"セッション"を癒す










 翌日、服部は羽田空港にむかっていた。一人ではなく、『FACT』誌の編集長である垣小野も同行している。昨日、相馬研究所から戻った服部は、林田から託された資料もろともそこでなにがあったのかを彼に話したのだった。

 垣小野は気が進まない表情だった。だが、難しい顔をしたあとにこう付け加えたのだ。

「確かに、ネットで噂になってる」

「え?」

「羽田空港の救世主だ」

 あの預岐も、ネットでその噂を知ったのだろうか? 噂だけであれほどのことを言うとは思えないから、一度くらいは見に行ったことがあるのだろう。"セッション"を治療する研究グループに属しているのだ、興味があってもおかしくない。

 だが、救世主なんていう非科学的なものはあの研究所とはそぐわない。整然としたインテリジェンスビルにいるあの男は、だれもが口をそろえて美男だというような容貌をしていて、救世主にかかわる発言以外は誠実で、知的な印象を与えた。

 その預岐に、救世主などという胡散臭いものは似合わなかった。

 服部一人に判断を委ねられたのであれば、彼は羽田には行こうとしなかったに違いない。"セッション"と関わることもさることながら、嘘だとわかりきったような情報に付き合うのは得策でなかった。記事にできなければ、足を運ぶ意味はない。

 行くと決めた垣小野の心中は、服部にはよくわからなかった。だが、林田が"セッション"について独自に取材を行っていたことを聞いても、彼は林田の軽率さを責めることはしなかった。

 苦い顔をしつつ、垣小野は"セッション"に対してかなり興味を抱いていることは確かだ。ネットの噂を知っていたことからもそれはわかる。『FACT』で"セッション"の扱いをやめるという英断を行ったときの彼が念頭にあったが、それまではむしろ多少の危険は敢えて冒すくらいの勢いで取材を進めていなかっただろうか。

 垣小野が、「"セッション"について知りたい」などというただの自己満足のために羽田へと足を運ぶとは思えなかった。

(ということは、記事にするのか。……それは俺が書くのか? くそっ、それじゃ俺が死ぬんじゃないのか?)

 昨日の林田の姿は目に焼きついて離れない。あんなふうに死んでいくのは御免だった。今からでも、踵を返し家に帰りたいとさえ思う。羽田空港のロビーを歩きながら、服部は救世主なんていうものを探す気もない様子でうつむき、唇を噛んだ。

 垣小野についてゆくと、ビッグバードの最下層に人だかりがある。一目でそれが異様な集団であることはあきらかだ。腐臭と人の熱気が渦巻いている。人はあまりあたりにはおらず、空港警備員が何人か遠巻きに見ているだけだ。

 あれだろうか? 見たくはなくて、服部はいささか視線をそらしているが、垣小野はじっと見ているらしい気配がある。

「今は患者はいなさそうだな」

「そうですか……」

 そう言われて、服部はようやく目を上げた。だが、"セッション"のにおいはただよったままだ。そのにおいもまた、服部の記憶から拭うことのできない忌まわしいにおいだった。あたりにいる人間は、話しをする者、祈るようになにかにむかって手を組んでいる者、横たわっている者すらいる。

 老若男女を問わない不思議な人々の集団から、一人の男が服部たちのほうへと歩いてきた。背広姿だったので一瞬気づかなかったが、預岐だった。

「服部さん、いらしてくださったんですね」

「……預岐さん。ああ、こちらは俺の上司で『FACT』編集長の垣小野です」

「はじめまして。垣小野といいます。林田がご迷惑をおかけしたようで」

 垣小野は、名刺を差し出して預岐に渡す。預岐もうなずいて、名刺を交換した。

「相馬研究所の預岐と申します。今日はわざわざご足労いただいてすみません。ただ、彼を一目でもいいので見ていただきたいと思いまして」

「救世主、ですか」

「さあ、彼をどう呼ぶかは人それぞれでしょうが、何人かはそう言っています」

 預岐の言う彼がいったいだれのことなのか、服部たちの位置からでは判明しなかった。

「ここのことは、ほぼ口コミで広まっています。もともと、交通のターミナルには"セッション"患者が集まりやすいんです。はじめは、患者を探して彼が動いてましたが、今ではあの通り、彼に癒された人々が患者をここまで連れてくることのほうが多いですね」

「いつからですか?」

「五日前ですよ」

「それなのに、もうこんなに人が?」

 垣小野と預岐は、冷静に言葉を交わしている。服部は、その隙にこの場を離れたくて仕方がなかった。嘔吐感がこみあげてくる。この空間に漂っているにおいそのものはそこまで濃くなく、ゴミ捨て場を通りがかった程度に過ぎないが、昨日の記憶が更に濃い腐臭を服部の感覚域に呼び覚ましてしまうのだった。"セッション"で死んでいった記者たちは、"セッション"ではなく、何度も見た死の記憶に全身を冒されていったのではないだろうか?

 体の中から腐敗が広がっていくような気がする。喉を掻きむしりたい気になって軽く咳きこんだ。

「おや、大丈夫ですか?」

 預岐が服部を見るので、彼は苦い笑いをした。

「はあ……」

「服部さん、垣小野さん。ご紹介する前に、あなた方がここにどんなつもりで来たかを確認しておきたいのですが」

 預岐の顔は真剣だった。服部は答えることもできなかったが、垣小野は少し沈黙した後に返事した。

「本物なら、記事にします」

「本気ですか?」

 再度聞かれて、彼は片眉を上げて皮肉そうに笑った。

「本物なら、私が"セッション"に罹ったとしても癒してもらえるというわけだ。むしろ怖いことなどないでしょう」

 確かにそうだった。だが、あくまでも本物なら、だ。しかし、どうやって"セッション"を癒すというのだろうか、その救世主は? "セッション"は目に見える病だ。体の中の腫瘍とは違うし、罹患から発病、そして死ぬまでのサイクルが異常に短い。徐々に回復させるのでは、死のほうが先に追いついてしまう。

 本物とは、そもそもどういう意味なのだ?

 "セッション"を癒すとは?

 急に人の動きがあった。人々の群れは、声を上げて右手を見ている。患者が、というような言葉の断片が耳に届く。"セッション"患者が見つかったのだろう。

「行きましょう。間近で見たほうがいい」

 預岐に促され、垣小野と服部は人々のほうへ、歩き出した。

 服部は喉に違和感を覚えていた。からからに乾く。どうしてか熱っぽく、痰が絡むような気がした。緊張し過ぎているのだろうか、と彼は思う。

 すぐに、二人の男が担架のようなものに一人の男を乗せて走り寄って来た。それが患者だろう。むわっと鼻につく腐臭が目に見えるようだ。この季節には暑苦しいコートを着こんでいるが、その下の肌は黒ずんでいた。顕かに"セッション"だった。

 見つめていると、人だかりの真ん中にいた少年が立ち上がって担架へと歩み寄る。涼しい顔をしたその少年は、今まで目を引かなかったのが不思議なくらい、整った容貌をしていた。たぶん、ここが"セッション"患者たちに関わる場所でなければ、際立ったかもしれないが。

 白いシャツにネクタイと紺色のズボン姿で、どこかの高校の制服なのだろう。

 そして少年は、担架の上でぐったりとしている患者に近寄った。服部はその少年こそ、預岐が言っている「救世主」であるということにさすがに気がつく。人々の視線が違う。思いが彼へとうねってゆくのがわかった。

 それに人の目を奪うのは容貌だけではなく、彼の存在感そのものもそうだろう。確かに顔が整っているけれど、彼の挙手にはそれだけでないものが混じっていた。

 これで"セッション"を癒してしまうなら、確かに「救世主」と呼びたくなる気持ちもわかる。

 少年に気がついたとたん、服部の視線は彼に釘付けになる。少年は、傍らに立っている男に耳打ちされてこちらを見た。彼らがマスコミの人間だということを知らされているのか、その表情に、少年らしい動揺が走る。

「……服を脱がせたほうがいいってこと?」

「そうですね。やりしましょう」

 まわりが静まったために、二人の声が響いてくる。人々はいまや真摯な瞳で、"セッション"が癒される奇跡を待ち望んでいるのだった。

 少年の傍にいた男は、手を伸ばして患者のコートのボタンをはずす。そうすると、すっかり腐り果てて、形すら変わりかけている男の体が見えてきた。皮膚は垂れ下がり、臓器が露出している。どうしてあれで生きているのかが不思議だ。それを見て服部は、また息が苦しくなるのを感じた。

 少年は、ただゆっくりと患者に手を差し伸べた。瞬きをした瞬間、そこにはもはや"セッション"患者はいなかった。腐敗していた肉は元の通りに肌色に戻っていて、その胸は健やかに上下している。さすがに意識はないのか、患者は動かなかったが、目の前で変色した人間が元通りになったのは確かだった。

 なにも不思議なことなど起こらず、ただ、マジックで人間を入れ替えただけのように見えた。

 狐につままれたように、服部はぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。隣で、垣小野は身を震わせている。

 それでこれは、本物なのか。それともそうではないのか。今ここで起こったことはなんだったのか。まわりで人々は奇蹟に対して喚起の声を上げている。忙しなく動きながら、癒された男をそっと場所を移して休ませていた。

「本物だ」

 垣小野の声が響いた。

 服部は否定することができず、うなずくこともできなかった。確かにそれは、奇蹟なのだ。まごうかたなき、奇蹟なのだ。

 少年は少しばかり憂鬱そうに、こちら側を見ている。服部自身はほとんど言葉を交わさなかったが、垣小野はもはや預岐を介することなく、その少年に近寄って話しかけていた。写真を撮り、次々と運ばれてくる患者たちが癒されていく姿もまた、フィルムに納められた。

 垣小野はレコーダーに少年の声を収めてゆく。その手際よさに、服部はついていけなかった。彼のように、恐怖を切り替えることができなかったからだった。

 ただ、少年がなにかの質問にこう答えたのだけが記憶に残っている。

「僕は"セッション"を癒すことができますが、すべての患者を癒すことができるわけではありません。"セッション"に罹るか罹らないかも神の試練のひとつですが、僕の前に立って"セッション"を癒されることができるかどうか、それもまた神の試しに他なりません」



*       *       *




 社に戻った服部は、垣小野に写真の現像を任された。『FACT』の次の号に載せるには明日の朝にはゲラを完成させていなければなせなかった。垣小野はこれから記事を書くのだろう。服部が役に立たないことを承知しているのかどうか、あの奇蹟を目の当たりにしてブンヤの本性に火をつけられたのかはしらない。

 服部は咳きこみながら、ネガを現像してゆく。腐敗した手足、そして癒された手足、そんなものが納められた真四角の画像は、本来ならば逆の順序であるべきだろう。健常な手足は、腐ったらもう元には戻らないはずなのだ。

 現像している間、なんだか知らないがやたらと咳が出た。

(……喉が痛いな。煙草をすいすぎたか? ……風邪かな)

 ごほ、と一度だけ深い咳が出て、現像したばかりの写真に唾がかからないように口に手を当てた。生ぬるい感触が手に広がる。それは、咳のせいで出た唾とは違うようだった。

 薄暗い暗室の中で、服部は目を凝らして自分のてのひらを見る。褪色して見えるその色は、赤であるような気がした。血を吐いたのなら、鼻血か胃のはずだ。だが、それらしい痛みもないのにどういうことだろう、と思って、軽く咳きこみ続ける自分の喉に手をやった。

 ぐちゃりと、彼の指の下で肉がつぶれた。しっかりとした肌はなく、生肉に手がうずまっていく感覚を、服部は絶望感と恐怖の中で味わった。耳には、空気が抜けるような、細い管を抜ける空気がかすれる悲鳴のような音を立てる、そんな音が響いている。手を広げた服部は、そこに血と脂と肉片がこびりついているのを見た。そこからは腐った肉のにおいがする。

 息苦しさはもはや感じなかった。喉が腐敗してつぶれ、息などもうできないはずだった。

 それが"セッション"だった。

 服部は崩れ落ちながら、血を吐き、喉から腐った肉と、もともとなんだったかもわからない汁が滴り落ちていくのを感じながら、あの少年の言葉を思い出していた。

『僕は"セッション"を癒すことができますが、すべての患者を癒すことができるわけではありません。"セッション"に罹るか罹らないかも神の試練のひとつですが、僕の前に立って"セッション"を癒されることができるかどうか、それもまた神の試しに他なりません』

 服部は癒されないほうの人間なのだった。









/ 「月と太陽と」 /


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