いばらの道
「先生、どーしてここに?」
大村を歓迎していないのは透も同じようだった。刺々しい声で大村に問いかける。大村は潤と透の険悪な雰囲気に動じることはなく、嫌味なほど明るい声で応えた。
「ああ、また君たちなんでしょ、柵を落としたの。今度は城遠寺くんが被害にあったわよ」
教師としては至極まっとうな返答だった。十日前も、大村は落ちた柵を確かめに来たのだった。
だが、いつも登場するタイミングがよすぎる。どこかで話を聞いているのじゃないかと思うくらいだった。聞かれたくない話をしているときに限って、ここにやって来る。十日前、二人は"セッション"に罹った草加仁の話をしていた。……いまも、二人は"セッション"の話をしていた。
透はため息をついて、吐き捨てる。
「俺じゃねえ、千条だ」
「あら、朱生くん? 馬鹿ねー」
大村はけらけらと笑う。潤は柵が落ちて来るのを下から見ていただけだが、確かに透は柵に触れていなかった。千条が寄りかかっていただけだった。
二人の雰囲気がいいものではないというのが大村にわからないはずはないのだが、無視するように笑っている。迫力のある美人だし、上背もあってスタイルはモデル並だろう。どうしてこんな、都心から外れた私立校の教師になっているのかだれでも不思議に思うような美人なのだ。それに二人の生徒がいかめしい顔でむきあっているのを笑い飛ばしているのだから、教師にむいているとは到底思えない。その態度には、さすがの潤も腹が立った。
これ以上引っ掻きまわしてほしくなかった。もっと透と話をして確かめるべきことはたくさんあった。快いことではないが、潤には必要なのだ。……もっと確かめて、透と別の道を歩むことを自分で認めるべきだった。けれどその邪魔をされているのだ。
「大村先生……あなたはひっこんでてください」
その潤の言葉に、大村は笑うのをやめた。だが、今度は娯しそうに口を開く。
「心配してるのよ。色んなものにまどわされているあなたたちを見ていたら、ほっとけないわ」
「たった今、楽しそうって言ったのはどこのだれだよ」
透もずいぶん腹が立っているようだった。大村は、毛を逆立てている二人の少年を一瞥する。
「わたしはこれでも教師よ。放っておけないの。
あなたたちの姿はたったひとつのものではない。瀬野透であれば悪魔でもあり、永井潤であればメシアでもある。それはだれかの呼び名に過ぎないわ。名前なんてしょせん名前でしかなく、呼ばれたからふりむかなくてはいけないなんて義務もない。求められたから手を握り返すだなんて必要もない。すべてはあなたたちが撰び取り、決め、歩いてゆくだけでいいのよ」
意外だった。大村が、そんなことを言うとは思わなかったのだ。十日前といい、知ったような顔をして口を挟むだけかと思いきや、その言葉があまりにも的を射ていて潤は戸惑った。
(撰ぶのは僕か、)
潤を神の子だとか、救世主だとか言い出したのは潤じゃない。それはどうかしらない。けれど、潤は撰ぼうとしていた。救世主になるなど考えなかったが、少なくとも神の名のもとに"セッション"を癒し続けることを撰ぼうとしていた。
透はその話をうまく理解しなかったようだった。相変わらずの態度で、大村にかみつく。
「先生が俺を悪魔だって言ったんだぜ」
「悪魔だって呼び名に過ぎない! 悪魔と呼んで、その呼んだ人間が悪魔という言葉になにを求めているのかは呼ばれたあなたには知れないでしょう。わたしが悪魔と呼ぶときと、だれかが悪魔と呼ぶときでは、その意味が違うのよ」
それは透に対しての言葉だったが、置き換えれば潤のことでもある。潤は大村に、尋ねた。
「――救世主という呼び名も?」
「悪魔となんの違いがあるの?」
違いはないのだ、まったく。
大村が時機を見計らって屋上に踏みこんで来たのは間違いないような気がした。そうでなければ、いたずらにああして傷つけ合うような言葉を続けていただろう。透と潤の間に横たわっているのは、言葉を尽くしてもどうしようもないこと、なのだ。
潤は踵を返した。背後に透の存在を感じるけれど、もう振り返らなかった。
大村は、からかうように言葉を続ける。
「そういえば今日は透くんの誕生日だったわね。おめでとう」
「別に嬉しくない」
「これで二人とも十七歳。もう子供ではいられないわね」
「勝手に大人にするなよ。いつも、俺のこと子ども扱いの癖に、」
「それは仕方ないわよ。わたしのほうが、どうやったって長く生きてるんだもの。でも、それだけよ。わたしはあなたより先に生まれてきた。それだけなのよ」
潤はその言葉を最後に耳にして、屋上のドアを閉じた。
重たい屋上のドアが閉じる音は、さながら鉄格子が背後で降りてしまったようだった。もう、戻ることは出来ない。それは、潤のした撰択だった。透が悪魔かどうかなどということは確かに意味がない。だれかの呼び名であって、そんなものはどうでもよかった。潤にわかったのは、ともあれ彼と透とは道をたがえてしまったということだ。
……さっき屋上にでるときには階段に三宅がいたが、もう姿はなかった。だれとも顔をあわせなくていいことに、彼は安堵する。クラスに行く気にはなれない。学校にいるのはやはり意味がない、と潤は思った。
このまま羽田に戻ろうと決め、校舎を抜ける。
授業時間はとうにはじまっていたから、静かだった。校庭に出て、潤は携帯電話を取り出した。名取にかけると、数秒も待たずにつながる。
『どうしましたか』
さっき名取とは別れたばかりだというのに、その声を懐かしく感じた。
「名取、来てくれ。……」
『どうしたんです?』
「僕は羽田に戻るよ。もう、名取は戻ってるの?」
『……お迎えにあがります』
「やっぱりいい。おまえが迎えに来てたら、時間がかかる」
『いいえ、学校からそう遠くにはいませんから』
潤が早々に帰ることを見越していたのかもしれない。
(ならどうして、僕に学校に行けなんて言ったんだ)
しかも、今日。よりによって透の誕生日にわざわざ。
(……だから、か? 名取が言ってたんだっけ、今日透が悪魔として覚醒するって)
透が潤に見せたのは冷たい態度だった。悪魔というのが呼び名にすぎないにせよ、透が潤に対して敵対することは明らかだった。それとも呼び名に過ぎないというのは大村の言質に捕らわれているだけだろうか。
透が目の前で鳥にして見せたあの羽根は確かにまがまがしく、"セッション"に似たものを感じさせた。
あの鳥はどこへ飛んでいったのだろう?
「潤くん!」
校庭の途中で、急に呼び止められた。ふりむかなくてもだれかわかる。実和子は教室を抜けて走って来たのだろう、肩で息をしていた。セーラー服のリボンが、そのたびに大きく揺れている。
「帰るの?」
「教室から、見えたんだ?」
「うん。私の席、窓際にあるから。すぐ潤くんだって、気づいて。どうしたの? 朝は、羽田に行ってたんだよね」
「さっき来たばかりだよ。でももう、羽田に戻る」
潤の様子で実和子は少し浮かない顔をした。少しためらってから、彼女は口を開いた。
「……瀬野くんに、会った?」
「うん」
それで、とは実和子は聞かなかった。潤の顔を見ればわかるのだろう。潤は、校門へと足を進めることにした。実和子もそれに並ぶ。
暑い太陽に照らされて、汗がにじむ。
いまもだれかが同じ太陽の下で"セッション"で死のうとしている。
去年の夏はだれもそんなことは思わなかった。世界は変わったのだ。人が"セッション"で溶けて死んでいくのを、止められるのは潤しかいない。
「私も、行っていい?」
「名取に、怒られるよ」
「もう名取さんも、そんなこと言わないよ。私もいつだって潤くんの手助けがしたいと思ってる。それができるのは今しかないでしょう?」
「うん、そうだね」
潤は頷いた。実和子は鞄すら持っていないが、教室に取りに戻る気はなさそうだった。なにも持っていない彼女の手を握ると、潤はつぶやいた。
「いろんなことが、変わって行く。僕は学校はきちんと行かなくちゃいけないと思っていたし、行きたいとも思ってた。ここは、僕や透にとって、いい隠れ場だったんだ。それでももう、僕はここに来ないと思う。
"セッション"はもっと増えるだろう。ここにやって来る暇なんてなくなるはずだ。
僕には"セッション"が癒せるけど、それなのにこの変わって行く世界の中では無力だ。僕には世界を変わらないでとどめておくことは出来ないんだから。たくさんの人が死んでいく。そういう時代になってしまったんだ」
「どうして、人間は死んでしまうんだろうね。どうして、生まれたら絶対に死ななくちゃいけないんだろうね。どうして神様は、そんなルールを作ったんだろう」
そしてその上、"セッション"という病があちこちにばらまかれて人々を殺していく。
実和子の手は、柔らかく、暖かかった。腐敗することはない彼女の手は、とてもきれいだ。つないでいるとほっとする。
校門に立つと、あまり待たずに車が来た。毎日のように乗っている濃紺のルノーだ。
「どうぞ」
名取に促されて、二人は後部座席に腰かけた。実和子が学校を出ることにも、名取は口を挟まなかった。
「昼食を採ってから、戻りますか?」
潤は首を振った。
「いや、すぐに戻って」
「わかりました」
遠ざかっていく学園を、潤は一瞬、見つめた。いつかはここに戻ってくるかもしれない。けれどそれは、世界が変わりきった後だろう。
* * *
車の中で、名取はバックミラー越しに潤を見つめ、少し笑ってから口を開いた。
「瀬野くんに会ったんでしょう」
「会ったよ」
「それで、戻ることにしたんですか」
「……僕が戻ること、わかってたんだろ。だから近くにいたんだ」
「いいえ、違います。潤さまのお傍を離れてしまうのは、気が進まないものですから」
その口調は、用意されていたもののようだ。本音はわからない。ともかく、名取は潤の近くから離れていなかった。
「なんの話をしたんですか」
「"セッション"の話を、したよ」
「瀬野くんと、」
「うん、そうだよ」
名取もまた、深くは問いかけて来なかった。名取は、潤に透と話す機会を与えるために、学校へ行けと言ったのではないだろうか。十日間、潤は透のことを迷い続けてきた。違う道を歩むということを否定し続けて来た。透が神に仕えるなんて想像はしなかったが、少なくとも訣別する必要はないと思いたかったのだ。
透は、悪魔だ。それは、潤が救世主と呼ばれる限りおいて、悪魔だ。
潤に敵対するために透は悪魔と呼ばれるのだろう。不運をまきちらす透は、"セッション"をまきちらすのではないけれど、きっと"セッション"に罹らなくてもいい人に"セッション"を媒介することになるのだ。
潤と供にいることは、できない。
名取は、しばらくしてから、言った。
「ずいぶん昔の話ですが――私の友人も辛い撰択に迫られました。
そう、それは私にも迫ったものだったかもしれませんが、私は撰ぶ道はひとつしか、見えていなかったので迷うことはありませんでした。彼は、迷ってそして、彼が歩むべきだった道を外れました。私と彼は友人ではなくなり、彼も私もたくさんのものを失うことになりました。私と彼が歩む道はいばらの道だけれど、それは逃げるべき道でなかったのは明らかです。……もはや、取り返しはつきませんが。
逃げても楽なのはわずかな間です。必ずその逃げた瞬間を振り返ることになるでしょう。そのとき、その誤った撰択がなしたことを見てなお辛くなるのです。くぐり抜けるはずだったいばらの道は、彼に傷を負わせる代わりに他のだれかを生贄にしていばらの下に押し潰したのです。
あなた方は違います。あなた方は同じ道を選んだのですから、いつか必ずわかりあえます。自分の道を信じてください。道を誤ることこそ、別離なのですから」
「……それはだれのことなんだ」
「昔の友人ですよ」
はぐらかすような言葉で名取は笑った。
「名取が撰んだ道は、
この道か」
「そうですよ、潤さま」
名取のふるまいにいつの間にか信頼しきっていたのは、それだからなのだろうか。彼は潤のために、撰択をしたからなのだろうか。
けれど、名取の話は、潤の神の子としての道に背をむけただれかがいたということでもある。
ずいぶん昔の話ならば関係ないのだろうか、潤はそう思った。
「潤さま、私は思うんですよ」
「なんだよ?」
「どうして、あなたの親友がよりによって瀬野くんだったのか。どうして、あなたが彼を友人として撰んだのか。家が近いから? そんな理由じゃないはずです。むしろそれは奇蹟なのではないかと私は思うんです」
「奇蹟?」
「そう、奇蹟ですよ」
どういう意味なのか、潤にはわからなかった。
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