黒い服の男










 空港のいつもの部屋に戻ると、ボランティアたちはひどく嬉しそうな顔をして潤を迎え入れた。この部屋を使って彼らが"セッション"患者への奉仕を始めてから数日しか経っていなかったが、潤にとってもそうであるように、ここに来ている彼らにとっても既に「ここ」こそが日常の空間となっている。

 学校で潤が感じたような疎外感はここにはない。なにしろ、「ここ」には潤の存在が不可欠だった。

 お帰りなさい、ボランティアからそう言われた潤は、なにかを話したくなった。透の存在が脳裏を過ぎるので、それをふりはらうように口を開いた。

「教会を神の家というならば、僕らのいるここは一体だれの家なのだろう。僕らはここでなにをしているのだろう。ここはだれにとっての家なのだろう。
 僕はまず第一に、ここは癒されない病を負った人々のための家だと思っています。それは人の魂を淀ませ、希望のすべてを奪い去る、肉体の病であるよりも魂の病です。僕たちはそれを"セッション"という名で呼んでいます。今、世間ではその名前を呼ぶことさえ忌避されています。"セッション"と口にするだけでその病に犯されるような気になり、一部では実際にそうだとさえ言われている。けれどそれは、正しくありません。"セッション"について語ることが病だと思っていることこそ、その病に罹っていることなのです。"セッション"は魂の病です。肉体的な痛みや苦痛は、それに付随しているものに過ぎません。この病の名前など、どうでもいいことなのです。
 だからこそ、第一に彼らの家であるこの場所では、その名前、その病を畏れ怯えるようなことがあってはいけません。もちろん、ここにいる皆さんが病を畏れずに済むのは、"セッション"を癒すことが出来る僕がいるからです。けれど、日に日に皆さんも自分の考えが変わって来るのがわかるでしょう。ここに僕がいるからではない。僕が癒すからではない。"セッション"に罹り、僕の前に立つことはそれだけで資格が要ることです。しかし、それを満たした撰ばれた人は、日増しにその魂を強くしていくことが出来るのです。
 はじめは、ここを離れることを不安に思っていませんでしたか。けれど、今はここを離れても"セッション"を恐れる必要はないと気づいているに違いありません。僕がいて、皆さんがいるこの家が、"セッション"に対する抗体となっていくのです。ここはそのための家なのです。
 家という言葉は象徴です。けれど、同じ屋根の下にいるべき僕らの魂の絆を、家族と呼ぶことは象徴ではありません。だからこそここは家となるのです。今は"セッション"患者の家だけれど、やがて僕はそれを世界中に広げていくでしょう。そのとき、完全に"セッション"という病は駆逐され、僕は完全に"セッション"を癒すことが出来るのです」

 その話の最中、潤は、黒づくめの男が立っているのを見てはっとした。まるで悪魔のように黒い。この陽気なのに、長袖の黒い服に帽子までかぶっていて、ここが空調の効いた空港内だとしても暑苦しい。背は高く、日本人ではないようだったが、帽子のつばで顔を見ることが出来ない。さして大きなつばの帽子ではないのに見えないところが、また不気味だった。

 男は潤が口をつぐむと、ボランティアたちを掻き分けながら進む。"セッション"患者かと思ったのかボランティアたちは道を譲り、男はまんまと潤の前に立った。

「ナガイジュンさん?」

 そう呼ばれて、真正面に立った男を潤は見上げる。発音は日本人のものではなく、顔もまた、違った。白人だ。茶というにはいささか明るい髪の色で、瞳は明るい灰色だ。間近で見ると、思ったほど不気味ではない。むしろ大きい目が好意的に潤を見つめていて、こちらから声をかけそうになったほどだった。

「そうです」

「あなたとお話をしに来ました」

 奇妙なイントネーションで、男は応えた。そのたびに髪と同じ色の口髭がぴくぴくと動く。

「私は教皇庁から来ました」

 潤はそれを聞いて、目を見開く。背後で、名取が身じろぎしたのを感じた。遂に来た、そう思って潤は男を見つめ返す。はっきりと名取や鳥海牧師と話していたわけではないが、いつかヴァチカンからの使者は来るだろうと考えていた。潤が神の子と呼ばれるだけであれば、世界にいくつもある新興宗教のひとつだろうと見過ごされるだろうが、世界中がパニックを起こしている"セッション"を実際に癒す神の子となれば違う。

 しかしそのとき、どっといつもの騒ぎが起きた。"セッション"患者がやって来たのだ。廊下のむこうから、担架で運ばれてくるもの、担がれるもの、さまざまな患者たちが波のように押し寄せてくる。

 患者たちを見た潤は、男にむかって言った。

「後にしてください」

「お待ちしてます」

 男は言うと、あっさりとひきさがり、押し寄せてきた患者たちやボランティアたちの右往左往する中で見えなくなってしまった。潤は男が引き下がったことにほっとする。ヴァチカンのことを知っているわけではないが、強硬な手段をとるかもしれないと恐れていたのだ。神の子だと言うのなら、ローマでそれをあかして見せろと連れて行かれないとも限らないと。

 男はどちらかと言えば接しやすく、拒絶するほどではない。

 名取は潤の傍まで来ると、囁いた。

「夜までは、私がお話しをしておきます。……患者が途切れたころにお迎えに上がります」

「なんの話になるのかな」

「悪い話では、ないと思いますよ」

「任せるよ」

「はい」

 名取は頷いて、潤はとうに見失った男を捜して立ち去った。

 潤は患者たちに手を差し伸べ、その病を癒す。腐り果てた手足が元の形を取り戻し、苦痛の声が消えていく。そうして癒しながら、男のことを考えた。

 黒い服装は神父のいでたちだった。

(彼らは僕を疑っているのか、それとも、認めてくれようとしているのだろうか)

 潤は自分で神の子だと名乗ったことはない。決して自分からそうだと言いたくはなかった。名取たちを疑うわけではないが、口にすることでそれが真実であろうとなかろうと、僭称になる気がしたからだ。

 潤が神の子なのは、潤が特別だったからではなく、神自身が選んだからであって、それは潤の選ぶところ望むところとはかかわりがない。だからこそ、自ら名乗りを上げるのは神への傲慢だ、と感じた。

 潤を神の子だと言う人もあれば、違うと言う人もある。

 ――俺を、サタンだと呼んでいるのもおまえだよ。

 透のあの言葉は、透自身が発したことやその意味ではなく、他人が人を名指したときにそれが真実となることの恐ろしさを物語っているような気がする。潤が神の子かどうかはともあれ、人が潤を神の子だと言ったときに潤は神の子となるのだ。

 それがまして、教皇庁の言葉となれば影響はとても大きい。

 いずれにせよ教皇庁は言うのだろう。潤が神の子か、それとも神の子ではないかを。

 けれどそれがなんの関わりがあるというのだろうか。

 潤の手は、肉体と魂を腐らせる病を癒すことが出来るという事実に。



*       *       *



 夜が更け、飛行機便が止まると、潤が癒さねばならないセッション患者も途切れる。飛びこんで来る患者がいないわけではないが、ゆっくりと休みをとることが出来た。潤は家に帰ることもあったし、空港内にあるホテルに泊まることもあった。

 その日はボランティアたちが片づけをしている中に名取が迎えに来て、潤をホテルの部屋に案内した。いつもと違う部屋なのは、例の神父がいるためだろう。

 部屋に待っていたのは、教皇庁の神父のほかに、鳥海牧師だ。教皇庁の男が訪ねて来てからずいぶん時間が経っているが、一体なにを話していたのだろうか。名取はここに来るまでなにも言わず、潤は不安だけを感じていた。

 潤が部屋に入ると男は立ち上がり、会釈する。もう帽子はなかった。

 やはり潤が彼と実際に話をしなければいけないのだろう。気は進まなかったが、仕方なかった。名取や鳥海も当然のように潤と男がむかいになるように席をすすめた。

 潤が座り、居心地悪そうに身じろぎすると、名取が緊張を和らげるように口を開く。

「潤さま、なにかお飲みになりますか」

「うん、……お茶でいいよ」

「わかりました」

 名取が戻って来ると男は顔に刻まれた皺を深めたが、笑ったのか顔をゆがめたのか判別がつかなかった。次の瞬間には大きな目を開いて、潤を見る。

「私は教皇庁より参りました、ピエトロ・オッジといいます。今回私があなたに会いにきたのは、ぜひ、一度ローマ教皇にお会いになっていただきたいからです」

「僕が、ローマ教皇と?」

 鳥海や名取は驚かなかったので、既にその話は聞いているのだろう。はりぼての芝居の中に、ひとりだけ筋書きも知らないのに放りこまれた気分だ。オッジ神父や鳥海はともかく、名取がなにも言わなかったのが気に食わない。ちらりと隣に座る名取を見たが、彫ったような整った顔立ちの男は動じなかった。

「あなたは"セッション"を癒す――」

「だからと言って、」

「そしてあなたは神の子かもしれない

「だれがそんなことを言ったんですか」

 潤は、ただ思ったままにそう尋ねた。

 "セッション"については、だれもが口にすることを恐れる。潤もまた、そのセッションと同じ扱いで、口に上ることを嫌がる人間が多い。ここに来る人間がさほど多くないのも、潤の活動が口コミと、垣小野の記事だけだからだ。垣小野が編集長をしている雑誌『FACT』は名の通った雑誌だが、どちらかと言うとゴシップよりであって、その情報がローマ教皇をして潤を招聘する理由になるとは思えなかった。

 それともまさか、と潤は思う。

 たとえば名取や彼に父たちが過去に見たように、なにか神からの知らせのようなものがあるとでもいうのだろうか。

 潤にとっても、彼が神の子であると言うことは、確信ではなかったから、ローマになにかがあるというのなら、知りたい。"セッション"を癒すことが出来るわけを、ただ漠然とした事実ではなく、啓示でもなんでもいいから知りたい

「もっとも、いま生きているだれかを神の子と呼ぶことは、あまり気が進みません。我々のイエスでさえ、死んだあとに彼が神の子だということがわかったのですから。少なくとも、教皇が会いたがっておられるのは、あなたが"セッション"を癒す奇蹟の手を持つからです」

「だからと言って、」

 潤は困惑しながら口を開いた。

「いまいくわけには行きません。僕はここで、患者たちを待ち、癒しています。僕がここにいるから、絶望せずに患者たちはここへ来ることが出来る。それをうつしてしまうような真似は、出来ません」

「我々も急ぐつもりはありません。このような中であなたをローマに招くことは、"セッション"から自分たちだけの身を守るためではないかと謗りを受けるでしょうから。あなたはだれであれ区別することなく癒される。それは正しいことです」

 正しい、と言われた瞬間に、胸が重くなった。

「いつかでよいのです。いつか、会いに来てください」

「……いつかでいいなら」

 そう答えながら、その日が来ないように潤は願っていた。行きたくないのは、神の子や神の問題と直面し、自分が試されるからではなかった。"セッション"患者たちと切り離され、助けられる人間を助けられないからでもない。それは漠然とした不安だった。教皇庁に行くことで自分が晒し者にされ、その後になにか見えない恐ろしいことが待ち受けているような気がする、ただそういう不安に過ぎない。不安に過ぎないのに、それが胸にこびりつくような恐怖につながる。

 それなのにいつかは行かなくてはいけないのだろうか。

 それがいつなのか、思って潤は、息苦しくため息をついた。



*       *       *



 オッジ神父を見送り、潤は名取と鳥海とともにロビーへとむかった。タクシーに乗りこみ、神父は都心方向へ消えていく。それを見送り、潤は名取に行きたくないな、と呟いた。それは潤が予期していたよりはるかに子供じみて響く。

「どうしてですか」

「僕が行く必要があるとは思えない」

「行くべきです」

 名取は珍しく、有無を言わさぬ調子でそう断言した。

「あなたの手が、"セッション"を癒すことは確かなのですから」

「けど、嫌だ」

 駄々をこねるように言う潤に、鳥海牧師が告げた。

「教皇庁がこんなにも早くに行動を起こすのは珍しいことです。切実に、世界があなたを必要としているということでしょう。いまや"セッション"の死者はうなぎのぼりなのですから。下手にアメリカ大統領から呼ばれるより、いいでしょう。
 無論、警戒は必要ですが。あの教皇庁を相手にするわけですからね」

「今はまだ、あなたが神の子であるということは噂でしかありません。その噂を、彼らのほうから取り沙汰すことはないかと思います。認めるも認めないも危険ですから。けれど、彼らはそれを常に意識しています」

 名取はまるで潤の不安を煽るようにそう言った。

「潤さま、彼がどこから来たか知っていますか?」

「ヴァチカンじゃないのか?」

「ヴァチカンの内部の話です。彼は列聖省の人間ですよ」

「どういうこと?」

 潤が眉をひそめると、名取は微笑って肩をすくめた。

「列聖省は、聖人を調査・認定するヴァチカンの機関ですよ――」

 その言葉に、潤は寒気を感じた。

 "セッション"を癒すことは出来る。神の声も聞いた。けれど、聖人というもの、その名前に自分が絡めとられるのは恐ろしい。

 だが進まなければならない道なのだろう。それは潤が選んだ道だった。"セッション"を癒し、人の魂を救うために、潤はその道を選んだのだ。道は険しく、茨に満ちている。乾いた砂利の道を、歩いていかねばならないのだろう。

 ふと強い太陽の光を感じた気がして、潤はめまいを覚えた。幻の真昼の太陽の中を、一羽の鳥が飛んでゆく。それがだれかは知っている。透は悪魔に与えられたのかどうか知らないが、その翼で潤よりも先にその道を求めていた。

 "セッション"が導くこの道が、潤の進む場所だ。

 "セッション"は音もなく、世界を浸し続ける。病は波のように、世界を覆いつくそうとしていた。









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