黒の爪先










 結婚する、と兄から急に聞かされたのは、街中がクリスマスで一色に染めあげられた十二月はじめのことだった。学校から帰って来たばかりの朱生しゅうは、玄関に出迎えた兄から唐突にその話を聞かされた。

 朱生にはそれがどういうことかもわからなかった。兄とはそれなりに歳が離れていて、結婚するなら絶対に兄が先だろうとは思っていたけれど、兄だってまだ二十二歳でしかない。医学生だから一人前になるのもまだまだ先だ。結婚するのは早い気がした。なにか特殊な事情があるに違いないのだが、それがなにかは皆目見当がつかない。

 こんな玄関先で話題にすることとは思えなかった。あたたかくした居間で、ゆっくりと紅茶を飲みながら話したっていいはずではないか。

 顔を合わせたついでに報告した、というものでないのは、兄の様子からもわかった。兄のるいはごくごく真剣な面持ちで、もしかして兄さんは僕と結婚するつもりなんだろうか、と朱生は冗談で考えた。

「はあ、結婚」

「おまえ、もう少し言い様があるだろ」

 類は、弟の気のない様子にため息をつきながらそう言った。

 気がないのではなくて、なんでそんなことになるのかあまりにも突然だったので、朱生はなんと言っていいやらわからなかっただけだ。それで、彼はもう少しピントのずれた会話を続けることにした。

「そんなこと、いきなり玄関先で言われても」

「まあ、それもそうか」

 類は朱生に上がるように促した。朱生はマフラーを取りながら、靴を脱ぐ。家は古い洋館作りで、暖房が入ってない場所はひどく底冷えする。玄関ではまだマフラーを取るには早かった。寒さで飛び上がりそうになりながら、朱生は尋ねた。

「母さんはもう知ってるの」

「話した」

「父さんは」

「それはこれから」

 二人の両親はとうに別居していて、父親とはあまり会っていない。遠くに住んでいるわけではないので、機会があれば顔を合わせてはいるものの、会うためには約束をして段取りを決めなければならない相手だった。

 とはいえ、父親をないがしろにしているわけではないから、その結婚とやらの話を父親より朱生が先に聞くのはどこか妙な感じがした。

 それに、こんな玄関で聞かされたことがひっかかる。兄がなにかに焦っているように感じられた。結婚の話も、前々から準備していたものには思えない。朱生はずっと、忙しい兄に恋人さえいるのか疑問だったのだ。

「兄さん、彼女がいたんだね。忙しくて出来ないんだと思ってたよ」

「彼女っていうのとは、少し違うかな。おつきあいはしていたんだが。まあちょっと複雑な話だからな。俺も、こんなに急に結婚するとは思ってなかった」

 朱生が自分の部屋を目指すために階段を上ると、類はあとからついて来る。

「その複雑な話って、僕が聞いてもいいの」

「構わないさ」

 それなりに複雑な環境で育って来た経験から、朱生は聞いていいことと悪いことがあるのをわかっていた。それは許されるとか、許されないとかいうことではなくて、自分が聞かなければよかった真実がこの世に存在する、というのを承知しているだけのことだ。

 悪趣味な人間でなければ、聞かせるべきでない事実は隠してくれる。なにしろ朱生はまだ十五歳だった。高校一年生。幼くはないが、大人ではなかった。背が高く、落ち着いた容姿をしているせいで大人のように扱われることはあったが、家庭ではそうではなかった。

 けれど、ひどい真実だとしても、知らなければならないことが存在していた。聞きたくなくても聞かされて来たことがあった。正直なところ、どうしてこんなにいろいろなものを引きずらなくちゃならないんだろう、と朱生は考えていた。十五歳のか弱い少年として、断固拒否したかった。ところが朱生はそれに対して大声を上げて拒むような性格はしていなかった。兄が淡々と運命を受け入れているのを見れば、なおのことだ。どうしてこんな眼にあわなくちゃいけないんだ、と感じるたびに、目の前にいる兄の存在はモルヒネになった。

(……兄さんはもっとひどい)

 その一言で、とりあえずなんとか耐えられるのだった。

 部屋に入って、続いて来た兄の様子を見ながら朱生は、複雑な話というのがどのあたりのことなのか考えた。朱生にはまだ聞かされていないこと、というのが山ほどあるらしいことは知っている。だからそのあたりに関わることなのだろうかと思ったのだ。

 もっとも、類でさえ知らされていないことは山のようにあるらしい。すべてを知っている人がいるのかどうかも怪しいが、きっと一人だけはわかっているに違いないという心当たりはある。いつか面とむかってすべてを聞かせてほしいと訊ねるのが朱生の野望だった。

 しかし、類はさほど深刻そうではなかった。だから、話というのは朱生には関わって来ないことなのかもしれなかった。だからといって、類が焦っている理由はピンと来ないのだが。

「相手は?」

 朱生は自分のベッドに腰をおろし、立ったままの兄を見た。類は朱生の隣に座る。ベッドが軋む音を立てた。

相馬そうま研究所の所長のお嬢さん」

「そこって、兄さんが青田買いされてるところだよね」

「そう」

 類は医学生といっても、研究職を志望していた。なんでもアポトーシスが研究対象らしいが、アポトーシスが細胞の自殺だという程度のことしか朱生にはわからない。詳しくどんなことをやっているかまでは聞いていのだ。

「大人の事情はよくわからないけど、かなり複雑な事情があるんだ?」

「そこそこ、な」

 類は難しい顔をしてため息をついた。

「所長は悪性の癌でね、長くないらしい。本当は、さすがに俺が研究所に入ってから結婚させようと思っていたらしいんだけれど、もうそれまで時間がないってわけだ」

「まさか娘の晴れ姿を見たいから?」

「いや、相続の問題が絡んでる。……お嬢さんはまだ未成年だから。それで手っ取り早く俺と結婚させてしまおうと考えたらしい」

「未成年って。いくつなの」

「十八」

 それを聞いて唖然とした。朱生とみっつしか歳が違わない。相続だのなんだのの事情は朱生にはよくわからないが、類と結婚させられる女の子のほうもたまったもんじゃないだろう。それで幸福な結婚になるとは思いがたい。

「よく、承知したね」

「俺がか?」

「兄さんも、その子もだよ。まさか、結婚しないと就職を取り消すとか?」

「いや、そうじゃない」

 類は苦笑した。

「俺は俺で事情があるし。彼女も彼女で、この結婚が自分のためになるとは思ってるんだろう。母さんには話したけど、もしかすると瑠璃るり様に反対されるかもしれないって」

 千条せんじょう瑠璃は類と朱生にとっては母方の祖父に当たる。……とてもそうは見えないのだが。朱生がいつかいろいろと訊ねてみたい相手とは、その祖父のことだった。

「けどな、朱生。俺はちゃんと結婚するし、子供も作るから。あれは、おまえのところには行かないよ」

 そう言われて、朱生は返事をすることが出来なかった。類が焦っているわけがようやくわかったのだ。

「瑠璃様は、俺に子供を作らせたくないらしい。けど、そうだとすると、俺が死んだらあれは確実におまえのところに行くだろう」

「……そうとは限らないじゃないか」

「限らないけど、ほぼ決まりだ」

「兄さん、そのために結婚するの」

 朱生が慎重にそう言うと、類は笑った。

「そういうわけじゃない。結婚なんてだれでもすることだ」

「けど、」

 朱生が不安げに声を詰まらせると、類は弟の頭に手を置いた。

「おまえは心配するな。
 次の日曜日に、父さんに会いに行く。おまえも来るか?」

 誘われて、朱生は迷った。父とは数ヶ月会っていないので、会いたいという気持ちはあったが、なにも類の話に同席する必要はないはずだった。おそらく、朱生が同席しては、類は言いたいことも言えなくなるのではないか。……兄が、父になにを言おうと思っているのかはさだかじゃないのだが。そもそも、別の家で暮らしている父親が、自分たちに対してどういう感情を抱いているのかよくわからなかった。

「母さんはなんて言ってるんだ」

「気をつけなさい、ってね」

「反対じゃないんだ?」

「ああ。けど、俺が身体の中に爆弾を持ってるようなものなんだってことは忘れるな、と言われたよ。しかもなにが原因で起爆するのかわからない。けど、この七年間はなにもなかった」

 それでも爆弾は爆弾だ、ということなのだろう。その上、七年間という時間が、決して長い時間でないことを二人とも承知していた。七年間の無事など、大した問題ではなかった。

「結婚することとか、子供が生まれることとか、そんなことでこれがどうかなるとは思わない。俺が普通に生きておかしいはずはない。そう信じているよ」

 その言葉はむしろ、朱生の胸の内に暗い不安を呼び覚ました。

 それに対する漠然とした不安は子供の頃からずっとあり、七年前に叔父が亡くなって以来は、悪夢のように少年の胸の上にずっとのしかかり続けていた。それが宿っているのは朱生ではなくて兄の類だったが、だからこそ、次にそれが宿るのは自分だという恐怖が常に朱生を不安にさせていた。

 なぜそんなものが存在しなくてはならないのかは知らないが、それは存在し続けている。いつからなのかは知らない。ずっと昔から、何十年も、ともすれば何百年も昔からだ。

 類は自分の左手の人差し指にある、黒く変色した爪を見た。

「安心するんだ。虎はおまえのところへは遣らない。遣らないから」

 その言葉で、気持ちを軽くしていいのか、胸を重く塞げばいいのかわらなかった。それが類から類の子供へと移ることで、朱生の元へは来ないのかもしれなかったが、今度は――これから生まれる――自分の甥がその餌食になると考えると、ぞっとせずにはいられなかった。

 どう操作しても、虎はいなくなるわけではないのだ。それがなにかは知らないが、虎は確かに、類の左手の爪に存在していた。









▲ / 「白き虎」 /


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