触れえぬ領域
波乗学園高等部一年一組の教室は、昼休みになったばかりでざわついている。朱生は授業中に気になったことをノートに書き留めてから昼食にしようと、まだ机の上に教科書を開いていた。
最後の文字を書いたところで、傍に立った人の気配に顔を上げる。それまでは敢えて無視するようにしていたのだ。
「類さん、結婚するんですって?」
ひとりの少女がそこにいた。朱生が顔を上げるなりに詰問口調で言った彼女は、冷たい笑いを顔に浮かべると、既にあいていた朱生の前にある椅子に、腰を降ろす。
きつい顔立ちだが、透明感のある美貌の持ち主だった。その顔は実は朱生にもかなり似ているのだが、少女としてはとげとげしすぎる印象を与える。大人びているから、明るいセーラーカラーのついた波乗学園の制服を着ていても、近寄りがたい雰囲気があった。短く切られたプリーツスカートの裾から伸びる、白い脚が目立つ。
「だれから聞いたの」
動揺もせず、机の上の荷物を片づけながらあくまでも他人行儀に朱生がそう言うと、
潔子もつんと取り澄ました顔で応えた。
「だれでもいいじゃない。それに、ちっとも秘密じゃないでしょう。類さんは日曜日に瑠璃様のところに来たのよ。家中大騒ぎだった」
「ああ、そうなんだ」
確かに、このあいだの日曜日、類は本家へ挨拶に行っていた。詳しい話は、まだ聞いていない。だから潔子が類の結婚について知っていることはおかしなことでもなんでもなかった。弟である朱生に事の次第を聞きに来るのだって、変じゃないだろう。
なのに、朱生はどこか違和感を覚えた。なにが、とはわからない。ただ、潔子がここにいることのどこかに、間違いがある気がした。それであまり気安く口をきく気になれない。
朱生の家系は、虎のこともあってごくごく閉鎖的だ。そういう親族に囲まれて、外で暮らしている朱生の家族は本家にいる人間にはあまりいい顔はされていない。こちらとしても、その重苦しい空気が大嫌いだった。
「それで、兄さんのことが潔子になんの関係があるんだ」
「興味あるの。類さんは虎がいるのに結婚するんでしょう。虎憑きの人が結婚するのははじめてだって、知ってた?」
大仰なため息をついて、朱生は席を立った。
「下世話な好奇心はやめたらどう」
「下世話なんかじゃないわよ。だってそうでしょう。
麟兄さんは死んでしまったのに、類さんは結婚するなんて」
朱生は潔子の言葉に我慢しきれないほどの違和感を覚えて潔子を見た。
「……いま、なんて?」
「
麟兄さんよ」
潔子の言葉のなにが引っかかるのかはわからないが、確かに、虎のせいで兄を失った潔子にしてみれば、納得いかないものがあるのかもしれない。だが胸の奥が不愉快な気分で一杯になる。
昼食の弁当が入ったカバンを抱え、朱生は潔子を睨んでから席を離れた。それでも潔子はついて来る。教室を出るところで、また声をかけられた。
「ねえ、朱生は相手の人に会ったの?」
「ああ、会ったよ」
「どんな人?」
「結婚式のときに見られるんじゃないのか」
「教えてよ」
「美人だった」
まるで置物の日本人形のように。朱生も萠子に関してはそれ以上のことを知らないから、聞かれても答えようがなかった。兄たちの結婚式までの準備は、慌しく進められている。なにしろ萠子の父親はいつ亡くなってもおかしくないような状態なのだ。今週中に、二人は籍を入れることになっている。月末には親族だけで挙式だ。あと二週間で彼女が自分の家族になる、というのがいかにも唐突で、実感がわかない。
潔子もそんなふうに忙しない展開が面白くないのだろう。ようやく澄ました顔に抑えきれない苛立ちを浮かべた。
「ふうん……瑠璃様への挨拶だって言うのに、類さん、婚約者を連れて来ないんだもの。みんな、文句を言っていたわ」
「うかつに連れて行って、なにがあるかわからないからだろう」
「ずいぶんな言い方ね。それなら、類さんが一人で来るほうがよっぽど危ないと思うけど。座敷牢に閉じこめられるかもしれないって考えなかったのかしら。あの人、虎憑きなのよ」
「座敷牢は瑠璃様が反対してるんだろう?」
「瑠璃様の話を聞かない人だって、いるよ」
「そりゃあそうだろうね」
虎が怖ろしいものだということを、一族の人間はよく承知している。瑠璃様が許していたとしても、独断で類を閉じこめようとする人がいたっておかしくないだろう。
朱生は深々とため息をついて、鞄からマフラーを取り出すと首に巻いた。
「詳しい話は、兄さんに聞けよ」
そのまま、潔子には構わず廊下を歩き始めた。
* * *
お昼休みは生徒会室で過ごすのが今月から始まった朱生の習慣だ。波乗学園では毎年十二月に生徒会役員の入れ替えがある。一月から、朱生が生徒会長として率いる生徒会が発足したばかりだ。
学園長の孫だから、という理由で生徒会長になったのもあるが、我ながら言うのもなんだが優等生だったし、人望も厚いほうだ。この学年では中等部でも朱生が生徒会長をしていたので、他に対立候補も出ず、すんなりと決定された。
昼休みに集まるからといって毎日生徒会の仕事がある、というほどではない。特に冬は、春に三年生を送り出すまではイベントらしいイベントがないのが実情だ。
その日も、潔子のせいでどことなく不機嫌になって朱生が生徒会室に入ると、先に来ていた他のメンバーたちが大騒ぎをしている。盛大に埃が舞っていそうで、ここでお弁当を食べるのはいやだなあと朱生は肩を竦めた。
「なにやってるのさ」
「ちょっと
千条くん、聞いてよ。こいつがね」
すさまじい剣幕で言い募るのは副会長の
吹田夜染子だ。朱生がどちらかというと、人がいい、さわやかで柔らかな物腰なのと対照的に、気が強く、すぐに熱くなるタイプだった。背も高く割りと美人だが、男子を容赦なく撲るので変に敬遠されている。
そのときも、「こいつがね」と言いながら被害者をしめあげている最中だった。
「ちょっと、夜染子、やめたほうが……みんなお弁当食べられないよ」
居合わせた会計の
乾乙女が止めてはいるが、聞いてはいない。
「俺が悪いのかよ!」
「そうよ」
「わざとじゃないし!」
「なお悪い!」
必死になって喚いているのは書記の
城遠寺達人だった。ちなみに彼はごくごく間の悪い男子としてみんなに知られている。ともかく怪我が多いのだが、本人の不注意もあるのだろうけれど巻きこまれることがとても多い。それと、夜染子に殴られて負う怪我もとても多い。
夜染子のように撲って怒りを示す人間は珍しいが、みんな大なり小なり、達人の間の悪さにいらっとすることがたびたびあった。
「あんまり、原因を聞きたくないんだけど」
「聞かないほうがいいって」
げんなりした顔の朱生に、にやにやと笑って言うのは同じく書記の
水井十也だ。野球部で鍛えたがっちりとした身体を椅子に預けて、高みの見物をしている。
「助けろよ、千条」
達人の懇願を、朱生は肩を竦めてするりと避けた。
「無理」
「そんなこと言うなって!」
「かばうなら千条くんが撲られてね」
夜染子の言葉に朱生はほらね、と呟いた。
「おまえの運の悪さを僕におしつけないでくれる?」
「わー、わーっ、もうほんとに撲るかな! おまえ女子なんだろ? 撲るなよ!」
朱生は暴れているふたりの傍を通り過ぎてしまったので、痛そうな音がした瞬間は見ないですんだ。思わずため息をつく。ここに来ると、平和な学園生活が続いてるんだな、と思えた。
気がかりはあるけれど、馬鹿なことをやって過ごす時間も楽しい。悩んでもどうしようもない虎のことや兄のことを、こういうときは忘れることができる。
夜染子と達人が暴れたせいで埃っぽくなった教室の窓を開いた。普通教室を半分に区切ったサイズの生徒会は、会長・副会長、書記会計二名ずつの六人が入ったらいっぱいになってしまう。
遅れて来た
周防架を入れた六人で昼食を囲みながら、一応生徒会らしい活動を始めた。
「目安箱に投書が入ってたよ」
架は一枚の封筒をひらひらとさせながら弁当箱を開けた。
淡いクリーム色の封筒で、女子のものとも見えるけれど、男子からのものでもおかしくない。
封筒を見ると達人は大興奮して箸をふりあげる。
「おおーっ、初投書!」
先代から設置されている生徒会室前の目安箱は、活発に使われているものではなさそうで、今日までアメの包装紙とか名前のところが切り取られた点数の悪い小テストとかが入っているだけだった。
「中身、見たの?」
「いや、まだだよ。読む?」
「読んじゃって」
夜染子に言われて架は封筒を開き、便箋に目を落とす。紺色のチェック柄の便箋だ。かわいいかんじではないから男子からの投書だろうか。
「これさ」
読みあげる前に架が肩を竦めた。
「もしメンバーだれかへのラブレターだったらしょっぱいよね」
「ラブレターだったの?」
「違うけど。えーこれ、読むの?」
「なんなのよ、さっさと読みなさいよ。大体、ラブレターだったら靴箱に入れるでしょ」
短気な夜染子に促されて架はため息をつく。
「まーた怒る」
達人が余計なことを言って、夜染子に机の上にあったアメ玉を投げつけられていた。
「いたっ、当たると痛いんだぞ」
「読むよ」
あきれながら架は口を開いた。
「生徒会のみなさま、助けてください。校門裏の桜の木の上に幽霊がいるんです。それが怖くて、怖くて、たまりません……だって」
「なんだ、それ」
「それって、投書じゃないじゃない」
案の定、夜染子は怒った口調で一喝した。まったくそのとおりだが、朱生は少しだけ気になった。
校門裏の桜は、三階建ての校舎の屋上にまで届きそうなほどの巨木で、毎年春には見事な花を咲かせている。波乗学園のシンボルのひとつだ。その桜の木の下に幽霊が出るなどという七不思議はいままで聞いたことがない。
メンバーの視線が集まるのを見て、朱生はため息をついた。
「そんな馬鹿な……とは思うけど、幽霊にかこつけたなにかかもしれないし、ちょっと気にしたほうがいいかも、ね」
「その投書、名前は書いていないの?」
乙女が尋ねると、架はひとしきり封筒と便箋をひっくり返したが、あっけなく「ないね」と言う。
「いたずらにしては便箋も封筒もしっかりしてるよね」
「あんまり関係ないんじゃねえ? こんなの、いたずらだろ」
考えるのも馬鹿馬鹿しいという口調で十也が言うが、とりあえず、なにか噂がないか気にしてみようということで朱生は話をまとめた。
「そんなに聞きまわったりはしなくていいけどさ」
「千条くんて、その手のこと信じてるの?」
夜染子も怪訝そうにそう尋ねて来る。
「信じてるわけじゃないよ。なにか別の話を示しているのかもしれないから、気をつけてみたほうがいいってこと」
「うちの学校はいろいろとあると思うけどな」
乙女は少しぼんやりとした顔で、そう呟いた。
「わたし、この間チャペルで見ちゃったよ」
「なに?」
「ふふ、天使さま」
毒のない笑顔でそう言うので、どういうことだか聞き辛い。けれどだれにでもずけずけとものを言う夜染子だけは別だ。ふふーんと笑って指を突き出す。
「それって、
相川先輩が言っていたやつでしょう。チャペルでお祈りすると、天使様が願いを叶えてくれるっていう。わたしも聞いたものね、それ」
「で、我らが兇悪吹田女史はそんな殊勝なことしないけど、乾はしたわけだ」
「お祈りは本当だけど」
達人の無神経な言葉はまたも夜染子を怒らせたが、生徒会のメンバーには乙女の言葉のほうがずっと衝撃的だった。
「天使様がいらっしゃったのも、ほんと」
「天使、ねえ」
得体の知れない虎が存在するのだから、天使だっていてもおかしくないかもしれない。それでも、よりによって波乗学園にいるなんて信じられない話だ。
* * *
五時間目の授業が始まると、生徒会の騒ぎでまぎれていた暗い思いが朱生の胸に立ち昇ってくる。
(桜の木に幽霊……ねぇ)
白い虎は生まれてからつきまとってきた影だが、それを実際に見たことがあるとか、そういうわけではない。正月に類が見たと言っただれかの幻も、類の見間違いかもしれないし、麟の幽霊なんかではないかもしれないが、それだって、朱生は目にしていない。
朱生のいる一年一組の教室からは、身を乗り出さないと桜は見えない。いまの時期はすっかり葉を落として、寂しい姿だろう。
だが、桜の木が見えたとしたって手紙にあった幽霊とやらが見えるとは思えない。
なにもかもが朱生の傍で、けれど朱生を阻害したまま起こっている。
兄は朱生のことをむしろ気遣って事態から遠ざけているのに違いないが、虎を宿していない朱生にとっては踏みこめない領域の問題もたくさんある。
兄のことなのだから自分のことではないともっと割り切るべきなのかもしれない。
だがどうしても、他人事だと言ってしまえない。虎を宿していない朱生がわかりもしないことを悩んでも仕方ないと言われるのかもしれないが、そう言って見ないふりができるほど虎は生易しいものでもない。
怖い、でも触れることはできない。
当事者でないことに安堵しておくべきなのかもしれない。けれどそうと振り切れないのは、もしかすると予感していたからなのかもしれない。
虎のまなざしを感じていたのかもしれない。
……生贄を見凝める虎の、右だけのまなざしを。
▲ / 「白き虎」 / ▼
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