横浜福音書教会










 名取は駆けこんで来た少年を一瞥すると、なにかを確信しているような強い目で口を開いた。

「潤さま、私たちがあなたの聖使徒です」

「聖使徒……」

 潤は名取の言葉を鸚鵡返しにし、しかし彼は名取とは違ってまだ不安げな瞳で集まった人々を見た。聖使徒といわれても、彼の前に立つ人々に共通点はなく、今日はじめて会った人間さえいる。

 名取は回田に教会の扉を閉めるように頼むと、言った。

「潤さまにお話すべきことはたくさんありますが、初対面同士もいますから、まずは自己紹介と行きましょうか。私は名取征人、現在神奈川県警にて特務捜査課警部補として勤務しています」

 少年たちの間から、ため息がもれる。潤も、もうたいていのことに驚くことはないと思っていたにもかかわらず、名取を見ずにはいられなかった。彼のことをまさか本物の天使ガブリエルだとは思っていないが、警察官だというのは予想を超えている。しかも、この若さで警部補なら、かなり優秀な警官のはずだ。

 警察官と、神だの天使だのと妙な言動をする男というのはイメージが重なり合わなかった。

 ほかの人々の名取に対する態度は二つにひとつだった。つまり、潤と同じように驚いているか、もう知っていたかのように冷静か、だ。何人かはおそらく知っていたのだろう。

 自分の聖使徒だ、そう言われても潤には知らないことが多すぎた。いつもなら、潤は得体の知れない相手に必要以上に警戒し、距離をとる少年だった。けれど、なのに名取にはあまり警戒心を抱かなかった。それが聖使徒だということなのだろうか?

 名取の次に口を開いたのは、牧師だった。

「私は今も申し上げましたが、この教会の牧師で鳥海卓也と申します」

 中年の男は、牧師らしく襟の詰まった黒い服を着ている。手には新約聖書があり、物静かな様子だった。彼は、名取の素性に驚いていなかった一人だ。鳥海に続いたのは彼のそばに座っている娘だった。

「鳥海実和子です」彼女は立ち上がり、頭を下げた。長い髪が揺れる。「今は高校二年生です……永井くんと同じ学校の」

 次に口を開いたのは長部だった。熱っぽい瞳で、

「長部匡といいます。SAN製薬という会社の代表取締役です。
 あなたのためなら、なんでもいたします。私の命であっても。あなたが救った命ですから、あなたのものです」

 潤は長部の視線を受け、うなずいた。

「僕は吉弥高二です。僕も鳥海さんと永井くんと同じ、波乗学園の二年です」

 最後に残ったのは回田だった。回田は自分を場違いなものと感じているかのように少しためらってから、言った。

「回田考史……です。俺は共正高校って県立の高校だけど、同じ二年だ」

 潤は回田を見た。回田のことは、以前から知ってはいた。だが、友人というほど親密な関係ではない。どちらかといえば、顔を合わせれば喧嘩になる可能性があるので避ける人物だ。だが、確か三宅拓人とは仲がよかったはずだ。

(なんでこんなところに現れたんだ?)

「回田くんですか」

 名取が言うので、回田はうなずいている。名取はどうやら彼のことを知らなかった様子だ。つまり名取でも、知らないことがあるというわけか?

 ――なぜここにいるのだろう、潤はそう思った。自分も、そしてこの人々も。なんのためにここにいるのだろう。神の子だというからには、自分自身になにかもっと、使命感や義務感を感じているべきではないのだろうか? こんな頼りないものなのだろうか、撰ばれるということは?

 昨晩感じていたような高揚感も今はない。

 感じるのは、潤を囲む七人の、言葉にはあらわれない願いだ。それを願いと呼んでいいのか潤にはわからない。だがそのまなざしは、名取から回田まで一様になにかを潤に訴えかけていた。そこに含まれる全幅の信頼感は息苦しいほどだ。

 彼らはなにに突き動かされ、潤を信じているのだろうか? 潤が感じないなにかを、彼らは感じているというのだろうか?

 名取は潤に微笑み、

「神は既にこの世に裁きのための試金石を投げ入れられました。
 皆さんもご存知の"セッション"こそがそれです。いえむしろ、"セッション"はこの世界がそもそも抱いていた病巣の発露でしかありません。神がこの病を投げこんだのではなく、神の力が弱まった結果、世界の気は枯れ、そして病巣が現れたのです。"セッション"は神がこの世界を試さんとするその徴なのです。われわれに与えられた使命は、即ち、この世界の救済です。潤さま、あなたは"セッション"を癒すことのできる神の御子としてここにおられます。ですが、"セッション"を癒すことがもっとも大事であるのではありません。"セッション"とは現象の表面でしかないからです。けれど、確かに人の身であるわれわれは、限られた奉仕によってしか、人を救済にむかわせることはできないでしょう。すべての"セッション"を癒すことができればよいのでしょうが、あなたの手よりも早く、"セッション"は広まるでしょう。"セッション"とはそういう病なのです。あなたが癒せばその分だけ広がる、そういう病なのです」

「……神の力が弱まった?」

 潤が不審げに問うと、名取はこう答えた。

「正確な言葉ではありません」

「神の力が弱まるだなんていささか不穏な言葉じゃないか」

 名取は潤の言葉を笑って受け流した。

「さて、それについてはまだまだわからないこともあります。ここで深い言及をするのはやめましょう」

 潤は冷静に、名取を観た。嘘は言っていないと思う。けれど、隠し事は多そうだった。まだまだわからないことがあるとはいえ、わかることもあるはずだった。名取は、それを隠したのだ。

 わからないことだらけだ。

 ここにいるのはどういう人間なのだろう。聖使徒だとか神の子だとかいう言葉以前に、なぜここに集まったのだろう?

 にもかかわらず、ここから去ろうという気にはならなかった。潤はただ、名取の言葉を聞いた。

「神の子という言葉もあやふやです。多くのイメージがこの言葉にはまとわりついています。時代ごとに、あるいは土地ごとにそれは違う形をしています。そのうちのひとつの表象があなたなのでしょう。
 ですが、いまわれわれにはっきりとした現象として認知されているのはひとつ、……潤さまが"セッション"を癒すことができるということです。それがあなたの、世界を救うための第一の手段なのです。それは、特別な力ではありますが、わけ隔てなく人々に与えられるべき力です。あなたの義務は、あなたの前に立つ病に犯された人々を癒すことです。それはおわかりになりますね?」

「ああ……」

 潤は自らの掌を見る。

 潤の手は"セッション"を癒す。それが、昨日たった一度だけ長部を癒せた偶然でないことは確かだった。今も目の前に患者がいれば、潤はそれを癒すことができるだろう。それだけが潤にできることだった。だが今、目の前に"セッション"患者はいない。

 神に撰ばれたにんげんたちだけがいた。

「あなたの手には"セッション"を癒すための奇蹟があるのではありません。奇蹟は起こったひとつの現象に過ぎません。あなたの掌にあるのは世界そのものです。うたかたの中に眠る黄龍が手にしている摩尼の珠。それがあなたの手にあるものです。この世界のすべてがその中に籠められているのです。
 神の意志に背く者たちがいます。彼らは、自らの罪を顧みることもなく神の撰別を不公平だと口にします。彼らがしようとしているのは、神によって救われる人々を、嫉みによって救われない人々の中につきおとすことです。この世を、生きながらの煉獄に変えることです。すべての人間が救われない世界、それを彼らは公平だと言います。ですが、果たしてそうでしょうか? 罪と無垢が同じに扱われることは公平なのでしょうか? それは、公平という言葉を濫用しているに過ぎません。
 彼らはあなたが手にしている摩尼の珠をなんとしてでも奪おうとするでしょう。ですがあなたの摩尼の珠は、そうした穢れた者たちを清めてしまいます。ゆえに彼らはあなたから摩尼の珠を奪うことは難しいのです。あなたが癒すよりも早く、彼らの悪意があなたの摩尼の珠を撃たない限り、あなたが負けることはないでしょう。
 穢れを祓われないよう、彼らはあなたから姿を隠します。なにか手段はないものかとあなたを遠巻きにして見つめています。そのためにまた、彼らを駆逐することも難しいのです。あなたが近寄れば、それだけ彼らは退くからです。だからあなたは、こうして摩尼の珠を持つことになったあなた自身から避けるものを考えれば、彼らのこともおわかりになるに違いません。それがなにか、だれか、まだ確かに言うことはできませんが……」

 また、名取は言葉をごまかすように目を伏せた。天使ガブリエルらしい端正な顔だ。目を伏せると、顔の左右の均整がすばらしく整っていることがよくわかり、青年の容貌に驚かずにはいられなかった。通常はさして美青年だとは思わせないが、こうして話している彼は本当に天使ではないかと思わせる。

「我々もまた、あなたの存在を知っているけれど我々が本当にどうすればいいのか、どうすべきなのか完全に知っているわけではありません。しかし、主が示されたあなたの力を用いることで、人々だけでなく、我々もまた真実の世界に近づくことができるでしょう」

「すぐにでも始めるべきだ」

 潤が言うと、名取はうなずいた。

「そうですね。とはいえここにいて待っているわけにもいきません。潤さまに心当たりがないなら、私がお連れしたいところがあります」

「構わないよ」

 学校は、という人間はだれもいなかった。潤さえも、もうそんなことに頓着する気も起こらない。なにが大切か、ここにいるすべての人間がわかっていた。

 世界は滅びようとしている。

 すべてが潤の手にかかっていた。それを、潤は重荷だとは感じなかった。撰ばれた人間たちは千差万別の思いを籠めて潤を見る。希望、崇拝、不安、優しさ――だが見つめられる潤自身は、なにもかもを当然だと思うほかなかった。

 名取は再び、教会の扉を開いた。それを見て、潤もまた外へとむかう。

 そこはただ、光に満ちていた。



*       *       *



 再び名取と車に乗り、潤が降り立ったのはざわめきの中だった。教会からは一時間あまり、東京国際空港だ。"セッション"のせいで航空機の利用客はかなり少なくなっていると聞いていたが、平日の日中、ターミナルには多くの人がいた。ほとんどが国内線を利用するため、大型のスーツケースを持っている人間はさほど見られなかったが、それでも、多くの人間がそこを過ぎ去っていく。

 なぜここにつれてこられたのか、潤にはわからなかった。

「名取、」

「なんですか、潤さま」

「どうしてここに?」

「あなたの奇蹟を、行うためです」

「"セッション"だというなら病院か――確か、隔離施設があったはずだ」

「隔離施設は、ほとんど機能していませんよ。患者は発症から三日、早くて一日で死亡してしまいます。感染原因が不明だから、患者の周りを隔離するわけにもいかなくなっています。なにしろ、数が多いですから。隔離期間も根拠がない。施設に行っても、"セッション"患者には巡り合えませんよ」

「じゃあなぜ、」

 そう言った瞬間に潤ははっとした。知っている匂いを嗅いだような気がしたからだった。言うまでもなく、肉の腐敗するにおい。名取は無言で、潤の肩越しに指をさす。待合の椅子に、深くもたれてうなだれている男がいた。帽子を目深にかぶり、顔の様子はわからない。この季節だというのに、丈の長いジャンパーを羽織って、そのポケットに両手をつっこんでいた。足はだらんと前に伸び、少しも動かない。

「……"セッション"、」

「あまり大きな声を出すと、パニックが起こりますよ」

「まだ生きているのか?」

「あなたが触れればわかることです。さすがに、死人を癒すことはあなたにもできません」

 "セッション"に対して畏れを抱くことはなかった。ただ、その男がもう死んでいることを潤は怖れた。

 潤は男に近づいても、ためらった。どこに触れればいいのかわからなかったからだ。いや、触れる必要はなかったはずだった。昨日、長部のときには触れなかったのだから。

 それでも潤は手を伸ばし、ポケットに入れられた男の腕をつかむ。ぐにゃり、と生きている人間の体ではありえない感覚が伝わった。ジャケット越しに、腐敗した肉へと潤の指が食いこんだのだ。しかし、潤はもはやためらわずに男の手を引く。

 ポケットから引き出された手は、もはや腐敗していない。まだ"セッション"に侵されていなかったからではなく、潤が触れたその瞬間に病は癒されたのだ。

 男は途端に、機敏にふりむいて潤を見る。

「あ……お……あの……」

「あなたの病は癒されました」

 そう告げる少年に、男はなにを言っていいのかもわからない様子でたじろいでいた。腐敗のにおいはもうない。潤は身を引いて、すぐに名取の傍に戻った。

「生きていたよ」

「そのようですね」

「彼がいることを知っていたから、ここにつれて来たのか?」

 そう尋ねると、名取は首を振る。

「まさか。ただ、報道はされませんが空港や幹線駅などに"セッション"患者が来るのは警察では周知のことです。どこかへいきたいと思うのでしょう。たとえば生まれた家や、家族のいる場所や、会いたい人のところへね。私はそれを知っていたので、ここにお連れしたまでです。探せばまだ、何人もいるでしょう」

 潤はうなずいて、ちらりと先ほどの男を振り返った。男は驚愕の目でまだ、彼のほうを見つめていた。しかしやがて、しゃべりだすに違いなかった。

 あの少年によって"セッション"を癒されたのだと。

「僕がここにいるようにすれば、患者はここに来るかな」

「そうですね。"セッション"に関わることをマスコミが避けるとはいえ、やがて伝わっていくに違いませんね。
 それにここは便利な場所ですから、いいんじゃないでしょうか」

 名取はそう言って、少年の肩を叩いた。









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