相馬研究所










 乱雑に積み重ねられた紙束の中に、人間が埋もれるようにして這いずり回っていた。人はまばらに見える程度なのに、オフィスは喧騒に包まれている。また一本電話が呼び出し音を叫び、服部靖幸はっとり やすゆきは手が届く隣の机の電話を取った。

「『FACT』編集部服部です。はい、お待ちください」

 彼は一度受話器をおくと、姿は見えないがいるはずの編集長にむかって声を高めた。

垣小野かきおのさん、ネーション・オービッツの須賀さんから、電話です!」

 返事はなかったが、オフィス電話のランプが話中のグリーンに転じている。垣小野の声が聞こえてきていた。

 ネーション・オービッツは都内のテーマパークを手がける企画会社で、一昨年、大々的なプロデュースで「東京シティ・パーク」を開園させた。ヴァーチャル・リアリティの映像を用いたアトラクションが主な屋内型テーマパークだ。開園から一年半が経った今でも、入園者数は悪くない。編集長の垣小野は、アラトクションのひとつの製作に協力していた。

 服部は今年二十六歳、富士新聞社『FACT』編集部に入って四年になる。国立大の理系出身の彼は、科学関係の記事をまかされていた。目下のところ、『FACT』にあまり需要のない分野だ。『FACT』はゴシップ中心の雑誌であり、医療分野などのスキャンダルが専門といったところか。しかし、ここ数ヶ月は一度も記事を書いていなかった。"セッション"の影響だ。

 白虎事件を担当したライター二人、カメラマン一人が、この編集部でも"セッション"で死んでいた。医療関係ということもあって、当時服部が追っていた文科省直属の研究所関係の記事が済んだあと、彼もそのチームに合流することになっていたのだが、編集長は彼が参加する前に、"セッション"について追うことを禁じた。他の雑誌や新聞よりも、かなり早い段階の判断で、批判は多かった。だが、それでも英断だったというほかない。他社ではこだわったあまり、十人以上が感染し、直接記事に携わらなかった編集長まで死亡したケースもあるほどだ。

 "セッション"の影響で、科学関係の記事そのものが忌避される傾向にある。雑誌の記事を読んで死んだ人間が出たという話までは聞かないが、「病気」といった言葉に対する、一般人のアレルギーはかなりのものらしい。この高度情報社会であまりにも珍しい現象だった。ネットでも思っていたほど話題になっていない。皆が、それを恐れている。

「服部、ナガト銀行の記事、集めてくれ」

 電話を切ったらしい垣小野の声が聞こえてくる。椅子が軋む音がして、服部のほうに姿を現した。

「ナガト銀行って、一昨日のですか?」

「ああ。Saikaだよ。TCP東京シティ・パークもメイン・フレームが感染したらしい。今日は休園だと」

「じゃあデータが飛んだんですかね?」

 垣小野は肩を竦める。現在、かなりの感染率を誇るコンピュータ・ウイルスSaikaの話だ。一昨日はついに、ナガト銀行の顧客データを蓄積したサーバが感染しかなりの被害が出ている。それで、TCPもか。

「いまのところ、そういう症状は出てないらしい。やっぱり顧客管理データベースで混乱が起きてるという話だ……【D.Sea】はユーザー・パスポートを持ってる人間には利用回数に応じてプログラムが変化するシステムを取り入れてる。それが働かなくなる程度だな。一応個人情報だから、マスコミにばれるとなんだかんだうるさい。記事にするなとよ」

「でも、Saikaの事は調べるんですか」

「一応な。他のところですっぱ抜かれたときに備えといてくれ」

【D.Sea】こそ、垣小野がシナリオを手がけたアトラクションだ。なかなか人気のあるアトラクションだという。ユーザー・パスポートによって変化するプログラムで、観客をあきさせないのがコツなのかもしれない。

 服部がSaikaの記事や情報を集めていると、また電話が鳴る。人は出たり入ったりしているが、電話に出られる人間がいるようには思えない。彼はまた仕方なく、電話をとる。

「はい、『FACT』編集部――」

『服部靖幸さんですね』

 電話のむこうから、男の声が服部を名指しした。このオフィスの人間の声ではなかったし、仕事でやり取りのあるだれとも聞き覚えのない声だった。

「……そうですが」

 編集部の電話は公開されていないが、それでも、どこかから知って妙な電話をかけてくる輩がいる。スクープされたアイドルにいれあげたファンからの電話で、恨みのこもった念仏が流れてきたこともあった。

 なにか、と身構えていると、相手はあっさりと名乗った。

『私は相馬研究所という研究機関に所属する預岐よきと申します。あなたに、聞いていただきたいお話があるんです。できればすぐにでも』

「……どういったご用件でしょう」

『電話ではお伝えしにくい話です。当所に来ていただけませんか。
 あなたの雑誌に提供する情報があるというわけではありません。あなたには利害がないはずです。……少なくとも、私がお願いしたいことは。あなたの同僚の林田はやしださんに関することなんです』

「林田?」

『ええ』

 林田は、確かにこの『FACT』に籍を置くライターの一人だ。肥満した指でカメラを握る男で、服部はあまり好いていなかった。"セッション"をめぐるチームで、生き残った。歳は服部と同じくらいだがかなり若い頃からこの業界に出入りしており、カメラで撮った写真さえあれば、あとはどんな記事を書いても許されると思っているような男だった。

 服部は電話を聞きながら、文部科学省のホームページにアクセスして相馬研究所を検索する。ヒットはあった。私設研究所ではあるが医薬品に関する研究を行っていて、SAN製薬と取引関係を持っており、権利の売買でかなりの利潤を得ているようだった。所長は真理秀司まり しゅうじ。……怪しいものではない、ということだ。

「どちらにうかがえばいいんでしょうか」

『ありがとうございます。研究所は品川にあります。横須賀線西大井駅から車でご案内します。これからすぐでよろしいですか?』

「ええ。三十分あればつけると思います」

『わかりました。では、お待ちしています』

 電話はごく普通に切れた。服部は気味の悪いものを感じつつ、席を立つ。

「ちょっと出てきます」

「おまえがいなくなると電話番がいなくなる」

 垣小野は真顔で言ったが、服部は肩を竦めて言い返した。

「電話番に派遣くらい雇ってください。若い女の子がいいんですけど」

「一週間で辞めちまうよ」

「でしょうね」

 服部は編集部を出、駅へとむかった。



*       *       *



 西大井の駅に着くと、改札に背広を着た男が一人立っている。他にそれらしき人物も見当たらなかったので、服部が近づいていくと、男も服部を見た。

「服部さんですね。相馬研究所の都南となみといいます。はじめまして」

「どうも……はじめまして。『FACT』の服部です」

「これから車でご案内します」

「すみません」

 まだ若い男だ。歳は服部と変わらなさそうに思える。彼の背広からは、薬品の臭いがした。

 都南の運転する車で相馬研究所にむかった。社用車なのだろう。都南の個性を示すようなものはなにひとつない。車内でもこれと言った会話はあまり交わされなかった。林田がどうしたのか、と聞くこともためらわれた。

 十分ほど走り、一棟のインテリジェンス・ビルの前に止まる。厳重なゲートの前には石の看板に相馬研究所とだけ書かれていた。敷地は品川であるということを考えると、かなり広い。窓がないので何階建てなのかはわからなかったが、十階建て程度だろう。

 都南は服部を降ろすと、車を警備員に渡す。そのまま、研究所の中へと彼を案内した。受付で訪問者用のIDカードをもらい、扉の奥へと入る。

 廊下には人気がない。都南はエレベーターの前まで進んだ。服部はさすがに閉塞感を覚え、口を開いた。

「……あの、」

「どうかしましたか?」

「預岐さんは、」

「八階であなたをお待ちしています」

「……納得いかない、林田のことってなんですか」

「林田さんも、いま八階にいらっしゃいます」

 返答にはなっていなかった。だが、都南もいささか困ったような面持ちでいる。彼自身は知らなくて説明することができないのか、それとも、聞かれて困るのか。林田はなんのトラブルに巻きこまれたのだろう。……林田がここにいるなら、預岐ではなく林田自身が服部に電話をかけてくるべきだった。

 エレベーターに乗りこみ、八階へと昇る。

 とてつもなく、嫌な予感がしていた。

 エレベーターを降り、IDカードを通してエレベーターホールを出た。一階と同じように人気のない廊下を進み、やがて都南はひとつのドアの前で立ち止まる。彼はノックとともに、自分と服部のことを告げた。ドアは中から開いた。研究員らしい白衣の女性がでてきて、二人を中へと導く。

 嗅ぎなれない臭いがした。つんと鼻に突き刺さるようだ。服部は鼻を押さえ、戸惑いながら部屋に入る。部屋は狭く、一台のベッドがあるきりだ。そしてベッドの上には、なにやら得体の知れないものが横たわっていた。

 多分、人間だったのだろう。全体が黒ずみ、膨れ上がってしまっている。元から太った男だったに違いない。四肢は形が崩れ始め、右手はもう白い骨が露出し始めている。足元には、剥がれ落ちた爪が散らばっていた。ビニールシーツから液体化した脂肪がこぼれ、床に滴りつつある。臭いは、腐敗の臭いだ。

(――"セッション"だ、これは)

 いままでいかなる映像も見たことがなかった。ライターが死亡したとき、垣小野は"セッション"の資料をすべて燃やしてしまったのだ。あっただろう患者の写真も、服部が見る前に燃えてしまった。

 だが彼は、とっさにそれが"セッション"であることに気がついたのだ。

 あとじさろうにも、ドアには都南が立って塞いでいる。そして、ベッドの傍に腕を組み、静かな顔で立ち尽くしている男がいるのに気がついた。

「服部さんですね」

 電話と同じ口調だった。

「預岐です。わざわざお越しいただいてありがとうございます」

「あ……」

 服部にはなにも言えなかった。息をするだけで腐敗した匂いが体に入ってくる。

 預岐もまだ若い。三十過ぎと言ったところだろうか。だが、女性のように整った顔立ちをしていてつかみどころがない。

「なんの用なんです! これはなんなんですか!」

「林田さんです」

 預岐は"セッション"患者を見下ろして言った。服部も思わず見る。恐ろしいことに、そんな姿になっても男は生きていた。半ば千切れたまぶたが、痙攣するようにしばたたいていた。奥にある黄色く変色した眼球は、ぐるりと動いて服部を見つめていた。……とはいえ、その目にはなんの意志もない。本当に服部を見ているとは思えなかった。

「な……あ……」

「当所では、"セッション"治療法の研究を行っています。林田さんには、是非その被験者となっていただきたいのです」

「そ、そんなのは本人の意志だろう!」

「ええ、林田さんの了解はいただいています。それを確認する第三者のサインが必要なんです」

「林田の家族がするんじゃないのか、そういうのは。……」

「林田さんはご両親を亡くされ、兄弟もいない。適当な方がいないのです。林田さんが、あなたを指名しました」

「どうして……」

「さあ、そこまでは……。隣の部屋へ。林田さんからあなたへ、託されたものがあります」

 預岐が先立って、先刻、服部が都南とともに入ってきた扉を開いた。服部はすぐさま続いた。この場にいるのは、一秒も耐えられなかった。よく吐かなかったものだと思う。

 隣の部屋は小さめの会議室になっていた。そこに、無造作に紙束とファイルケースが置いてあった。預岐は服部に座るようすすめると、自分は部屋の隅にあるコーヒーのディスペンサーに近づいた。

「コーヒーしかありませんが、飲みますか?」

 服部はコーヒーの臭気を想像して吐き気を催した。青い顔で首を振ると、預岐もそれがわかったらしい。自分の分も注がず、服部の前に座った。そして、机においてあった紙と、ファイルケースを服部に回した。

「林田さんからは、これをあなたにと頼まれています」

「なんのことなんだか、……」

「林田さんは、"セッション"の記事のために当所に来ていたようです」

「来ていたよう?」

「私は"セッション"治療チームの主任をしています。現在、"セッション"に関する最終決定権は私にあります。もちろん、マスコミに協力するという許可は出していません。現段階で情報を出すのには、あまりにも危険がありますので。我々は、"セッション"の治療法を研究しているのであって、それを確立できたわけではありませんからね。林田さんは当所の研究員に接触し、情報を得ていたようです。今のところ、だれが林田さんに協力したのかはわかっていません。ですが、林田さんは当所の内部で、"セッション"に罹った状態で発見されました。だれかが、入れたのです」

「林田が"セッション"を追ってたんですか? ですが、うちの雑誌は"セッション"を一切扱わないと決めています。いくら調べたって、記事にならない」

「林田さんの動機は知りません。あなたの雑誌でなくとも、"セッション"を載せる他社誌に売ることだってできるはずでしょう」

 服部は、預岐から渡されたファイルケースを開く。中には現像されていない写真のフィルム、デジカメのメモリ、そしてCD-ROMや写真自体。紙束は改めなかったが、"セッション"に関するものだということはわかった。

 つまり林田は、服部にこれを記事にしろというのだろうか?

(冗談じゃない。……俺は死ぬつもりなんかないぜ)

「受け取れません。……林田はこれで死んだんでしょう。俺だって、持ってれば死んじまう」

「そうとも限りませんよ。我々は"セッション"の発生当初から研究をしていますが、"セッション"で死んだ研究員は一人もいません」

「俺がそうだとは限らないでしょう」

 預岐は微笑んだ。どういう意味かは図りかねる。ともかく、と彼は言った。

「林田さんの件、サインをいただけますか」

「……わかりました」

 預岐が差し出した紙をろくにも読まず、服部はサインを書きなぐる。これで、服部がここでしなければいけないことはおしまいのはずだ。

「服部さんは"セッション"を怖い、と思われますか?」

「そりゃあ、当たり前です。……俺の編集部でも三人が"セッション"で死んでます」

 そして、林田を入れれば四人目になる。

「"セッション"が死ぬ病だから、人は恐がります。それが死ぬ病でないとしたら、癒すことができるとすれば、怖くはなくなりますか? たとえば、ありきたりの風邪のように」

「まだ"セッション"の治療法は確立してない、そう言ってませんでしたか?」

「ええ、そうです」

 預岐の態度は、ひどく余裕がある。服部とは正反対だった。優しげだが芯のある口調で、丁寧に服部に語るのだった。だが、その真意があまりにもわからなくて服部は身構えてしまう。

「ですが、奇蹟が起こりうるとしたら? 例えばかつて、イエス・キリストが手を触れるだけで人の病を癒したように、手をかざすだけで"セッション"を癒すことのできる少年がいるとしたら?」

「なんの話です、」

「明日、羽田空港にいらしてください。私も行きます。マスコミが取り上げないのであまり知られてはいませんが、噂にはなっていますよ。"セッション"を癒す救世主が現れた、と」

 服部は、端整な預岐の顔を見返した。この男は気が狂っているのかもしれない、そう思ったからだった。









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