神のふるい










 毎日のように"セッション"患者にむきあい、彼らを癒していると、名取に言われるまでもなく"セッション"とはなにか、ということを考えずにはいられなかった。

 潤は次から次へとやってくる患者たちを癒しながら、その腐臭の中に、病に罹る人と罹らない人との違いを見つけようとしたけれど、見つけることができなかった。

 病に罹る人々はとても普通に人々ばかりで、それは罹らない人々とまったく同じだ。

 もちろん上辺ではわからないなにかがあるのかもしれない。

 けれど、潤はそれを見つけることができないでいた。なぜ彼らは"セッション"に罹り、"セッション"を癒されるのだろう。それは、潤がなぜ"セッション"を癒すことができるのかということと同じくらい、不思議だった。

 なぜ"セッション"があるのか。

 潤にはわからなかった。何人かの記者やリポーターたちもそれを問うてくるけれど、潤には神の試練だという他に返答のしようがなかった。尋ねた彼らは、その答えで納得するか、ああやっぱりといううさんくさい目で「救世主」を見る。それは、彼らに本質が理解されてないということだった。

 問題はなぜ神が試練を投げ入れたか、なのだ。そしてそれがどうして"セッション"という形を取ったのか。神が試練を投げ入れたのは、おそらく"セッション"そのものではないのだろう。神の投げ入れた試練が、この世界で"セッション"という形を取ったのだ。

 どうして"セッション"なのか。日本では「早神邸殺人事件」が"セッション"の端緒ではないかと言われている。

 だが、世界各国で同時多発している"セッション"という病を、その一事件だけが原因だというわけにもいかない。

 第一、なぜあの殺人事件が"セッション"の発端となったかを、だれも説明できないでいるのだ。ただ、その事件かかわった人間が"セッション"で多く死んだということに過ぎないのに。

 なぜ彼らは"セッション"に罹るのか。

 途切れない患者たちを癒しながら、潤は、ただこうして癒しているだけではなにも解決しないのではないか、ということに思い当たっていた。

 潤は、ただ労働するように"セッション"を癒すためにここにいるのではないはずだ。自分が救世主かどうかは知らないが、"セッション"の源、病の生じる元をなんとかしなくてはならないはずだった。

 なぜ"セッション"はあるのだろう。

 名取がどう考えているのかが気になって、一度彼に訊ねてみたことがある。名取は、まだ一度も"セッション"に関する私見を述べたことがない。彼は喋る際には饒舌になるからごまかされがちだが、意図して自分の考えを述べないところがあった。

 "セッション"については特にそうだ。もっとなにか知っているのではないかというそぶりを見せるくせに、いざ話していると巧妙にはぐらかしている。

 だから、敢えて名取自身がどう思っているのかを訊ねることにして、名取を呼び止めた。

「"セッション"はなぜあるのだと思う? ……名取はどう思うんだ?」

 そう訊くと、潤の意図がわかっているのか、彼は笑って答えた。

「それは私にとって、ですか?」

「……それでも構わない」

「申し上げたとは思うのですが、"セッション"の意味は人それぞれでしょう。ですから、私にとっての"セッション"はあくまでも私にとっての"セッション"です。私が敢えて潤さまに"セッション"について語らないのは、それが私にとっての意義であって、あなたにとっての意義とは異なるからです。下手な先入観は与えたくないと思っています。……だから、あまり喋りたくないのですがね」

「なになら、心置きなく話せるって言うんだ?」

「そうですね、世論程度でしょうか。国内外を問わず、いくらかの情報は集めています。
 たとえば、"セッション"は神のふるいだと言う人がいます。あなたが救世主だといわれるようになってからあらわれた考えですけれどね。ご存知の通り、真の救いはエクソダスという形でもたらされます。エクソダスは生きたままの昇天を意味します。つまり、"セッション"は生きたまま昇天するべきでない人々をふるいから落としている……そういう役割を担っているというのです。ふるいからこぼれた人々は、煉獄に一度落ちて、神の裁きの日を待つわけです。あなたの"セッション"を癒す力は、一人でも多くの人間をエクソダスさせるための機能ということになります。神は、ソドムやゴモラ、ニネヴェの例からもわかるとおり、どんなに罪に落ちた魂でもそれが失われるのを惜しみますから。ともかくこの場合、"セッション"は神の手によって行われる裁きのひとつです。
 また、"セッション"は悪魔のなしていることだ、という考えもあります。一人でも多くの人間を苦しみの中に落とすべく、蔓延させていると見るものです。あなたの力は、悪魔の力を打ち消す役目を果たします。
 あるいはこういう考え方もできる。――神は、今度こそ人を滅ぼそうとしているのではないか? この地の上から人を駆逐しようとしているのではないだろうか? この場合、あなたの存在は一体なにになるのでしょうかね?
 いずれにせよ、その判断はあなた自身がすることです」

「名取は、"セッション"のことを考えるときに透のことまで考えろって言ってたな」

「そうですね。たとえば彼が悪魔であったとして、そして、あなたに敵対するように"セッション"を流布させているのだとしたら、あなたは彼をどうにかする義務があるかもしれない」

「どうにかって、なんだよ。それに、全部仮定だ」

「瀬野くんが気枯れであることはお話したと思いますが。……彼のクラスメイトが四人も"セッション"で亡くなっていることを考えると、"セッション"そのものが瀬野くんのせいでないとしても、彼の存在が悪運を呼びこむがために、彼らが亡くなったのだという考えもできるはずです。
 それだけは、事実だと言っても構わないと思います」

「乱暴だ」

「そうですね、確かにあなたが考えるべきことです。それに、あなたが望んでいないことならば、私がいくら口で申し上げてもあなたに理解していただけはしないでしょう。
 ただあまりにも彼を信用していると、なにかが起きたときに傷つくのはあなたです」

「なにかって、」

 潤が不安げに問うと、名取はなんでもないことのようにさらりと言い放つ。

「彼があなたに敵意を抱いて、神の子であるあなたを害するようなことがあるかもしれないということですよ」

「そんなことない」

「そうでしょうか。あなたがここにいることを、いくらなんでも瀬野くんは耳にしているはずです。あなたと彼が友人なのだというなら、なにか言ってくるなり、足を運ぶなりしたっていいはずです。
 それに、名前や顔が出ていないとはいえ、瀬野くんももはや有名人ですよ。神に救われない多くの人々が彼の側につかないといえますか? 瀬野くんが望んでいなくても、彼らがなにかをすることはありえます。もはや瀬野くん自身の問題ではないのです。彼は、反救世主の旗印となりつつあるのです。
 なにか起きないうちに、本当なら彼に対してなにか手を打つべきかもしれません」

「はっきり言えよ、名取」

「彼を殺すべきです」

 潤は瞬きもせず、名取を見返した。名取もまた、潤の眼光にたじろぐことなく、飄々と言葉を放つ。

「……というよりも、事が進めばそういうことになるかもしれないというだけですがね」

「名取、"セッション"が神のふるいだとして、そのとき悪魔はなんの役割を果たすんだ?」

「さあ」

「……悪魔は、そのふるいをなんとしてでも止めるんじゃないのか? 撰別されなければ、すべての人は救われないままだ。僕が"セッション"で癒すことのできる人間はごくわずかだ。
 "セッション"で世界を滅ぼすのは、神であり僕のほうか?」

「神は、一人でも多くの人間を救うためにあなたを遣わしたんですよ」

 潤は大きなふるいを持つ自分を想像した。そうしてそのとき初めて、潤の胸にも、透に対する強烈な違和感が生じたのだった。

 そういえば、どうして彼の姉は死んだのだっただろうか。瀬野由貴子が自室で首をつって死んでいる姿が見つかる前に、姉を見かけた透が言っていた言葉を思い出す。

『姉さん、今にも死にそうな顔してた』

 確かに、透のその悪しき言葉が現実になったのだ。



*       *       *



「すみません」

 声をかけられて潤は顔を上げた。そこに立っていたのは一人の青年で、その人を見て潤は妙な気分になる。

 たった今、潤が癒したばかりの"セッション"患者が気を失うと、まわりのボランティアが患者をどこかへつれてゆく。

 そんな周囲の動きを気にしたふうもなく、青年は立ち尽くしていた。

 奇妙だ。どこかで会ったような気もするが、明確な記憶はない。歳は、たぶん潤よりは少し年上だろう。大学生くらいのように見えた。

 "セッション"患者には見えないし、かといって、好奇心からのりこんできただけの人間とも思えない。あるいは、救世主の力になろうとやってくる信者じみたボランティアたちとも様子を異にした。

 なんのためにここに来たのか、潤にははかりかねた。

 青年は静かな様子で微笑むと、口を開いた。

「はじめまして、僕は白虎麟びゃっこ りんといいます。――永井潤くんだよね?」

「、ええ」

 潤は応えながら、横目で辺りを見回した。無意識に名取を探していたのだった。

 こういう不測の事態に対する対応は、名取が長けている。だが、どうしたことか名取はいなかった。

 潤の名前を知っているということは、潤に対する報道を聞いていたのだろうか(既に、垣小野の雑誌だけではなく、数社の新聞やテレビでも潤のことはとりあげられていた。そして、その報道担当者から"セッション"で死亡した人間も出ている)。

 けれど、その態度からはなにが目的なのかわかりかねた。

「なんの御用ですか?」

「いや、少し、君と話をしたいと思って。邪魔にならない程度でいいんだけど」

 青年は微笑む。その顔、その笑顔をどこかで見たことがあるような気がするが、しかし、明確には憶えていない。本当に、奇妙な男だ。

 うまいことに、患者は途切れている。潤は、次の患者が来るまでという約束で彼につきあうことにした。

 なんとなく、感覚に引っかかるものがあったので無碍に断る気にもなれなかったのだ。

 不思議だ。確かにそこにいるのに、どことなく存在感が希薄で、まるで夢のようだ。

(夢? ……そうだ、この人のことを夢で見たことがあるんじゃないか?)

 それでも、よく思い出すことはできなかった。夢の記憶そのものも、もともと不確かなのだ。どんな夢と言うことすら、潤にはできなかった。

 考えても栓のないことだ。潤は頭を振ると、青年を見据えた。

「それで、話ってなんです?」

「そうだな、なんの話をしようか」

 潤がその言葉に、少しばかり不審げな目で青年を見ると、彼は笑った。

「悪いな。本当に、ただ君と話がしたかった。なんの話でもいい。……そうだな、いま好きな子はいる?」

「ゴシップ記事なら、断りますよ」

「そういうわけじゃない。ただ、君にも好きな子はいるのかなと思っただけだよ。救世主と呼ばれていたって、恋をすることくらいはあるだろうし」

「……いまは特に……」

「そう。それは寂しいことだね」

「あの?」

「それとも、むしろいいことなのか、どちらだと思う? 僕にはあまりよくわからなくて」

「さあ……」

 青年がなにを言わんとしているのか、潤にはわからない。彼は、本当にただ雑談しにここに来たというのだろうか。

 わざわざ救世主と? おかしな青年だ。

「それじゃあ、信頼を置ける人はいる?」

 信頼という言葉に、潤はひっかかりを覚えた。青年は真摯な瞳で見つめてくるが、それは居心地が悪い。信頼とは、どういうことだろうか。なにを指すのだろうか?

 長い間、親しい友人は透だけだった。それなりに教室では明るく振舞ったし、透の友人たちである三宅らとも不仲だったわけではないが、常に一線を画していた。彼らに対してうちとける気にならないのは、彼らの素行とか態度とかが問題なのではなくて(潤だって同じようなものなのだ)どうしても他人に対して作ってしまう心の壁があるからだった。

 人を信じるのは難しい。人間不信、という言葉が潤には合っていた。

 ……そう考えると、ここ数日、出会ったばかりの名取や実和子たちに対する気持ちは今までと違った。

 それが、聖使徒ということなのだろうか?

 戸惑った潤の様子を見て、青年はまた口を開く。

「君の進む道は辛いだろうけれど、それでも君がよりよい道を進むことを願っているよ」

「……どういう意味です?」

「人間はいかなる撰択をすることもできる。正しい道というのもあるのだろうけれど、その正しい道も人によって違うと思う。世界を、救うことは正しい道なのかどうか、世界を、見捨てることは誤った道なのかどうか、人からは言えない。罪を背負うことが正しいわけじゃない。利己的であることが誤っているわけではない。
 僕も今ではそう思ってる。簡単にはそう思えないだろうけれど、ただ君には、しなければならないことがあるわけじゃないことを知ってほしい」

「あなたはなにか、知ってるんですか?」

「さあ」

 青年は笑うと、それじゃあ、と暇を告げる。

「僕はこれで行くので。名取に、よろしく」

 潤が引き止める間もなく、青年は廊下のむこうへと消えていく。

 潤は思わず彼を追って廊下の角を曲がったが、そこにはもう人の姿はなかった。いたことが幻であるかのように、もうそこにだれかがいた様子はない。

 しばらく不安げにその廊下を見つめていると、紙束を抱えた名取が、むこうからやって来た。あの青年とはすれ違わなかっただろうか。それとも、すれ違って言葉を交わしただろうか?

「どこに行ってたんだ?」

 訊くと、名取は変わったところもない様子で答えた。

「雑誌や新聞なんかの受け取りに。いろいろ載ってますからね。どうかしました、こんな廊下の真ん中で」

「いや、」

 潤はさきほどの青年のことを言うべきかどうかで悩んだ。

「……なにかありましたか?」

 そう尋ねられ、潤は意を決する。確か、あの青年の名前はびゃっこりん、と言ったか。

「さっき人が訪ねて来たんだ。少し話をして、……名取によろしくといって帰って言ったよ」

「さっき、ですか? 私が離れていたのは十分にもならないと思いますが」

「その間にね。びゃっこりん、という人だったけれど、名取は知ってる? どういう人だ?」 

 その名を聞いて、名取は少しいぶかしげに潤を見る。

「白虎麟が、私に、よろしくと言って行ったのですか?」

「ああ。そうだよ。知ってるのか」

「……白虎麟のことは知ってますが、その人物が本人だとは思えませんね。白虎麟はたしかに私の友人ですが、七年も前に亡くなっているんです」

 潤はそれを聞いていささかぞっとする。潤が彼に覚えた既視感はなんだったのだろう。そういえば彼は、わざわざ名取がいない隙を狙ってきたようだった。偽者ならばあたりまえかもしれないが。

「まあ、気にしないほうがいいかもしれませんね。それより、これ」

 名取はまるで誤魔化すように潤に大きめの封筒を渡した。

「次号の『FACT』に載る原稿だそうです。垣小野さんからいただいて来ました」

 なにかと思って中を開くと、コピーされた原稿が入っていた。一目で"セッション"や救世主の単語を読み取ることができて、自分に関わる記事であることは瞭然だった。なんだろうと目を凝らしていると、名取が横から告げる。

「"セッション"治療の研究所で開発に当たっている主任のインタヴューですよ」

 だれもが"セッション"に手を出したがらないのに、まだ手がけているところがあるのかと驚いて記事を取り出すと、見知った預岐の顔写真が出てきた。唖然として名取を見ると、彼は笑う。

「次郎さんは"セッション"の発生当初から治療薬の開発に当たっています。垣小野さんとのパイプを勤めてくださったのは次郎さんですからね。これを機会に、お父さまとお話をされたらどうですか?」

 言外にからかうような響きがあるのをもちろん潤は聞き取り、少し苦い顔で原稿を封筒に戻した。

「……わかったよ」

「無理強いするつもりはないですが」

 それでもまだ、預岐になんと話しかければいいのか、潤にはわからなかった。









▲ / 「月と太陽と」 /


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