制服に着替えると、寝癖のおさまらない髪を手櫛で掻きあげながら階下へおりた。

 庭から摘んだ花を生けていた母は、少女めいた笑いで息子を見つめる。

「あら透、お早う。急いだら? 遅刻してしまうわ」

「……ああ」

 時計を見ると、ゆっくり仕度をしていたのでは遅刻する時間だった。居間には、朝食のかぎなれたパンのにおいと、甘い薔薇の香りが漂っている。

「どうしたの?」

「なんでもない」

 透の不調の気がついたのか、母が尋ねて来る。それにこうべを振って答え、透は食卓に腰をかけた。いつもの朝と変わりがない。――由貴子が死んで以来、四年の間、母と息子二人だけの家庭はこうして穏やかに時間をすごしていた。透が母親にくってかかることはなかったし、家の外でやりたい放題をしている息子に対して、真一子まいこも咎めたりしたことは一度もなかった。

 静かだったが、対話はなかった。由貴子が死ぬ前は、仕事で頻繁に家を空けていた真一子だが、彼女が死んでからは家にいる。それでも、対話はなかった。

 そこにある静けさは、理解しあった家族の沈黙だ。だが透は、決して彼自身が母を理解しているとは思っていない。むしろ謎が多く、訊くことができないだけだった。

 真一子は透に似た顔で笑った。もう四十いくつになるはずだったが、まるで人間でないように透の母は若い。二十代にしか見えなかった。時と場によれば十代にもみえるかもしれない。

「母さん」

 透は朝食を口に運びながら、真一子に訊いた。

「なに?」

「……俺の親父って……」

 それを聞くと、ふと、母はひどく楽しそうな顔をした。陶酔したような笑みだった。

「俺が産まれる前に、死んだんだよな……?」

「そうよ。あなたが生まれる、ほんの、少し前に。
 透、だんだん開二かいじさんに似て来るわね……」

「俺って、親父に似ているの? 俺はずっと、あんた似だと思ってた」

 母はまた、笑った。そして、透の言葉にはもう応えなかった。

「透、さぁ学校へ行ってらっしゃい」



*       *       *



 その朝は混乱の朝だった。三宅拓人が目を覚ましたと思うと、時間が八時をまわり、さらに自分が学校にいる、ということに気がついた。昨日は家に帰ったはずなのだが。

 ――あれ?

 軽やかに疑問が花開く。目の前がくるくると回って、立ちくらむ。寝た記憶はある。しかし、起きた記憶はない。

 彼はいつのまにか校庭を、校舎のほうへむかって歩いていた。あまりの唐突さに、そうしている夢を見ているのかもしれないと思う。

 三宅は昨日の行動を思い出そうとして、欠落した記憶の多さにあぜんとするのだった。仁が死に、回田と透と、そして永井と。

 永井潤だ。

 潤のことを思い出して、三宅は嫌な気分になった。もはやそのことの理屈はわからない。昨日までも、勝手が違う存在だと思って煙たがっていた。だが、今日は昨日よりも彼のことを思うと不快になった。理屈? どこかにはあるに違いない。

「よぅ三宅。どうしたんだよ。浮かねぇ顔をして」

 声をかけてきたのは瀬野透だった。三宅は、浮かない顔をしている自覚がなかったので、そういわれたことに自信を失くした。

 けれど、見返した透の顔に、思わずにやりと笑う。曇ったような顔をしているのは透のほうだった。

 空も曇っている。

 曇天となまあたたかい風。湿った空気が、雨の到来を告げていた。

「もう梅雨か」

 そう言って透は不敵に、にやりと笑う。

「俺、用事あるからちょっと先行くわ」

「透!」

 三宅は思わず彼をひきとめた。曇り空はまだ色が薄かったが、昨日の晴天は既にうそのようだった。

「なんだよ……」

 不快そうに応える透に、内心怖れながらも三宅は聞いた。

「どこに行くんだ?」

「2年6組だよ」

「2年6組? おい! 透、待てよ!!」

 透は行き先を意識すると、矢も楯も止まらず走りだした。

 追おうとした三宅は、「タクト」と彼を呼ぶ声で立ち止まる。振り返ると、立っているのは背の高い少女だ。ブロンズの髪に、青い瞳、白い肌。フランス人の留学生、ウージェニー・システルナスだった。

「……なんだよ」

 三宅は、このフランス人の少女が苦手だった。なぜかは知らないのだが、顕かな好意を見せて隣に寄ってくる。大抵の生徒が敬遠する三宅を、どういうわけか慕っているらしいのだ。草加仁ら、彼の友人にとってもいい物笑いの種だった。

 ウージェニーは白い花束を手にしている。

「おはよう、タクト」

「……ああ、おはよう。なんだよそれ」

 三宅が花束をさすと、ウージェニーは表情を変えずにいう。

「草加くんの机に飾ろうと思って」

「よく、そんな日本っぽいこと知ってるな。……」

 ウージェニーは、話によると四年前から日本で暮らしており、すでに日本語はネイティブとかわりのない流暢さで話すことができた。中学の間は都内にあるフランス人学校に通っていたけれど、なにを思ったのか高校一年からは波乗学園に入学してきた。

 いくら日本生活が長いとはいえ、亡くなった生徒の机に花を置くなどということを知っているとも思えない。万国共通の儀式なのかもしれなかったが、腑に落ちなかった。

「ううん、大村先生が教えてくれたのよ」

「大村って、国語教師の?」

「そうよ。タブン、草加くんと仲がよかった生徒で花を生けてあげそうなコがいない気がしたから、私に言ったんじゃないかしら」

「かもな。意外と気が回る先公だ」

 担任の駆堂はいくらかぼんやりとしたところのある教師だ。そのアドバイスを上手くできるとは思えない。

 ――……でも。

 三宅は、昨日透が大村がどうのと叫んでいたのに思い当たった。動転していてよくは憶えていない。そうしてはたと、透を引きとめようとしていたことを思い出すのだった。

 しかし、透の姿は見失われていた。

(ちえ、)

 三宅は視界に透の姿がないのを確かめると、ため息をつく。透は行く先を告げて行ったが、それがどこにあるか三宅は知らなかった。なにかの言い間違いなのか、それとも三宅の知らない場所にあるか、どちらかだ。

 念のため、三宅はウージェニーに訊いた。

「あのさ、2年6組ってどこにあるか知ってるか?」

「6組?」

 案の定、彼女も首をかしげた。



*       *       *



 2年6組は高校校舎の2階にある。階段を上がって手前から2年の学級が1組から始まり、一番奥にある北側向きの部屋だ。

 その教室の入り口で、透は立ち止まり、中にいた一人の男子生徒に尋ねた。

「――片倉頼子、いる?」

「あぁ。頼子!」

 その声とともに、急に視界の中に頼子の姿――由貴子の姿――が飛びこんで来た。

「瀬野くん」

 由貴子は――いや、頼子はにっこりと笑った。強烈な気配。やはり彼女は由貴子ではないのだ。

「どうしたの、朝早くから」

「……別に、会いたくなっただけだ」

また幻だと思った?」

 透は数瞬黙りこみ、ためらったあげくうなずいた。

「悪い」

「別に。いいのよ。そんなこと。たいした事じゃあないわ」

「うん」

 頼子はゆっくりと、にっこりと笑った。その顔を見て透は、だれかに似ている、と思うのだった。

 由貴子ではない。由貴子とは全く違う。

 その笑顔を、透は記憶の底からひきあげようと試みた。

 由貴子ではない。大村沙夜か? ――いいや、違う。

 だれだろう?

「瀬野くん? どうしたの?」

「――え?」

「チャイムが鳴ってるわ。教室に戻りなさいな」

「……はい」

 なにかがおかしいのだ。それを知りながら、透はおとなしくうなずくしかなかった。会えたことに満足感はあったが、違う感慨がせりあがってくるのを止められない。そして、それがなんなのかはまだわからないのだった。

 透は自分の教室に駆けて行った。それはちょうど、担任の駆堂奏江が来たときだった。

 彼は、あの頼子の隣にいた男子生徒はだれだろう、と考える。見たことのない顔だった。だが、透がいくら考えをめぐらそうとも、その顔がわからないのだった。

(おかしい)

 透は何度も自問する。どうやってもわからない。だが、どんな男だったのかわからない。

 第一、6組にはだれがいる? 頼子の他に? 確かに6組はあるのだ

 答えが矛楯している。つまりは、どこかがやはり、狂っている証拠なのである。

 透は舌打ちして、辺りを不安げに見る。相変わらず、騒がしい教室は静まる様子もない。

 教室に空席はよっつだった。ひとつは白い花のおかれた――だれが持ってきたのか――机。草加仁の席だ。

 あとの三つは、と透が記憶をたぐると、それは昨日の放課後、教室にいた三人の女生徒だった。時友礼、藤井和美、大橋千恵子――だったか。

 週番の仕事で、遅くなっているのだろうか?

 嫌な予感がした。

 遅くなっているのではない。

 そうではなく――

 駆堂教師が口を開いた。

「残念なお知らせがあります。時友さんと大橋さん、藤井さんが亡くなりました」

 教室中がざわついた。三人の死は、昨日の草加に、続くのだった。









▲ / 「月と太陽と」 /


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