地の果て










 走りながら、透はいらだっていない自分を感じていた。透はまやかしにだまされていたのだが、それでも頼子に対して腹を立てる気にはならなかった。彼女から自分に近しい気配をおぼえていたからだ。

 彼女が何者かはわからない。あるはずのない2年6組を出現させた彼女が、何者か。

 チャペルへ続く並木道に鳥の羽根が落ちている。白い羽根だったが、闇に冒されたように灰に変色していた。

 それを拾った透は、足を緩めてチャペルへとむかった。

 その先に彼女がいることを、透は確信していた。

 けれど話を聞くまでもなく、透の本質はそこで待つことを、頼子と過ごした日々の意味を(それは、……永井潤と会わなかった日々という意味と同義だ)知っていた。だがそれを認めようとしない表層意識もあり、彼は答えを求めて歩いていったのだ。

 自分の中にその葛藤があることはわかっていた。

 チャペルへ行く道をさえぎる人間はいない。学園は静まり返っている。"セッション"患者が出たことで、部活動の制限が一部で行われていた。

 さながら、彼をこの学園の支配者だと認めているようだ。永井潤の不在は、その圧力を生んでいた。放課後の均衡は崩れている。

 力のこもった足取りで、透は少しずつ進む。

 透は、潤のいないこの領土を、一人で治めるための力を求めていた。もちろん、あきらかに支配し教師や大人たちと戦うための支配者などではない。いままでのように裏側から制御していたものを、もっと強めたいだけなのだ。

 なぜなら、均衡はもっと崩れていくだろうから。"セッション"の勢いはとまらない。もっと多くの人間が犠牲になり、学園だけでなく世界の均衡が崩れるだろう。そのために、力が必要だった。

 そのためには、認めたくないなにかを受け入れなければいけなかった。

 だから、頼子と会わなくてはいけないのだ。



*       *       *



 扉を開けると、静まりかえったチャペルには一人の少女が佇んでいる。この時間、まだ掃除をしている生徒や放課後の奉仕活動などで生徒や教師が出入りしているはずだ。なのに、別の空間に迷いこんだように静かだった。

 事実、そうだったのかもしれない。そこは現実と似て非なる異空間なのだろう。彼女が、空き教室を2年6組と透に錯誤させたように。

 見慣れたチャペルでありながら、知らない場所だ。

「頼子」

 彼女を呼ぶと、頼子はふりかえった。そのまわりになにか澱みが見えた。長い時を経た、澱み。

 それはまるで宇宙の星屑のようだった。宇宙に満ちている塵芥が寄り集まり、固まってやがて星へと生まれ変わる、それを見ているようだった。すべてを引き寄せなければ気がすまない貪欲な重力をまとった澱みだ。

「どうしたの?」

 頼子に言われて、透はどう言い出したものかと言いあぐねた。そして、手に握っていたものを思い出す。

「そこで、こんなものを拾ったよ」

 透が頼子にさしだしたのは、さっき拾った羽だった。

「私の正体がわかったの?」

「大体な」

「本当かしら」

 頼子は笑う。

「――由貴子の姿をやめろ。なんのつもりなんだ。なにをしようと構わないが、それだけは我慢がならない」

「失礼なことを言わないで。これは私の姿よ」

「由貴子とそっくりの顔が? でも時々、その姿は揺らいでるぜ。金色の髪が見える」

「それもまた、私の姿。私は私、よ! あなたが由貴子さんを殺したのに、この姿に文句をつけるなんて。世界のすべてがあなたの思うとおりに動くと思っているの?」

「俺は由貴子を殺してない」

「じゃあなぜ彼女は死んだの? 不破くんのせいだなんて言っているけど、それが自分を誤魔化すためにすぎないことはわかっているんでしょう? あなたがあの人の死を願った。それだから、彼女は死ななくちゃいけなかったのよ……!
 首を絞める縄の感触をあなたは知っているの。あるいはその輪をくぐるときの悲劇的な気持ちを知っているというの。なにも知らないくせに、簡単に人の死を願うのね。さすがに暴君の素質を持っているだけがあるわ。世界を支配したそのとき、どうするつもり?」

「俺は由貴子に死んでほしいなんて、思ったことはない!」

 それは嘘だった。死ねと願ったわけではなかったが、不破と仲のよい由貴子の姿を見て、弟らしい嫉妬を抱いたことは事実だった。裏切られた、と感じたのは、それまで由貴子を母のように思ってきたからだ。父親にいない家庭で、働きに出ている母の代わりに、由貴子はそばにいたのだ。

 それで心の片隅でいなくなってしまえばいい、と思ったのかもしれない。

(でもそれなら、死ぬのは由貴子じゃなくて不破のほうだったはずだ。そうじゃないと、納得がいかない!)

 透は足を踏みしめ、足下をにらみつけた。頼子を見るには、勇気が足りなかった。

 その足先に、赤い血の痕があった。……三日前に永井潤がステイグマから流した赤い血だったが、透はそのことを知らなかった。

 彼は知らないのだ。なにも。

 全て忘れていた。

 透には記憶のカセットテープがふたつ用意されていた。一つは今作動しているもので、もうひとつはずっと昔の、透の魂がどこから来たのかが記録されたもので、17年で完全にまきとられ、今か今かと再生の時を待っているいわば彼の「黒い鍵」であった。

 それはなんでも知っていた。瀬野透が見も聞きもしないことまでを。いま予感として知っていることでさえ飛び越えたメタ・フィジカルな事象のすべてを。おそらく、頼子の本当の姿、本質さえ知っているはずだった。

 その金の髪の幻も、片倉頼子という名前の、意味も。

 力を欲し、受け入れようとここへ来た透だったが、由貴子のことを突かれて混乱していた。受け入れることは、自分が由貴子を殺した、そのことを認めることになるのだ。

 それを彼は拒否せずにはいられない。

 だというのに、今までのこの世界が偽りだ、ということを透は察している。いまや彼は、前に進むこともできなかったし、もちろん後戻りも許されない場所にいる。

 頼子は静かな面持ちで、透に告げるのだった。

「『かくして天に戦争いくさ起これり、ミカエル及びその使いたち龍と闘う。龍もその使いたちもこれと闘いしが、勝つこと能わず、天には、はやその居る所なかりき。かの大いなる龍、すなわち悪魔と呼ばれ、サタンと呼ばれたる全世界をまどわす古き蛇は落され、地に落され、その使いたちも共に落されたり』。そしてあなたはこう言った。いと高きところにて奴隷であるより地の底にて王であるほうがよい、と! 光の中の闇であるより闇の中の光たらんと言ったのよ」

「あなたって言うのはだれのことだ」

「あなたよ、透」

「答えになってない……!」

 そして、透は変貌を見た。人の形をとったものが、そうでない霊的なものに変化するのを。

 少年をまっすぐ見つめる頼子の背中から、違和感もなく翼が広がってゆく。しおれた花が活力を得るように、さなぎから翼をひろげる蝶のように。

 その色は、透が手にしている翼と同じ色をしていた。白と灰色の混同した不思議な色。翼の上方は羽毛におおわれた羽根だが、下はコウモリのような羽毛のない翼をしていた。

「ずいぶんおどろくのね、透」

 頼子は姿はそのままに、見事に神に近いものだった。

「ねぇ透。いい加減にわかっているんでしょう? 自分がなにをしなければいけないのか」

「わかんねえよ、そんなこと。わかってたまるかよ」

 少年はとまどっていた。思考と出来事が示しあわせたように別々の螺旋をえがく。

「透」

「おまえ、だれなんだよ!」

「私? 私は"天使"」

「そんなツバサの天使がいるかよ」

「私は天に逆らった"権天使"のひとり。あなたと同じよ。私もまたあなたのように人の中に生まれた。私の母は"権天使"と交わり、子を生んだ。それが私。
 透、あなたもそうだわ。それがゆえにあなたは父の違う女を姉として持った。
 ただあなたは、"暁"のあのお方の子である、一番特別な"権天使"。災いが来るわ。世界が炎に滅ぼされるのよ。人は地の上から払われてしまう。透――あなたの友人であった、永井潤によって。
 彼は"キリスト"、神の子。人を滅ぼそうとしている"神"の子よ。今のうちに殺してしまわないと、世界は滅びてしまう。透、けれどあなたにはきっと、彼は殺せない。
 ――けれど、"神の子永井潤"はあなたを殺そうとするでしょう。そうしたらどうします?」

「なんの話だ」

「"ヤハウェ"に唯一対抗できる御方の子、透よ。あなたの父上は、はるか昔、人間のために"暁の炎"を盗んだのです。この世界にも多くの神話が残っているわ。おのおの形も違うけれど、すべてあなたの父上の、あるいはあなた自身の御業を伝えているでしょう! あの御方は神の国の北の守護者となり謀反を起こし、暁の子と呼ばれ、ゼウスをあざわらいながら太陽の炎を盗んだプロメテウスとなり、アマテラスオオミカミに逆らって天を追放されたスサノオノミコトとなった。テスカトリポカに敗れた翼ある風の蛇神ケツァルコアトルともなったことを忘れたというの!」

「なんの話なんだ、あんた!」

「私はあなたのためにここへ来た。あなたに運命を告げるために。あなたの力となるために。なぜなら私はまた、あなた自身が自分のために用意した者に他ならないのだから!」

 透はずっと、満たされていなかった。子供の頃からそう感じていたのは確かだ。そのことへの鬱積が、少年を粗暴にさせた。忘れさせてくれるのは潤と由貴子だけだったのだが、今やその二人は傍にいない。

 透は完全でないままでこの世に生まれた。そのことが彼の足並みを乱れさせていたのだ。彼の半分の記憶が閉ざされているせいだった。時が来るまで閉ざされていたものは、いまやもう、開かれようとしている。

 頼子の異形の姿がなによりの証拠だった。

「大村沙夜はあなたを悪魔だと言った。けれどむしろ、私たちは天使と呼ばれるべきよ」

「俺が天使? なんだよ、それ。
 あんたは肝心な名前を言ってないよな。言ってみろよ、その暁の子とやらの名前を!」

暁の子ルシフェル

「……やっぱり、悪魔なんじゃないのか」

「そう呼ばれているだけ。大和人が差別の意味をこめて北に住む人々を蝦夷、と呼ぶように、神が悪魔と呼ぶだけ。サタンとは名前ではなくて"敵"という意味なのよ。
 あなたはルシフェル、魔王サタンでもあるけれどチタン神族のプロメテウスでもありケツァルコアトルでもあるのよ。私たちは同じものを目指し、同じことをしなくてはいけない。新しい天地への大移動、エクソダスを防ぐのよ」

「俺は、潤を殺したりなんかしない」

「それは必要なことだわ。そうでなければ、神の計画は実行され、災厄が訪れて世界が滅びるのよ。多くの人々は救われることなく、死んでゆくでしょう。神のふるいの網の目は、ひどく傲慢であるから」

「……このところ、いくつかの幻を見たんだ。由貴子の幻を。すべて由貴子なんだと思ってた。それにしては言ってることがばらばらだから、なにもわからなかった。いま俺の目の前にいるあんたが幻じゃないとすると、合点がいくよ。ようやくわかった。教室で"セッション"のように溶けたのはあんただな。
 由貴子は潤を殺すな、と言った。あんたは殺せと俺に言う。俺が――どっちに従うかはわかるだろう」

「それでいいの? 由貴子さんを殺したのはあなたよ! なぜ殺したのかを思い出せばいい。嫉妬が原因? 馬鹿を言ってはいけないわ。あなたは今になってもなお、彼女に従うというの! それこそ、彼女の狙い。彼女の願い。あなたにとって瀬野由貴子は支配する神のままでいる。
 おかしいとは思わないの、それを」

「俺がなぜ由貴子を殺したというんだよ」

「それぐらい思い出したらどうなの、私に従うのでは意味はないのよ。私はあなたのしもべに過ぎないわ」

「俺があんたと同類だって言うのか。俺にもその羽根が生えるのか? 服、破けてないな。どうしてだ?」

「この羽根は鳥のように実際的なものではないのよ。いわば象徴。多くの人の目には見えないし、見えても触ることの出来ない者もいる。霊的なものなのよ」

 透は、少年は、なにかを思い出しかけていた。由貴子のことではなかった。彼女の死の光景は今も少年の頭にとりついてはなれないが、その暗い光景とはまったく違う景色が見えたのだ。なにかの映像の断片が頭の中をすり抜け、すぎ去り、そして一枚だけ手もとに残った。

 それはこんな光景だった。

 砂浜から海が広がっている。右も左も終わりのない浜辺で、海の色は果てしなくすきとおったコーラル・ブルーだった。海の中にだれかが立っていた。膝まで海に揺すぶられながら、男がこちらを見つめて立っている。知っているだれかのようだった。――いや、それは透の十年後の姿といわれれば納得がいった。

 それだけ。たったそれだけの記憶

 それはいつの記憶か。それがなにかはわからなかったが、これだけは言えた。

 それは、今の透をつくりあげている記憶ではない。波乗学園高等部二年、瀬野透――彼をつくっているものではなかった。

 少年は目を見開き、それがなんなのか考えた。記憶をまさぐり、それを必死に得ようとした。

(未来か? どうして俺が俺を見てるんだよ!

「頼子」

「なに?」

「解んねえぞ」

「どうしたの?」

「なんだよこれは! 俺にはわからない!」

「透、無理をしないで」

「無理するなって? 早く思い出したほうがいいんだろ?」

「違う透、それは思い出すべきことじゃないわ! それは自然の摂理を曲げることよ。それはまだ起こったことではないのよ!」

 頼子に手をつかまれて、透は我に返った。幻の光景は薄れてかききえ、薄気味悪い感覚だけが残った。

「……あれは、」

「私には見えないものよ。……」

 波の揺明によったように、透は意識をくらませた。

「……エイラ・ムスカ」

 少年がぼそり、と呟いた名前を聞いて、頼子は体をこわばらせた。

「金色の髪の女の子の名前だ。そうだな?」

「――そうよ」

 頼子は優しげにほほえんで、ステンドグラスの天使像を見た。大天使ミカエルの姿だった。

「俺をルシフェルだというなら、あんたにも片倉頼子だとか、エイラ・ムスカだとか言うにんげんの名前じゃない名前があるはずだ。俺はそれを聞く権利があるな?」

 透の顔は、いつもの顔だった。三宅たちに指示を下すときの為政者の表情だ。

「ええそうね。私の名はデラフェル」

「デラフェルか。――行くのか?」

 頼子は言った。

「これは先触れに過ぎないわ。
 いまだ時は来ていない。まだ世界の秩序は保たれたまま、私の時代ではない。世界は崩れ始めてはいるけれど――」

 その言葉そのものが、世界を崩していくのだった。

 気がついたとき、チャペルには少年以外のだれもいない。透は頭を振ると、ひとりきりでそこを出て行った。









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