聖使徒










「国立先生、ちょっと……」

 受付の女性にそう声をかけられ、波乗学園の二時間目、国立は通りがかった受付でのトラブルに巻きこまれていた。

 いらいらとしながら、前の時間で使った教科書を受付デスクに置く。目の前の男は、必死で事情を説明しているのだがさっぱり要領を得なかった。

「ここの学園の生徒なんです。お礼だけでも」

「そうは言われましても……あなたがおっしゃるような生徒は何人もいますし」

「会えばわかります」

「それに、お話を簡単に信じるわけには」

 男が受付に出した名刺はきちんとしたもので、「SAN製薬 代表取締役社長 長部匡おさべ ただし」と書いてあった。SAN製薬といえば、フランスの資本を持つかなり大きな製薬会社だ。そこの社長だというのだから、怪しい人物ではないはずだ。だが、彼の話がどうにも、うさんくさいのだ。

 昨日、長部は波乗の制服を着た学生に命を助けられた、という。学生の名前はわからない。制服も、調べた末に波乗学園のものだとわかったらしい。

 波乗学園の制服を着た男子生徒はこの学校には七百人もいるのだ――男の話だけでは、それが生徒のだれなのかもわからない。

 正直な話、国立は男の話をちっとも信じられなかった。長部もそれを感じているようだ。苛立ったように、

「信じられないというんですか。"セッション"を癒しただなんて?」

「あなたに手をかざしただけで癒したというんですか? まさか……」

「ですが本当です!」

 長部は激昂して声を荒げた。国立はその剣幕に、顔をしかめた。

「あの」

 折りわるく、そう言ってまた部外者が国立の傍に立っている。国立は頭痛を覚えながら、そちらを見た。男はあきらかな厄介ごとが目の前でくりひろげられているというのに、気にした様子もなくにこやかな表情でいる。

「なんです」

「保護者の代理でうかがいました。名取征人と言います。高等部二年の永井潤を早退させたいのですが」

 まだ二十代くらいの青年だ。国立はいくらかげんなりして、はあ、と応えた。



*       *       *



 二時間目が終わった休み時間、吉弥高二は教室を出た。その瞬間、足元を取られて廊下に転ぶ。

「わっ」

 頭上からは笑い声が響いた。足をかけられたのだ。声でもそれがだれだったかわかるし、第一そんなことをする人間は一人しかいない。見上げると案の定、立っているのは十字美濃だった。

「なにしてるの、吉弥くん」

 そう言いながら、笑っている。

 高二は応えず、立ち上がる。学年があがってから二ヶ月、どうしてかこの少年に目をつけられていた。理由は少しも思い浮かばない。問いただすことはしたことがなかった。構っても仕方ないと思っていたからだ。

 ありがたいことに、手ひどく殴られたり、大きな怪我になるようなことはされたことがなかった。十字はしょせん大した不良じゃあない。金をまきあげられたりといったこともなく、小さないじめが続いている。本当に、ただの嫌がらせばかりだ。

 それでも精神に与えられるダメージはそこそこ大きかった。

「なにしてるんだよ、」

 呆れたような声は、十字の傍に立つ干照の声だ。干照は十字と同じようにちょっかいを出してくるわけではなかったが、十字を止めることもしないし、高二を手助けすることもなかった。

「俺がなにかしてるように見えるか?」

「おまえも本当に、しょうもねえなあ」

 高二はすべてを無視して服を払う。

 廊下の頭上のスピーカーから、呼び出しのアナウンスが響いた。

 ――二年一組の永井くん、至急職員室の国立先生のところまで来てください。

 アナウンスのすぐあと、2-1の教室からは呼ばれた当の少年が姿をあらわした。永井潤は興味なさそうにちらりと、高二たちのほうを見ただけだった。それでも、十字も干照も気まずげに口をつぐんでうつむく。

 高二は思わず、永井のあとを追った。



*       *       *



 潤は呼び出されて職員室に行く途中、学校の受付に名取を見つけて足をとめた。潤に気がついていた名取も軽く手を上げて注意を引く。その脇には、いくらか不機嫌そうにした国立教諭が立っていた。職員室までは、足を運ばなくてもいいというわけだ。

「永井か、」

「なんですか、国立先生」

 名取が潤を呼び出したのだろう、ということはもちろん察せられた。国立はかなり不機嫌そうだ。

「彼はおまえの保護者代理ということで構わないんだな?」

 そういわれて、改めて名取を見る。突然の話だ。名取に対して警戒心はもう持っていなかったが、それにしても、昨日の今日で保護者代理と名乗り出るとは大した度胸だ。

 それでも一応、潤はうなずく。

「はい」

「そうか。……保護者の名前で、早退の申請が出ている。荷物をまとめて、帰りなさい」

「わかりました」

 国立が無愛想にしている理由はわからなかった。国立が行ってしまうと、名取はかたわらの男を紹介した。五十代くらいの男だ。会ったことはない。だが、男はまるで潤を知っているかのように見つめていた。

「長部匡さんです」

「……はじめまして」

 長部は黙ったままだが、手をさしのべてくるので潤はそれに応えた。名取が、優しく笑って、

「昨日お会いしているはずですよ」

「憶えてない」

「いえ、お会いしています」

 長部は自分よりはるかに年少の少年に畏敬のまなざしをむけて口を開いた。

「私を癒したのはあなたです」

 そう言われて、ようやく思い出す。昨日、学校から家への帰り道で一人、"セッション"に罹った男と出会ったではないか。もう腐りはて、いつ死んでもおかしくないという有様だったはずだ。そして潤は手をかざし、"セッション"は癒されたのだ。

 我がことながら、潤は信じられない気持ちで彼を見た。

「さあともかく、荷物を。これから、お連れしたいところがあるんです」

「わかった」

 振り返って歩き出したとき、すぐ傍に吉弥高二がいるのに気がついた。どうしてかじっと潤を見つめ、立ち尽くしている。あまり関わったことのない生徒だ。それでも名前は、知っている。潤は首をかしげ、それから聞いた。

「来る?」

 吉弥はうなずいた。



*       *       *



 制服を着た少年が、あきらかに学校をさぼっているような様相で駅前を歩いていた。回田考史だ。学校にむかう気は少しもなかった。平日のまだ朝だ。通勤時間がすぎ、土日は観光客でいっぱいになる横浜も、今は閑散としていた。回田に目を留めるような人間もいなかった。

 理不尽さといくばくかの恐怖が回田の中にあった。こんな気分で、おとなしく教室の机に座っていられるはずはなかった。

 毎日、固執する不良らしい髪型も今日は整えられていなかった。そんな気力さえなかったのだ。

(……なんで俺はあんなことを言ったんだ……?)

 忘れようにも忘れられなかった。昨日の夕方、草加仁の家を訪れて、草加の母が"セッション"で死ぬのを見てしまってから、不思議の国に連れこまれたようだった。しかも、回田はその不思議の国で、訪れたアリスの役割ではなく、気違い帽子屋の役を演じなければいけなかったのだった。

 ――永井潤に関わるな。

 そう言ったのは回田だった。瀬野透にむかって、彼はそう言ったのだ。瀬野も永井も、存在は知っている。三宅や草加が以前からつるんでいたから、もちろん何度か顔を合わせたことがある。だからってなにか知っているわけではなかった。

 だからなぜ自分があんなことを言ったのかわからなかった。ただ言わなければならないと思ったのだ。三宅の言葉を聞いていて、そう言わなければならないと思ったのだ。

 三宅は瀬野に永井を殺せと言った。彼はなぜそう言ったのかわかっているのだろうか? その意味を知っているのだろうか?

 そうとは思えなかった。昨日の三宅は行動が少しも一貫していない(おそらく回田もそうだったに違いない)。

 なぜあんなことを言ったのだろう。なにも知らないのに。

 草加の母親の死が自分のどこかをおかしくしたに違いなかった。もしかすると、"セッション"の感染時に奇妙な言動をとることがあるのかもしれない。目の前で"セッション"を見て、夜は自分の体が腐っていく夢を見てうなされた。

(……俺、死ぬのか?)

 "セッション"だとすれば、死ぬ他ないだろう。もちろん、罹ったと決まったわけではなかったが、そうなっておかしくなかった。心の底からぞっとした。死ぬだなんて考えたこともなかった。今しも自分のまうしろに、鎌を持った死神がその鎌を振り下ろそうとしているのかもしれない。

 背中を悪寒が走り、回田は思わずふりむいた。

 もちろん、そこにはなにもない。ただ変わりのない街の風景があるだけだ。回田のかなり後方を歩いていた中年の女は、彼の様子に眉をしかめ、道の反対側に渡っていった。

(なにもない、……)

 だが、回田はそのとき一台の車に目をとめた。濃紺のルノーRAGUNAV6。一瞬のうちに回田の傍を駆け抜けていく。車内には四人の人間が乗り、そのひとりは間違いなく、永井潤だった。

 足は自然と、その車を追った。猛然と駆けてゆくルノーを足で追うことは不可能だっただろ。だが、走りに走って、もうだめだと思う頃にルノーが彼の視界に現れた。

 すでに車内に永井の姿はない。

 回田は息を整え、車が停まる建物を見上げた。装飾はほとんどないが、そこが教会であることだけはすぐにわかった。

 ――横浜福音書教会。



*       *       *



 時は近づきつつある。

 手を組み、少女は教会にさしこむ光の中で祈っていた。祈ることでしか時を費やせなかった。それ以外のすべてが、彼女の心を千々に乱すのだ。

 鳥海実和子は、朝から椅子に座りそうして祈り続けていた。なんと祈ればいいのかも知らなかったけれど、祈らずにはいられなかった。

 時は刻々と近づきつつある。

 彼がここへ来る。

 少女の傍らには、彼女の父であり、この横浜福音書教会の牧師である鳥海卓也とりうみ たくやが立っている。実和子はふと、顔をあげて父を見た。いつも揺らいだことのない父の顔は、この日も信念に裏づけされているように強い。実和子は、自分が抱えている不安をどうにかしてふりほどこうと、父に言った。

「お父さん」

 滅びようとしている人々。"セッション"に蝕まれ、瀕死のこの世界。――彼は、救うのだろうか?

「お父さん、信じていいのかしら」

 鳥海牧師は静かに、娘に返答した。

「なにをだい」

「私、怖いの。この世界はこんなにも苦しんでいるのだから、彼はさらに苦しんで世界を救うことになるのでしょう。彼にそれができるの? 永井くんは、それをできるの?」

「実和子、神を信じなさい。彼はその神に撰ばれた少年なのだから」

 もうすぐ彼がここに来るのだ。

 この日、実和子はあえて、学校を休み教会にいた。

 同じ波乗学園に通う永井潤のことはずっと前から知っていた。中学のとき、同じクラスになったことさえある。彼は不思議な存在で、特別な存在だった。それもそのはずだ、彼は神の子なのだから。

 世界を救うのは彼だと、実和子が父に教えられたのはつい昨日のことだった。

 ――明日、ここに大切な人が来るんだよ。

 彼は本当に世界を救うのだろうか?

 実和子は決して、神を疑っているわけではなかった。永井潤を疑っているということでもなかった。ただ彼女は怖かったのだ。

 世界の姿は暗闇に沈もうとしている。それがただ怖い。

 外で車が止まる音がした。

(来た?)

 実和子は立ち上がる。鳥海牧師もいずまいをなおし、扉を見た。

 戸が開き、一人の少年の姿が現れた。

(……永井くん……)

 潤と並ぶように入ってくる一人の青年、二人のあとからは実和子と同じクラスの吉弥高二、そして中年の見知らぬ男が入ってきた。

「よくいらっしゃいました」

 鳥海の声に、潤ははっとして彼を見る。まだなにか確信を持てぬように、目を泳がせ、彼はなにも言わなかった。

「この教会の司祭を務める鳥海と申します。娘の実和子はご存知でしょう?」

「ええ……知ってます」

 潤はそう言いながら、実和子にも目をくれる。実和子は心臓が飛び上がるのを感じた。

(彼は本当に救うというの……?)

 奇妙な集会だった。何人かは事態がのみこめておらず、戸惑いを隠せない。実和子もそうだったし、潤についてきた吉弥高二もそうだった。

 実和子は居並ぶ人々を順に見つめた。

 父である鳥海牧師。柔和な表情の一人の青年。永井潤。吉弥高二(彼は、この場所に実和子がいることに驚いているようで、仕切りとこちらを見てくる)。そして身なりの整った一人の男。

 ――それが、永井潤に従う人々なのだった。



 最後にひとり、いつのまにか汗みずくの少年が教会の入り口に立っていた。

 肩で息をしながら、教会の戸に手をついている。ずっと走り通しだったらしいことをうかがわせた。

「永井潤……ここにいたのか」

 そうつぶやきながら、彼は少し笑った。回田考史だった。









▲ / 「月と太陽と」 /


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