番外編競作 禁じられた言葉 参加作品 / 注意事項

何処かへの回帰の日 番外編

眠る花

written by シドウユヤ










なにも聞こえない。











なにも見えない。











なにも感じない。











 わたしどうしたのかしら、なにも見えない真っ白な闇の中で百合は思った。なにも聞こえない。なにも見えない。なにも感じない。そこになにもなかった。彼女の体さえ、そこにはなかった。
 わたしどうしたのかしら、百合はもう一度思う。そこにはなにもなくて、だから百合には思うことしかできなかったのだ。――けれど思ってもなにも起こらなかった。それどころか、自分がどうしたのか、彼女には少しもわからなかった。
 なにも聞こえない。
 なにかが聞こえた記憶もない。
 なにも見えない。
 なにかを見た記憶もない。
 なにも感じない。
 なにかに触れた記憶もない。
(わたしいったい、どうしたのかしら)
 百合はただ、そう思い続けていた。答えはいつまでも見つからない。いつまでもいつまでも、なにも聞こえなかった。なにも見えなかった。なにも感じなかった。
 時間の感覚もなかったから、それがすぐなのかしばらく経ってのことなのか、あるいはずっと過ぎた時だったのかわからなかったけれど、なにか耳に届く気がしないでもなかった。なにか見える気がしないでもなかった。そしてなにかに触れる気も。
 けれどほとんどすべて、世界は静寂さの中にあってなにも起こらなかった。
 いつの頃からか、百合は思い出すことを始めた。なにも起こらないので、時間が流れても行かないので、過去に起こった出来事を思い出す。それははじめて彼女の意識が生じた瞬間から始まる。
 暗く赤い暖かな水に満ちた世界。母親の胎内で血が流れる音と心臓の鼓動を聞いていた。なんて音楽に満ちた世界だったんだろう。その場所を思い出すと、なにも聞こえない耳にさまざまな音が蘇ってくる。ざあざあとうるさいばかりの血の流れ、そしてどんどんと体を揺さぶる心臓の音。
 思い出しながら、時々意識は浮上する。だれかが傍にいるのを感じることもあれば、なにも感じないこともあった。光を感じることもあれば、闇を感じることもあった。なにかを感じると百合は、逃げるようにまたなにも感じない世界へと帰ってゆく。
 なにか忘れているのを心の奥底で気づいている。この聞こえてくる声はだれの声だろう、彼女はそれを知っているけれど思い出すことはできない。



 長い時間が経った。これでいいのかしら、そう思うこともあった。
 わたしは目をそむけている。それがなにかを思い出さないけれど喉につまった言葉が口に出れば、そのときこのなにもない世界は壊れるだろう。

(私の心の中には禁じられた言葉がある。それは怖ろしいなにかを思い出さないために私が禁じた言葉だ。私は思い出すことができない。私の傍にいたあの人のことを。あの怖ろしい炎の中で隣にいた人のことを)

 幾度も幾度も記憶が蘇りかけてはまた失う。白い世界の中で百合は溺れる。

 目の前で姉が崩れた柱に巻きこまれ炎に包まれる。お父さんもお母さんもいない。百合は叫ぶ。なにが起こったのかわからなくて。その人は百合の隣にいて、彼女に言う。「逃げるんだ、百合。早く。行こう!」その人の名前を思い出すことができない。その人がだれだったか思い出すことができない。なぜなら一番怖ろしいのはその人だからだ。立ち尽くしているそこに、すぐ傍の壁に鏡がかかっている。鏡になにかが映っているのにそれを見ることができない。きらきらと輝いてなにも見えない。本当はなにか写っていて、百合はそれを見たはずなのだ。なのに、今は見えない。彼女の心がそれを拒否しているのだ。それがなにかわからない。隣にいるその人がだれかわからない。百合は、傍にいるその人を見上げた。その顔を知ってる。心配そうに彼女を見つめる少年の真摯な顔を、知っている。とても大切な人だ。「百合、しっかりするんだ」自分こそ今にも泣いてしまいそうな顔で、丈高い少年は百合の手を握る。その人を知ってる。でも思い出しちゃいけない。忘れるために永い眠りについたのに。私は忘れなくちゃいけないのに。けれどいまや喉につまった言葉があふれ出そうとしている。
 この人は大切な人だった。
(でも怖いのはこの人)
 どうして二つの感情が百合の心の中にあるのかわからない。
 この人が百合に対してひどいことは一度もしたことがないはずなのだ!
(だってこの人は)
 この人は、


 ……私のお兄さんだ。


「お兄ちゃん、」
「百合、早く逃げよう。俺たちも焼けてしまう……」
 百合は思い出していた。これはあの瞬間だ。百合の家が炎に包まれ、父も母も、そして姉も、彼女ら二人の前で炎に包まれてしまった、あの時間。思い出さないように百合は夢の中を漂い続けた。それでも、思い出してしまった。目の前にいるこの青年が、百合の兄だということを。
 これは現実だろうか、それともただ思い出しているだけなんだろうか。百合は炎を感じている。熱い、そして喉が痛い。姉が目の前で炎に包まれたのを見て叫んだからだ。それに、炎と煙のせいもあって、息をするだけで肺が痛んだ。
 兄は百合の手を引き、そこから逃れようとした。けれど百合は、あの鏡を眼にして足を止める。
 喉につまらせていた言葉はもはやない。百合は、彼が兄だということを思い出した。だからその鏡に映っているものを思い出すことができた。
 暗い部屋で二人の人影が蠢いている。それはだれかがだれかを犯している光景だった。百合はまた叫んだ。もう形にはならない声で。それは理屈の狂った光景だったけれど、偽りや幻でないことは知っている。なぜかわかる。組み敷かれているのはお姉さん。いいえ、あれは私。今よりずっと大人びているけれどあれは私。そして彼女を犯すのはいま隣に立っている兄だった。今よりずっと大人びているけれどあれは兄だ。
 百合は未来を見たのだ。
「百合!」
 耳元で兄が叫んでいる。どうして、お兄ちゃん。私をあんなに大事にしてくれたのはこの人なのに、どうして、こんなことをするの? どうしてこの家は燃えているの? どうして、お姉さんは死んでしまったの。
 目の前を炎が駆け抜ける。その炎は、白熱してなにもかもを燃やしながら、百合と兄を見る。そう、炎は二人を見つめた。狂乱する百合を、兄は引きずるようにして炎に背をむけた。炎は咆哮した。……虎の叫びを。炎の白い虎は牙をむいて百合をにらみすえた。その叫びが、百合の胸中にこだまするのだ。













なにも聞こえないままでいられない。











なにも見えないままでいられない。











なにも感じないままでいられない。











 百合は目を醒ました。
 よく目が見えない。あたりは暗い。……だんだん目が慣れて、薄暗い夕闇の中にいるのがわかった。現実だ、と彼女は思う。今までなにをしていたのか思い出せなかった。同じ部屋の中にだれかがいるのがわかった。泣いている。
 百合は唇を震わせて、問いかけた。声が出にくい。唇が乾ききっている。そうして何度目かに、百合はようやく言葉を放った。
「だれ?」
 驚いたようにそのだれかが飛び上がる。
「だれかそこにいるの」
 息を呑んだようになにも言わないその人に、百合は少し不安になった。体が、思うように動かない。起き上がろうとして、体にあまりにも力が入らないのに驚いた。
 どうしたというんだろう、わからなかった。
「ねえ、だれ? どうしてこんなに暗いの?」
 そうしてようやく返事があった。
「――いま灯りをつける」
 その声を、知っている。だれよりも百合を大切にしてくれる人だった。
「お兄ちゃん?」
 部屋が明るくなり、蛍光灯の明かりが痛いほど目を打つ。このあかりはなにもない世界に似ているわね、百合はそう思った。
「……お兄ちゃん」
 そして近寄って来て、覗きこんだ兄の顔を百合は見分けることができた。記憶の中とは変わっている。兄は笑った。頬に涙のあとが残っているけれど、笑っていた。今にもまた泣き出しそうだったが、笑っていた。
「百合……」
 その声を聞きながら、百合は不思議な気持ちになる。お兄ちゃんはどうしてこんな顔をするんだろう、ここはどこなのだろう、わたしはどうしてここにいるのだろう。
「百合、俺がわかるんだな?」
 百合の手を、兄が握った。熱いてのひらだ。
「お兄ちゃん……?」
「待ってたんだ、ずっと。待ってたんだ。……ごめんな、」
 また泣き出した兄を見て不思議な気分になった。この兄がないたところなんて今まで見たことがない。なのにどうして泣くのだろう、なにがそんなに兄を泣かせるのだろう。
「ゆっくり、話すから。全部話すから……」
 そう言って兄はひとしきり、泣いた。
 わたしどうしたのかしら、百合は兄の手を感じながら、窓から見える夕暮れの空を見上げていた。記憶が途切れていて、ここに至るまでのことは少しも思い出せない。
「お兄ちゃん」
「なにを、憶えてる?」
 兄に問われて、百合は少し考え、それから首を振った。
「なにも憶えてない。わたし、どうしたの」
「ずっと、眠っていたんだよ。もう、九年だ」
「……九年?」
 なにを言われているのか理解できず、百合は兄を見凝めかえす。兄の様相が変わったように思えたのは気のせいではなかったというわけだ。
 いつから九年なのかもわからなかったし、その九年という月日がなにを意味するのかもわからない。
「どうして、わたし……」
 兄はあまり語らなかった。言葉を詰まらせて、うつむき、涙を流す。……よくわからなかった。なにがあったのだろう、この九年のあいだになにがあったって言うんだろう。
「憶えてないほうがいいよ。
 ……俺は、先生を呼んでくる」
 それを聞いて、ここが病院なのだとはじめてわかった。
 兄は立って部屋を出ようとする。百合は身体を起こそうとしたが、できなかった。身体に力がはいらないのだ。九年間眠り続けるということは、そういうことだった。
 なにがあったんだろう、百合は少し考えて、そういえば夢でそれがわかったような気が、していた。
 兄ははたと扉のところで立ち止まっている。医者を呼びに行くといったのに、迷ったような顔で立ちすくんでいた。
「お兄ちゃん?」
 振り返った顔は紙のように青ざめていた。
 どうしたのか、わからなかった。見慣れない、九年も経って大人になった兄の姿を見て百合はなにか記憶を刺激された。見たじゃないか、この男の姿を。
(そう、鏡の中で。見たわ、わたし)
 そのとき急に、下腹部が痛みを覚えていることに気づいた。
 そして百合はまた、思い出していた。火事のさなかの出来事、目の前の男が鏡のむこうで一人の女を犯している姿を見た。あれが百合の正気だった最後の記憶なのだ。鏡の中の女は姉に似ていた、けれど姉ではない。姉は目の前で燃えてしまった。
 それじゃああれは、わたしなのだ。
(そしてあれはお兄ちゃんだった)
 どうして自分の下腹部が痛むのか考えたくなかった。起き上がって確かめようにも、体が動かない。なによりも青ざめた兄の顔がすべてを物語っているような気がした。
「……お兄ちゃん!」
「百合、おまえは……九年間目覚めなかったんだ。九年間、ずっと夢を見てた……」
「どうしてわたしは目を覚ましたの、ねえ、お兄ちゃん……!」
 そのときだった。百合の目の前が真っ白に変わった。
 それでもそれはあのなにもない世界じゃない。
 白い虎だ。百合の家を燃やした炎の白い虎だった。百合は身体が炎に包まれ、燃え上がるのを感じる。九年前に逃れた白い虎がようやく彼女を見つけたのだ。
「百合!」
 兄の声が聞こえた。炎に包まれた百合に触れんばかりに身を乗り出すがもはやどうにもならないことは百合にもわかっていた。あの時こうして死ぬはずだった。九年前、家族と一緒に、死ぬはずだったのだ。
 百合は、白い虎の咆哮を聞いた気がした。











なにも聞こえない。











なにも見えない。











なにも感じない。











 その日、病院から少し離れた民家で火災が起こり、母と子の二人が焼け死ぬ事件があった。火のつけられ方や被害者の解剖結果に不審な点があり、警察が殺人事件として捜査に乗り出したが、数日も経たない間に捜査にかかわった警官や記事にした記者などの間に、奇妙な、病気が蔓延した。全身が腐敗して溶けるように死んでゆくその奇病は、"セッション"と呼ばれて世界中に広がった。
 やがてその事件は事件のあった家の名を取って「早神邸殺人事件」あるいは、火事の際に複数人が「白い虎のようなものが炎の中を奔るのが見えた」という証言から「白虎事件」と呼ばれるようになる。
 けれど、同じ時間にやはり白い虎の炎にやかれて死んだ少女がいたことはだれも知らない。彼女の兄以外、だれも知らなかった。
本編情報
作品名 何処かへの回帰の日
作者 シドウユヤ
注意事項 年齢制限なし / 性別注意事項なし / 表現注意事項なし / 連載中
紹介 世界中に奇病"セッション"が流行する現代を舞台に、その"セッション"を癒すことができる救世主と呼ばれる少年や、悪魔だと噂されるその親友、そんな少年少女たちの物語です。
長期連載しています。
[戻る]