黄金姫 あるいは塔の亡霊 01
《Die goldene Prinzessin; oder das Gespenster habe noch umhergegangen.》

 アージャシャトラ王の宮廷は深い森に囲まれていた。その奥程に旧い塔が在って、暁光の女神ウシャスが祀られている。とはいえ、この塔を建てたのはアージャシャトラ王の父の父を産んだアヌマティ妃であり、いまとなってはウシャスを祀る司祭もいない有様で、打ちやられてから長い月日が過ぎていた。
 だが時折、若い戦士などが面白半分にここへ覗きに来ることがあった。猿と鳥の楽園と化した塔は、風雨に汚れ、蔦がはびこり、苔むしている。そしてその旧さを証しするものであるかのように、天が太陽を高処に頂くころ、真昼の光の中に亡霊が現れるというのだ。
 それは昔の戦士の姿をした美丈夫で、闇色の髪、闇色の瞳をしており、まるで塔を護るように、そのまわりをぐるりと歩くのだという。身にまとう装身具や腰に佩いた剣からすると身分ありげな青年で、王家に縁のある者ではないかと言われていた。
 アージャシャトラ王の一の王子であるハリ王子は、兵士たちからその塔の噂を聞いて、常々その亡霊に会ってみたいと思っていた。真夜中の、女神ラトリの裳裾があたりを闇に包んでしまう刻限ならいざ知らず、昼日中の亡霊とは怖ろしくもないものだ。しかし、まだ年若いがれっきとした王太子が、そこいらの兵士と同じように肝試しをするために森の奥へ行くなど、許されるはずもない。森には獣が多く潜むのだ。護兵を十重二十重に連れて行ったところで、アージャシャトラ王はうなずくまい。
 十二の歳の秋、ハリ王子は王に従って狩りへ行くことを許された。剣を佩き弓矢を背に、森へと分け入った王子は、いつしかその塔の前へと来ていた。ハリに従っていたカラ将軍は、「こんなところに出ようとは」と呟いた。
「さあ、早く去りましょう、王子。笛吹きの吹く狩りの音からずいぶん離れてしまいました」
「ここはパリクシット王の妃が建てたウシャス女神の塔ではないのか?」
「ええ、その通りです。いまやなにもない旧い塔に過ぎません」
「カラ殿、私は前からこの塔の亡霊と会ってみたいと思っていたのだ」
 そう言うと、若い王子の言葉に将軍は眉をひそめた。
「そのような愚かな噂に王子が耳を傾けるのですか?」
「私が話を聞いた兵士は、本当に見て来たように語ったよ。カラ殿、あなたは見たことはないのか?」
「ええ、ございません。さあ、王子の姿が見えねば、王はなにかあったかと思われますよ。参りましょう」
 無理にも将軍がハリ王子を行かせようとしたとき、亡霊はそこに現れた。はじめ木々の間から漏れる光のいたずらかと思ったのだが、そこには確かに、戦装束の戦士が立っている。顔は青白く、その手足は不自然に透けており、それが生きているものでないことは顕かだった。
 丁度、塔の入り口を護るように亡霊は立ち、凝ッと王子を見つめている。
 さすがのカラ将軍もこれには驚いたようで、王子を促す手も声も固まった。
 亡霊はただ立っているのではなかった。右手は佩いた剣に添えられ、いつでも抜刀することが出来るというようだった。将軍はとっさに王子を背後へとやった。この亡霊が生きている人間になにかをしたという話は聞いたことがないが、こうしてはっきりと視線を受けるとそれもわからない気がしたのだ。
 しばらく睨み合っていたが、生きている人間もまた亡霊に対して害はなせないとわかったのかどうか、亡霊は塔を巡るように歩き出した。もはや王子たちに興味はないらしく、しかし隙のない動きであたりを眺めやっていた。
 なるほど、この塔を護っているようであるというのは本当らしい。
 王子は将軍に促され、狩場へと戻った。その道すがら、王子は口を開いた。
「あの亡霊はいったいだれなのだ? 王家に縁の者ではないかと聞いたことがあるけれど」
 将軍も、もはや先程のように言下に亡霊の存在を否定することはなかった。少し迷うそぶりをしてから、こう王子に請け合った。
「私の屋敷にサンニヤーシンと申す者がおります。おそらく城内でもっとも齢を経た翁でしょう。もうすでに百年を生きているといいます。この者ならばなにか知っているやも知れません。私が尋ねておきましょう」
 数日の後、カラ将軍は、やはりサンニヤーシン翁から話を聞くことが出来たと言上して来た。王子はサンニヤーシンを連れてくるよう言いつけたのだが、あいにく翁は宮廷まで出むくのが難しいらしく、ハリ王子は将軍の口添えで彼の屋敷へとゆくことになった。
 カラ将軍の家はこの国でも有数の家柄であり、件のパリクシット王の妃の生家であったはずである。その家に仕える翁ならば、妃の建てた塔にまつわる亡霊について知っていておかしくないだろう。
 サンニヤーシン翁は百年を生きているというが、さもあらん、長い白髪と髭に、皺だらけの手をしていた。しかし老いたとはいえかくしゃくとしたもので、王宮に出むけないというのは偽りではなかろうか、神妙な顔のカラ将軍を横目に王子はそう思った。
 さて、王子がサンニヤーシン翁に「ウシャス女神の塔に出る亡霊を知っているのか」と尋ねると、髭を揺らして翁はうなずいた。
「あれはパリクシット王の御世、大臣のご子息であらせられたソルマ殿でございます」
「……聞いたことのない人だ」
「そうでしょう、あの亡霊のお姿からもわかるとおり、若くして亡くなりました。ソルマ殿が唯一のお子であった大臣も後を追うように病で身罷りましたゆえ、いまではその血筋も残されておりません。ですが、パリクシット王の一の姫であった黄金姫の恋人であり、猛き将軍として、当時の城内で知らぬものはおりませんでしたでしょう」
「なぜそのような人が、亡霊と成り涯ててあの森をさまよっているのだ?」
「さて、それがわざわざ王子にご足労をいただいたわけとなりまする。というのも、ソルマ殿の死後、二度とその名を出すことはまかりならぬというのがパリクシット王の仰せだったからでございます。よもやあの頃のことを憶えているものがわたくし以外にいるとも思われませぬが、パリクシット王の禁令はいまもなお解かれてはおりませぬ。それゆえ、宮廷でソルマ殿のお話をさせていただくわけには参りませんでした」
 サンニヤーシンは王子を呼びつけた非礼をそう詫びた。
「つまりソルマ殿はなにか忌まわしい死に方をしたというのか」
「さようでございます」
 頷いて、サンニヤーシンはさらに話を続けた。

 パリクシット王の御世、妾腹の姫ではございましたが、黄金姫と呼ばれるそれは美しい姫君がおりました。黄金のように美しく輝く肌からそう呼ばれるようになった姫君でございます。歌えば迦陵頻伽カラヴィンカの集いも色褪せようかというほど美しい旋律を紡ぎ、舞えばその袖からは黄金がまきちらされるように見えたものでございました。身分の低いお妃を母にもったものの、パリクシット王の溺愛もひとかたではなく、黄金姫の夫は国一番の勇士でなければならぬとつねづねおっしゃっておりました。
 さて、そのころ、この王国はまだ小さく、領土も柳那ヤムナー河までしかございませんでした。頻繁に河を越えて隣国が攻め入り、ソルマ殿はその戦で敵兵を退け、数々の武勲をあげてらっしゃいました。まだ若く、武芸のみならず学芸にも秀で、聖典ヴェーダをひもといてかのナーガルジュナと議論をされることもございました。また、稀に見る美しい方で、国中の娘たちがソルマ殿のお姿を一度でいいから拝見したいと望んでいたのも不思議ではございません。
 そういうわけで、このソルマ殿が黄金姫ののちの夫にと撰ばれたのでございます。ソルマ殿とお父君のご権勢は並ぶものもなく、だれもいまのソルマ殿のお姿など想像もされなかったでしょう。
 それからしばらくのことでございます。いよいよ隣国との大きな戦が始まり、パリクシット王自らをはじめ、多くの方が戦地へと行かれることとなりました。戦の勝利を祈願して、パリクシット王の第一妃でございましたアヌマティ妃があのウシャス女神の塔を建立されました。
 さて、奇妙なことはそれからでございます。王とソルマ殿が戦地にゆかれている間に黄金姫が行方をくらましたのです。いったいどんなわけで姿を消したのかと、これには王もソルマ殿も驚かれたのでございますが、お二人は厳しい戦いを指揮する身でございましたから、黄金姫の消息を求めて宮廷に戻ることすら出来なかったのでございます。戦はそれから半年ばかりも続きましたでしょうか。ウシャス女神のご加護あってか、隣国を退け、かの国の王族を滅ぼしてパリクシット王とソルマ殿はこの城へと戻っていらっしゃいました。
 戻られたお二人が一番にされたことは、もちろん、黄金姫の消息を求めることでございました。しかし、いっかな黄金姫の行方は知れませんでした。業を煮やされたパリクシット王は、神官に神の意を乞うよう命じました。しかしウシャス女神の神託は次のような言葉を伝えて来たのです。「悪竜ヴリトラはソルマであり、悪竜は国を滅ぼす」がその言葉でございました。
 ソルマ殿は我が身の潔白を訴えられました。パリクシット王も、ともに戦地で戦っていたソルマ殿に、黄金姫をかどわかすようなことが出来るとは思えなかったのでございますが、神託が間違えることも考えにくいことでございます。そこで、王は決闘裁判をとりおこなうことにされました。
 一方にアヌマティ妃の弟君であるラーム殿をたて、ソルマ殿とラーム殿、お二人の試合によってどちらが正しいかを決めようとされたのです。即ち、ソルマ殿が勝てばその潔白が認められ、ラーム殿が勝てば神託が正しいことになるのでございます。
 この試合は件のウシャス女神を祀った塔の前で執り行われることになりました。
 パリクシット王やアヌマティ妃をはじめ、多くの人々がこの試合のために塔へと集まりました。ところがそこで怖ろしいことが起こったのでございます。いまにも試合をはじめようと剣を抜いたお二人であったのですが、突如、塔の一隅が崩れ、塔に刻まれたビシャルヴァーナ神像の持っていた槍が、あっという間にソルマ殿の体を串刺しにしたのです。ソルマ殿は最後に黄金姫の名を呼んで命果てたと言われております。
 これで、試合するまでもなく神がその罪を証しされたのだろうということになりました。ソルマ殿の名は二度とこの王城で口にしてはならないこととなりました。その後、ソルマ殿のお家がどうなったかは、すでに申し上げた通りでございます。
 ソルマ殿の亡霊があの塔に現れるようになったのはパリクシット王が亡くなった後でございました。祟りを畏れて近づく者はなくなり、いまや塔も森の奥で忘れ去られているのでございます。

 サンニヤーシンの話を聞き終え、ハリ王子は口を開いた。
「黄金姫の行方はわからずじまいだったのか」
「はい、戦功を獲るため、ソルマ殿が黄金姫の命を神々に捧げたのではないかという噂でございましたが、実のところはわかりません」
 塔で出会った亡霊は、険しい目つきではあったが悪竜の名はそぐわない。どちらかといえば謹厳実直な武人らしい潔癖さがうかがえたように思う。あの塔の周りをさまよっているのは、そこで命を落としたからだというのだろうか。
 屋敷を去るときに、ハリ王子は将軍に願った。
「またあの塔へ行きたいのだが、カラ殿、あなたがついて来てくれれば父王も否とは言うまい」
 しかし今度ばかりは将軍は厳しい顔をして、王子を見た。
「王子、なんにせよあれは過去の幻に過ぎません。あなたがご興味を抱かれるのも無理ないものではございますが、そのようなことよりもされるべきことがおありでしょう」
 有無を言わせぬ言葉に、王子は言い返すことが出来なかった。確かに、あの亡霊はなにをするでもない。ただあの塔の前をさまようだけなのだ。話は聞いたが、既に過去のことであり、ハリ王子になにかが出来るわけでもない。
 カラ将軍の言葉はもっともであって、王子もものめずらしいものを見たというだけで忘れることにしようと心に決めたのだった。

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