撰択










 その日は朝から雨が降っていた。しかし地面に大きな水溜りを作るような雨ではなく、体中につきまとって離れないような霧雨で、傘をさすのは躊躇われたが、かといってささないでいるのは不快でしょうがない、そういう雨だった。

 肌に張りついた雨の滴は体中から熱を奪っていくだろう。とはいえ、一日中、建物の中にいる潤には縁がなかった。"セッション"に罹って助けを求めてくる患者たちに傘をさす余裕などあるはずもなく、彼のまわりに傘を手にしている人間もあまりいない。

 だから、雨のことに気がついたのは患者の足も途絶えた夕方に、家路へと就く車の中でのことだった。潤は毎日ぐったりと疲れ果てて後部座席に身を沈めている。はじめてから二、三日は"セッション"の腐臭を忘れることができず、神経が高ぶっていたけれど、ようやく慣れて来たせいもあって緊張感が減っているらしい。羽田から潤の家までは一時間もかからないが、うとうととしてしまうことが多かった。

 車には運転する名取以外はおらず、彼も、こんなときは口をきかない。普段はよくしゃべる男だなと思っているのだが、そうでもないのかもしれなかった。

 対向車のヘッドライトが、濡れたフロントガラスをきらめかせて過ぎてゆく。

「雨、降ってたんだな」

 そう言うと、名取がうなずいて返す。

「ええ、今日から梅雨入りみたいですよ」

「もう?」

「少し早いですけどね。でももう六月ですし。今週末は雨ばかりらしいですよ」

 もう日も暮れきった時間に家についた潤は、「明日も朝迎えにきます」と名取に言われて、うなずく。

 車のドアを開けて降りかけたときに、名取は「待ってください」と言う。

「なに?」

「潤さま、実和子さんですよ」

 そう言われてはたと路傍を見ると、傘をさした少女が立ち尽くしていた。名取は肩を竦めて、

「中に入れてさしあげたほうがいいですよ」

「うん」

 名取は潤がドアを閉めると、さっさとその場を立ち去っていった。名取が運転するルノーRAGUNA V6の赤いテールランプが、夜闇の中に遠ざかってゆく。タイヤが巻きあげた泥水で、潤の履いている革靴が汚れていた。

 潤は軽くため息をつくと、気まずそうに立っている実和子のそばへ行った。

「潤くん、ごめん」

 そう言うが、夏服のセーラーを着た実和子は寒そうにしながら佇んでいる。その姿を見て、潤は少しだけ学校のことを思い出した。だが、自分が学校に行くなどということはすでに非日常の出来事なのではないかという気がしていた。

「僕を待ってたの? 母さんは中にいるだろ? こんなところで待ってないで、中にいればよかったのに」

「それも、迷惑になるかなって思って」

「風邪、引くよ。上がっていって」

「あの、ううん。……少し話を聞いてほしいだけだから」

「寒いだろ?」

「平気」

 実和子は遠慮がちに首を振る。家の中では、なにか話しにくいのかもしれなかった。

 潤は、いままであまり実和子とは親しくしてなかった。中学時代に同じクラスになったことはあるものの、実和子はどちらかといえば男子生徒ともあまりしゃべらない少女だったし、話したことがないわけではないが、会話を思い出せといわれても難しいだろう。

 潤のことについては、実和子はいくらか知っていたはずだ。瀬野透の親友で、彼と一緒に高校生のグループをつぶしたこともあるということはたいていの生徒が知っていることだ。潤は学校ではごく普通にふるまっていたから、校内での潤の風評はよかったが、友人づきあいを敬遠するには「瀬野透の幼馴染」というだけで十分な理由になった。

 ここ数日、実和子は学校を休んで空港まで足を運ぶこともしばしばあった。昼食を用意してきてくれたりと、少女らしく気を利かせてくれて、ありがたかった。それに、彼女は"セッション"患者に対して忌避も恐怖もあらわさず、潤の手助けをしてくれる。その献身は、撰ばれた者であるがゆえに"セッション"から守られている、という安心感だけではないようで、見かけによらず強い子なのだなと知った。

 だから、こうして家の外で潤を待っていたのにはわけがあるのかもしれない。

 潤は冷え切っている実和子の手から傘を受け取り、自分の上にもかけた。霧雨に少しだけ濡れてはりついたシャツが、気持ち悪かった。

「学校はどう?」

「今日、学校で送別式があったの。"セッション"で死んだ大橋さんと時友さん、あと藤井さんの。草加くんは、遺体が確認できてないからってまだ……」

「そうか……」

 数日の間、自分の手で癒される患者ばかりを見て来たから、少しばかり忘れていた。草加も死んだらしいことだけは聞いている。もしかすると、半日くらいずれていれば潤は草加を癒すことができていたかもしれなかった。

 だが、潤の手で癒せない人間は山のようにいる。たった一人の友人の死を、悔やむことは無意味だ。

「それに成ちゃんが、……成田さんが、"セッション"に罹ったんじゃないかって噂が流れているの」

「また?」

「うん。でも、まだわからなくて。成ちゃん、昨日の夕方に千条くんに告白したんだって。そのあとだれもどこに行ったのか知らないの。"セッション"じゃないかってみんな言ってる」

 不安げな目で語るその様子は、空港に手伝いに来たときに見せたような強さはなかった。彼女は"セッション"そのものを恐れていなくても、別のなにかは怖れているのではないか、そういう気がした。

「明日、あの雑誌出るんだよね? 今は、学校の人たちもあんまり潤くんのことは知らないけれど、明日になったらみんな知るようになる。……学校、来れなくなっちゃうね」

「うん、そうかもね」

 毎日、潤も制服を着て家を出ていた。学校に行くつもりがあったからではなく、慣れているからという理由だった。名取には、余裕があったら学校に行ったほうが言いといわれているけれど、潤にはあまりそのつもりがない。

 確かに、あの雑誌が出てしまったら学校には行きたくても行けなくなるだろう。みんな、潤がどうして同じ学校の生徒を助けなかったのかを気にするはずだ。そして、潤が本物が偽物かを見定めようと、彼を値踏みするだろう。

「潤くん、知ってる? 記者の人、一人"セッション"で亡くなったって」

「……うん、聞いた」

 実和子のその言葉に、潤はうなずいただけだった。

 潤にわかるのは、"セッション"はまだ脅威であり続けているということだ。潤が草加や同じ学校の生徒たちを、そして死ぬ二時間前まで会っていた青年さえ助けられなかったのは、潤自身にはどうしようもない運命の力が加わっている。

「潤くんは、平気?」

「……なにが?」

「無理してない?」

 なにを無理というのかはわからなかった。"セッション"を癒せる力は潤だけのもので、それを行使することが自分の義務であることは感じているし、それは義務感だけではなく潤が心の底から思っていることでもある。

 ただ、違和感やわだかまりはたくさんある。どうしてここにいるんだろう、と思うことはあった。今の瞬間もそうだ。実和子がまっすぐ見つめてくる中、こうして傘を持ってどうして立ち尽くしているんだろう、と思う。

 ついこの間まではこんなことになるなんて夢にも見なかった。どうして透と一緒にいないのか、不思議だった。あんなに毎日、同じ時間を過ごしていたのに。透は潤が羽田空港にいることを知っているのだろうか。知っているならなにを感じているのか。一番不思議なのは、今の自分のことを透に話そうとは思わない自分だった。

 なにを言えばいいのか、わからない。

 透は、名取や実和子たちのように無条件で潤の存在に確信を持ったりはしないだろう。かといって、他の人々のように潤の奇蹟を目の当たりにすれば信じる、そういう人間でもない。

 だから、透になにをどう伝えればいいのかがわからない。伝えるべきなのかどうかもわからない。

 明日、雑誌が発売になればさすがに透も知らないということはなくなるはずだ。

 そのときどうするのだろう。

 想像もつかなかった。

 潤の沈黙に迷いを見てとって、実和子は少しためらうようにしてから口を開いた。

「あのね、潤くん。私、預岐さんのことは前から知っていたの。熱心に教会に通ってきていた人だし、父とも昔から親しかったから。でも、潤くんのお父さんだなんてことはずっと知らなかった。それを知って私が驚いていたら、お父さんが私に初めて預岐さんと会ったときのことを話してくれたの。
 潤くんは、知ってる?」

 潤は頭を振った。潤の誕生日以来、預岐は永井家に居を移しているが、まだほとんど会話らしい会話も交わしていない。長い間のわだかまりを簡単になくすことはできなかったし、潤はあまりにも自分の父親のことを知らなかった。なのにあたりまえのように家にいる預岐に腹立つことさえあった。本当に自分の父親かどうかということさえ、潤はまだ疑っていた。

「お父さんが預岐さんと出会ったときに預岐さんはまだ中学生だったって。ある日、夕暮れにいきなり教会に飛びこんで来て、話を聞いてほしいんだと言ったんですって。お父さんはともかく彼を落ち着かせて、そして話を聞いたの。それはとても信じられない話で、ともかく額面どおりには受け取れない、とはじめ思ったって。預岐さんが話したのは、彼がお友達と二人でいると、不意にひとつの光が現れてこう言ったのだそうよ。彼女はすぐにあなたの子供を産むでしょう、そしてその子供は世界を救うでしょう」

「一緒にいた友達って言うのは、母さん?」

「うん。そう。お父さんもはじめはその話を信じられなかった。からかわれているのか、預岐さんが幻覚を見たのだと思ったって。でも、すぐにお父さんも預岐さんと同じ光を見たのよ。預岐さんと二人で話をしていると、光がどこからか舞い降りてきて言ったんですって。彼は神の子の父親になる。あなたは彼らを助けるだろうって。うちのお父さんは、牧師としてはかなり変わってるの。それを見て、ともかく天意が預岐さんと耀子さんにあるんだということだけはわかって、それで、普通の司祭ならきっとなにがなんでも結ばれろというんでしょうけれど。
 預岐さんはただ迷ってたって。まだ預岐さんも、耀子さんも若くて、もちろん二人では満足に子供を育てることができないのはもちろんのこと、耀子さんの未来を断ってしまうことになるんじゃないかって。そんな中に生まれてきたら、その子だって苦しむのじゃないかって。
 ましてや世界を救うなんて、簡単に成し遂げられるようなことではなくて、その天使が言ったようなのならその子は生まれてこないほうが幸せなのじゃないかって。
 たとえば神様がいくら言っても、預岐さんが耀子さんに近寄らなければ子供が生まれるなんてことは絶対に起きないわ。だから、預岐さんは悩んだのよ。どちらを撰ぶか、そのことを。預岐さんと耀子さんには、どちらを撰ぶかの撰択が許されていたのよ。お父さんは神に従えとは一言も言わなかったみたい。世界を救うなんてことは人が考えるべきことではないのだからそのことを考えるなと言ったんだって。そしてなんて言ったと思う? 耀子さんとの間にただ子供がほしいと思うかどうかを考えろって言ったんですって。それで預岐さんは、撰んだのよ」

 つまり、潤が生まれることをだ。

 潤はその話を聞いて、なんと答えたらいいのかわからなかった。実和子がどうしてその話を潤にしたのかもわからなかった。預岐も迷ったのだと、そういうことなのだろうか。

「潤くん、私は邪魔じゃなければ、毎日でも羽田に行きたいのに」

「……平気だよ、今は人は足りているし」

「吉弥くんや回田くんは学校に行ってないのに、私だけなんて」

「時々来てくれるだけでも、僕は嬉しいし、助かってるよ」

 実和子はあまり納得していない様子だった。吉弥や回田は、空港ではなく街中を歩いて"セッション"患者を空港にまで案内するような活動をしていた。二人にも学校に行くようには言っているが、それぞれの事情であまり学校にいきたいとは思っていないらしい。深くは聞いていないが、それを察することはできた。

「本当は私、怖いんだ。"セッション"も怖いし、"セッション"で何人も死んで、そのせいでみんながぎすぎすしていくのも怖い。学校はすごく嫌な雰囲気に包まれてるの。あの雑誌が発売されたら、もっと嫌な空気がいっぱいになる。それに、……私は瀬野くんが怖い」

「透?」

 実和子はうなずいた。潤と透の仲がいいことは彼女も知っているはずだ。

「"セッション"は瀬野くんのせいじゃないかって噂が立っているの。瀬野くんは実は悪魔で、人間を滅ぼそうとしているんじゃないかって言う噂」

「……ばかばかしい」

「その噂が問題なんじゃないの。皆、半分は冗談で言ってるのよ。学校があんな状態だから、そうでもしないとやっていけないのよ。でも、それを聞くと瀬野くんは変な顔をするわ。笑って、皆をただ一瞥するだけよ。睨むわけじゃない。ただ、見てるのよ。それでだれかが言い出してる。むしろ、滅ぼされないためには瀬野くんに従ったほうがいいんじゃないかって。……」

 悪魔だのなんだのという噂の元は、少しばかり見当がついた。大村沙夜だ。なんの意図があるのかは知らないが、この間からそう言っていたではないか。悪魔だなんて、言いがかりもはなはだしい。

 確かに透は、一般の生徒にとって危険な存在だろう。だが、透は自分から彼らに絡んだり、金を求めたりするようなことはない。なにか彼の気に障るようなことをすれば話は別だが。

 けれど、悪魔というのは違うだろう。それとも、そうではないのだろうか。潤の胸の中にあるわだかまりは、悪魔という言葉に無反応ではなかった。

 潤は駅の近くまで実和子を送って行った。その帰り道、携帯電話の着信がある。名取からだった。

『どうでしたか、実和子さんは』

「今、駅まで送ったよ」

『そうですか。大丈夫でしたか?』

「うん。特には。……ところで名取は、預岐のこと、知っているのか?」

 預岐からも名取からもそれぞれの紹介を受けたことはなかった。だが、様子からしてお互いのことは事前に知っていたような気がする。名取と預岐の雰囲気もそもそも似ているのだ。歳の差がそんなにあるようには思えないし、友人でもおかしくない。

『次郎さんのことですか?』

 言い方からして、かなり親しいのだう。名取はからかうような口調で、続けた。

『ええ、存じてますよ』

「いつから?」

『なにを知りたいんです?』

「鳥海さんから、預岐の話を聞いたんだ。昔の話」

『それで、なにか他の昔話を聞きたいんですか?』

「昔話が聞きたいわけじゃないよ」

『あまり、信じてらっしゃらないんですね。ご自分のお父上なのに』

「そもそもそこからして信じられない」

『そうですね。実際に当時なにがあったのかは、私は知りません。私が次郎さんと出会ったときには、もうあなたは生まれたあとでしたからね。でも、潤さまと次郎さんは似ていますよ。とても』

「……そうかな?」

『ええ。まあ、歳が近いので親子に見られるのは難しいかもしれませんが』

「でも、僕は預岐のことをなにも知らないんだ」

『なにも知らないって、どういうことをですか?』

 電話のむこうの名取が、笑いを含んだように告げるのにいささかむっとした。

「なにをして働いてるのかとか、歳も知らないし、今はうちにいるけれどそれまでどこにいたのかも知らない。どうして戸籍上の親子じゃないのかもわからない」

『……戸籍上では親子ですよ』

「なんだって?」

『確か、戸籍上でもちゃんと親子ですよ。あなたが生まれたときに認知していますし、おじいさまが亡くなったあとにお二人の籍も入れましたから、戸籍ではごく普通の親子のはずですが』

「初耳だよ」

 認知はともかく、二人が正式に結婚していたことさえ知らなかった。そのくらいは、知らせる義務が両親ともにあると思うのだが。

『私ではなく、次郎さんご本人に聞いたほうがいいんじゃないですか?』

「……どう聞けばいいんだ?」

『堅くならなくていいじゃないですか。親子なんですから』

「三年前まで会ったこともなかったのに」

『おじいさまが反対されてましたからね。次郎さんも、どうしていいのかわからないんじゃないですか。私を練習台にでもしてみたらどうです。私のことだって、大してご存知じゃないでしょう』

 それはそれでまた別の問題がある。確かに、名取のこともよくわからなかった。だが預岐と違うのは、ここ数日行動をともにして彼が誠実な人間であるとわかっている、ということだ。確かに、警官であるにもかかわらず、潤につきっきりでいるのはおかしい。仕事をどうしているのか気になっていた。

「もう、いい。それじゃあ明日」

『……明日、朝早くに垣小野さんが例の誌面を持ってくるそうです。覚悟したほうがいいですよ』

「垣小野さんを、ということじゃあないよな?」

『ええ、もちろん。
 実は印刷前のものをFAXでいただいているんですが、ご覧になりますか?』

「いや、いいよ。……あまり見たくない」

『彼の記事は信頼してあげたほうがいいですよ。そこまでうさんくさくは書かれていませんから』

「そこまで、だろ」

『読み手によって千差万別だということです。それでも、できうる限りマスメディアの責務を果たしていると思いますよ。実際、あのときの垣小野さんの感激ぶりからしたら、もう少しうさんくさい書き物になるのでは、と思っていましたがね。原稿を書くときは、彼は冷静になるようです』

「明日、車で見せてくれ。垣小野さんに会う前に見ておいたほうがいいだろ」

『そうですね。わかりました。それじゃあ、ゆっくり休んでください』

 家に戻る頃には、霧雨とはいえずいぶん濡れて、シャツが体中にべっとりとはりついていた。重たくなった前髪を乱雑に掻きあげて、潤は街路を見た。

 そこの角を曲がって二軒目が透の家だ。けれど潤は、ただ無言で家の中へと入っていった。









/ 「月と太陽と」 /


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