もうひとり










 年が明けてすぐに、朱生は類の結婚相手となる女性と会った。家族同士で正式に顔を合わせるように類が手配したのだ。

 本来ならば結納をするはずなのだが、彼女の家族は大腸ガンで入院している父親だけなので、結納というほど大げさなものではない。

 正月ということもあってなのか、真理萠子まり もえこは華やかな振袖姿であらわれた。日本人形のように整った顔をしていて、朱生は面食らった。まだ十八歳だというが、落ち着いていて、類とはお似合いに見えた。

 十八歳で親の言うままに結婚するなんていまどき考えられない。それでしか結婚が出来ないようなとんでもないブスなんじゃないか、とうがったことを考えていただけに、萠子の美しさは際立った。クラスメイトにいたら好きになるかもしれない。

 こちらの家族は父と母、類と朱生の四人だ。けっして両親の別居を隠そうというわけではなく、曲がりなりにも離婚していないのだから家族そろおうか、ということになったのだった。

 両親は仲が悪いわけではない。二人が別居しているのは、類に虎が憑いていることと関係があるのではないか、と朱生は疑っていた。別居が始まったのは、類に虎が憑いた七年前だったからだ。

 一家揃うと会話には不自由しないのだけれど、どこか嘘くさくなる。

 まずは入院中の萠子の父親を見舞った。都内の病院のガン病棟だ。

 真理秀司しゅうじの病室に行くと、末期のガン患者とは思えない快活さで迎え入れられた。

「やあ、早神さがみくん。久しぶりだね」

「ご挨拶に伺いました」

 類は生真面目な口調でそう言って、順に家族を紹介していく。

「父のあきらと母の実令みれい、弟の朱生です」

 朱生は軽く頭をさげて、真理に挨拶した。

 もうすぐ死んでしまう人と会っているから、というわけではないだろうが、どうにも居心地が悪かった。すぐに気がついたのだが、それは真理が娘のことを一顧だにもしないせいだった。萠子は部屋に入ってから一言も話していない。普通は、萠子の着物姿のことくらい、言及するものじゃないだろうか。

 ひとしきり話が済むと、類は改まって真理に頭をさげた。

「萠子さんと結婚をさせてください」

 真理はそのとき、にやりと笑った。その顔を見てしまった朱生はたじろぐ。どうにも、娘を結婚させる親の態度じゃない。いくら末期ガンで追い詰められているとはいえ、なにかおかしい。

 頭を下げている類には当然見えなかっただろう。慌てて両親をちらりと見てみると、父親は妙な顔をしていたが、母は涼しい表情だ。見ているはずなのに、どうしてなにも思わないのか。実令は落ち着いた性格じゃないし、たとえ子供の結婚相手の父親とはいえ、食ってかかってもよさそうなものだ。

 もちろん、真理家にも事情があるのだろうが、こちらにもたっぷりと事情がある。虎のこと。瑠璃様のこと。実令は、この話が出てから一度も反対していない。それは、なにか思惑があるのかもしれない。少なくとも、このうさんくさい男の笑顔に驚かない程度の、思惑が。

「早神くん、頭を下げないでくれないか。これは私のほうからお願いしたことだ」

「ですが、まだ学生の身である私に萠子さんを任せていただくんです」

「なに、心配はしていないよ。君のご両親もしっかりとした方じゃないか」

 どうにも嘘くさい。朱生は背筋がぞわぞわするのを感じて、おとなしくしていられなかった。

 なにも、別居している両親を持ち上げる必要はないだろう。気持ち悪い。これは別に、自分が潔癖な性格をしているせいじゃないはずだ。

(兄さん、本当に結婚する気なのかな)

 うまいこといって早く真理が亡くなってしまえば、結婚するまでもないんじゃないだろうか……とまで朱生は思ってしまった。真理が死んでしまえばこの男とつきあう必要がなくなるのだから、むしろ関係ないようなものだが、やはり気持ちが悪い。

 萠子はまだなにも言わなかった。父親に求められていないのをわかっているみたいだ。

 真理は類の肩を叩いて顔を上げさせると、左手をさしのべた。類はそれに応じて左手を出して、真理と握手する。真理は左利きなのかもしれないが、それはなにかの意図があった握手だと言うことを朱生は察知した。

 それは本能だった。

 朱生の指先に虎は宿っていないが、朱生の家系には虎が宿っている。虎憑きの家系の血が騒いだ。

 類の左手の人差し指は黒く変色している。真理はまるでそのわけを知っているかのように、左手を繋いだのだ。

「早神くん」

 真理はそう言って、繋いだ手に視線を注いだ。

「あとのことは君に任せようと思う。君になら任せることが出来る。萠子をよろしく頼むよ」

 真理は虎のことを知っている、と朱生は思った。

 遺産の相続の問題があるとか類は言っていたが、それは嘘だ。類が嘘をついているのか、真理が嘘をついているのかはわからない。けれど、ともかくそれは嘘だ。真理は虎を知っていて、だから類と萠子を結婚させようとしている。

 朱生は混乱した。

 類の思惑、母の思惑、瑠璃様の思惑、真理の思惑。そのどれもが食い違っていた。だれもがそれを承知なんだろうか。父親は振り返っても困ったような顔をしているだけで、萠子は日本人形のような笑顔で佇んでいるだけだった。

 危険だ、と胸の奥底で彼は思った。

 ただそれがなぜ危険なのか、わからない。

 ぐるぐると様々なことが回る。

 虎の宿主である類の結婚、その類は朱生のためにこれを決めた。虎のことを知っている真理。それから、虎のために死んだ叔父。

 一族の人間でない真理が、なぜ虎を知っているのか朱生にはわからない。類が話すこともないはずだ。それだとしたら、そのことも含めて朱生に教えてくれているだろう。それとも類自身、なにかの意図があるのだろうか。瑠璃様はなぜ類の結婚に反対するのだろうか。どうして――

 胸が苦しくなる。朱生はそれ以上見ていられず、「ごめんなさい、トイレ」と言って部屋を出た。高校生はこんなことをやっても許されるのがいい。

 あれは一体なんなのだろう、どうして虎を求めるのだろう。朱生は頭痛をこらえながら息をつく。

 なにか、大きなことが動き出しているような気がした。もどかしいのは、朱生はその当事者ではない、ということだ。そのなにかは虎に関わっている。朱生は、その宿主ではない。宿主は類だ。だから踏みこむことが出来ないだけではなく、朱生は踏みこむことが許されなかった。いま類の身になにかがあれば、虎は間違いなく朱生のところへやって来るというのに、それでも、朱生には関われない。

 叔父の姿がまぶたに浮かぶ。

 叔父が死んでから七年間、なにごともなかった。けれど、それはけっして、この先なにもないことを保証しない。叔父のときもそうだった。叔父は十五年の間、虎を宿していた。そのうちの十年以上はなんの事故もなかった。けれどなにかのきっかけで虎は暴走し、人が死んだ。数年後、叔父も自ら命を絶った。

 虎はそういうものなのだ。

 しばらくトイレで息を殺していると、部屋から出る皆の声が聞こえた。出て行かなくちゃな、と思ったところで母が顔を覗かせる。

「朱生、行くわよ」

「母さん、ここ、男子トイレ」

「自分の息子がいるのに男子トイレもなにもないじゃない」

 朱生が青い顔をしていることにはなにも言わない。萠子や父がいるのに妙なことを聞くわけにも行かず、朱生は大きく息をついた。

(そりゃあ、うちは秘密主義だけどさ)

 聞かないほうが幸せでいられる、とも思う。逃れられない運命なら、知らないほうがいいのかもしれない。けれど嫌なことに好奇心というのはあって、知りたいとも思ってしまう。

 生憎ながら、知りすぎたせいで不幸になったという親族の話は聞かない。みんな、好奇心は抑えこんだんだろうか。それとも、朱生の知りたがっていることというのは、知ったところで大したこともないのだろうか。いま知っていることと、大差ないのだろうか。

(それにしたって、見ず知らずのあのおっさんがなにかを知っているって言うのも腑に落ちない……)

 さっき感じたことが気のせいなのならいいのだけれど。

(でも僕のこういう勘は当たるんだよなあ)

 死期が近いにしても、あと何度かは会わなくてはいけないはずだ。それを思うとどっと疲れに似たものが襲ってくる。

 そういえば、結局、萠子と真理が会話しているところは見なかった。あの調子では、朱生が出て行った後も会話をしているとは思えない。

 真理が類に見せた執着もおかしかったが、逆に、萠子に見せた無関心もおかしい。人の家のことをいえた義理ではないが、変な家と関わってしまったような気がする。まだまだ結婚などリアルに考えられるはずはないが、僕は普通のお嫁さんがほしいなあ、と朱生は思った。

 ともかくなにもかもが変だ。なにのなぜ、だれもそう言わないのだろう。どうしてそんな様子さえ見せないのだろう。

 だれでもいいからなにかを聞きたい。朱生は家族の後について歩きながら、叫びだしたい気持ちだった。

 どうしてだれも言わないのか。どうしてだれも聞かないのか。

 先を歩く萠子の後姿を見ながら、朱生は不思議に思った。彼女もわけのわからない出来事の渦中にいるように見えた。朱生のように、叫びだしたくなったりしないのだろうか。それとも、彼女は、父親の意志も類の考えもわかっているとでも言うのか。

「朱生」

 父親に呼ばれて、朱生は顔を上げた。この人はどこまで知ってるのかな、と陰鬱な気分で考えた。父は、虎憑きの家系ではない。まったく関係のない人なのだ。だとしたらきっと、なにも知らないに違いない。

「なに?」

「学校はどうだ?」

「なにもいまそんなこと聞かなくても」

「近頃、僕のほうに顔を出さないな。類についてくるかと思った」

「二人で話したほうがいいんじゃないかと思って」

「なにを?」

 問われて、なにも言えずに思わず口ごもる。なにかあるだろうと思って、父と類との話し合いには同行しなかったのだけれど、もしかすると朱生の考えすぎだったかもしれない。

「だって色々……あるんじゃないのか」

「馬鹿だな」

 父は軽々と笑った。

「おまえに隠すような話はないよ」

 そうだとしたら、二人とも本音を話していないだけだ。

(それとも、こんなふうに考えている俺がひねてるのかな)

「兄さんの結婚、早いと思わなかった?」

「そりゃあ思ったよ。子供が出来たわけでもないのに、この歳で結婚なんてね」

「反対しなかった?」

「反対するには、理由が弱い」

「たとえば、もう少し自分で相手を選べとか?」

「それもあるな」

「それにほら、まるでむこうの財産狙いみたいだ」

「結婚、してほしくないのか」

 その響きが、まるで大好きなおにいちゃんをとられると駄々をこねている子どもに対するもので、さすがにむっとした。

「そうじゃない」

 ここで、ぶちまけられないのが辛い。父親がなにも知らないかもしれないから、言えない。兄さんがただ朱生に白虎を伝えないために結婚するのだというなら、止めたい、だなんて。

 自分だけ運命から逃れて、自分だけ助かろうなんて、朱生は思わなかった。

 もちろん、いま虎は類に憑いているのだから、朱生に虎が来るというのはすなわち――類が死んだときのことになる。そんなことを考えたくはないが、あらかじめその運命から逃げようとするなんてことも、望んでいなかった。

 怖くないわけじゃない。叔父のような運命は辿りたくない。けれど、逃げるのもいやだった。

 それも、本当に逃げられると確証があるわけじゃないのだ。

 そんなことのために、兄に犠牲になってほしくなかった。萠子は美人だし、結婚することで類が得られるものはとても大きなものなのだろう。そうだとしても、虎さえいなければ類がいま結婚する確率は低かったはずだ。

 自分のせいで類の人生を決めてしまいたくない。

 朱生はそう言えずに言葉を濁していたが、照は朱生の肩をゆっくりと二回、叩いた。

「類は平気だろう、と母さんは言っているよ」

「……どういう意味?」

「母さんが言ってるんだ。心配しなくていい」

 確かに、家族四人の中で見れば、運命の鍵を見知っているのは母だろう。

 弟と息子が「虎憑き」なのだ。知っていることも大いに違いない。

(でも、りんさんは死んだじゃないか)

 叔父は死んでしまった。何人もの人を巻きこんで、命を奪い、耐え切れずに自分で命を断ったのだ。

 朱生が知っている叔父は、確かに脆そうに見えても決して弱くはなかった。虎を怖がって泣くまだ小さかった朱生に手を差し伸べて、「道さえ間違えなければ決してこれは恐ろしいものなのではないんだ」と言った。……その手の指先には黒く変色した爪があった。

 そんな人でも白虎に飲みこまれる、ということが朱生の胸に宿る恐怖だった。

 萌子と並んで数歩先を歩いていた兄が、不意に足を止めた。なにかが閃いたような突然の動作で、虎のことばかり考えていた朱生は怯えて鼓動がはねた。

 類は大きく目を見開いて、朱生を振り返る。彼の顔にはまぎれもなく禍々しいなにかが通り抜けた痕跡があった。

「……どうしたの、兄さん」

「いまの、おまえじゃないよな」

「なに?」

「あっち、通り過ぎたの……おまえじゃないよな」

 類が指さしたのは道のずっと先で、真後ろにいる朱生であるはずがなかった。

「僕はずっと兄さんの後ろにいたよ」

「そうだよな」

 ただそれが恐ろしいほど不吉な言葉に聞こえて、朱生も目を見開いた。それは予感でしかなかったが、類が見たのは――死んでしまった叔父の麟でなかったのかと、そんな妙なことを考えたのだった。

 それならきっと、一瞬だけ姿を見かけたのであれば、朱生だと見間違えるかもしれなかった。

 麟がいるはずもないことは、わかっている。彼は死んだはずだ。

 死んでしまった人の影だからこそ、予兆しているような気がする。なにか、悪いことが起ころうとする兆しに思える。それが杞憂なのか、昔から朱生の中に救っている漠然とした不安が見せるものなのかは判然としない。彼は決してぐずぐずと思い悩むような暗い性格ではないのだけれど、虎のことに関してばかりは、違うと言い切れない。

 そう感じているのに、結局朱生は当事者ではない。不吉な影を見たのは類で、朱生ではない。虎を宿しているのは、類であって、朱生ではない。

 それが、とても遠くに取り残されているような気がしていた。









/ 「白き虎」 /


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