荒野の言霊使い










 数日ぶりに晴れわたったその日、永井潤は久しぶりに波乗学園へと足を運んでいた。

 朝、羽田に寄っていたためにもう四時間目が始まる時間になっていた。校舎からは生徒たちのざわめきが聞こえてくる。ちょうど、休み時間だ。校舎を移動する生徒た ちがばらばらと歩いている。

 見知った生徒の顔を見て、潤は思わず足をすくめた。

 "セッション"をはじめて癒したあの日以来、潤は学校に来ていない。あれから十日も経っていないが、マスコミのおかげで潤はあっという間に救世主になっていた。 クラスメイトや友人たちとは連絡を取っていない。

 家や名取にはなにかコンタクトがあるのかもしれなかったが、潤は聞いていなかった。

 潤がいない間に、何人かの生徒が"セッション"で死んだと聞いている。それで校内でどんな噂をされているのか想像するだに恐ろしい。だれだって、潤を責めるはず だった。同じ学校の生徒を見殺しにしたと、言うはずだった。

 とはいえ、潤が学校に行くのを渋ったのはそのせいではなかった。

 呑気に授業を受けている間に"セッション"で死ぬ人間がいる。それを思ったら、学校になどいく気がしなかった。今日はどういうことか、ほとんど患者が来なかったので、名取が学校に行ってはどうかと言い出したのだ。けれど、いつ何時来るか知れない。その人は今にも息絶えるかもしれないのだ。

 渋る潤を、名取はこう言って送り届けてきた。

「患者が来たら、必ずお知らせしますから。それに、あなたが毎日学校に行かないでいると、実和子さんも吉弥くんも回田くんも、それを真似して学校には行きません。あなたが学校に来ないのに、自分たちだけ行くなんて、と思うでしょうね」

 その言葉に納得したわけではなかった。それでも、あの三人の時間を奪っていることはわかっている。実和子や吉弥は学校へはきちんと行く生徒だった。あまり休むと出席日数に関わってくるだろうし、そういう犠牲を払ってほしいとは思っていない。回田は、元からあまり学校に行くことに興味を持っていなかった。あれ以来、学校にはまったく行ってないらしい。三人とも、潤と同じ気持ちだろう。なにかしたいと思っているのだ。

 それが潤のためなのか、"セッション"のためなのかはよくわからない。

(第一……当の名取はどうなんだよ)

 警官だというのが本当なら、毎日、潤の傍についているのはおかしい。税金をもらってるくせに、仕事はどうなんだと言ってやりたかったが、そんな反論は子供じみているような気がして口に出来なかった。

 太陽はきつい陽射しを地面に照りつけている。今日ようやく袖を通した夏服のせいで、腕がじりじりと焼けるのを感じた。梅雨の合間の晴れだが、もう季節は夏に近づきつつある。

(すぐこの間まで春だったのに――)

 あの日は、まだ春だったような気がする。

 屋上で透と二人、タバコを吸っていた。そこに三宅が飛びこんで来て、草加が死んだと、真っ青な顔で言ったのだ。

 透。

 あれから一度も会っていないが、透は新聞なりテレビなり噂なり、潤のことを聞かない日はなかっただろう。どう思っているのだろうか。

 潤もまた、透のことを耳にしない日はなかった。だれかは透が悪魔だと言い、だれかは"セッション"の原因だと言い、だれかはただ悪運をまきちらすさだめにあるのだと言った。

 十日前に、透に抱いていた気持ちがどんなものだったか、潤はわからなくなっていた。悪魔だとかどうとか、疑っているわけじゃない。透は他人に威圧的な存在感を持っているが、あまり深く物事を考えないほうだ。人間を滅ぼそうとしているなんて、 とてもじゃない。

 いろいろと吹きこまれて、なにがなんだかわからなくなって来ていた。

 透に会いたい、と思う。会って確かめたい。彼らの言葉が本当じゃないことを確かめたい。少なくとも、潤の知る透はそうではなかった。

(……いや、そうだったろうか。本当に? 透がよくないことを言うと必ず当たる。それを僕は知っている。それは偶然じゃないって言うんだろうか。そのせいで、由貴子さんは死んだとでも言うのだろうか)

 透の姉の由貴子が自殺した日、透はこう言ったのだ。「由貴子、今にも死にそうな顔をしてるんだ」

 遺書はなかった。潤には彼女が死んでしまった理由はわからない。透はしきりに、由貴子のクラスメイトだった不破端のせいだとつぶやいていたが、どうだかわからない。由貴子を殺したのは不破ではなく、透の言葉なのかもしれなかった。

 潤は、視界のすみに映った人影に反応して校舎を見上げた。屋上に、だれかがいる。一人は柵にもたれかかっていて、背中をむけているのでよくわからない。その生徒にむかい合うようにして一人の少年が立っている。

 闇のような黒い髪、背はあまり高くない。

 ――瀬野透。

 潤が目を見張っていると、柵にもたれかかっている少年の姿が傾いだ。寄りかかっていた柵が外れたのだ。その光景を見ていた校庭の生徒たちが悲鳴を上げる。とりわけ、柵が降り注いで来た辺りにいた学生は大きな声だ。

「わあー!!」

 透はにやりと笑って、落ちかけた少年を見ている。相手はなにやら怒鳴っているようだ。

(あれ、千条か?)

 生徒会長の千条朱生は潤と同じクラスだ。透とはかなり仲が悪かったはずだ。屋上で会話している彼らの様子を見る限り、今も仲がいいようには見えなかったが。だが、これまで透は千条に近寄らないようにして来ていた。千条も、透には興味がなさそうだったのだが、どうしたというのだろう。

(どうして透が、)

 人が違ったように思えるのは、制服が夏服になったからではあるまい。

 潤は屋上にむけて、走り出した。

(そういえば今日は、透の誕生日だったな……)

 噂では瀬野透が大悪魔として目覚める日、だった。



*       *       *



 階段を一気に駆け上がると、屋上に続くドアの前には三宅がいるのが見えた。どうやら、扉のむこうを伺っているらしい。相手にする気もなく、とめるのも聞かずに屋上に出た。

 太陽の光が降り注ぐ屋上で、透が立っている。むかい合って怒鳴っているのはやはり千条だった。灰色のコンクリートの屋上の上には、影しかない。

「君は瀬野透か? そうですらないくせに! 悪魔って噂だって! そんなものですらない。なにもかも中途半端だ! 少しは、あのニセ救世主を見習えよっ 君に与えられてるものはそんなものじゃないだろう!! 目を開け! ……ここにある第三の目 を!」

 そこで言われているのが自分と透に関わることだとすぐに気づいた。千条の言葉は、この十日間に囁かれたことすべてと、同じだった。

 悪魔とか、救世主とか、どうとか。

 潤が扉を開けた音で二人はふりむいていた。きょとんとした顔でこちらを見ている。搾り出すようにして、潤は口を開いた。

「そこまでにしてくれないか、千条くん。僕と透のことに、君は関係ない」

「永井 潤」

「……潤」

 二人の口調も様子も見事に揃っていた。十日も潤は学校に来なかったのだ、いきなりこんなところに飛び出てくるとき思ってなかっただろう。けれど、そのあつらえたような態度に潤はかっとなった。千条がどう自分たちのことに関わっているかは知らないが、さっきのセリフは気に食わない。潤の周りでたくさんの人間がいろいろなことを言って二人を引き裂こうとしていた。それと同じように、この十日間、透も同じように囁き続けられていのだろう。

 潤は千条をにらみつけて、言った。

「透に変なことを吹きこまないでくれ」

 潤と千条とは、今までぶつかり合った憶えはない。千条は透には冷徹な態度を取っていたが、学校ではあくまでも優等生としてふるまう潤には、普通の態度で接していたからだ。けれど千条は潤の言葉には動じない。人がいいので千条は高名だが、ふん、と言って肩をすくめつつ答えた。

「君に任せたほうがずっと、えげつないことになるんじゃないの?」

「透、こんな奴のたわごとは聞くな」

 透は、千条の言うことを取り合ってはいないようだった。潤は安堵しかけたが、次の瞬間、透がにやりと笑うので口をつぐんだ。

「面白いのが揃ったな。"セッション"をばらまくやつと、"セッション"を癒すおまえと」

 透が潤の言葉も取り合っていないのは確かだった。

 潤が"セッション"を癒すことを、透は知っている。……当たり前だ、もともと透は"セッション"に人並みならぬ興味を持っていたし、ましてそれを癒すのが潤とあれば、知らないはずがない。なのに十日間、なにも言って来なかった。

 ――あなたと彼が友人なのだというなら、なにか言ってくるなり、足を運ぶなりしたっていいはずです。

 名取の言葉が、頭をよぎる。じゃあなぜ透はなにも言わないのか。

 千条は、やたらと嫌そうな顔をしている。"セッション"をばらまくやつと言うのは千条のことなのだろうか。否定しない様子で、どうやら本当らしいと潤は悟った。

 千条がなぜ"セッション"とかかわりがあるのか、なぜ透とかかわりあるのか、少しもわからない。

 潤は迷いながら言う。

「じゃあ君は"セッション"の患者なのか?」

 それを聞くと、透は得体の知れない笑いをした。

 これはだれなんだ、潤は思う。透はこんなふうに笑いはしなかった。世界を滅ぼす悪魔、それが偽りではないような気がした。だとしたら、"セッション"を癒す潤のことを透は殺すのだろうか。そうしたら潤も透を殺そうとしなければ、いけないというのだろうか。

 緊迫した雰囲気は、一気に透と潤の二人をしばりつけた。ついさっきまで、逆毛を立てて言い争っていたらしい透と千条にはもうそんな気配もない。千条一人が、明るく言い放った。

「穏やかじゃないな。まるでそうあってほしいって言ってるみたいに聞こえる」

「そうであっても構わない。僕にとってそれが大した問題じゃないことはわかるだろう? 君こそ、"セッション"をばらまいているんであれば僕に感謝でもしたらどうなんだ?」

「僕にとっても大した問題じゃないから」

 どうでもよさげに言う千条に、潤は怒鳴りつけた。

「人殺し……君は"セッション"患者を見たことがあるのか!」

「君がしようとしているえげつないことに較べたらずっとましだ」

「なんのこと?」

「しらばっくれても。瀬野のことをどうしてしまうつもりなんだ?」

「黙っててくれないか」

 言い争っても頭がおかしくなる、言い惑わされる、そう思って潤はぴしゃりと言った。千条はさすがに口を閉じる。

 毎日、透はこんなことを聞かされていたのだろうか。潤が、言われていたのと同じように。それを証しするように、透はまっすぐに潤を見つめて言った。

「――潤、おまえもくだらないことを言うのか?」

「くだらないこと?」

 そうあれはくだらないことだ。瀬野透が悪魔だとか、呪われているとか、世界を滅ぼすとか! じゃあ潤が救世主だということはどうなんだろう。あれがくだらないというのだろうか。潤の手は、間違いなく死にかけている"セッション"患者を生き返らせることができる。"セッション"に冒されている人の命を救うことができる。腐敗した人の手を、蘇らせることが出来る。

 それはくだらないことではなかった。

「どれの、どこがくだらないんだ。ひょっとして、あれか? 僕がおまえを殺し、おまえが僕を殺すとか言うやつ?」

 学校に来るべきじゃなかった。透と道がわかたれていることを、思い知るのならば来るべきではなかった。それとも名取はこれを知らせるために学校へ行けと言ったのだろうか。

「それだよ。……」

 透のうつむいた笑顔がなにを意味するのか潤にはわからない。

「……なにが言いたいんだ、透」

「ずいぶん冷たい返事だな。仮にもお互いに殺しあう仲なんだぜ。同じ道を歩むんだろう、俺たちは」

 一人は救世主として、一人は悪魔として。

「そうとも限らない。……まったく違う人生かもしれない」

 潤が救世主というのはだれかが言い出したたわごとだ。だが、間違ってはいない。透を悪魔だと言い出したのもだれかのたわごとなのだろう。そしてそれは、間違ってはいないのだ。

 "セッション"が世界を跳梁するこの時代に、透と潤は背をむけあった。白と黒、光と闇、悪魔と神の子。きっとそのために、出会ってからずっと友でいたのだ。こうして、道を岐つために。

「結局は同じだ。まったく違うか、まったく同じか。同じことだ」

 今にも笑い出しそうな透の言葉に、潤は激昂した。

 産まれてから、ずっと疎外感を持ち続けてきた。どうしてもなにかがうまくいかなかった。育ててくれた祖父は厳しい人だった。父親は姿を現さなかった。けれど透と共にいるときだけはその疎外感を感じずにいられた。だから、傍にいたかった。どんなに透が無軌道なことをしても、潤は傍を離れなかった。

 二人でいるのが一番、心地よかったのだ。

 でもその時間はもう失われたのだ。瀬野透は気枯れた者なのだ。彼が悪いことを言えばそれは必ず起こる、そういう呪われた存在なのだ。……瀬野由貴子を殺したのは、透なのだ。

「どうして同じことにこだわる? 君の言霊は呪われている! それでどれだけの人が不幸になったんだ。僕の言霊は祝福されている」

 透は潤から顔を背けた。

「これ以上、おまえと話したくない」

「僕は……君に話したいことならたくさんある」

 透が変わってさえいなければ。それとも、変わったのは潤だろうか?

 透は首を振った。

「話したくない」

 それから彼は千条をふりかえった。

「千条、あんた、こいつの相手をしてくれないか。俺にはもうできない。……疲れたんだ。ここは熱すぎるし、明るすぎる。俺は行くよ」

 千条は仏頂面で首を振った。

「永井の相手? 御免だよ。それは君の義務だ。少し話し合って、相互差異を深めたらいい」

 そう捨て台詞をはくと、もうなんの興味もないように彼は屋上を出て行った。ふたたび扉が開閉される大きな音が続き、そこには二人だけが残された。風も吹かない。屋上には、なにもない。足元に黒い影が、太陽に照りつけられて焼きあがるだけだ。まるで荒れ果てた野に立っているようだった。そこで潤は神に試されているのだ。荒野で過ごした多くの聖者たちのように、悪魔の誘惑を退けろと言われているのだ。

 透は不透明な黒い目を宙にむけている。なにを考えているか、想像も出来なかった。

 ふと、鳥の羽ばたきが耳を打った。はっとして、潤は透の姿をあらためる。そしてその手に、さっきまではなかったものが握りこまれているのを見つけた。大きな、一 枚の羽根だった。真っ白ではなく灰色を帯びた、鳥の羽根だ。

 それは天使の羽根ではない。悪魔の羽根だ。

「……透」

 呼ぶと、透もいまようやくその羽根に気がついたかのようにのろのろと視線を動かす。

「それはなに?」

 透は無言だった。そして挑むような瞳で潤を一瞥するとその羽根を空へと投げた。羽根は中空で鳥へと変形する。灰色の一羽の鷹となり、空へと消えて行った。

 空には太陽があるばかりだ。

 また二人の間に、沈黙が横たわった。けれど今度は潤の番だ。彼は言わなくてはならないのだ。退け、サタン。その言葉を。

 どういえば言いかわからず、ここ数日の思いを彼は口に上らせた。

「――"セッション"の流布は、ひとつには撰別という意味がある。"セッション"があらわれることははじめから決まっていたことなんだ。そうでなければ、千条が"セッション"の伝染源だとしたって、そうでならなんで、日本だけじゃなくて世界中に"セッション"が広まっているというんだ?」

 透はなにも言わなかった。この言葉にたいした意味がないことを、彼は知っているだろうか。ただ、二人は道が岐かれたことを確認するためにこうして会っているのだ。だから、これはそのための言葉なのだった。

「天意が僕らを撰別する。生き残る者、生き残らない者とに。それはつまり、新しい天地へ移動できる者と、移動できない者との撰別なんだ。これは神のふるいだ。
 もうひとつの意味は、その天意を人々に知らせないための機能を果たしている。人は知らないうちに撰別されなくてはいけない。撰別されることを知っていると、不正を働くものが出てくるからだ。
 君はどうするつもりなんだ。"セッション"の伝染源を暴き、僕の邪魔をしようというの。それなら呼ばれるのかもしれない。君は神のサタンだと」

 潤の言葉を、透は受け止めたようだった。冷たい顔で、彼は応えた。

「おまえは本当に救世主なのか。イエス・キリストか?」

「それを認めているのは君だ」

「俺を、サタンだと呼んでいるのもおまえだよ」

「そうだ」

「ようやく会えたと思ったら、それしか言うことはないのか?」

 潤はようやく、険しかった気持ちを緩めた。

 認めてしまえばこんなにも楽になると思っていなかった。この数日、逆らい続けてきたのだけれど、運命というものは確かにあるんだろう。

「何度だって言ってやろう。火の時はもうすぐだ。人は撰別される。僕の存在如何に関わらず、"セッション"はさらに猛威を古い、多くの人間が死ぬだろう。君はそれをとどめることはできない」

「矛盾してる。おまえは"セッション"を癒すんだろう?」

「生き延びたいと望むものには機会が与えられる。それだけだ、それだけ」

 潤が首を振ってそう告げるのと、またも屋上の扉が開くのは同時だった。

 千条が戻ってくるはずはない。さっき戸口にいた三宅にしては、タイミングが悪すぎる。なんとも嫌な予感を抱きつつ潤がふりかえると、そうではないかと思っていた教師の姿がそこにあった。

「なんだか楽しそうね。あたしも混ぜてくれない?」









/ 「月と太陽と」 /


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