依憑










 翌日、学校で大村おおむら教諭を捕まえた朱生は、国語科研究室で相談を持ちかけた。

 国語科研究室にはなぜか暖房が入っておらず、朱生はカバンに結びつけていたバーバリー・チェックのマフラーを思わず巻いた。しかし、この部屋にずっといたはずの女教師は超ミニスカートの真っ赤なワンピース姿にもかかわらず、平然としている。この部屋で暖かいものと言えばコーヒーメーカーのコーヒーくらいだろう。……だいぶ煮詰まっている匂いがしていたが。

 大村の机の上はいつもどおりのカオスで、寒さもさることながら、その机で仕事が出来ているのも実に不思議だった。

「朱生くん、校内ではマフラーをしないこと」

「そんな無茶な。こんなに寒いのに」

「あら、それならわたしが暖めてあげてもいいのよ」

「勘弁してください、大村先生」

 彼女のセリフはいつもの軽口だが、朱生はしぶしぶマフラーを外した。きまぐれにその軽口を実行する人なのを知っているからだ。豊満な胸に顔を埋めさせられているところを運悪くだれかに見られたりしたら大変なことになる。そして朱生はあまり運がいいほうでないので、そういうときに限って部屋にだれかが入って来るのだ。注意しておくに越したことはない。

 そもそも、こうして二人で話しているのも、他の生徒たちからすれば不審なことだろう。大村沙夜さやは今年この学園に採用された国語科教師で、担任は持っていない。そして、朱生のクラスを教えたこともない。頻繁に二人で話しているのを見られていれば、どんな関係なんだと他の生徒が気にするのも、わからないことではなかった。

(僕自身だって第三者だったら勘ぐるね。沙夜さん、美人なことだけは確かだから)

 大村は噂になるようなことだと気がついていないのか、わかっていてお構いなしなのか知らないが、朱生との親密さをまったく隠さない。たぶんわざとだろうと朱生は踏んでいる。だれかにどんな関係なのか聞かれることはないんだろうかと、恨めしい思いで朱生は女教師を見た。

 尋ねられたところで決して後ろめたい関係じゃあないから、遠慮するところを感じないのかもしれなかったが。

「それでなあに、相談って。わたしへの憧れがとうとう堪え切れなくなった?」

「冗談でもそんなことにはならない」

「朱生くんの童貞はわたしがもらうことにしてるんだから、気持ちを高めておいてよ。高校生なんだから、抑えきれない興奮に任せて押し倒してもいいのよ」

「僕だってはじめては好きな人がいい」

「こんなに魅力的な叔母さんがいるんだから遠慮しなくたっていいのに」

 にやにやと大村は笑いながらそう言った。

 大村は正確には叔母ではなく、母親の従姉妹に当たる。自分では「叔母」だと言うものの、朱生が「おばさん」などと言おうものなら生まれて来たことを後悔するような目にあわされるのは明らかだった。

「……兄さんが結婚することになったんだ」

 ぶすっとしたまま朱生が言うと、大村はつまらなさそうに肩を竦めた。

「あら、おめでとう、じゃない」

「瑠璃様は反対してるらしいんだけど」

「わからないでもないけどね。いままでだれもしたことがないんじゃないかしら」

「なにを?」

 大村の言葉に朱生は眉をひそめた。ああまただ、と内心でこぼす。また、朱生の知らないことだ。

「結婚よ。虎の憑いている人が結婚したことはいままでなかったはずよ」

「……だから、反対してる?」

「いままで結婚していなかったことはなにか根拠があるのかもしれない、そう考えていいんじゃないのかしら?」

「なにが起こるかもしれない、ということ?」

「なにかが起こる、ね。でもね、朱生くん。わたしたちに見えていない、感じられていないだけで、本当はいまだってなにかが起こっているのかもしれない。虎っていうのはそういうものであるはずでしょう。なにかが起こっているからこそ類くんは結婚しようとしているのかもしれないわ」

「そんなことがあるんだったら、兄さんは僕に言ってくれるよ」

「それは、どうかしら? 類くんにでさえ知覚できていないことかもしれない。けれど虎はそれを知っているかもしれないわ

「やめてくれよ。まるで兄さんが虎に操られているみたいじゃないか」

「わたしは虎のことを大して知らないけど」

 大村はまじめな顔で続けた。それは決して朱生を驚かしてからかうときの顔ではなかった。

 ときどき朱生は、この血縁の女性が神託をくだす巫女シビュラのように思えることがある。それだけでなく、その背後にいる女神そのものであるように思えることもあった。

「類くんに白虎が宿ったとき、あまりにも彼が変わらないのがむしろ不審なことだったとは思わない? 発狂して閉じこめられた人間も過去にはいたというのに、類くんには変化がなかった」

「じゃあ止めたほうがいい、と沙夜さんは思っているってわけ?」

「結婚を反対する理由は瑠璃様しかご存じないことでしょう。類くんも瑠璃様と会わないで結婚を進められるはずはない。いずれにせよ、一度は瑠璃様のところへ伺って、反対される理由をしっかりと聞いてから決めたらいいのよ。わたしたちには、わからないわ。わたしたちは、虎のことを知らなさすぎる」

「本当に、瑠璃様なら知ってる?」

「でしょうね。けど、なんでまた急に結婚なんて。まさか類くんに先を越されるとは思わなかったわね」

「それは、相手の家庭に事情があるらしくて」

 大村は類とは同じ歳だ。高校では同じクラスになったことはないものの、同学年だったようだ。類の結婚が早すぎるように、大村だってまだ結婚を焦る歳じゃないだろうが、余計なことは言わないほうがいいかもしれない。

 しかし、朱生の視線がちらりと泳いだので、大村はあでやかな笑みを浮かべた。

「あら朱生くん、なにかいらないことを考えのたかしら」

「いやぜんぜん」

「今日こそ朱生くんの童貞をもらっちゃおうかな。放課後の薄汚い冷え切った国語科研究室。忘れられない初体験になるわよ」

「寒いと思ってるなら暖房つけてよ」

 朱生が抗議すると、大村はあっさりと首を振った。

「壊れてるのよ」

「なのになんでわざわざこの部屋にいるのさ」

「わたしが壊したからよ」

 理由にはなっていないが妙に納得して、朱生はため息をついた。

「兄さんが結婚しようとしているのは、結婚して男の子が生まれればあれが僕のところには来ないからなんだ。……沙夜さんは本当にそれで僕のところに来ないと思う?」

「それが怖いのね?」

「あたりまえじゃないか」

「それはわからないわ。……言ったでしょう、いままで虎憑きで結婚した人はいないのよ。だれも一度もそれを試したことがないのよ」

「虎は一番近い血縁の男子に憑く、そうだよね」

「さあ、それも本当のことかどうかはわからない。いままではそういうパターンであるように見えているけれど、本当かどうかわたしはあまり信用しないわね。なにしろあの一族の言うことだから、そこに作為的な嘘が混じってたっておかしくないでしょう。大体、そのことをはっきり言ってほしくてわたしのところに来たんじゃないの、朱生くん? あなたが聞きたいのは虎がどうなるか、じゃない。『あの人たちの言っていることは本当とは言い切れない』、あなたはそれを聞きたかったんじゃないかしら?
 それに、類くんの息子と弟、どちらの血縁が近いかなんてあやふやじゃないの。虎がなにで依憑を見分けているのかはだれにもわからないわ」

「つまり、それでも僕かもしれない?」

「いままでの例から言えば、次の世代に憑く傾向はあると思うわ」

「……気休め程度に心にしまっておく」

「そうね。決めるのは類くん。あなたじゃない」

「それに、瑠璃様でもない?」

 朱生の言葉に、大村は不適な笑みを浮かべた。

「あの人は決めるとか決めないとか、そういう判断をする人ではないのよ」

 その言葉の意味は判らなかったが、朱生はともかく顔をしかめておいた。

 虎と呼ばれるモノが、いつから朱生の家系にとり憑いているのかはわからない。

 それはいずれ教えてもらえることかもしれなかったし、だれも知らないことなのかもしれなかった。ともあれ、白い虎は男子の肉体に憑く。

 虎が憑くことがなにを意味するのか、だれにもわかっていない。だれに問いかけても謎かけのような答えしかもらえないから、朱生は、だれもわからないのだと思うことにしていた。

 大村に言わせれば、虎はわかるとかわからないとか、そういう対象ではないのかもしれない。あるいは、だれかに教えもらってわかるようなことではないのだとか、とまれありとあらゆるあやふやな言葉が虎をめぐる言説のすべてだった。

 けれど、兄が虎憑きである朱生にとって、白虎はそういうあやふやな存在ではなかった。

 虎に憑かれた人間は正常な生活を送ることは出来るのだが、なにかのきっかけで発狂して死んでしまうことも少なくなかった。

 以前は、虎が憑くと本家の座敷牢に繋ぎ止められていたという。ずっと昔の話ではない。類の前に虎を宿していたのは叔父なのだが、その叔父が幼い頃に虎を受け継いだときにはじめて、その決まりがなくなったのだという。類が生まれた頃のことだ。下手をすれば、叔父も、類も、座敷牢で暮らすことになったはずだ。

 朱生は、自分をとりまくそういう環境が、時代錯誤なものだとはあまり感じていなかった。世間でよくあることではないのだろうが、得体の知れない白虎というものは子供の頃から朱生にとって当たり前のものだったから、それほど特殊なことであるという自覚がなかった。

 叔父が亡くなったのは七年前の春先のことだった。もともとあまり身体が強いわけではなく、繊細でもろい硝子細工を思わせるような人だったのを憶えている。母などは朱生がその容姿を確実に受け継いでいると言うが、それは虎に対する朱生の恐怖を煽ることにしかならなかった。

 もっとも似ているというのは容姿だけのことらしく、叔父を知る人に言わせれば、性格がまるで違うのだそうだ。確かに、写真の中で薄ら氷のような微笑みを浮かべる叔父は、繊細な容貌と裏腹に根性たくましい朱生とは印象が異なる。

 それでも、彼は白虎を宿していなければそれほど早くに命を落とすことはなかっただろう。彼は虎に心を蝕まれ、大きく精神の均衡を崩して死を選んだ。死ぬまでに、虎の力が暴走して四人が亡くなっていた。……虎が危険なものであることは、確かだった。

 類が虎に憑かれてから七年が経った。その間、なにもなかった。もちろんそれが、この先もなにもないことを保証してくれるわけではないが、ともかく類は普通の人間として生活している。類は、叔父よりもずっと安定した虎憑きであるとみなされていた。

 だがそれだって、ごくごく表面のことかもしれない。

 朱生にも、周囲の人間たちにも、結局は虎のことはわかっていないのだ。すべては、それに尽きた。









/ 「白き虎」 /


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